Author Archives: kyourecords

単行本『AGI 6 / MERZBOWⅣ』発売のお知らせ

タイトル:AGI6 / MERZBOWⅣ
監修:中村 泰之
著:秋田昌美、川崎弘二、佐藤薫、モーリー・ロバートソン、
鈴木創士、森田潤、市田良彦、野田努、よろすず、久世、木澤佐登志
価格:¥2,860(税込)
ISBN:978-4-86400-047-5
発売日:2023年11月15日
版型:B5(257×182×13mm)
ページ数:本文208ページ(カラー32ページ)
製本:並製
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

Amazon https://amzn.to/46MXm6X

<目次>
MERZBOW Ⅳ
01. メルツバウ フォトギャラリー / 秋田 昌美
02. メルツバウヒストリーインタビュー 第4回 2000年代以降 秋田昌美 / インタビュアー 川崎 弘二

NHKの電子音楽 Ⅳ
03. NHKの電子音楽 第4回 占領期編 1945年~1952年 / 川崎 弘二

R.N.A. Organism
04. R.N.A.ORGANISM『R.N.A.O Meets P.O.P.O』
05. Morley meets R.N.A.O / モーリー・ロバートソン
06. R.N.A. Organism アルバムレビュー / よろすず
07.「掴み難さ」の政治性 -R.N.A. Organismの戦略を巡って- / よろすず
08. ウイルスをつくる ~逆転写されたアナログ・テープ / 森田潤
09. 騒音書簡 / 市田良彦⇄鈴木創士
10. 甦る、伝説のエレクトロ・ノイズ・インダストリアル ─佐藤薫、インタヴュー / インタビュアー 野田努
11. R.N.A. ORGANISM 関連テキスト
12. R.N.A. ORGANISM フォトギャラリー / 佐藤薫

Vita Nova Sô-si Suzuki+Jun Morita
13. Vita Nova朗読 / Sô-si Suzuki+Jun Morita
14. 森田潤との共作について / 鈴木創士

1968
15. 破壊と修繕 ──ピンチョンとディック / 木澤佐登志
16. 1968年、音楽 / 鈴木創士

HIP HOP Ⅳ
17. ヒップホップ無神論 ~神学的基礎づけに抗して~ / 久世

<本文見本>

 

 

 

 

単行本『AGI 5 / MERZBOWⅢ』発売のお知らせ

タイトル:AGI 5 / MERZBOWⅢ
監修:中村 泰之
著:秋田昌美、川崎弘二、佐藤薫、荘子it、松下隆志、
  よろすず、久世、市川タツキ
価格:¥2,860(税込)
ISBN:978-4-86400-046-8
発売日:2023年6月30日
版型:B5(257×182×13mm)
ページ数:本文192ページ(カラー16ページ)
製本:並製
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

Amazon https://amzn.to/3P9Fjlq

<目次>
01. メルツバウ フォトギャラリー 秋田 昌美
02. メルツバウヒストリーインタビュー 第三回 1990年代 秋田昌美 インタビュアー 川崎 弘二
03. NHKの電子音楽 第3回 戦前/戦中編 1934年~1945年 川崎 弘二
04. tolerance 2023 Mesh-key Records
05. Fragments of recollection:TOLERANCE 佐藤 薫
06. Toleranceについて ~パンク以後、屹立、モノクロームからなる断想~ よろすず
07. Tolerance / Anonym / Divin REVIEWS By PHILIP SHERBURNE
08.「音楽家Stephan Mathieuの活動終了に寄せて
―A Young Person‘s Guide To Stephan Mathieu―」 よろすず
09. tolerance 5CD BOX きょうrecords
10. 荘子itインタビュー ~ダイナミズムを獲得するために~ インタビュアー 久世
11. ラッパーたちの戦争と平和 ──「2.24」以後のロシアの音楽表現をめぐって 松下隆志
12. 上昇する音楽 ―PeterParker69, Jeter & Y ohtrixpointnever 『deadpool』について― 市川タツキ―

<本文見本>

 

 

 

remodel 22 TOLERANCE『TOLERANCE』

発売日:2023年7月12日(再発決定!)
定価:¥7,000(-税別)
品番:remodel 22
Amazon  https://amzn.to/3OA3Gsq

仕様:□ポスター2 種
           □ヴァニティ ロゴステッカー(大判)
           □オリジナルボックス(135×135×22mm)
           □CD5 枚組(紙ジャケット)BOX Set
           □CD-1,2 はオリジナルマスターテープよりデジタルリマスタリング, オリジナルレコードジャケットを再現
           □CD-3,4 はカセットテープよりデジタルリマスタリング
           □CD-5 はソノシート(flexi disc)よりデジタルリマスタリング

—————–
tolerance
tolerance

CD-1 Anonym(79 年)
CD-2 Divin(81 年)
CD-3 Dose(80 年)
…未発表 初CD 化
CD-4 Demos(不明80 年頃)
…未発表 初CD 化
CD-5 Today’ s Thrill(80 年)
…初CD 化

remodel 22
12.Jul 2023 release
7.000yen+tax

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阿木譲が主宰したヴァニティ・レコードから2枚のLPと1枚のソノシートをリリース、阿木自身がヴァニティ作品のフェヴァリットに挙げ、英エクスペリメンタル音楽の大御所ナース・ウィズ・ウーンドのリスニング・リストにも選出された丹下順子:トレーランス。未発表音源を含む集大成5枚組CDボックス。

<作品概要>
CD-1 Anonym
丹下が奏でるエレクトリック・ピアノ、シンセサイザー、簡素なエレクトロニクス、かぼそく呟くような朗読に加えて、吉川マサミのノイジーなスライド・ギターがゆっくりと渦巻きながら渾然一体となり、モノトーンで抽象音化されたアニムスが立ち現れるデビュー・アルバム。

CD-2 Divin
セカンド・アルバム。タイトルはフランス語で『神』の意味。前作で聞けたギターは後退、ドラムマシーンの躍動感とエレクトロニクスの律動が強調され、無機的で曇った空間にほのかな色彩感が加わり不思議な音響が創出される。T-5 では角谷美知夫(腐っていくテレパシーズ)の『ぼくはズルいロボット』の詩を流用。

CD-3 Dose(未発表)
阿木譲の所蔵品から発見されたカセットテープをデジタルリマスタリング。「Dose」とのみ記されており各曲名は不明。「Anonym」(79 年)と「Divin」(81 年)の中間に位置付けられる音楽性を持ち、1 枚のアルバムとしてほぼ完成している。

CD-4 Demo(未発表)
CD-3と同様、発掘カセットテープからの音源。荒涼としつつ何処か安らぎのある風景が走馬灯のように浮かんでは消える音のラフ・スケッチ。

CD-5 Today’ s Thrill(初CD 化)
ロックマガジン誌1980 年32号付録ソノシート(Vanity2005)として発表されたアルバム未収録曲。ソノシートから宇都宮泰がリマスタリング。

REVOLUTION+1 Book 誤記の訂正とお詫び

当誌読者の方から、誤記があると指摘を頂きました。読者及び関係者の皆様にはご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げるとともに、ご指摘に対して感謝申し上げます。

REVOLUTION+1 Book 正誤表

『REVOLUTION+1 BOOK』 69ページの下から2段目の2行目の掲載内容に誤りがございましたので、 下記の通り訂正いたします。

誤記につきまして、謹んでお詫び申し上げます。

単行本『AGI 4 / MERZBOWⅡ』発売のお知らせ

タイトル:AGI 4 ⁄ MERZBOWⅡ
監修:中村 泰之著:秋田 昌美、川崎 弘二、韻踏み夫、久世、つやちゃん
価格:¥2,750(税込)
ISBN:978-4-86400-044-4
発売日:2023 年 3 月 30 日
判型:B5 判(182×257×9mm)
ページ数:本文 144 ページ(カラー16 ページ)
製本:並製
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

Amazon https://amzn.to/3kOAQru

<作品概要>
01.メルツバウ フォトギャラリー 秋田 昌美
02.メルツバウヒストリーインタビュー 第二回 1980年代 秋田昌美 インタビュアー 川崎 弘二
03.NHKの電子音楽 戦前編 第2回 1930年~1933年 川崎 弘二
04.日本語ラップの成立と「一人称の文化」 韻踏み夫 久世
05.ラップ・ミュージックの現在、失われた未来(?) つやちゃん 久世
06.私とカニエ・ウェスト、その葛藤 久世
07.Lil Uzi Ver「t Eternal Atake」という特異点 ~2022年USヒップホップにおける場所と身体、モチーフ、幽霊について~ 久世
08.ジム・オルークの電子音楽 川崎弘二 協力:阪本裕文

<本文見本>

  

 

 

単行本『REVOLUTION+1 Book』発売のお知らせ

タイトル:REVOLUTION+1 Book
監修:中村 泰之
著:足立 正生、浅野 典子、平野 悠、井上 淳一、宮台 真司、ダースレイダー、栗原 康、町山 智浩、木澤 佐登志、切通 理作、佐々木 敦、鈴木 創士、山崎 春美、赤坂 真理、加藤 梅造、嘉ノ海 幹彦、芥 正彦
価格:¥2,750(税込)
ISBN:978-4-86400-045-1
発売日:2022年3月20日
版型:四六判(127×188×20mm)
ページ数:本文304ページ
製本:並製
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

Amazon https://amzn.to/3KuZTuh

<作品概要>
単行本「REVOLUTION+1 Book」
日本が誇る稀代のシュールレアリスト、足立正生監督6年ぶりの新作にして最大の問題作「 REVOLUTION+1」読本。
映画「REVOLUTION+1」をどう捉えるべきか?この映画が問うものを先鋭的な論者と共にこれから先を考えていきたい。
1939年生まれの足立監督が何よりも現役で映画を作り続け、なおかつ影響力のある作品を2023年に公開されている事実が本当に大きな大切なメッセージであり続けることを願って一冊の本にまとめています。

第一章
01. 重力と恩寵―『REVOLUTION+1』を巡る雑感 木澤 佐登志
02. +1とは何か? 佐々木 敦

第二章
03. 2022年9月26日 新宿 上映終了後~トークイベント
 足立 正生×宮台 真司×ダースレイダー×井上 淳一
04. 2022年9月27日 渋谷 上映終了後~トークイベント
 足立 正生×栗原 康×ダースレイダー×井上 淳一
05. 2022年9月28日 大阪 上映終了後~トークイベント
 足立 正生×鈴木 創士×山崎 春美×赤坂 真理×井上 淳一
06. 『魂の震えは続く』 足立 正生
07. 「本当のREVOLUTIONが起こるまで
  ~『REVOLUTION+1』完成版を観て」 井上 淳一
08. 「映画コメント」 栗原 康
09. 「映画コメント Ⅱ」 ダースレイダー
10. 『歴史を逆撫でするものについての対話』 鈴木 創士×嘉ノ海 幹彦

第三章
11. 『REVOLUTION +1』(2022年09月27日収録) 町山 智浩×切通 理作
12. そして彼は「星」になった
 ~『REVOLUTION+1』完全版で見えてきたもの 切通 理作
13. 「胎児が密漁する時?」 町山 智浩

第四章
14. ラジオJAG vol.60「芥正彦/元・首相 殺害に想う」(2022年7月29日収録)
 芥 正彦×浅野 典子
15. ラジオJAG『REVOLUTION+1』(2023年1月24日収録)
 平野 悠×浅野 典子×加藤 梅造
16. ラジオJAG『足立正生 REVOLUTION+1』(2023年2月7日収録)
 足立 正生×浅野 典子

第五章
17. 「つまらない社会に外はあるのか?」 足立 正生×宮台 真司

第六章
18. 「REVOLUTION+1」宣材資料 REVOLUTION+1 Film partners

単行本『AGI 3 / MERZBOW』発売のお知らせ

タイトル:AGI 3 / MERZBOW
監修:中村 泰之
著:佐々木 敦、川崎 弘二、木澤 佐登志、よろすず、秋田 昌美、久世、大塚 勇樹、REVOLUTION+1、鈴木 創士、山崎 春美
価格:¥3,850(税込)
ISBN:978-4-86400-043-7
発売日:2022年12月15日
版型:B5(257×182×20mm)
ページ数:本文304ページ(カラー64ページ)
製本:並製
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

Amazon https://amzn.to/3tLci3D

<作品概要>
01. メルツバウ フォトギャラリー 秋田 昌美
02. メルツバウヒストリーインタビュー 第一回 秋田昌美 インタビュアー 川崎 弘二
03. 大きな音と小さな音について 佐々木 敦
04. メルツバウとギター よろすず
05. ジ・アート・オブ・メルツバウ 秋田 昌美
06. 加速に抗う音楽たち ―リヴァーブが木霊するYouTubeの亡霊空間 木澤 佐登志
07. NHKの電子音楽 戦前編 第1回 1925年~1929年 川崎 弘二
08. ラップ・ミュージックの「反抗」とケンドリック・ラマーの「ユートピア」 久世
09. 象徴としてのプレイボーイ・カルティ 久世
10. 「Let It Be「」Runaway「」Alright」という内的闘争の帰結”かるみ”について 久世
11. ダークでアイロニカルなリアリスト
~Vince Staples「RAMONA PARK BROKE MY HEART」全曲解説 久世
12. アートとラップ、アートラップの再検討(Earl SweatshirtとBilly Woodsを例に) 久世
13. 音楽家Stephan Mathieuの活動終了に寄せて
―A Young Person ‘s Guide To Stephan Mathieu― よろすず
14. Molecule Plane – Apocrypha / Self-Liner Notes 大塚 勇樹
15. Loudness (Ab) Normalization 大塚 勇樹
16. スチール18 REVOLUTION+1 Film Partners
17. 足立正生監督を讃える 鈴木 創士
18. POE 山崎 春美

<本文見本>
 

 

 

 

単行本『AGI 2 / ENO』発売のお知らせ

タイトル:AGI 2 / ENO
監修:中村 泰之
著:藤本 由紀夫、東瀬戸 悟、嘉ノ海 幹彦、平山 悠、よろすず
価格:¥3,850(税込)
ISBN:978-4-86400-042-0
発売日:2022年6月30日
版型:B5(257×182×20mm)
ページ数:本文304ページ(カラー16ページ)
製本:並製
初版特典:CD1枚組
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

Amazon https://amzn.to/3wPXD9S

<作品概要>
「AGI 2 / ENO」1976年から1979年にかけて、日本でブライアン・イーノについて最も多くのことばを費やしてきたのは間違いなく阿木譲だ。本書では当時の『ロックマガジン』誌に掲載された阿木によるイーノに関する文章、レコード・レビュー、ライナー・ノーツなどを抜き出し、アーカイブすることを通して、阿木譲とイーノ、さらに音楽シーンの変遷にスポットを当ててみた。
40年以上前にイーノが提唱し、阿木を通して紹介された「オブスキュア」「アンビエント」といった言葉も既に広く定着し、その意味は拡張されながら変質している。時代背景と共にそれらが当初どういった形で伝えられたのか知る上で、阿木のテキストは貴重な資料だろう。
ー東瀬戸悟、本書より一部抜粋。

藤本由紀夫氏は1992年デンマークで開催された展覧会で同じ参加アーティストとしてブライアン・イーノとお会いしている事実もあり今回のインタビューはイーノを通してアートの本質まで言及されておりイーノが歴史化されるプロセスを理解することが出来ると思います。
本当に多くの気付きのある言説が含まれているインタビュー。
平山悠氏のテキスト、東瀬戸悟氏のインタビュー、よろすず氏の40タイトルに及ぶ1972~82年にリリースされたブライアン・イーノ関連のレコードレビューなど阿木譲とブライアン・イーノをテーマにイーノの創造の本質をわかりやすく解説。

01. フォトギャラリー
02. 『芸術は驚きと気付きを生み出す装置である』 藤本由紀夫とブライアン・イーノについて語る 藤本由紀夫×嘉ノ海幹彦
03. 『反応するアート・ロック的思考』 阿木譲とブライアン・イーノ 平山悠
04. 『ロックはスポンジだ』 ブライアン・イーノの変遷と阿木譲(『ロック・マガジン』)の変遷 東瀬戸悟×嘉ノ海幹彦
05. レコード・レビュー 40 よろすず
06. 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックの回顧 阿木譲ブログ(2008)
07. ブライアン・イーノ 日本盤レコード ライナーノーツ 阿木譲
08. 奥付
09. rock magazine 復刻版
表3. CDクレジット Vanity 2002 The Voice of Brian Eno 1979.8.6 at New York ロックマガジン28号1979.12.1 付録ソノシートのリイシュー盤

本文見本


『rock magazine 復刻版』 本文見本

『阿木譲の光と影」シリーズ 第五弾 東瀬戸悟インタビューPart 1

『阿木譲の光と影」シリーズ 第五弾 東瀬戸悟インタビュー Part 1

『阿木譲との出会いによる化学反応について』

第五弾は、forever recordsの東瀬戸悟。阿木譲と彼との関係は、近畿放送「fuzz box in」のリスナーより始まり、『ロック・マガジン』創刊号からの読者を経て、晩年まで続いていた。現在は残された遺品整理や管理を行っている。彼とは2018年に阿木さんが亡くなってから話をするようになった。店舗であるforever recordsを訪ねるたびに『ロック・マガジン』時代の予期せぬ出会いが起こり不思議な感覚に襲われることも多い。
彼は、時代により阿木譲とは関わりの濃淡はあるとはいえ最後は火葬まで立ち会うことになる。
まず2010年のremodel発足前夜までをPart 1としてお送りする。東瀬戸悟がロック・ミュージックに興味を持ち、ラジオ放送を通して阿木譲と出会い『ロック・マガジン』の読者となった経緯を聞いた。その後彼はレコード店での勤務を始め「音楽」と関わり続ける人生を選択する。その過程で実際に阿木さんとどのように関わっていたのか。その関わりを通してロック・ミュージックの変遷も語っていただいた。(嘉ノ海)

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forever records(東瀬戸悟)については、こちらのページにアクセスしていただきたい。

https://twitter.com/neuschnee_
https://foreverreco.thebase.in/
https://auctions.yahoo.co.jp/seller/forever_records_osaka

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●東瀬戸悟
○嘉ノ海幹彦

《『ロック・マガジン』創刊号前史》

○僕が最初に阿木さんと出会ったのは1978年の『ロック・マガジン』が月刊の頃で、それまでは阿木譲とは何者でどんな経歴なのかも全然知らなかったんです。その意味では東瀬戸君の方がラジオも聞いていたし、先行しているわけですね。まずはその辺りからお聞きしたいです。今日はよろしくお願いします。

●こちらこそよろしくお願いします。最初に阿木譲を知ったのは、1975年の冬だったと思います。「fuzz box in」の放送が同年の春から始まっているんです。毎週水曜日20時からの放送でFMではなくAMです。しかも近畿放送(京都)は神戸や大阪からだと電波が入りにくくてちゃんと聞こえない。
ロック誌については、1972年から『MUSIC LIFE』や『音楽専科』を読み始めてました。当時は個性的な書き手が評論中心の本は、中村とうようさんの『ニュー・ミュージック・マガジン』(現・ミュージック・マガジン)か、渋谷陽一さんの『ロッキング・オン』ぐらいしかなかった。渋谷さんはNHKのラジオ番組『若いこだま』をもっていて、影響力も強かった。当時ブリティッシュ・ロック系の若手評論家としては渋谷さんと大貫憲章さんのふたりが双璧だったかな。
その頃に知り合いから近畿放送に変な番組があるということで阿木譲を知ることになるんです。友人の話では、DJがとても嫌な奴で気に入らない葉書が来ると読んでから文句をつけて破り捨てると(笑)。わざわざマイクの前でビリビリと(笑)。で、クイーンの『オペラ座の夜』のリリースが1975年の12月なんですが、日本盤発売前にその番組で全曲かけるということで初めて阿木譲の放送を聞きました。

○初めて阿木さんの声を聞いた印象は?何歳の時?

●ノイズだらけの電波の中から聞こえてくるぼそぼそと喋る人(笑)。15歳、高校一年の時です。
翌年の春に『ロック・マガジン』創刊号が店頭に並びました。すぐ買って読みました。変わっていて面白い本というのが第一印象。レコード・レビューにしてもフリップ&イーノ、クラフトワーク、カン、ピーター・ハミルとか、かなり尖っていて新しくて知らない音楽が多かったし、クイーンやキッスの漫画も載っている。『ロック・マガジン』で紹介しているレコードは輸入盤屋でしか手に入らないものが多かったけど、そんな音源も「fuzz box in」で紹介していたんです。

○その辺りのレコードはその頃から興味があって聴いていたの?

●中学二年生の頃から「LPコーナー」(大阪の輸入レコード店)に出入りして、ELPやイエスとかいわゆるプログレ系を聴いていました。シンセサイザーがめずらしい時代でしたね。『音楽専科』で佐藤斗司夫さんがドイツ、イタリア、フランスのプログレッシヴ・ロックを紹介してたし、Virgin Recordsの日本盤も発売されていたから、タンジェリン・ドリームとかクラウス・シュルツェは知ってた。タンジェリン・ドリームの日本盤ライナーノーツは間章さんでした。

○そうでしたね。間さんは結構たくさん書いていた。僕は高校生の時にブリジット・フォンテーヌのライナーノーツで間章の文章に出会いました。

●中3だから何を書いてるのか理解ができていないけれど、変わった文章を書く人だなあと思いました。
阿木譲に関しては創刊号、2号、3号と読み進めて、ラジオも聴いているうちに自分の意見をぐいぐいと押していく人だと分かってきたんですね。『ロック・マガジン』に掲載されているインタビューにしても、創刊号では石坂敬一さんや折田育造さんとかレコード会社のディレクターに、2号では日本のロック・ミュージシャン相手に喧嘩を売ってるんですよ(笑)。

○普通のインタビュワーは、少しくらい話を合わせる部分もあるよね。でも最初から阿木モード全開なんですね(笑)。初めから変わらないなあ(笑)。

●最初から自分の中に答えがあって、それに相手が同意してくれないと話が終わってしまうようなね(笑)。我の強さというか。創刊号から既にあります。

○先ほどのラジオ放送で葉書を破る話とかも一緒やね。普通は始めから葉書を読まないか、読んでも自分の考えを喋るけど、わざわざ破るパフォーマンスをするのは阿木さんらしいし、僕の知っている頃も全く変わらなかったということですね(笑)。

●15-6才の子供にしてみたら、そんな人が存在していることが驚きなわけですよ(笑)。でも、雑誌としては紹介している音楽も含め魅力的だったしポップで面白かった。

○なるほど、僕とは全く違う出会いですね。1978年10月号(デビッド・ボウイ表紙)で松岡正剛が書いていたから買いました。『遊』の読者だったからね。それまでは全く知らなかった。

《いざ『ロック・マガジン』編集室へ》

●僕らが高校生の頃は、ロックと漫画とSFが精神生活の3本柱でした(笑)。創刊時に宇宙大作戦のミスター・スポックのバッジを作って配っていたし、プログレとSF小説の関係を論じる特集もあった。今は怪獣絵師として有名な開田裕二さんが編集部にいました。
編集後記に、遊びに来てくださいねとか書いていて、ロックと少女マンガのミニコミを作っていた女友達と一緒に事務所に行きました。その友人のイラストは2号と3号に載ってます。

○『ロック・マガジン』誌上でそのような呼びかけをするのは発刊当初からだったんですね。同じ音楽に興味をもっている人と一緒に何かを作っていきたいという主旨は僕らの時も一緒でしたからね。
『遊』を発行していた工作舎とかも同じ様に呼びかけをしていました。そんな時代だったのかも知れないです。

●そもそも『ロック・マガジン』自体、「fuzz box in」で阿木さんがリスナーに呼びかけて発刊されたものですからね。当時は高校生もたくさん遊びに来てましたよ。

○その時に初めて阿木本人と会ったんですよね?

●そうです。1976年の春、高校2年生の時かな。場所は編集室があった野々垣ビルですね。今もアメリカ村にビルはあります。編集室内で蛇革のロンドンブーツを履いた阿木さんの写真が残ってるけど、まさにあの状態。雨宮ユキさん、牧野美恵子さん、三重野明さんがいたと思います。それから何回か行って、平川晋さん(後のゼロレコード主宰)、坂口卓也さん、山崎春美さんにも会いました。
夏に阿木さんは、ロンドンとニューヨークへ開田裕二さんと取材旅行に行きました。ロンドンではブライアン・イーノ、デヴィッド・アレン、ドクターズ・オブ・マッドネス、ヴァン・ダー・フラフ・ジェネレイター、レディング・フェスティバルなんかの取材をしていますが、ニューヨークでは、まだアンダーグラウンドだったパンク・シーンを取材しているんです。
1976年の春くらいからパンクという言葉は伝わっていたけど、日本の音楽誌でまとめて紹介したのは『ロック・マガジン』が一番早かった。編集部の人から次号から変わりますよとは聞いていたけど、いきなり4号で版形も誌面も変わり、ニューヨーク・アンダーグラウンド、パンクが特集されていてビックリしました。
それ以上に、知らないレコードが次々と紹介されていて、ミュージシャンの写真もカッコいいし興味津々でしたね。編集室近くのロック喫茶で取材旅行の報告イベントが開かれたので参加しました。
80年代でも取材してきたものをビデオ・コンサートという形でイベントやって見せてたでしょ。当時はビデオはないからスライドだったけど同じです。スライドを見せながら阿木さんがイーノやテレヴィジョン、トーキング・ヘッズ、ラモーンズなどの説明をして、レコードをかけてね。ニューヨークではこんな動きがあるんだと思いました。

○高校生としては最先端のニューヨークのパンク・ムーブメントがリアルタイムに知ることが出来るというのは驚きだったでしょうね。

●「fuzz box in」でも併行して、CBGBとマクシズで録音してきたラモーンズやタフ・ダーツのライブと現地レポートを放送してました。雑誌とラジオ番組が連動してたわけです。パンクっていってもこの時期だと、レコードはまだそんなに出てないし、日本にほとんど入ってきてない。

○まさに世界で発生している時代精神を表象文化そのものとしての雑誌と、それを保管するためのラジオ放送で表現していたということですね。つまり編集者自身や読者も含め時代と連動していたということでしょう。
もう一つのメディアである「ポップス・イン・ピクチャー」は?

●そうそう。テレビがあったよね。近畿放送とサンテレビで放映していたかな。ビデオテープじゃなくてフィルムの時代ですね。ロックの映像がテレビで流れるのはNHKぐらいで、それも数ヶ月に1回「ヤング・ミュージック・ショー」でピンク・フロイドやELPなんかを単発でやるくらいでしたからね。『ロック・マガジン』創刊後に「ポップス・イン・ピクチャー」で阿木さんのコーナーが出来たと思います。

○連動してたんだよね。そういえば、服飾も時代と共に移り変わっていく表象だと思っていたんですよ。このコンセプトが後の『fashion』に繋がるんだけど。
その関連で、その頃阿木さんの風貌はでしたか?

●最初の頃は長髪にサングラス、普通にジーンズを履いてロックっぽいヨーロピアン風。パンクに入れ込んでからは、いきなり短髪になってました。いつもの調子で周囲に「君はまだそんな長い髪をしているのか。切りなさい」って強要してました(笑)。時代はもう次にいっているぞという感じ。
1977年1月号の『ロック・マガジン』別冊「プログレッシブ・ロック・カタログ」にはものすごく大きな影響を受けました。特にドイツ系のプログレをあれだけまとめたカタログ本はありませんでした。阿木さんは序文だけで、執筆は坂口卓也、山崎春美、牧野美恵子の三人です。それをチェックして当時は廃盤だったカンとかアモンデュールなんかのレコードを探し回りました。

○道しるべというか、何を聴いたらいいかが分かったわけだね。

●阿木さんは、このカタログはプログレの総決算というか墓標だといってたけど、僕らとしてはまだファウストもアシュ・ラ・テンペルも全部聴いてないですからね。

○そうやね。『ロック・マガジン』のこの号ではパティ・スミスの特集だし、イギー・ポップ、ルー・リード、801なんかも登場するよね。ユーロ・プログレとは決別している。

《『ロック・マガジン』の変遷》

●1977年になってロンドンパンク、セックス・ピストルズが大きく出てくるんだけど『ロック・マガジン』で特集していたようにニューヨーク・パンクの方が先なんです。ニューヨークでリチャード・ヘルをみてマルコム・マクラーレンがピストルズを作ったわけですからね。阿木さんは最初からロンドン・パンクはグラム・ロックの流れでありファッションだって言い切っていました。
その年の夏に二日間に渡ってポップス・イン・ピクチャー主催の大きなフィルム・コンサート(中ノ島公会堂)をやるんですよ。届いたばかりのセックス・ピストルズやジャムのフィルムを見せて、阿木さんが司会、ゲストが大貫憲章さんでした。テレビの宣伝力もあったからたくさんお客さんが入って盛況でした。
同時にNHK第1放送「若いこだま」では飢餓同盟、だててんりゅう、天地創造など関西のプログレッシヴなバンドを紹介して、日本にもアンダーグランドな自主レーベルとCBGBやマクシズみたいなライブハウスが必要だと強調してるんです。これがVanity Recordsや後のM2にも繫がっていくんですよ。
一方『ロック・マガジン』は同じ頃に、一般にはジャズ系のレーベルだと思われていたECMを大きく特集していますが、これにも驚きました。

○今気がついたけど『ロック・マガジン』(1978年4月特集モダーン・ミュージック)に、スロッビング・グリッスル(TG)が載っている。今更だけどその先見の明と先鋭性にビックリするね。

●TGを日本で一番早く紹介したのがこの号です。「モダン・ミュージック」じゃなくて「モダーン・ミュージック」という表記が阿木さんらしい。PSFレーベルをやってた明大前のレコード店名の由来にもなりました。
次の1978年6月号の特集は表現主義です。デビッド・ボウイとイギー・ポップがベルリンで録音した作品をオーストリアの画家エゴン・シーレと表現主義に重ねていった。こういった切り口は他の音楽誌にはなかった。

○次の『ロック・マガジン』(1978年8月特集現代音楽)は、芦川聡や高橋悠治とかが掲載されている。これもビックリだけど、今までの流れでは不思議じゃないよね。けど何で現代音楽?

●元々はプログレとイーノのオブスキュア(Obscure Records 1975~1978年)の流れかな。パンク、ニュー・ウェイヴと併行して新譜を買い漁ってるうちに、この手のレコードも集まってきたんでしょうね。テリー・ライリーやラモンテ・ヤング、フリップ・グラス、ピエール・アンリとかね。

○フランソワ・ベイルやベルナール・パルメジャーニとかのミュジーク・コンクレート作品も掲載されていましたね。INA(フランス国立視聴覚研究所)のレコードが中心だった。

●阿木さんは京都のコンセール四条というクラシック系の輸入レコード屋で現代音楽系のレコードを買ってた。その結果がこの特集。この号で注目すべきはクラフトワーク『Man Machine』の紹介記事で「テクノ・ポップ・ミュージック」という言葉を初めて使ったことです。

○新しい音源を感じ取り、新しいモードとして編集する基本は変わらないよね。

●当時はレコード屋へ行くのが本当に楽しかったです。パンク、ニュー・ウェイヴのスピード感もあったし、シングルもどんどんリリースされていたしね。レコード屋でもよく阿木さんに会いました。これを買えばいい、と声を掛けてくれて、色々教えてくれました。
1978年の春に「fuzz box in」が終了して、夏から『ロック・マガジン』は左開きの薄い月刊誌になった。お手本はイギリスの『ZIGZAG』誌でしょう。表紙は合田佐和子さんの絵から鋤田正義さんの写真に変わりました。併行してVanity Recordsが始まってDADA『浄』、SAB『Crystalization』、アーント・サリーもリリースされているし、個人的にはこの辺りの『ロック・マガジン』が一番面白かったですね。

○月刊誌になって、執筆者もいきなり松岡正剛、間章に変わりますからね。

●1年後の1979年8月に再度ニューヨーク取材に行って帰ってきたら『ロック・マガジン』は、また右開きの隔月刊に戻って版形はA4サイズでソノシートが付録に付くようになった。

○僕が関わりだした頃ですね。ある日いきなりこの版形にするって(笑)。この頃は隔月刊になり、併行して『fashion』を発刊していた。まさにロック・ミュージックと同じように突然変異する(笑)。

●新譜を買う、それにインスパイアされたものをアウトプットする。雑誌なり、ブログなり、DJなりでね。この姿勢は晩年までずっと変わらなかったと思います。こちらは十代なので新譜はそんなに買えないし、新しい音楽の水先案内人として本当にすごいなあと思ってみてました。

○同時にそこに当時関わっていた人との関係が誌面に大きく反映されていると思います。松岡さんとか僕もその一員なんだけど、もちろん羽田明子の取材であったり、だから単なる個人誌ではないんですね。それこそイーノのいうスポンジ状態だといえるんだよね。

(阿木の当時の編集ノートを見せてもらう)

●執筆予定者として今野雄二さん、近田春夫さんの名前や、次号の特集に向けたコンセプトのアイデアや予算が書いてありますよ。こういった部分は表には見せなかったけど、きっちりしているというか几帳面な人ではあったんですね。そうじゃないと雑誌なんか作れない。
1981年1月の35号から1982年1月の41号までが、阿木本人がいう「オブジェ雑誌」の時期です。この頃の号はレイアウト、紙の選び方まで素晴らしく完成度の高いものでした。ビデオカメラを持ってイギリス、ヨーロッパに取材に行ったり、阿木さんも三十代後半、活動的で脂がのってた時期です。
ファクトリー、ミュート、4AD、インダストリアル・レコーズ、ユナイテッド・デアリーズ、カム・オーガニゼイション、ノイエ・ドイチェ・ヴェレとポスト・パンク期の多彩な音楽を紹介してました。

○1990年代の終わりに一度だけ阿木さんから電話をもらったことがあって長時間話したんだけど、この時期の『ロック・マガジン』について一番充実していた時期だったと言っていた。

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rock magazine vol.39 vol.40 vol.41
1981年の5月下旬から7月にかけてドイツ/デュッセルドルフから、フランス/ルーアン、ベルギー/ブリュッセル、ロンドンに取材に出かけた。ホルガー・シューカイ、コニー・プランク、クラウス&トーマス・ディンガー、ダフ、ダー・プラン、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ、ジャン・ピエールターメル、ローレンス・デュプレ、ルル・ピカソ、レス・ディスク・デュ・クレプスキュール、BCギルバート&Gルイス、ジョアン・ラ・バーバラ、デヴィッド・トゥープ、ディス・ヒート、デヴィッド・カニンガム、ジェネシス・P・オーリッジ、ダニエル・ダックス&カール・ブレイクなどなどに会いインタヴューを敢行し、この3冊の「rock magazine」を編集して終わりにしようと考えていた。それからかなりの時間を要したのは、編集室に集まってきていたスタッフの熱意を消すわけにもいかなかったのと、微かな望みもあったからだろうけれど、この3冊のエディトリアルでボクのロックへのすべての夢と熱いエナジーが閉ざされ消えてしまっていたのだろうと、いまにして思う。(ディス・ヒートの長時間にわたるインタヴューはvol.41に掲載されています)。

「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 CASCADES 58
2008年04月09日 阿木譲

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《阿木譲との新たな関係》

○ここからは、阿木さんとの新たな関係が始まるのですよね。

●1982年春からLPコーナーに勤めだしてレコード屋になりました。今までは『ロック・マガジン』の一読者だったのが大きく変わりました。つまり阿木さんはお客さんとなったわけですね。

○1982年ですか。僕との関わりがないわけだ。それに『ロック・マガジン』も大きく変わるよね。

●『ロック・マガジン』(1982年3月)は蘒原敏訓さんが表紙を描いて再び月刊誌に戻ります。時代的にはニュー・ウェイヴがファッション化してオシャレなものになっていました。この時期は最低でも1万部刷ってて一番売れていたらしいです。DCブランドの服に音楽はカルチャー・クラブやABC、オシャレなカフェ・バー・ミュージック的なものです。レーベルでいうとクレプスキュールやチェリーレッドかな。

○個人的にはその頃から新しい音楽は聴かなくなった。情報処理関連の仕事に埋没していたな。

●月刊のまま1983年11月の60号でまたA4サイズ左開きに変わりました。この時から阿木さんが徐々に誌面レイアウトをしなくなり、執筆量も大きく減りました。実は既に終刊を考え、別の展開を計画していたらしく1984年4月の65号以降はほとんどノータッチ。編集は田中浩一さん、森山雅夫さん、中西信一さん、能勢伊勢雄さん、西尾友里さん達に委ねられるようになりました。読んでいてもあれ?どうしたんだ?ていう感じでした。

○先ほどの東瀬戸くんが影響を受けた新しい音楽動向はどうだったの?

●ニュー・ウェイヴのモード化が行き詰って新しい流れは現れてこなかった。まあ、ヒップホップとシンセ・ポップ、ポスト・インダストリアル的なものは出てきましたけどね。デジタル機材の進化、コンピュータとサンプラーで音色が変わったというのは重要だったかな。エレクトロ化したニュー・オーダーの『ブルー・マンデイ』、トレヴァー・ホーンのZTTとアート・オブ・ノイズとかね。SPKがダンサブルに変身したり、クレプスキュール傘下のL.A.Y.L.A.Hがカレント93、コイル、ナース・ウイズ・ウーンド周辺をリリースし始めたことも興味深かった。
そして、『ロック・マガジン』はロック号、69号(1984年8月)で終刊します。

《『ロック・マガジン』終刊と『EGO』の発刊》

○その後は『EGO』(1985年8月)ですね。エゴイストとはドイツの思想家マックス・シュティルナーの唯一者から来ていると思うんだけど、個人主義そのままの誌名で阿木さんらしい。

●そう、阿木さんは西宮の愛宕山に引っ越して『EGO』ですね。『イコノスタシス』(1985年9月)も出版されました。なぜ西宮に引っ越したのかは分からないけど、門戸厄神の駅からバスに乗って十数分。結構な距離がある山のふもとの一軒家だった。阿木さんはいつもバスじゃなくてタクシーでした(笑)。

○分かるよ、新幹線でもグリーン車にしか乗らない人だったもの(笑)。

●愛宕山は駅から遠いちょっと不便な所だったので、「新譜を持ってきてくれ」と電話がかかってきてよく家まで配達に行きました。ちょうど近くに僕の兄が住んでいましたしね。
で、なぜ晩年まで阿木さんと何故ずっと付き合えてたかというと、単純にレコード屋だったからですよ(笑)。普通は阿木さんと会いたくなければ距離を置いて避ければ済むんですが、向こうからレコード買いにやってくるしね、逃れられない(笑)。

○そういう関係もあったからかもしれないけど、東瀬戸君は『EGO』にも文章を書いているよね。

●家にはよく行ったけど編集に直接関わったりはしてないですよ。『EGO』のデザインとレイアウトは全部阿木さんが一人で部屋にこもってやってました。写植ではなくてワープロで打ち出した文章と暗室で現像した写真の切り貼りです。1986年10月07号でメールアートの特集をした際には、西宮に住んでいた「具体美術協会」の嶋本昭三さんや秋田昌美さんが寄稿してます。秋田さんは1984年から『ロック・マガジン』に度々書いてますが、実際に阿木さんとはメルツバウがzero-gaugeで演奏する2016年まで一度も会ったことがなかった。

○『EGO』創刊号の特集はポスト・インダストリアルでしたね。2号はカセットだった。イイダ・ミツヒロ君のB・C・レモンズとかが入っていました。写植からワープロになったり編集の自由度も格段に高くなった時代ですね。

●2号ではLPコーナーやカンテ・グランテに出入りしてたミュージシャン達に連絡して協力はしました。バブル期直前で西宮の家の家賃は月30万だったし、どこからそんなお金が出てくるんだろうと思ってました(笑)。

○資金はユキさんかな(笑)。ユキさんは?

●心斎橋から西宮の家まで電車とタクシーでご飯を届けに通ってましたよ。当時、阿木さんは編集を手伝ってた何人かの女の子と付き合ってました。高校を出たばかりの子もいたかな。阿木さんのところにいた女の子たちの顔は忘れても、ユキさんがずっと食料やなんかを阿木さんに届けていた姿は忘れられないですよ。晩年までずっとそれは変わらなかったからね。

○僕の頃も同じ。パームスにいた時も可愛い子がいたら「ユキちゃん、声かけてきて」って言って、ユキさんは話しかけてたもんなあ。食事や生活物資も運んでいたし。そこは変わらなかったんやね。

《『EGO』の終刊とノイ・プロダクトの発足とシャールプラッテン・ノイ》

○話が少し前後するけど、1981年の終わり辺りから『ロック・マガジン』で「レコード・ギャラリー」とかあったよね。あの辺りはレコード屋に務める前でしょ。

●よく買いに行きましたよ。よその輸入レコード屋よりも安かったから。四ツ橋の編集室内で澁谷守君が編集作業しながら販売してた。1981年のヨーロッパ取材で知り合ったカルメン・クヌーベルの店やソルディテ・サンチマンタル、クレプスキュール、ラフ・トレードから直接輸入してましたね。ディー・クルップスなんか大量に仕入れて販売してた。
その数年後に新星堂がクレプスキュールと契約して日本配給するようになるんですが、元々はクレプスキュールの設立者アニーク・オノレと知り合いだった羽田明子さんが『ロック・マガジン』で紹介したのが最初です。WAVEがアタタックと契約するのが1984年かな。阿木さんは「僕が最初に見つけてきたものを後で全部大手が持っていくんだよ」と文句いってましたけどね(笑)。でも阿木さんは一般に広まる頃に、もう別のところへ行っている。新しいものに反応するセンスと速度は常にあったから早いのは早い(笑)。

○その頃は、「レコード・ギャラリー」はあったけどレコード屋さんではなかったんですね。
で話を戻すと、『EGO』の終刊が1987年9月です。

●ここで西宮から大阪に帰るんです。そのタイミングで西尾友里さんが阿木さんを顧問に会社を作るということになった。それがノイ・プロダクトです。社長は西尾さん。
阿木さんからノイ・プロダクトの中でレコード屋をやるから来ないかという誘いがあって、LPコーナーで務めて5年、自分で独立してやってみたいという気持ちがあった。事務所はアメリカ村の御津八幡宮の横にでした。
でもこれまで阿木さんの行動パターンを散々見ているので、西尾さんには「阿木さんを直接こちらに来させないでくださいね」とお願いしてから引き受けることにしました。
ノイ・プロダクトのレコード屋部門は仕切るということで、仕入れも必要になりますから300万くらいは出資もしました。

○自己資金を出したわけですね。

●それで輸入盤のルートを引いて仕入れも始めるわけです。事務所では復刊『ロック・マガジン』(1988年2月)の編集も始まっていて、こっちが仕入れた商品を阿木さんがどんどん持っていくんですよ(笑)。僕のお金で店のために仕入れてる商品なのに(笑)。利益率の低い新譜だけでやっていくのは難しいから、中古盤も扱って、阿木さんのレコード・コレクションをライブラリーにして年会費を取って生かすという計画も立てたけど、それも阿木さんに反対されて頓挫した。まあ、こうなるだろうことは予想できていたので最初から西尾さんに念を押してたわけだけど、結局、防波堤にはならなかったです。
ノイ・プロダクトは出版やレーベル運営とか、複数の事業を計画していて、経理担当や営業も含めて西尾さんが用意したスタッフが7-8人いました。でも、まだ何の形にもなってないのに経理や営業なんて必要ないと思ってました。

○東瀬戸君としては、シャールプラッテン・ノイというレコード屋をちゃんと運営しようとしてた訳ですね、当たり前だけど。

●阿木さんは完全に自分の店だと思っていたからね(笑)。
整理すると1987年夏にLPコーナーをやめて、秋から仕入れなど店の準備をしていました。その間にノイ・プロダクトではPBC(Perfect Body Control)のレコードを作っていたり、裸のラリーズのレコーディングの話も併行してやっていたし。PBCは3000枚プレスしたのかな。

○むちゃやね(笑)。3000枚。

●そんなに売れるわけない(笑)。止めたんやけどね。だってVanityでも300とか500枚ですからね。結局西尾さんは3000枚プレスして、12月28日に心斎橋ミューズ・ホールのレコ発ライブも入れてました。PBCだけでは客が集まらないので、町田町臓、ボアダムス、オフマスク00、D’f(ウルフルケイスケ在籍)、ロリポップ・ソニック(小山田圭吾在籍)なんかを呼んで、ライブ当日は司会進行もやりました。

○客の入りとかはどうだったの?

●それなりのメンバーを集めたので結構入ったと思います。

○その後シャールプラッテン・ノイはどうなったの?

●1987年12月24日にオープンしましたが、開店10日前に阿木さんと喧嘩して、これ以上ここで仕事するのは無理だとなっていたんです。阿木さんに「店で仕入れてるレコードを勝手に持っていってもらうと困る」と苦言したら「おまえは、俺が引き抜いたんじゃないか!」って逆切れされて灰皿で殴られました。もう一つ、店のスタッフとして僕の補佐をしてくれた女の子に本の編集を手伝わせて、その挙句に彼女を足蹴りして殴ったことも許せなかった。激しやすい人なのはわかってたけど、これはもうダメだと。だから「ここまで準備はしたので店のオープンまで責任を持ってやるけれど辞めます」と。オープンさせて、28日のライヴをやってから撤退しました。

○その後は?

●シャールプラッテン・ノイで仕入れたレコードはそのまま置いてきて、西尾さんに渡したということになった。店はオープンできているしね。出資したお金は西尾さんから後で返していただきました。僕は、あまり間を置かずforever recordsに入って今に至るということです。僕が離れた後は阿木さんと一緒に住んでたミカさんが、シャールプラッテン・ノイを続けていました。その後のM2、Cafe Blueも彼女が表に立って運営してますよ。

○既に復刊した『ロック・マガジン』(1988年6月)も終わってたし、阿木さんは何をしてたんだろう。

●『ノイ通信』ですね。これは店で無料配布していた新譜紹介のカタログです。レイアウトも含めすべて一人で作っていました。これらは阿木さんらしいセンスの良さがありますよ。

○シャールプラッテン・ノイの経営はどうだったんだろう。

●そこそこ売れていたと思いますよ。ただ自分の分も余分に仕入れているし、買い方が尋常じゃなかった(笑)。88年の暮れだったか、僕が引いた仕入先から「阿木さんがお金を払ってくれない。何とかしてくれ」と電話があって。やっぱりなあと思いましたね。

○1988年辺り音楽の流れはどうだったんだろう。

●シャールプラッテン・ノイ開店の頃から、大きく変化してきました。EBM(エレクトロニック・ボディ・ミュージック)とハウス・ミュージックが出てきた。EBMまでは、まだロックやパンクの続きのイメージがあったけど、ハウスになるとロックとは切れてると思いましたね。

○ハウスってニューヨークのパラダイス・ガラージとかシカゴのウエアハウスとか?

●その辺りのゲイ・ディスコから派生した王道ハウスは既にあったけど日本ではほとんど知られてなくて、イギリス経由で少しづつレコードや情報が入ってきた。主にアシッド・ハウスですね。サイキックTVがいきなりアシッド・ハウスに変わるわけだから。イギリス経由のアシッド・ハウスはサイケデリック・ロックやインダストリアルの変形という要素もあった。でも、当時はちゃんと理解出来ていなかったと思います。
個人的には、カレント93、ナース・ウィズ・ウーンドなんかのインダストリアルと併行してソニック・ユースやプッシー・ガロア、バットホール・サーファーズ、グランジの先駆けになるロックを聴いていました。

○ソニック・ユースとかになるとアメリカのバンドですよね。

●ザ・スミスが最後くらいでイギリスのニュー・ウェイヴがつまらなくなってきたしね。テクノという言葉はあったけど、デトロイト・テクノなんかもまだこれからという感じ。ソニック・ユースもアメリカでは売れずにイギリスのブラスト・ファーストやドイツのツェンゾア経由で知られるようになった。ブラスト・ファーストの大元はミュートなんですよね。パンクも、ハウスも日本に入ってきた時は、本国アメリカからじゃなくてイギリス、ヨーロッパ経由です。

《シャールプラッテン・ノイの閉店と『E』出版とM2のオープン》

○その頃の阿木さんは?

●ロック的なものはもういいという感じでしたね。これからはハウスとテクノだ、ということで『E』(1990年8月)ですね。M2のオープンが90年10月なので、シャールプラッテン・ノイはこの時に閉店してたんじゃなかったかな。

○ところでノイ・プロダクトは?

●もう僕がシャールプラッテン・ノイをやらないとなった段階でほぼ解体。後は清算する方向ですよね。『E』の発行はノイ・プロダクトとなっているけど、実体は既になかったんです。僕が離れた時に他のスタッフもいなくなって後は西尾さんに出資したお金を返してもらって終了です。

○シャールプラッテン・ノイ自体はやっていたんだよね。

●1987年末から1990年まで店は続いてました。シカゴのワックス・トラックスとベルギーのプレイ・イット・アゲイン・サムのEBM辺りから始まって、ニュー・ビート、アシッド・ハウスとレイヴ系、The KLF、808ステイトなんかに流れていった時代です。そして阿木さんは、M2をオープンさせて、その辺りの音源を中心にDJを始めることになるわけです。地下がダンスルームで1階がチル・ルームでした。内部の施工は中西信一くんが中心になってやってましたね。

○この時期から0gに続くクラブへとシフトするよね。僕はM2は行ったことなかったけど、中西君が工事をやったって聞きました。彼は電気工事屋でしたから。

●M2をやるときも資金がないから、関わるみんなに作業させてましたね。その部分もずっと一緒でしょ(笑)。

○平野君の話でも内装工事などやったことがないのに、自分たちでやったって言ってた。

●シャールプラッテン・ノイの時も同じでしたよ。集まった連中がレコード棚を作ったり、壁を白く塗ったりしてました。

○結局、全部無償ですよね(笑)。

●そうですよ。阿木さんは「何もないところからみんなで作り上げるんだ」と言ってたけど、タダ働きですから。シャールプラッテン・ノイにしても、『ノイ通信』を発行して面白いレコードを販売しているんだけど、仕入先に支払いしていないとか。そりゃ続けられないですよ。仕入れ先への返済については、どうなったかは聞いていませんけどね。

○M2とはどんな店だったんだろう。扱っていた音楽は、やっぱりEBMとかハウス?

●場所は島之内の川沿いにありました。音楽はブリープ・ハウスやアンビエント・ハウスへ移っていました。藤本由紀夫さんたちと一緒に行ったのが最初かな。ウィリアム・バロウズとブライオン・ガイシンのドリーム・マシーンの紙製レプリカとロシア構成主義のロトチェンコの家具を模した鉄のテーブル・セットがあった。そのテーブル・セットは今もzero-gaugeで使ってますよ。
僕はforevereで普通にロックもインダストリアルも売ってたけど、阿木さんは既にそういった音楽は否定してました。

○この90年代に入った頃には、東瀬戸君と阿木さんは頻繁に会うということはなかったんですね。

●その頃は大阪にWAVEが出店してきて、阿木さんは主にそこでレコードを買っていたので、うちの店に来ることもほぼなかった。こちらもシャールプラッテン・ノイのことがあったので横目では見てはいるけど積極的に近づかなかったですね。
たまにM2に行くと石野卓球君が遊びに来ていたりね、彼もニュー・ウェイヴ時代の『ロック・マガジン』の読者でしたから。ドミューンの宇川直弘君も『E』に衝撃を受けたって言ってますね。『E』のレコード・レビューは12インチ・シングルのレーベル部分がアップじゃなくて、白と黒の無地ジャケット写真が並んでいるページがあってびっくりしました(笑)。

○『E』は椹木野衣さんや武邑光裕さんが関わったりしているから、その辺りでも衝撃受けたんだろうな。

●M2の後の店Cafe BlueではSYMPATHY NERVOUSの新沼好文さんやBGMの白石隆之君が来たときには見に行きましたよ。ちょうど僕はパナソニックのPAL方式ビデオ・デッキ(※)を購入したので、PALしか出ていなかったテクノ方面のCGをNTSC方式に変換して持っていたり、その程度の協力はしていました。
※1967年に西ドイツを中心にヨーロッパ各国などで使用されていた地上アナログ放送で使われたテレビジョン方式。日本やアメリカが採用していたNTSC方式では再生できなかった。

○1993年にM2からCafe Blueに変わっているんだね。経緯とかは?

●M2は家賃滞納で出ていかざるを得なくなったと聞いてます。借金も凄かったらしく、取り立てに来たヤクザを追い返したとか、自慢げに話してたけど、まあ誉められません(笑)。

○その当時、阿木さんは外部発信してないでしょ。ブログもないし。

●M2初期のフライヤーには『ノイ通信』の続きみたいな部分が少しありましたが、外向けにはほとんど発信してない。店の中で完結してた感じです。WARPやR&Sといったテクノ、Mo’ Waxとトリップホップ、アブストラクトの時代かな。当時のドラムンベースについてもレコードはけっこう買ってはいたんだけど、何故かほとんど語っていないんですね。

《『infra』の発刊と「Jazz的なるもの」へ》

○『infra』が1999年に発刊ですね。

●1990年代は、本も作ってないし、『ノイ通信』みたいなものもないし、ひたすら店でDJをやっていたという印象です。この当時のことを本人に聞いたら、「家でゲームをやってた」って言ってました(笑)。確か一時期帝塚山(大阪の郊外)に住んでたと思います。いづれにしても一番よくわからない時期です。
で、1999年に『infra』が出てまた驚かされました。今度はクラブ・ジャズでしたから。シャールプラッテン・ノイの頃のアシッド・ハウスに対抗して出てきたアシッド・ジャズに関しては否定的だったのに。

○!K7とかCompostとかG Stoneとかドイツやオーストリアのクラブ・ジャズ系のレーベルがあったよね。

●最初はフューチャー・ジャズでまだテクノ的な要素があった。でも阿木さんはその後スタンダードなジャズ、ブルーノートなんかに手を伸ばしました。それは意外でしたね。ジャズの中古盤ならうちにもあるから、また阿木さんがお客として来るようになったんです。

○不思議な縁ですね(笑)。

●クラブ・ジャズが打ち込み系のフューチャー・ジャズから生バンド的なものに移行して、DJ視点で60年代、70年代ジャズの再発が盛んに行われるようになっていました。阿木さん自身も「今まで中古レコードや過去の再発レコードを買うようなことは全くなかった」といっているので、すごく奇妙な感じでしたよ。で、そうなると、今度はテクノを否定しはじめた(笑)。
パンクの時はプログレ否定、テクノの時はロック否定と同じ流れです。でも、はっきりと「Jazz」じゃないんですよね。ずっと「Jazz的なるもの」って言い続けてたでしょ。なんか歯切れが悪くて、もやっとしてる(笑)。

○阿木さんと2000年くらいに岡山ペパーランドで再会しているんだけど、当時はトランスとかを聴いていたら、「こんなものを聴いているのか」ってボロクソに言ってましたね(笑)。

●ゴアでも、ジャーマンでも、トランスはけちょんけちょんでしょ。もちろん、トランスも出始めの頃には買ってたし、DJでも使ってたけど、認めていませんでしたね。

○ガバ(ロッテルダム・ハードコア)やDHR(Digital Hardcore Recordings)とかも?

●ガバはM2末期には派手にかけてましたが、すぐに単なるバカ騒ぎになっていくのが嫌で止めたみたいです。藤本由紀夫さんに「阿木さんが“これからはポインが流行る”と言うんですが、それは何でしょうか?」とたずねられて、最初は判らなかったけど、しばらくしてロッテルダムの”Poing”だと気付きました。

○1990年代に出てきたラスター・ノートンやオウテカなどの音響系は?
その後のremodelに繋がる動きではあるよね。

●僕は面白いと思って聴いていたけど、その辺りすら否定的でしたね。オウテカはワープ初期には支持してました。ラスター・ノートンやmegoが台頭してきた頃に阿木さんは渋めのジャズに入れ込んでるから「何でそんなものを聴いているんだ」って言ってました。『ロック・マガジン』時代にソフト・マシーンなんかのUKジャズロックやECMなんかは特集してたから、ヨーロピアン・ジャズはわかるんだけど、阿木さんはジャズ・ファンク、フュージョン、イージー・リスニング・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、スウィングまで買ってた。まあ、2000年頃の空気感では、そういったジャズすら新鮮に聴こえたのも事実なんですけどね。時代がぐるっと回ってこれもありかなという感じは確かにあった。

○そうだったんですね。

●だからあの時代、2000年から2010年のモード・ミュージックとして「Jazz的なるもの」は正解だったのかなとは思います。でも、後に「あの10年は無駄だった」と言うんですけどね(笑)。2010年以降はジャズのことなんか無かったかのようにラスター・ノートンやモダーン・ラヴ、ニュー・インダストリアル系、阿木さんがいうところの「尖端音楽」に移っていきました。

《jazz cafe〈nu things〉→ jaz’room nu things → nu things JAJOUKA → nu thingsへの変遷》

○その後、nu thingsからの時代はどうだったの?東瀬戸君としては何か協力したの?

●nu thingsは、湊町→本町→心斎橋アメリカ村→阿波座と複数回移転してますね。いや本町で2回移転しているかな。湊町nu thingsでは能勢伊勢雄さんや森山雅夫さんなど『ロック・マガジン』関係者を集めてトークショーをやったり、本町では阿木さんに依頼されてロック史のレクチャーを5~6回やりました。アメリカ村で鈴木昭男さん、阿波座でMiki Yuiさんのライブのブッキングもしました。

○2003年に0gの平野君が阿木さんと出会っているから、その辺りは間近でみているんだよね。

●2010年アメリカ村の時には中村泰之さんが登場ですね。初めて中村さんと会ったときは阿木さんから紹介されました。

◆◆◆◆◆◆◆ Part 2に続く ◆◆◆◆◆◆◆

単行本『AGI』発売のお知らせ

タイトル:AGI
監修:中村 泰之
著:嘉ノ海 幹彦、椹木 野衣、平山 悠
価格:¥4,950(税込)
ISBN:978-4-86400-041-3
発売日:2022 年2 月28 日
版型:B5(257×182×54mm)
『AGI』『rock magazine 復刻版』2 分冊
ページ数:本文208+592 ページ 計800 ページ
BOX 仕様 : 2 冊の本とCD4 枚は豪華ボックス(266×191×54mm) に封入
製本:並製
初版特典:CD4 枚組
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

Amazon https://amzn.to/3Ai9xte

商品詳細情報

『AGI』本文見本

『rock magazine 復刻版』 本文見本

『阿木譲の光と影」シリーズ 第四弾 Junya Hiranoインタビュー

『阿木譲『阿木譲の光と影」シリーズ 第四弾 Junya Hiranoインタビュー

『復活祭の果てに』

第四弾は、environment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ] でスタッフとして、長年にわたり阿木譲をサポートし、現在はオーナーとして活動している平野隼也。彼は、場所=現場を仕切り、remodelの再始動を果たし、次々と音源をリリースしている。今回のテーマである「阿木譲の光と影」を語るには一番ふさわしい存在だ。阿木譲が亡くなった当日の経験を、後日自身の言葉で書いていた。
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2020年2月11日 平野隼也 記
13:45
阿木さんが風呂に入られへんから体を拭いて欲しいということで自宅に呼ばれ、風呂場で体を拭く。その途中までは呼びかけても呻き声の様な返事があった。
体を拭き終わり両脇を抱えベッドへ戻る時、浴槽へ風呂場の扉に足をぶつけてしまい「すみません!」と言うが反応なし。
ベッドへ仰向けに寝かせたら目を見開いて口を開けっ放しになっていたので「あ…死んだ………..」って心の中で呟く。
そして心臓マッサージ開始。
16:15
そばにいたゆきさんに「阿木さん死んだ!救急車呼んで!」と怒鳴るが、ゆきさんはテンパってただただ狼狽えるばかりでどうにもならんので心臓マッサージしながら119番へ電話。
焦る自分と、それを俯瞰して見る「セカンド自分」の存在を認識した。
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平野君は、このように阿木さんが亡くなった様子を客観的に描写している。2003年の阿木さんとの出会いから2018年の15年間にわたって雨宮ユキさん以外に身近で見ていた人物は彼しかいない。そんな平野君に阿木譲の晩年の姿や今後の0gやremodelについても話を聞きたいと思った。さあ、インタビューをはじめよう。途中から中村泰之さんにも加わっていただいた。(嘉ノ海)
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Junya Hirano(平野隼也)、environment 0g [zero-gauge]、remodelについては、こちらにアクセスしていただきたい。
https://twitter.com/environment_0g
https://nuthings.wordpress.com/
http://studiowarp.jp/remodel/
https://twitter.com/remodel_japan
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●平野隼也
△中村泰之
○嘉ノ海幹彦

《音楽との出会い》

○よろしくお願いします。今回は「阿木譲の光と影」というテーマで話を聞いているんだけど、平野君の場合には、私生活も含めて一番深い関係があったでしょ。だから、今まで話を聞いてきた他のミュージシャンと全く違うスタンスなんで色々話を聞きたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

●よろしくお願いします。

○平野隼也とはどのような人物かということから聞きたいです。まず音楽との出会いは?
学生の頃から楽器とか?

●いや楽器は一切出来ないです。聴くだけでした。
阿木さんと出会った頃は、エレクトリックマイルス、松浦亜弥、ブランキー・ジェット・シティとかJON(犬)&ウツノミア(宇都宮泰) とかボアダムズ、小杉武久、池田亮司などです。他には雑多に聴いてましたね。The Jam、ポール・ウェラーから入ってニール・ヤング、ザ・バンド、エイフェックス・ツイン、スクエアプッシャーとか。

○ジャンル的にはバラバラだね(笑)。でも比較的ライブ感のあるバンドが多い。

●基本的にロック好きでしたからね。2003年に阿木さんと出会っているんですが、ロックも好きだしクラブも行ってたし。ゴアトランスやブレイクコアなどのパーティーでROCKETS、ベイサイドジェニーへも行ってました。

○トランス・ミュージックが好きだったので、ベイサイドジェニー、Zepp大阪とかよく行った。DJ TSUYOSHIのTOKIO DROMEとか阿蘇山のレイヴ・パーティ(VOLCANO)に行ったり、四国や中国山脈の中でのレイヴに行ったこともあります。ゴア・ギルが京都に来たときには山中でのレイヴを体験したりね。結構はまっていた時期があった。

●あの時は面白かったですよね。2000年前後だと思います。

○TIP(The Infinity Project)のラジャ・ラムが来日した時もベイサイドジェニーで見ました。僕の話はともかく(笑)。阿木さんとは2003年に出会っているのですね。

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[創刊誌等]
『ロック・マガジン』1976年~1984年、1988年(復刊)
『fashion』1980年
『EGO』1985年~1987年
『イコノスタシス』1984年
『E』1990年
『infra』1999年~2001年
『BIT』2002年

[前史]
1990▼〈M2(Mathematic Modern)〉
1993▼〈cafe blue〉をオープン
2001▼8月 レーベル〈personnages recordings〉を立ち上げ、辰巳哲也『Aspects from Both Sides』リリース
[nu things時代]
2003▼3月 辰巳哲也『Reflection and Integration』リリース
▼7月12日 大阪市の湊町にjazz cafe〈nu things〉をプレ・オープン
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《阿木譲との出会い》

●ちょうどjazzの頃ですね。このころはエレクトリック期のマイルス・デイビスを聴いていました。ジョン・ゾーンから入ってマイルスとか菊地成孔の「DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN」がROVOとのスプリットCDをリリースした時期だったと思います。

○初めて会ったのは「jazz cafe〈nu things〉」で?

●そうですね、当時よく遊んでいた友達の奥山君がjazz cafe〈nu things〉のすぐ近くに住んでたんでね。1Fに前面ガラス張りで、中は白の壁(今の0gのような)で近くを自転車で通る度になんやろ、と思ってた。いつも閉まっているんだけど、たまたま通りかかったら雨宮ユキさんが店の前にいて声を掛けられました。で、音楽が好きなことなどを話していたら「今週末に阿木譲というすごい人がDJするから遊びにおいで」と誘われて奥山君と行くことなった。その時に阿木さんと会いました。

○初対面の印象は? また阿木さんのDJはどうだったの?

●DJはかっこよかったです(笑)。COMPOSTとかのフューチャー JAZZとか!K7とかの頃でしたね。終わってからユキさんに紹介されて話をしました。第一印象はいいおっちゃんでしたね(笑)。話も面白かったし音楽も聴いたことのないかっこいいものだったし、それからはイベントがある度に行きました。
その年の秋に3週間くらいヨーロッパに行ったんですけど、帰ってきてから土産をもって〈nu things〉へ行きました。後日奥山君にユキさんから店のスタッフをやらないかと誘いがあったよ、と聞きました。おもろそうやからやろか、という軽いノリで付き合いが始まりました。

○スタッフとしては店の運営とか機材の搬送とかだよね。その時のバイト代とかは?

●もちろん、ないっすね(笑)。でもその時は店でがっつり働いていたわけでもないし、イベントも頻繁にやってるハコでもなかったし。JAZZというコンセプトでやっているから、週一阿木さんのDJとたまにライブをやってくれる人がいてという感じでした。

○どんな感じの場所?ライブもやっているけどお酒も飲めてというカフェバーみたいな感じ?
平野君はその時から週何回か通っていたんだよね?

●はい。カフェーバーみたいな感じです。今でも跡地がありますよ。まあ、家からだったり、奥山君ちに泊めてもらったりして通っていました。

○新譜が出たら店で聴くこともできるし、阿木さんの話も聞けたりということですね。でもjazz cafe〈nu things〉は2004年5月には閉店してるから、期間的には1年だよね。なぜ閉店?

●2Fの店の人と騒音問題で、裁判になってたんですよ。

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2004▼1月10日 <jazz cafenu things〉〉正式オープン
▼5月8日 <jazz cafe <nu things>同じビルの住人からの騒音苦情に耐えかねたため、一時閉店
▼8月8日 南本町で<jaz’room nu things>を再オープン
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○当時のことを岡山ペパーランドの能勢伊勢雄さんに聞いたことがあるんだけど、ビルの1階で外が見えるガラス張りの店だよね。外に音が漏れるし、とてもライブハウスとはいえない造りなんでしょ。

●ライブハウスとは全く違いますね(笑)。ホンマにガラス張りですからね(笑)。一応地下もスペースがあったんですけど、プレ・オープンの時にはイベントをやってたみたいなんです。でも僕は入ったことはないです。

○それで閉店時の裁判はどうなった?

●もうどっちが訴えたのかも憶えてないですね。でも出頭書とか来てたし裁判はやりましたよ。

○結局その後、店は続けられなくて移転するんだよね。そこが<jaz’room nu things>だったんだけど、どうだったの?音は出せた?

●いやあ、そこも同じような感じだったので、音を出せる環境ではなかったです。普通のオフィス・ビルの地下1階で、1階に大家がいて普通に6時までは仕事をしてましたね。ライブやる日も基本的にリハは6時からという感じでした。スタートが遅いのでオールナイトもやってました。

○平野君がヨーロッパに行った2003年頃は、ドイツのCOMPOSTとかNu Jazzの流れでウィーンとかでもライブ演奏をそのままレコーディングしたり、トランス系でもTsuyoshi SuzukiのTokio Dromeとか音響的にそれまでもモノとは根本的に違う音になってきているよね。PAという概念が変わった時期ですね。前段としては90年代にはJUNO REACTORがNovaMute Recordsからリリースしたり、キリング・ジョークのYouthがDragonfly Recordsを立ち上げたり、世界的に大きな流れになってきた。単に爆音というだけではなく身体全体も響くようになって、音響ということばが実態を伴ってきたそんな時期だったよね。
そんな時代に、移転するのは仕方がないかも知れないけど、阿木さんは、なぜガラス張りの店とかだと音を出せないし、トラブルとか起こるのもわかっているのに、その店を選んだんだろう。周りから「もう少し音を下げて」といわれるとわざと音量を上げるような人でしょ(笑)。

《<jaz’room nu things〉での悲惨な生活》

●そうですね。すみませんといえば納まるのに、くってかかってましたからね(笑)。僕は<jaz’room nu things〉に移転したときには、正直関わりたくなかったですね。オープンする前の内装とかの工事は、真夏に自分らでやってたんですよ。8月8日にオープンしているんで、それまで工事しててね。正直にいうと、その前に自分らが工事費用を工面してました。阿木さんもユキさんも僕も奥山君も出していたんですよ。しかも工事とかもやったことがないんでやり方もわからないし、進捗も遅くなるしね。しかも寝る時間もなく体を動かしっぱなしで、おまけに地下だったんで日の光を浴びない日もありました。だからマジで気が狂いそうでした。そんな作業が続いたんで僕も奥山君もおかしくなっていったんです。ある日夜中に作業をしていた時に、事故って3週間入院しました(笑)。未だに骨折した傷あとが残ってますよ。こんなこともあったんでマジでやりたくなかったです。で、そんな状態でも退院してから半ばムリしながら復帰しました。

○エッ、なんで?そこまでの状態で、もういいってならなかったの?普通は逃げるよね。

●その時には、だたの洗脳状態にあったんでしょうね(笑)。

△その資金って総額いくら集めたの?

●みんながいくら出したのかは、分からないですね。僕はレコードとか全部売って10-20万くらいをつくり残りは70-80万くらいですかね。その後店の運営で金が必要になって追加で借りました。だから全部で120万とかかな。

△けっこうきつかったね。日々の運転資金も自分達で用立てる月もあったんやね。

●奥山君も同じく用立ててましたね。で、奥山君はバンドやってたんでライブハウスのことを少しは知っていたんですけど、僕はそれまでは全く知らなかったですからね。もちろん見に行ったことはあるけど、運営に関しては全く知らない。
元々音楽の専門学校に行ってたんですけど、PA学科じゃなくてラジオ番組制作学科だったんです。でも店ではPAとかやってました。ミキサーの使い方が少し分かる程度で基本的なことは出来てなくて、評判は悪かったです。

○でもライブハウスなんで、売り上げもあるでしょ。

●もちろん、定期的にはライブやってましたよ。でも店の売り上げだけでは回らなかったですね。

△おそらく、阿木さんはお金を出していないなあ。平野君と奥山さんとで出してたんじゃない? それで足りなかったらユキさんが用立てるという感じじゃないの?

●いや、ユキさんが一番多く出してましたよ。しかもそれだけでなく、阿木さんの生活費も出してたし。難波時代は僕は出していないです、立替したりとかはありましたけど。

△さっきのスタッフになってバイト代は? というのは愚問やなあ(笑)。

●そうですよ(笑)。本当に(笑)。

△要するに無償で働いて、次の展開でお金を出したということやね。

●でも繰り返しになりますが、ユキさんが一番出しているのは間違いないです。ユキさんが業者にお金を払ったり、飯を食べさせてもらったりしてましたからね。
結局、店では家賃が何とかなるくらいの売り上げはあるんですけど、阿木さん、ユキさん、奥山君、僕といるわけじゃないですか。だから給与としてお金が入ってきたことはないですね。

○ライブのブッキングとかは?

●運営的には、奥山君が先々まで計画する能力があったので主にブッキングしてました。月に10本くらいとかやって、僕は4本くらいです。

△そんな感じで、店が回るような感じにはならなかったの?

●ならなかったですね。結局たまにライブをやって人が入った感じですかね。それに向こうから来るわけではないので自分たちでブッキングしてますから、収入の保障なんてないです。今の0gではやってないですけど当時はノルマ制で出演者にチケットを何枚と売ってもらっていたので予想は立ちやすかったですけどね。それでも足りなかったです。
で、早い段階で奥山君がメンタル面をやられて、やめたんです。ブッキングできる人間が抜けたんであとは悲惨でした。
そこでは6年やっているんですけど、最初の2年で奥山君が抜けたんです。だから残りの4年間は僕も出してたけど大半のお金はユキさんが出していた。

○というか、ユキさんはそのために他の仕事をしていたんだろうな。

●ユキさんは店だけじゃなくて、阿木さんの食費だけでも使ってましたからね。その上阿木さんからずっと文句を言い続けられるような状態でしたし。

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2010▼4月10日 心斎橋アメリカ村で<nu things JAJOUKA>として移転オープン。jazzの文字が消え去った
▼10月 スタジオワープから阿木さんへ仕事の依頼

2011▼2月 現代音楽からグリッチ、尖端音楽、アーカイヴを横断するレーベル〈remodel〉立ち上げ
▼2月16日 remodel01 V.A.『a sign paria – ozaka – kyoto』CD+DVD
▼11月18日 remodel02 V.A.「Prologue:Semantica Records Compilation」
▼8月 完成 リリースは2019.10.21 remodel 03 V.A.「Music」2CD BOX
remodel 04 V.A.「Vanity Tapes」6CD BOX
remodel 05 V.A.「Vanity BOX」11CD BOX
2012▼8月9日 remodel 06 Momus「in samoa」CD+DVD

2012▼3月3日 阿波座に「nu things」を移転
▼11月19日 ストーカー(銃刀法違反)で逮捕

2015 ▼1月 有料制 [ 0g – zero gauge ] web 立ち上げ http://www.zero-gauge.com/
▼3月15 南堀江に新店舗environment : 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント:ゼロジー[ゼロゲージ] をプロデュース/オープン
▼8月15日入院 手術前
▼8月25日サイボーグ人間としてデビューする日 僅かな時間は神からもらったおまけのようなもの
▼8月28日退院

2016 ▼environment 0g ( zero-gauge ) にて毎月1度のBricolage

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《阿木譲の魅力》

△話を戻すと、阿木さんのどこに魅力を感じたの?何にはまったんだろう。

●初めて阿木さんのDJを見た時にかっこいいと思ったのと、話を聞いているうちにだんだんとはまっていきました。音楽だけだったら、そして客としていくだけだったらよかったんですけど(笑)。きっと若いときはモノを知らないので、極端なことをいう人は魅力的に感じたんですね。

△話を聞いていて、なぜそこまではまったんだろうと思って(笑)。

●そうですよね。新興宗教と一緒ですよ(笑)。
まず、自分の好きなものを否定される。かっこいいものはコレって新しい価値観を植えつける。マインドコントロールされていたんですよ。

△阿木さんに説得する力があったんやな。出会った頃ってマイルスを聴いていて、それに変わるものを提示できたんかな。

●その頃は専門学校を卒業してフリーターで、すし屋で働いていていたんです。俺これからどうなるんやろ、という漠然とした不安感がありました。そこにズバッと阿木さんが入ってきました。

△2003年で聴いていた音楽が池田亮司というのは早いよ。『matrix』が2001年だし。

●でも流行っていましたよ。グリッチとか。

△阿木さんは、池田亮司以上のものを提示してきた?

●クラブ・ミュージックがスタイリッシュでこんなにかっこいいものやとその時に思いました。それまではノイズとかメルツバウとかも聴いていたし、アングラな感じが好みでした。
当時はmegoからツジコノリコがリリースされたり、アメリカ村のタワーレコードの3Fの現代音楽のコーナーにずっといました。そこで池田亮司とか初めて聴いて衝撃を受けました。

△整理すると、阿木さんに関しては、まずDJする姿見てかっこいいなあと思って、終わった後話し始めて何回か会っているうちに引き込まれたっていう感じやな。それがあったから2004年は乗り切ったんやな。

●けど、ずっと嫌だと思ってましたよ。この時によくなかったのが自分もjazz cafe〈nu things〉に軽いノリで声を掛けられたので、軽く関わっていたんですけど、でも実態はそうじゃなかった。お手伝いのように関わっていたのにいつの間にか自分でお金を出すようになっていた。寝ずに仕事もやってボロカスに言われたりして、マジでずっと逃げ腰でしたね。今考えるとそれが良くなかったと思います。

△でも奥山さんが2年で抜けて、逃げ腰どころか自分に全部のしかかってきたわけでしょ。やらざるを得ない状況に追い込まれたって感じで。代わりの人はいなかった?

●代わりが入ったとしても、阿木さんはあんな感じなのでうまく行くわけもないし。もちろんライブハウスなので働きたいっていうスタッフ候補が何人も来るわけなんですよ。でも来ても抜けていくし。
だから仕事に対してもモチベーションが上がらない状態でした。やめたいと思って仕事をやっててもうまくいくわけないじゃないですか。ずっと正気じゃなかったと思います。
それで、ようやく正気を取り戻したのが、阿木さんがストーカー事件で捕まった時位からですからね(2012年)。その時から自分でも普通に阿木さんに言い返せるようになった。

○1年毎に聞いていこうかと思っていたけど、この激動の6年間の話はすごいなあ。

●えぐい話しか出てこないですよ。

△平野君にとって阿木さんはそれだけの魅力があったんやね。

●それって魅力というんですかね。マインド・コントロールですよ(笑)。僕もふわふわしてた時期だったし(笑)。

○逃げたいけど逃げられない。オウム真理教のようにマインド・コントロールされているような状態から脱却できたら、自ら何していたんだろうと思えるけど、その渦中にいた時には分からないのかも知れないね。好きでいるわけじゃないのに抜けられないというのは、こんな感覚かもしれない。
もう一度聞くけど、あの6年間の記憶の中で阿木さんからこんな話を聞いたとか、こんな姿を見て感銘を受けたとか阿木さんが書いた文章とか残っている?阿木さんってその頃何してた?週末にDJしたり、他には?

●たしか当時は雑誌『remix』に連載してましたね。他は外に発信するとしたらブログかな。

○この頃って雑誌も作ってないし、『BIT』にしたってカタログ本になってたし。それもなくなったら発信はブログだけ?

●そういえば今思い出しましたが、阿木さんがBlue Noteの音源でDJをやったときはめちゃかっこよかったですね。1500とか4000のhard bop期のジャズですね。<jaz’ room nu things〉後期から<nu things jajouka>の初期中期くらいですね。2009年から2011年くらいですかね。Club Jazzの頃と比べても断然hard bopやってた方がかっこよかった。

○「かっこよかった」というのも分かるけど、音楽は体験芸術やから、その音楽に出会ったら世界観が変わってしまうくらいの衝撃があるでしょ。阿木さんも新しい音楽に出会うことにより変わっていったと思っているんだけど、Jazzの時期が一番よくわからない。さっきもいったけど、僕はトランス・ミュージックとの出会いで世界観が変わったんだけどね。

●阿木さんはゴアトランスとかは全くないですよ。Rising Highとか初期トランスのレーベルはありましたけど、そこからブレイクビーツの方にいったんだと思います。その辺りは〈cafe blue〉(1993年)の頃ですね。

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『E』1990年
1990年に〈M2(Mathematic Modern)〉、1993年に〈cafe blue〉をオープン。
1999▼6月1日 『infra』創刊準備号刊行
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○2010年にオープンしたはライブハウスとしてはどうだったの?前のようにガラス張りとかではないでしょ。

●ガラス張りでしたが自分らで工事したのもあるし、心斎橋アメリカ村なので苦情は来なかったですね。結構音は出してました。でも今(0g)の方が出してますけどね。

○2010年になると平野君は阿木さんの右腕的なスタッフになっているわけでしょ。だってミュージシャンとの付き合いやブッキングとかもやっているわけだから。で、アメリカ村に移った経緯は?

●本町から移った経緯は、家賃滞納です(笑)。

○いつもの感じやなあ(笑)。で、の方は経営的にどうだったの?

●ダメですよ(笑)。地獄でした(笑)。タイミングが悪かったのいうのもあったんです。風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)の問題もあったんですよ。地震もあったしオールナイト営業ができなくなった。家賃も60万円ぐらいはしてたんで経営的にもひどかった。本町の時でも50万くらいだったのに。

○そんなに。さっきの話ではブッキングしたバンドにノルマがあったとしても結構難しいよね。

●でも場所はよかったです。キャパも余裕で100人は入るし広かったです。

○ちょうど、その頃は中村さんも登場してくるし、TOKUDA君とかAOE君とかも関わってくるよね。それまでと違って何か始まりそうな予感とかあったんじゃないの。

●TOKUDAさんは音源をMySpaceに上げていて阿木さんが見つけたんですよ。で、まず音楽的に変わりましたね。
時系列で整理すると、△僕と一緒にやるときには、Jazzは一切無しで。

○ここで今に繋がる流れになったんですね。中村さんとの出会いがその契機になったのは間違いないな。
でも阿木さんらしいといえば、そうですね。『ロック・マガジン』の変遷を見てても分かるけど、一気に変わっていますよね。

●店としては、今までJazzの付き合いもあったのでバンドのライブとかはあったんですけどね。阿木さんとしてはJazzはもうなかったですね。

△『a sign』をやるときには振り切ったよな。みんなにRaster-Notonみたいなことをやらしたんやからね。成功したものも違和感のある音源もあるけど、Jazzという記号をきっぱりと振り切ったタイミングやね。それに何か起こりそうな予感もあり、阿木さんも張り切ってたよね。

○そうなんですよね。きょうレコードにUPされている当時のブログを読んでも、阿木さんの期待感は半端じゃなかった。
この辺りを俯瞰すると、1995年以降でもレーベルでいうとStefan Betkeの~scapeとかAutechreでもMarkus PoppのOvalでもいいんだけど、ヨーロッパを中心に新しいエレクトリック・ミュージックが出てたわけでしょ。池田亮司とか面白いと感じたのもその頃だと思う。クラブ系でもモーリッツ・フォン・オズワルドのBASIC CHANNEL(1993年)もあの頃でしょ。単なるミニマル・テクノでもないしね。既にWARPが1992-94年に『Artificial Intelligence』をリリースしていたし、1993年にはPan Sonicが結成されているしね。

●Autechreの「CONFIELD」(2001年)なんかも超名盤だけど。逆に阿木さんは通ってないんですよね。Autechreのそれ以前の作品はもちろん持ってはいたんですが。

△だから2010年に全部持ってきたという感じやね。丸々ね。ここで気がついたのか。阿木さんにとっては全部が新譜だった。

○その頃のブログをみると、『ロック・マガジン』を再整理しているし、2010年に出会った新しい音源とインダストリアル・ミュージックやDAFやDie Kruppsとをもう一度つなげようとしているのがわかる。

△その辺りのズレが阿木さんをリスペクトできなくなった契機となっているのかな?

●それでも阿木さんのJazzはかっこいいと思ってました。当時表出してきたダブステップも少し聴いていたのですが、心に余裕がなくて自然と聴かなくなりました。レーベルでいうとHyperdub(2004年)とかアーティストでいうとBURIAL(2005年)とかね。

△僕と仕事をするタイミングで一気にという感じ。阿木さんはめちゃくちゃ燃えてたよなあ。またレコードもむちゃくちゃ買い始めたしね。その辺りの感じはブログからも感じられるよね。

○文章のタッチも熱が入っていると思った。平野君とか内部からはその頃の阿木さんとかどう見えていた?

●そんなことは全然感じなかったです(笑)。

△家賃の60万のプレッシャーが全部かかってたからね(笑)。且つPAのセッティング、当日のオペレーションまで何もかも平野君がやっているわけだから、あまりにも忙しすぎて憶えてないよな。
2004年の立ち上げ時とあまり変わってないくらい忙しかったから。△現場を滞りなくこなす、という以外のことは考えられなかったんだよね。海外から大物が来てたしね。
ペーター・ブロッツマンとか来たし、それなりに準備が大変やったでしょ。
この辺りは阿木さんとの関係はどうだった?

●ブロッツマンとか北欧ジャズのライブはマーク・ラパポートさん(音楽ライター、評論家、プロデューサー)がほとんど準備してくれていたので、意外に大変ではなかったです。まだ阿木さんとはどっぷりの関係でした。少し前から気持ち的に切れたりはありましたよ、でも面と向かってなにもいえなかったですね。
だから阿木さんからの洗脳から抜け出せたのは、2012年のストーカーで逮捕されたときくらいからでした。

△スタジオワープが阿木さんとの関係を解消して引き上げてからやなあ。

○当時中村さんとやってたremodelはどうなってたの?

●イベントはいろいろやってたけど、発展はしなかったですね。


△2012年8月にMomusの『in samoa』(remodel 06)をリリースしたけど、その3ヵ月後に逮捕されているからね。

○remodelの後のイベントは阿波座に移ってからですね(2012年3月)。阿波座はどんな場所?

●普通のマンションの地下一階ですね。家賃も25万くらいでしたから、前よりは安かったけど規模も小さくなりました。それでもうまくいかなかったですね。
ドリンクが足りなくてちゃんと出せなかったらイベントに支障があるじゃないですか。当時は売り上げの全額を阿木さんやユキさんに渡していたので自分で把握していなかったんですよね。だから店で本当に必要なものも買えないし、知らないところでお金が減っているので、やる気もだんだんなくなってくるし。店をするならお釣りを用意するとか必要な飲み物を仕入れるとかありますよね。でもキャッシャーはユキさんがやっていて、僕の手元には金がないんですよ。
今となっては完全に反面教師ですね。必要なものは多少無理してでも買うし。当時も必要なのはわかってたけど、何も出来なかったですね、金がなさ過ぎて。

《ストーカー事件以降》

○ストーカーでつかまった時は?

●ストーカーではなく銃刀法違反ですね。包丁を持っていったから。阿木さんには前日にもあれだけ「そんなものもって行ったら絶対に捕まりますよ」と忠告してたんですけどね。

○そうか、やっぱりおかしくなっていたんやね。

△スタジオワープが切ってからおかしくなった。打ち切ったのが発端にあると思う。

●これから始まるという気分も盛り上がったところでうまく行きませんでしたからね。

△『Vanity Box』という現物まで作ったけど、アーティスト側から阿木さんには権利がないといい出して、引き上げざるを得なくなった。2010年から2011年夏くらいにかけて、やり取りの中で阿木さんとしてはアーティストにつぶされて、僕はアーティスト側について、結局引き上げた。この時からおかしなったんやろな。

僕はその辺りの記憶はないんですけど、相当荒れてましたね。中村に電話しろってしょっちゅういってましたね。

△本人は、もう一回やりたかったし、Vanityも出して欲しかったやろな。

○remodelプロジェクトの発端となった京都のMETROで阿木さんがraster-noton(ラスター・ノートン)のカールステン・ニコライと会ったときの話を教えてください。

△それは、remodelでコンピレーションを作るという企画を阿木さんが出してきて、カールステン・ニコライとかOVALを入れるということになっていた。スタジオ・ワープとしては既に仕事としてお金を出す話もしているしね。そこで、阿木さんがいきなり彼らに連絡したんですよ。ても訳の分からないところでのコンピレーションに参加することもあり得なかった。そこで糸魚健一さんが見るに見かねて阿木さんとカールステン・ニコライとの場をセッティングしたんです。でも結果はまとまらなかった。
結局、阿木さんは自分のいうことをきくアーティストを集めて『a sign』をリリースしたんです。
僕は『a sign』は失敗だと思っていて、その段階で引き上げようと思っていたんです。Vanityの原盤権の件がなくてもね。だって、阿木さんに前金で30万払っていて、その金額に見合う仕事が出来なかったら、引き上げるのが当たり前でしょ、仕事だからね。もう少し有名なアーティストはいないのかというOVALからの返事が今でも残っていますよ。
スタジオ・ワープとしては、阿木さんを通してアーティストにオファーしているということですからね。それまでの信頼関係がないとコンピレーションとしては成り立つわけないわけですよ。

○阿木さんは相当ショックだったと思います。通用しなかったということなんですね。カールステン・ニコライとかOVALとかの関係を結べなくて。
彼らの音楽のルーツなり、目指している音楽の方向性なりを語れなかったのではないかと思うんですよ。あなたの音楽の方向性と僕の求めている音楽性が一緒なのでやりませんか?といっても通用しなかったのかも知れないですね。
70年代後半から80年代前半までは『ロック・マガジン』もあったし、ロンドンには羽田明子さんもいたし、Vanityもあったし『Fashion』もあったから、僕は時代に対してこうですといえたわけですよ。

△そうやって、阿木さんとカールステン・ニコライを繋ごうとしている姿を見て、阿木さんよりも糸魚さんの方がいけると思った。だから糸魚ラインになった。僕からすると仕事だし、ノーギャラじゃないんですよ。
さっきの話だけど、Vanityの権利関係の時にアーティスト側に付いたのがものすごくショックだったと思う。だから怒りの矛先がストーカーの方向にいったんだと思った。

●それに店もうまく回ってなかったんです。相手の女性も阿木さんがいやになって別の男の人と付き合い始めたという感じでした。

《晩年の阿木譲の活動について》

○2014年にはストーカー事件の後、それまでのブログを消して「a perfect day」を始めるわけですね。東京の美術館に呼ばれたりDJをしたり。東京都の関係が出来てきたということでしょ。

●美術館でDJをしたのは、FRUEっていうイベントがあってその人が呼んでくれたんです。阿木さんがSVRECA スヴレカのことを初期のブログに書いていてそれを読んでいたんです。

△SEMANTICAのことやね。
※『REMODEL 02 PROLOGUE』スペインのSemanticaレーベルの首謀者Svrecaとコラボレートしたコンピレーション・アルバム
阿木さんは全部自分がやってるみたいなことをいってたけど、そうではない。僕は、彼らにも阿木さんにもギャラを払って、もちろんマスタリングもちゃんとやった。そして最終的に作品化して商品(remodel)として流通させるところまでやったから、信頼関係もできた。阿木さんはその流れに乗ったということやね。だから阿木さんにとってはremodelをやったメリットはあったよね。

●そうですね、SVRECA スヴレカと繋がったのも大きかったです。またそのremodelから美術館でのイベントやBUNKAMURAでの秋山伸さんへと繋がったわけですね。埼玉県立美術館の梅津元さんとかの絡みですね。紹介してくれたのが、inframince [アンフラマンス]の岡村英昭さんでした。

△いや、秋山さんを阿木さんに紹介したのは[a sign]にも参加したバンドVELVELJINのマナさん?。仕事としてはMOMUSのジャケットデザインをやってもらった。だから5万円のデザイン料も払ってからの付き合いです。
こちらとしては阿木さんを見切ってても仕事としてはちゃんとやっているわけですよ。
※remodel 06-C MOMUS『REMODEL 06 IN SAMOA』

○そこまできっちりやってたから、信用も出来て阿木さんに声がかかったということですね。僕はもっとクリエイティヴな感じで偶然に現場で知り合ってとか、ずっと阿木さんが尊敬されていて招待されたとか、そんなイメージを持ってました(笑)

△それはないよ(笑)。僕が築いたものを阿木さんが自分でやった、というのはいいんですよ。ただ内実をいうとSEMANTICAについては2枚目が出なかったし、提案はいっぱい阿木さんからありました。でももうその段階でVanityのアーティスト側に付くと決めた後だったから、もう一回やるという選択肢はなかった。

○そうか、2014年以降の東京から呼ばれたり、阿木さんのデザインとしての仕事を再評価されたり、アーティストと出会ったり、光の部分かなあと思っていたんですけど(笑)。
でも、先ほどの美術館の人とか椹木野衣とか高校生くらいの時に『ロック・マガジン』を読んでいたわけでしょ。それで今はキュレーションしたり人を呼べる力もあるから、阿木さんを尊敬していてね。その部分もありますよね。でもremodelとかの実績があったから呼ばれたんですね。じゃないともっと早くにキュレーションされていると思う。

△ストーカー事件の後だったというがミソやね。その頃は相当精神的にも塞ぎ込んでたからね。だから阿木さんにはもっと元気出して欲しいという流れがあったんだと思う。

○でも東京方面からのオファーは、2014年だけでしたね。2015年には手術するし。平野君はこの辺りの阿木さんをどのように見ていた?

●東京の人間関係は広がるなあと思いました。でも個人的には阿木さんへの気持ちが冷え冷えでしたからね、だから正直関わりたくないという感じでした。自分の視界に入れたくないくらいの気持ちでした。ストーカーやったのに俺は何も悪くない、相手もまだ俺のことを思っているとか、もうムリって(笑)。阿木さんにはげんなりしてました。
その時は精神的におかしくなったというより、元々自己愛が強すぎる人やから、何の話をしても自分の方向に持っていくし。相手を否定して自分が正しいという持っていき方には本当にうんざりしていました。

△その頃に、スタジオワープに電話してきてうちの子に自分が正しいとかいってたのは知らないでしょ。

●それは知らないですね。
大丈夫ですか。今まで美しい話は一切出てきてないですよ(笑)。
今、中村さんと一緒に仕事をやっててよかったと思うのは、アーティストにオファーして、断られたらしゃあないと割り切るじゃないですか。阿木さんだったら、「なんでや!すぐ電話しろ」ってことになりますよ。

○それは昔からそうだった。『ロック・マガジン』の時でもスタッフに連絡つかなかったら大変だった(笑)。

《environment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ]》

○2015年に0gがオープンしてるよね。場所は前よりどう?家賃とかはどうしてたの?

●場所は狭くなりました。保証人になってくれたのは林さんともう一人です。家賃は今までの中で一番安いですね。店の経営に関しても、阿木さんに金が渡るのだったら何もしたくない。こいつのために利益になることは何もしたくないと思っていました。関係性としては最悪でした。
阿木さんが亡くなる2年前くらいからようやく店として回りだしたという感じです。金の流れもむちゃくちゃすぎて分からなかったです。さっきもいったけど、売り上げは全部ユキさんにいって、その中から1日に3千円とか4千円が阿木さんの飯代と消えていくわけだし。
本町の時にユキさんが骨折してまだ杖をついているのに、買い物に行けとかいってたんで、さすがに、それは見かねて一緒に行ったこともあります。当時から阿木さんに対してはいい感情はなかったです。

○阿木さんが亡くなる日(2018年10月21日)のことは、平野君が書いた文章を読んだんだけど、その前も世話してたの?

●しょっちゅう電話がかかってきて阿木さんのマンションに行ってましたよ。ただ正直もう会いたくなかった。うちの親父も調子悪かったんで、それを口実に実家に戻っていました。

○そうか、で最後2018年10月21日に呼ばれて行って。

●それでも週に2-3回は会ってましたからね。家で体拭いたりとかそんな感じですね。ガチの介護ですよ。

○亡くなったときは、どう思った?

●死んだなあって感じです。これからどうしていくかとかは考えましたね。しかも当日の21日にイベントがあったんですよ。16時15分くらいだったんで、病院からオーナーが亡くなったんで遅れるからちょっと待っててって出演者にメールしました。週明け月曜は東瀬戸さんが組んでくれたイベントがあったんです。かぶっていたしバタバタだったんですよ。

○それで葬式なんだけど。みんな集まったんだよね。

●葬式じゃなくて、火葬ですね。林さん、宮本さん、ユキさん、東瀬戸さん達7名が集まって火葬しました。

《これからの平野隼也の活動方針》

○今後平野君がやりたいことなど活動計画を教えてください。考えていること。まずはremodelのディレクションですね。場所を継続していくということはあると思うんだけど。

●深く考えてないんですよ、自分って流されて生きているなあと思っています。だからPOSTコロナとか考えてないです。その時に時流に乗ってやります。こんな鈍感な性格が、いいところでもあり悪くもありと思っていますね。だからPOSTコロナとか全く気にしてないし。
remodelでどんなミュージシャンを扱っていきたいかというと、電子音楽って範囲が広くってテクノやハードコア、ブラック・メタル、ベース・ミュージックから来た人、いっぱいいるんですよ。それらのルーツが違う人を0gという場所で結び付けたいと思っていて。近そうに見えるけど近くない人を結び付けたいなと思ってます。僕は全部好きなんですよ。

○平野君は本当にものすごい数の音楽を聴いてきているし、そんな試みも面白いと思う。

●時代のトレンドとかマジで追ってないんで。だからこのままやっていきますよ。

○自分の中で文脈を作ってやっていく感じ?ライブハウスってカラーがあると思うんですよ。レーベルでもね。MUTEだったら、こんな音みたいなイメージがあるように、こんなカラーで自分にあっているか考えると思うんだけど。
そういう方向性を出していくのではなく、そんなのは決めずにやっていきたいということですね。

●ごった煮にしたいですね。ゼロゲージは阿木さんが亡くなる前から2年間任せてもらっていますが、やりたくないことは一切やってないですね。自分のわがままをひたすら貫いていきたいというのはあります。
答えになっているかどうかわかりませんけど。
これに関してや、今までのこと、これからのことなどは自分でも文章を書かないといけないと思います。。。。

△remodelとしては、これからEVOLもリリースするし、Junya TokudaのLPを出したし、今日の話でも阿木さんを見切っているのも良くわかったし。深く考えないというところで十何年間阿木さんと一緒に仕事をしてきたのもわかった。
ストーカー事件以降は、阿木さんがいてもいなくても自分のやり方をしているしね。ただ、音楽だけは続けようというのが一本筋が通っていたから。ここでライブをやってCDがリリースできて海外のマーケットに流れて、そんな単純な喜びでやっていくのかと思うけど。ある種、阿木さんの理想だったのかも知れないね。
平野君がやりたかったことがやれる状況になって、阿木さんのことも語れる状況になっていたということじゃないのかな。

○阿木さんが亡くなってremodelをもう一度やろうかな、という思いになった理由が、平野君だったからですよね。彼はずっと音楽を聴き続けているし、remodelの再開も中村さんと平野君の3分間の立ち話で決まったんでしょ(笑)。

△深く考えなかったもんな(笑)。深く考えたら、やめとことなったと思う。だから立ち話で『a sign 2』をやろかで決まったんですよ。ただこの流れはコロナじゃなかったら、ライブとリリースがもう少しうまく出来たかもしれないとは思うけどね。最初に話したのはコロナ前だったからね。

●ブログにも書いたんですけど、CINDYTALKに出てもらったときに「出ているミュージシャンをリリースしなよ」という言葉をもらってたんですよ。やりたいけど、そういうノウハウないしなあと思っていた。そんなタイミングで中村さんからremodelの話をもらったんで、ビックリするタイミングだったんですね。
※ブログ “備忘録 – CINDYTALKとの出会い、REMODEL再始動 –“
https://nuthings.wordpress.com/2021/04/13/

△僕の中ではCINDYのリリースについてもやらないよりはやったほうがいいという結論だった。一回やってみようということで、ここまで来たという感じですね。もう7-8枚リリースしたね。
阿木さんから影響を受けたんじゃなくて、阿木さんを反面教師にしているよね。それは意味があったんやろね。

●阿木さんだったらPOSTコロナっていっぱい喋ってると思いますが、そんなのがウンザリだったんです。だからPOSTコロナはどう思うかって、考えてないですよ、という答えになる(笑)。
でも単純化しすぎているなあともう少し考えた方がいいとは思ってるんです(笑)。

△ただ言葉じゃなくてやっている強みがあるからね。数的にも前のremodelを超えたからね。

●しかもremodelはいい曲しか入っていないという自信もありますし。

△特に2011年のremodelで強調したいのは、阿木さんがやってたというより、スタジオワープが阿木さんを雇っていたということだからね。ギャラを出しているからね。だからremodelを一緒にやっているといわれると心外やね。レーベルの名前を決めたらお前のものかということになるしね。それは違うだろうとね(笑)。

●最後に阿木さんのいい話をしておきましょう。
阿木さんの言葉で記憶に残っているのは、アメリカ村の時ですけど、若いミュージシャンに対して「お前らは場所があるのがどれだけ大切か分かっていない」と言ってたけど、ようやく分かってきた気がしますね。場所があったからこうやってやってこれたし、レーベルもスタートラインに立てたしね。場所がいかに大切かを教えてもらった。

△レーベルも場所だしね。二つ場所があるわけやから、本当はこれが阿木さんがやりたかったことやと思うけどなあ。

○佐藤薫さんとの話でもヴェニューということばが出てきたけど、元々は待ち合わせ場所とかの意味だけど、今はもう少し広い意味で汎用的に使われるよね。『ロック・マガジン』を編集していた頃だけど、阿木さんに場所のノウハウがないから佐藤さんに相談してたみたい。阿木さんは『BIT』までやってたけど、その間も店(場所)は続いていたんですよね。僕が阿木さんと知り合った頃は、雑誌も作ってたし、レーベルもあったけど、その頃から場所を作りたかったんだと思いました。

△阿木さんにとっては、存在証明と自己顕示でもあるしね。場所を持ち続けて言いたいことをいえる背景をムリにでもつくったと思うけどね。だから内実が伴わないと評価は難しい時代になって来ていると思う。

●僕は阿木さんと関わってきて、金のことでいろんな人に嘘ついて金を借りたりして返せていない状態なんですけど、今は嘘つくこともないんですけど、そうして不義理をした人に対して返済したいという気持ちになってます。過去の清算という意味でですけど。ここをきっちりしないとスタートラインにも立ててない気もするし。

△でもremodelの6枚を超えたというのは大きいよね。それにその内3枚(Vanity)は生きている間に出せなかったからね。平野君に声をかけたときに絶対6枚はやろうと思ってたよね。現在でその枚数を超えたし、次のリリースも決まっているしね。8枚はもう決まっている。

○でもremodelはいい音響システムで聴かないとって思うよ。Isolate Lineの作品とか家だと全然ダメですね。0gとかそれなりの音響設備があるハコで聴くべき音楽だと思いましたね。

●爆音で聴く音楽ですよね。体験ですよね。

△彼の持ち味が出ないかも知れないですね。

●2022年にリリース予定のEVOLと知り合ったのも、彼の新譜を探したけど売り切れていて、いろんなサイトを探してやっと見つけてメールでやりとりをしたらメンバーの1人であるRoc本人だった。偶然なんですよ。で、あなたのファンで、こんな店でこんなレーベルやっていると自己紹介して仲良くなったんですよ。その後オファーしたら喜んでくれたんですよ。

△これからは、僕らがリリースしないとあかんな。


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《阿木譲への手紙・・・インタビューを終えて》

0gという「場」、そこでやっていることを現場以外にも発信するメディアとしてのremodel、この両輪があってこそ他にはない活動ができると考えているので、新たな出会いを求めています。
現在は電子音楽と一括りでいっても現代音楽、テクノ、アブストラクト・ヒップホップ、エレクトロニカ、ノイズ、ハードコアパンク、ブラックメタル、ニューウェイヴ、アンビエント、即興など様々な音楽にルーツがあり、ルーツの違うアーティスト同士が密接につながることが少なく、それらをつなげることにより新たなものが生まれると信じています。
0gで出会ったアーティストと共に音楽を媒介とした未知なる体験、異形のサウンドスケープを現出させ続けたい。

environment 0gへと移り阿木譲氏が体調を崩し、ブッキングだけでなく金銭を含め運営をほぼ任されるようになりようやく「場」として整ってきたのは皮肉なものです。

阿木さんが自分の死期を悟った時、電話で呼び出され向かうと「最後に何か言うことあるか?」と問われる。息が詰まる。ようやく絞り出した言葉は「今までありがとうございます」だけ。「ありがとうございま”した”」、でなく「ありがとうござい”ます”」と言ったのは、すぐに訪れる別れを受け入れることがまだできなかったからですが、うまく伝わらなかったように思います。それを聞いたあなたの「なんだそれだけか」と言わんばかりの失望した表情は、今でも脳裏に焼き付いています。その表情を見て言葉を探すが見つからない。「まだ死ぬには早いですよ」なんて今のあなたを見て言えるわけがない。自己愛の強いあなたは最後に褒めて?肯定?して欲しかったんだろうと思います。しかし今まで見て見ぬ振りをしていたあなたと僕の間にある深い溝が2012年以降看過できないものとなったのはわかっていたでしょう。
病に苦しみ「首を吊るからロープを買ってきてくれ」と何度も電話してきましたね。真意はそうでなく助けてくれという叫びだったと思いますが、父の病気やイベントを口実に避け続け、あなたの苦しみ、辛さ、恐怖を受け止めることはありませんでした。
もしあともう少し僕が仕事ができたら、もしあともう少しあなたが人に優しい言葉をかけることができたら少しは違ったでしょう。

あなたからの強い影響、それは呪縛といっても過言ではないもの。
あなたと出会い18年目となる今、それから自由になりようやくスタートラインに立てたように思います。

nu things JAJOUKA時代にイベントの後に「お前たちは場がどれだけ大事かわかっていない」と言ったことを痛感しています。
あなたと出会う前の若かりし自分はロック、トランス、ノイズ、テクノ、ブレイクコアなど様々なジャンルの現場に行き、結果そのどれにも馴染めなかった。
nu things時代は自分の場をつくろうともがき、仮想敵と戦い、失敗し多くの方に迷惑をかけっぱなしでした。
0gは自分のわがままを通し、美意識を全うする場だと思っていて、それに賛同してくれる方がこんなにもいることに驚き、感謝しています。

あなたがいなくなってから1年ほどは僕の口から阿木譲の名を出すことは憚られました。自分のやっていることにまだ自信がなく、虎の威を借る狐の様に思ったから。

しかし今は阿木譲の弟子であるといっていきたいと思っています。

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○インタビューを終えて
考えてみれば、『ロック・マガジン』も含め歴代スタッフの中で平野君が一番身近で阿木をサポートをしてきたことが良くわかるインタビューだった。途中で逃げ出すこともせず、その期間は亡くなるまでの15年にも及ぶ。そして彼は阿木さんとは全く違う方法で音楽との向き合い方をしてきた。
阿木は音楽を通しての人との関わりから、言葉という記号に遊ぶことにより世界を認識する方法を発見した。だたしこの認識論には「感覚」という一種の思い込みや独断に左右される危うさもあり、はたして時代と向き合った時に、読み解けていたかどうかは、甚だ疑問である。しかし、その孤立主義的な生き方は阿木らしかった。僕はそんな阿木が好きだった。
そんな阿木とは違う方法で、音楽や時代と対峙しremodelを引き継いだ平野君は阿木にはない柔軟性をもっている。彼は阿木の歪な社会に対する考えを反面教師的に捉えているようだ。0gというヴェニューを拠点にremodelのミュージシャンを発掘し育てて、自分も刺激を受けながら活動をしていくのだろう。
そうして、溶けて移ろいゆく未来の響きの中で、その展開が楽しみである。

『阿木譲の光と影」シリーズ 第三弾 Isolate Lineインタビュー

『阿木譲の光と影」シリーズ 第三弾 Isolate Lineインタビュー

『音響実験の地球生命体に与える影響について』

第三弾は、remodel復活のコンピレーション『a sign 2』にも楽曲を提供しているIsolate Line。そのこと以外に予備知識はない。ただ今回インタビューするために最新作『INTERSTELLAR』と『2021: A space odyssey』の2作品を聴いてみた。アルバム・タイトルからイメージされるような外宇宙から内宇宙へと旅をしている映像的な風景が見える作品だ。このような楽曲を作る彼が何者で阿木譲とどのように関わり、どのような影響を受けたのか。そして今の時代をどのように感じているのか。彼の目には晩年の阿木さんがどのように映っていたのか。
さて未知なるIsolate Lineとの会話をはじめよう。
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Isolate Line(泉森 宏泰)の活動については、こちらのページにアクセスしていただきたい。
https://remodelremodel.bandcamp.com
http://studiowarp.jp/shrine/
https://hyahar.bandcamp.com
https://twitter.com/IsolateLine
https://soundcloud.com/isolate-line
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●泉森 宏泰
○嘉ノ海幹彦

【音楽との出会い】

○はじめまして、嘉ノ海です。インタビューを快諾していただき感謝しています。どうぞ、よろしくお願いします。

●はじめまして、泉森です。こちらこそ、よろしくお願いします。

○早速ですが、Isolate Lineと音楽の出会いはどのようなものだったのでしょうか?ジャンルとかミュージシャンとかレーベルとかは?

●高校生の時に、当時流行っていたヴィジュアル系バンドを結成してボーカルをしていました。元々はハードロックが好きだったのですが、Nirvanaを聴き始めたのをキッカケにグランジやオルタナロックにハマり。その後Radioheadや Björkを聴くようになってから、徐々にエレクトロニクス(サウンドや機材、ソフトウェアそのもの)に惹かれるようになりました。
バンドはその後流行り流されミクスチャーロックにスタイルを変えますが、最終的には音楽性の違いで消滅しました。

○共同でバンドをやるのと個人で楽曲を作っていくのでは、音楽の作り方が全く違うと思いますが、なぜ共同作業には魅力がなくなったのでしょうか?また音楽性の違いとはどのようなものだったのでしょうか?

●共同作業に魅力がなくなったという訳ではないのです。今も楽曲に生演奏を導入するなどしており、誰かと共同で音を作ることは新しい発見や化学反応があると思っています。
新作にもSparklerというギタリストに参加してもらっています。当時のバンドはメジャーデビューを夢見たロック好きの若者の集まりだったのですが、時代の変化とともにスタイルを変えていった結果、心がエレクトロニクスや実験的な音に偏ってしまったからだと思います。

○どのようなきっかけで電子音楽を作り始めましたか? そしてどのような音楽が好きだったのでしょう?

●バンド消滅後、独りで音楽を作っていかないといけない状況に迫られ、PCとCubaseを購入しました。
この当時は Squarepusherや Aphex Twin、Autechre(WARP周辺)、Fennesz(editions mego)から、Mogwai やGodspeed You Black Emperor等のポストロックをよく聴いていました。

○この時期から今の楽曲の作り方にシフトしていったわけですね。

●この頃はDAW(Digital Audio Workstation)のシーケンス機能を使ったオーディオ加工に興味があり、データにエフェクトをかけてドローンを作ってました。2004年に初めてのライブした時は、このサウンドにギターノイズ(シューゲイザーサウンド)を重ねるセットでした。

○最初のライブはどのようなシチュエーションだったのでしょうか?

●難波にあるLOSER STORE OSAKAでDJやミュージシャンを集めてイベントをするからと、オーナーのKILLERさんに声をかけて頂いたのがきっかけです。テクノやヒップホップのDJに挟まれる形でノイズを演奏していたので、お客さんはどう聴けば良いのかわからなかったと思います(笑)

【阿木譲との出会い】

○なるほど。ところで、阿木譲との出会いは?いつ、どこで、どんな状況だったのでしょう?

●2011年10月21日の「nu things JAJOUKA」(2010年オープン)でのライブが初の出会いです。その日はYuKi AOE君主催の「-:concep:-Little Garden」というイベントだったと記憶しています。僕の他には主催のAOE君、Seiho君が出演していました。バーカウンター沿いの椅子に座りタバコを吸っている阿木さんのもとへ挨拶に行った事を今も鮮明に覚えています。タバコを吸いながらスタッフの平野さんに「今日は客が少ないなぁ…この子(僕)が一番お客を呼んでいるから、今度イベントする時は呼んであげなさい」と仰っていました。半分は僕の音楽の事には何も触れないんだ…という気持ちと、半分はコレから「nu things」に出れるんだという希望に満ちた気持ちでした。

○初対面の阿木さんは好印象だったんですね(笑)

●でも、その後、2012年10月のイベントまでの1年間nu thingsのイベントに呼んでもらうことありませんでしたが(笑)

○阿木さんは、見た目サングラスをかけているし気さくな感じでもなかったでしょ。

●周りのミュージシャンからは極力関わらない方が良いとアドバイスされていたので、挨拶に伺った時はとても恐る恐るでした(笑)。音楽に対する感想は頂けませんでしたが、物腰の柔らかい喋り方をされる方で、周りが恐る理由がわかりませんでした。ただ…カリスマ性というかオーラのある方だなぁと思いました。

○昔から初対面でもストレートに切り込んでくる人ですからね(笑)

●僕は人見知りするタイプなので、ある意味ありがたかったですね(笑)

○で、その1年後から阿木さんのイベントに参加することになるんですね。

●大阪に住んでいた2012年末から2015年夏頃まで、阿木さんの組まれたイベントに、殆ど呼んでいただいていました。

Isolate Lineが最初に参加した阿木譲企画のイベント
2012年10月27、28日(土、日) EXHIBITION [ GRAPHIC NOTATION ]
1914年にL・ルッソロによって作曲された騒音音楽「都市の目覚め」の、イタリア未来派が始めた図形譜( Graphic Notation )は、70年代後半から80年代中期にかけて音楽雑誌rock magazineをエディトリアルしていた頃から、その記号的な美しさに魅了されよくグラフィックデザイン/レイアウトに応用させてもらった ( そして70年代後期ロンドンでブライアン・イーノにインタビューした時教えてもらったコーネリアス・カーデューのグラフィックスコアなどなど ) 。現在、尖端で表出している電子音楽は、もはや21世紀版現代音楽といったほうが妥当だろう。それらの音楽はmp3などのデータや波形に変換され配信されているものだから、よけいにこうした図表や図柄、テクスト等によって記譜された音の可視化が必要になってくる。
exhibition 「 Graphic Notation 」は、スコアの意味だけではなくヴィジュアル・アートとしての図形譜( Graphic Notation )と、ラップトップの箱の中にデータ化された電子音楽の視覚化 ( 阿木 譲 )
※このイベントはライブをメインに、アーチストが各々つくり出す図形譜、イメージを具現化し展示する新しい展開として開催します。(阿木譲)

○この阿木さんの文章は初めて読むのですが、面白そうですね。音楽のことではなくビジュアルのことが書かれている。このイベントへはIsolate Lineとしてどのように臨んだのですか?

●大量に印刷した写真や文章を切り刻んでコラージュした作品を発表しました。サンプリングやフィールドレコーディングを分解して再構築するという意味をこめた図形譜となります。

○いわゆる現代音楽の作曲家がグラフィック・スコアという技法を使うようになったのは、音符や演奏方法の指示、音の強弱、音の長さ、テンポなどを指示している譜面での制限を打破するためでした。アルノルト・シェーンベルク以降の12音技法からトータル・セリエリスムへと流れる音楽技法の進化過程に出現したものなんです。つまり音楽芸術が常に移ろい行く社会と連動している時代と対峙することが出来なくなった背景がある。だから阿木さんが書いている電子音楽の視覚化とは少し観点が違うだろうと思います。
ただここに書かれている20世紀初頭は、産業革命後工業化が進み、都市の姿が変貌したと同時に、都市生活者が大量に発生した時代でもありました。それに戦争への熱狂と予感があったと思います。「僕ら、詩に速度を与えた」と宣言したルッソロは、都市の活力を模して騒音発生装置を作りますからね。それらはクラッシックの文脈とは違うのですが、デザインやヴィジュアルという美術史的観点からみると、面白い試みだと思います。

●この後、何度かのイベントを重ねて、2013年6月22日の「Minimalu Fluid」終わりの打ち上げでremodel再始動の話を伺いました。発案者はYuki AOE君だったと思います。
当時、僕や徳田順也さんを含めた7人くらいのミュージシャンが選出されていたと記憶しています。(Junya Tokuda 、Yuki AOE、ARMS、Kazuto Yokokura 、NASAA、Taiki Masai 、Isolate Line )
プロジェクト稼働後、徳田さんが抜けARMSが抜けMasai君が音信不通になるなどのトラブルがありました。

○もちろん、remodelというレーベルについては、どのようなコンセプトだったのかも含めてご存知だったのですよね。

●実は予備知識がまったく無かったのです(笑)。『a sign paris-ozaka-kyoko』も後になって知ったぐらいでした。

○Momusの『in samoa』(remodel 06)が2012年8月9日にリリースされたのを最後にremodelは停止されていましたからね。remodelの再始動と聞いて泉森さんはどう思いましたか?

●remodelの名前以上に、同年代で集まったミュージシャンで新しい何かが作れる事に期待感が膨らみましたね。

○何かが生まれるんだと思ったのですね。その後remodelプロジェクトはどうなったのでしょうか?

●2013年7月に阿木さん発案で「galileo galilei」というミュージック・コンクレートに作風を限定したイベントを5日間連続で実施しました。コンセプトは参加ミュージシャンに一任し、共同で考えたオブジェを展示する斬新な試みでした。このイベントの最終日に事故が起き、その後remodelの話は休止となりました。思い起こせば阿木さんのヴィジョンや求めれるものに集まったミュージシャンがついていけなかったの要因だったかと思います。

○「最終日に事故」って何が起きたんですか?

●事故というか・・・衝突といった方が表現は正しいのかもしれません。参加ミュージシャンのプライドとnu thingsオーナーとしての阿木さんの考え方の違いにより口論になりました。

2013年7月29日-8月2日(月-金) GALILEO GALILEI
“E pur si muove”(それでも地球は動く)ー
過去の些細な〝つぶやき〟が世界の今に至るまで拡散している。
本当にその〝つぶやき〟があったのか今となっては事実確認も出来ず、いわば伝説と化した半信半疑のツイートである。
もしかしたら、そのような限りなく薄弱透明なものの集積で世界は成り立っているのではないだろうか。
更にいえば、理の真偽も交錯した小さな断片の集積が作り出す世界を生きているのではないのか。
当エキシビションにおけるインスタレーションは、
「複数の解体されたスピーカー上に設置された銀半球から直接聴き取れる微小な物音が響き合い、プロジェクションされた映像未満の反射光が周囲を照らし淡々と回り続けていく」というもの。
そこに示されるのは、この瞬間の要約であり、大きな物語が紡ぐその先ではない実存に谺(こだま)した未来像である。(NASAA)

○これを読むと確かに面白そうですね。やっぱり、音楽というよりアートのフィールドでの実験というイメージのような感じを受けます。

●そうですね。アートフィールドでの実験であり、参加したミュージシャンにとっては精神的に追い込まれた状態で奏でる実験音楽のようなイベントでした。
オブジェについては、NASAAとAOE君のアイデアが元になっていました。2013年2月の「Biological Speaker」の時に、NASAAがキッチン用のボールを使ったインスタレーションをしたのですが、そのボールとスピーカーを組み合わせるアイデアをAOE君が出し、ARMSがコイン電池で発光するLEDを提供してくれました。それらの断片的なものをNASAAが具体化して基本設計にまとめて作品にしました。NASAA、AOE君、スタッフの平野さんが深夜に作業をし、足りなかった配線の材料調達をYokokura君が行い、雨宮ユキさんが明け方に食事を作ってくれました。関係者が提供できるリソースをフルに投入して作ったイベントでした。また、それが出来たのも阿木さんの無茶振りがきっかけである事は紛れもない事実です。ちなみに、ピンポン球にLED入れるのは阿木さんアイデアでした(笑)

○その時の「複数の解体されたスピーカー」が、今の0G(エンヴァイロメント:ゼロジー[ゼロゲージ]2015年3月オープン)の壁にかかっているインスタレーションになっているのですね。

●その後2014年4月に、阿木さんの推薦により六本木「SuperDeluxe」で行われたRed Bull Music Academy presents 0g night「DO BLOOM IN THE SILENCE」に出演しました。
その際にはCD音源『test I: i.a.m.y.o』が限定販売されました。

○4月19日に行われたトーク/ライブ/DJのことですね。できれば詳しく教えて欲しいです。

●阿木さんが『ロック・マガジン』誌のために、取材した70~80年代の欧米NO WAVEシーンなどを捉えた貴重な映像の上映とトーク、ライブは大阪と東京の電子音楽家6名での演奏されました。その後阿木さんのブリコラージュがあり全3部構成で構成されたイベントでした。(ARMS、Yuri Urano、Isolate Line、MADEGG、Yui ONODERA、Akihiko MATSUMOTO)

六本木[ 0g night: do Bloom in the Silence ]

【阿木譲から受けた影響】

○阿木さんとの出会いが音楽家Isolate Lineに与えた影響や今に繋がることを聞かせてください。

●まずは、今も制作やライブ活動を続けているのは、阿木さんとの出会いが無ければあり得なかったと思います。2012年10月の「graphic notation」に参加するまで、Isolate Line の活動はほぼ休止状態でしたが、イベントに頻繁に呼んでもらえたので新曲を作るようになっていきました。また阿木さんを通じて知った音(modern Love、stroboscopic Artefacts、modal analysis、hidden hawaii、Samurai horo 等)が、今のIsolate Line の音になっているのは間違いありません。

○初めてIsolate Lineの音を聴いたときには、EMPTYSETの音響をイメージしました。
阿木さんが音源を紹介する際は、単に音楽がカッコいいというだけではなく言葉を伴って説明をしていたと思いますが、どのように受け取っていましたか?

● EMPTYSETは強く影響を受けたアーティストの1組です。『Material』を紹介した文章の中では、その制作工程についても触れられており、同様の音響実験がしたくて営業時間外の店を借りて録音した事もありました。

○トーチカから覗いた風景ジャケットの作品ですね。阿木さんのEMPTYSET評も面白いと思います。また泉森さんの音作りの話を通して、阿木さんとの繋がりも良くわかります。ところで、ブログで書かれているのは阿木さんの「音楽評論」ですが、これらについてはどのような感想をお持ちでしょうか。

●新しい音を探す時は阿木さんのブログを読んで、国内外問わずレコードや音源を買い漁っていました。
とにかく知的で芸術性の高い文章を書かれる方で、いつブログを止めるか分からなかった為、記事をコピーして繰り返し読んでいました。

○「いつブログを止めるか分からなかった為」と感じられていたのはどうして? それまでにも経験したのですか?

●阿木さんがよく仰ってたんですよ。「いつブログを止めるか分からないよ。今のうちコピーするならしておきなさい」と(笑)

○なるほど(笑い)。前のものにこだわっていると次のステップにはいけないと公言している人ですからね。
そんな阿木さんと出会って、会話から記憶に残っている具体的なやりとりや言葉はありますか?

●僕のライブは作品同様にストーリーに重点を置いており、メロディラインのある曲や、ライブの構成の中に突然ピアノのインストを入れるなど緩急を意識してた為か、「お前はロマンチストだなぁ」とよく言われてました。
後は、文脈は覚えてないのですが、イベント「Minimalu Fluid」の後に「お前は天才ってやつだな」と珍しく褒めていただいたのを覚えています。確かにミックスのバランスがよく音が分離していて聴きやすかった気がします。
後は音楽を言語化する事と発信する時には連続性が重要だと仰っていました。

○阿木さんのブリコラージュには行ってましたか?
そもそもブリコラージュとは、構造人類学者クロード・レヴィ=ストロースが『野生の思考』で使っていた言葉ですね。未開の民族が、生活に使っている道具を計画性や理念に裏付けられていない使い方をするための方法です。つまりその場の状況に応じて、限られた道具を組み合わせることにより、新しい価値を産み出すような概念です。それらの道具は、通常の使用用途に戻されます。いわば身の丈に合った組み合わせの技術なんです。

●阿木さんがブリコラージュという言葉を使わなかったら、知らなかった言葉ですね(笑)

○そうなんですよね(笑)。0gで知り合った人から「嘉ノ海さん、阿木さんのブリコラージュに行きました?」って聞かれて、えっ何ってなりました(笑)。一瞬レヴィ=ストロースが阿木さんと何の関係があるのかと。でも少し考えたら阿木さんらしいなあと思いました。

●阿波座に住んでいた時に家から徒歩5分の場所に「nu things」があったので、ブリコラージュはよく通ってました。ライブ録音したCD-R音源が来場者に配られることもあり、ブログを読む時のように新しい音欲しさに通い、かけておられる曲について何かと質問をしてました。「君たちのやっている音は古いから、早くここまで来なさい。僕は明日になれば別の場所にいるけど」とよく笑いながら仰っていました。

【晩年の阿木譲について】

○さて結局、阿木さんが生きている間にremodelは再始動しませんでした。
泉森さんはどのように、阿木さんの晩年をどのように見ていましたか?

●2015年7月に仕事の都合で大阪から東京へ転勤となりました。辞令が出た夜に阿木さんに電話して転勤の報告をしました。出られた瞬間、知っていたかのように「東京か…」と言われたのを覚えています。その後は東京へ行く前に0gで集大成のようなイベントをやっていけと言われました。平日の7月28日に行ない、阿木さんと直接言葉を交わしたのは、その日が最後でした。最後は東京でも頑張れよというたわいもない会話でした。

○2015という年は、3月に0gがオープンし、8月にがんの手術をしている。その直前ですね。阿木さんの様子はどうでしたか?

●体調が悪いのか、少し元気がない様子でした。0gに行けばいつもいらっしゃる印象でしたが、イベントに顔を出す回数も減っていたように思います。

○東京に転勤してからはどのよう見ておられたのですか?

●東京へ行ってからは、ブログとTwitterだけが阿木さんからの情報を得る媒体でした。僅か3年ばかりの時を共有した阿木さんでしたが、その当時は本業の仕事も忙しく、また東京という新天地に移った事もあり、阿木さんの強制力から解放された気がしていました。その3年後にまさか他界されるとは、この頃は想像も付きませんでした。いずれは大阪に戻ると思っていたので、大きくなった姿を見せようと思って日々を過ごしていました。

○泉森さんにとっての0Gという場所性については、どのように思われていますか?
つまりライブとは?音楽を共有する空間について聞かせてください。

●あらゆる音源が聴くものではなく体感するものだと考えています。阿木さんという存在や0gという場所が音楽家の感性を磨きあげ、ライブしフィードバックを受けて音を磨き、またライブするというサイクルが回っていたと思います。阿木さんはもうこの世にいらっしゃいませんが0gという場所は僕にとって帰るべきホームだと思っています。今も0gで活躍している仲間を見て羨ましく感じています。

○特にIsolate Lineの作り出す音響は、それを体験するには、それなりの音響機材が必要ですよね。

●表現の本質はライブにあり、音源という枠の中ではどうしても越えれないものを感じます。
あらゆる感情を同時に表現する事が僕にとっての究極であり、ソレはライブ以外では表現できないものだと思っています。

○ライブとはなんでしょう。聴いている者が同じ空間を共有する。デヴィッド・チュードアがライブ・エレクトロニクスとは作曲の一形態だといいましたが、新しい音楽空間ということでしょうか?

●新しい音楽空間なのかもしれませんね。演奏者と聴いている者が同じ空間を共有し、その場の空気や感覚をリアルタイムに音へフィードバックする。それがライブなんだと思います。

【Isolate Lineについて】

○最後に2つ質問をさせてください。まず今後の活動のプランを教えてください。

●2タイトル発表後は、自主レーベルを発足し、そこからの音源リリースを考えています。2タイトルとは異なるコンセプトの実験性に重きを置いたモジュラーシンセのみの音源を11月に発表しようとおもっています。その後は、Isolate Line以外の自身のユニットやプロデュースしているアーティストの音源をリリースするつもりです。また次のアルバムは「死と孤独」をテーマにしたアルバムを作りたいと考えています。

○もうひとつは、他のミュージシャンにも聞いた質問です。
新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対して、どのような感想を持っていますか?
生きている間にこのような時代(世界が民族や言語を超えて同時に同じ惨禍にある)と対峙することは、幸運にも(失礼)そうあることではありません。

●少し宗教じみた考えかもしれませんが、神に近づこうとしたバベルの民が言葉を乱されて世界中に拡散したのち、人類は再びネットの力を使って一つになろうとしてきました。(ネットは地球を張り巡らすように地球という一つの生命体に近づこうとしていた)ソレに対する、神からの新たな試練のように考えています。人は地上から離れらないように、コミュニケーションの本質は直接の対話にあると考えています。ソレを妨げるウィルスは人類への究極の試練であり挑戦なんだと思います。

○面白い視点だと思います。「人は地上から離れらないように」というのは、最新作『2021: A space odyssey』とも共通していますね。重力がない状態では、確実に意識変化も起きると思います。地上でも変性意識状態は起きますからね。ウイルスは40億年前に生命が誕生したときから、生命に作用しながら変異を繰り返してきたのでしょう。

●そうですね。生命誕生から繰り返されてきた事なんだと思います。

○僕が知らなかった、晩年の阿木さんに少し触れた気がしました。いきなりの質問にも答えていただきありがとうございました。是非近いうちにライブでお会いしましょう。楽しみにしております。

●ありがとうございます。是非ライブでお会いしましょう。

【改めて阿木譲のこと・・・インタビューを終わって】

○泉森さんにとって阿木譲とはどんな人物だったのか。

●とにかく優しい人でした。そして高い理想を持ちソレを実現する為の覚悟を求める方でした。自分がどうなりたいのか、何をしたいのか、実現する為には何をすれば良いのか。阿木さんのいう事が全てでは無かったとは思いますが、少なくとも何の変化もない日々の中で自己満足を繰り返す事に比べると、確かな方法論の一つを示してくれていたのだと思います。
強制力とスピード感が半端ないので理解できていても付いていけるかは別ですが(笑)

【Isolate Lineの仕事】

○2020年5月リリースのremodel 07 V.A.『a sign 2』の「Belsomra」「Abilify」について

●BelsomraとAbilifyは両曲ともモジュラーシンセのみを使用して作った音源です。何でも自由に作れるソフトウェアから、ある意味の足枷(モジュラーシンセの操作性への不慣れ)がある状態で、どこまで、Isolate Line のサウンドが作れるかの挑戦的な曲となっています。因みに2曲とも、僕が心療内科でもらっている薬の名前です。精神的に追い込まれている状況下でモジュラーシンセでの実験により産まれました。

○2021年10月15日リリースのremodel XX 『INTERSTELLAR』、shrine.jp SRSW 493 『2021: A space odyssey』について

●『INTERSTELLAR』と『2021:A space odyssey』はテーマを共にする連作となります。前編後編の関係です。メインコンセプトはテクノロジー(実験)とタイムレス(永続)です。架空のSF映画のサウンドトラックをテーマとし、楽曲が織りなすストーリーを構成しており、アルバムの中心となるGravityシリーズは、『INTERSTELLAR』に収録のGravity_zeroと合わせて4編で構成し起承転結を表現しています。それぞれの楽曲は偶然性からの破壊/再構築で制作。
偶然性=ランダムシーケンスやモジュラーシンセ、オーディオ加工による音響実験を試みています。そして実験で得られた音に情景や感情を織り込み楽曲へ昇華しています。

【Isolate Lineへの個人的な質問】

○好きな作家や作品について教えてください。最近読んだ本は?

●実はあまり本を読みません…。おすすめの本があれば教えていただきたいくらいです。映画は好きでよく見るのですが…。

○じゃあ(笑)、最近観た中で一番良かった映画は?またベスト5を教えてください(笑)

● Ari Aster監督の『Mid summer』が最近見た映画では1番良かったですね。カルトをテーマにしたホラーで、舞台が白夜のスウェーデンということもあり視覚的には明るいのですが、それが逆に恐怖を助長している映画です。
これまで見た映画で言うと…ベスト5を絞るのが難しいのですがSFを中心に、Christopher Nolan監督の『Interstellar』『Inseption』、Denis Villeneuve監督の『Arrival』『Blade Runner 2049』、Darren Aronofsky監督の『π』等はサウンドトラック含めて好きですね。

○インタビューを終わって
「阿木譲の光と影」というテーマで、泉森さんの話を聞きたかったのだが、ミュージシャンからリスペクトされている阿木さん像が浮かび上がってきた。
阿木さんは、泉森さんが大阪から東京へと居を移した年にがんの手術し、その後全身にがんが転移して3年後に死去した。阿木さんが残したものは金銭を含め何もなかったが、今でも彼らの指標の一部になっていることは間違いなさそうである。つまり阿木さんとの出会いやイベントなどを通じて共同作業をすることにより化学反応が起き、その受肉した魂が変化しながら生き続けているということなのだろう。
そもそも音は生まれたら空気を通して振動しはじめるが、その瞬間から減衰していく。しかし残響を通して、記憶という闇の中で音は貼りついてしまい、その音は言葉への昇華される。阿木さんがいったように言葉は記号(シーニュ)でしかないのだが、創作活動という労働を通して言葉は、魂へと再生産されるのかも知れない。

2012/11/30-12/2 (fri-sun)
Sound Art – A Biological Speaker –
11/30 (fri) 19:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
LIVE:
Takanori
tape libido

Bricolage:
AGI Yuzuru

12/a1 (sat) 17:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
LIVE:
Yuki Aoe
DEATH FLAMINGO into the memai
Masataka Nagano + kazuto yokokura
[yakan]
masaru saito

Bricolage:
AGI Yuzuru

Visual:
Paravora

12/2 (sun) 17:00-22:00 2000yen(inc 1drink)
LIVE:
PSYCHOLONICA
Kyohei Hayashi
Isolate Line

Bricolage:
AGI Yuzuru
Visual:
イケグチタカヨシ

ーー

2013/1/25&26 (fri&sat)
Chaos Theory
25 (fri) 19:00-22:00 2000yen(inc 1drink)
LIVE: Isolateline / ネオジオ.シンプル
Installation: 森山雅夫

26 (sat) 18:30-23:00 2000yen(inc 1drink))
LIVE: Kezzardrix / Yuki Aoe / kazuto yokokura / Takanori / takecha
Installation: 森山雅夫

「人間は、たとえ物理現象を完全に解明したとしても、初期値を完全に観測できないので、決して未来を予測できない」という結論で大きな衝撃を与えた「カオス理論」。
ラップトップでプログラムされた音楽や演奏でも、条件や状況が変わればすべてが同じように再生されることはない。
この2つが不思議と符合するではないか。

カオス理論 参考url: http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kaosu.html

ーー

2013/2/22-24 (fri-sun)
Biological Speaker
昨年11/30-12/2にサウンドアートと音響空間デザインというコンセプトの下、音楽を聴く環境そのものを100台以上のスピーカーをフロアの床に配置してアーティストの演奏する音響を空気の振動としてバイオロジカルに聴き取る空間をnu thingsに現出させた[ Biological Speaker ]。
その第2回目の開催が早くも決定!

22 (fri) 19:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
bricolage:
AGI Yuzuru
DJ:
Yuki Aoe
Visual:
Paravora

23 (sat) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
LIVE:
masaru saito
Unyo303
Isolate Line
kazuto yokokura
Fumiaki Nagasawa
Pineart
hideo nasasako

24 (sun) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
diatribes(from Swiss)
NASAA
∠yuLLiPPe
Taiki Masai

ーーー

2013/4/27&28 (sat&sun) open 18:00 / start 18:30 2000yen(inc 1drink)
Minimal Fluid

27 (sat)
LIVE:
Unyo303
masaru saito
masataka nagano&kazuto yokokura
Yuki Aoe

VISUAL:
Paravora

28 (sun)
LIVE:
Isolate Line
Taiki Masai
junya tokuda
NASAA
MINE
Takecha

ーーー

2013/6/22 (sat) 17:00-23:00 2000yen(inc 1drink+先着30名様にWhereabouts Recordsのレーベルサンプラーをプレゼント)
Minimal Fluid

LIVE:
Yui Onodera
Yuki Aoe
Taiki Masai
NASAA
junya tokuda
kazuto yokokura
Isolate Line

ーーー

2013/7/29-8/2 (mon-fri) 19:00-23:00 1000yen(no drink)
Galileo Galilei
ACT: Isolate Line / Yuki Aoe / NASAA / Taiki Masai / kazuto yokokura / AGI Yuzuru

ーーー

2013/8/30,31,9/1 (fri,sat,sun)
Rhizomatic Structures

30 (fri) 19:30-23:00 2000yen(inc 1drink)
ACT: Isolate Line / ARMS/ MINE / and more…

31 (sat) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
ACT: ロマンチカ學校 / kazuto yokokura / ARMS / and more…

9/1 (sun) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
ACT: ARMS / masaru saito / ∠yuLLiPPe / DJ 101 / and more…

ーーー

2013/10/19&20 (sat&sun) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
shin akiyama dmx sculpture: compositions for “nu things“ – Minimal Fluid –
19 (sat)
dmx sculpture: shin akiyama
LIVE: Isolate Line / ARMS / masaru saito / Route09
bricolage: AGI Yuzuru

20 (sun)
dmx sculpture: shin akiyama
LIVE:∠yuLLiPPe / S-Noi / Unyo303 / [yakan]
bricolage: AGI Yuzuru

ーーー

2013/12/14 (sat) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
incidences
LIVE: Ryo Murakami / ARMS / junya tokuda / Isolate Line / masaru saito / Yuki Aoe

ーーー

2013/12/29 (sun) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
Minimal Fluid
LIVE: Isolate Line / [yakan] / ロマンチカ學校 / SAYONARA NEURON / Tree And Water / methodctrl.

泉森 宏泰 -Hiroyasu Izumori-

『阿木譲の光と影」シリーズ 第二弾 Junya Tokudaインタビュー

『阿木譲の光と影」シリーズ 第二弾 Junya Tokudaインタビュー
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

『やがて映像となる音楽』

第二弾は、Vanity Recordsの中でも一番好きだったToleranceの音源を再構築したJunya Tokuda。2020年の初旬に0gで聴いたライブ演奏が印象に残っている。その時に感じたことをこのように言語化した。「イングマール・ベルイマンの『冬の光』を想起させる映像的音楽。炎の木が弾ける。実の中の音の風、風の中の音。ストイックとエキセントリックは、ストア派(禁欲)とエビキュロスのアタラクシアも二律背反。艶っぽさの逆のヘドニズム=快楽主義音楽」
徳田君とは2019年阿木譲1周忌イベントの際に、林賢太郎から紹介されて挨拶程度はしているのだが、まともな会話はしていない。今回はじめて阿木さんのことや彼自身の音楽に対する考えなどについて話を聞いた。
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Junya Tokuda (徳田 順也)

電子音楽家。
電子音楽イベント『Line』を不定期に開催。
阿木譲プロデュース『a sign – paris ozaka kyoto -』に参加。
remodelのV.A.『a sign 2』に参加した後、アルバム『Anemic Cinema』、Toleranceのリメイク作品『VANITY RE – MAKE / RE – MODEL Vol . 1』をリリース。
エクスペリメンタル/エレクトロニカの老舗レーベルshrine.jp、電子音楽レーベルLongLongLabel等からアルバム、EPをリリース。
「ポストロックとしての、スロウモーション・テクノからウィッチまで、新しい時代のエレクトロニカを表現する。- 阿木譲」

http://linesound.com/junyatokuda
https://www.instagram.com/junyatokuda/
https://twitter.com/junyatokuda
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●徳田順也
○嘉ノ海幹彦

【音楽との出会い】

○徳田君とは今回こんな機会をもらって話をするのは初めてですね。音源は前から関心をもって聴いていました。また単行本『Vanity Records』の付録にもToleranceのリメイク(再構築)した作品を提供しているよね。君とも関係の深かった阿木譲のことについて色々話を聞きたいのでよろしくお願いします。思い出してくださいね(笑)。

●はい、よろしくお願いします。

○そもそもJunya Tokudaと音楽の出会いはいつ頃?
どのような音楽が好きだったのか?ジャンルとかミュージシャンとかレーベルとか。

●普通すぎて申し訳ないのですが、高校の時にギターを始めたのがきっかけです。それまでは絵や漫画を描いたりする子供だったんですが、人前で何か表現する手段として安易に思いついたんだと思います。

○ギターか。ま、手っ取り早いよね(笑)。

●ジミー・ペイジを真似てレスポールでハードロックとかを弾いてたんですが、聴いていた音楽はエイフェックス・ツインとかYMOなど主に電子音楽でした。そういったものを聴きながらギターを担いでスタジオに行って、という感じです。だから聴いていた音楽の話をできる人が周りにあまりいませんでした。

○「電子音楽」という言葉が出てきたけど、いつ頃どのようなきっかけで作り始めましたか?

●学生時代にバンド活動をする傍らYAMAHAのQY700を手に入れて、坂本龍一やYMOの真似事のような曲を作っていました。他にもKORGの音源モジュールとかRolandのサンプラーも使ってましたが、データはほぼ残ってないです。オービタルやシステム7などのテクノも聴いてましたが、自分で作る音楽としてはあまりクラブ・ミュージックは意識してませんでした。

○やっぱりハードウエアの話が出てきますね。今ならPCを使って色々できると思うけど、僕らが知っていた、例えば1978年のKORGのMS-20シンセサイザーやSQ-10シーケンサーの機能から比較すると相当高度なことが出来るようになっているんだろうな。

●演奏も録音技術もプロとは比較にならなかったんですが、機材のお陰でそれらしい音が出せていたという感じです。ところで、当時Vanity Recordsのアーティストと機材の話はされましたか?Toleranceとか、自宅で録音してたのかな。

○もちろん宅録ですね。今となってはあまり明確な記憶ではないんだけど、話は聞きました(笑)。一番熱心だったのは新沼好文君(SYMPATHY NERVOUS)ですね。『ロック・マガジン』誌上で「自らの肉体の外延としての機械音楽がシステムとして機能し始めている」と書いたくらいなんだ。UCG(Universal Character Generator)と名付けた自作のエレクトロニクスをたくさん作っていたし、その後も作り続けていた。残念ながら3.11東日本大震災で家も機材ごと津波で流されてしまった。
丹下順子さん(Tolerance)とは、機材について話していない。ただ、自分のことを「感性機械」でありたいといっていた。つまりエレクトロニクス(機材)も肉声の使い方もそうだけど、全く同等に扱っていて、溶け合うというか融合して音作りを実験的に試行していた。だから新しい音源が出来たら聴いて欲しいって『ロック・マガジン』に送ってきていた。そのテープが一部残っていて2020年にremodelから『Demos』としてリリースされただよね。
あと機材というと藤本由紀夫さん(NORMAL BRAIN)だ。彼は当時大阪芸術大学で音響を教えていたので専門家だった。Vanityの頃は、MS-20とSQ-10の音響機材やカセットボーイなどの録音機材など、新しくて安価で簡易なものが出始めていてね。藤本さんは、それらの機材をすぐに使っていた。それらが音楽に与える影響について一番現場で実感していたミュージシャンだった。つまり誰でも作品を作れる時代になったということだと思う。
話が長くなったけど(笑)。

●楽曲だけでなく、機材との関係性についてもそうやって言語化するのは大事かもしれないですね。僕ももう少し考えてみようと思います。

○ところで、徳田君は、0gで演奏しているようなライブは、その頃から始めていたんでしょうか?

●自主制作映画や劇団の音楽制作をやってましたが、ライブをするようになるのは少し後です。縁あってクラブイベントにライブアクトで呼んでもらえるようになって、初めの頃はPCではなくライブ専用のハードウェアを使っていましたが、ライブの都度データを移行するのが面倒になって。そのうち制作もライブも基本的にほぼMac1台で完結するようになりました。

○やっぱりPCの方向になるんですね。

●阿木さんと出会ってからも再三「ハードウェアでライブしろ」と言われていたのですが、結局ずっとMacメインでやっています。

【阿木譲との出会い】

○やっと阿木さんの話が出てきましたね(笑)。いつ、どこで、どんなタイミングで出会いましたか。

●2010年の秋頃、当時心斎橋のアメリカ村にあった阿木さんのお店、「nu things JAJOUKA」のイベントに初めて出演した時です。

○復元して公開されている阿木さんのブログによると、「nu things JAJOUKA」は2010年4月にオープンしているので、ちょうどその直後ですね。9月7日に「WIR SIND SOHNE VON STOCKHAUSEN」というイベントの告知があり、Junya Tokudaの記載があります。

●イベントには、確かMySpaceにアップしていた音源を当時からスタッフだった現environment 0gの平野隼也さんが聴いて、声を掛けてもらったと記憶しています。リハーサルが終わって平野さんから阿木さんを紹介され、「よろしく」と言われて握手しました。

○阿木さんと初めて会ったときの印象は?どう感じましたか?

●当時阿木譲という人は知らなかったのですが、少し怖いと感じました。初対面の人に対して人生で唯一の体験です。そのときの服装も全身黒でサングラスという皆が知ってる阿木さんの格好で、普段生活してて余り遭遇しないタイプの人ですし。

○そうですよね。黒にサングラスは僕が出会った頃から変わりないです(笑)。それに初対面でも、いきなり本質的な問いかけをしてくるし(笑)。

●イベントが終わってから、「君はこれからどうなりたいんだ?」と声を掛けられました。たぶん「もっとクオリティを高めながら、今やってることを続けていきたいと思います」みたいなことを返事したと思います。

○徳田君が阿木さんと出会った翌年の2011年2月16日にリリースされたremodel 01『a sign paris – ozaka – kyoto』に参加していますが、その経緯を教えてください。remodelというレーベルは2010年に阿木さんがスタジオワープの中村泰之さんと出会い、資金提供も受けてスタートしました。

●当時同じようにnu thingsのイベントに出演していたアーティスト何組かと一緒に声を掛けてもらいました。参加アーティストは阿木さんが選んだと思いますが、自分に声が掛かるのは意外だと思いました。阿木さんがDJで掛けていた曲やブログで紹介していたものと、自分の音楽とは少し世界観が異なると感じていたので。

○阿木さんの世界観をどのように感じていましたか? 本人と話したり、ブログは読んだりしていたと思うんだけど。自分との違いは?

●例えば淡いテクスチャで凶暴性を表現するとか、フィジカルな音と主題には本来ギャップがあるものだとずっと考えていたんですが、阿木さんが掛ていた音楽から、緊張感や深淵みたいなものを真正面から表現する方が実は難しいし、上手くいったときの驚きが大きいと気づいて。それ以降、新たな世界観が上乗せされたような感じがします。あと「根が明るいから暗い音楽ができる」というようなことも言っていた気がします。僕とは逆なんですが(笑)。

○なるほど。阿木さんとの出会いがJunya Tokudaにとって大きな転機になったんだね。で、このアルバムで表現したかったものとはどういうものだったの?

●あまり実験的なことはせずに、最大限できることをどのように組み合わせるかを考えました。幾つか曲を阿木さんに提出することになっていましたが、いろいろ考えて作った曲はNGになって、比較的シンプルに作ったものが採用された感じがします。アルバムには「616」「603」の2曲で参加していますが、これは元々DAW(Digital Audio Workstation)のプロジェクト名でした。あとで正式に曲名を考えるつもりだったんですが、阿木さんの判断でそのままクレジットされています。「616」は阿木さんのDJで知ったGold Pandaの影響を受けて作った覚えがあります。

○Junya Tokudaの新譜『Anemic Cinema』でも思うことなんだけど、曲名に特徴があると感じている。
曲名はいつ考えるの?

●曲名は後付けです。制作している時期に読んでいる本や観た映画などに影響されて、結果的にそれらのサウンドトラックのようなものが出来上がるんですが、そのまま曲名にするわけにもいかないんで、イメージが近い言葉を後で探してくるといった感じです。曲名は一度つけてしまうとその後一生、自分の作品では同じものが使えないと思っていて。だから二度と使うことがないような単語を敢えて選ぶようにしています。

【阿木譲との現場】

○その後阿木さんとはどのような活動をしましたか?

●2010年末から2011年頭にかけては前述の「a sign」の音源制作と関連イベントがあって、その後もコンスタントにお店が主催するイベントに呼んでもらいました。

○ライブ主体になったんですね。その後は?

●2013年頃、再びnu thingsの周辺で活動するアーティストを何組か集めて、remodel名義で音源リリースやイベントを行っていくプロジェクトを立ち上げるということで声を掛けてもらいました。

○でも結果はリリースされていないので、実現はしていないよね。

●その頃もそうでしたが、阿木さんは拘りが強い人なので熱が入ると振り回されるというか、大変だと感じました。各アーティストのイメージやライブの手法などに統一感を持たせるようなコンセプトとか、そういったことに僕が息苦しさを感じてしまって。「このプロジェクトは自分に向かない気がするので辞めます」といったことをメーリングリストに送信して、真っ先に僕が抜けてしまいました。まもなくそのプロジェクトは終了したのですが。

○具体的に何があったの?その段階では資金的な問題もあったかもしれないけど、新しい音楽(阿木さんの尖端音楽)の影響(アイデア、世界観、手法)を受けながら、広義の意味での編集をしていくのが阿木さんの真骨頂だと思っているんだけど、なぜ出来なかったんだろう。remodelプロジェクトも継続しないと大きな動きになっていかないし、その後の展開もないと本人が一番よくわかっていたと思うんだけど、どうだったの?徳田君はどう捉えていた?

●僕個人のことで言うと少し行き詰まっていて、プロジェクトの世界観を踏襲した上での自分の表現をイメージすることができなかったのだと思います。たぶん今だったらやっている気がしますが。先輩のアーティストに「抜けようと思ってます」と話したときは、勿体ないからやるべきだと言われましたけど。今思えば、あれは阿木さんにとって大事な仕事だったんだと思います。

○たしかにremodelとして何とか継続したいという気持ちがあっただろうね。でも想像でしかないけど、阿木さんの内心では葛藤があったのかも知れない。自分自身の感性と実際の音楽を作成する現場とのズレ、もちろん人間関係もあったのかも知れないが。
そのプロジェクトが終了した後、何か動きはあったの?

●その後は阿木さんがアーティストを集めてプロジェクトを立ち上げることは無かったと思います。
当時のVanity Records以降も、そういった動きは無かったんでしょうか。

○僕自身はVanity Recordsの終盤には『ロック・マガジン』を離れているので分からないんだけど、最後はカセット・リリースでしょ。しかもセットで。先ほど話したけど、時代的に誰でも自ら音源を制作してリリースができるようになってきたというのが大きいと思う。カセットにしてもダブル・カセット・レコーダーが発売され複製も簡単できる。連動していた『ロック・マガジン』も田中浩一が中心となって月刊誌での展開となるしね。関西を中心にバンドの記事が多くなった。バンドが中心になる時代かな。だから新しいミュージシャンを発掘するというVanity Records当初の役割が終わったと思う。

●バンドが中心になる時代を経由したから、僕が音楽を始めることになったのかもしれません。

○音楽を個人で作ることとバンドのように共同で作ることは、根本的に違う作業だと思うけどね。で、remodelに話を戻すね(笑)。
皮肉な結果かもしれないけど、阿木さんが亡くなってからremodelは復活していて動きとしても継続してますね。平野君や中村さんの強い思いはもちろんなんだけど。

●0gでのイベントもそうですが、こうやって継続的に声を掛けてもらえるのはありがたいです。もっと頑張らないと、と思います。

○さて、阿木さんとの出会いが音楽家Junya Tokudaに与えた影響は?今に繋がることとは?

●前述のプロジェクトような出来事もありましたが、阿木さんという人に対して特に嫌悪感を抱くということはありませんでした。おそらく阿木さんも同じで、普通にイベントで会えば挨拶して、声を掛けてもらったりしました。また、nu thingsにしろ0gにしろ僕が参加するイベントには、だいたい出番のタイミングくらいに来てくれたりして。最後の数年間はそんなことも無くなってしまいましたが。。

○いろいろ具体的にアドバイスをもらったの?

●さっきの機材の話もそうですし、ライブの内容によって「だいぶ掴んできたじゃないか」とか、良くない意味で「相変わらずだな」とかを一言。全く感想を言わずに帰ることもあります。

○都度アドバイスをしてくれていたわけじゃないの?

●僕自身があまり人と音楽の話をしないタイプなので、それに合わせてコミュニケーションをとってくれたのかもしれません。他の人とは結構、長話をしてますからね。

○阿木さんと話して、それで聴いていた音楽とか変化はあった?

●阿木さんと出会う以前はジャンル問わず節操なく聴いていて、作る音楽にも同じくどこか節操のない感じがあったと思います。

○でもジャンルを問わず節操もなく聴くのはいいことだと思いますよ。僕なんかは全く節操ないです(笑)。

●新しい音楽を見つけるときには阿木さんのブログが手掛かりになりました。あと阿木さんが「これは良い」とか「これはダメ」と言う音楽もだんだん判別がついたりとか。

○「良い」とか「ダメ」とはって何だろう。どんな基準があるのだろう。そこから考えることにより音楽を超えて新しい世界と繋がり、理解が深まると思うんだけど。

●タイミングによっても変わる気がするし、言葉にするのは難しいですが、純粋に楽曲として上手くいっているか、そうでないかが大きいと思います。バランスとかグリッドの位置などほんの紙一重のチューニング具合とか。あと「新しい音楽を聴かないとダメだ」とか「でも文脈を捉える事も大事だ」とか、会話を通して音楽の聴き方だけでなく制作する上でも影響を受けた感じがあります。

○文脈って自分の体験に依存するよね。音楽体験は論理的な展開じゃないし、いきなり様々な方向に飛んだり、天や地から自分の感性や肉体に飛び込んでくることもあるよね。

【尖端音楽の伝道者としての阿木譲について】

○阿木の音楽評論についての感想を聞きたい。

●ブログは隅々まで熟読するわけではないですが、紹介されている音楽をチェックするだけでなく、文章の言い回しも確認していました。

○君が引っかかった言葉とは?さっきの飛び込んでくるものは言葉も一緒なんだけど、現象を言葉化することが重要なんだと思っている。もちろん言葉だけじゃダメなんだけどね(笑)。

●僕はライナーノーツや音楽評論などは普段あまり読まないのですが、阿木さんの文章は評論家というよりアーティストの表現に近い印象があって。意味というより、イメージで言葉を選択しているような。丁寧語と常体の使い分けがバラバラだとか、体言止めが多いとか。歌詞みたいな印象です。個人的には良い歌詞って、それだけで意味を持っていなくて音楽と歌声が乗っかって初めて意味が伝わるようなものだと思っているんですが、それに近い気がします。

○僕も昔から、ライナーノーツは煩わしいと思っていた。いつ誰がどこで作ったとか、バンドのメンバーはどうとか。だからレヴューでは、なるべく音楽と関係のないことを書くようにしていたんだよね。

●嘉ノ海さんが書かれたものについて、阿木さんから何か言われることはありましたか?ダメ出しとか。

○僕が書いたり、記事にするために企画をしたり、インタビューする相手を選んだりする時には、話はするんだけど、一度もダメっていわれた事ないんだよね(笑)。今考えてみれば変だよね、阿木編集長なんだから(笑)。ダメどころか面白がっていた(笑)。個人としては、時代や社会に対する見方や世界観などに新しい音楽を応用して俯瞰することや、考えていることを展開したり解体したりすることに楽しみを感じながら『ロック・マガジン』を編集していた。
音楽は音楽芸術としてのみ存在しているわけではないということをいつも感じていたので、ライナーノーツは本当に煩わしかった。阿木さんも結構たくさんライナーノーツ書いてるけどね(笑)。

●なるほど。『ロック・マガジン』の仕事、興味あるなあ。あと昔阿木さんが出版した『ロック・エンド』も、以前古本で入手して読んだんですが、面白かったです。

○『ロック・エンド』(1979年)って阿木さんらしいタイトルだよね。これは当時付き合いの合った工作舎から出版した本だけど、編集過程で少し関わったので記憶にあります。読んでたんだね。古い本なのでちょっとビックリしました(笑)。感想を聞かせてもらえますか?

●さっき述べた、阿木さんの文章で個人的に引っかかる要素が多い印象です。序盤の章のニューヨークの街の描写とか、そこで異邦人としての自分を省みるところとか。ブログもそうですけど、なかなか音楽の話が出てこないところとか。ロックの終焉についての内容だったと思いますが、どこか今の時代に置き換えて読んでもそのまま当てはまるようで、ちょっと愕然とした記憶があります。

○阿木さんの言葉は、僕もそうだけど人の人生に影響を与えるんだよね。徳田君が阿木さんとの会話から記憶に残っている具体的な言葉があれば教えて欲しい。

●例えば、繊細なようでいい加減だとか性格的な指摘だったり、これは当たってるんですが(笑)。音楽については「曲はリズムから作れ」とか「音楽は構造が大事だ」とかちょっとした一言もヒントになりました。あと「自分の音楽や表現について言語化することが重要だ」とか。

○ある意味、当たり前か(笑)。音楽を作っている人にはいつも自分の音楽について言語化して欲しいと思いますね。徳田君もいろいろ言われたね(笑)。

●nu thingsや0gで活動するアーティストに対しての思い入れが強く、どうやったら良くなるか等を真剣に考えてくれると同時に、自分の思う通りに動いて欲しい気持ちも強かったと思います。

○具体的には?

●突然メールでアーティストの楽曲のリンクを幾つか送ってきて、その時はNosaj Thingとかが含まれていたんですが、「これから君はこういう感じでやりなさい」みたいなことを言ってきたり。ちなみにそれは試してみて、結局しっくりこなかったんですが。

○0gで不定期で行われていた阿木さんのブリコラージュには行ってましたか?またどのように感じてましたか?

●毎回ではないですが、ときどき行ってました。本人も「地獄に落としてやる」と言う表現をたまに使っていたように、ブログで紹介している音源同様尖った音が多いのですが、「この曲何ですか」とブースに近づくとジャケットを手渡してくれたりしました。Modern LoveからリリースされているRainer Veilの「Strangers」という叙情的な曲があって、僕も音楽を作る上で影響を受けているのですが、これが一時、阿木さんのブリコラージュで毎回プレイされていて。

○Modern Loveは阿木さんお気に入りのレーベルでした。ジャケットデザインも含め独自の世界観があるよね。昨年Covid-19チャリティのためにLUCY RAILTON演奏のオリヴィエ・メシアンの曲が鎮魂のためにリリースされている。
「Strangers」は阿木さんにとって思い入れがある曲なんだね。なんとなくわかるような気がする。0gに似合っていると思う。

●ブリコラージュの中でその曲だけ異質な印象で、でも毎回プレイするということは本当はこういうのが好きなんだなと思ってたんですが。今思うと、僕が来ているのが分かっていて掛けていたような気もします。「お前は、これだぞ」という意味で。そういうふうに他の人たちに対しても選曲していたんだろうと思います。阿木さんが定期的にブリコラージュを継続してきた理由もそこにある感じがします。

【晩年の阿木譲について】

○remodelは結局2012年で停止していて、阿木さんが生きている間にリリースされなかった。
徳田君はどのように、阿木さんのことを見ていましたか?

●初めのremodelのコンピレーション『a sign paris – ozaka – kyoto』の制作及び関連イベント然り、またその後のプロジェクトやイベントなど沢山機会をもらいましたが、十分に活かしきれなかったと感じます。こちらから放棄してしまったものもありましたし。『a sign』以降、阿木さんの下で形になったものを残せなかったのが残念です。作品についての指摘をはっきり言ってくれる人が他にあまりいなかったので。実際『a sign』の制作の際は、nu thingsに機材を持ち込んで、阿木さんの指示を受けながら音源を修正する作業がありました。「このキックはもっと大きく」とか「ストリングスの音をもっとチープなシンセの音に」とか指示が具体的で。その通りにしたら、確かに良くなりました。アルバム最後の曲の「603」の終わりの3つのクリック音は、その場の阿木さんの思いつきで「これでアルバムが終わったことになるんだ」と。即席で追加して、「うん、こんなもんだろ」という感じで完成しました。そんなふうに他の作品も作れたら良かったな、と思います。

○徳田君にとっての0gという場所性について、聞きたいんだけど。ライブをするとは?音楽を共有する空間とは?場所って何かを共有(集合)する空間でしょ。

●前身のnu thingsも本町、心斎橋、阿波座と場所が変わるたびに印象も少しずつ変わったのですが、0gについてはスペースの雰囲気も相まって部室みたいな感じです。これまでアーティストとして育てて貰ったと感じているので、ここで良いイベントを作っていかないととは思ってるのですが、あまり自分では企画できてなくて。曲の制作の際には基本的にライブを考慮せずに作っているので、出演予定が入るたびに慌ててしまいます。お客さんに「来てよかった」と感じてもらうのがライブの目的であり、そのために純粋に良い曲を用意していくことが自分の仕事だと思っています。

【これからのJunya Tokuda】

○じゃ、最後に2つ質問をさせてください。
今後の活動のプランを教えてください。

●アルバムを年に1枚、合間にEPも少しずつといったペースで続けられたらと思います。他のアーティストとの共作もできれば。特に生ドラムとラップトップの組み合わせでライブをやりたいとずっと前から思ってるんですが、これは機会があれば。ギターも最近また練習し始めたし、映像系のソフトも継続して触っています。いずれにせよ手はずっと動かしていこうと思います。

○もうひとつは、他のミュージシャンにも聞いた質問です。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対して、どのような感想を持っていますか?

●新型コロナの件に限らず、今までも自分なりに世の中で起こっていることに影響されつつ、作品に反映してきた意識はあります。少なくとも創作する上では、実際に変わらないとしてもそれで世界を変えるくらいの意識が必要だと思っていて。周りでいろんな事が起こっていくたび、テーマや自分なりの世界の変え方も調整しながら、今後も続けていくことになるのかな、と思います。

○じゃそろそろ終わろう。様々な質問に答えてくれてありがとう。また0gでお会いしましょう。新しい作品も楽しみにしています。

●はい、是非!こちらこそ、ありがとうございました。

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【改めて阿木譲のこと・・・インタビューを終わって】

○阿木譲とはどんな人物だったのか。

●約8年間お世話になったんですが、前述のプロデュース企画の件なども然り、いろいろ大変なこともありました。一時期、出演する他のイベントについて逐一チェックされたり、Twitterも監視されたり(笑)。あと阿木さんの元気な時はお店でのイベント終了後に、出演者と近場のファミレスで朝方近くまで反省会とか、よくありました。熱が入るとなかなか帰してくれない。でもそういう時に大事な話が聞けたりもしました。僕の知っている阿木さん像はあるのですが、他の人のそれとは異なっているかもしれません。

【Junya Tokudaの仕事】

○2020年5月リリースのremodel 07 V.A.『a sign 2』について

●「MirroredImage」と「NothingIsStill」の2曲で参加しています。曲については上手くいった箇所と気になる箇所があるんですが、少し時間を空けると客観的になって聴こえ方が変わるんで、また印象も変わるかもしれません。本作は納品一発でOKだったんですが、もし阿木さんがいたら前作の「a sign paris – ozaka – kyoto」の時のようにどこかにダメ出しがあっただろうとも思います。だからまだ自分の曲については完成した感じがしてないんです。でも参加アーティストの楽曲は素晴らしいので未聴の方は是非!

○2021年4月リリースのremodel 45 『Anemic Cinema』について

●このインタビューのちょうど一年前(2020年8月)に、スタジオワープの中村さんからアルバムの話を頂いて、作り始めました。その際にToleranceのリメイクアルバムを同時に作る話もあって、初めは2枚組でリリースする案もあったのですが、結局別になりました。それからアルバム2枚分を4ヶ月掛けて、林(KENTARO HAYASHI)さんのマスタリングも含めるとさらに1ヶ月掛けて作りました。その時にできることを出し切った感じです。曲名についてはポール・D.ミラーの著書から印象的な単語をピックアップして、出来上がったトラックに一つずつ割り当て、最もそれらしいものをアルバムタイトルにしました。アートワークについてもToleranceのリメイク作品同様、自分で制作しています。誰かにお願いすることも考えましたが、0gの平野さんから「自分でやった方がいいです」と言われ、じゃあ、という感じで。結果的に良かったと思います。

○2021年9月リリースのremodel 46『Junya Tokuda × Tolerance – VANITY RE-MAKE/RE-MODEL Vol.1』についてToleranceの感想を聞きたい。

●どこまで計算して作ってるのか分からない、独自の世界観を感じます。今回リメイクするに当たって聴き込んでみて、さらに理解できなくなりました。制作過程としては原曲を咀嚼して解釈するというより、自分の作品にコラボで参加してもらったような感覚です。曲によっては敢えて全く別モノに作り替えたり、そういう作り方しかできませんでした。いつかこのレベルに辿り着けるのかと、絶望的な気分になります。

○インタビューを終わって
阿木さんの晩年のことを聞きたいと思い、『僕の知らない阿木譲』とした。徳田君と話をしていて、人間としては40年前とさほど変わっていないと感じた。もし生きていればCOVID-19禍の世界をどのように捉えるのか話してみたいと思った。ミュージシャンとして関わった彼らにとって阿木譲とは、教師的でもあり、反面教師的でもあったのだろう。少なくとも彼らの魂に化学反応が起こったことは間違いない。それは最後の質問の回答からも垣間見えるのである。
ここで少しJunya Tokudaの作品である『Anemic Cinema』の感想を少し記載しておきたい。この作品名は1926年にマルセル・デュシャンにより作成された実験映像作品名でもある。タイトルそのものもアナグラム(逆さ言葉)になっている。CLUSTERの「ZUCKERZEIT」の逆読みしたToleranceの「Tiez Rekcuz」と同じようにさかしまの世界。音楽なのでイメージの逆回転はお手の物だ。音響も浮遊感のある映像的な音風景に迷い込んだような感じがした。聴き進めていくうちに部屋の中で窓から観る風景のように視覚化されるようだ。

『阿木譲の光と影」シリーズ 第一弾 KENTARO HAYASHIインタビュー

『阿木譲の光と影」シリーズ 第一弾 KENTARO HAYASHIインタビュー
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

「魂に降り注ぐ音楽」

晩年の阿木譲に関わりのあったミュージシャンから話を聞きたいと常々考えていた。
まずは、阿木がその作り出す音響を「柔らかい機械だ」と高く評価し、信頼を寄せていた電子音楽家KENTARO HAYASHI。
そんな彼の作品『PECULIAR』は、阿木が亡くなってからremodelからCD、その後イギリスのOpal TapesよりLPとしてリリースされている。なぜ生きている間に阿木自ら立ち上げたremodelから世に出されなかったのだろうか。そんな思いもあり、話を聞いた。

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KENTARO HAYASHI (林 賢太郎)

紹介
https://opaltapes.com/album/peculiar
http://www.ele-king.net/review/album/008207/
https://twitter.com/KENTAROHAYASHI_
http://www.bath-studio.jp/

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●林賢太郎
○嘉ノ海幹彦

【阿木譲との出会い】

○こんな感じで林くんと話をしたことなかったよね(笑)。よろしくお願いします(笑)。

●そうですね。こちらこそ、よろしくお願いします(笑)。

○まずは、音楽との出会いは?どんなところから?

●学生の頃にギターを買って練習していましたが、友人がDJ Krushのレコードを聴かせてくれて、ミキサーで遊んでいるのを見て衝撃を受けて、クラブミュージックに興味を持つようになりました。

○具体的にはどんなジャンル? どんなミュージシャンが好きだったの?

●アブストラクトが好きでMo’ WaxやNinja Tuneのレコードを集めてました。ブリストル系も好きでしたし、HIP HOPのプロデューサーも好きで聴いてました。そのあとハウスやテクノに傾倒してDJをしていました。とにかくクラブでずっと遊んでました。ただしばらくして、それにも少し飽きてしまったのですが、それに変わる新しい音楽を見つけることができず、しばらくそこから抜け出せずにいました。その他のジャンルも幅広く聴いていましたが、自分がやる音楽という感じではありませんでした。

○自分がやっている音楽に停滞感を感じていたんだね。

●2009年のYCAM(山口情報芸術センター)での池田亮司のライブを体験したことで四つ打ちの呪縛から解放されて、何か新しい音楽やジャンルが生まれてくる可能性を感じたのを覚えてます。そのあとすぐには見つかリませんでしたが、しばらくして新しい音楽を見つけることができました。阿木さんとはそんなタイミングで出会いました。

○阿木譲のことが出てきましたね(笑)。阿木さんとの出会いは?いつ、どこで、どんな状況で?

●2013年にアーティストを検索していたら、何回か阿木さんのブログに引っかかって、この人誰だろう?と思ったのが最初です。0g(雑誌)の1冊目が販売されるタイミングで大阪阿波座のnu thingsに初めて行き、そこで初めて阿木さんに会いました。2014年1月27日です。

○阿木さんが新しいブログ「a perfect day」を2013年1月に再開したその頃の話だね。
以前のブログが復元されているけど、音楽を聴いて空気感なり時代感をリアルなものとして言語化している。 阿木さんらしさが感じられる独特なものだ。

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きょうRECORDSのHPで阿木 譲の晩年約10年間の資料的価値が高いブログが復元されている。(継続中)
以下がそのURLなのでアクセスして頂きたい。

「talkin’ about nu things」 Agi Yuzuru

「talkin’ about nu things」 Agi Yuzuru

CASCADES 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 / 阿木 譲

CASCADES 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 / 阿木 譲

BRICOLAGE 「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧

BRICOLAGE 「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧

KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧

KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧

NO WAVE 「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク

NO WAVE 「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク


「0g(zero-gauge)」Agi Yuzuru

「0g(zero-gauge)」Agi Yuzuru


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○この段階で新たに音楽を作り始めていた?

●企業に音楽を提供したりはしていましが、その頃はまだ自分の音楽は作れていませんでした。一時期オーディオ・ヴィジュアルが音楽の進化する形だと思っていて、色々と模索していましたが、しっくりきていませんでした。でも阿木さんがブログで紹介しているようなダークな音楽が、アブストラクトやブリストルの音と重なる部分があって、テクノやノイズ、現代音楽の要素を吸収して、進化して戻ってきたような印象を受けました。阿木さんはコンテンポラリー・モダン・ミュージック( Contemporary – modern music )と言っていましたが、アンダーグラウンドな雰囲気を持った音楽が、より洗練されて戻って来た感じで、新しいデザインがどんどん生まれてきて刺激的でした。ヴィジュアルがなくてもいいし、自分の中で音楽がまた先頭に立った感じです。真っ暗な中でテクノを聴いていたように、音に入っていけるような感覚があって、この頃にもう一度自分の音楽を作りたいと思い始めました。

○あのブログも言葉だけじゃなくて映像や画像やデザインも含めて『ロック・マガジン』や『EGO』みたいに編集していたと思っているんですよね。印刷物じゃないからひとりでどんなことも出来るしね。特に復元された過去のブログはその特徴が顕著に現れていると思うので、林君が阿木さんに出会う前のものなので見てみるといいと思う。
ところで、阿木さんと会ったときに印象は?

●怖そうなイメージでしたが、実際会うと気さくで紳士的な印象でした。音楽を作っている事を知って、「ミュージシャンの林くん」と紹介してくれたり。帰る時に「音楽頑張ってください」みたいに丁寧に言われて。

○その感じは昔から変わらないな。最後に阿木さんと0gで会ったときもそんな感じだった。

●初めて会った日に「これから音楽はどう進化しますか?」って質問したら、「まだわからない、まだ数が揃ってないから、はっきり見えない」と言っていて、正直な人だなと思いました。文脈をパズルみたいに組み立てるのが面白いと言ってました。俯瞰して見てるんだと。

○実際に話してみて阿木さんの印象は?

●音楽に対してまっすぐというか、70歳を超えても、まだまだ音楽で何かやってやるんだ、音楽しかない、音楽が一番面白いんだという姿勢が印象的で、僕にポジティブな影響を与えてくれていたと思います。

○阿木さんとの出会いが、その後の音楽家KENTARO HAYASHIに与えた影響は?

●阿木さんに出会わなければ、今のように音楽活動ができていなかったと思います。阿木さんに言われて、「SUBSTRATUM」というイベントを始めたのがきっかけです。1人でDJとライブをやってましたが、お客さんが少なくても、店の隅に座って聴いてくれて、感想やアドバイスをしてくれました。「間違った事はやってないんだから続けろ」って励ましてくれたり、気にかけてくれていたと思います。

○やっぱり、その辺りは昔と変わっていないな(笑)。

●阿木さんが今まで気にかけて、近くで活動したミュージシャンは沢山いると思いますが、僕もぎりぎり間に合った感じで、「林で最後だな」と言ってました。0gでイベントを続けられた事で今の自分のスタイルができたと思います。

○2014年からだと最後の4年半だね。そこからの付き合いは深かったね。

●月1ペースでやっていた阿木さんのイベントにはほとんど行ってましたし、阿木さんを通して新しくて刺激的な音楽に沢山出会いました。0gで新譜をみんなで聴くのは楽しかったです。阿木さんも「新しい音楽をみんなで聴いたり、話したりする時間が最高だよな」と言ってました。イベント終わりによくファミレスに行って話をしていました。

○今に繋がることとは?

●阿木さんの近くで先端音楽に触れたのは、今の自分の音楽スタイルに繋がっていますし、Opal Tapesのレコードを初めて聴いたのも阿木さんのイベントだったと思います。また0g で出会った人や、東瀬戸さん、中村さん、嘉ノ海さん、能勢さんとの縁も、今日のこの時間も阿木さん繋がりだと思います。東京のイベントに呼んでもらったりもそうですし、色々な人たちと繋がるきっかけになっています。遡ると阿木さんがいるみたいな感じです。

○毎年夏にベルリンに行っているよね。(現在はCOVID-19で中断)

●Berlin Atonalは刺激的で他にないから行ってしまいます。コロナがなければ続けて行っていたと思います。Kraftwerk Berlinの空間は独特で、「gargouille」(『Peculiar』より)はMAIN STAGEで体験した空間とその音響に影響を受けた作品です。STAGE NULLで朝5時ぐらいにPessimistがテクノからジャングルに繋げた瞬間、みんなが荷物や上着を置いて踊り出す光景は印象的でした。OHMでのMetristやTUTUのDJも新しくてかっこよかったですし、Tressorでも朝まで遊んでいました。まだまだクラブミュージックの可能性を感じて嬉しかったです。Demdike StareやPuce Maryのライブも素晴らしかったですし、あんなに大勢のオーディエンスと一緒にノイズを聴くのは初めてで、とても印象に残っています。Gabor Lazarもよかったです。全てを伝えきれませんが、現場で体験しないとわからないことが沢山ありました。阿木さんが最後まで0gという現場を残していたのも、そういう理由だと思います。「現場を知らないと評論家として説得力がないだろ?俺はプロの評論家なんだ」と言っていました。

【尖端音楽の伝道者としての阿木譲について】

○確かに0gという場所は、特化した音響装置だよね。単に大音量というだけではなく、音の質というか、場所なので質の中にはその時に居合わせた人の魂も音の中で響きあっている感じがする。

●阿木さんは経歴からして知識量は当然すごいと思いますが、センス、嗅覚がすごかったと思います。文脈だけでは見つからないような新しいレーベルや作品を誰よりも早く見つけてきて、その全てがかっこよくて刺激的でした。

○具体的に印象に残っている阿木さんの言葉とかある?

●「音楽の雰囲気を聴いている」とか、「片耳が聞こえなくなっても何も怖くない、片耳だけでも音楽は理解できる」というのは印象的でした。Puce Maryもモノラルでも十分だと言っているのをどこかで読んだ記憶があります。

○2014年にnu thingsで阿木さんと出会って、一番初めにライブしたのはいつ?

●2014年11月30日にnu thingsで開催された2日間のイベントです。そのあと2015年2月20日に「SUBSTRATUM」の1回目をやりました。10回やって最後が2016年7月17日です。

○結構、長期間やったね。

●そのあとは2018年4月28日に「Peculiar」を企画してもらい、2回目から自分でブッキングするようになり、不定期ですが今も続けています。阿木さんは1回目は見てくれています。阿木さんと一緒にやったイベントは2016年3月12日「atonal」、2017年10月21日「AFTER THE BERLIN ATONAL」です。

○阿木さんの2014年は東京から呼ばれて、東京都現代美術館でもトークショーやブリコラージュをしたり、幸せな年だったのではなかったかと思いますね。『アイデア』で特集されたりしているしね。美術関係の若い世代から自分のやってきた仕事を評価してもらったり。
そして翌2015年にがんの手術をしている。退院の際にThe Strangerの”providence or fate”を絡めて以下のように書いている。 人生の整理をしようとしていたんだと思った。阿木さんらしい文章なので少し引用しよう。

退院後、週2日の検診と、生活を新しい環境へと移行するため、部屋探しなどにおわれ、ネット環境もままならないので更新もできなく、申し訳ない、、0g Web(zero-gauge)のほうも手元に素晴らしい作品が溜まっていて気になっているのだが、もうすこしお待ちください。この機会に過去のすべてを淘汰して、倉庫に山積みになっているレコードも、80年代のインダストリアルから2000年代まで蒐集してきた、すべてのレコードを売り払い(マニアの方で良い値で固めて買ってくださる方がいたら至急ぼくに連絡ください、、、出来るならひとつのジャンルを時間と労力をかけて集めた物をバラバラにするのは避けたいとは思っていますが、誰かぼくの意志を継いでくれるかたがいたら、、、、嬉しいけれど、、でもそれが無理なら、業者のかたにすべて売るつもりです。驚くような貴重な作品が山のように眠っています、、、、)身辺整理して、この10年ほどのレコードだけを残して、新しい環境の下で、全く新しい音楽評論と音楽活動を始めようと決心しました。
それがぼくの「providence or fate」(摂理か宿命)だろうから、、、
2015年9月19日 a perfect day

○林君が0gの保証人になったのって2015年のこの辺りだよね。

●初めは断っていましたが、阿木さんに何度も強くお願いされたので。今は違います。

○もちろん今は平野隼也君がオーナーなんだけど、それを聞いた時には、それだけ強い繋がりがあったのかなと思った。

【晩年の阿木譲について】

●阿木さんの健康状態が悪くなったのもあると思いますが、ただ人に当たるような時期があって、数ヶ月少し距離を置いていました。ある日「元気か?」と優しい声で電話がかかってきたんですが、ろれつが回らず、上手く喋れてない印象でした。「阿木の言葉を憶えているか?お前も元気出してがんばってくれよ」と言ってくれて、それが最後の会話でした。2018年7月です。ベルリンのお土産を渡す約束をしていましたが、帰国後に電話をしても出ない状態が続いて、そのあと話す機会もなく亡くなってしまいました。

○以前、林君に聞いた阿木さんの「俺が死んだらお前ら迷子になるぞ」というのは?

●それは元気な頃からよく言ってましたが、「文脈を理解して新しい音楽を紹介している人が他にいないからどうするんだ?俺が死んだら何を聴いたらいいかわからなくなるぞ」ということです。

○林君にとって阿木さんは優しい感じ?

●気にかけてくれていたと思いますが、癇にさわったら顔色がすぐに変わりますし、厳しく言われることもありました。それでも自分の音楽について言われたときは、真摯に聞いていました。正直に言ってくれる人も中々いないのでありがたかったです。

○ま、昔から忖度する人じゃないからね(笑)。

●忖度する人ではなかったので、音楽評論家としての言葉に鮮度があったと思いますし、信用していました。

○晩年には分からなかったけど、僕が知っていた頃(1980年前後)の阿木さんは信用できるから、他を探す必要がなかったと思う。

●音楽センスは飛び抜けてましたね。色々問題はあるかもしれませんが。

○あのバランスの悪さというか独特な人格というか、あの魂がどこから生まれてきたのかに興味があるんだよね。10代後半で歌謡曲歌手を経験しているでしょ。その時代に経験したことが阿木譲のベースになっている気がしていて。当時はたぶん理不尽なことが当たり前の世界だからね。歌手が自己主張できる世界じゃなかった。だから、その世界から離反することになる。その後、1976年に『ロック・マガジン』を創刊することになるんだけど、共通の価値観を持った人々と共同作業を始める。0gとかもそうだけど、共同で何かを始めることに阿木個人は活路を見出そうとしていたんだろうか?

●阿木さんのイベントに来ていたミュージシャンは少なかったです。阿木さんは共同で何かしたいと思っていたと思いますが、難しかったと思います。阿木さんは「何のために音楽を聴きに来てるんだ?何もしないなら来ても意味ないだろ?」と問いかけますし、実際イベントをしても容赦のない感想を言うので、中途半端にはできないですし、距離感を保つのが難しいのかもしれません。それで常連客やミュージシャンが来なくなってしまうのかなと。僕は新しい音楽への興味が全然勝っていたので、「お前はまだまだだ」と言われても、自分でも分かってましたし、だから来てるんですって感じでした。

○その話題になったら、いつも19世紀ドイツの思想家マックス・シュティルナーを思い出す。一言でいうと何者にも影響を受けない独立した、何者にもかえがたい、かけがえのない唯一者としての人間精神を理想としたんだ。そんな精神を「エゴイズム」といった。じゃあ一人で孤立していいかというとそうじゃない。一人では生きていけないからね。シュティルナーは、そんな唯一者の集まり「エゴイスト同盟」が必要だと説いていた。孤独と孤立は全く違うんだけど、逆にいうと他者との関係は、対立しやすくなる。

●昔から知っている人は晩年優しくなったと言いますが、それでも厳しい人だったと思います。自分がやっているレベルで本気でないと許さない感じでした。

○でも、結局Vanityや『ロック・マガジン』みたいな作品は生み出せなかったし、remodelも継続できなかった。先日亡くなったEDITIONS MEGOのピーター・レーバーグみたいなことが出来なかったのだろうか?
つまり、自分のレーベルを持って定期的に自分のコンセプトに合ったミュージシャンをセレクトしレコーディング=編集した音楽をリリースするような。
阿木さんの真骨頂は作品をプロデュースしたりデザインしたり、つまり総合的に編集する力を発揮することだと思っている。
だって、『PECULIAR』は結果的にOpal Tapesからリリースされたけど、本来なら阿木さんの仕事だったと思うんだけどね。
林君はその辺り阿木さんに対してどう感じてた?単純に制作費の問題だけでもないような気がするんだけど。

●僕の音楽のクオリティがまだリリースできるレベルではなかったのだと思います。作りたかったのですが、阿木さんが生きている間に作りきれませんでした。「作品を作って次に行け。作品を作って捨てていかないと、いつまでも同じことろにいて次に行けないぞ」と言われてたんですが。

○そんなことないと思う。阿木さんも2011年11月のブログでremodelから『a sign paria – ozaka – kyoto』をリリースする前に書いてる。
「ひとつの作品を仕上げるのに、今回ほど苦労したことがない、それはvanity recordsやrock magazineのように、ボク個人のデスク作業で創られたものではなく,多くのアーティストたちの熱意とエネルギーと、アンガージュマン ( engagement ) の精神で成り立っているからでしょう。」
「ボク個人のデスク作業で創られたもの」ってVanityや『ロック・マガジン』に関わった人間はみんな、異論があると思うんだけどね(笑)。
でも、やっぱり阿木さんは晩年は時代と拮抗する(Friction)エネルギーが枯渇してたんじゃないかと思うんだよね。人には何かをしないといけないんじゃないか、といいながら、阿木譲としては何も残せていない。あれだけレコードやCDとか物(material)に拘った人だったのに。
だってVanityだって単にリリースをしてたのではなく本にも書かれているけど、ミュージシャンと対峙して自分の感覚にさわった音楽を通して作品として生み出そうとしていたんだよ。
KENTARO HAYASHIやJunya Tokudaを素材として、EmptysetやpitaやLeyland Kirbyの世界を作れたはずだと思う。個人的には、一抹の歯がゆさみたいなものを感じていたんだ。

●どうなんでしょう、今までの活動を統括したいと思っていたかもしれませんが、真相はわかりません。エネルギーが枯渇していたかもしれませんね。阿木さんの最後のツイッターは「ながい音楽人生のピリオドを迎えた。さよなら先端音楽!」で締めくくられています。余命を理解していたのか、阿木さんの中で終わらせたかったのかもしれません。

【これからのKENTARO HAYASHI】

○じゃ、最後に2つ質問をさせてください。
まず、今後の活動のプランを教えてください。

●新しい作品もまた作りたいと思っていますし、ライブの予定もあるので、多くの人に聴いてもらえる機会が増えたら嬉しいです。

○他のミュージシャンにも聞いた質問です。ウイリアム・バロウズは「言語は宇宙からのウイルスだ」と言ったわけですが、そもそも音楽はウイルスだと思っています。音楽は形がなく伝染しますし、感染した人の意識を変容させますし、人生を変える力を持っています。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対して、どのような感想を持っていますか?

●コロナの影響で現場での音楽体験がしにくいですし、人に会う機会も減っているので、情報が偏ってると思いますが、どこかで刺激的で新しい作品が作られていると思います。リリースするペースが落ちているレーベルもありますが、見えないだけで、現場やホームスタジオでは何かが始まっているのでは?と期待しています。

○長時間ありがとうございました。次のライブを楽しみにしています。また0gで会いましょう。

●こちらこそありがとうございました。また0gかどこかの現場で会いましょう。

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【改めて阿木譲のこと・・・インタビューを終わって】

○林くんにとって阿木譲とはどんな人物だったのか。

●音楽をやるきっかけを作ってくれた人ですし、色々教えてくれた先生のような人です。ときには音楽友達のようでした。

○KENTARO HAYASHIの仕事について

●マスタリングやデザインは責任もありますし重要な役割だと思っていますが、楽しい作業ですし、やりがいを感じます。完成したときの喜びもあるので、これからも色々な作品に携われたら嬉しいです。学びも沢山あります。

○KENTARO HAYASHI – 『Peculiar』について

●初めての作品ですし、制作には時間がかかりましたが、名刺代わりの作品ができたと思います。MerzbowとJim O’Rourkeのリミックスが先に完成していて、そのクオリティにも刺激をもらいました。remodelからリリースされたCDは自分でマスタリングをしたので、アルバムを通して聴いてもらえたら嬉しいです。またOpal Tapesがレコードをリリースしてくれたので、海外のアーティストがMIXで使ってくれて、 多くの人に聴いてもらえるきっかけを作ってくれました。リリースを決断してくれたremodelの中村さんとOpal TapesのStephenには感謝しています。

○Vanity-TAPESのRemasteringについて

●現存している複数のカセットを元に検証をしたり、マスタリングよりも修復に時間がかかりました。地味な作業が多かったですが、色褪せない作品も素晴らしくて、楽しい作業でした。

○MerzbowやJuri Suzueのmasteringについて

●自分がMerzbowの作品に携わるとは想像もしていなかったので嬉しいですし、歴史に残る作品群だと思うので光栄に思っています。制作スピードが驚異的で、どれも密度の濃い作品です。
Juri Suzueさんはイベントで共演していたので携われて嬉しいです。『Rotten Miso』で初めてレコードのマスタリングもやりました。デザインも担当したので、手にとって聴いてもらえたら嬉しいです。

○インタビューを終わって
林くんの話を聞いていると、阿木さんの光の部分が印象的だった。40年あまり言葉を交わしていなかったし、晩年のブログも生前はほとんど読んだことはなかった、はたしてエゴイストとしての阿木譲の晩年は幸せだったのだろうか。
阿木の最後の拠点となった0gという場所が、佐藤薫のいう魂が交差して日々変化をもたらし常に新しいモノを生み出すヴェニューであったかどうかは分からない。
しかし、阿木に化学反応を起こしたremodelのミュージシャンの魂は確実に引き継がれていく。その系譜は自らのアルバムの最後に刻印されているSpecial thanks to AGI Yuzuruからも読み取れるのである。

「0g(zero-gauge)」Agi Yuzuru

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part6「0g(zero-gauge) Agi Yuzuru」をアップしました。このPart6でシリーズは終了となります。当時、有料サイトということもありあまり読まれていなかったのですが貴重なテキストだと思いました。是非沢山の方々にお読みいただければ幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。


http://www.zero-gauge.com/0g/

NO WAVE 「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 5『NO WAVE「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/nowave/

KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 4『KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/klingklang/

CASCADES 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 / 阿木 譲

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 2『CASCADES「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/cascades/

「talkin’ about nu things」 Agi Yuzuru

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 1「blog」を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/blog/

remodel 31 V.A.『VANITY 7” Singles』

V.A.
『VANITY 7” Singles』

¥2,750 (with tax)
remodel 31
2021年8月20日リリース

Amazon  https://amzn.to/2Tck0Fr

1980年にVanity Recordsよりリリースされた3枚の7インチシングルを⼀つにまとめた編集盤。単独でのCD化は今回が初。声とエレクトロニクスの使⽤を共通項としたSYMPATHY NERVOUS、MAD TEA PARTY、PERFECT MOTHERの楽曲が収められ、Vanity Recordsのリリース中でも際⽴ってポップな仕上がりが⽿を引く。ジャケット写真は3枚全て同年VanityからLPをリリースしたBGMの⽩⽯隆之の撮影。

<作品概要>
1980年にVanity Recordsよりリリースされた3枚の7インチシングル(SYMPATHY NERVOUS『Polaroid』、MAD TEA PARTY『Hide And Seek』、PERFECT MOTHER『You’ ll No So Wit』)を⼀つにまとめた編集盤。単独でのCD化は今回が初となる。新沼好⽂によるSYMPATHY NERVOUS同年Vanityから単独でLPをリリースしており、U.C.G.と命名された⾃作のコンピュータ・システムを駆使したプロト・テクノな作⾵が特徴。本作の収録曲ではヴォコーダーによる語りを⽤いた「Polaroid」が出⾊の出来。「d-b-TV」でもほぼノイズと化したような声の使⽤がある。
MAD TEA PARTYは吉祥寺マイナーやイーレムに出⼊りしていた⽩⽯喜代美が率いるガールズ・トリオ・バンド。7インチでのA⾯にあたる「Hide And Seek」ではエッジーなサウンドのポスト・パンクを演奏し、B⾯の「Modern Time’s Pop」と「In A Tea-Bag」ではテープの逆回転やダブ処理を多⽤したいわばスタジオでの実験によってなされる⾳楽性を⾒せている(クレジットにはremixed at YLEM Studio ’80 Springとの表記あり)。
PERFECT MOTHERは東京の⾳楽/アート集団『イーレム』組織者、上⽥雅寛が率いるレフトフィールド・エレクトロニック・ポップ・グループ。「Youll No So Wit」での中⼼の定まらないような声の扱い、「Ephemeral Pieces」の5つの断⽚からなるコラージュ/ミックステープのような成り⽴ちなどアブストラクトなアプローチが⽿を引く。
収録された3組は声とエレクトロニクスの使⽤を共通項としており、そのためかVanity Recordsのリリース中でも際⽴ってポップな仕上がりとなっている。『イーレム』周辺のアーティストが多く収録されていることも⾒逃せない特徴だ。
また、これらの7インチのジャケットに使⽤された写真は3枚全て同年VanityからLPをリリースしたBGMの⽩⽯隆之の撮影によるもであり、今回の編集盤もその3枚が並べられたデザインとなっている。

よろすず

Track List:
SYMPATHY NERVOUS – Polaroid
1. Polaroid
2. Polyester 35 Micron
3. d-b-TV

MAD TEA PARTY – Hide And Seek
1. Hide and Seek
2. Modern Time’s Pop
3. In a Tea-Bag

PERFECT MOTHER – You’ll No So Wit
1. Dark-Disco-Da-Da-Da-Da-Run
2. Youll No So Wit
3. Ephemeral Pieces

単行本『vanity records』発売のお知らせ

タイトル:vanity records
監修:中村 泰之
著:嘉ノ海 幹彦、東瀬戸 悟、よろすず、平山 悠、能勢 伊勢雄
価格:¥3,850(税込)
ISBN:978-4-86400-040-6
発売日:2021 年7 月23 日
版型:B5(257×182×24.5mm)
ページ数:本文392 ページ(カラー90 ページ)
製本:並製
初版特典:CD2 枚組
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

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商品詳細情報

 

本文見本

 

ロック・マガジン復刻 見本

remodel 32 SYMPATHY NERVOUS『Sympathy Nervous』

SYMPATHY NERVOUS
『Sympathy Nervous』

¥2,750 (with tax)
remodel 32
2021年7月16日リリース

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1980年7⽉にVanity Recordsよりオリジナルがリリースされた新沼好⽂によるSYMPATHY NERVOUSの1stアルバム。U.C.G.と命名された⾃作のコンピュータ・システムを駆使し、精密なビート・プログラミングと⾳響デザインによって⾁感的な脈動をトレースするかのようなプロト・テクノ。構造⾯での創意⼯夫、千崎達也のノイズ・ギターによるインダストリアルなニュアンス、ジャーマン・ニュー・ウェイヴを思わせるサウンドなど、⾳楽的なバリエーションと⾼度さにおいて当時としては破格のクオリティを⾒せつける傑作。

<作品概要>
1980年7⽉にVanity Recordsのカタログ0007としてオリジナルがリリースされた新沼好⽂によるSYMPATHYNERVOUSの1stアルバム。
U.C.G.と命名された⾃作のコンピュータ・システムを駆使し、精密なビート・プログラミングと⾳響デザインによって⾁感的な脈動をトレースするかのようなプロト・テクノ。3連符系統のリズムが乱れ⾶ぶ「A Worm」、4つ打ちを基調としながらもシャッフルするリズムを絡ませる「Deaf Picture」、シーケンスをまばらに収縮させるアブストラクトな「Automatic Type」など構造的な⾯での遊び⼼に加え、「Temprament」や「Sympathetic Nerves」では千崎達也のノイズ・ギターによるインダストリアルなニュアンスやジャーマン・ニュー・ウェイヴを思わせるサウンドが表れるなど、⾳楽的なバリエーションと⾼度さにおいて当時としては破格のクオリティを⾒せつける傑作。
Vanityのカタログの中でも最も純度の⾼いエレクトロニクス・ミュージックでありながら⾁体性への希求が伺え、これは同じくVanityからリリースされたBGMの楽器演奏によって無機的なサウンドを具現化するアプローチとは対照的だが、ある種の屈折を抱えた試⾏錯誤によって⾳楽的な魅⼒が⽣じているという点では相通じるものがある。
ジャケット写真はラ・デュッセルドルフのロゴ・デザインやロック・マガジンの表紙画を⼿掛けたドイツの画家/写真家アヒム・デュホウ。
新沼は本作の発表後は東京を離れプログラマーの仕事をしながらも地道に録⾳を続け、90年代にはテクノ・シーンへ参⼊。2000年に⼊って岩⼿県宮古市で国産テルミンの⼯房を設⽴するが、3.11により⼯房を失い、⽶ミニマル・ウェイヴによって過去⾳源を編集したチャリティ・アルバムが制作された。2014年逝去。
よろすず

Track List:
1. A Worm
2. Go On And Off
3. Temperament
4. Deaf Picture
5. Automatic Type
6. Quick Starttype
7. Inverted Type
8. Sympathetic Nerves

VANITY INTERVIEW
⑨ 明橋大二

VANITY INTERVIEW ⑨ 明橋大二
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

『それにもかかわらず敢えてなお』

最後のインタビューは明橋大二。現在真生会富山病院心療内科部長としてコロナ禍の最中勤務している。彼は『ロック・マガジン』時代に一番長く一緒に編集の仕事をしたスタッフだった。今回はVanityからリリースされているミュージシャンではない明橋と『ロック・マガジン』や阿木譲のことについて話したかった。当時編集の内容や音楽のこと個人的なことなどについて会話をしたことがなかった。ただ今なら現代に繋がるかつてのことについて話せるのではないかと思った。『ロック・マガジン』編集の現場を通してどのようなことを考え、彼の人生にどのような影響を与えたのか、また医師の視線から今のコロナ禍の時代をどのように見ているのか。何よりも阿木譲と最後まで交流した彼の想いを聞きたかった。
それではZoomオンラインミーティングに参加しよう。

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明橋大二
昭和34年(1959年)、大阪府生まれ。 京都大学医学部卒業。 子育てカウンセラー・心療内科医。 国立京都病院内科、名古屋大学医学部付属病院精神科、愛知県立城山病院をへて、真生会富山病院心療内科部長。 児童相談所嘱託医、NPO法人子どもの権利支援センターぱれっと理事長。 専門は精神病理学、児童思春期精神医療。
《D.A.Tプロフィール&結成秘話》
明橋大二は、幼少時からピアノを習い、さまざまな音楽に親しむ。
特にロックの持つ魂の叫びに魅せられて、京大入学後、大阪発のロック雑誌『ロック・マガジン』の編集に没頭する。
昭和56年、刀塚俊起が学生の時、自主制作したカセットテープを明橋が聞き、興味を示す。めちゃくちゃ下手な音源だったが、なぜか明橋ひとりが評価した。明橋に説得されてコンサートを開くことになる。
昭和57年―59年 学園祭にてコンビを組み関西でコンサート活動。
昭和63年 4作自主制作した後、本業に専念。活動休止に入る。
平成13年 病院にてコンサート、活動再開。
平成16年 「Recovery」自主制作CD発表。
平成20年 「Infinite Preciousness」自主制作CD発表。
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プロフィール | 明橋大二オフィシャルサイト
http://www.akehashi.com/profile/

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▲明橋大二
●嘉ノ海幹彦

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《阿木譲や『ロック・マガジン』との出会い》

●こんばんは。明橋は医療服着てるから現場(病院)からですね。明橋って呼び捨てにしてるけど(笑)。このような話をするのは初めてだと思いますが、よろしくお願いします。

▲いいですよ(笑)。よろしくお願いします(笑)。

●実際に阿木さんと出会ったのはいつごろ?

▲レコードコンサートだと思うんですよね(※大阪心斎橋の喫茶店ドムスで定期的に開催)。それまでは『ロック・マガジン』が大好きで読んでいました。実際に参加したら女の子もオシャレだし、今まで住んでた世界とは全く違ったので気後れした記憶があります。その時には阿木さんと話をしていないかも知れませんね。でもとてもスペシャルな場所に来れて嬉しかったです。

●阿木さんのラジオ(FAZZ BOX INN)は聴いていなかったの?

▲まず『ロック・マガジン』からですね。後でラジオを知ってから聴きましたが。嘉ノ海さんは?

●僕はA4版の鋤田正義さん表紙の『ロック・マガジン』からですね。(※第三期 A4中綴じ版)

▲私はその前ですね。合田佐和子さん表紙の『ロック・マガジン』です。(※第二期 A5版)

●じゃ、明橋の方が先に出会っているんだね。僕は阿木さんというより、松岡正剛や間章が書いているので惹かれました。最初の出会いはやはりドムスのレコードコンサートでしたね。「これが阿木譲か」という感じだった(笑)。終了後何人かで編集室に遊びに行ったり、ディスコ(死語!)が流行っていたので宗右衛門町の店に阿木さんや雨宮ユキさんと一緒に行きました。その後『ロック・マガジン』主催のイヴェントで登場する四ツ橋のパームスはまだ営業していなかったと思いますね。みんな鏡の前で踊っていて途中でチークタイムがあって飲み放題でという典型的なディスコでした。だからパームスとは全く違う雰囲気だった。1978年から79年にかけてだと思う。その頃明橋は?

▲私が大学に入ったのが昭和54年(1979年)ですね。その年の秋くらいに大学の学園祭で「キャバレー・ボルテール」ってのをやってパブリック・イメージ・リミテッドをかけたり、少しいかがわしいアヴァンギャルドな出し物もやりました。だけど学園祭の雰囲気には合わなくて、大学で出来ることはこれくらいかな、と思った時に『ロック・マガジン』誌上で「NEW PICNIC TIME」(1979年12月23日大阪芸術センター)のスタッフ募集の告知を見て参加したんですよ。嘉ノ海さんともその時に会いました。スタッフとして参加して面白かったけど自分としてはもっと出来ると思っていた。でも結局何もできなかったという想いがあって、このままでは終われないと残って編集の仕事を始めることになりました。たぶんそれから1年くらいは編集室にいたと思うんですけどね。1980年は編集室で迎えました。

●そうだったんだね。明橋は当時からスロッビング・グリッスルとかキャバレー・ボルテールとか歌詞がない(意味を持った言葉のない)音楽を聴いていたんだ。僕も歌詞がない音楽が出てきた時は衝撃的だったんですね。それまではブライアン・イーノにしても「Before and After Science」(1977年)ではまだ歌詞があったのに、言葉の世界から意味のない「ノイズ」的な世界への過渡期のような時代だった。象徴的なのがイーノがプロデュースしたトーキング・ヘッズ「Fear Of Music」(1979年)の「I Zimbra」という曲でチューリッヒ・ダダのカフェ「キャバレー・ボルテール」(1916年)店主フーゴ・バルの音声詩をベースに曲を作っていることだったんだ。音声詩は言葉を使われ切った意味から解放することを目的に考案された音響システムのようなものだった。
その後「キャバレー・ボルテール」という名を冠したバンドがイギリスのシェフィールドから出てきたりして、ネーミングセンスに驚いた。ドイツの教育機関だった「バウハウス」という名前のバンドも出てくるしね。

▲私は、合田さん表紙の『ロック・マガジン』からですからパンクから入っているんですよね。それまでの『ロック・マガジン』では「ユーロプログレ」だったですが(※第一期 B5版)、その後のパンク・ムーブメントとシンクロしていました。12号だったと思いますが、牧野美恵子さんがフューチャーされて初期のニューヨーク・パンク、ロンドン・パンクに対する熱量がすごかった。そのパンクの勢いをレイアウトに表現してすごくインパクトのある本だったんですよね。その号は何十回、何百回読んだかもしれないくらい。その後、阿木さん=『ロック・マガジン』はフリー・ジャズとかフィリップ・グラスとかの方向に舵を切っていったんです。その後を追いかけて言葉のない音楽の方に入っていった。
そのつなぎ目になっているが、イーノの「NO NEW YORK」ですね。パンク的な要素もあるし、美しいメロディでもないそれ以降のリズムとか新しい音楽の姿を示したと思います。私の中では衝撃的な作品でした。


V.A./NO NEW YORK

●「NO NEW YORK」は1978年にブライアン・イーノがプロデュースした作品だ。ジャケット写真やデザインもイーノ自身で行っている。阿木さんも同じようなことをしているけどね(笑)。ここはVanity Recordsとも繋がるんだけど、イーノがその前に何をしていたかというと1975年から1978年にかけてObscure Recordsをリリースしているわけですね。

▲そうなんですよね。『ロック・マガジン』ではObscureのことも紹介されていたし阿木さんのイーノへのインタビューも載ってました。

●「NO NEW YORK」に参加していたのは4バンド。ジェームス・チャンスのザ・コントーションズ、リディア・ランチのティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス、マーズ、アート・リンゼイやイクエ・モリのDNA。当時は何者か全く判らなかったし、裏ジャケットには指名手配みたいな顔写真ばっかりだったしね。もちろんその後、彼らはそれぞれのフィールドで活躍するのでわかるんだけど。新しい音楽の予感を感じさせるアルバムだったよね。

▲その先にキャバレー・ボルテールとかスロッビング・グリッスルとかその後のWHITEHOUSEとか、音楽がメロディとかじゃない歌とかでもない世界に入っていたという感じですね。

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《当時の『ロック・マガジン』で特集していたもの》

●そういえばちょうどキャバレー・ボルテールが出てきた頃に、『ロック・マガジン』で工業神秘主義音楽(1981年1月)を特集したよね。インダストリアル・ミュージックです。その号でフーゴ・バルの研究家土肥美夫さんに最新ロックの中にこんなバンドが出ました!といってMix-Up (1979年)を持参してインタビューしたり、ファシズム研究のドイツ文学者池田浩士さんに「歪んだ鏡としての表現主義を生きた人々」を題して20世紀初頭の時代精神を中心に話を聞いた。インダストリアル・ミュージックって工業音楽なんだけど、当時ロンドン在住の羽田明子に聞くと彼らはアレイスター・クロウリーとかの魔術をやっていて音楽を使って儀式を行っていると。だから真ん中に神秘主義という言葉を入れて「物語」を作ったということなんだ。

▲スロッビング・グリッスルのジェネシス・P・オリッジなんかは魔術の話をしてますもんね。嘉ノ海さん、その少し前に『ロック・マガジン』ムジカ・ヴィヴァ特集(1980年1月)とか作ってましたよね。「NEW PICNIC TIME」と並行して編集していたのですよね。

●そう、ムジカ・ヴィヴァ特集は並行して編集していたね。
先ほど出たイーノがやってきたことを振り返ると1971年から73年までロキシー・ミュージックなんだよね。その後ソロアルバムと並行してObscureのシリーズを連続してリリースするんだけど、参加している作曲家達はジョン・ケージを始めギャヴィン・ブライアーズ、デレク・ベイリー、マイケル・ナイマン、デヴィッド・トゥープ、マックス・イーストリー、ハロルド・バッドなど聴覚芸術の実験をやってた人なんだ。そのObscure10枚目のリリースが終わった直後の1978年に「NO NEW YORK」をプロデュースすることになる。今考えるととんでもないことだよね。
ムジカ・ヴィヴァを編集する過程では西洋音楽の系譜の中にロックミュージックも含めて「時代と呼応する精神」という地下水脈みたいなものを通してもう一度音楽の歴史を捉えなおさないといけないという強い気持ちがあったんだ。ムジカ・ヴィヴァというのは第二次世界大戦の敗戦国であるドイツミュンヘンで起こった音楽復興運動だけど、その意匠を借りて現代音楽、実験音楽がロックミュージックに繋がってくるということを現したかったんだ。当時阿木さんと一緒にドイツ文化センター(現ゲーテ・インスティトゥート大阪)に行った時にこの本(MUSICA VIVA)を見つけてこれだと思って編集したものなんだ。『ロック・マガジン』の特集号としては評判にもならなかったし売れなかったけど、あの本を作ったから今でも音楽を聴いて時代を捉えたり考えたりする際のベースになっている。
最終的には『ロック・マガジン』の編集そのものについてはその後途中で放り投げてしまったけど、特集エリック・サティは「家具の音楽=アンビエント」を提示し、その後の「工業神秘主義音楽」はインダストリアル・ミュージックの魁になったのは間違いないと思う。他の音楽誌とかでは扱ってなかったし。

▲その頃から、ロックミュージックというのは、一方ではポップミュージックとかブルースとかルーツがあるんですけど、もう一つはクラシックだったり現代音楽だったりフリーミュージックだったりするルーツがあって、その辺がイーノとかニューヨークでは化学反応を起こしてたのではないかと思うんです。そこをきちんと取り上げて評価していたことが『ロック・マガジン』の凄さかなと、手前味噌ですが(笑)。どこの雑誌もやってなかったですしね。イーノの中にも二つのルーツという考えがあるんですよね。イーノもObscureやりながらトーキングヘッズもプロデュースしてますしね。それをきちんと捉えて発信していたのが『ロック・マガジン』だったということですよね。

●ここでひとつイーノの至言を紹介しよう。昔阿木さんにイーノの言葉で「ロック(音楽)はあらゆる要素を吸収するスポンジだ」というのを教えてもらった。意味は、音楽が全ての時代性(気配、商品を含めた物質、経済)を吸い取るスポンジみたいなものだ。
だから逆にいうと音楽から時代を読み解くことができるということなんだ。

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《どうして精神科医になったのか、『ロック・マガジン』との関係は?》

●今日は明橋に是非聞きたいんだけど、キャバレー・ボルテールが出てきた頃には日本の中で雑誌「エピステーメー」で哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析医のフェリックス・ガタリが共著の「リゾーム」(アンチ・オイディプスの一部)が翻訳されて1977年に出版されたんですよ。「カフカ論」(1978年)でもそれまでのカフカの捉えかたを一変させたんだよね。もちろん当時は新しい世界の見方である構造主義が紹介されつつあった時期でもあるんだけど、どんな感じで見ていたの?また80年代に入ると浅田彰の「逃走論」(1984年)でリゾーム的で多面的な視点の必要性を説きスキゾフレニア(統合失調症)なんかの精神疾患を持ち出したんだけど。その時代性と音楽との接点というか、どうなんでしょう。だって医学部って入学当初から精神科医になるとか決めるわけではないでしょ。そもそも明橋はどうして精神科医になったの?

▲まさに『ロック・マガジン』のお陰というか、『ロック・マガジン』のせいというか(笑)。
もともと父親が医学部ではなく農学部出なんですけど、ビタミンとか食中毒の研究とかしていて医学の博士号をもっているんです。大阪の衛生研究所に勤めていて家でも医学的な話はよく出ていました。3人兄弟のうち一人は医者になって欲しいみたいな中で育って、小学生の頃から京大の医学部に入ろうと思っていたんです。ただ医学部に入る頃には研究者になろうと思っていたんです。高校生の時には哲学の勉強もして生命の意味みたいなことを考えていました。当時分子生物学が活発になってきていたので、生命の本質みたいなものが判ってくれば命の意味がわかるのではないかと思ってました。実際、京大の研究室はレベルが高く世界的な研究がなされていたので実験を手伝いに行ったりしてましたね。
ところが『ロック・マガジン』に関わって、スピリチュアルなものの中に凄く豊かな世界があって、分子原子を研究してもそれで命のことがわかるわけでもない。その上に雨宮ユキさん(ロックマガジンの経理担当。モデル、ファッションデザイナー。阿木さんが亡くなるまでパートナーとして阿木さんの仕事を支えた。ロックマガジンのスタッフにとっては姐御であり、母親的な存在だった)の体験した話を通して分子原子では割り切れないということを肌で思い知らされたことがあったんです。

●「肌で思い知らされた」という経験って具体的にどういうことだったの?人生を決めた大きな経験でしょ。

▲ユキさんて、何か不思議な人じゃないですか。実際、いろんな不思議な体験をしているんですよね。

●そういえば、そういった話は、自分も時々聞いたことがあったけれど。

▲細かい話は省きますが、とにかく、私にとっては、この世の中には、単純に数字とか、機械論で割り切れないことがたくさんあるんだな、ということを肌で知らされた経験だったんです。
当時私は、大学で仏教の勉強をしていたんですが、最初は単なる知的な好奇心だったんですよ。最終的には、分子原子とかDNAで、すべて生命は説明できると思ってました。
でもユキさんや阿木さんと話をする中で、生命(いのち)というのは、そんな単純なものではないなと。過去や未来ともつながっているし、宇宙ともつながっている。自分の今まで持っていた生命観というのが、いかに浅薄であったかを知らされたんですよね。それから自分は、仏教を自分の問題として学ぶようになったし、それはその後の自分の人生の土台になっています。そのきっかけになったのが、『ロック・マガジン』との出会いだったんですよね。
あのまま進んでいたら、どこかで行き詰まって、おかしくなっていたんじゃないかと思うし、そういう意味では、『ロック・マガジン』と阿木さんは、自分の人生の恩人なんですよ。

●そんなことがあったんだね。阿木さんの晩年最後までサポートしていた理由が判った。こんな話は初めて聞いた。

▲こんな話は誰にでもしないですよ(笑)。ちょっと怪しい話だし(笑)。

●全然怪しい話じゃないよ(笑)。人との出会いが決定的になることってあるよね。音楽との出会いにも人生を決定させることもあるけど。単に出会いというだけじゃなくて、出会う局面により状況が変わるよね。いつどんな時にどのように出会うかにより、人生が決まっていくもんだしね。

▲そんな経験もあって、一時期出家しようと思ってたんですよ。でもせっかく医学部に入ったことも考えたときに精神医学だったら今まで自分が考えてきたことが役立つのではないか、大学ではろくに勉強もしてこなかったけど『ロック・マガジン』での見聞きしたこととか考えたことが生かされるのではないかと思って精神科医になったんです。だから『ロック・マガジン』に入っていなかったら精神科医にはなってなかったと思いますね。

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《Vanity RcordsとVanity TAPES》

●ここで少しVanity Rcordsについての話をしたいんだけど。たしか、あがた森魚「乗物図鑑」の録音の際にピアノを弾いていなかったっけ?

▲その時はいなかったんですよ。私が録音に関係したのはR.N.A. Organismなんですね。さっき確認したらB面最後の「Matrix」という曲の中で背景のピアノを弾いているのが私なんですよ。

R.N.A. Organism/R.N.A.O Meets P.O.P.O

●そうか、勘違いしていた。確かに時系列では「NEW PICNIC TIME」もあがたさんが出演しているので録音は既に終わっているんですね。R.N.A. Organismは翌年の1980年の録音だからね。新事実(笑)。
でも実際のスタジオ録音の際に立ち会ったりとか、Vanity Recordsとの関わりは?

▲実はVanity Rcordsについてはほとんどタッチしていないですね、別行動だったんで。だたR.N.A. Organismの録音の際にピアノの情景描写音が欲しいということになって、明橋がピアノ弾けるらしいということで阿木さんから呼ばれたんです。だからVanityの制作現場にはほとんど関わってないです。

●そうだったんだ。僕の記憶の中でBGMの白石隆之君の録音とかNORMAL BRAINの藤本由紀夫さんの録音の時にも明橋もいたと思い込んでいた(笑)。確かに『ロック・マガジン』やVanityと並行して『ファッション』も一緒に編集してたから、むちゃくちゃ忙しかった記憶しかないなあ。そういえば『ファッション』は3冊しか出版されなかったけど、輝いていて美しい本だったね。

▲そうです。あの1980年は『ロック・マガジン』にしても『ファッション』にしてもデザイン的にも一番充実してましたよね。内容的にも深いし。あの時期はVanity Rcordsも『ロック・マガジン』『ファッション』もあったし一番アクティブで激しかった時期でしたね(笑)。というか凄かった時期ですよね(笑)。

●それぞれが相互に絡み合って動いていたしね。『ロック・マガジン』がなければVanity Rcordsはなかっただろうし。
Vanityでは「MUSIC」の後レコードではなく、コクトーの詩の一節が添えてある【Vanity-Tapes】6本組みカセットテープをリリースするよね。膨大な量(200本以上?)のカセットテープがロックマガジン社に送られてきてたと思うんだけど。
リリースと同時に『ロック・マガジン』02号(1981年3月)特集ホワイト・アプカリプスの中のカセットテープ・ミュージック「騒音仕掛けの箱に吹き込まれた風景」と題した記事で阿木さんと対談しているよね。

▲ホントに自分が言っていることは意味がないとつくづく思いますけど(笑)。

●そんなことないよ。このやり方はムジカヴィヴァの時(阿木譲と対談記事を掲載)と同じように阿木さんとの筆談でしょ。原稿用紙に直接書いて、「ハイ」という感じで阿木さんに渡して阿木さんが書いて「ハイ」というキャッチボールで仕上げていったんだよね。時間がないので、そのまま写植屋さんに出せるようにね。

▲そうですね、たぶんテープ起こしする人もいないですからね。阿木さんがカセットテープ・ミュージックを掛けて、それを聴きながら筆談したんですね。

●でも結構な数のカセットテープがあったでしょ。

▲かなりありました。まずその中から阿木さんが選んで一本一本聴きながら対談したんだと思います。

●Vanityインタビューであのカセットテープの中から二人(DEN SEI KWANとsalaried-man club)とメールベースだけど会話した。DEN SEI KWANは福島の人でね。先ほどのスロッビング・グリッスルとかキャバレー・ボルテールじゃないけど、Vanity Tapeの『Pocket Planeteria』は、今のノイズミュージックに似てるという人がいるけど、現在との決定的な違いは暗さだといってた。でも彼も新しく音楽を作り始めているので楽しみにしているんだけどね。またsalaried-man clubも「近未来のvisionのsound trackとしての音楽を構想中」とのことなので再始動するんじゃないかな。

▲あの時のミュージシャンと実際に会話するって凄いですね。

●それで明橋が対談したカセットテープ・ミュージックは6本組みでVanity TAPESとしてリリースしたでしょ。その後阿木さんはカセットテープで何か展開しようとしたのかしら。Vanityとして連続的にシリーズで出すとか。

▲おそらく、この6アーティストの中から積極的に活動する人が出てくれればいいという想いはあったと思いますね。それは阿木さんとの対談の中からでも伺えると思います。

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《阿木譲との関わりについて》

●明橋が『ロック・マガジン』を編集していたのはいつまで?

▲編集室に泊まり込みだったのは1980年の夏くらいまでだったと思います。大学に戻らないといけなくなったので。だけど、その後も行き来はしていて長い間関わっています。『EGO』の初期の頃は翻訳を手伝ったりしてると思います。

●阿木さんとは頻繁じゃなくてもずっと付き合いが続いたんだよね。『EGO』後の『Infra』とか『Bit』の阿木さんの編集や雑誌の仕事をどのように見てましたか?

▲その辺りは全く関わっていないですね。

●まだ『EGO』の頃は阿木さんの個性が出てて魅力的だったんだけど、『Infra』とか『Bit』になると薄っぺらなカタログ本という感じがした。

▲ユキさんを通じて本をもらったり、お店〈M2(Mathematic Modern)〉(1990年)とか〈cafe blue〉(1993年)、〈nu things〉(2004年)には行ったりしていました。ただ、医者という本業もあるし距離もありますからね。阿木さんから「もういいよ!」と電話を切られたこともありました。結局その頃になると阿木さんの周りには、ムジカヴィヴァとか工業神秘主義とかを『ロック・マガジン』で出してた頃のような思想的な深まりとかを編集できる人が回りにいなくなっていたからだと思います。
だから本当に阿木さんの孤独な作業になっていたんだと思います。

●松岡さんは新しい音楽を聴いているわけじゃないし、阿木さんとも付き合いもなくなっていた。もちろん今でも工作舎ではいい本を出版しているし、松岡さんはいろんな場所で話したり、面白い発想で読み説きしていると思います。知の伝道師、知の便利屋さんという感じです。一般の人にはわかりやすい。ただ音楽から時代を読み解くようなことはしないと思います。松岡さんは新しい科学の知識やアプローチの仕方を自分の持っている知性と結びつけて考えようとしているんだろうけどね。だから話は面白いんだけどね。

▲知的な世界というか言葉の人ですよね。「NEW PICNIC TIME」の後にみんなで工作舎に遊びに行ったことがありましたよね。その時に思ったんですけど、それまで阿木さんが関わってこなかった知性の部分と化学反応が起きて、松岡さんにとってもインパクトがあったと思うけど、阿木さんによっても音楽に接するときの深まりとなっていったと思います。その結果が『ロック・マガジン』01 02 03 04 05号(1980-81年)だったんじゃないかと。だからあの頃の『ロック・マガジン』が一番面白いと思いますし、その現場に立ち会えたのは幸運でした。

●B5判サイズの時だよね。『ロック・マガジン』で紹介している音楽が時代と交感(コレスポンダンス)しているリアリティを常に感じさせる時期だった。

▲今日、阿木さんとの関わりで是非喋っておきたいことがあるんです。私にとって忘れられない光景があって『ロック・マガジン』02か03号の頃だと思うんですが、制作途中では阿木さんもピリピリしていてモノが飛んできたりするじゃないですか(笑)、版下まで出来上がった頃に阿木さんの住まいから電話がかかって来て夜明けに行ったんですよ。その時に聴かされたのがジョイ・ディヴィジョンの「Closer」(1980年)だったんです。既にイアン・カーティスは自死で亡くなってたんですが、アルバム・ジャケット(ジェノヴァの共同墓地スタリェーノにあるアッピアーニ家墓所の大理石彫刻)を見ながら、阿木さんが「この音楽を聞いてみろ。この音楽を奏でている時点で、彼はもうすでに死んでいるよ。」といったんです。二人でイアン・カーティスの死を悼みながら聴いていたんですが、後で思ったんですけど、私が来る前に阿木さんはもしかしたら泣いていたんじゃないかと思うんですよね。それまでいろんな人が出入りしていたけど、その時にはもう誰もいなくなってスタッフは私だけだったんですね。その時の阿木さんの孤独というか悲しみというかその情景は忘れることが出来ないんです。
音楽では情緒的なものを排除しているのに、矛盾しているんですよね。やっぱり人間を信じ続けていたと。だからこそ、こんな美しい音楽を求めたのかも知れません。一度そういう姿を見てしまうと、やっぱりどこかで放っておけないですよね(笑)。

Joy Division/CLOSER

●僕も『ロック・マガジン』を抜けた後は結構ボロボロだったのよ。

▲そうだと思いますよ。

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《阿木譲の晩年について》

●明橋は付き合いというラインを超えていろんな面でサポートをしていたよね。結局最後も看取ったの?

▲私の前で亡くなったわけではないけど、亡くなる前日に会いに行きました。
それ以前の数年前に膀胱がんになって、その時も病院とか色々手配して紹介状とかも書いたりしたけど、ただ阿木さんは医者嫌いなのでね。

●そうだよね。阿木さんが医者嫌いなの知ってますよ。『ロック・マガジン』の時も病院とか行ったことなかったもの。高熱があっても行かなかった。

▲それで、入院して手術後に管をつけてブログに「プラスチック人間になった」って書いてましたけどね(笑)。この段階で自分の死期も判っていたんじゃないかと思いました。その後暫く落ち着いていたんだけど再発したんです。その時に直ぐに処置すればよかったんだけど、なかなか病院に行くとはいわなくて最終的に色々探して紹介状書いて受診した時には手遅れで、結局在宅で看取りということになりました。僕も時々会いに行ってたけど、最後にユキさんから倒れたと連絡があり、行ったら病院で人工呼吸器を装着されていて意識がない状態でした。その次の日に亡くなりました。

●最後の阿木さんの様子は、後からユキさんからも聞きました。ユキさんに感謝の言葉を言ってたとかね。

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《自利利他について》

●先ほどの話に戻りたいんだけど、生命の問題と仏教のこと。今勤めている真生会富山病院にもそういう理念がある?

▲仏教精神に基づく医療を実現しようとしている病院ですね。
※真生会富山病院のホームページの理念には以下のことが書かれている。
仏法に説かれている「自利利他」の精神に基づいて、安心と満足の医療をめざします。
自利利他とは、他人を幸せにする(利他)ことが、そのまま自分の幸せになる(自利)ということです。

●現代フランスの経済学者ジャック・アタリがパンデミックという深刻な危機に直面した今こそ、「他者のために生きる」という人間の本質に立ち返らねばならない」と利他主義の必要性を説いているんだけど。利他主義って仏教用語でしょ。
※ジャック・アタリの語った言葉
利他主義は最善の合理的利己主義に他ならない。パンデミックという深刻な危機に直面した今こそ、他者のために生きるという人間の本質に立ち返らねばならない。協力は競争よりも価値があり、人類は一つであることを理解すべきだ。利他主義という理想への転換こそが、人類のサバイバルのカギである。

▲「自利利他」っていうんですけどね。自分の幸せが人の幸せになるし、人のために尽くすことが自分の幸せになる。菩薩の道が「自利利他」なんです。

●僕は阿木さんのことは気にはなっていたけど何にもしていないわけです。明橋は阿木さんを最後までサポートしていたでしょ。阿木さんとは亡くなってから死者としての阿木譲とは対話をしているけどね。今Vanity再発の原稿を書いたりしているのは、阿木さんの業績が少しでも評されるといいと思っているからなんです。
明橋が『ロック・マガジン』と出会って今の職業に就いて仏教の勉強もして、その辺りに僕では判らない信仰とかの問題があるのかなと思ったんだけど。

▲阿木さんは人生の恩人ですね。親と仏教の先生。次に阿木さんとユキさんは人生の恩人だと思っています。どれだけしても返しきれない恩を受けたと思っているのです。

●僕は幼児の頃にカソリックの洗礼を受けていて、宗教のことはよく考えるんだけど、信仰というのはよくわからない。だから親鸞の言葉かもしれないけど「自利利他」というのも信仰に関係があるのではないかと思ったりするんだけど。

▲親鸞聖人ももちろん使われているけど、元々仏教の言葉ですね。
阿木さんには、医者として忙しくなったので何もできなかったなというのが想いですね。

●そんなことないよ、阿木さんが晩年まで活躍できたのは明橋の功績が大きかったと本当に思います。

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《『ロック・マガジン』的言葉とは》

Lucy Railton/「時の終わりのための四重奏曲」第5楽章(イエスの永遠性への賛歌)

●僕にとっては途中抜けたこともあるけど1979年から81年までの『ロック・マガジン』にはむちゃくちゃ思い入れが強いんですよ(笑)。そこで音楽との接し方が決定的になったので今だに音楽を単純に楽しむという聴き方はできない。音楽を聴いて単に気持ちがいいとかだけではなくて、これは何だろう、この音は何を表しているんだろう、何を感じているんだろう、きっとこれに違いないとかね。そこから今の時代を読み取ったりとかするために本を読んだり勉強したりした。
最近だと阿木さんもとても好きだったMODERN LOVEというレーベルから女性チェリストLUCY RAILTONのレコードがCovid-19のチャリティのためにリリースされていているんだけど、演奏されている曲がオリヴィエ・メシアンの「時の終わりのための四重奏曲」の第5楽章(イエスの永遠性への賛歌)なんです。この曲はヨハネの黙示録の言葉から着想を得た作品で、1941年にナチスの強制収容所捕虜で作曲し演奏された。このレコードは2010年にデボンのバックファスト修道院でのライブ演奏で観客の咳や声も音楽の一部として録音されている。ここから何を読み取るかというのは明らかに『ロック・マガジン』的な感覚だし言語化したいというのは常にある。

▲阿木さんは文字を信じてないというか、文学を信じてないというところから出発しているのがあるじゃないですか。でも阿木さんは結構楽しんで聴いていたんじゃないかと思いますが、どうなんでしょう?

●今思い出したけど、阿木さんから「僕は松岡正剛や君らのような言葉型の人間じゃないから」とよくいわれたな。でも本人は言語学の勉強とかしていて「嘉ノ海、言語っていうのは結局記号なんだよな」といって記号論の話をしたことがある。この前阿木さんが亡くなってからブログを読んでみるとジル・ドゥルーズの「襞」(1998年)とかを取り上げていたので、自分の聴いてきた音楽の裏づけとしての哲学的な世界の読み取り方にも関心があったんだと思います。理路整然と論理展開をするのではなく阿木さんらしいいい文章だったけどね。

▲阿木さんは感覚的に本質を捉えるんですよね。音楽を通して時代の精神とか、時代の空気とかを捉える。それを表現するためには、やはり言葉が必要だったんだと思うんですよね。それがラジオであったり『ロック・マガジン』だったりするので、そういう意味で阿木さんも矛盾しているわけですよね。だけどどこかで言葉以前のものとか感覚的なものを大事にしたと思います。

●今明橋はLINEのラジオをやっているよね。登録してるからたまに聞くんだけど。
※LINE「ココロほっとLINE@」で明橋大二の話が聞ける!!!

▲お奨めの曲を紹介して、好きなことを言い散らかしているんですけど(笑)。それでも歌詞を通じてメッセージを読み取るということやっているんです。ただリスナーには歌詞だけじゃなくて「音楽」を聴いて欲しいと思うしミュージシャンも「音楽」を伝えたいんですよね。歌詞を表現するために「音楽」があるんじゃないという認識は持ってますけどね。こんなん阿木さんに聞かれたらボロクソにいわれそう(笑)。

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《remodelの今後の動きについて》

●Vanity-BOXが届いたでしょう。Studio Warpの中村泰之さんが明橋さんには是非持ってて欲しいということで送られたんですよ。阿木さんが企画して中村さんが資金を出して立ち上げたremodelというレーベル番号が付番されているんだけどね。そのremodelから新しいミュージシャンのCDがリリースされているんですよ。阿木さんから引き継いだ平野隼也くんが運営しているenvironment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ] で活動している音響系の音楽家なんですね。生前の阿木さんと交流があった人が多いです。そのような動きがremodelの再開となって、海外も視野に活発化するようです。僕は今彼らとも交流してるんだけど音楽について雄弁に語る人はいないんです。本当はもっと語って欲しいだけどね(笑)。でも作っている音楽は凄くいいんですよね。今の時代を感覚的に捉えている音楽です。

▲中村さんからVanity-BOXを送ってもらってありがとうございます。中村さんってどんな方なんですか?

[中村さんの紹介、阿木さんとの関係とか嘉ノ海との関係と2011年7月に制作されていたVanity-BOXの説明・・使用許諾の問題とかを説明、ミュージシャンへの対応 マスタテープの返却、連絡がつかない人、VODや海外での動きなどを説明 ※東瀬戸悟 「阿木譲とVanity」を参照]

▲今聞いているだけでも凄い労力ですよね。中村さん、よくリリースしてくれたと思います。

●トレーランスはLP化されていないテープが残っていてremodel(『Dose』『Demo』)としてリリースされている。これが前作と違う感じで途轍もなく素晴らしい作品なんだよね。今回何十年ぶりに聴いてどうでしたか?

▲今回Vanity-BOXを聴いても全然古くないですね。何十年も先に行ってたんだと改めて思いました。
個人的にはこのような音楽を聴く機会があまりなくて、肉声とかギターの音とか好きなんですよね。でもremodelを聴いてから巷に溢れている音楽を聴くといらないものがたくさん入っているなあと感じますね。音響とか美しいものを追求していった時にたどり着いている音楽なのかなと思いました。情念が乗りすぎている音楽はうそ臭いって阿木さんもいってましたが、電子音楽の中にある喜びや悲しみが信じられるのかなと聴いていて感じました。

●聴いてもらった中に入っていたミュージシャンのKENTARO HAYASHIは晩年の阿木さんのブリコラージュCDのマスタリングもしているんですね。阿木さんとも交流も深かった。彼の音楽を聴くとコロナ禍での音楽の役割について考えるんです。岡山ペパーランドの能勢伊勢雄さんは傷ついたエーテル体を修復するために音楽の効用があるのではないかというんです。それは聴いていて癒されるとか気持ちがいいとかだけではないんですよね。エーテル体はというのは生命体というか宇宙的な叡智といってもいいかも知れないけど、その時代に働きかける時代霊とも関係があるんだけどね。時代を読み解くとは音楽を体験して感じられるものであるし。
事前の会話で明橋がいっていたコロナ禍の中で傷ついた部分がストレスとなって女性や子供の自殺者数の急増に影響を与えているという話もこの傷ついたエーテル体と大いに関係がると思う。そんな禍の中でこそ音楽の役割があるのではないかと強く感じる。remodelのミュージシャンはそんな位置にあるとも思っているんだよ。
先ほどのremodelからリリースしている電子音楽家の作品のジャケットにはSpecial thanks to AGI Yuzuruのクレジットも入っているんですよ。中村さんとしてはVanity-BOXも含め7割くらいは海外で販売しているしremodelはヨーロッパやアメリカをターゲットに考えているようなんだ。日本より外国の方がきちんと評価されると思っているので、このインタビューも含めてVanityとはどのようなものだったのか、ミュージシャンがどのような想いをもってVanityに参加したのかを伝えたいと思っています。
実際にドイツとか海外で反響があり、Vinyl-On-DemandでLP化され2020年5月にリリースされた。だから今はモノ(音源)が流通している段階なのでどのような背景があったのかとか海外では詳しく知られていない状態。だからVanity Recordsの海外展開を通して阿木譲や『ロック・マガジン』『ファッション』などの評価がなされることを期待しているところです。
これらの動きにより何万枚も売れるものじゃないけど、少しでも評価してもらえたらと思ってます。
ま、阿木さんはこの動きをどう思うか判らないけど、少なくとも個人的な想いはあるしね。

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《再び阿木譲のこと》

▲そうですよね。阿木さんが再評価されたら嬉しいです。阿木さんも絶対喜んでくれますよ。嘉ノ海さんのことは離れても気にしていたし愛してましたから。だから厳しく接してたんだと思います。僕は医者の世界に戻っていくんだと阿木さんも思っていてどっかで距離感があったと思うし、だからこそ長続きしたんだといえるんだけど。でも嘉ノ海さんのことは自分の分身みたいに思っていたし、離れてからもずっといってたんですよ。
阿木さんもあっちの世界に行ったら少しは素直になって感謝していると思いますけどね(笑)。

●いやあ、そうかなあ(笑)。
阿木さんの一周忌の時に(2019年)3日間0gで縁があったミュージシャンによるライブが開催されたんですが、『ロック・マガジン』の編集に深く関わった人は誰も来なかった。告知もされていたから、林(春美)くんとか中野(由美子)さんとか一人くらい会えるかなあと期待していたんだけど。

▲それは全員トラウマになっているんですよ(笑)。その人の中にしっかりと生きていると思いますけどね。
松岡正剛の「千夜千冊」で阿木さんの「イコノスタシズ」(1984年)のことを書いているけどめちゃくちゃ情緒的な文章ですよね。

●松岡さんと阿木さんの関係って不思議だよね。2016年に大分県立美術館で開催された能勢伊勢雄プロデュース「シアターインミュージアム」展で松岡さんと15年振りに会って「おう。嘉ノ海君元気か?」という感じで話をしたんだけど。その時に「阿木君はどうしているんだ?元気してるの?」「会ったらよろしくといっといてよ」とか何回もいうわけ。すごく気にしていましたね。阿木さんも晩年0gで会ったときに「松岡正剛と会ったりするのか?」と気にしてました。
1980年当時から思ってたけどあの二人の関係って変だよね(笑)。素直じゃないし(笑)。

▲お互いリスペクトしていたんですよ。松岡さんにないものを阿木さんが持っていたし、阿木さんにないものを松岡さんが持っていた。

●阿木さんが亡くなってから、今に至るまでコメント出してないんですよね。だから松岡正剛にインタビューしようか迷ったんだけど、『ロック・マガジン』やVanityとなると明橋でよかったと改めて思います。依頼したら応じてくれたとは思うんけど。

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《コロナパンデミックについて》

●最後に医者としての明橋に聞きたいのだけど、コロナ禍におけるパンデミックって「スペイン風邪」とかあったけど、僕らが生きている間にこんな経験するとは思わなかった。世界同時並行的に感染症が起こっているという経験だよね。
現場で考えていることや感じていることなどについて是非聞かせて欲しい。

▲コロナ禍は社会的に影響も大きいし亡くなる人もいるわけですが、職業的にはメンタルヘルスへの影響について気にしているし調べたりしているわけです。子供へのアンケートでは何らかのストレス反応を示したパーセンテージが72%で凄く高いです。東日本大震災の時にも同じような質問をしていて43%なんです。この時は被災地以外の地域の人にもアンケートをとっているので被災地だけであればもっと高いパーセントになったと思いますが、それでも43%は高いと思います。しかし今回は72%と東日本大震災を遥かに上回るストレス反応が出ています。中には「赤ちゃん帰り」とか「チック」とか「爪噛み」とか医学的な症状を出している子供もいるし、親もそのために切れて怒鳴ったりするのが36%だとかね。という形でメンタルヘルスへの影響がかなり出ているということなんですね。
それが一番典型的に現れているのが自殺者の数です。警察の暫定値というのが2021年1月31日に出てまして1年間の自殺者が21,077人ということなんです。実はリーマンショック(2008年)の時に自殺者が30,000人を超えて国も自殺防止のために対策を講じて年々減って来てたんです。ところが今回11年ぶりに自殺者が増えたんですね。明らかに新型コロナウイルスの影響です。前回は男性が一気に増えたんですね。でも今回は女性と子供なんです。2020年8月は前年比180%でした。小中学生も倍くらいとかでした。
女性はうつになりやすいですが、男性に比べて自殺には至らないんです。男性は溜め込むけど女性は喋れるからではないかと言われています。喋ることにより発散していたのが新型コロナの影響でそれが出来なくなったからではないかと。ファミレスで何時間でもしゃべっていたのが出来なくなった。そして子供達も孤立しているんですね。そうしたソーシャルキャピタル(人と人との関係性や繋がりを資源としてとらえて評価する考え方)というか社会的資源を使えなくなったということが特に女性の場合にダメージを与えている。
なんでうつになっているのかがわからない人がたくさんいる。それは我々が気付かないこころの中でじわじわとダメージが蓄積されていくというかストレス反応が進行していく。だから日常生活がそれなりに送れているけど、慢性的なストレスがメンタルに影響を与えている。
だからこそ、このようなオンライン技術もそうですが、必要になっていると思います。分断されているので繋ぐ努力を意識して行わないと孤立してしまう。ただオンラインさえあればいいかというと、そうでもなくて、たとえばカウンセリングでは対面の方が結果的には効果が高くなると言われています。全部オンラインでもダメなんですよね。原始的なことなんだけど、コロナ禍を通して結局は人と人が関わるということがこんなに大事なことだったんだと逆に炙り出されたと思うんです。

●先ほどの自殺者が女性の方が多いという傾向は世界ではどうなんだろう。

▲どうなんでしょうか、というか世界は新型コロナの死者数の方が遥かに多いですね。日本では昨年新型コロナでの死者は3,400人くらいなんです。で、自殺者20,000人。日本ではコロナの死者よりも自殺者数が遥かに多いんです。

●そうか、それで海外メディアがその事実に驚愕したんだよね。

▲そう、諸外国がびっくりしたんです。だからこの傾向は日本独自のものですね。

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《死者の役割》

●東日本大震災の時にも感じたんだけど、現代においての死者と対話することがなくなったことが大きいのではないかと思うんだけど。死者との関わりがなくなっているので孤立しやすいとか分断されやすいのではないか。さっきのメシアンの「時の終わりのための四重奏曲」を聴いて何を感じるかというと単に癒しが欲しいとかではなくてその音楽を通して死者が語りかけてくる、対話するという感覚が必要なのではないかと思うんだけど。

▲そう思います。死を排除した文化ですね。どんどんばい菌を排除して清潔にしてまたウイルスにやられるということがあるように、死を生活の中から排除して全部病院の中で亡くなるとか死をタブーにしてみなかったことにするとかすることにより、魂から反逆を受けているというか。生と死は裏表だしくっついているものなので、どちらか一方だけはないので。だけどそれを繋ぐ手段が宗教だったり音楽だったりするわけですね。昔の音楽は太鼓を叩いたり祝祭とか儀式とかね。音楽ってそこから発生しているわけじゃないですか。ブルースも鎮魂の要素もありますし日本の祭りも死者との交流という意味もありますしね。音楽は我々と見えないものの交通であり窓口みたいな役割だと思うし、だからこそ阿木さんが音楽を聴かなくなったらダメだと言い続けていたのはそういうことなのかなと思っています。

●僕もそうですよ。ちゃんとLPなりCDを買って聴きますよ。音楽はリアルな霊ですから(笑)。もちろん消費するだけの商品もありますけどね。その中から感覚を持って選び取っていくということですね。Vanityも『ロック・マガジン』も一緒ですよ。そういえば他のミュージシャンへのインタビューは読んでくれた?

▲佐藤薫さんのインタビューは読みました。

●あれ面白かったでしょ。突っ込んで聞いたからね。それと元々、Vanity Recordsのレヴューや当時のことを書くのは嘉ノ海が適任じゃないのって佐藤薫さんがいってくれたんですよ。それで今回の企画を引き受けた。
藤本さんへのインタビューは興味深いものだった。結局阿木さんのことを雄弁に語ってくれたし。ちゃんと見ていたんだなと思いましたね。

▲みんな阿木さんに対してはいやな思いもしてるけど、リスペクトもしてるしね(笑)。複雑なんですよね(笑)。Vanity Recordsは40年経ってremodelとして再生されても今の時代でも聴けるということは40年も先に行ってたんだなあと思います。世界的にみても凄いですね。

●阿木さんとも交流のあったjunya tokudaがトレーランスのリミックスを手がけているんだけど、トレーランスの音は今聴いてもすごいっていってた。だからトレーランスにしても現代に繋がる音楽を作っていたのは間違いないね。
病院から勤務中に長時間ありがとう。また会おうね。

▲是非お会いしましょう。

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※明橋大二が指摘していた日本における自殺者数は海外から驚きをもって伝えられた。
参考にWeb上にあるヘッドラインを抜粋する。

新型コロナよりも多く失われた命。「10月、自殺によってコロナの10か月間よりも多くの日本の命が奪われる」(「CBS NEWS」より)

新型コロナウイルスが拡大するのと並行して、メンタルヘルスに関連したパンデミックがやってくる……。すでに日本はその第一波に飲み込まれているのだ。

アジアでは、欧米に比べてメンタルヘルスの問題について汚点がつきまとうことが、死者数の原因かもしれない。例えば日本では、自分の感情や本当の自分を見せることに対して、社会的圧力がある。

真っ先に「自助」を求められる社会では、追い詰められたときに助けを求めることすら叶わない。まさに生き地獄だ。

あまりに多い自殺者数、先進国のなかで遅れに遅れている女性の社会進出、イジメ……。これらはすっかり我々にとって「当たり前の日常」となってしまった。いや、人によってはそれを「日本の文化」とすら呼ぶかもしれない。

新型コロナウイルス感染による日本の死者数は、(世界的にみれば)かなり少ない。だが、一方で日本の自殺者はかなり多い。そして、最近の女性の自殺者の急増は、この国特有の悲劇的な問題といえる。

日本の自殺率は長年、先進7カ国(G7)で最も高くなっている。新型コロナウイルスのパンデミックはその日本で、さらに多くの人を自殺という選択に追い込んでいるようだ。

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▲インタビューを終えて
阿木さんとは、自分が19歳の時に出会ってから亡くなるまでの間、随分長い間、関わってきたような気がする。しかし実際、『ロック・マガジン』のスタッフとして編集室に泊まり込んで過ごした期間は、1年にも満たない。
ただその1年間は、自分の人生にとって、決定的に、豊穣で深遠で衝撃的な時間だったと改めて思う。それを通じて、ものの見方は根本的に変わったし、今の自分があるのは、『ロック・マガジン』と阿木さんのお陰だ、という気持ちはずっと変わらない。
阿木さんほど毀誉褒貶の激しい人はなかったと思う。実際、阿木さんとまともに関わった人は、みなある意味トラウマを抱えている。ただそれは(少し美化して言えば)阿木さんの言葉があまりにも本質を衝いているために他ならぬ自分自身と向き合わざるを得なくなるからだと思う。
「音楽だけは聞き続けろよ。」亡くなる前、遺言のように言われた言葉は、本当に遺言になってしまった。その遺言を、自分は守ることができているだろうか。
そして出会った時、阿木さんから突きつけられた問い、「君には何ができる?」に自分は何か答えることができただろうか。
その答えを阿木さんから聞くことはもうできない。ただ19歳から20歳という二度と来ない時期に、阿木さんの編集室に飛び込んで、開けた世界は、今も心の中で鳴り響き、自分を衝き動かしてくれている気がする。

●インタビューを終えて
一つの音楽が人生に化学反応を起こし新しい世界観を獲得することがあると改めて感じたインタビューだった。人智学者の高橋巌に人生の中で一番大切にしているものは何かと聞いたときに「出会いです」と答えられたことを思い出していた。出会いの対象は人でありレコードであり本であり映画であり絵画であるがそのひとつひとつが銀河のように輝いていることがあり、それこそが生きている醍醐味であり普通のことなのだ。
今回の話には阿木譲という稀有な人物が介在するのだが、今なおモノとして存在する『ロック・マガジン』やVanity Recordsはそんな化学反応の痕跡を留めている。
このインタビューのタイトルを『死者はそう遠方へは行ってしまわない』と考えた。この言葉の元は、民俗学者柳田国男の「日本人の死生観では人は死んだら霊となり、この国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、かなり根強くまだ持ち続けられている」から着想した。阿木さんと対話したりすることも同じことだと思ったからだ。明橋が最後のほうにコロナ関連でストレスを抱えて自死する女性や子供の話をしてくれた時にこの国に存在する死者たちのことを考えた。だから死者は墓の中にいるわけでもなく現役なんだ。阿木さんも。
しかし結局タイトルは『それにもかかわらず敢えてなお』にした。『ロック・マガジン』特集工業神秘主義音楽の表紙に阿木さんがインレタの残りをつかってローマ字で刻印した言葉だ。これは当時阿木さんに紹介したドイツ表現主義の詩人ゲオルク・ハイムの詩からとられた言葉だ。ハイムは「三たび『それにもかかわらず敢えてなお』と言うこと、古参兵のように三たび手につばをつけること」こんなの詩を1911年に残している。やっぱり阿木さんにはこっちの方が似つかわしい。

VANITY INTERVIEW
⑧ DADA(小西健司)

VANITY INTERVIEW ⑧ DADA(小西健司)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


DADA

『音風景としての「浄」』

『浄/DADA』についての試論

「浄」のレコード・ジャケットで使われている「餓鬼草子」の図は京都国立博物館所蔵の第5段である。絵巻物では餓鬼道に堕ちたことの苦しみは前世での行いのせいであると仏様が餓鬼たちに説法する場面だ。しかしジャケット・デザインでは仏衣の一部と風景(背景)のみである。また同じ第5段には餓鬼が食べ物が炎に変わる場面や転生していく餓鬼も描かれている。しかし、阿木さんが切り取った断片はあくまでも「Obscure」の意味通り「はっきりしない、ぼんやりとした」ものであり、聴き手が絵巻物に惑わされず音楽からイメージさせるような工夫がされているのである。

また、『浄/DADA』の音源を聴くと「ドイツの音楽グループのポポル・ヴーを想起してしまう」と東瀬戸悟(フォーエヴァーレコード)は語っていた。ポポル・ヴーはクラウトロックの旗手であり、1970年代ニュー・ジャーマン・シネマの代表的映画監督ヴェルナー・ヘルツォーク(1942年-)の映画音楽を手がけている。今回改めて『アギーレ/神の怒り Aguirre, der Zorn Gottes (1972年)』や『ガラスの心 Herz aus Glas (1976年)』のサウンドトラック盤を聴くと確かに「音風景」としての「浄」が立ち現れるのである。

阿木さんは、VANITY0005『乗物図鑑/あがた森魚』の録音時と同じように、既存のもの(ポポル・ヴー)から「浄」というコンセプトだけを変えて全く別のものに置き換える手法を既に使っていた。サンプリングという今では当たり前の音楽制作技だが、阿木さんが体験した音楽の中からコンセプトに合った何を選択するのか、ここに現代に通じる意味がある。またその技法は同時並行的に行われていた『ロック・マガジン』のデザインにも応用されていくのである。

このアルバムはBRIAN ENOに捧げられている。明らかにObscure Recordsへの阿木さんのENOに対する返答なのだろう。ここで少しObscure Recordsに触れてみよう。1975年から1978年に掛けてリリースされた10枚のLPシリーズに参加している実験音楽の作曲家達を列挙すると、ギャヴィン・ブライアーズ、デレク・ベイリー、マイケル・ナイマン、デヴィッド・トゥープ、マックス・イーストリー、ジョン・ケージ、ハロルド・バッド他。その中で注目すべきは音楽学者としての肩書きを持つマイケル・ナイマン(1944-)である。彼が「Experimental Music: Cage and Beyond」(邦題:『実験音楽 ケージとその後』1992年水声社)を出版したのが1974年であり、ENOが既に読んでいたことは想像に難くない。ナイマンが音楽誌に寄稿していたのが1970年から1972年までであり、ENOがロキシー・ミュージック在籍期間(1971年-73年)と重なっているのである。ENOは音楽芸術そのものの深遠な冒険を既に始めていてその後のアンビエント(家具の音楽)への流れを見据えていたのではないかと想像するのである。
おまけにObscure Recordsは、ENOが設立したレーベルではあるが、Island RecordsやPolydor Records、Virgin Recordsの販売網を利用しながら世界中に展開された。
なのでVanity Recordsの第一作目の『浄/DADA』は阿木譲のENOのオマージュとして捉えることも出来るのである。
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DADA 小西健司へのインタビュー
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DADAは1978年に阿木譲が設立したVanity Records第一作目としてVANITY0001『浄/DADA』をリリースしている。彼らのことやこのアルバムの成り立ちについてもほとんど知らない。他のスタッフと同じように『ロック・マガジン』と関わった時期(1979-1981)がずれているのが理由だ。当時どのような経緯でリリースされたのかを聞きたかった。小西君(呼ばせてください)とは、彼がその後結成する4-Dの関係で知り合うことになった。DADAもう一人の泉君はスケジュールが合わず残念ながら参加していただけなかったが当時の写真を提供してもらった。


DADA

ということで小西君にはこの機会に当時のことや今の時代をどのように感じているのかを語ってもらった。
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小西健司
ドイツLeipzigと大阪をベースにLeibachを核とするアートプロジェクトNSKが主催するビエンナーレやLeipzigで毎年催されるNacht Der Kunst等にサウンドオブジェや音響構築作品を出展する他自作楽器KonishiPhoneやアナログシンセ、センサー等を使用したライブも行う。
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泉陸奥彦
フリーの作曲家。元カリスマの菅沼孝三(drum)近藤研之(bass)らと共にトリオのバンド「Thrteen Triangle」を結成するも、現在はコロナ禍のため活動を自粛中。
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▲小西健司(DADA)
●嘉ノ海幹彦


DADA 泉陸奥彦と小西健司(1980年)
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●『浄/DADA』はVanityの第一弾として1978年にリリースされたましたがどのような経緯はがあったのでしょうか?また阿木譲との初対面の印象やどのような感じでお会いになりましたか?

▲『浄/DADA』制作の経緯は忘れてしまいました(笑)。 ただ何度も「餓鬼草紙」は制作前に見せてもらいました。

●少しでも思い出してくださいね(笑)。でも大変興味深いですね。「餓鬼草紙」のコンセプトは阿木さんが第一作目として暖めていたものなんですね。「餓鬼草紙」は平安時代後期に死後転生するという仏教思想の六道の餓鬼世界を描いた絵巻物です。その頃はブライアン・イーノのObscure Recordsの10枚組シリーズ(1975-1978)が始まっていたのでイーノへの返答として何か日本的な生死に関わるようで物語になるような連続したリリースイメージは持っていたと思います。ユーロプログレ的に日本の生死世界観をシリーズで展開しようとしていたのかも知れません。

▲阿木氏と最初に会う事になった経緯も忘れましたが、DADAとしてではなく同時にやっていたバンド飢餓同盟として心斎橋にあった喫茶店「Williams」で、メンバーの安田隆と結成したまさにその日に初めて会いました。その後阿木氏を長時間待っていたのですが現れず、近くの席に座っていた「それ風な」人に声を掛けてみると阿木ではなく八木さんという人でした。偶然にも八木さんは阿木さんの知り合いであったため電話(公衆電話)で連絡を取ってもらい、めまいがするので出て来られないというので阿木氏の居る住居兼事務所へ連れて行ってもらいました。


飢餓同盟 小西健司と安田隆(『ロック・マガジン』9号1977年8月より)

阿木譲がプロデュースしたライブハウス梅田「モンスター・タイムズ」のフライヤー(1975年)

●飢餓同盟結成その日だったんですね。ところで阿木さんと会った印象は?

▲第一印象は「なんで家の中でもサングラス?」です(笑)。正確には自分はこれ以前、高校生時代に大阪城公園の片隅で行われていたフリーコンサートで阿木氏のステージを見て彼の自主制作シングル曲「俺らは悲しいウィークエンドヒッピー」に大きな衝撃を受けていたのですが、それが阿木譲氏だとはしばらく気が付きませんでした。

●「俺らは悲しいウィークエンドヒッピー」は阿木さんがフォークシンガーの頃ですね(笑)。自分が高校生の時に行った初期の「春一番」コンサートにも出ていたのかなあと思いました。憶えていないですけど(笑)。
『浄/DADA』を録音したのは、どちらでしたか?やはり西天満のスタジオ・サウンド・クリエーションでしょうか。

▲そう、スタジオ・サウンド・クリエーションです。


『浄』の録音風景(於:大阪西天満スタジオ・サウンズ・クリエーション1978年4月19日)

●プロデューサーとしての阿木譲の役割はどのようなものでしたか?

▲こんな感じでという指示に従ってDADAが即興で具体的な音にしてゆくというプロセスだったと思います。予め収録曲のようなモチーフや手法があったわけではありません。

●今回『浄/DADA』のリマスタリングを宇都宮泰さんがされているのですが、実際に聴くと別物ではないかと思うくらい音の奥行き感も音粒の表れも臨場感にしても音響が違って聴こえました。また全体的に「餓鬼草子」の絵巻物で表現されいる「水」のイメージを強く感じます。クレジットによると1978年4月19日とありますが、一日で録音したのですよね。またVanityリリース以降のDADAとしてどのような活動をされたのでしょうか?
『浄/DADA』が有効に働いていたのでしょうか?

▲ライブ活動は行っていましたが、「浄」を意識してライブ演奏に取り入れた事はありません。またリリース枚数が少なかった事もあり、活動に於いて「浄」が何かのきっかけになった覚えもありません。
むしろ多くの機材やシンセを使ったライブを行うシンセデュオとしての局面の方が比率的には遥かに多かったと思います。

●小西君としては「浄」という作品は自分たちにとって別物という感じがあったのですね。阿木さんのリクエストに応えたという感じでしょうか。『ロック・マガジン』で好きだった(気に入っていた)号は何号でしょうか?発刊初期の頃だとおもいますが。

▲阿木氏が『ロック・マガジン』と言い出していた時は、いわゆるロック雑誌を出版するのかと思っていたら本当にロックマガジンという名の雑誌だった事に驚きました(笑)。

●当時聴いていた音楽は?叉影響を受けたアーティストやレーベルはとか教えてください。

▲当時の阿木氏の事務所兼住居で、Faustはじめいわゆる多くのクラウトロックを聴かせられたのですが、Canの「TAGOMAGO」以外興味があるものがなくむしろ彼が番組の為に購入していたような、Tiger B Smithみたいなハードロックに興味があり、後に自分でも購入して聴きました。

●現在の活動と今後の活動のプランを教えてください。

▲DADA以降ずっとやっている4-D mode1での活動と並行して4-D mode1のメンバーでもある横川理彦とのデュオSchneider x Schneiderそして音響オブジェ含めたソロライブ活動です。

●新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対してどのような感想をお持ちでしょうか?
生きている間にこのような時代(世界が民族や言語を超えて同時に同じ惨禍にある)と対峙することは、幸運にも(失礼)そうあることではありません。

▲よい経験を経て見えにくかったものが可視化し始めて来たと思っています。

●記憶を辿って質問に答えて頂き有難うございました。

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●インタビューを終わって
今回の会話を機にVanity Records(1978-1981)の『浄/DADA』を聴くと3作目以降のVanityの展開が全く想像できない。『ロック・マガジン』の変遷と共にVanityが作られたのだと改めて感じた。
小西君とは1983年に初めて会ったと記憶している。DADAの後の4-Dの頃だ。
さっき記憶の押入れから探し出してきた小西君のソノシート『4-D/After Dinner Party』(小西健司、成田忍、横川理彦、中垣和也)のジャケットを見ると1983年とある。special thanksに名前を入れてもらっていたので少し付き合いがあったのだ。佐藤薫の名前も確認できる。当時『ロック・マガジン』をやめて1年後くらいたったころに古川隆人さん(パニック商事のギターリストで1976年の万博公園「8.8 Rockday」に音源がある)のアパートに長期間居候していて色んな人に出会った。部屋にはKORGのシーケンサーやTEACの8トラック・オープンリールがあり、テープをセラミックで切り貼りして音楽を作っていた。1980年代前後の音響機器の革命はVanityインタビューで様々なミュージシャンが語っている。
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最後に、本インタビューについては東瀬戸悟氏にご協力頂きました。