『阿木譲の光と影」シリーズ 第二弾 Junya Tokudaインタビュー

『阿木譲の光と影」シリーズ 第二弾 Junya Tokudaインタビュー
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

『やがて映像となる音楽』

第二弾は、Vanity Recordsの中でも一番好きだったToleranceの音源を再構築したJunya Tokuda。2020年の初旬に0gで聴いたライブ演奏が印象に残っている。その時に感じたことをこのように言語化した。「イングマール・ベルイマンの『冬の光』を想起させる映像的音楽。炎の木が弾ける。実の中の音の風、風の中の音。ストイックとエキセントリックは、ストア派(禁欲)とエビキュロスのアタラクシアも二律背反。艶っぽさの逆のヘドニズム=快楽主義音楽」
徳田君とは2019年阿木譲1周忌イベントの際に、林賢太郎から紹介されて挨拶程度はしているのだが、まともな会話はしていない。今回はじめて阿木さんのことや彼自身の音楽に対する考えなどについて話を聞いた。
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Junya Tokuda (徳田 順也)

電子音楽家。
電子音楽イベント『Line』を不定期に開催。
阿木譲プロデュース『a sign – paris ozaka kyoto -』に参加。
remodelのV.A.『a sign 2』に参加した後、アルバム『Anemic Cinema』、Toleranceのリメイク作品『VANITY RE – MAKE / RE – MODEL Vol . 1』をリリース。
エクスペリメンタル/エレクトロニカの老舗レーベルshrine.jp、電子音楽レーベルLongLongLabel等からアルバム、EPをリリース。
「ポストロックとしての、スロウモーション・テクノからウィッチまで、新しい時代のエレクトロニカを表現する。- 阿木譲」

http://linesound.com/junyatokuda
https://www.instagram.com/junyatokuda/
https://twitter.com/junyatokuda
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●徳田順也
○嘉ノ海幹彦

【音楽との出会い】

○徳田君とは今回こんな機会をもらって話をするのは初めてですね。音源は前から関心をもって聴いていました。また単行本『Vanity Records』の付録にもToleranceのリメイク(再構築)した作品を提供しているよね。君とも関係の深かった阿木譲のことについて色々話を聞きたいのでよろしくお願いします。思い出してくださいね(笑)。

●はい、よろしくお願いします。

○そもそもJunya Tokudaと音楽の出会いはいつ頃?
どのような音楽が好きだったのか?ジャンルとかミュージシャンとかレーベルとか。

●普通すぎて申し訳ないのですが、高校の時にギターを始めたのがきっかけです。それまでは絵や漫画を描いたりする子供だったんですが、人前で何か表現する手段として安易に思いついたんだと思います。

○ギターか。ま、手っ取り早いよね(笑)。

●ジミー・ペイジを真似てレスポールでハードロックとかを弾いてたんですが、聴いていた音楽はエイフェックス・ツインとかYMOなど主に電子音楽でした。そういったものを聴きながらギターを担いでスタジオに行って、という感じです。だから聴いていた音楽の話をできる人が周りにあまりいませんでした。

○「電子音楽」という言葉が出てきたけど、いつ頃どのようなきっかけで作り始めましたか?

●学生時代にバンド活動をする傍らYAMAHAのQY700を手に入れて、坂本龍一やYMOの真似事のような曲を作っていました。他にもKORGの音源モジュールとかRolandのサンプラーも使ってましたが、データはほぼ残ってないです。オービタルやシステム7などのテクノも聴いてましたが、自分で作る音楽としてはあまりクラブ・ミュージックは意識してませんでした。

○やっぱりハードウエアの話が出てきますね。今ならPCを使って色々できると思うけど、僕らが知っていた、例えば1978年のKORGのMS-20シンセサイザーやSQ-10シーケンサーの機能から比較すると相当高度なことが出来るようになっているんだろうな。

●演奏も録音技術もプロとは比較にならなかったんですが、機材のお陰でそれらしい音が出せていたという感じです。ところで、当時Vanity Recordsのアーティストと機材の話はされましたか?Toleranceとか、自宅で録音してたのかな。

○もちろん宅録ですね。今となってはあまり明確な記憶ではないんだけど、話は聞きました(笑)。一番熱心だったのは新沼好文君(SYMPATHY NERVOUS)ですね。『ロック・マガジン』誌上で「自らの肉体の外延としての機械音楽がシステムとして機能し始めている」と書いたくらいなんだ。UCG(Universal Character Generator)と名付けた自作のエレクトロニクスをたくさん作っていたし、その後も作り続けていた。残念ながら3.11東日本大震災で家も機材ごと津波で流されてしまった。
丹下順子さん(Tolerance)とは、機材について話していない。ただ、自分のことを「感性機械」でありたいといっていた。つまりエレクトロニクス(機材)も肉声の使い方もそうだけど、全く同等に扱っていて、溶け合うというか融合して音作りを実験的に試行していた。だから新しい音源が出来たら聴いて欲しいって『ロック・マガジン』に送ってきていた。そのテープが一部残っていて2020年にremodelから『Demos』としてリリースされただよね。
あと機材というと藤本由紀夫さん(NORMAL BRAIN)だ。彼は当時大阪芸術大学で音響を教えていたので専門家だった。Vanityの頃は、MS-20とSQ-10の音響機材やカセットボーイなどの録音機材など、新しくて安価で簡易なものが出始めていてね。藤本さんは、それらの機材をすぐに使っていた。それらが音楽に与える影響について一番現場で実感していたミュージシャンだった。つまり誰でも作品を作れる時代になったということだと思う。
話が長くなったけど(笑)。

●楽曲だけでなく、機材との関係性についてもそうやって言語化するのは大事かもしれないですね。僕ももう少し考えてみようと思います。

○ところで、徳田君は、0gで演奏しているようなライブは、その頃から始めていたんでしょうか?

●自主制作映画や劇団の音楽制作をやってましたが、ライブをするようになるのは少し後です。縁あってクラブイベントにライブアクトで呼んでもらえるようになって、初めの頃はPCではなくライブ専用のハードウェアを使っていましたが、ライブの都度データを移行するのが面倒になって。そのうち制作もライブも基本的にほぼMac1台で完結するようになりました。

○やっぱりPCの方向になるんですね。

●阿木さんと出会ってからも再三「ハードウェアでライブしろ」と言われていたのですが、結局ずっとMacメインでやっています。

【阿木譲との出会い】

○やっと阿木さんの話が出てきましたね(笑)。いつ、どこで、どんなタイミングで出会いましたか。

●2010年の秋頃、当時心斎橋のアメリカ村にあった阿木さんのお店、「nu things JAJOUKA」のイベントに初めて出演した時です。

○復元して公開されている阿木さんのブログによると、「nu things JAJOUKA」は2010年4月にオープンしているので、ちょうどその直後ですね。9月7日に「WIR SIND SOHNE VON STOCKHAUSEN」というイベントの告知があり、Junya Tokudaの記載があります。

●イベントには、確かMySpaceにアップしていた音源を当時からスタッフだった現environment 0gの平野隼也さんが聴いて、声を掛けてもらったと記憶しています。リハーサルが終わって平野さんから阿木さんを紹介され、「よろしく」と言われて握手しました。

○阿木さんと初めて会ったときの印象は?どう感じましたか?

●当時阿木譲という人は知らなかったのですが、少し怖いと感じました。初対面の人に対して人生で唯一の体験です。そのときの服装も全身黒でサングラスという皆が知ってる阿木さんの格好で、普段生活してて余り遭遇しないタイプの人ですし。

○そうですよね。黒にサングラスは僕が出会った頃から変わりないです(笑)。それに初対面でも、いきなり本質的な問いかけをしてくるし(笑)。

●イベントが終わってから、「君はこれからどうなりたいんだ?」と声を掛けられました。たぶん「もっとクオリティを高めながら、今やってることを続けていきたいと思います」みたいなことを返事したと思います。

○徳田君が阿木さんと出会った翌年の2011年2月16日にリリースされたremodel 01『a sign paris – ozaka – kyoto』に参加していますが、その経緯を教えてください。remodelというレーベルは2010年に阿木さんがスタジオワープの中村泰之さんと出会い、資金提供も受けてスタートしました。

●当時同じようにnu thingsのイベントに出演していたアーティスト何組かと一緒に声を掛けてもらいました。参加アーティストは阿木さんが選んだと思いますが、自分に声が掛かるのは意外だと思いました。阿木さんがDJで掛けていた曲やブログで紹介していたものと、自分の音楽とは少し世界観が異なると感じていたので。

○阿木さんの世界観をどのように感じていましたか? 本人と話したり、ブログは読んだりしていたと思うんだけど。自分との違いは?

●例えば淡いテクスチャで凶暴性を表現するとか、フィジカルな音と主題には本来ギャップがあるものだとずっと考えていたんですが、阿木さんが掛ていた音楽から、緊張感や深淵みたいなものを真正面から表現する方が実は難しいし、上手くいったときの驚きが大きいと気づいて。それ以降、新たな世界観が上乗せされたような感じがします。あと「根が明るいから暗い音楽ができる」というようなことも言っていた気がします。僕とは逆なんですが(笑)。

○なるほど。阿木さんとの出会いがJunya Tokudaにとって大きな転機になったんだね。で、このアルバムで表現したかったものとはどういうものだったの?

●あまり実験的なことはせずに、最大限できることをどのように組み合わせるかを考えました。幾つか曲を阿木さんに提出することになっていましたが、いろいろ考えて作った曲はNGになって、比較的シンプルに作ったものが採用された感じがします。アルバムには「616」「603」の2曲で参加していますが、これは元々DAW(Digital Audio Workstation)のプロジェクト名でした。あとで正式に曲名を考えるつもりだったんですが、阿木さんの判断でそのままクレジットされています。「616」は阿木さんのDJで知ったGold Pandaの影響を受けて作った覚えがあります。

○Junya Tokudaの新譜『Anemic Cinema』でも思うことなんだけど、曲名に特徴があると感じている。
曲名はいつ考えるの?

●曲名は後付けです。制作している時期に読んでいる本や観た映画などに影響されて、結果的にそれらのサウンドトラックのようなものが出来上がるんですが、そのまま曲名にするわけにもいかないんで、イメージが近い言葉を後で探してくるといった感じです。曲名は一度つけてしまうとその後一生、自分の作品では同じものが使えないと思っていて。だから二度と使うことがないような単語を敢えて選ぶようにしています。

【阿木譲との現場】

○その後阿木さんとはどのような活動をしましたか?

●2010年末から2011年頭にかけては前述の「a sign」の音源制作と関連イベントがあって、その後もコンスタントにお店が主催するイベントに呼んでもらいました。

○ライブ主体になったんですね。その後は?

●2013年頃、再びnu thingsの周辺で活動するアーティストを何組か集めて、remodel名義で音源リリースやイベントを行っていくプロジェクトを立ち上げるということで声を掛けてもらいました。

○でも結果はリリースされていないので、実現はしていないよね。

●その頃もそうでしたが、阿木さんは拘りが強い人なので熱が入ると振り回されるというか、大変だと感じました。各アーティストのイメージやライブの手法などに統一感を持たせるようなコンセプトとか、そういったことに僕が息苦しさを感じてしまって。「このプロジェクトは自分に向かない気がするので辞めます」といったことをメーリングリストに送信して、真っ先に僕が抜けてしまいました。まもなくそのプロジェクトは終了したのですが。

○具体的に何があったの?その段階では資金的な問題もあったかもしれないけど、新しい音楽(阿木さんの尖端音楽)の影響(アイデア、世界観、手法)を受けながら、広義の意味での編集をしていくのが阿木さんの真骨頂だと思っているんだけど、なぜ出来なかったんだろう。remodelプロジェクトも継続しないと大きな動きになっていかないし、その後の展開もないと本人が一番よくわかっていたと思うんだけど、どうだったの?徳田君はどう捉えていた?

●僕個人のことで言うと少し行き詰まっていて、プロジェクトの世界観を踏襲した上での自分の表現をイメージすることができなかったのだと思います。たぶん今だったらやっている気がしますが。先輩のアーティストに「抜けようと思ってます」と話したときは、勿体ないからやるべきだと言われましたけど。今思えば、あれは阿木さんにとって大事な仕事だったんだと思います。

○たしかにremodelとして何とか継続したいという気持ちがあっただろうね。でも想像でしかないけど、阿木さんの内心では葛藤があったのかも知れない。自分自身の感性と実際の音楽を作成する現場とのズレ、もちろん人間関係もあったのかも知れないが。
そのプロジェクトが終了した後、何か動きはあったの?

●その後は阿木さんがアーティストを集めてプロジェクトを立ち上げることは無かったと思います。
当時のVanity Records以降も、そういった動きは無かったんでしょうか。

○僕自身はVanity Recordsの終盤には『ロック・マガジン』を離れているので分からないんだけど、最後はカセット・リリースでしょ。しかもセットで。先ほど話したけど、時代的に誰でも自ら音源を制作してリリースができるようになってきたというのが大きいと思う。カセットにしてもダブル・カセット・レコーダーが発売され複製も簡単できる。連動していた『ロック・マガジン』も田中浩一が中心となって月刊誌での展開となるしね。関西を中心にバンドの記事が多くなった。バンドが中心になる時代かな。だから新しいミュージシャンを発掘するというVanity Records当初の役割が終わったと思う。

●バンドが中心になる時代を経由したから、僕が音楽を始めることになったのかもしれません。

○音楽を個人で作ることとバンドのように共同で作ることは、根本的に違う作業だと思うけどね。で、remodelに話を戻すね(笑)。
皮肉な結果かもしれないけど、阿木さんが亡くなってからremodelは復活していて動きとしても継続してますね。平野君や中村さんの強い思いはもちろんなんだけど。

●0gでのイベントもそうですが、こうやって継続的に声を掛けてもらえるのはありがたいです。もっと頑張らないと、と思います。

○さて、阿木さんとの出会いが音楽家Junya Tokudaに与えた影響は?今に繋がることとは?

●前述のプロジェクトような出来事もありましたが、阿木さんという人に対して特に嫌悪感を抱くということはありませんでした。おそらく阿木さんも同じで、普通にイベントで会えば挨拶して、声を掛けてもらったりしました。また、nu thingsにしろ0gにしろ僕が参加するイベントには、だいたい出番のタイミングくらいに来てくれたりして。最後の数年間はそんなことも無くなってしまいましたが。。

○いろいろ具体的にアドバイスをもらったの?

●さっきの機材の話もそうですし、ライブの内容によって「だいぶ掴んできたじゃないか」とか、良くない意味で「相変わらずだな」とかを一言。全く感想を言わずに帰ることもあります。

○都度アドバイスをしてくれていたわけじゃないの?

●僕自身があまり人と音楽の話をしないタイプなので、それに合わせてコミュニケーションをとってくれたのかもしれません。他の人とは結構、長話をしてますからね。

○阿木さんと話して、それで聴いていた音楽とか変化はあった?

●阿木さんと出会う以前はジャンル問わず節操なく聴いていて、作る音楽にも同じくどこか節操のない感じがあったと思います。

○でもジャンルを問わず節操もなく聴くのはいいことだと思いますよ。僕なんかは全く節操ないです(笑)。

●新しい音楽を見つけるときには阿木さんのブログが手掛かりになりました。あと阿木さんが「これは良い」とか「これはダメ」と言う音楽もだんだん判別がついたりとか。

○「良い」とか「ダメ」とはって何だろう。どんな基準があるのだろう。そこから考えることにより音楽を超えて新しい世界と繋がり、理解が深まると思うんだけど。

●タイミングによっても変わる気がするし、言葉にするのは難しいですが、純粋に楽曲として上手くいっているか、そうでないかが大きいと思います。バランスとかグリッドの位置などほんの紙一重のチューニング具合とか。あと「新しい音楽を聴かないとダメだ」とか「でも文脈を捉える事も大事だ」とか、会話を通して音楽の聴き方だけでなく制作する上でも影響を受けた感じがあります。

○文脈って自分の体験に依存するよね。音楽体験は論理的な展開じゃないし、いきなり様々な方向に飛んだり、天や地から自分の感性や肉体に飛び込んでくることもあるよね。

【尖端音楽の伝道者としての阿木譲について】

○阿木の音楽評論についての感想を聞きたい。

●ブログは隅々まで熟読するわけではないですが、紹介されている音楽をチェックするだけでなく、文章の言い回しも確認していました。

○君が引っかかった言葉とは?さっきの飛び込んでくるものは言葉も一緒なんだけど、現象を言葉化することが重要なんだと思っている。もちろん言葉だけじゃダメなんだけどね(笑)。

●僕はライナーノーツや音楽評論などは普段あまり読まないのですが、阿木さんの文章は評論家というよりアーティストの表現に近い印象があって。意味というより、イメージで言葉を選択しているような。丁寧語と常体の使い分けがバラバラだとか、体言止めが多いとか。歌詞みたいな印象です。個人的には良い歌詞って、それだけで意味を持っていなくて音楽と歌声が乗っかって初めて意味が伝わるようなものだと思っているんですが、それに近い気がします。

○僕も昔から、ライナーノーツは煩わしいと思っていた。いつ誰がどこで作ったとか、バンドのメンバーはどうとか。だからレヴューでは、なるべく音楽と関係のないことを書くようにしていたんだよね。

●嘉ノ海さんが書かれたものについて、阿木さんから何か言われることはありましたか?ダメ出しとか。

○僕が書いたり、記事にするために企画をしたり、インタビューする相手を選んだりする時には、話はするんだけど、一度もダメっていわれた事ないんだよね(笑)。今考えてみれば変だよね、阿木編集長なんだから(笑)。ダメどころか面白がっていた(笑)。個人としては、時代や社会に対する見方や世界観などに新しい音楽を応用して俯瞰することや、考えていることを展開したり解体したりすることに楽しみを感じながら『ロック・マガジン』を編集していた。
音楽は音楽芸術としてのみ存在しているわけではないということをいつも感じていたので、ライナーノーツは本当に煩わしかった。阿木さんも結構たくさんライナーノーツ書いてるけどね(笑)。

●なるほど。『ロック・マガジン』の仕事、興味あるなあ。あと昔阿木さんが出版した『ロック・エンド』も、以前古本で入手して読んだんですが、面白かったです。

○『ロック・エンド』(1979年)って阿木さんらしいタイトルだよね。これは当時付き合いの合った工作舎から出版した本だけど、編集過程で少し関わったので記憶にあります。読んでたんだね。古い本なのでちょっとビックリしました(笑)。感想を聞かせてもらえますか?

●さっき述べた、阿木さんの文章で個人的に引っかかる要素が多い印象です。序盤の章のニューヨークの街の描写とか、そこで異邦人としての自分を省みるところとか。ブログもそうですけど、なかなか音楽の話が出てこないところとか。ロックの終焉についての内容だったと思いますが、どこか今の時代に置き換えて読んでもそのまま当てはまるようで、ちょっと愕然とした記憶があります。

○阿木さんの言葉は、僕もそうだけど人の人生に影響を与えるんだよね。徳田君が阿木さんとの会話から記憶に残っている具体的な言葉があれば教えて欲しい。

●例えば、繊細なようでいい加減だとか性格的な指摘だったり、これは当たってるんですが(笑)。音楽については「曲はリズムから作れ」とか「音楽は構造が大事だ」とかちょっとした一言もヒントになりました。あと「自分の音楽や表現について言語化することが重要だ」とか。

○ある意味、当たり前か(笑)。音楽を作っている人にはいつも自分の音楽について言語化して欲しいと思いますね。徳田君もいろいろ言われたね(笑)。

●nu thingsや0gで活動するアーティストに対しての思い入れが強く、どうやったら良くなるか等を真剣に考えてくれると同時に、自分の思う通りに動いて欲しい気持ちも強かったと思います。

○具体的には?

●突然メールでアーティストの楽曲のリンクを幾つか送ってきて、その時はNosaj Thingとかが含まれていたんですが、「これから君はこういう感じでやりなさい」みたいなことを言ってきたり。ちなみにそれは試してみて、結局しっくりこなかったんですが。

○0gで不定期で行われていた阿木さんのブリコラージュには行ってましたか?またどのように感じてましたか?

●毎回ではないですが、ときどき行ってました。本人も「地獄に落としてやる」と言う表現をたまに使っていたように、ブログで紹介している音源同様尖った音が多いのですが、「この曲何ですか」とブースに近づくとジャケットを手渡してくれたりしました。Modern LoveからリリースされているRainer Veilの「Strangers」という叙情的な曲があって、僕も音楽を作る上で影響を受けているのですが、これが一時、阿木さんのブリコラージュで毎回プレイされていて。

○Modern Loveは阿木さんお気に入りのレーベルでした。ジャケットデザインも含め独自の世界観があるよね。昨年Covid-19チャリティのためにLUCY RAILTON演奏のオリヴィエ・メシアンの曲が鎮魂のためにリリースされている。
「Strangers」は阿木さんにとって思い入れがある曲なんだね。なんとなくわかるような気がする。0gに似合っていると思う。

●ブリコラージュの中でその曲だけ異質な印象で、でも毎回プレイするということは本当はこういうのが好きなんだなと思ってたんですが。今思うと、僕が来ているのが分かっていて掛けていたような気もします。「お前は、これだぞ」という意味で。そういうふうに他の人たちに対しても選曲していたんだろうと思います。阿木さんが定期的にブリコラージュを継続してきた理由もそこにある感じがします。

【晩年の阿木譲について】

○remodelは結局2012年で停止していて、阿木さんが生きている間にリリースされなかった。
徳田君はどのように、阿木さんのことを見ていましたか?

●初めのremodelのコンピレーション『a sign paris – ozaka – kyoto』の制作及び関連イベント然り、またその後のプロジェクトやイベントなど沢山機会をもらいましたが、十分に活かしきれなかったと感じます。こちらから放棄してしまったものもありましたし。『a sign』以降、阿木さんの下で形になったものを残せなかったのが残念です。作品についての指摘をはっきり言ってくれる人が他にあまりいなかったので。実際『a sign』の制作の際は、nu thingsに機材を持ち込んで、阿木さんの指示を受けながら音源を修正する作業がありました。「このキックはもっと大きく」とか「ストリングスの音をもっとチープなシンセの音に」とか指示が具体的で。その通りにしたら、確かに良くなりました。アルバム最後の曲の「603」の終わりの3つのクリック音は、その場の阿木さんの思いつきで「これでアルバムが終わったことになるんだ」と。即席で追加して、「うん、こんなもんだろ」という感じで完成しました。そんなふうに他の作品も作れたら良かったな、と思います。

○徳田君にとっての0gという場所性について、聞きたいんだけど。ライブをするとは?音楽を共有する空間とは?場所って何かを共有(集合)する空間でしょ。

●前身のnu thingsも本町、心斎橋、阿波座と場所が変わるたびに印象も少しずつ変わったのですが、0gについてはスペースの雰囲気も相まって部室みたいな感じです。これまでアーティストとして育てて貰ったと感じているので、ここで良いイベントを作っていかないととは思ってるのですが、あまり自分では企画できてなくて。曲の制作の際には基本的にライブを考慮せずに作っているので、出演予定が入るたびに慌ててしまいます。お客さんに「来てよかった」と感じてもらうのがライブの目的であり、そのために純粋に良い曲を用意していくことが自分の仕事だと思っています。

【これからのJunya Tokuda】

○じゃ、最後に2つ質問をさせてください。
今後の活動のプランを教えてください。

●アルバムを年に1枚、合間にEPも少しずつといったペースで続けられたらと思います。他のアーティストとの共作もできれば。特に生ドラムとラップトップの組み合わせでライブをやりたいとずっと前から思ってるんですが、これは機会があれば。ギターも最近また練習し始めたし、映像系のソフトも継続して触っています。いずれにせよ手はずっと動かしていこうと思います。

○もうひとつは、他のミュージシャンにも聞いた質問です。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対して、どのような感想を持っていますか?

●新型コロナの件に限らず、今までも自分なりに世の中で起こっていることに影響されつつ、作品に反映してきた意識はあります。少なくとも創作する上では、実際に変わらないとしてもそれで世界を変えるくらいの意識が必要だと思っていて。周りでいろんな事が起こっていくたび、テーマや自分なりの世界の変え方も調整しながら、今後も続けていくことになるのかな、と思います。

○じゃそろそろ終わろう。様々な質問に答えてくれてありがとう。また0gでお会いしましょう。新しい作品も楽しみにしています。

●はい、是非!こちらこそ、ありがとうございました。

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【改めて阿木譲のこと・・・インタビューを終わって】

○阿木譲とはどんな人物だったのか。

●約8年間お世話になったんですが、前述のプロデュース企画の件なども然り、いろいろ大変なこともありました。一時期、出演する他のイベントについて逐一チェックされたり、Twitterも監視されたり(笑)。あと阿木さんの元気な時はお店でのイベント終了後に、出演者と近場のファミレスで朝方近くまで反省会とか、よくありました。熱が入るとなかなか帰してくれない。でもそういう時に大事な話が聞けたりもしました。僕の知っている阿木さん像はあるのですが、他の人のそれとは異なっているかもしれません。

【Junya Tokudaの仕事】

○2020年5月リリースのremodel 07 V.A.『a sign 2』について

●「MirroredImage」と「NothingIsStill」の2曲で参加しています。曲については上手くいった箇所と気になる箇所があるんですが、少し時間を空けると客観的になって聴こえ方が変わるんで、また印象も変わるかもしれません。本作は納品一発でOKだったんですが、もし阿木さんがいたら前作の「a sign paris – ozaka – kyoto」の時のようにどこかにダメ出しがあっただろうとも思います。だからまだ自分の曲については完成した感じがしてないんです。でも参加アーティストの楽曲は素晴らしいので未聴の方は是非!

○2021年4月リリースのremodel 45 『Anemic Cinema』について

●このインタビューのちょうど一年前(2020年8月)に、スタジオワープの中村さんからアルバムの話を頂いて、作り始めました。その際にToleranceのリメイクアルバムを同時に作る話もあって、初めは2枚組でリリースする案もあったのですが、結局別になりました。それからアルバム2枚分を4ヶ月掛けて、林(KENTARO HAYASHI)さんのマスタリングも含めるとさらに1ヶ月掛けて作りました。その時にできることを出し切った感じです。曲名についてはポール・D.ミラーの著書から印象的な単語をピックアップして、出来上がったトラックに一つずつ割り当て、最もそれらしいものをアルバムタイトルにしました。アートワークについてもToleranceのリメイク作品同様、自分で制作しています。誰かにお願いすることも考えましたが、0gの平野さんから「自分でやった方がいいです」と言われ、じゃあ、という感じで。結果的に良かったと思います。

○2021年9月リリースのremodel 46『Junya Tokuda × Tolerance – VANITY RE-MAKE/RE-MODEL Vol.1』についてToleranceの感想を聞きたい。

●どこまで計算して作ってるのか分からない、独自の世界観を感じます。今回リメイクするに当たって聴き込んでみて、さらに理解できなくなりました。制作過程としては原曲を咀嚼して解釈するというより、自分の作品にコラボで参加してもらったような感覚です。曲によっては敢えて全く別モノに作り替えたり、そういう作り方しかできませんでした。いつかこのレベルに辿り着けるのかと、絶望的な気分になります。

○インタビューを終わって
阿木さんの晩年のことを聞きたいと思い、『僕の知らない阿木譲』とした。徳田君と話をしていて、人間としては40年前とさほど変わっていないと感じた。もし生きていればCOVID-19禍の世界をどのように捉えるのか話してみたいと思った。ミュージシャンとして関わった彼らにとって阿木譲とは、教師的でもあり、反面教師的でもあったのだろう。少なくとも彼らの魂に化学反応が起こったことは間違いない。それは最後の質問の回答からも垣間見えるのである。
ここで少しJunya Tokudaの作品である『Anemic Cinema』の感想を少し記載しておきたい。この作品名は1926年にマルセル・デュシャンにより作成された実験映像作品名でもある。タイトルそのものもアナグラム(逆さ言葉)になっている。CLUSTERの「ZUCKERZEIT」の逆読みしたToleranceの「Tiez Rekcuz」と同じようにさかしまの世界。音楽なのでイメージの逆回転はお手の物だ。音響も浮遊感のある映像的な音風景に迷い込んだような感じがした。聴き進めていくうちに部屋の中で窓から観る風景のように視覚化されるようだ。