Author Archives: kyourecords

単行本『AGI』発売のお知らせ

タイトル:AGI
監修:中村 泰之
著:嘉ノ海 幹彦、椹木 野衣、平山 悠
価格:¥4,950(税込)
ISBN:978-4-86400-041-3
発売日:2022 年2 月28 日
版型:B5(257×182×54mm)
『AGI』『rock magazine 復刻版』2 分冊
ページ数:本文208+592 ページ 計800 ページ
BOX 仕様 : 2 冊の本とCD4 枚は豪華ボックス(266×191×54mm) に封入
製本:並製
初版特典:CD4 枚組
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

Amazon https://amzn.to/3Ai9xte

商品詳細情報

『AGI』本文見本

『rock magazine 復刻版』 本文見本

『阿木譲の光と影」シリーズ 第四弾 Junya Hiranoインタビュー

『阿木譲『阿木譲の光と影」シリーズ 第四弾 Junya Hiranoインタビュー

『復活祭の果てに』

第四弾は、environment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ] でスタッフとして、長年にわたり阿木譲をサポートし、現在はオーナーとして活動している平野隼也。彼は、場所=現場を仕切り、remodelの再始動を果たし、次々と音源をリリースしている。今回のテーマである「阿木譲の光と影」を語るには一番ふさわしい存在だ。阿木譲が亡くなった当日の経験を、後日自身の言葉で書いていた。
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2020年2月11日 平野隼也 記
13:45
阿木さんが風呂に入られへんから体を拭いて欲しいということで自宅に呼ばれ、風呂場で体を拭く。その途中までは呼びかけても呻き声の様な返事があった。
体を拭き終わり両脇を抱えベッドへ戻る時、浴槽へ風呂場の扉に足をぶつけてしまい「すみません!」と言うが反応なし。
ベッドへ仰向けに寝かせたら目を見開いて口を開けっ放しになっていたので「あ…死んだ………..」って心の中で呟く。
そして心臓マッサージ開始。
16:15
そばにいたゆきさんに「阿木さん死んだ!救急車呼んで!」と怒鳴るが、ゆきさんはテンパってただただ狼狽えるばかりでどうにもならんので心臓マッサージしながら119番へ電話。
焦る自分と、それを俯瞰して見る「セカンド自分」の存在を認識した。
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平野君は、このように阿木さんが亡くなった様子を客観的に描写している。2003年の阿木さんとの出会いから2018年の15年間にわたって雨宮ユキさん以外に身近で見ていた人物は彼しかいない。そんな平野君に阿木譲の晩年の姿や今後の0gやremodelについても話を聞きたいと思った。さあ、インタビューをはじめよう。途中から中村泰之さんにも加わっていただいた。(嘉ノ海)
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Junya Hirano(平野隼也)、environment 0g [zero-gauge]、remodelについては、こちらにアクセスしていただきたい。
https://twitter.com/environment_0g
https://nuthings.wordpress.com/
http://studiowarp.jp/remodel/
https://twitter.com/remodel_japan
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●平野隼也
△中村泰之
○嘉ノ海幹彦

《音楽との出会い》

○よろしくお願いします。今回は「阿木譲の光と影」というテーマで話を聞いているんだけど、平野君の場合には、私生活も含めて一番深い関係があったでしょ。だから、今まで話を聞いてきた他のミュージシャンと全く違うスタンスなんで色々話を聞きたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

●よろしくお願いします。

○平野隼也とはどのような人物かということから聞きたいです。まず音楽との出会いは?
学生の頃から楽器とか?

●いや楽器は一切出来ないです。聴くだけでした。
阿木さんと出会った頃は、エレクトリックマイルス、松浦亜弥、ブランキー・ジェット・シティとかJON(犬)&ウツノミア(宇都宮泰) とかボアダムズ、小杉武久、池田亮司などです。他には雑多に聴いてましたね。The Jam、ポール・ウェラーから入ってニール・ヤング、ザ・バンド、エイフェックス・ツイン、スクエアプッシャーとか。

○ジャンル的にはバラバラだね(笑)。でも比較的ライブ感のあるバンドが多い。

●基本的にロック好きでしたからね。2003年に阿木さんと出会っているんですが、ロックも好きだしクラブも行ってたし。ゴアトランスやブレイクコアなどのパーティーでROCKETS、ベイサイドジェニーへも行ってました。

○トランス・ミュージックが好きだったので、ベイサイドジェニー、Zepp大阪とかよく行った。DJ TSUYOSHIのTOKIO DROMEとか阿蘇山のレイヴ・パーティ(VOLCANO)に行ったり、四国や中国山脈の中でのレイヴに行ったこともあります。ゴア・ギルが京都に来たときには山中でのレイヴを体験したりね。結構はまっていた時期があった。

●あの時は面白かったですよね。2000年前後だと思います。

○TIP(The Infinity Project)のラジャ・ラムが来日した時もベイサイドジェニーで見ました。僕の話はともかく(笑)。阿木さんとは2003年に出会っているのですね。

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[創刊誌等]
『ロック・マガジン』1976年~1984年、1988年(復刊)
『fashion』1980年
『EGO』1985年~1987年
『イコノスタシス』1984年
『E』1990年
『infra』1999年~2001年
『BIT』2002年

[前史]
1990▼〈M2(Mathematic Modern)〉
1993▼〈cafe blue〉をオープン
2001▼8月 レーベル〈personnages recordings〉を立ち上げ、辰巳哲也『Aspects from Both Sides』リリース
[nu things時代]
2003▼3月 辰巳哲也『Reflection and Integration』リリース
▼7月12日 大阪市の湊町にjazz cafe〈nu things〉をプレ・オープン
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《阿木譲との出会い》

●ちょうどjazzの頃ですね。このころはエレクトリック期のマイルス・デイビスを聴いていました。ジョン・ゾーンから入ってマイルスとか菊地成孔の「DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN」がROVOとのスプリットCDをリリースした時期だったと思います。

○初めて会ったのは「jazz cafe〈nu things〉」で?

●そうですね、当時よく遊んでいた友達の奥山君がjazz cafe〈nu things〉のすぐ近くに住んでたんでね。1Fに前面ガラス張りで、中は白の壁(今の0gのような)で近くを自転車で通る度になんやろ、と思ってた。いつも閉まっているんだけど、たまたま通りかかったら雨宮ユキさんが店の前にいて声を掛けられました。で、音楽が好きなことなどを話していたら「今週末に阿木譲というすごい人がDJするから遊びにおいで」と誘われて奥山君と行くことなった。その時に阿木さんと会いました。

○初対面の印象は? また阿木さんのDJはどうだったの?

●DJはかっこよかったです(笑)。COMPOSTとかのフューチャー JAZZとか!K7とかの頃でしたね。終わってからユキさんに紹介されて話をしました。第一印象はいいおっちゃんでしたね(笑)。話も面白かったし音楽も聴いたことのないかっこいいものだったし、それからはイベントがある度に行きました。
その年の秋に3週間くらいヨーロッパに行ったんですけど、帰ってきてから土産をもって〈nu things〉へ行きました。後日奥山君にユキさんから店のスタッフをやらないかと誘いがあったよ、と聞きました。おもろそうやからやろか、という軽いノリで付き合いが始まりました。

○スタッフとしては店の運営とか機材の搬送とかだよね。その時のバイト代とかは?

●もちろん、ないっすね(笑)。でもその時は店でがっつり働いていたわけでもないし、イベントも頻繁にやってるハコでもなかったし。JAZZというコンセプトでやっているから、週一阿木さんのDJとたまにライブをやってくれる人がいてという感じでした。

○どんな感じの場所?ライブもやっているけどお酒も飲めてというカフェバーみたいな感じ?
平野君はその時から週何回か通っていたんだよね?

●はい。カフェーバーみたいな感じです。今でも跡地がありますよ。まあ、家からだったり、奥山君ちに泊めてもらったりして通っていました。

○新譜が出たら店で聴くこともできるし、阿木さんの話も聞けたりということですね。でもjazz cafe〈nu things〉は2004年5月には閉店してるから、期間的には1年だよね。なぜ閉店?

●2Fの店の人と騒音問題で、裁判になってたんですよ。

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2004▼1月10日 <jazz cafenu things〉〉正式オープン
▼5月8日 <jazz cafe <nu things>同じビルの住人からの騒音苦情に耐えかねたため、一時閉店
▼8月8日 南本町で<jaz’room nu things>を再オープン
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○当時のことを岡山ペパーランドの能勢伊勢雄さんに聞いたことがあるんだけど、ビルの1階で外が見えるガラス張りの店だよね。外に音が漏れるし、とてもライブハウスとはいえない造りなんでしょ。

●ライブハウスとは全く違いますね(笑)。ホンマにガラス張りですからね(笑)。一応地下もスペースがあったんですけど、プレ・オープンの時にはイベントをやってたみたいなんです。でも僕は入ったことはないです。

○それで閉店時の裁判はどうなった?

●もうどっちが訴えたのかも憶えてないですね。でも出頭書とか来てたし裁判はやりましたよ。

○結局その後、店は続けられなくて移転するんだよね。そこが<jaz’room nu things>だったんだけど、どうだったの?音は出せた?

●いやあ、そこも同じような感じだったので、音を出せる環境ではなかったです。普通のオフィス・ビルの地下1階で、1階に大家がいて普通に6時までは仕事をしてましたね。ライブやる日も基本的にリハは6時からという感じでした。スタートが遅いのでオールナイトもやってました。

○平野君がヨーロッパに行った2003年頃は、ドイツのCOMPOSTとかNu Jazzの流れでウィーンとかでもライブ演奏をそのままレコーディングしたり、トランス系でもTsuyoshi SuzukiのTokio Dromeとか音響的にそれまでもモノとは根本的に違う音になってきているよね。PAという概念が変わった時期ですね。前段としては90年代にはJUNO REACTORがNovaMute Recordsからリリースしたり、キリング・ジョークのYouthがDragonfly Recordsを立ち上げたり、世界的に大きな流れになってきた。単に爆音というだけではなく身体全体も響くようになって、音響ということばが実態を伴ってきたそんな時期だったよね。
そんな時代に、移転するのは仕方がないかも知れないけど、阿木さんは、なぜガラス張りの店とかだと音を出せないし、トラブルとか起こるのもわかっているのに、その店を選んだんだろう。周りから「もう少し音を下げて」といわれるとわざと音量を上げるような人でしょ(笑)。

《<jaz’room nu things〉での悲惨な生活》

●そうですね。すみませんといえば納まるのに、くってかかってましたからね(笑)。僕は<jaz’room nu things〉に移転したときには、正直関わりたくなかったですね。オープンする前の内装とかの工事は、真夏に自分らでやってたんですよ。8月8日にオープンしているんで、それまで工事しててね。正直にいうと、その前に自分らが工事費用を工面してました。阿木さんもユキさんも僕も奥山君も出していたんですよ。しかも工事とかもやったことがないんでやり方もわからないし、進捗も遅くなるしね。しかも寝る時間もなく体を動かしっぱなしで、おまけに地下だったんで日の光を浴びない日もありました。だからマジで気が狂いそうでした。そんな作業が続いたんで僕も奥山君もおかしくなっていったんです。ある日夜中に作業をしていた時に、事故って3週間入院しました(笑)。未だに骨折した傷あとが残ってますよ。こんなこともあったんでマジでやりたくなかったです。で、そんな状態でも退院してから半ばムリしながら復帰しました。

○エッ、なんで?そこまでの状態で、もういいってならなかったの?普通は逃げるよね。

●その時には、だたの洗脳状態にあったんでしょうね(笑)。

△その資金って総額いくら集めたの?

●みんながいくら出したのかは、分からないですね。僕はレコードとか全部売って10-20万くらいをつくり残りは70-80万くらいですかね。その後店の運営で金が必要になって追加で借りました。だから全部で120万とかかな。

△けっこうきつかったね。日々の運転資金も自分達で用立てる月もあったんやね。

●奥山君も同じく用立ててましたね。で、奥山君はバンドやってたんでライブハウスのことを少しは知っていたんですけど、僕はそれまでは全く知らなかったですからね。もちろん見に行ったことはあるけど、運営に関しては全く知らない。
元々音楽の専門学校に行ってたんですけど、PA学科じゃなくてラジオ番組制作学科だったんです。でも店ではPAとかやってました。ミキサーの使い方が少し分かる程度で基本的なことは出来てなくて、評判は悪かったです。

○でもライブハウスなんで、売り上げもあるでしょ。

●もちろん、定期的にはライブやってましたよ。でも店の売り上げだけでは回らなかったですね。

△おそらく、阿木さんはお金を出していないなあ。平野君と奥山さんとで出してたんじゃない? それで足りなかったらユキさんが用立てるという感じじゃないの?

●いや、ユキさんが一番多く出してましたよ。しかもそれだけでなく、阿木さんの生活費も出してたし。難波時代は僕は出していないです、立替したりとかはありましたけど。

△さっきのスタッフになってバイト代は? というのは愚問やなあ(笑)。

●そうですよ(笑)。本当に(笑)。

△要するに無償で働いて、次の展開でお金を出したということやね。

●でも繰り返しになりますが、ユキさんが一番出しているのは間違いないです。ユキさんが業者にお金を払ったり、飯を食べさせてもらったりしてましたからね。
結局、店では家賃が何とかなるくらいの売り上げはあるんですけど、阿木さん、ユキさん、奥山君、僕といるわけじゃないですか。だから給与としてお金が入ってきたことはないですね。

○ライブのブッキングとかは?

●運営的には、奥山君が先々まで計画する能力があったので主にブッキングしてました。月に10本くらいとかやって、僕は4本くらいです。

△そんな感じで、店が回るような感じにはならなかったの?

●ならなかったですね。結局たまにライブをやって人が入った感じですかね。それに向こうから来るわけではないので自分たちでブッキングしてますから、収入の保障なんてないです。今の0gではやってないですけど当時はノルマ制で出演者にチケットを何枚と売ってもらっていたので予想は立ちやすかったですけどね。それでも足りなかったです。
で、早い段階で奥山君がメンタル面をやられて、やめたんです。ブッキングできる人間が抜けたんであとは悲惨でした。
そこでは6年やっているんですけど、最初の2年で奥山君が抜けたんです。だから残りの4年間は僕も出してたけど大半のお金はユキさんが出していた。

○というか、ユキさんはそのために他の仕事をしていたんだろうな。

●ユキさんは店だけじゃなくて、阿木さんの食費だけでも使ってましたからね。その上阿木さんからずっと文句を言い続けられるような状態でしたし。

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2010▼4月10日 心斎橋アメリカ村で<nu things JAJOUKA>として移転オープン。jazzの文字が消え去った
▼10月 スタジオワープから阿木さんへ仕事の依頼

2011▼2月 現代音楽からグリッチ、尖端音楽、アーカイヴを横断するレーベル〈remodel〉立ち上げ
▼2月16日 remodel01 V.A.『a sign paria – ozaka – kyoto』CD+DVD
▼11月18日 remodel02 V.A.「Prologue:Semantica Records Compilation」
▼8月 完成 リリースは2019.10.21 remodel 03 V.A.「Music」2CD BOX
remodel 04 V.A.「Vanity Tapes」6CD BOX
remodel 05 V.A.「Vanity BOX」11CD BOX
2012▼8月9日 remodel 06 Momus「in samoa」CD+DVD

2012▼3月3日 阿波座に「nu things」を移転
▼11月19日 ストーカー(銃刀法違反)で逮捕

2015 ▼1月 有料制 [ 0g – zero gauge ] web 立ち上げ http://www.zero-gauge.com/
▼3月15 南堀江に新店舗environment : 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント:ゼロジー[ゼロゲージ] をプロデュース/オープン
▼8月15日入院 手術前
▼8月25日サイボーグ人間としてデビューする日 僅かな時間は神からもらったおまけのようなもの
▼8月28日退院

2016 ▼environment 0g ( zero-gauge ) にて毎月1度のBricolage

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《阿木譲の魅力》

△話を戻すと、阿木さんのどこに魅力を感じたの?何にはまったんだろう。

●初めて阿木さんのDJを見た時にかっこいいと思ったのと、話を聞いているうちにだんだんとはまっていきました。音楽だけだったら、そして客としていくだけだったらよかったんですけど(笑)。きっと若いときはモノを知らないので、極端なことをいう人は魅力的に感じたんですね。

△話を聞いていて、なぜそこまではまったんだろうと思って(笑)。

●そうですよね。新興宗教と一緒ですよ(笑)。
まず、自分の好きなものを否定される。かっこいいものはコレって新しい価値観を植えつける。マインドコントロールされていたんですよ。

△阿木さんに説得する力があったんやな。出会った頃ってマイルスを聴いていて、それに変わるものを提示できたんかな。

●その頃は専門学校を卒業してフリーターで、すし屋で働いていていたんです。俺これからどうなるんやろ、という漠然とした不安感がありました。そこにズバッと阿木さんが入ってきました。

△2003年で聴いていた音楽が池田亮司というのは早いよ。『matrix』が2001年だし。

●でも流行っていましたよ。グリッチとか。

△阿木さんは、池田亮司以上のものを提示してきた?

●クラブ・ミュージックがスタイリッシュでこんなにかっこいいものやとその時に思いました。それまではノイズとかメルツバウとかも聴いていたし、アングラな感じが好みでした。
当時はmegoからツジコノリコがリリースされたり、アメリカ村のタワーレコードの3Fの現代音楽のコーナーにずっといました。そこで池田亮司とか初めて聴いて衝撃を受けました。

△整理すると、阿木さんに関しては、まずDJする姿見てかっこいいなあと思って、終わった後話し始めて何回か会っているうちに引き込まれたっていう感じやな。それがあったから2004年は乗り切ったんやな。

●けど、ずっと嫌だと思ってましたよ。この時によくなかったのが自分もjazz cafe〈nu things〉に軽いノリで声を掛けられたので、軽く関わっていたんですけど、でも実態はそうじゃなかった。お手伝いのように関わっていたのにいつの間にか自分でお金を出すようになっていた。寝ずに仕事もやってボロカスに言われたりして、マジでずっと逃げ腰でしたね。今考えるとそれが良くなかったと思います。

△でも奥山さんが2年で抜けて、逃げ腰どころか自分に全部のしかかってきたわけでしょ。やらざるを得ない状況に追い込まれたって感じで。代わりの人はいなかった?

●代わりが入ったとしても、阿木さんはあんな感じなのでうまく行くわけもないし。もちろんライブハウスなので働きたいっていうスタッフ候補が何人も来るわけなんですよ。でも来ても抜けていくし。
だから仕事に対してもモチベーションが上がらない状態でした。やめたいと思って仕事をやっててもうまくいくわけないじゃないですか。ずっと正気じゃなかったと思います。
それで、ようやく正気を取り戻したのが、阿木さんがストーカー事件で捕まった時位からですからね(2012年)。その時から自分でも普通に阿木さんに言い返せるようになった。

○1年毎に聞いていこうかと思っていたけど、この激動の6年間の話はすごいなあ。

●えぐい話しか出てこないですよ。

△平野君にとって阿木さんはそれだけの魅力があったんやね。

●それって魅力というんですかね。マインド・コントロールですよ(笑)。僕もふわふわしてた時期だったし(笑)。

○逃げたいけど逃げられない。オウム真理教のようにマインド・コントロールされているような状態から脱却できたら、自ら何していたんだろうと思えるけど、その渦中にいた時には分からないのかも知れないね。好きでいるわけじゃないのに抜けられないというのは、こんな感覚かもしれない。
もう一度聞くけど、あの6年間の記憶の中で阿木さんからこんな話を聞いたとか、こんな姿を見て感銘を受けたとか阿木さんが書いた文章とか残っている?阿木さんってその頃何してた?週末にDJしたり、他には?

●たしか当時は雑誌『remix』に連載してましたね。他は外に発信するとしたらブログかな。

○この頃って雑誌も作ってないし、『BIT』にしたってカタログ本になってたし。それもなくなったら発信はブログだけ?

●そういえば今思い出しましたが、阿木さんがBlue Noteの音源でDJをやったときはめちゃかっこよかったですね。1500とか4000のhard bop期のジャズですね。<jaz’ room nu things〉後期から<nu things jajouka>の初期中期くらいですね。2009年から2011年くらいですかね。Club Jazzの頃と比べても断然hard bopやってた方がかっこよかった。

○「かっこよかった」というのも分かるけど、音楽は体験芸術やから、その音楽に出会ったら世界観が変わってしまうくらいの衝撃があるでしょ。阿木さんも新しい音楽に出会うことにより変わっていったと思っているんだけど、Jazzの時期が一番よくわからない。さっきもいったけど、僕はトランス・ミュージックとの出会いで世界観が変わったんだけどね。

●阿木さんはゴアトランスとかは全くないですよ。Rising Highとか初期トランスのレーベルはありましたけど、そこからブレイクビーツの方にいったんだと思います。その辺りは〈cafe blue〉(1993年)の頃ですね。

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『E』1990年
1990年に〈M2(Mathematic Modern)〉、1993年に〈cafe blue〉をオープン。
1999▼6月1日 『infra』創刊準備号刊行
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○2010年にオープンしたはライブハウスとしてはどうだったの?前のようにガラス張りとかではないでしょ。

●ガラス張りでしたが自分らで工事したのもあるし、心斎橋アメリカ村なので苦情は来なかったですね。結構音は出してました。でも今(0g)の方が出してますけどね。

○2010年になると平野君は阿木さんの右腕的なスタッフになっているわけでしょ。だってミュージシャンとの付き合いやブッキングとかもやっているわけだから。で、アメリカ村に移った経緯は?

●本町から移った経緯は、家賃滞納です(笑)。

○いつもの感じやなあ(笑)。で、の方は経営的にどうだったの?

●ダメですよ(笑)。地獄でした(笑)。タイミングが悪かったのいうのもあったんです。風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)の問題もあったんですよ。地震もあったしオールナイト営業ができなくなった。家賃も60万円ぐらいはしてたんで経営的にもひどかった。本町の時でも50万くらいだったのに。

○そんなに。さっきの話ではブッキングしたバンドにノルマがあったとしても結構難しいよね。

●でも場所はよかったです。キャパも余裕で100人は入るし広かったです。

○ちょうど、その頃は中村さんも登場してくるし、TOKUDA君とかAOE君とかも関わってくるよね。それまでと違って何か始まりそうな予感とかあったんじゃないの。

●TOKUDAさんは音源をMySpaceに上げていて阿木さんが見つけたんですよ。で、まず音楽的に変わりましたね。
時系列で整理すると、△僕と一緒にやるときには、Jazzは一切無しで。

○ここで今に繋がる流れになったんですね。中村さんとの出会いがその契機になったのは間違いないな。
でも阿木さんらしいといえば、そうですね。『ロック・マガジン』の変遷を見てても分かるけど、一気に変わっていますよね。

●店としては、今までJazzの付き合いもあったのでバンドのライブとかはあったんですけどね。阿木さんとしてはJazzはもうなかったですね。

△『a sign』をやるときには振り切ったよな。みんなにRaster-Notonみたいなことをやらしたんやからね。成功したものも違和感のある音源もあるけど、Jazzという記号をきっぱりと振り切ったタイミングやね。それに何か起こりそうな予感もあり、阿木さんも張り切ってたよね。

○そうなんですよね。きょうレコードにUPされている当時のブログを読んでも、阿木さんの期待感は半端じゃなかった。
この辺りを俯瞰すると、1995年以降でもレーベルでいうとStefan Betkeの~scapeとかAutechreでもMarkus PoppのOvalでもいいんだけど、ヨーロッパを中心に新しいエレクトリック・ミュージックが出てたわけでしょ。池田亮司とか面白いと感じたのもその頃だと思う。クラブ系でもモーリッツ・フォン・オズワルドのBASIC CHANNEL(1993年)もあの頃でしょ。単なるミニマル・テクノでもないしね。既にWARPが1992-94年に『Artificial Intelligence』をリリースしていたし、1993年にはPan Sonicが結成されているしね。

●Autechreの「CONFIELD」(2001年)なんかも超名盤だけど。逆に阿木さんは通ってないんですよね。Autechreのそれ以前の作品はもちろん持ってはいたんですが。

△だから2010年に全部持ってきたという感じやね。丸々ね。ここで気がついたのか。阿木さんにとっては全部が新譜だった。

○その頃のブログをみると、『ロック・マガジン』を再整理しているし、2010年に出会った新しい音源とインダストリアル・ミュージックやDAFやDie Kruppsとをもう一度つなげようとしているのがわかる。

△その辺りのズレが阿木さんをリスペクトできなくなった契機となっているのかな?

●それでも阿木さんのJazzはかっこいいと思ってました。当時表出してきたダブステップも少し聴いていたのですが、心に余裕がなくて自然と聴かなくなりました。レーベルでいうとHyperdub(2004年)とかアーティストでいうとBURIAL(2005年)とかね。

△僕と仕事をするタイミングで一気にという感じ。阿木さんはめちゃくちゃ燃えてたよなあ。またレコードもむちゃくちゃ買い始めたしね。その辺りの感じはブログからも感じられるよね。

○文章のタッチも熱が入っていると思った。平野君とか内部からはその頃の阿木さんとかどう見えていた?

●そんなことは全然感じなかったです(笑)。

△家賃の60万のプレッシャーが全部かかってたからね(笑)。且つPAのセッティング、当日のオペレーションまで何もかも平野君がやっているわけだから、あまりにも忙しすぎて憶えてないよな。
2004年の立ち上げ時とあまり変わってないくらい忙しかったから。△現場を滞りなくこなす、という以外のことは考えられなかったんだよね。海外から大物が来てたしね。
ペーター・ブロッツマンとか来たし、それなりに準備が大変やったでしょ。
この辺りは阿木さんとの関係はどうだった?

●ブロッツマンとか北欧ジャズのライブはマーク・ラパポートさん(音楽ライター、評論家、プロデューサー)がほとんど準備してくれていたので、意外に大変ではなかったです。まだ阿木さんとはどっぷりの関係でした。少し前から気持ち的に切れたりはありましたよ、でも面と向かってなにもいえなかったですね。
だから阿木さんからの洗脳から抜け出せたのは、2012年のストーカーで逮捕されたときくらいからでした。

△スタジオワープが阿木さんとの関係を解消して引き上げてからやなあ。

○当時中村さんとやってたremodelはどうなってたの?

●イベントはいろいろやってたけど、発展はしなかったですね。


△2012年8月にMomusの『in samoa』(remodel 06)をリリースしたけど、その3ヵ月後に逮捕されているからね。

○remodelの後のイベントは阿波座に移ってからですね(2012年3月)。阿波座はどんな場所?

●普通のマンションの地下一階ですね。家賃も25万くらいでしたから、前よりは安かったけど規模も小さくなりました。それでもうまくいかなかったですね。
ドリンクが足りなくてちゃんと出せなかったらイベントに支障があるじゃないですか。当時は売り上げの全額を阿木さんやユキさんに渡していたので自分で把握していなかったんですよね。だから店で本当に必要なものも買えないし、知らないところでお金が減っているので、やる気もだんだんなくなってくるし。店をするならお釣りを用意するとか必要な飲み物を仕入れるとかありますよね。でもキャッシャーはユキさんがやっていて、僕の手元には金がないんですよ。
今となっては完全に反面教師ですね。必要なものは多少無理してでも買うし。当時も必要なのはわかってたけど、何も出来なかったですね、金がなさ過ぎて。

《ストーカー事件以降》

○ストーカーでつかまった時は?

●ストーカーではなく銃刀法違反ですね。包丁を持っていったから。阿木さんには前日にもあれだけ「そんなものもって行ったら絶対に捕まりますよ」と忠告してたんですけどね。

○そうか、やっぱりおかしくなっていたんやね。

△スタジオワープが切ってからおかしくなった。打ち切ったのが発端にあると思う。

●これから始まるという気分も盛り上がったところでうまく行きませんでしたからね。

△『Vanity Box』という現物まで作ったけど、アーティスト側から阿木さんには権利がないといい出して、引き上げざるを得なくなった。2010年から2011年夏くらいにかけて、やり取りの中で阿木さんとしてはアーティストにつぶされて、僕はアーティスト側について、結局引き上げた。この時からおかしなったんやろな。

僕はその辺りの記憶はないんですけど、相当荒れてましたね。中村に電話しろってしょっちゅういってましたね。

△本人は、もう一回やりたかったし、Vanityも出して欲しかったやろな。

○remodelプロジェクトの発端となった京都のMETROで阿木さんがraster-noton(ラスター・ノートン)のカールステン・ニコライと会ったときの話を教えてください。

△それは、remodelでコンピレーションを作るという企画を阿木さんが出してきて、カールステン・ニコライとかOVALを入れるということになっていた。スタジオ・ワープとしては既に仕事としてお金を出す話もしているしね。そこで、阿木さんがいきなり彼らに連絡したんですよ。ても訳の分からないところでのコンピレーションに参加することもあり得なかった。そこで糸魚健一さんが見るに見かねて阿木さんとカールステン・ニコライとの場をセッティングしたんです。でも結果はまとまらなかった。
結局、阿木さんは自分のいうことをきくアーティストを集めて『a sign』をリリースしたんです。
僕は『a sign』は失敗だと思っていて、その段階で引き上げようと思っていたんです。Vanityの原盤権の件がなくてもね。だって、阿木さんに前金で30万払っていて、その金額に見合う仕事が出来なかったら、引き上げるのが当たり前でしょ、仕事だからね。もう少し有名なアーティストはいないのかというOVALからの返事が今でも残っていますよ。
スタジオ・ワープとしては、阿木さんを通してアーティストにオファーしているということですからね。それまでの信頼関係がないとコンピレーションとしては成り立つわけないわけですよ。

○阿木さんは相当ショックだったと思います。通用しなかったということなんですね。カールステン・ニコライとかOVALとかの関係を結べなくて。
彼らの音楽のルーツなり、目指している音楽の方向性なりを語れなかったのではないかと思うんですよ。あなたの音楽の方向性と僕の求めている音楽性が一緒なのでやりませんか?といっても通用しなかったのかも知れないですね。
70年代後半から80年代前半までは『ロック・マガジン』もあったし、ロンドンには羽田明子さんもいたし、Vanityもあったし『Fashion』もあったから、僕は時代に対してこうですといえたわけですよ。

△そうやって、阿木さんとカールステン・ニコライを繋ごうとしている姿を見て、阿木さんよりも糸魚さんの方がいけると思った。だから糸魚ラインになった。僕からすると仕事だし、ノーギャラじゃないんですよ。
さっきの話だけど、Vanityの権利関係の時にアーティスト側に付いたのがものすごくショックだったと思う。だから怒りの矛先がストーカーの方向にいったんだと思った。

●それに店もうまく回ってなかったんです。相手の女性も阿木さんがいやになって別の男の人と付き合い始めたという感じでした。

《晩年の阿木譲の活動について》

○2014年にはストーカー事件の後、それまでのブログを消して「a perfect day」を始めるわけですね。東京の美術館に呼ばれたりDJをしたり。東京都の関係が出来てきたということでしょ。

●美術館でDJをしたのは、FRUEっていうイベントがあってその人が呼んでくれたんです。阿木さんがSVRECA スヴレカのことを初期のブログに書いていてそれを読んでいたんです。

△SEMANTICAのことやね。
※『REMODEL 02 PROLOGUE』スペインのSemanticaレーベルの首謀者Svrecaとコラボレートしたコンピレーション・アルバム
阿木さんは全部自分がやってるみたいなことをいってたけど、そうではない。僕は、彼らにも阿木さんにもギャラを払って、もちろんマスタリングもちゃんとやった。そして最終的に作品化して商品(remodel)として流通させるところまでやったから、信頼関係もできた。阿木さんはその流れに乗ったということやね。だから阿木さんにとってはremodelをやったメリットはあったよね。

●そうですね、SVRECA スヴレカと繋がったのも大きかったです。またそのremodelから美術館でのイベントやBUNKAMURAでの秋山伸さんへと繋がったわけですね。埼玉県立美術館の梅津元さんとかの絡みですね。紹介してくれたのが、inframince [アンフラマンス]の岡村英昭さんでした。

△いや、秋山さんを阿木さんに紹介したのは[a sign]にも参加したバンドVELVELJINのマナさん?。仕事としてはMOMUSのジャケットデザインをやってもらった。だから5万円のデザイン料も払ってからの付き合いです。
こちらとしては阿木さんを見切ってても仕事としてはちゃんとやっているわけですよ。
※remodel 06-C MOMUS『REMODEL 06 IN SAMOA』

○そこまできっちりやってたから、信用も出来て阿木さんに声がかかったということですね。僕はもっとクリエイティヴな感じで偶然に現場で知り合ってとか、ずっと阿木さんが尊敬されていて招待されたとか、そんなイメージを持ってました(笑)

△それはないよ(笑)。僕が築いたものを阿木さんが自分でやった、というのはいいんですよ。ただ内実をいうとSEMANTICAについては2枚目が出なかったし、提案はいっぱい阿木さんからありました。でももうその段階でVanityのアーティスト側に付くと決めた後だったから、もう一回やるという選択肢はなかった。

○そうか、2014年以降の東京から呼ばれたり、阿木さんのデザインとしての仕事を再評価されたり、アーティストと出会ったり、光の部分かなあと思っていたんですけど(笑)。
でも、先ほどの美術館の人とか椹木野衣とか高校生くらいの時に『ロック・マガジン』を読んでいたわけでしょ。それで今はキュレーションしたり人を呼べる力もあるから、阿木さんを尊敬していてね。その部分もありますよね。でもremodelとかの実績があったから呼ばれたんですね。じゃないともっと早くにキュレーションされていると思う。

△ストーカー事件の後だったというがミソやね。その頃は相当精神的にも塞ぎ込んでたからね。だから阿木さんにはもっと元気出して欲しいという流れがあったんだと思う。

○でも東京方面からのオファーは、2014年だけでしたね。2015年には手術するし。平野君はこの辺りの阿木さんをどのように見ていた?

●東京の人間関係は広がるなあと思いました。でも個人的には阿木さんへの気持ちが冷え冷えでしたからね、だから正直関わりたくないという感じでした。自分の視界に入れたくないくらいの気持ちでした。ストーカーやったのに俺は何も悪くない、相手もまだ俺のことを思っているとか、もうムリって(笑)。阿木さんにはげんなりしてました。
その時は精神的におかしくなったというより、元々自己愛が強すぎる人やから、何の話をしても自分の方向に持っていくし。相手を否定して自分が正しいという持っていき方には本当にうんざりしていました。

△その頃に、スタジオワープに電話してきてうちの子に自分が正しいとかいってたのは知らないでしょ。

●それは知らないですね。
大丈夫ですか。今まで美しい話は一切出てきてないですよ(笑)。
今、中村さんと一緒に仕事をやっててよかったと思うのは、アーティストにオファーして、断られたらしゃあないと割り切るじゃないですか。阿木さんだったら、「なんでや!すぐ電話しろ」ってことになりますよ。

○それは昔からそうだった。『ロック・マガジン』の時でもスタッフに連絡つかなかったら大変だった(笑)。

《environment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ]》

○2015年に0gがオープンしてるよね。場所は前よりどう?家賃とかはどうしてたの?

●場所は狭くなりました。保証人になってくれたのは林さんともう一人です。家賃は今までの中で一番安いですね。店の経営に関しても、阿木さんに金が渡るのだったら何もしたくない。こいつのために利益になることは何もしたくないと思っていました。関係性としては最悪でした。
阿木さんが亡くなる2年前くらいからようやく店として回りだしたという感じです。金の流れもむちゃくちゃすぎて分からなかったです。さっきもいったけど、売り上げは全部ユキさんにいって、その中から1日に3千円とか4千円が阿木さんの飯代と消えていくわけだし。
本町の時にユキさんが骨折してまだ杖をついているのに、買い物に行けとかいってたんで、さすがに、それは見かねて一緒に行ったこともあります。当時から阿木さんに対してはいい感情はなかったです。

○阿木さんが亡くなる日(2018年10月21日)のことは、平野君が書いた文章を読んだんだけど、その前も世話してたの?

●しょっちゅう電話がかかってきて阿木さんのマンションに行ってましたよ。ただ正直もう会いたくなかった。うちの親父も調子悪かったんで、それを口実に実家に戻っていました。

○そうか、で最後2018年10月21日に呼ばれて行って。

●それでも週に2-3回は会ってましたからね。家で体拭いたりとかそんな感じですね。ガチの介護ですよ。

○亡くなったときは、どう思った?

●死んだなあって感じです。これからどうしていくかとかは考えましたね。しかも当日の21日にイベントがあったんですよ。16時15分くらいだったんで、病院からオーナーが亡くなったんで遅れるからちょっと待っててって出演者にメールしました。週明け月曜は東瀬戸さんが組んでくれたイベントがあったんです。かぶっていたしバタバタだったんですよ。

○それで葬式なんだけど。みんな集まったんだよね。

●葬式じゃなくて、火葬ですね。林さん、宮本さん、ユキさん、東瀬戸さん達7名が集まって火葬しました。

《これからの平野隼也の活動方針》

○今後平野君がやりたいことなど活動計画を教えてください。考えていること。まずはremodelのディレクションですね。場所を継続していくということはあると思うんだけど。

●深く考えてないんですよ、自分って流されて生きているなあと思っています。だからPOSTコロナとか考えてないです。その時に時流に乗ってやります。こんな鈍感な性格が、いいところでもあり悪くもありと思っていますね。だからPOSTコロナとか全く気にしてないし。
remodelでどんなミュージシャンを扱っていきたいかというと、電子音楽って範囲が広くってテクノやハードコア、ブラック・メタル、ベース・ミュージックから来た人、いっぱいいるんですよ。それらのルーツが違う人を0gという場所で結び付けたいと思っていて。近そうに見えるけど近くない人を結び付けたいなと思ってます。僕は全部好きなんですよ。

○平野君は本当にものすごい数の音楽を聴いてきているし、そんな試みも面白いと思う。

●時代のトレンドとかマジで追ってないんで。だからこのままやっていきますよ。

○自分の中で文脈を作ってやっていく感じ?ライブハウスってカラーがあると思うんですよ。レーベルでもね。MUTEだったら、こんな音みたいなイメージがあるように、こんなカラーで自分にあっているか考えると思うんだけど。
そういう方向性を出していくのではなく、そんなのは決めずにやっていきたいということですね。

●ごった煮にしたいですね。ゼロゲージは阿木さんが亡くなる前から2年間任せてもらっていますが、やりたくないことは一切やってないですね。自分のわがままをひたすら貫いていきたいというのはあります。
答えになっているかどうかわかりませんけど。
これに関してや、今までのこと、これからのことなどは自分でも文章を書かないといけないと思います。。。。

△remodelとしては、これからEVOLもリリースするし、Junya TokudaのLPを出したし、今日の話でも阿木さんを見切っているのも良くわかったし。深く考えないというところで十何年間阿木さんと一緒に仕事をしてきたのもわかった。
ストーカー事件以降は、阿木さんがいてもいなくても自分のやり方をしているしね。ただ、音楽だけは続けようというのが一本筋が通っていたから。ここでライブをやってCDがリリースできて海外のマーケットに流れて、そんな単純な喜びでやっていくのかと思うけど。ある種、阿木さんの理想だったのかも知れないね。
平野君がやりたかったことがやれる状況になって、阿木さんのことも語れる状況になっていたということじゃないのかな。

○阿木さんが亡くなってremodelをもう一度やろうかな、という思いになった理由が、平野君だったからですよね。彼はずっと音楽を聴き続けているし、remodelの再開も中村さんと平野君の3分間の立ち話で決まったんでしょ(笑)。

△深く考えなかったもんな(笑)。深く考えたら、やめとことなったと思う。だから立ち話で『a sign 2』をやろかで決まったんですよ。ただこの流れはコロナじゃなかったら、ライブとリリースがもう少しうまく出来たかもしれないとは思うけどね。最初に話したのはコロナ前だったからね。

●ブログにも書いたんですけど、CINDYTALKに出てもらったときに「出ているミュージシャンをリリースしなよ」という言葉をもらってたんですよ。やりたいけど、そういうノウハウないしなあと思っていた。そんなタイミングで中村さんからremodelの話をもらったんで、ビックリするタイミングだったんですね。
※ブログ “備忘録 – CINDYTALKとの出会い、REMODEL再始動 –“
https://nuthings.wordpress.com/2021/04/13/

△僕の中ではCINDYのリリースについてもやらないよりはやったほうがいいという結論だった。一回やってみようということで、ここまで来たという感じですね。もう7-8枚リリースしたね。
阿木さんから影響を受けたんじゃなくて、阿木さんを反面教師にしているよね。それは意味があったんやろね。

●阿木さんだったらPOSTコロナっていっぱい喋ってると思いますが、そんなのがウンザリだったんです。だからPOSTコロナはどう思うかって、考えてないですよ、という答えになる(笑)。
でも単純化しすぎているなあともう少し考えた方がいいとは思ってるんです(笑)。

△ただ言葉じゃなくてやっている強みがあるからね。数的にも前のremodelを超えたからね。

●しかもremodelはいい曲しか入っていないという自信もありますし。

△特に2011年のremodelで強調したいのは、阿木さんがやってたというより、スタジオワープが阿木さんを雇っていたということだからね。ギャラを出しているからね。だからremodelを一緒にやっているといわれると心外やね。レーベルの名前を決めたらお前のものかということになるしね。それは違うだろうとね(笑)。

●最後に阿木さんのいい話をしておきましょう。
阿木さんの言葉で記憶に残っているのは、アメリカ村の時ですけど、若いミュージシャンに対して「お前らは場所があるのがどれだけ大切か分かっていない」と言ってたけど、ようやく分かってきた気がしますね。場所があったからこうやってやってこれたし、レーベルもスタートラインに立てたしね。場所がいかに大切かを教えてもらった。

△レーベルも場所だしね。二つ場所があるわけやから、本当はこれが阿木さんがやりたかったことやと思うけどなあ。

○佐藤薫さんとの話でもヴェニューということばが出てきたけど、元々は待ち合わせ場所とかの意味だけど、今はもう少し広い意味で汎用的に使われるよね。『ロック・マガジン』を編集していた頃だけど、阿木さんに場所のノウハウがないから佐藤さんに相談してたみたい。阿木さんは『BIT』までやってたけど、その間も店(場所)は続いていたんですよね。僕が阿木さんと知り合った頃は、雑誌も作ってたし、レーベルもあったけど、その頃から場所を作りたかったんだと思いました。

△阿木さんにとっては、存在証明と自己顕示でもあるしね。場所を持ち続けて言いたいことをいえる背景をムリにでもつくったと思うけどね。だから内実が伴わないと評価は難しい時代になって来ていると思う。

●僕は阿木さんと関わってきて、金のことでいろんな人に嘘ついて金を借りたりして返せていない状態なんですけど、今は嘘つくこともないんですけど、そうして不義理をした人に対して返済したいという気持ちになってます。過去の清算という意味でですけど。ここをきっちりしないとスタートラインにも立ててない気もするし。

△でもremodelの6枚を超えたというのは大きいよね。それにその内3枚(Vanity)は生きている間に出せなかったからね。平野君に声をかけたときに絶対6枚はやろうと思ってたよね。現在でその枚数を超えたし、次のリリースも決まっているしね。8枚はもう決まっている。

○でもremodelはいい音響システムで聴かないとって思うよ。Isolate Lineの作品とか家だと全然ダメですね。0gとかそれなりの音響設備があるハコで聴くべき音楽だと思いましたね。

●爆音で聴く音楽ですよね。体験ですよね。

△彼の持ち味が出ないかも知れないですね。

●2022年にリリース予定のEVOLと知り合ったのも、彼の新譜を探したけど売り切れていて、いろんなサイトを探してやっと見つけてメールでやりとりをしたらメンバーの1人であるRoc本人だった。偶然なんですよ。で、あなたのファンで、こんな店でこんなレーベルやっていると自己紹介して仲良くなったんですよ。その後オファーしたら喜んでくれたんですよ。

△これからは、僕らがリリースしないとあかんな。


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《阿木譲への手紙・・・インタビューを終えて》

0gという「場」、そこでやっていることを現場以外にも発信するメディアとしてのremodel、この両輪があってこそ他にはない活動ができると考えているので、新たな出会いを求めています。
現在は電子音楽と一括りでいっても現代音楽、テクノ、アブストラクト・ヒップホップ、エレクトロニカ、ノイズ、ハードコアパンク、ブラックメタル、ニューウェイヴ、アンビエント、即興など様々な音楽にルーツがあり、ルーツの違うアーティスト同士が密接につながることが少なく、それらをつなげることにより新たなものが生まれると信じています。
0gで出会ったアーティストと共に音楽を媒介とした未知なる体験、異形のサウンドスケープを現出させ続けたい。

environment 0gへと移り阿木譲氏が体調を崩し、ブッキングだけでなく金銭を含め運営をほぼ任されるようになりようやく「場」として整ってきたのは皮肉なものです。

阿木さんが自分の死期を悟った時、電話で呼び出され向かうと「最後に何か言うことあるか?」と問われる。息が詰まる。ようやく絞り出した言葉は「今までありがとうございます」だけ。「ありがとうございま”した”」、でなく「ありがとうござい”ます”」と言ったのは、すぐに訪れる別れを受け入れることがまだできなかったからですが、うまく伝わらなかったように思います。それを聞いたあなたの「なんだそれだけか」と言わんばかりの失望した表情は、今でも脳裏に焼き付いています。その表情を見て言葉を探すが見つからない。「まだ死ぬには早いですよ」なんて今のあなたを見て言えるわけがない。自己愛の強いあなたは最後に褒めて?肯定?して欲しかったんだろうと思います。しかし今まで見て見ぬ振りをしていたあなたと僕の間にある深い溝が2012年以降看過できないものとなったのはわかっていたでしょう。
病に苦しみ「首を吊るからロープを買ってきてくれ」と何度も電話してきましたね。真意はそうでなく助けてくれという叫びだったと思いますが、父の病気やイベントを口実に避け続け、あなたの苦しみ、辛さ、恐怖を受け止めることはありませんでした。
もしあともう少し僕が仕事ができたら、もしあともう少しあなたが人に優しい言葉をかけることができたら少しは違ったでしょう。

あなたからの強い影響、それは呪縛といっても過言ではないもの。
あなたと出会い18年目となる今、それから自由になりようやくスタートラインに立てたように思います。

nu things JAJOUKA時代にイベントの後に「お前たちは場がどれだけ大事かわかっていない」と言ったことを痛感しています。
あなたと出会う前の若かりし自分はロック、トランス、ノイズ、テクノ、ブレイクコアなど様々なジャンルの現場に行き、結果そのどれにも馴染めなかった。
nu things時代は自分の場をつくろうともがき、仮想敵と戦い、失敗し多くの方に迷惑をかけっぱなしでした。
0gは自分のわがままを通し、美意識を全うする場だと思っていて、それに賛同してくれる方がこんなにもいることに驚き、感謝しています。

あなたがいなくなってから1年ほどは僕の口から阿木譲の名を出すことは憚られました。自分のやっていることにまだ自信がなく、虎の威を借る狐の様に思ったから。

しかし今は阿木譲の弟子であるといっていきたいと思っています。

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○インタビューを終えて
考えてみれば、『ロック・マガジン』も含め歴代スタッフの中で平野君が一番身近で阿木をサポートをしてきたことが良くわかるインタビューだった。途中で逃げ出すこともせず、その期間は亡くなるまでの15年にも及ぶ。そして彼は阿木さんとは全く違う方法で音楽との向き合い方をしてきた。
阿木は音楽を通しての人との関わりから、言葉という記号に遊ぶことにより世界を認識する方法を発見した。だたしこの認識論には「感覚」という一種の思い込みや独断に左右される危うさもあり、はたして時代と向き合った時に、読み解けていたかどうかは、甚だ疑問である。しかし、その孤立主義的な生き方は阿木らしかった。僕はそんな阿木が好きだった。
そんな阿木とは違う方法で、音楽や時代と対峙しremodelを引き継いだ平野君は阿木にはない柔軟性をもっている。彼は阿木の歪な社会に対する考えを反面教師的に捉えているようだ。0gというヴェニューを拠点にremodelのミュージシャンを発掘し育てて、自分も刺激を受けながら活動をしていくのだろう。
そうして、溶けて移ろいゆく未来の響きの中で、その展開が楽しみである。

『阿木譲の光と影」シリーズ 第三弾 Isolate Lineインタビュー

『阿木譲の光と影」シリーズ 第三弾 Isolate Lineインタビュー

『音響実験の地球生命体に与える影響について』

第三弾は、remodel復活のコンピレーション『a sign 2』にも楽曲を提供しているIsolate Line。そのこと以外に予備知識はない。ただ今回インタビューするために最新作『INTERSTELLAR』と『2021: A space odyssey』の2作品を聴いてみた。アルバム・タイトルからイメージされるような外宇宙から内宇宙へと旅をしている映像的な風景が見える作品だ。このような楽曲を作る彼が何者で阿木譲とどのように関わり、どのような影響を受けたのか。そして今の時代をどのように感じているのか。彼の目には晩年の阿木さんがどのように映っていたのか。
さて未知なるIsolate Lineとの会話をはじめよう。
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Isolate Line(泉森 宏泰)の活動については、こちらのページにアクセスしていただきたい。
https://remodelremodel.bandcamp.com
http://studiowarp.jp/shrine/
https://hyahar.bandcamp.com
https://twitter.com/IsolateLine
https://soundcloud.com/isolate-line
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●泉森 宏泰
○嘉ノ海幹彦

【音楽との出会い】

○はじめまして、嘉ノ海です。インタビューを快諾していただき感謝しています。どうぞ、よろしくお願いします。

●はじめまして、泉森です。こちらこそ、よろしくお願いします。

○早速ですが、Isolate Lineと音楽の出会いはどのようなものだったのでしょうか?ジャンルとかミュージシャンとかレーベルとかは?

●高校生の時に、当時流行っていたヴィジュアル系バンドを結成してボーカルをしていました。元々はハードロックが好きだったのですが、Nirvanaを聴き始めたのをキッカケにグランジやオルタナロックにハマり。その後Radioheadや Björkを聴くようになってから、徐々にエレクトロニクス(サウンドや機材、ソフトウェアそのもの)に惹かれるようになりました。
バンドはその後流行り流されミクスチャーロックにスタイルを変えますが、最終的には音楽性の違いで消滅しました。

○共同でバンドをやるのと個人で楽曲を作っていくのでは、音楽の作り方が全く違うと思いますが、なぜ共同作業には魅力がなくなったのでしょうか?また音楽性の違いとはどのようなものだったのでしょうか?

●共同作業に魅力がなくなったという訳ではないのです。今も楽曲に生演奏を導入するなどしており、誰かと共同で音を作ることは新しい発見や化学反応があると思っています。
新作にもSparklerというギタリストに参加してもらっています。当時のバンドはメジャーデビューを夢見たロック好きの若者の集まりだったのですが、時代の変化とともにスタイルを変えていった結果、心がエレクトロニクスや実験的な音に偏ってしまったからだと思います。

○どのようなきっかけで電子音楽を作り始めましたか? そしてどのような音楽が好きだったのでしょう?

●バンド消滅後、独りで音楽を作っていかないといけない状況に迫られ、PCとCubaseを購入しました。
この当時は Squarepusherや Aphex Twin、Autechre(WARP周辺)、Fennesz(editions mego)から、Mogwai やGodspeed You Black Emperor等のポストロックをよく聴いていました。

○この時期から今の楽曲の作り方にシフトしていったわけですね。

●この頃はDAW(Digital Audio Workstation)のシーケンス機能を使ったオーディオ加工に興味があり、データにエフェクトをかけてドローンを作ってました。2004年に初めてのライブした時は、このサウンドにギターノイズ(シューゲイザーサウンド)を重ねるセットでした。

○最初のライブはどのようなシチュエーションだったのでしょうか?

●難波にあるLOSER STORE OSAKAでDJやミュージシャンを集めてイベントをするからと、オーナーのKILLERさんに声をかけて頂いたのがきっかけです。テクノやヒップホップのDJに挟まれる形でノイズを演奏していたので、お客さんはどう聴けば良いのかわからなかったと思います(笑)

【阿木譲との出会い】

○なるほど。ところで、阿木譲との出会いは?いつ、どこで、どんな状況だったのでしょう?

●2011年10月21日の「nu things JAJOUKA」(2010年オープン)でのライブが初の出会いです。その日はYuKi AOE君主催の「-:concep:-Little Garden」というイベントだったと記憶しています。僕の他には主催のAOE君、Seiho君が出演していました。バーカウンター沿いの椅子に座りタバコを吸っている阿木さんのもとへ挨拶に行った事を今も鮮明に覚えています。タバコを吸いながらスタッフの平野さんに「今日は客が少ないなぁ…この子(僕)が一番お客を呼んでいるから、今度イベントする時は呼んであげなさい」と仰っていました。半分は僕の音楽の事には何も触れないんだ…という気持ちと、半分はコレから「nu things」に出れるんだという希望に満ちた気持ちでした。

○初対面の阿木さんは好印象だったんですね(笑)

●でも、その後、2012年10月のイベントまでの1年間nu thingsのイベントに呼んでもらうことありませんでしたが(笑)

○阿木さんは、見た目サングラスをかけているし気さくな感じでもなかったでしょ。

●周りのミュージシャンからは極力関わらない方が良いとアドバイスされていたので、挨拶に伺った時はとても恐る恐るでした(笑)。音楽に対する感想は頂けませんでしたが、物腰の柔らかい喋り方をされる方で、周りが恐る理由がわかりませんでした。ただ…カリスマ性というかオーラのある方だなぁと思いました。

○昔から初対面でもストレートに切り込んでくる人ですからね(笑)

●僕は人見知りするタイプなので、ある意味ありがたかったですね(笑)

○で、その1年後から阿木さんのイベントに参加することになるんですね。

●大阪に住んでいた2012年末から2015年夏頃まで、阿木さんの組まれたイベントに、殆ど呼んでいただいていました。

Isolate Lineが最初に参加した阿木譲企画のイベント
2012年10月27、28日(土、日) EXHIBITION [ GRAPHIC NOTATION ]
1914年にL・ルッソロによって作曲された騒音音楽「都市の目覚め」の、イタリア未来派が始めた図形譜( Graphic Notation )は、70年代後半から80年代中期にかけて音楽雑誌rock magazineをエディトリアルしていた頃から、その記号的な美しさに魅了されよくグラフィックデザイン/レイアウトに応用させてもらった ( そして70年代後期ロンドンでブライアン・イーノにインタビューした時教えてもらったコーネリアス・カーデューのグラフィックスコアなどなど ) 。現在、尖端で表出している電子音楽は、もはや21世紀版現代音楽といったほうが妥当だろう。それらの音楽はmp3などのデータや波形に変換され配信されているものだから、よけいにこうした図表や図柄、テクスト等によって記譜された音の可視化が必要になってくる。
exhibition 「 Graphic Notation 」は、スコアの意味だけではなくヴィジュアル・アートとしての図形譜( Graphic Notation )と、ラップトップの箱の中にデータ化された電子音楽の視覚化 ( 阿木 譲 )
※このイベントはライブをメインに、アーチストが各々つくり出す図形譜、イメージを具現化し展示する新しい展開として開催します。(阿木譲)

○この阿木さんの文章は初めて読むのですが、面白そうですね。音楽のことではなくビジュアルのことが書かれている。このイベントへはIsolate Lineとしてどのように臨んだのですか?

●大量に印刷した写真や文章を切り刻んでコラージュした作品を発表しました。サンプリングやフィールドレコーディングを分解して再構築するという意味をこめた図形譜となります。

○いわゆる現代音楽の作曲家がグラフィック・スコアという技法を使うようになったのは、音符や演奏方法の指示、音の強弱、音の長さ、テンポなどを指示している譜面での制限を打破するためでした。アルノルト・シェーンベルク以降の12音技法からトータル・セリエリスムへと流れる音楽技法の進化過程に出現したものなんです。つまり音楽芸術が常に移ろい行く社会と連動している時代と対峙することが出来なくなった背景がある。だから阿木さんが書いている電子音楽の視覚化とは少し観点が違うだろうと思います。
ただここに書かれている20世紀初頭は、産業革命後工業化が進み、都市の姿が変貌したと同時に、都市生活者が大量に発生した時代でもありました。それに戦争への熱狂と予感があったと思います。「僕ら、詩に速度を与えた」と宣言したルッソロは、都市の活力を模して騒音発生装置を作りますからね。それらはクラッシックの文脈とは違うのですが、デザインやヴィジュアルという美術史的観点からみると、面白い試みだと思います。

●この後、何度かのイベントを重ねて、2013年6月22日の「Minimalu Fluid」終わりの打ち上げでremodel再始動の話を伺いました。発案者はYuki AOE君だったと思います。
当時、僕や徳田順也さんを含めた7人くらいのミュージシャンが選出されていたと記憶しています。(Junya Tokuda 、Yuki AOE、ARMS、Kazuto Yokokura 、NASAA、Taiki Masai 、Isolate Line )
プロジェクト稼働後、徳田さんが抜けARMSが抜けMasai君が音信不通になるなどのトラブルがありました。

○もちろん、remodelというレーベルについては、どのようなコンセプトだったのかも含めてご存知だったのですよね。

●実は予備知識がまったく無かったのです(笑)。『a sign paris-ozaka-kyoko』も後になって知ったぐらいでした。

○Momusの『in samoa』(remodel 06)が2012年8月9日にリリースされたのを最後にremodelは停止されていましたからね。remodelの再始動と聞いて泉森さんはどう思いましたか?

●remodelの名前以上に、同年代で集まったミュージシャンで新しい何かが作れる事に期待感が膨らみましたね。

○何かが生まれるんだと思ったのですね。その後remodelプロジェクトはどうなったのでしょうか?

●2013年7月に阿木さん発案で「galileo galilei」というミュージック・コンクレートに作風を限定したイベントを5日間連続で実施しました。コンセプトは参加ミュージシャンに一任し、共同で考えたオブジェを展示する斬新な試みでした。このイベントの最終日に事故が起き、その後remodelの話は休止となりました。思い起こせば阿木さんのヴィジョンや求めれるものに集まったミュージシャンがついていけなかったの要因だったかと思います。

○「最終日に事故」って何が起きたんですか?

●事故というか・・・衝突といった方が表現は正しいのかもしれません。参加ミュージシャンのプライドとnu thingsオーナーとしての阿木さんの考え方の違いにより口論になりました。

2013年7月29日-8月2日(月-金) GALILEO GALILEI
“E pur si muove”(それでも地球は動く)ー
過去の些細な〝つぶやき〟が世界の今に至るまで拡散している。
本当にその〝つぶやき〟があったのか今となっては事実確認も出来ず、いわば伝説と化した半信半疑のツイートである。
もしかしたら、そのような限りなく薄弱透明なものの集積で世界は成り立っているのではないだろうか。
更にいえば、理の真偽も交錯した小さな断片の集積が作り出す世界を生きているのではないのか。
当エキシビションにおけるインスタレーションは、
「複数の解体されたスピーカー上に設置された銀半球から直接聴き取れる微小な物音が響き合い、プロジェクションされた映像未満の反射光が周囲を照らし淡々と回り続けていく」というもの。
そこに示されるのは、この瞬間の要約であり、大きな物語が紡ぐその先ではない実存に谺(こだま)した未来像である。(NASAA)

○これを読むと確かに面白そうですね。やっぱり、音楽というよりアートのフィールドでの実験というイメージのような感じを受けます。

●そうですね。アートフィールドでの実験であり、参加したミュージシャンにとっては精神的に追い込まれた状態で奏でる実験音楽のようなイベントでした。
オブジェについては、NASAAとAOE君のアイデアが元になっていました。2013年2月の「Biological Speaker」の時に、NASAAがキッチン用のボールを使ったインスタレーションをしたのですが、そのボールとスピーカーを組み合わせるアイデアをAOE君が出し、ARMSがコイン電池で発光するLEDを提供してくれました。それらの断片的なものをNASAAが具体化して基本設計にまとめて作品にしました。NASAA、AOE君、スタッフの平野さんが深夜に作業をし、足りなかった配線の材料調達をYokokura君が行い、雨宮ユキさんが明け方に食事を作ってくれました。関係者が提供できるリソースをフルに投入して作ったイベントでした。また、それが出来たのも阿木さんの無茶振りがきっかけである事は紛れもない事実です。ちなみに、ピンポン球にLED入れるのは阿木さんアイデアでした(笑)

○その時の「複数の解体されたスピーカー」が、今の0G(エンヴァイロメント:ゼロジー[ゼロゲージ]2015年3月オープン)の壁にかかっているインスタレーションになっているのですね。

●その後2014年4月に、阿木さんの推薦により六本木「SuperDeluxe」で行われたRed Bull Music Academy presents 0g night「DO BLOOM IN THE SILENCE」に出演しました。
その際にはCD音源『test I: i.a.m.y.o』が限定販売されました。

○4月19日に行われたトーク/ライブ/DJのことですね。できれば詳しく教えて欲しいです。

●阿木さんが『ロック・マガジン』誌のために、取材した70~80年代の欧米NO WAVEシーンなどを捉えた貴重な映像の上映とトーク、ライブは大阪と東京の電子音楽家6名での演奏されました。その後阿木さんのブリコラージュがあり全3部構成で構成されたイベントでした。(ARMS、Yuri Urano、Isolate Line、MADEGG、Yui ONODERA、Akihiko MATSUMOTO)

六本木[ 0g night: do Bloom in the Silence ]

【阿木譲から受けた影響】

○阿木さんとの出会いが音楽家Isolate Lineに与えた影響や今に繋がることを聞かせてください。

●まずは、今も制作やライブ活動を続けているのは、阿木さんとの出会いが無ければあり得なかったと思います。2012年10月の「graphic notation」に参加するまで、Isolate Line の活動はほぼ休止状態でしたが、イベントに頻繁に呼んでもらえたので新曲を作るようになっていきました。また阿木さんを通じて知った音(modern Love、stroboscopic Artefacts、modal analysis、hidden hawaii、Samurai horo 等)が、今のIsolate Line の音になっているのは間違いありません。

○初めてIsolate Lineの音を聴いたときには、EMPTYSETの音響をイメージしました。
阿木さんが音源を紹介する際は、単に音楽がカッコいいというだけではなく言葉を伴って説明をしていたと思いますが、どのように受け取っていましたか?

● EMPTYSETは強く影響を受けたアーティストの1組です。『Material』を紹介した文章の中では、その制作工程についても触れられており、同様の音響実験がしたくて営業時間外の店を借りて録音した事もありました。

○トーチカから覗いた風景ジャケットの作品ですね。阿木さんのEMPTYSET評も面白いと思います。また泉森さんの音作りの話を通して、阿木さんとの繋がりも良くわかります。ところで、ブログで書かれているのは阿木さんの「音楽評論」ですが、これらについてはどのような感想をお持ちでしょうか。

●新しい音を探す時は阿木さんのブログを読んで、国内外問わずレコードや音源を買い漁っていました。
とにかく知的で芸術性の高い文章を書かれる方で、いつブログを止めるか分からなかった為、記事をコピーして繰り返し読んでいました。

○「いつブログを止めるか分からなかった為」と感じられていたのはどうして? それまでにも経験したのですか?

●阿木さんがよく仰ってたんですよ。「いつブログを止めるか分からないよ。今のうちコピーするならしておきなさい」と(笑)

○なるほど(笑い)。前のものにこだわっていると次のステップにはいけないと公言している人ですからね。
そんな阿木さんと出会って、会話から記憶に残っている具体的なやりとりや言葉はありますか?

●僕のライブは作品同様にストーリーに重点を置いており、メロディラインのある曲や、ライブの構成の中に突然ピアノのインストを入れるなど緩急を意識してた為か、「お前はロマンチストだなぁ」とよく言われてました。
後は、文脈は覚えてないのですが、イベント「Minimalu Fluid」の後に「お前は天才ってやつだな」と珍しく褒めていただいたのを覚えています。確かにミックスのバランスがよく音が分離していて聴きやすかった気がします。
後は音楽を言語化する事と発信する時には連続性が重要だと仰っていました。

○阿木さんのブリコラージュには行ってましたか?
そもそもブリコラージュとは、構造人類学者クロード・レヴィ=ストロースが『野生の思考』で使っていた言葉ですね。未開の民族が、生活に使っている道具を計画性や理念に裏付けられていない使い方をするための方法です。つまりその場の状況に応じて、限られた道具を組み合わせることにより、新しい価値を産み出すような概念です。それらの道具は、通常の使用用途に戻されます。いわば身の丈に合った組み合わせの技術なんです。

●阿木さんがブリコラージュという言葉を使わなかったら、知らなかった言葉ですね(笑)

○そうなんですよね(笑)。0gで知り合った人から「嘉ノ海さん、阿木さんのブリコラージュに行きました?」って聞かれて、えっ何ってなりました(笑)。一瞬レヴィ=ストロースが阿木さんと何の関係があるのかと。でも少し考えたら阿木さんらしいなあと思いました。

●阿波座に住んでいた時に家から徒歩5分の場所に「nu things」があったので、ブリコラージュはよく通ってました。ライブ録音したCD-R音源が来場者に配られることもあり、ブログを読む時のように新しい音欲しさに通い、かけておられる曲について何かと質問をしてました。「君たちのやっている音は古いから、早くここまで来なさい。僕は明日になれば別の場所にいるけど」とよく笑いながら仰っていました。

【晩年の阿木譲について】

○さて結局、阿木さんが生きている間にremodelは再始動しませんでした。
泉森さんはどのように、阿木さんの晩年をどのように見ていましたか?

●2015年7月に仕事の都合で大阪から東京へ転勤となりました。辞令が出た夜に阿木さんに電話して転勤の報告をしました。出られた瞬間、知っていたかのように「東京か…」と言われたのを覚えています。その後は東京へ行く前に0gで集大成のようなイベントをやっていけと言われました。平日の7月28日に行ない、阿木さんと直接言葉を交わしたのは、その日が最後でした。最後は東京でも頑張れよというたわいもない会話でした。

○2015という年は、3月に0gがオープンし、8月にがんの手術をしている。その直前ですね。阿木さんの様子はどうでしたか?

●体調が悪いのか、少し元気がない様子でした。0gに行けばいつもいらっしゃる印象でしたが、イベントに顔を出す回数も減っていたように思います。

○東京に転勤してからはどのよう見ておられたのですか?

●東京へ行ってからは、ブログとTwitterだけが阿木さんからの情報を得る媒体でした。僅か3年ばかりの時を共有した阿木さんでしたが、その当時は本業の仕事も忙しく、また東京という新天地に移った事もあり、阿木さんの強制力から解放された気がしていました。その3年後にまさか他界されるとは、この頃は想像も付きませんでした。いずれは大阪に戻ると思っていたので、大きくなった姿を見せようと思って日々を過ごしていました。

○泉森さんにとっての0Gという場所性については、どのように思われていますか?
つまりライブとは?音楽を共有する空間について聞かせてください。

●あらゆる音源が聴くものではなく体感するものだと考えています。阿木さんという存在や0gという場所が音楽家の感性を磨きあげ、ライブしフィードバックを受けて音を磨き、またライブするというサイクルが回っていたと思います。阿木さんはもうこの世にいらっしゃいませんが0gという場所は僕にとって帰るべきホームだと思っています。今も0gで活躍している仲間を見て羨ましく感じています。

○特にIsolate Lineの作り出す音響は、それを体験するには、それなりの音響機材が必要ですよね。

●表現の本質はライブにあり、音源という枠の中ではどうしても越えれないものを感じます。
あらゆる感情を同時に表現する事が僕にとっての究極であり、ソレはライブ以外では表現できないものだと思っています。

○ライブとはなんでしょう。聴いている者が同じ空間を共有する。デヴィッド・チュードアがライブ・エレクトロニクスとは作曲の一形態だといいましたが、新しい音楽空間ということでしょうか?

●新しい音楽空間なのかもしれませんね。演奏者と聴いている者が同じ空間を共有し、その場の空気や感覚をリアルタイムに音へフィードバックする。それがライブなんだと思います。

【Isolate Lineについて】

○最後に2つ質問をさせてください。まず今後の活動のプランを教えてください。

●2タイトル発表後は、自主レーベルを発足し、そこからの音源リリースを考えています。2タイトルとは異なるコンセプトの実験性に重きを置いたモジュラーシンセのみの音源を11月に発表しようとおもっています。その後は、Isolate Line以外の自身のユニットやプロデュースしているアーティストの音源をリリースするつもりです。また次のアルバムは「死と孤独」をテーマにしたアルバムを作りたいと考えています。

○もうひとつは、他のミュージシャンにも聞いた質問です。
新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対して、どのような感想を持っていますか?
生きている間にこのような時代(世界が民族や言語を超えて同時に同じ惨禍にある)と対峙することは、幸運にも(失礼)そうあることではありません。

●少し宗教じみた考えかもしれませんが、神に近づこうとしたバベルの民が言葉を乱されて世界中に拡散したのち、人類は再びネットの力を使って一つになろうとしてきました。(ネットは地球を張り巡らすように地球という一つの生命体に近づこうとしていた)ソレに対する、神からの新たな試練のように考えています。人は地上から離れらないように、コミュニケーションの本質は直接の対話にあると考えています。ソレを妨げるウィルスは人類への究極の試練であり挑戦なんだと思います。

○面白い視点だと思います。「人は地上から離れらないように」というのは、最新作『2021: A space odyssey』とも共通していますね。重力がない状態では、確実に意識変化も起きると思います。地上でも変性意識状態は起きますからね。ウイルスは40億年前に生命が誕生したときから、生命に作用しながら変異を繰り返してきたのでしょう。

●そうですね。生命誕生から繰り返されてきた事なんだと思います。

○僕が知らなかった、晩年の阿木さんに少し触れた気がしました。いきなりの質問にも答えていただきありがとうございました。是非近いうちにライブでお会いしましょう。楽しみにしております。

●ありがとうございます。是非ライブでお会いしましょう。

【改めて阿木譲のこと・・・インタビューを終わって】

○泉森さんにとって阿木譲とはどんな人物だったのか。

●とにかく優しい人でした。そして高い理想を持ちソレを実現する為の覚悟を求める方でした。自分がどうなりたいのか、何をしたいのか、実現する為には何をすれば良いのか。阿木さんのいう事が全てでは無かったとは思いますが、少なくとも何の変化もない日々の中で自己満足を繰り返す事に比べると、確かな方法論の一つを示してくれていたのだと思います。
強制力とスピード感が半端ないので理解できていても付いていけるかは別ですが(笑)

【Isolate Lineの仕事】

○2020年5月リリースのremodel 07 V.A.『a sign 2』の「Belsomra」「Abilify」について

●BelsomraとAbilifyは両曲ともモジュラーシンセのみを使用して作った音源です。何でも自由に作れるソフトウェアから、ある意味の足枷(モジュラーシンセの操作性への不慣れ)がある状態で、どこまで、Isolate Line のサウンドが作れるかの挑戦的な曲となっています。因みに2曲とも、僕が心療内科でもらっている薬の名前です。精神的に追い込まれている状況下でモジュラーシンセでの実験により産まれました。

○2021年10月15日リリースのremodel XX 『INTERSTELLAR』、shrine.jp SRSW 493 『2021: A space odyssey』について

●『INTERSTELLAR』と『2021:A space odyssey』はテーマを共にする連作となります。前編後編の関係です。メインコンセプトはテクノロジー(実験)とタイムレス(永続)です。架空のSF映画のサウンドトラックをテーマとし、楽曲が織りなすストーリーを構成しており、アルバムの中心となるGravityシリーズは、『INTERSTELLAR』に収録のGravity_zeroと合わせて4編で構成し起承転結を表現しています。それぞれの楽曲は偶然性からの破壊/再構築で制作。
偶然性=ランダムシーケンスやモジュラーシンセ、オーディオ加工による音響実験を試みています。そして実験で得られた音に情景や感情を織り込み楽曲へ昇華しています。

【Isolate Lineへの個人的な質問】

○好きな作家や作品について教えてください。最近読んだ本は?

●実はあまり本を読みません…。おすすめの本があれば教えていただきたいくらいです。映画は好きでよく見るのですが…。

○じゃあ(笑)、最近観た中で一番良かった映画は?またベスト5を教えてください(笑)

● Ari Aster監督の『Mid summer』が最近見た映画では1番良かったですね。カルトをテーマにしたホラーで、舞台が白夜のスウェーデンということもあり視覚的には明るいのですが、それが逆に恐怖を助長している映画です。
これまで見た映画で言うと…ベスト5を絞るのが難しいのですがSFを中心に、Christopher Nolan監督の『Interstellar』『Inseption』、Denis Villeneuve監督の『Arrival』『Blade Runner 2049』、Darren Aronofsky監督の『π』等はサウンドトラック含めて好きですね。

○インタビューを終わって
「阿木譲の光と影」というテーマで、泉森さんの話を聞きたかったのだが、ミュージシャンからリスペクトされている阿木さん像が浮かび上がってきた。
阿木さんは、泉森さんが大阪から東京へと居を移した年にがんの手術し、その後全身にがんが転移して3年後に死去した。阿木さんが残したものは金銭を含め何もなかったが、今でも彼らの指標の一部になっていることは間違いなさそうである。つまり阿木さんとの出会いやイベントなどを通じて共同作業をすることにより化学反応が起き、その受肉した魂が変化しながら生き続けているということなのだろう。
そもそも音は生まれたら空気を通して振動しはじめるが、その瞬間から減衰していく。しかし残響を通して、記憶という闇の中で音は貼りついてしまい、その音は言葉への昇華される。阿木さんがいったように言葉は記号(シーニュ)でしかないのだが、創作活動という労働を通して言葉は、魂へと再生産されるのかも知れない。

2012/11/30-12/2 (fri-sun)
Sound Art – A Biological Speaker –
11/30 (fri) 19:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
LIVE:
Takanori
tape libido

Bricolage:
AGI Yuzuru

12/a1 (sat) 17:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
LIVE:
Yuki Aoe
DEATH FLAMINGO into the memai
Masataka Nagano + kazuto yokokura
[yakan]
masaru saito

Bricolage:
AGI Yuzuru

Visual:
Paravora

12/2 (sun) 17:00-22:00 2000yen(inc 1drink)
LIVE:
PSYCHOLONICA
Kyohei Hayashi
Isolate Line

Bricolage:
AGI Yuzuru
Visual:
イケグチタカヨシ

ーー

2013/1/25&26 (fri&sat)
Chaos Theory
25 (fri) 19:00-22:00 2000yen(inc 1drink)
LIVE: Isolateline / ネオジオ.シンプル
Installation: 森山雅夫

26 (sat) 18:30-23:00 2000yen(inc 1drink))
LIVE: Kezzardrix / Yuki Aoe / kazuto yokokura / Takanori / takecha
Installation: 森山雅夫

「人間は、たとえ物理現象を完全に解明したとしても、初期値を完全に観測できないので、決して未来を予測できない」という結論で大きな衝撃を与えた「カオス理論」。
ラップトップでプログラムされた音楽や演奏でも、条件や状況が変わればすべてが同じように再生されることはない。
この2つが不思議と符合するではないか。

カオス理論 参考url: http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kaosu.html

ーー

2013/2/22-24 (fri-sun)
Biological Speaker
昨年11/30-12/2にサウンドアートと音響空間デザインというコンセプトの下、音楽を聴く環境そのものを100台以上のスピーカーをフロアの床に配置してアーティストの演奏する音響を空気の振動としてバイオロジカルに聴き取る空間をnu thingsに現出させた[ Biological Speaker ]。
その第2回目の開催が早くも決定!

22 (fri) 19:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
bricolage:
AGI Yuzuru
DJ:
Yuki Aoe
Visual:
Paravora

23 (sat) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
LIVE:
masaru saito
Unyo303
Isolate Line
kazuto yokokura
Fumiaki Nagasawa
Pineart
hideo nasasako

24 (sun) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
diatribes(from Swiss)
NASAA
∠yuLLiPPe
Taiki Masai

ーーー

2013/4/27&28 (sat&sun) open 18:00 / start 18:30 2000yen(inc 1drink)
Minimal Fluid

27 (sat)
LIVE:
Unyo303
masaru saito
masataka nagano&kazuto yokokura
Yuki Aoe

VISUAL:
Paravora

28 (sun)
LIVE:
Isolate Line
Taiki Masai
junya tokuda
NASAA
MINE
Takecha

ーーー

2013/6/22 (sat) 17:00-23:00 2000yen(inc 1drink+先着30名様にWhereabouts Recordsのレーベルサンプラーをプレゼント)
Minimal Fluid

LIVE:
Yui Onodera
Yuki Aoe
Taiki Masai
NASAA
junya tokuda
kazuto yokokura
Isolate Line

ーーー

2013/7/29-8/2 (mon-fri) 19:00-23:00 1000yen(no drink)
Galileo Galilei
ACT: Isolate Line / Yuki Aoe / NASAA / Taiki Masai / kazuto yokokura / AGI Yuzuru

ーーー

2013/8/30,31,9/1 (fri,sat,sun)
Rhizomatic Structures

30 (fri) 19:30-23:00 2000yen(inc 1drink)
ACT: Isolate Line / ARMS/ MINE / and more…

31 (sat) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
ACT: ロマンチカ學校 / kazuto yokokura / ARMS / and more…

9/1 (sun) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
ACT: ARMS / masaru saito / ∠yuLLiPPe / DJ 101 / and more…

ーーー

2013/10/19&20 (sat&sun) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
shin akiyama dmx sculpture: compositions for “nu things“ – Minimal Fluid –
19 (sat)
dmx sculpture: shin akiyama
LIVE: Isolate Line / ARMS / masaru saito / Route09
bricolage: AGI Yuzuru

20 (sun)
dmx sculpture: shin akiyama
LIVE:∠yuLLiPPe / S-Noi / Unyo303 / [yakan]
bricolage: AGI Yuzuru

ーーー

2013/12/14 (sat) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
incidences
LIVE: Ryo Murakami / ARMS / junya tokuda / Isolate Line / masaru saito / Yuki Aoe

ーーー

2013/12/29 (sun) 18:00-23:00 2000yen(inc 1drink)
Minimal Fluid
LIVE: Isolate Line / [yakan] / ロマンチカ學校 / SAYONARA NEURON / Tree And Water / methodctrl.

泉森 宏泰 -Hiroyasu Izumori-

『阿木譲の光と影」シリーズ 第二弾 Junya Tokudaインタビュー

『阿木譲の光と影」シリーズ 第二弾 Junya Tokudaインタビュー
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

『やがて映像となる音楽』

第二弾は、Vanity Recordsの中でも一番好きだったToleranceの音源を再構築したJunya Tokuda。2020年の初旬に0gで聴いたライブ演奏が印象に残っている。その時に感じたことをこのように言語化した。「イングマール・ベルイマンの『冬の光』を想起させる映像的音楽。炎の木が弾ける。実の中の音の風、風の中の音。ストイックとエキセントリックは、ストア派(禁欲)とエビキュロスのアタラクシアも二律背反。艶っぽさの逆のヘドニズム=快楽主義音楽」
徳田君とは2019年阿木譲1周忌イベントの際に、林賢太郎から紹介されて挨拶程度はしているのだが、まともな会話はしていない。今回はじめて阿木さんのことや彼自身の音楽に対する考えなどについて話を聞いた。
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Junya Tokuda (徳田 順也)

電子音楽家。
電子音楽イベント『Line』を不定期に開催。
阿木譲プロデュース『a sign – paris ozaka kyoto -』に参加。
remodelのV.A.『a sign 2』に参加した後、アルバム『Anemic Cinema』、Toleranceのリメイク作品『VANITY RE – MAKE / RE – MODEL Vol . 1』をリリース。
エクスペリメンタル/エレクトロニカの老舗レーベルshrine.jp、電子音楽レーベルLongLongLabel等からアルバム、EPをリリース。
「ポストロックとしての、スロウモーション・テクノからウィッチまで、新しい時代のエレクトロニカを表現する。- 阿木譲」

http://linesound.com/junyatokuda
https://www.instagram.com/junyatokuda/
https://twitter.com/junyatokuda
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●徳田順也
○嘉ノ海幹彦

【音楽との出会い】

○徳田君とは今回こんな機会をもらって話をするのは初めてですね。音源は前から関心をもって聴いていました。また単行本『Vanity Records』の付録にもToleranceのリメイク(再構築)した作品を提供しているよね。君とも関係の深かった阿木譲のことについて色々話を聞きたいのでよろしくお願いします。思い出してくださいね(笑)。

●はい、よろしくお願いします。

○そもそもJunya Tokudaと音楽の出会いはいつ頃?
どのような音楽が好きだったのか?ジャンルとかミュージシャンとかレーベルとか。

●普通すぎて申し訳ないのですが、高校の時にギターを始めたのがきっかけです。それまでは絵や漫画を描いたりする子供だったんですが、人前で何か表現する手段として安易に思いついたんだと思います。

○ギターか。ま、手っ取り早いよね(笑)。

●ジミー・ペイジを真似てレスポールでハードロックとかを弾いてたんですが、聴いていた音楽はエイフェックス・ツインとかYMOなど主に電子音楽でした。そういったものを聴きながらギターを担いでスタジオに行って、という感じです。だから聴いていた音楽の話をできる人が周りにあまりいませんでした。

○「電子音楽」という言葉が出てきたけど、いつ頃どのようなきっかけで作り始めましたか?

●学生時代にバンド活動をする傍らYAMAHAのQY700を手に入れて、坂本龍一やYMOの真似事のような曲を作っていました。他にもKORGの音源モジュールとかRolandのサンプラーも使ってましたが、データはほぼ残ってないです。オービタルやシステム7などのテクノも聴いてましたが、自分で作る音楽としてはあまりクラブ・ミュージックは意識してませんでした。

○やっぱりハードウエアの話が出てきますね。今ならPCを使って色々できると思うけど、僕らが知っていた、例えば1978年のKORGのMS-20シンセサイザーやSQ-10シーケンサーの機能から比較すると相当高度なことが出来るようになっているんだろうな。

●演奏も録音技術もプロとは比較にならなかったんですが、機材のお陰でそれらしい音が出せていたという感じです。ところで、当時Vanity Recordsのアーティストと機材の話はされましたか?Toleranceとか、自宅で録音してたのかな。

○もちろん宅録ですね。今となってはあまり明確な記憶ではないんだけど、話は聞きました(笑)。一番熱心だったのは新沼好文君(SYMPATHY NERVOUS)ですね。『ロック・マガジン』誌上で「自らの肉体の外延としての機械音楽がシステムとして機能し始めている」と書いたくらいなんだ。UCG(Universal Character Generator)と名付けた自作のエレクトロニクスをたくさん作っていたし、その後も作り続けていた。残念ながら3.11東日本大震災で家も機材ごと津波で流されてしまった。
丹下順子さん(Tolerance)とは、機材について話していない。ただ、自分のことを「感性機械」でありたいといっていた。つまりエレクトロニクス(機材)も肉声の使い方もそうだけど、全く同等に扱っていて、溶け合うというか融合して音作りを実験的に試行していた。だから新しい音源が出来たら聴いて欲しいって『ロック・マガジン』に送ってきていた。そのテープが一部残っていて2020年にremodelから『Demos』としてリリースされただよね。
あと機材というと藤本由紀夫さん(NORMAL BRAIN)だ。彼は当時大阪芸術大学で音響を教えていたので専門家だった。Vanityの頃は、MS-20とSQ-10の音響機材やカセットボーイなどの録音機材など、新しくて安価で簡易なものが出始めていてね。藤本さんは、それらの機材をすぐに使っていた。それらが音楽に与える影響について一番現場で実感していたミュージシャンだった。つまり誰でも作品を作れる時代になったということだと思う。
話が長くなったけど(笑)。

●楽曲だけでなく、機材との関係性についてもそうやって言語化するのは大事かもしれないですね。僕ももう少し考えてみようと思います。

○ところで、徳田君は、0gで演奏しているようなライブは、その頃から始めていたんでしょうか?

●自主制作映画や劇団の音楽制作をやってましたが、ライブをするようになるのは少し後です。縁あってクラブイベントにライブアクトで呼んでもらえるようになって、初めの頃はPCではなくライブ専用のハードウェアを使っていましたが、ライブの都度データを移行するのが面倒になって。そのうち制作もライブも基本的にほぼMac1台で完結するようになりました。

○やっぱりPCの方向になるんですね。

●阿木さんと出会ってからも再三「ハードウェアでライブしろ」と言われていたのですが、結局ずっとMacメインでやっています。

【阿木譲との出会い】

○やっと阿木さんの話が出てきましたね(笑)。いつ、どこで、どんなタイミングで出会いましたか。

●2010年の秋頃、当時心斎橋のアメリカ村にあった阿木さんのお店、「nu things JAJOUKA」のイベントに初めて出演した時です。

○復元して公開されている阿木さんのブログによると、「nu things JAJOUKA」は2010年4月にオープンしているので、ちょうどその直後ですね。9月7日に「WIR SIND SOHNE VON STOCKHAUSEN」というイベントの告知があり、Junya Tokudaの記載があります。

●イベントには、確かMySpaceにアップしていた音源を当時からスタッフだった現environment 0gの平野隼也さんが聴いて、声を掛けてもらったと記憶しています。リハーサルが終わって平野さんから阿木さんを紹介され、「よろしく」と言われて握手しました。

○阿木さんと初めて会ったときの印象は?どう感じましたか?

●当時阿木譲という人は知らなかったのですが、少し怖いと感じました。初対面の人に対して人生で唯一の体験です。そのときの服装も全身黒でサングラスという皆が知ってる阿木さんの格好で、普段生活してて余り遭遇しないタイプの人ですし。

○そうですよね。黒にサングラスは僕が出会った頃から変わりないです(笑)。それに初対面でも、いきなり本質的な問いかけをしてくるし(笑)。

●イベントが終わってから、「君はこれからどうなりたいんだ?」と声を掛けられました。たぶん「もっとクオリティを高めながら、今やってることを続けていきたいと思います」みたいなことを返事したと思います。

○徳田君が阿木さんと出会った翌年の2011年2月16日にリリースされたremodel 01『a sign paris – ozaka – kyoto』に参加していますが、その経緯を教えてください。remodelというレーベルは2010年に阿木さんがスタジオワープの中村泰之さんと出会い、資金提供も受けてスタートしました。

●当時同じようにnu thingsのイベントに出演していたアーティスト何組かと一緒に声を掛けてもらいました。参加アーティストは阿木さんが選んだと思いますが、自分に声が掛かるのは意外だと思いました。阿木さんがDJで掛けていた曲やブログで紹介していたものと、自分の音楽とは少し世界観が異なると感じていたので。

○阿木さんの世界観をどのように感じていましたか? 本人と話したり、ブログは読んだりしていたと思うんだけど。自分との違いは?

●例えば淡いテクスチャで凶暴性を表現するとか、フィジカルな音と主題には本来ギャップがあるものだとずっと考えていたんですが、阿木さんが掛ていた音楽から、緊張感や深淵みたいなものを真正面から表現する方が実は難しいし、上手くいったときの驚きが大きいと気づいて。それ以降、新たな世界観が上乗せされたような感じがします。あと「根が明るいから暗い音楽ができる」というようなことも言っていた気がします。僕とは逆なんですが(笑)。

○なるほど。阿木さんとの出会いがJunya Tokudaにとって大きな転機になったんだね。で、このアルバムで表現したかったものとはどういうものだったの?

●あまり実験的なことはせずに、最大限できることをどのように組み合わせるかを考えました。幾つか曲を阿木さんに提出することになっていましたが、いろいろ考えて作った曲はNGになって、比較的シンプルに作ったものが採用された感じがします。アルバムには「616」「603」の2曲で参加していますが、これは元々DAW(Digital Audio Workstation)のプロジェクト名でした。あとで正式に曲名を考えるつもりだったんですが、阿木さんの判断でそのままクレジットされています。「616」は阿木さんのDJで知ったGold Pandaの影響を受けて作った覚えがあります。

○Junya Tokudaの新譜『Anemic Cinema』でも思うことなんだけど、曲名に特徴があると感じている。
曲名はいつ考えるの?

●曲名は後付けです。制作している時期に読んでいる本や観た映画などに影響されて、結果的にそれらのサウンドトラックのようなものが出来上がるんですが、そのまま曲名にするわけにもいかないんで、イメージが近い言葉を後で探してくるといった感じです。曲名は一度つけてしまうとその後一生、自分の作品では同じものが使えないと思っていて。だから二度と使うことがないような単語を敢えて選ぶようにしています。

【阿木譲との現場】

○その後阿木さんとはどのような活動をしましたか?

●2010年末から2011年頭にかけては前述の「a sign」の音源制作と関連イベントがあって、その後もコンスタントにお店が主催するイベントに呼んでもらいました。

○ライブ主体になったんですね。その後は?

●2013年頃、再びnu thingsの周辺で活動するアーティストを何組か集めて、remodel名義で音源リリースやイベントを行っていくプロジェクトを立ち上げるということで声を掛けてもらいました。

○でも結果はリリースされていないので、実現はしていないよね。

●その頃もそうでしたが、阿木さんは拘りが強い人なので熱が入ると振り回されるというか、大変だと感じました。各アーティストのイメージやライブの手法などに統一感を持たせるようなコンセプトとか、そういったことに僕が息苦しさを感じてしまって。「このプロジェクトは自分に向かない気がするので辞めます」といったことをメーリングリストに送信して、真っ先に僕が抜けてしまいました。まもなくそのプロジェクトは終了したのですが。

○具体的に何があったの?その段階では資金的な問題もあったかもしれないけど、新しい音楽(阿木さんの尖端音楽)の影響(アイデア、世界観、手法)を受けながら、広義の意味での編集をしていくのが阿木さんの真骨頂だと思っているんだけど、なぜ出来なかったんだろう。remodelプロジェクトも継続しないと大きな動きになっていかないし、その後の展開もないと本人が一番よくわかっていたと思うんだけど、どうだったの?徳田君はどう捉えていた?

●僕個人のことで言うと少し行き詰まっていて、プロジェクトの世界観を踏襲した上での自分の表現をイメージすることができなかったのだと思います。たぶん今だったらやっている気がしますが。先輩のアーティストに「抜けようと思ってます」と話したときは、勿体ないからやるべきだと言われましたけど。今思えば、あれは阿木さんにとって大事な仕事だったんだと思います。

○たしかにremodelとして何とか継続したいという気持ちがあっただろうね。でも想像でしかないけど、阿木さんの内心では葛藤があったのかも知れない。自分自身の感性と実際の音楽を作成する現場とのズレ、もちろん人間関係もあったのかも知れないが。
そのプロジェクトが終了した後、何か動きはあったの?

●その後は阿木さんがアーティストを集めてプロジェクトを立ち上げることは無かったと思います。
当時のVanity Records以降も、そういった動きは無かったんでしょうか。

○僕自身はVanity Recordsの終盤には『ロック・マガジン』を離れているので分からないんだけど、最後はカセット・リリースでしょ。しかもセットで。先ほど話したけど、時代的に誰でも自ら音源を制作してリリースができるようになってきたというのが大きいと思う。カセットにしてもダブル・カセット・レコーダーが発売され複製も簡単できる。連動していた『ロック・マガジン』も田中浩一が中心となって月刊誌での展開となるしね。関西を中心にバンドの記事が多くなった。バンドが中心になる時代かな。だから新しいミュージシャンを発掘するというVanity Records当初の役割が終わったと思う。

●バンドが中心になる時代を経由したから、僕が音楽を始めることになったのかもしれません。

○音楽を個人で作ることとバンドのように共同で作ることは、根本的に違う作業だと思うけどね。で、remodelに話を戻すね(笑)。
皮肉な結果かもしれないけど、阿木さんが亡くなってからremodelは復活していて動きとしても継続してますね。平野君や中村さんの強い思いはもちろんなんだけど。

●0gでのイベントもそうですが、こうやって継続的に声を掛けてもらえるのはありがたいです。もっと頑張らないと、と思います。

○さて、阿木さんとの出会いが音楽家Junya Tokudaに与えた影響は?今に繋がることとは?

●前述のプロジェクトような出来事もありましたが、阿木さんという人に対して特に嫌悪感を抱くということはありませんでした。おそらく阿木さんも同じで、普通にイベントで会えば挨拶して、声を掛けてもらったりしました。また、nu thingsにしろ0gにしろ僕が参加するイベントには、だいたい出番のタイミングくらいに来てくれたりして。最後の数年間はそんなことも無くなってしまいましたが。。

○いろいろ具体的にアドバイスをもらったの?

●さっきの機材の話もそうですし、ライブの内容によって「だいぶ掴んできたじゃないか」とか、良くない意味で「相変わらずだな」とかを一言。全く感想を言わずに帰ることもあります。

○都度アドバイスをしてくれていたわけじゃないの?

●僕自身があまり人と音楽の話をしないタイプなので、それに合わせてコミュニケーションをとってくれたのかもしれません。他の人とは結構、長話をしてますからね。

○阿木さんと話して、それで聴いていた音楽とか変化はあった?

●阿木さんと出会う以前はジャンル問わず節操なく聴いていて、作る音楽にも同じくどこか節操のない感じがあったと思います。

○でもジャンルを問わず節操もなく聴くのはいいことだと思いますよ。僕なんかは全く節操ないです(笑)。

●新しい音楽を見つけるときには阿木さんのブログが手掛かりになりました。あと阿木さんが「これは良い」とか「これはダメ」と言う音楽もだんだん判別がついたりとか。

○「良い」とか「ダメ」とはって何だろう。どんな基準があるのだろう。そこから考えることにより音楽を超えて新しい世界と繋がり、理解が深まると思うんだけど。

●タイミングによっても変わる気がするし、言葉にするのは難しいですが、純粋に楽曲として上手くいっているか、そうでないかが大きいと思います。バランスとかグリッドの位置などほんの紙一重のチューニング具合とか。あと「新しい音楽を聴かないとダメだ」とか「でも文脈を捉える事も大事だ」とか、会話を通して音楽の聴き方だけでなく制作する上でも影響を受けた感じがあります。

○文脈って自分の体験に依存するよね。音楽体験は論理的な展開じゃないし、いきなり様々な方向に飛んだり、天や地から自分の感性や肉体に飛び込んでくることもあるよね。

【尖端音楽の伝道者としての阿木譲について】

○阿木の音楽評論についての感想を聞きたい。

●ブログは隅々まで熟読するわけではないですが、紹介されている音楽をチェックするだけでなく、文章の言い回しも確認していました。

○君が引っかかった言葉とは?さっきの飛び込んでくるものは言葉も一緒なんだけど、現象を言葉化することが重要なんだと思っている。もちろん言葉だけじゃダメなんだけどね(笑)。

●僕はライナーノーツや音楽評論などは普段あまり読まないのですが、阿木さんの文章は評論家というよりアーティストの表現に近い印象があって。意味というより、イメージで言葉を選択しているような。丁寧語と常体の使い分けがバラバラだとか、体言止めが多いとか。歌詞みたいな印象です。個人的には良い歌詞って、それだけで意味を持っていなくて音楽と歌声が乗っかって初めて意味が伝わるようなものだと思っているんですが、それに近い気がします。

○僕も昔から、ライナーノーツは煩わしいと思っていた。いつ誰がどこで作ったとか、バンドのメンバーはどうとか。だからレヴューでは、なるべく音楽と関係のないことを書くようにしていたんだよね。

●嘉ノ海さんが書かれたものについて、阿木さんから何か言われることはありましたか?ダメ出しとか。

○僕が書いたり、記事にするために企画をしたり、インタビューする相手を選んだりする時には、話はするんだけど、一度もダメっていわれた事ないんだよね(笑)。今考えてみれば変だよね、阿木編集長なんだから(笑)。ダメどころか面白がっていた(笑)。個人としては、時代や社会に対する見方や世界観などに新しい音楽を応用して俯瞰することや、考えていることを展開したり解体したりすることに楽しみを感じながら『ロック・マガジン』を編集していた。
音楽は音楽芸術としてのみ存在しているわけではないということをいつも感じていたので、ライナーノーツは本当に煩わしかった。阿木さんも結構たくさんライナーノーツ書いてるけどね(笑)。

●なるほど。『ロック・マガジン』の仕事、興味あるなあ。あと昔阿木さんが出版した『ロック・エンド』も、以前古本で入手して読んだんですが、面白かったです。

○『ロック・エンド』(1979年)って阿木さんらしいタイトルだよね。これは当時付き合いの合った工作舎から出版した本だけど、編集過程で少し関わったので記憶にあります。読んでたんだね。古い本なのでちょっとビックリしました(笑)。感想を聞かせてもらえますか?

●さっき述べた、阿木さんの文章で個人的に引っかかる要素が多い印象です。序盤の章のニューヨークの街の描写とか、そこで異邦人としての自分を省みるところとか。ブログもそうですけど、なかなか音楽の話が出てこないところとか。ロックの終焉についての内容だったと思いますが、どこか今の時代に置き換えて読んでもそのまま当てはまるようで、ちょっと愕然とした記憶があります。

○阿木さんの言葉は、僕もそうだけど人の人生に影響を与えるんだよね。徳田君が阿木さんとの会話から記憶に残っている具体的な言葉があれば教えて欲しい。

●例えば、繊細なようでいい加減だとか性格的な指摘だったり、これは当たってるんですが(笑)。音楽については「曲はリズムから作れ」とか「音楽は構造が大事だ」とかちょっとした一言もヒントになりました。あと「自分の音楽や表現について言語化することが重要だ」とか。

○ある意味、当たり前か(笑)。音楽を作っている人にはいつも自分の音楽について言語化して欲しいと思いますね。徳田君もいろいろ言われたね(笑)。

●nu thingsや0gで活動するアーティストに対しての思い入れが強く、どうやったら良くなるか等を真剣に考えてくれると同時に、自分の思う通りに動いて欲しい気持ちも強かったと思います。

○具体的には?

●突然メールでアーティストの楽曲のリンクを幾つか送ってきて、その時はNosaj Thingとかが含まれていたんですが、「これから君はこういう感じでやりなさい」みたいなことを言ってきたり。ちなみにそれは試してみて、結局しっくりこなかったんですが。

○0gで不定期で行われていた阿木さんのブリコラージュには行ってましたか?またどのように感じてましたか?

●毎回ではないですが、ときどき行ってました。本人も「地獄に落としてやる」と言う表現をたまに使っていたように、ブログで紹介している音源同様尖った音が多いのですが、「この曲何ですか」とブースに近づくとジャケットを手渡してくれたりしました。Modern LoveからリリースされているRainer Veilの「Strangers」という叙情的な曲があって、僕も音楽を作る上で影響を受けているのですが、これが一時、阿木さんのブリコラージュで毎回プレイされていて。

○Modern Loveは阿木さんお気に入りのレーベルでした。ジャケットデザインも含め独自の世界観があるよね。昨年Covid-19チャリティのためにLUCY RAILTON演奏のオリヴィエ・メシアンの曲が鎮魂のためにリリースされている。
「Strangers」は阿木さんにとって思い入れがある曲なんだね。なんとなくわかるような気がする。0gに似合っていると思う。

●ブリコラージュの中でその曲だけ異質な印象で、でも毎回プレイするということは本当はこういうのが好きなんだなと思ってたんですが。今思うと、僕が来ているのが分かっていて掛けていたような気もします。「お前は、これだぞ」という意味で。そういうふうに他の人たちに対しても選曲していたんだろうと思います。阿木さんが定期的にブリコラージュを継続してきた理由もそこにある感じがします。

【晩年の阿木譲について】

○remodelは結局2012年で停止していて、阿木さんが生きている間にリリースされなかった。
徳田君はどのように、阿木さんのことを見ていましたか?

●初めのremodelのコンピレーション『a sign paris – ozaka – kyoto』の制作及び関連イベント然り、またその後のプロジェクトやイベントなど沢山機会をもらいましたが、十分に活かしきれなかったと感じます。こちらから放棄してしまったものもありましたし。『a sign』以降、阿木さんの下で形になったものを残せなかったのが残念です。作品についての指摘をはっきり言ってくれる人が他にあまりいなかったので。実際『a sign』の制作の際は、nu thingsに機材を持ち込んで、阿木さんの指示を受けながら音源を修正する作業がありました。「このキックはもっと大きく」とか「ストリングスの音をもっとチープなシンセの音に」とか指示が具体的で。その通りにしたら、確かに良くなりました。アルバム最後の曲の「603」の終わりの3つのクリック音は、その場の阿木さんの思いつきで「これでアルバムが終わったことになるんだ」と。即席で追加して、「うん、こんなもんだろ」という感じで完成しました。そんなふうに他の作品も作れたら良かったな、と思います。

○徳田君にとっての0gという場所性について、聞きたいんだけど。ライブをするとは?音楽を共有する空間とは?場所って何かを共有(集合)する空間でしょ。

●前身のnu thingsも本町、心斎橋、阿波座と場所が変わるたびに印象も少しずつ変わったのですが、0gについてはスペースの雰囲気も相まって部室みたいな感じです。これまでアーティストとして育てて貰ったと感じているので、ここで良いイベントを作っていかないととは思ってるのですが、あまり自分では企画できてなくて。曲の制作の際には基本的にライブを考慮せずに作っているので、出演予定が入るたびに慌ててしまいます。お客さんに「来てよかった」と感じてもらうのがライブの目的であり、そのために純粋に良い曲を用意していくことが自分の仕事だと思っています。

【これからのJunya Tokuda】

○じゃ、最後に2つ質問をさせてください。
今後の活動のプランを教えてください。

●アルバムを年に1枚、合間にEPも少しずつといったペースで続けられたらと思います。他のアーティストとの共作もできれば。特に生ドラムとラップトップの組み合わせでライブをやりたいとずっと前から思ってるんですが、これは機会があれば。ギターも最近また練習し始めたし、映像系のソフトも継続して触っています。いずれにせよ手はずっと動かしていこうと思います。

○もうひとつは、他のミュージシャンにも聞いた質問です。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対して、どのような感想を持っていますか?

●新型コロナの件に限らず、今までも自分なりに世の中で起こっていることに影響されつつ、作品に反映してきた意識はあります。少なくとも創作する上では、実際に変わらないとしてもそれで世界を変えるくらいの意識が必要だと思っていて。周りでいろんな事が起こっていくたび、テーマや自分なりの世界の変え方も調整しながら、今後も続けていくことになるのかな、と思います。

○じゃそろそろ終わろう。様々な質問に答えてくれてありがとう。また0gでお会いしましょう。新しい作品も楽しみにしています。

●はい、是非!こちらこそ、ありがとうございました。

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【改めて阿木譲のこと・・・インタビューを終わって】

○阿木譲とはどんな人物だったのか。

●約8年間お世話になったんですが、前述のプロデュース企画の件なども然り、いろいろ大変なこともありました。一時期、出演する他のイベントについて逐一チェックされたり、Twitterも監視されたり(笑)。あと阿木さんの元気な時はお店でのイベント終了後に、出演者と近場のファミレスで朝方近くまで反省会とか、よくありました。熱が入るとなかなか帰してくれない。でもそういう時に大事な話が聞けたりもしました。僕の知っている阿木さん像はあるのですが、他の人のそれとは異なっているかもしれません。

【Junya Tokudaの仕事】

○2020年5月リリースのremodel 07 V.A.『a sign 2』について

●「MirroredImage」と「NothingIsStill」の2曲で参加しています。曲については上手くいった箇所と気になる箇所があるんですが、少し時間を空けると客観的になって聴こえ方が変わるんで、また印象も変わるかもしれません。本作は納品一発でOKだったんですが、もし阿木さんがいたら前作の「a sign paris – ozaka – kyoto」の時のようにどこかにダメ出しがあっただろうとも思います。だからまだ自分の曲については完成した感じがしてないんです。でも参加アーティストの楽曲は素晴らしいので未聴の方は是非!

○2021年4月リリースのremodel 45 『Anemic Cinema』について

●このインタビューのちょうど一年前(2020年8月)に、スタジオワープの中村さんからアルバムの話を頂いて、作り始めました。その際にToleranceのリメイクアルバムを同時に作る話もあって、初めは2枚組でリリースする案もあったのですが、結局別になりました。それからアルバム2枚分を4ヶ月掛けて、林(KENTARO HAYASHI)さんのマスタリングも含めるとさらに1ヶ月掛けて作りました。その時にできることを出し切った感じです。曲名についてはポール・D.ミラーの著書から印象的な単語をピックアップして、出来上がったトラックに一つずつ割り当て、最もそれらしいものをアルバムタイトルにしました。アートワークについてもToleranceのリメイク作品同様、自分で制作しています。誰かにお願いすることも考えましたが、0gの平野さんから「自分でやった方がいいです」と言われ、じゃあ、という感じで。結果的に良かったと思います。

○2021年9月リリースのremodel 46『Junya Tokuda × Tolerance – VANITY RE-MAKE/RE-MODEL Vol.1』についてToleranceの感想を聞きたい。

●どこまで計算して作ってるのか分からない、独自の世界観を感じます。今回リメイクするに当たって聴き込んでみて、さらに理解できなくなりました。制作過程としては原曲を咀嚼して解釈するというより、自分の作品にコラボで参加してもらったような感覚です。曲によっては敢えて全く別モノに作り替えたり、そういう作り方しかできませんでした。いつかこのレベルに辿り着けるのかと、絶望的な気分になります。

○インタビューを終わって
阿木さんの晩年のことを聞きたいと思い、『僕の知らない阿木譲』とした。徳田君と話をしていて、人間としては40年前とさほど変わっていないと感じた。もし生きていればCOVID-19禍の世界をどのように捉えるのか話してみたいと思った。ミュージシャンとして関わった彼らにとって阿木譲とは、教師的でもあり、反面教師的でもあったのだろう。少なくとも彼らの魂に化学反応が起こったことは間違いない。それは最後の質問の回答からも垣間見えるのである。
ここで少しJunya Tokudaの作品である『Anemic Cinema』の感想を少し記載しておきたい。この作品名は1926年にマルセル・デュシャンにより作成された実験映像作品名でもある。タイトルそのものもアナグラム(逆さ言葉)になっている。CLUSTERの「ZUCKERZEIT」の逆読みしたToleranceの「Tiez Rekcuz」と同じようにさかしまの世界。音楽なのでイメージの逆回転はお手の物だ。音響も浮遊感のある映像的な音風景に迷い込んだような感じがした。聴き進めていくうちに部屋の中で窓から観る風景のように視覚化されるようだ。

『阿木譲の光と影」シリーズ 第一弾 KENTARO HAYASHIインタビュー

『阿木譲の光と影」シリーズ 第一弾 KENTARO HAYASHIインタビュー
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

「魂に降り注ぐ音楽」

晩年の阿木譲に関わりのあったミュージシャンから話を聞きたいと常々考えていた。
まずは、阿木がその作り出す音響を「柔らかい機械だ」と高く評価し、信頼を寄せていた電子音楽家KENTARO HAYASHI。
そんな彼の作品『PECULIAR』は、阿木が亡くなってからremodelからCD、その後イギリスのOpal TapesよりLPとしてリリースされている。なぜ生きている間に阿木自ら立ち上げたremodelから世に出されなかったのだろうか。そんな思いもあり、話を聞いた。

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KENTARO HAYASHI (林 賢太郎)

紹介
https://opaltapes.com/album/peculiar
http://www.ele-king.net/review/album/008207/
https://twitter.com/KENTAROHAYASHI_
http://www.bath-studio.jp/

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●林賢太郎
○嘉ノ海幹彦

【阿木譲との出会い】

○こんな感じで林くんと話をしたことなかったよね(笑)。よろしくお願いします(笑)。

●そうですね。こちらこそ、よろしくお願いします(笑)。

○まずは、音楽との出会いは?どんなところから?

●学生の頃にギターを買って練習していましたが、友人がDJ Krushのレコードを聴かせてくれて、ミキサーで遊んでいるのを見て衝撃を受けて、クラブミュージックに興味を持つようになりました。

○具体的にはどんなジャンル? どんなミュージシャンが好きだったの?

●アブストラクトが好きでMo’ WaxやNinja Tuneのレコードを集めてました。ブリストル系も好きでしたし、HIP HOPのプロデューサーも好きで聴いてました。そのあとハウスやテクノに傾倒してDJをしていました。とにかくクラブでずっと遊んでました。ただしばらくして、それにも少し飽きてしまったのですが、それに変わる新しい音楽を見つけることができず、しばらくそこから抜け出せずにいました。その他のジャンルも幅広く聴いていましたが、自分がやる音楽という感じではありませんでした。

○自分がやっている音楽に停滞感を感じていたんだね。

●2009年のYCAM(山口情報芸術センター)での池田亮司のライブを体験したことで四つ打ちの呪縛から解放されて、何か新しい音楽やジャンルが生まれてくる可能性を感じたのを覚えてます。そのあとすぐには見つかリませんでしたが、しばらくして新しい音楽を見つけることができました。阿木さんとはそんなタイミングで出会いました。

○阿木譲のことが出てきましたね(笑)。阿木さんとの出会いは?いつ、どこで、どんな状況で?

●2013年にアーティストを検索していたら、何回か阿木さんのブログに引っかかって、この人誰だろう?と思ったのが最初です。0g(雑誌)の1冊目が販売されるタイミングで大阪阿波座のnu thingsに初めて行き、そこで初めて阿木さんに会いました。2014年1月27日です。

○阿木さんが新しいブログ「a perfect day」を2013年1月に再開したその頃の話だね。
以前のブログが復元されているけど、音楽を聴いて空気感なり時代感をリアルなものとして言語化している。 阿木さんらしさが感じられる独特なものだ。

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きょうRECORDSのHPで阿木 譲の晩年約10年間の資料的価値が高いブログが復元されている。(継続中)
以下がそのURLなのでアクセスして頂きたい。

「talkin’ about nu things」 Agi Yuzuru

「talkin’ about nu things」 Agi Yuzuru

CASCADES 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 / 阿木 譲

CASCADES 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 / 阿木 譲

BRICOLAGE 「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧

BRICOLAGE 「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧

KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧

KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧

NO WAVE 「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク

NO WAVE 「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク


「0g(zero-gauge)」Agi Yuzuru

「0g(zero-gauge)」Agi Yuzuru


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○この段階で新たに音楽を作り始めていた?

●企業に音楽を提供したりはしていましが、その頃はまだ自分の音楽は作れていませんでした。一時期オーディオ・ヴィジュアルが音楽の進化する形だと思っていて、色々と模索していましたが、しっくりきていませんでした。でも阿木さんがブログで紹介しているようなダークな音楽が、アブストラクトやブリストルの音と重なる部分があって、テクノやノイズ、現代音楽の要素を吸収して、進化して戻ってきたような印象を受けました。阿木さんはコンテンポラリー・モダン・ミュージック( Contemporary – modern music )と言っていましたが、アンダーグラウンドな雰囲気を持った音楽が、より洗練されて戻って来た感じで、新しいデザインがどんどん生まれてきて刺激的でした。ヴィジュアルがなくてもいいし、自分の中で音楽がまた先頭に立った感じです。真っ暗な中でテクノを聴いていたように、音に入っていけるような感覚があって、この頃にもう一度自分の音楽を作りたいと思い始めました。

○あのブログも言葉だけじゃなくて映像や画像やデザインも含めて『ロック・マガジン』や『EGO』みたいに編集していたと思っているんですよね。印刷物じゃないからひとりでどんなことも出来るしね。特に復元された過去のブログはその特徴が顕著に現れていると思うので、林君が阿木さんに出会う前のものなので見てみるといいと思う。
ところで、阿木さんと会ったときに印象は?

●怖そうなイメージでしたが、実際会うと気さくで紳士的な印象でした。音楽を作っている事を知って、「ミュージシャンの林くん」と紹介してくれたり。帰る時に「音楽頑張ってください」みたいに丁寧に言われて。

○その感じは昔から変わらないな。最後に阿木さんと0gで会ったときもそんな感じだった。

●初めて会った日に「これから音楽はどう進化しますか?」って質問したら、「まだわからない、まだ数が揃ってないから、はっきり見えない」と言っていて、正直な人だなと思いました。文脈をパズルみたいに組み立てるのが面白いと言ってました。俯瞰して見てるんだと。

○実際に話してみて阿木さんの印象は?

●音楽に対してまっすぐというか、70歳を超えても、まだまだ音楽で何かやってやるんだ、音楽しかない、音楽が一番面白いんだという姿勢が印象的で、僕にポジティブな影響を与えてくれていたと思います。

○阿木さんとの出会いが、その後の音楽家KENTARO HAYASHIに与えた影響は?

●阿木さんに出会わなければ、今のように音楽活動ができていなかったと思います。阿木さんに言われて、「SUBSTRATUM」というイベントを始めたのがきっかけです。1人でDJとライブをやってましたが、お客さんが少なくても、店の隅に座って聴いてくれて、感想やアドバイスをしてくれました。「間違った事はやってないんだから続けろ」って励ましてくれたり、気にかけてくれていたと思います。

○やっぱり、その辺りは昔と変わっていないな(笑)。

●阿木さんが今まで気にかけて、近くで活動したミュージシャンは沢山いると思いますが、僕もぎりぎり間に合った感じで、「林で最後だな」と言ってました。0gでイベントを続けられた事で今の自分のスタイルができたと思います。

○2014年からだと最後の4年半だね。そこからの付き合いは深かったね。

●月1ペースでやっていた阿木さんのイベントにはほとんど行ってましたし、阿木さんを通して新しくて刺激的な音楽に沢山出会いました。0gで新譜をみんなで聴くのは楽しかったです。阿木さんも「新しい音楽をみんなで聴いたり、話したりする時間が最高だよな」と言ってました。イベント終わりによくファミレスに行って話をしていました。

○今に繋がることとは?

●阿木さんの近くで先端音楽に触れたのは、今の自分の音楽スタイルに繋がっていますし、Opal Tapesのレコードを初めて聴いたのも阿木さんのイベントだったと思います。また0g で出会った人や、東瀬戸さん、中村さん、嘉ノ海さん、能勢さんとの縁も、今日のこの時間も阿木さん繋がりだと思います。東京のイベントに呼んでもらったりもそうですし、色々な人たちと繋がるきっかけになっています。遡ると阿木さんがいるみたいな感じです。

○毎年夏にベルリンに行っているよね。(現在はCOVID-19で中断)

●Berlin Atonalは刺激的で他にないから行ってしまいます。コロナがなければ続けて行っていたと思います。Kraftwerk Berlinの空間は独特で、「gargouille」(『Peculiar』より)はMAIN STAGEで体験した空間とその音響に影響を受けた作品です。STAGE NULLで朝5時ぐらいにPessimistがテクノからジャングルに繋げた瞬間、みんなが荷物や上着を置いて踊り出す光景は印象的でした。OHMでのMetristやTUTUのDJも新しくてかっこよかったですし、Tressorでも朝まで遊んでいました。まだまだクラブミュージックの可能性を感じて嬉しかったです。Demdike StareやPuce Maryのライブも素晴らしかったですし、あんなに大勢のオーディエンスと一緒にノイズを聴くのは初めてで、とても印象に残っています。Gabor Lazarもよかったです。全てを伝えきれませんが、現場で体験しないとわからないことが沢山ありました。阿木さんが最後まで0gという現場を残していたのも、そういう理由だと思います。「現場を知らないと評論家として説得力がないだろ?俺はプロの評論家なんだ」と言っていました。

【尖端音楽の伝道者としての阿木譲について】

○確かに0gという場所は、特化した音響装置だよね。単に大音量というだけではなく、音の質というか、場所なので質の中にはその時に居合わせた人の魂も音の中で響きあっている感じがする。

●阿木さんは経歴からして知識量は当然すごいと思いますが、センス、嗅覚がすごかったと思います。文脈だけでは見つからないような新しいレーベルや作品を誰よりも早く見つけてきて、その全てがかっこよくて刺激的でした。

○具体的に印象に残っている阿木さんの言葉とかある?

●「音楽の雰囲気を聴いている」とか、「片耳が聞こえなくなっても何も怖くない、片耳だけでも音楽は理解できる」というのは印象的でした。Puce Maryもモノラルでも十分だと言っているのをどこかで読んだ記憶があります。

○2014年にnu thingsで阿木さんと出会って、一番初めにライブしたのはいつ?

●2014年11月30日にnu thingsで開催された2日間のイベントです。そのあと2015年2月20日に「SUBSTRATUM」の1回目をやりました。10回やって最後が2016年7月17日です。

○結構、長期間やったね。

●そのあとは2018年4月28日に「Peculiar」を企画してもらい、2回目から自分でブッキングするようになり、不定期ですが今も続けています。阿木さんは1回目は見てくれています。阿木さんと一緒にやったイベントは2016年3月12日「atonal」、2017年10月21日「AFTER THE BERLIN ATONAL」です。

○阿木さんの2014年は東京から呼ばれて、東京都現代美術館でもトークショーやブリコラージュをしたり、幸せな年だったのではなかったかと思いますね。『アイデア』で特集されたりしているしね。美術関係の若い世代から自分のやってきた仕事を評価してもらったり。
そして翌2015年にがんの手術をしている。退院の際にThe Strangerの”providence or fate”を絡めて以下のように書いている。 人生の整理をしようとしていたんだと思った。阿木さんらしい文章なので少し引用しよう。

退院後、週2日の検診と、生活を新しい環境へと移行するため、部屋探しなどにおわれ、ネット環境もままならないので更新もできなく、申し訳ない、、0g Web(zero-gauge)のほうも手元に素晴らしい作品が溜まっていて気になっているのだが、もうすこしお待ちください。この機会に過去のすべてを淘汰して、倉庫に山積みになっているレコードも、80年代のインダストリアルから2000年代まで蒐集してきた、すべてのレコードを売り払い(マニアの方で良い値で固めて買ってくださる方がいたら至急ぼくに連絡ください、、、出来るならひとつのジャンルを時間と労力をかけて集めた物をバラバラにするのは避けたいとは思っていますが、誰かぼくの意志を継いでくれるかたがいたら、、、、嬉しいけれど、、でもそれが無理なら、業者のかたにすべて売るつもりです。驚くような貴重な作品が山のように眠っています、、、、)身辺整理して、この10年ほどのレコードだけを残して、新しい環境の下で、全く新しい音楽評論と音楽活動を始めようと決心しました。
それがぼくの「providence or fate」(摂理か宿命)だろうから、、、
2015年9月19日 a perfect day

○林君が0gの保証人になったのって2015年のこの辺りだよね。

●初めは断っていましたが、阿木さんに何度も強くお願いされたので。今は違います。

○もちろん今は平野隼也君がオーナーなんだけど、それを聞いた時には、それだけ強い繋がりがあったのかなと思った。

【晩年の阿木譲について】

●阿木さんの健康状態が悪くなったのもあると思いますが、ただ人に当たるような時期があって、数ヶ月少し距離を置いていました。ある日「元気か?」と優しい声で電話がかかってきたんですが、ろれつが回らず、上手く喋れてない印象でした。「阿木の言葉を憶えているか?お前も元気出してがんばってくれよ」と言ってくれて、それが最後の会話でした。2018年7月です。ベルリンのお土産を渡す約束をしていましたが、帰国後に電話をしても出ない状態が続いて、そのあと話す機会もなく亡くなってしまいました。

○以前、林君に聞いた阿木さんの「俺が死んだらお前ら迷子になるぞ」というのは?

●それは元気な頃からよく言ってましたが、「文脈を理解して新しい音楽を紹介している人が他にいないからどうするんだ?俺が死んだら何を聴いたらいいかわからなくなるぞ」ということです。

○林君にとって阿木さんは優しい感じ?

●気にかけてくれていたと思いますが、癇にさわったら顔色がすぐに変わりますし、厳しく言われることもありました。それでも自分の音楽について言われたときは、真摯に聞いていました。正直に言ってくれる人も中々いないのでありがたかったです。

○ま、昔から忖度する人じゃないからね(笑)。

●忖度する人ではなかったので、音楽評論家としての言葉に鮮度があったと思いますし、信用していました。

○晩年には分からなかったけど、僕が知っていた頃(1980年前後)の阿木さんは信用できるから、他を探す必要がなかったと思う。

●音楽センスは飛び抜けてましたね。色々問題はあるかもしれませんが。

○あのバランスの悪さというか独特な人格というか、あの魂がどこから生まれてきたのかに興味があるんだよね。10代後半で歌謡曲歌手を経験しているでしょ。その時代に経験したことが阿木譲のベースになっている気がしていて。当時はたぶん理不尽なことが当たり前の世界だからね。歌手が自己主張できる世界じゃなかった。だから、その世界から離反することになる。その後、1976年に『ロック・マガジン』を創刊することになるんだけど、共通の価値観を持った人々と共同作業を始める。0gとかもそうだけど、共同で何かを始めることに阿木個人は活路を見出そうとしていたんだろうか?

●阿木さんのイベントに来ていたミュージシャンは少なかったです。阿木さんは共同で何かしたいと思っていたと思いますが、難しかったと思います。阿木さんは「何のために音楽を聴きに来てるんだ?何もしないなら来ても意味ないだろ?」と問いかけますし、実際イベントをしても容赦のない感想を言うので、中途半端にはできないですし、距離感を保つのが難しいのかもしれません。それで常連客やミュージシャンが来なくなってしまうのかなと。僕は新しい音楽への興味が全然勝っていたので、「お前はまだまだだ」と言われても、自分でも分かってましたし、だから来てるんですって感じでした。

○その話題になったら、いつも19世紀ドイツの思想家マックス・シュティルナーを思い出す。一言でいうと何者にも影響を受けない独立した、何者にもかえがたい、かけがえのない唯一者としての人間精神を理想としたんだ。そんな精神を「エゴイズム」といった。じゃあ一人で孤立していいかというとそうじゃない。一人では生きていけないからね。シュティルナーは、そんな唯一者の集まり「エゴイスト同盟」が必要だと説いていた。孤独と孤立は全く違うんだけど、逆にいうと他者との関係は、対立しやすくなる。

●昔から知っている人は晩年優しくなったと言いますが、それでも厳しい人だったと思います。自分がやっているレベルで本気でないと許さない感じでした。

○でも、結局Vanityや『ロック・マガジン』みたいな作品は生み出せなかったし、remodelも継続できなかった。先日亡くなったEDITIONS MEGOのピーター・レーバーグみたいなことが出来なかったのだろうか?
つまり、自分のレーベルを持って定期的に自分のコンセプトに合ったミュージシャンをセレクトしレコーディング=編集した音楽をリリースするような。
阿木さんの真骨頂は作品をプロデュースしたりデザインしたり、つまり総合的に編集する力を発揮することだと思っている。
だって、『PECULIAR』は結果的にOpal Tapesからリリースされたけど、本来なら阿木さんの仕事だったと思うんだけどね。
林君はその辺り阿木さんに対してどう感じてた?単純に制作費の問題だけでもないような気がするんだけど。

●僕の音楽のクオリティがまだリリースできるレベルではなかったのだと思います。作りたかったのですが、阿木さんが生きている間に作りきれませんでした。「作品を作って次に行け。作品を作って捨てていかないと、いつまでも同じことろにいて次に行けないぞ」と言われてたんですが。

○そんなことないと思う。阿木さんも2011年11月のブログでremodelから『a sign paria – ozaka – kyoto』をリリースする前に書いてる。
「ひとつの作品を仕上げるのに、今回ほど苦労したことがない、それはvanity recordsやrock magazineのように、ボク個人のデスク作業で創られたものではなく,多くのアーティストたちの熱意とエネルギーと、アンガージュマン ( engagement ) の精神で成り立っているからでしょう。」
「ボク個人のデスク作業で創られたもの」ってVanityや『ロック・マガジン』に関わった人間はみんな、異論があると思うんだけどね(笑)。
でも、やっぱり阿木さんは晩年は時代と拮抗する(Friction)エネルギーが枯渇してたんじゃないかと思うんだよね。人には何かをしないといけないんじゃないか、といいながら、阿木譲としては何も残せていない。あれだけレコードやCDとか物(material)に拘った人だったのに。
だってVanityだって単にリリースをしてたのではなく本にも書かれているけど、ミュージシャンと対峙して自分の感覚にさわった音楽を通して作品として生み出そうとしていたんだよ。
KENTARO HAYASHIやJunya Tokudaを素材として、EmptysetやpitaやLeyland Kirbyの世界を作れたはずだと思う。個人的には、一抹の歯がゆさみたいなものを感じていたんだ。

●どうなんでしょう、今までの活動を統括したいと思っていたかもしれませんが、真相はわかりません。エネルギーが枯渇していたかもしれませんね。阿木さんの最後のツイッターは「ながい音楽人生のピリオドを迎えた。さよなら先端音楽!」で締めくくられています。余命を理解していたのか、阿木さんの中で終わらせたかったのかもしれません。

【これからのKENTARO HAYASHI】

○じゃ、最後に2つ質問をさせてください。
まず、今後の活動のプランを教えてください。

●新しい作品もまた作りたいと思っていますし、ライブの予定もあるので、多くの人に聴いてもらえる機会が増えたら嬉しいです。

○他のミュージシャンにも聞いた質問です。ウイリアム・バロウズは「言語は宇宙からのウイルスだ」と言ったわけですが、そもそも音楽はウイルスだと思っています。音楽は形がなく伝染しますし、感染した人の意識を変容させますし、人生を変える力を持っています。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対して、どのような感想を持っていますか?

●コロナの影響で現場での音楽体験がしにくいですし、人に会う機会も減っているので、情報が偏ってると思いますが、どこかで刺激的で新しい作品が作られていると思います。リリースするペースが落ちているレーベルもありますが、見えないだけで、現場やホームスタジオでは何かが始まっているのでは?と期待しています。

○長時間ありがとうございました。次のライブを楽しみにしています。また0gで会いましょう。

●こちらこそありがとうございました。また0gかどこかの現場で会いましょう。

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【改めて阿木譲のこと・・・インタビューを終わって】

○林くんにとって阿木譲とはどんな人物だったのか。

●音楽をやるきっかけを作ってくれた人ですし、色々教えてくれた先生のような人です。ときには音楽友達のようでした。

○KENTARO HAYASHIの仕事について

●マスタリングやデザインは責任もありますし重要な役割だと思っていますが、楽しい作業ですし、やりがいを感じます。完成したときの喜びもあるので、これからも色々な作品に携われたら嬉しいです。学びも沢山あります。

○KENTARO HAYASHI – 『Peculiar』について

●初めての作品ですし、制作には時間がかかりましたが、名刺代わりの作品ができたと思います。MerzbowとJim O’Rourkeのリミックスが先に完成していて、そのクオリティにも刺激をもらいました。remodelからリリースされたCDは自分でマスタリングをしたので、アルバムを通して聴いてもらえたら嬉しいです。またOpal Tapesがレコードをリリースしてくれたので、海外のアーティストがMIXで使ってくれて、 多くの人に聴いてもらえるきっかけを作ってくれました。リリースを決断してくれたremodelの中村さんとOpal TapesのStephenには感謝しています。

○Vanity-TAPESのRemasteringについて

●現存している複数のカセットを元に検証をしたり、マスタリングよりも修復に時間がかかりました。地味な作業が多かったですが、色褪せない作品も素晴らしくて、楽しい作業でした。

○MerzbowやJuri Suzueのmasteringについて

●自分がMerzbowの作品に携わるとは想像もしていなかったので嬉しいですし、歴史に残る作品群だと思うので光栄に思っています。制作スピードが驚異的で、どれも密度の濃い作品です。
Juri Suzueさんはイベントで共演していたので携われて嬉しいです。『Rotten Miso』で初めてレコードのマスタリングもやりました。デザインも担当したので、手にとって聴いてもらえたら嬉しいです。

○インタビューを終わって
林くんの話を聞いていると、阿木さんの光の部分が印象的だった。40年あまり言葉を交わしていなかったし、晩年のブログも生前はほとんど読んだことはなかった、はたしてエゴイストとしての阿木譲の晩年は幸せだったのだろうか。
阿木の最後の拠点となった0gという場所が、佐藤薫のいう魂が交差して日々変化をもたらし常に新しいモノを生み出すヴェニューであったかどうかは分からない。
しかし、阿木に化学反応を起こしたremodelのミュージシャンの魂は確実に引き継がれていく。その系譜は自らのアルバムの最後に刻印されているSpecial thanks to AGI Yuzuruからも読み取れるのである。

「0g(zero-gauge)」Agi Yuzuru

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part6「0g(zero-gauge) Agi Yuzuru」をアップしました。このPart6でシリーズは終了となります。当時、有料サイトということもありあまり読まれていなかったのですが貴重なテキストだと思いました。是非沢山の方々にお読みいただければ幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。


http://www.zero-gauge.com/0g/

NO WAVE 「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 5『NO WAVE「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/nowave/

KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 4『KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/klingklang/

BRICOLAGE 「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 3『BRICOLAGE「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/bricolage/

CASCADES 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 / 阿木 譲

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 2『CASCADES「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/cascades/

「talkin’ about nu things」 Agi Yuzuru

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 1「blog」を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/blog/

remodel 31 V.A.『VANITY 7” Singles』

V.A.
『VANITY 7” Singles』

¥2,750 (with tax)
remodel 31
2021年8月20日リリース

Amazon  https://amzn.to/2Tck0Fr

1980年にVanity Recordsよりリリースされた3枚の7インチシングルを⼀つにまとめた編集盤。単独でのCD化は今回が初。声とエレクトロニクスの使⽤を共通項としたSYMPATHY NERVOUS、MAD TEA PARTY、PERFECT MOTHERの楽曲が収められ、Vanity Recordsのリリース中でも際⽴ってポップな仕上がりが⽿を引く。ジャケット写真は3枚全て同年VanityからLPをリリースしたBGMの⽩⽯隆之の撮影。

<作品概要>
1980年にVanity Recordsよりリリースされた3枚の7インチシングル(SYMPATHY NERVOUS『Polaroid』、MAD TEA PARTY『Hide And Seek』、PERFECT MOTHER『You’ ll No So Wit』)を⼀つにまとめた編集盤。単独でのCD化は今回が初となる。新沼好⽂によるSYMPATHY NERVOUS同年Vanityから単独でLPをリリースしており、U.C.G.と命名された⾃作のコンピュータ・システムを駆使したプロト・テクノな作⾵が特徴。本作の収録曲ではヴォコーダーによる語りを⽤いた「Polaroid」が出⾊の出来。「d-b-TV」でもほぼノイズと化したような声の使⽤がある。
MAD TEA PARTYは吉祥寺マイナーやイーレムに出⼊りしていた⽩⽯喜代美が率いるガールズ・トリオ・バンド。7インチでのA⾯にあたる「Hide And Seek」ではエッジーなサウンドのポスト・パンクを演奏し、B⾯の「Modern Time’s Pop」と「In A Tea-Bag」ではテープの逆回転やダブ処理を多⽤したいわばスタジオでの実験によってなされる⾳楽性を⾒せている(クレジットにはremixed at YLEM Studio ’80 Springとの表記あり)。
PERFECT MOTHERは東京の⾳楽/アート集団『イーレム』組織者、上⽥雅寛が率いるレフトフィールド・エレクトロニック・ポップ・グループ。「Youll No So Wit」での中⼼の定まらないような声の扱い、「Ephemeral Pieces」の5つの断⽚からなるコラージュ/ミックステープのような成り⽴ちなどアブストラクトなアプローチが⽿を引く。
収録された3組は声とエレクトロニクスの使⽤を共通項としており、そのためかVanity Recordsのリリース中でも際⽴ってポップな仕上がりとなっている。『イーレム』周辺のアーティストが多く収録されていることも⾒逃せない特徴だ。
また、これらの7インチのジャケットに使⽤された写真は3枚全て同年VanityからLPをリリースしたBGMの⽩⽯隆之の撮影によるもであり、今回の編集盤もその3枚が並べられたデザインとなっている。

よろすず

Track List:
SYMPATHY NERVOUS – Polaroid
1. Polaroid
2. Polyester 35 Micron
3. d-b-TV

MAD TEA PARTY – Hide And Seek
1. Hide and Seek
2. Modern Time’s Pop
3. In a Tea-Bag

PERFECT MOTHER – You’ll No So Wit
1. Dark-Disco-Da-Da-Da-Da-Run
2. Youll No So Wit
3. Ephemeral Pieces

単行本『vanity records』発売のお知らせ

タイトル:vanity records
監修:中村 泰之
著:嘉ノ海 幹彦、東瀬戸 悟、よろすず、平山 悠、能勢 伊勢雄
価格:¥3,850(税込)
ISBN:978-4-86400-040-6
発売日:2021 年7 月23 日
版型:B5(257×182×24.5mm)
ページ数:本文392 ページ(カラー90 ページ)
製本:並製
初版特典:CD2 枚組
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

Amazon https://amzn.to/3yVM1Ql

商品詳細情報

 

本文見本

 

ロック・マガジン復刻 見本

remodel 32 SYMPATHY NERVOUS『Sympathy Nervous』

SYMPATHY NERVOUS
『Sympathy Nervous』

¥2,750 (with tax)
remodel 32
2021年7月16日リリース

Amazon  https://amzn.to/3c81yDT

1980年7⽉にVanity Recordsよりオリジナルがリリースされた新沼好⽂によるSYMPATHY NERVOUSの1stアルバム。U.C.G.と命名された⾃作のコンピュータ・システムを駆使し、精密なビート・プログラミングと⾳響デザインによって⾁感的な脈動をトレースするかのようなプロト・テクノ。構造⾯での創意⼯夫、千崎達也のノイズ・ギターによるインダストリアルなニュアンス、ジャーマン・ニュー・ウェイヴを思わせるサウンドなど、⾳楽的なバリエーションと⾼度さにおいて当時としては破格のクオリティを⾒せつける傑作。

<作品概要>
1980年7⽉にVanity Recordsのカタログ0007としてオリジナルがリリースされた新沼好⽂によるSYMPATHYNERVOUSの1stアルバム。
U.C.G.と命名された⾃作のコンピュータ・システムを駆使し、精密なビート・プログラミングと⾳響デザインによって⾁感的な脈動をトレースするかのようなプロト・テクノ。3連符系統のリズムが乱れ⾶ぶ「A Worm」、4つ打ちを基調としながらもシャッフルするリズムを絡ませる「Deaf Picture」、シーケンスをまばらに収縮させるアブストラクトな「Automatic Type」など構造的な⾯での遊び⼼に加え、「Temprament」や「Sympathetic Nerves」では千崎達也のノイズ・ギターによるインダストリアルなニュアンスやジャーマン・ニュー・ウェイヴを思わせるサウンドが表れるなど、⾳楽的なバリエーションと⾼度さにおいて当時としては破格のクオリティを⾒せつける傑作。
Vanityのカタログの中でも最も純度の⾼いエレクトロニクス・ミュージックでありながら⾁体性への希求が伺え、これは同じくVanityからリリースされたBGMの楽器演奏によって無機的なサウンドを具現化するアプローチとは対照的だが、ある種の屈折を抱えた試⾏錯誤によって⾳楽的な魅⼒が⽣じているという点では相通じるものがある。
ジャケット写真はラ・デュッセルドルフのロゴ・デザインやロック・マガジンの表紙画を⼿掛けたドイツの画家/写真家アヒム・デュホウ。
新沼は本作の発表後は東京を離れプログラマーの仕事をしながらも地道に録⾳を続け、90年代にはテクノ・シーンへ参⼊。2000年に⼊って岩⼿県宮古市で国産テルミンの⼯房を設⽴するが、3.11により⼯房を失い、⽶ミニマル・ウェイヴによって過去⾳源を編集したチャリティ・アルバムが制作された。2014年逝去。
よろすず

Track List:
1. A Worm
2. Go On And Off
3. Temperament
4. Deaf Picture
5. Automatic Type
6. Quick Starttype
7. Inverted Type
8. Sympathetic Nerves

VANITY INTERVIEW
⑨ 明橋大二

VANITY INTERVIEW ⑨ 明橋大二
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

『それにもかかわらず敢えてなお』

最後のインタビューは明橋大二。現在真生会富山病院心療内科部長としてコロナ禍の最中勤務している。彼は『ロック・マガジン』時代に一番長く一緒に編集の仕事をしたスタッフだった。今回はVanityからリリースされているミュージシャンではない明橋と『ロック・マガジン』や阿木譲のことについて話したかった。当時編集の内容や音楽のこと個人的なことなどについて会話をしたことがなかった。ただ今なら現代に繋がるかつてのことについて話せるのではないかと思った。『ロック・マガジン』編集の現場を通してどのようなことを考え、彼の人生にどのような影響を与えたのか、また医師の視線から今のコロナ禍の時代をどのように見ているのか。何よりも阿木譲と最後まで交流した彼の想いを聞きたかった。
それではZoomオンラインミーティングに参加しよう。

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明橋大二
昭和34年(1959年)、大阪府生まれ。 京都大学医学部卒業。 子育てカウンセラー・心療内科医。 国立京都病院内科、名古屋大学医学部付属病院精神科、愛知県立城山病院をへて、真生会富山病院心療内科部長。 児童相談所嘱託医、NPO法人子どもの権利支援センターぱれっと理事長。 専門は精神病理学、児童思春期精神医療。
《D.A.Tプロフィール&結成秘話》
明橋大二は、幼少時からピアノを習い、さまざまな音楽に親しむ。
特にロックの持つ魂の叫びに魅せられて、京大入学後、大阪発のロック雑誌『ロック・マガジン』の編集に没頭する。
昭和56年、刀塚俊起が学生の時、自主制作したカセットテープを明橋が聞き、興味を示す。めちゃくちゃ下手な音源だったが、なぜか明橋ひとりが評価した。明橋に説得されてコンサートを開くことになる。
昭和57年―59年 学園祭にてコンビを組み関西でコンサート活動。
昭和63年 4作自主制作した後、本業に専念。活動休止に入る。
平成13年 病院にてコンサート、活動再開。
平成16年 「Recovery」自主制作CD発表。
平成20年 「Infinite Preciousness」自主制作CD発表。
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プロフィール | 明橋大二オフィシャルサイト
http://www.akehashi.com/profile/

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▲明橋大二
●嘉ノ海幹彦

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《阿木譲や『ロック・マガジン』との出会い》

●こんばんは。明橋は医療服着てるから現場(病院)からですね。明橋って呼び捨てにしてるけど(笑)。このような話をするのは初めてだと思いますが、よろしくお願いします。

▲いいですよ(笑)。よろしくお願いします(笑)。

●実際に阿木さんと出会ったのはいつごろ?

▲レコードコンサートだと思うんですよね(※大阪心斎橋の喫茶店ドムスで定期的に開催)。それまでは『ロック・マガジン』が大好きで読んでいました。実際に参加したら女の子もオシャレだし、今まで住んでた世界とは全く違ったので気後れした記憶があります。その時には阿木さんと話をしていないかも知れませんね。でもとてもスペシャルな場所に来れて嬉しかったです。

●阿木さんのラジオ(FAZZ BOX INN)は聴いていなかったの?

▲まず『ロック・マガジン』からですね。後でラジオを知ってから聴きましたが。嘉ノ海さんは?

●僕はA4版の鋤田正義さん表紙の『ロック・マガジン』からですね。(※第三期 A4中綴じ版)

▲私はその前ですね。合田佐和子さん表紙の『ロック・マガジン』です。(※第二期 A5版)

●じゃ、明橋の方が先に出会っているんだね。僕は阿木さんというより、松岡正剛や間章が書いているので惹かれました。最初の出会いはやはりドムスのレコードコンサートでしたね。「これが阿木譲か」という感じだった(笑)。終了後何人かで編集室に遊びに行ったり、ディスコ(死語!)が流行っていたので宗右衛門町の店に阿木さんや雨宮ユキさんと一緒に行きました。その後『ロック・マガジン』主催のイヴェントで登場する四ツ橋のパームスはまだ営業していなかったと思いますね。みんな鏡の前で踊っていて途中でチークタイムがあって飲み放題でという典型的なディスコでした。だからパームスとは全く違う雰囲気だった。1978年から79年にかけてだと思う。その頃明橋は?

▲私が大学に入ったのが昭和54年(1979年)ですね。その年の秋くらいに大学の学園祭で「キャバレー・ボルテール」ってのをやってパブリック・イメージ・リミテッドをかけたり、少しいかがわしいアヴァンギャルドな出し物もやりました。だけど学園祭の雰囲気には合わなくて、大学で出来ることはこれくらいかな、と思った時に『ロック・マガジン』誌上で「NEW PICNIC TIME」(1979年12月23日大阪芸術センター)のスタッフ募集の告知を見て参加したんですよ。嘉ノ海さんともその時に会いました。スタッフとして参加して面白かったけど自分としてはもっと出来ると思っていた。でも結局何もできなかったという想いがあって、このままでは終われないと残って編集の仕事を始めることになりました。たぶんそれから1年くらいは編集室にいたと思うんですけどね。1980年は編集室で迎えました。

●そうだったんだね。明橋は当時からスロッビング・グリッスルとかキャバレー・ボルテールとか歌詞がない(意味を持った言葉のない)音楽を聴いていたんだ。僕も歌詞がない音楽が出てきた時は衝撃的だったんですね。それまではブライアン・イーノにしても「Before and After Science」(1977年)ではまだ歌詞があったのに、言葉の世界から意味のない「ノイズ」的な世界への過渡期のような時代だった。象徴的なのがイーノがプロデュースしたトーキング・ヘッズ「Fear Of Music」(1979年)の「I Zimbra」という曲でチューリッヒ・ダダのカフェ「キャバレー・ボルテール」(1916年)店主フーゴ・バルの音声詩をベースに曲を作っていることだったんだ。音声詩は言葉を使われ切った意味から解放することを目的に考案された音響システムのようなものだった。
その後「キャバレー・ボルテール」という名を冠したバンドがイギリスのシェフィールドから出てきたりして、ネーミングセンスに驚いた。ドイツの教育機関だった「バウハウス」という名前のバンドも出てくるしね。

▲私は、合田さん表紙の『ロック・マガジン』からですからパンクから入っているんですよね。それまでの『ロック・マガジン』では「ユーロプログレ」だったですが(※第一期 B5版)、その後のパンク・ムーブメントとシンクロしていました。12号だったと思いますが、牧野美恵子さんがフューチャーされて初期のニューヨーク・パンク、ロンドン・パンクに対する熱量がすごかった。そのパンクの勢いをレイアウトに表現してすごくインパクトのある本だったんですよね。その号は何十回、何百回読んだかもしれないくらい。その後、阿木さん=『ロック・マガジン』はフリー・ジャズとかフィリップ・グラスとかの方向に舵を切っていったんです。その後を追いかけて言葉のない音楽の方に入っていった。
そのつなぎ目になっているが、イーノの「NO NEW YORK」ですね。パンク的な要素もあるし、美しいメロディでもないそれ以降のリズムとか新しい音楽の姿を示したと思います。私の中では衝撃的な作品でした。


V.A./NO NEW YORK

●「NO NEW YORK」は1978年にブライアン・イーノがプロデュースした作品だ。ジャケット写真やデザインもイーノ自身で行っている。阿木さんも同じようなことをしているけどね(笑)。ここはVanity Recordsとも繋がるんだけど、イーノがその前に何をしていたかというと1975年から1978年にかけてObscure Recordsをリリースしているわけですね。

▲そうなんですよね。『ロック・マガジン』ではObscureのことも紹介されていたし阿木さんのイーノへのインタビューも載ってました。

●「NO NEW YORK」に参加していたのは4バンド。ジェームス・チャンスのザ・コントーションズ、リディア・ランチのティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス、マーズ、アート・リンゼイやイクエ・モリのDNA。当時は何者か全く判らなかったし、裏ジャケットには指名手配みたいな顔写真ばっかりだったしね。もちろんその後、彼らはそれぞれのフィールドで活躍するのでわかるんだけど。新しい音楽の予感を感じさせるアルバムだったよね。

▲その先にキャバレー・ボルテールとかスロッビング・グリッスルとかその後のWHITEHOUSEとか、音楽がメロディとかじゃない歌とかでもない世界に入っていたという感じですね。

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《当時の『ロック・マガジン』で特集していたもの》

●そういえばちょうどキャバレー・ボルテールが出てきた頃に、『ロック・マガジン』で工業神秘主義音楽(1981年1月)を特集したよね。インダストリアル・ミュージックです。その号でフーゴ・バルの研究家土肥美夫さんに最新ロックの中にこんなバンドが出ました!といってMix-Up (1979年)を持参してインタビューしたり、ファシズム研究のドイツ文学者池田浩士さんに「歪んだ鏡としての表現主義を生きた人々」を題して20世紀初頭の時代精神を中心に話を聞いた。インダストリアル・ミュージックって工業音楽なんだけど、当時ロンドン在住の羽田明子に聞くと彼らはアレイスター・クロウリーとかの魔術をやっていて音楽を使って儀式を行っていると。だから真ん中に神秘主義という言葉を入れて「物語」を作ったということなんだ。

▲スロッビング・グリッスルのジェネシス・P・オリッジなんかは魔術の話をしてますもんね。嘉ノ海さん、その少し前に『ロック・マガジン』ムジカ・ヴィヴァ特集(1980年1月)とか作ってましたよね。「NEW PICNIC TIME」と並行して編集していたのですよね。

●そう、ムジカ・ヴィヴァ特集は並行して編集していたね。
先ほど出たイーノがやってきたことを振り返ると1971年から73年までロキシー・ミュージックなんだよね。その後ソロアルバムと並行してObscureのシリーズを連続してリリースするんだけど、参加している作曲家達はジョン・ケージを始めギャヴィン・ブライアーズ、デレク・ベイリー、マイケル・ナイマン、デヴィッド・トゥープ、マックス・イーストリー、ハロルド・バッドなど聴覚芸術の実験をやってた人なんだ。そのObscure10枚目のリリースが終わった直後の1978年に「NO NEW YORK」をプロデュースすることになる。今考えるととんでもないことだよね。
ムジカ・ヴィヴァを編集する過程では西洋音楽の系譜の中にロックミュージックも含めて「時代と呼応する精神」という地下水脈みたいなものを通してもう一度音楽の歴史を捉えなおさないといけないという強い気持ちがあったんだ。ムジカ・ヴィヴァというのは第二次世界大戦の敗戦国であるドイツミュンヘンで起こった音楽復興運動だけど、その意匠を借りて現代音楽、実験音楽がロックミュージックに繋がってくるということを現したかったんだ。当時阿木さんと一緒にドイツ文化センター(現ゲーテ・インスティトゥート大阪)に行った時にこの本(MUSICA VIVA)を見つけてこれだと思って編集したものなんだ。『ロック・マガジン』の特集号としては評判にもならなかったし売れなかったけど、あの本を作ったから今でも音楽を聴いて時代を捉えたり考えたりする際のベースになっている。
最終的には『ロック・マガジン』の編集そのものについてはその後途中で放り投げてしまったけど、特集エリック・サティは「家具の音楽=アンビエント」を提示し、その後の「工業神秘主義音楽」はインダストリアル・ミュージックの魁になったのは間違いないと思う。他の音楽誌とかでは扱ってなかったし。

▲その頃から、ロックミュージックというのは、一方ではポップミュージックとかブルースとかルーツがあるんですけど、もう一つはクラシックだったり現代音楽だったりフリーミュージックだったりするルーツがあって、その辺がイーノとかニューヨークでは化学反応を起こしてたのではないかと思うんです。そこをきちんと取り上げて評価していたことが『ロック・マガジン』の凄さかなと、手前味噌ですが(笑)。どこの雑誌もやってなかったですしね。イーノの中にも二つのルーツという考えがあるんですよね。イーノもObscureやりながらトーキングヘッズもプロデュースしてますしね。それをきちんと捉えて発信していたのが『ロック・マガジン』だったということですよね。

●ここでひとつイーノの至言を紹介しよう。昔阿木さんにイーノの言葉で「ロック(音楽)はあらゆる要素を吸収するスポンジだ」というのを教えてもらった。意味は、音楽が全ての時代性(気配、商品を含めた物質、経済)を吸い取るスポンジみたいなものだ。
だから逆にいうと音楽から時代を読み解くことができるということなんだ。

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《どうして精神科医になったのか、『ロック・マガジン』との関係は?》

●今日は明橋に是非聞きたいんだけど、キャバレー・ボルテールが出てきた頃には日本の中で雑誌「エピステーメー」で哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析医のフェリックス・ガタリが共著の「リゾーム」(アンチ・オイディプスの一部)が翻訳されて1977年に出版されたんですよ。「カフカ論」(1978年)でもそれまでのカフカの捉えかたを一変させたんだよね。もちろん当時は新しい世界の見方である構造主義が紹介されつつあった時期でもあるんだけど、どんな感じで見ていたの?また80年代に入ると浅田彰の「逃走論」(1984年)でリゾーム的で多面的な視点の必要性を説きスキゾフレニア(統合失調症)なんかの精神疾患を持ち出したんだけど。その時代性と音楽との接点というか、どうなんでしょう。だって医学部って入学当初から精神科医になるとか決めるわけではないでしょ。そもそも明橋はどうして精神科医になったの?

▲まさに『ロック・マガジン』のお陰というか、『ロック・マガジン』のせいというか(笑)。
もともと父親が医学部ではなく農学部出なんですけど、ビタミンとか食中毒の研究とかしていて医学の博士号をもっているんです。大阪の衛生研究所に勤めていて家でも医学的な話はよく出ていました。3人兄弟のうち一人は医者になって欲しいみたいな中で育って、小学生の頃から京大の医学部に入ろうと思っていたんです。ただ医学部に入る頃には研究者になろうと思っていたんです。高校生の時には哲学の勉強もして生命の意味みたいなことを考えていました。当時分子生物学が活発になってきていたので、生命の本質みたいなものが判ってくれば命の意味がわかるのではないかと思ってました。実際、京大の研究室はレベルが高く世界的な研究がなされていたので実験を手伝いに行ったりしてましたね。
ところが『ロック・マガジン』に関わって、スピリチュアルなものの中に凄く豊かな世界があって、分子原子を研究してもそれで命のことがわかるわけでもない。その上に雨宮ユキさん(ロックマガジンの経理担当。モデル、ファッションデザイナー。阿木さんが亡くなるまでパートナーとして阿木さんの仕事を支えた。ロックマガジンのスタッフにとっては姐御であり、母親的な存在だった)の体験した話を通して分子原子では割り切れないということを肌で思い知らされたことがあったんです。

●「肌で思い知らされた」という経験って具体的にどういうことだったの?人生を決めた大きな経験でしょ。

▲ユキさんて、何か不思議な人じゃないですか。実際、いろんな不思議な体験をしているんですよね。

●そういえば、そういった話は、自分も時々聞いたことがあったけれど。

▲細かい話は省きますが、とにかく、私にとっては、この世の中には、単純に数字とか、機械論で割り切れないことがたくさんあるんだな、ということを肌で知らされた経験だったんです。
当時私は、大学で仏教の勉強をしていたんですが、最初は単なる知的な好奇心だったんですよ。最終的には、分子原子とかDNAで、すべて生命は説明できると思ってました。
でもユキさんや阿木さんと話をする中で、生命(いのち)というのは、そんな単純なものではないなと。過去や未来ともつながっているし、宇宙ともつながっている。自分の今まで持っていた生命観というのが、いかに浅薄であったかを知らされたんですよね。それから自分は、仏教を自分の問題として学ぶようになったし、それはその後の自分の人生の土台になっています。そのきっかけになったのが、『ロック・マガジン』との出会いだったんですよね。
あのまま進んでいたら、どこかで行き詰まって、おかしくなっていたんじゃないかと思うし、そういう意味では、『ロック・マガジン』と阿木さんは、自分の人生の恩人なんですよ。

●そんなことがあったんだね。阿木さんの晩年最後までサポートしていた理由が判った。こんな話は初めて聞いた。

▲こんな話は誰にでもしないですよ(笑)。ちょっと怪しい話だし(笑)。

●全然怪しい話じゃないよ(笑)。人との出会いが決定的になることってあるよね。音楽との出会いにも人生を決定させることもあるけど。単に出会いというだけじゃなくて、出会う局面により状況が変わるよね。いつどんな時にどのように出会うかにより、人生が決まっていくもんだしね。

▲そんな経験もあって、一時期出家しようと思ってたんですよ。でもせっかく医学部に入ったことも考えたときに精神医学だったら今まで自分が考えてきたことが役立つのではないか、大学ではろくに勉強もしてこなかったけど『ロック・マガジン』での見聞きしたこととか考えたことが生かされるのではないかと思って精神科医になったんです。だから『ロック・マガジン』に入っていなかったら精神科医にはなってなかったと思いますね。

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《Vanity RcordsとVanity TAPES》

●ここで少しVanity Rcordsについての話をしたいんだけど。たしか、あがた森魚「乗物図鑑」の録音の際にピアノを弾いていなかったっけ?

▲その時はいなかったんですよ。私が録音に関係したのはR.N.A. Organismなんですね。さっき確認したらB面最後の「Matrix」という曲の中で背景のピアノを弾いているのが私なんですよ。

R.N.A. Organism/R.N.A.O Meets P.O.P.O

●そうか、勘違いしていた。確かに時系列では「NEW PICNIC TIME」もあがたさんが出演しているので録音は既に終わっているんですね。R.N.A. Organismは翌年の1980年の録音だからね。新事実(笑)。
でも実際のスタジオ録音の際に立ち会ったりとか、Vanity Recordsとの関わりは?

▲実はVanity Rcordsについてはほとんどタッチしていないですね、別行動だったんで。だたR.N.A. Organismの録音の際にピアノの情景描写音が欲しいということになって、明橋がピアノ弾けるらしいということで阿木さんから呼ばれたんです。だからVanityの制作現場にはほとんど関わってないです。

●そうだったんだ。僕の記憶の中でBGMの白石隆之君の録音とかNORMAL BRAINの藤本由紀夫さんの録音の時にも明橋もいたと思い込んでいた(笑)。確かに『ロック・マガジン』やVanityと並行して『ファッション』も一緒に編集してたから、むちゃくちゃ忙しかった記憶しかないなあ。そういえば『ファッション』は3冊しか出版されなかったけど、輝いていて美しい本だったね。

▲そうです。あの1980年は『ロック・マガジン』にしても『ファッション』にしてもデザイン的にも一番充実してましたよね。内容的にも深いし。あの時期はVanity Rcordsも『ロック・マガジン』『ファッション』もあったし一番アクティブで激しかった時期でしたね(笑)。というか凄かった時期ですよね(笑)。

●それぞれが相互に絡み合って動いていたしね。『ロック・マガジン』がなければVanity Rcordsはなかっただろうし。
Vanityでは「MUSIC」の後レコードではなく、コクトーの詩の一節が添えてある【Vanity-Tapes】6本組みカセットテープをリリースするよね。膨大な量(200本以上?)のカセットテープがロックマガジン社に送られてきてたと思うんだけど。
リリースと同時に『ロック・マガジン』02号(1981年3月)特集ホワイト・アプカリプスの中のカセットテープ・ミュージック「騒音仕掛けの箱に吹き込まれた風景」と題した記事で阿木さんと対談しているよね。

▲ホントに自分が言っていることは意味がないとつくづく思いますけど(笑)。

●そんなことないよ。このやり方はムジカヴィヴァの時(阿木譲と対談記事を掲載)と同じように阿木さんとの筆談でしょ。原稿用紙に直接書いて、「ハイ」という感じで阿木さんに渡して阿木さんが書いて「ハイ」というキャッチボールで仕上げていったんだよね。時間がないので、そのまま写植屋さんに出せるようにね。

▲そうですね、たぶんテープ起こしする人もいないですからね。阿木さんがカセットテープ・ミュージックを掛けて、それを聴きながら筆談したんですね。

●でも結構な数のカセットテープがあったでしょ。

▲かなりありました。まずその中から阿木さんが選んで一本一本聴きながら対談したんだと思います。

●Vanityインタビューであのカセットテープの中から二人(DEN SEI KWANとsalaried-man club)とメールベースだけど会話した。DEN SEI KWANは福島の人でね。先ほどのスロッビング・グリッスルとかキャバレー・ボルテールじゃないけど、Vanity Tapeの『Pocket Planeteria』は、今のノイズミュージックに似てるという人がいるけど、現在との決定的な違いは暗さだといってた。でも彼も新しく音楽を作り始めているので楽しみにしているんだけどね。またsalaried-man clubも「近未来のvisionのsound trackとしての音楽を構想中」とのことなので再始動するんじゃないかな。

▲あの時のミュージシャンと実際に会話するって凄いですね。

●それで明橋が対談したカセットテープ・ミュージックは6本組みでVanity TAPESとしてリリースしたでしょ。その後阿木さんはカセットテープで何か展開しようとしたのかしら。Vanityとして連続的にシリーズで出すとか。

▲おそらく、この6アーティストの中から積極的に活動する人が出てくれればいいという想いはあったと思いますね。それは阿木さんとの対談の中からでも伺えると思います。

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《阿木譲との関わりについて》

●明橋が『ロック・マガジン』を編集していたのはいつまで?

▲編集室に泊まり込みだったのは1980年の夏くらいまでだったと思います。大学に戻らないといけなくなったので。だけど、その後も行き来はしていて長い間関わっています。『EGO』の初期の頃は翻訳を手伝ったりしてると思います。

●阿木さんとは頻繁じゃなくてもずっと付き合いが続いたんだよね。『EGO』後の『Infra』とか『Bit』の阿木さんの編集や雑誌の仕事をどのように見てましたか?

▲その辺りは全く関わっていないですね。

●まだ『EGO』の頃は阿木さんの個性が出てて魅力的だったんだけど、『Infra』とか『Bit』になると薄っぺらなカタログ本という感じがした。

▲ユキさんを通じて本をもらったり、お店〈M2(Mathematic Modern)〉(1990年)とか〈cafe blue〉(1993年)、〈nu things〉(2004年)には行ったりしていました。ただ、医者という本業もあるし距離もありますからね。阿木さんから「もういいよ!」と電話を切られたこともありました。結局その頃になると阿木さんの周りには、ムジカヴィヴァとか工業神秘主義とかを『ロック・マガジン』で出してた頃のような思想的な深まりとかを編集できる人が回りにいなくなっていたからだと思います。
だから本当に阿木さんの孤独な作業になっていたんだと思います。

●松岡さんは新しい音楽を聴いているわけじゃないし、阿木さんとも付き合いもなくなっていた。もちろん今でも工作舎ではいい本を出版しているし、松岡さんはいろんな場所で話したり、面白い発想で読み説きしていると思います。知の伝道師、知の便利屋さんという感じです。一般の人にはわかりやすい。ただ音楽から時代を読み解くようなことはしないと思います。松岡さんは新しい科学の知識やアプローチの仕方を自分の持っている知性と結びつけて考えようとしているんだろうけどね。だから話は面白いんだけどね。

▲知的な世界というか言葉の人ですよね。「NEW PICNIC TIME」の後にみんなで工作舎に遊びに行ったことがありましたよね。その時に思ったんですけど、それまで阿木さんが関わってこなかった知性の部分と化学反応が起きて、松岡さんにとってもインパクトがあったと思うけど、阿木さんによっても音楽に接するときの深まりとなっていったと思います。その結果が『ロック・マガジン』01 02 03 04 05号(1980-81年)だったんじゃないかと。だからあの頃の『ロック・マガジン』が一番面白いと思いますし、その現場に立ち会えたのは幸運でした。

●B5判サイズの時だよね。『ロック・マガジン』で紹介している音楽が時代と交感(コレスポンダンス)しているリアリティを常に感じさせる時期だった。

▲今日、阿木さんとの関わりで是非喋っておきたいことがあるんです。私にとって忘れられない光景があって『ロック・マガジン』02か03号の頃だと思うんですが、制作途中では阿木さんもピリピリしていてモノが飛んできたりするじゃないですか(笑)、版下まで出来上がった頃に阿木さんの住まいから電話がかかって来て夜明けに行ったんですよ。その時に聴かされたのがジョイ・ディヴィジョンの「Closer」(1980年)だったんです。既にイアン・カーティスは自死で亡くなってたんですが、アルバム・ジャケット(ジェノヴァの共同墓地スタリェーノにあるアッピアーニ家墓所の大理石彫刻)を見ながら、阿木さんが「この音楽を聞いてみろ。この音楽を奏でている時点で、彼はもうすでに死んでいるよ。」といったんです。二人でイアン・カーティスの死を悼みながら聴いていたんですが、後で思ったんですけど、私が来る前に阿木さんはもしかしたら泣いていたんじゃないかと思うんですよね。それまでいろんな人が出入りしていたけど、その時にはもう誰もいなくなってスタッフは私だけだったんですね。その時の阿木さんの孤独というか悲しみというかその情景は忘れることが出来ないんです。
音楽では情緒的なものを排除しているのに、矛盾しているんですよね。やっぱり人間を信じ続けていたと。だからこそ、こんな美しい音楽を求めたのかも知れません。一度そういう姿を見てしまうと、やっぱりどこかで放っておけないですよね(笑)。

Joy Division/CLOSER

●僕も『ロック・マガジン』を抜けた後は結構ボロボロだったのよ。

▲そうだと思いますよ。

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《阿木譲の晩年について》

●明橋は付き合いというラインを超えていろんな面でサポートをしていたよね。結局最後も看取ったの?

▲私の前で亡くなったわけではないけど、亡くなる前日に会いに行きました。
それ以前の数年前に膀胱がんになって、その時も病院とか色々手配して紹介状とかも書いたりしたけど、ただ阿木さんは医者嫌いなのでね。

●そうだよね。阿木さんが医者嫌いなの知ってますよ。『ロック・マガジン』の時も病院とか行ったことなかったもの。高熱があっても行かなかった。

▲それで、入院して手術後に管をつけてブログに「プラスチック人間になった」って書いてましたけどね(笑)。この段階で自分の死期も判っていたんじゃないかと思いました。その後暫く落ち着いていたんだけど再発したんです。その時に直ぐに処置すればよかったんだけど、なかなか病院に行くとはいわなくて最終的に色々探して紹介状書いて受診した時には手遅れで、結局在宅で看取りということになりました。僕も時々会いに行ってたけど、最後にユキさんから倒れたと連絡があり、行ったら病院で人工呼吸器を装着されていて意識がない状態でした。その次の日に亡くなりました。

●最後の阿木さんの様子は、後からユキさんからも聞きました。ユキさんに感謝の言葉を言ってたとかね。

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《自利利他について》

●先ほどの話に戻りたいんだけど、生命の問題と仏教のこと。今勤めている真生会富山病院にもそういう理念がある?

▲仏教精神に基づく医療を実現しようとしている病院ですね。
※真生会富山病院のホームページの理念には以下のことが書かれている。
仏法に説かれている「自利利他」の精神に基づいて、安心と満足の医療をめざします。
自利利他とは、他人を幸せにする(利他)ことが、そのまま自分の幸せになる(自利)ということです。

●現代フランスの経済学者ジャック・アタリがパンデミックという深刻な危機に直面した今こそ、「他者のために生きる」という人間の本質に立ち返らねばならない」と利他主義の必要性を説いているんだけど。利他主義って仏教用語でしょ。
※ジャック・アタリの語った言葉
利他主義は最善の合理的利己主義に他ならない。パンデミックという深刻な危機に直面した今こそ、他者のために生きるという人間の本質に立ち返らねばならない。協力は競争よりも価値があり、人類は一つであることを理解すべきだ。利他主義という理想への転換こそが、人類のサバイバルのカギである。

▲「自利利他」っていうんですけどね。自分の幸せが人の幸せになるし、人のために尽くすことが自分の幸せになる。菩薩の道が「自利利他」なんです。

●僕は阿木さんのことは気にはなっていたけど何にもしていないわけです。明橋は阿木さんを最後までサポートしていたでしょ。阿木さんとは亡くなってから死者としての阿木譲とは対話をしているけどね。今Vanity再発の原稿を書いたりしているのは、阿木さんの業績が少しでも評されるといいと思っているからなんです。
明橋が『ロック・マガジン』と出会って今の職業に就いて仏教の勉強もして、その辺りに僕では判らない信仰とかの問題があるのかなと思ったんだけど。

▲阿木さんは人生の恩人ですね。親と仏教の先生。次に阿木さんとユキさんは人生の恩人だと思っています。どれだけしても返しきれない恩を受けたと思っているのです。

●僕は幼児の頃にカソリックの洗礼を受けていて、宗教のことはよく考えるんだけど、信仰というのはよくわからない。だから親鸞の言葉かもしれないけど「自利利他」というのも信仰に関係があるのではないかと思ったりするんだけど。

▲親鸞聖人ももちろん使われているけど、元々仏教の言葉ですね。
阿木さんには、医者として忙しくなったので何もできなかったなというのが想いですね。

●そんなことないよ、阿木さんが晩年まで活躍できたのは明橋の功績が大きかったと本当に思います。

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《『ロック・マガジン』的言葉とは》

Lucy Railton/「時の終わりのための四重奏曲」第5楽章(イエスの永遠性への賛歌)

●僕にとっては途中抜けたこともあるけど1979年から81年までの『ロック・マガジン』にはむちゃくちゃ思い入れが強いんですよ(笑)。そこで音楽との接し方が決定的になったので今だに音楽を単純に楽しむという聴き方はできない。音楽を聴いて単に気持ちがいいとかだけではなくて、これは何だろう、この音は何を表しているんだろう、何を感じているんだろう、きっとこれに違いないとかね。そこから今の時代を読み取ったりとかするために本を読んだり勉強したりした。
最近だと阿木さんもとても好きだったMODERN LOVEというレーベルから女性チェリストLUCY RAILTONのレコードがCovid-19のチャリティのためにリリースされていているんだけど、演奏されている曲がオリヴィエ・メシアンの「時の終わりのための四重奏曲」の第5楽章(イエスの永遠性への賛歌)なんです。この曲はヨハネの黙示録の言葉から着想を得た作品で、1941年にナチスの強制収容所捕虜で作曲し演奏された。このレコードは2010年にデボンのバックファスト修道院でのライブ演奏で観客の咳や声も音楽の一部として録音されている。ここから何を読み取るかというのは明らかに『ロック・マガジン』的な感覚だし言語化したいというのは常にある。

▲阿木さんは文字を信じてないというか、文学を信じてないというところから出発しているのがあるじゃないですか。でも阿木さんは結構楽しんで聴いていたんじゃないかと思いますが、どうなんでしょう?

●今思い出したけど、阿木さんから「僕は松岡正剛や君らのような言葉型の人間じゃないから」とよくいわれたな。でも本人は言語学の勉強とかしていて「嘉ノ海、言語っていうのは結局記号なんだよな」といって記号論の話をしたことがある。この前阿木さんが亡くなってからブログを読んでみるとジル・ドゥルーズの「襞」(1998年)とかを取り上げていたので、自分の聴いてきた音楽の裏づけとしての哲学的な世界の読み取り方にも関心があったんだと思います。理路整然と論理展開をするのではなく阿木さんらしいいい文章だったけどね。

▲阿木さんは感覚的に本質を捉えるんですよね。音楽を通して時代の精神とか、時代の空気とかを捉える。それを表現するためには、やはり言葉が必要だったんだと思うんですよね。それがラジオであったり『ロック・マガジン』だったりするので、そういう意味で阿木さんも矛盾しているわけですよね。だけどどこかで言葉以前のものとか感覚的なものを大事にしたと思います。

●今明橋はLINEのラジオをやっているよね。登録してるからたまに聞くんだけど。
※LINE「ココロほっとLINE@」で明橋大二の話が聞ける!!!

▲お奨めの曲を紹介して、好きなことを言い散らかしているんですけど(笑)。それでも歌詞を通じてメッセージを読み取るということやっているんです。ただリスナーには歌詞だけじゃなくて「音楽」を聴いて欲しいと思うしミュージシャンも「音楽」を伝えたいんですよね。歌詞を表現するために「音楽」があるんじゃないという認識は持ってますけどね。こんなん阿木さんに聞かれたらボロクソにいわれそう(笑)。

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《remodelの今後の動きについて》

●Vanity-BOXが届いたでしょう。Studio Warpの中村泰之さんが明橋さんには是非持ってて欲しいということで送られたんですよ。阿木さんが企画して中村さんが資金を出して立ち上げたremodelというレーベル番号が付番されているんだけどね。そのremodelから新しいミュージシャンのCDがリリースされているんですよ。阿木さんから引き継いだ平野隼也くんが運営しているenvironment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ] で活動している音響系の音楽家なんですね。生前の阿木さんと交流があった人が多いです。そのような動きがremodelの再開となって、海外も視野に活発化するようです。僕は今彼らとも交流してるんだけど音楽について雄弁に語る人はいないんです。本当はもっと語って欲しいだけどね(笑)。でも作っている音楽は凄くいいんですよね。今の時代を感覚的に捉えている音楽です。

▲中村さんからVanity-BOXを送ってもらってありがとうございます。中村さんってどんな方なんですか?

[中村さんの紹介、阿木さんとの関係とか嘉ノ海との関係と2011年7月に制作されていたVanity-BOXの説明・・使用許諾の問題とかを説明、ミュージシャンへの対応 マスタテープの返却、連絡がつかない人、VODや海外での動きなどを説明 ※東瀬戸悟 「阿木譲とVanity」を参照]

▲今聞いているだけでも凄い労力ですよね。中村さん、よくリリースしてくれたと思います。

●トレーランスはLP化されていないテープが残っていてremodel(『Dose』『Demo』)としてリリースされている。これが前作と違う感じで途轍もなく素晴らしい作品なんだよね。今回何十年ぶりに聴いてどうでしたか?

▲今回Vanity-BOXを聴いても全然古くないですね。何十年も先に行ってたんだと改めて思いました。
個人的にはこのような音楽を聴く機会があまりなくて、肉声とかギターの音とか好きなんですよね。でもremodelを聴いてから巷に溢れている音楽を聴くといらないものがたくさん入っているなあと感じますね。音響とか美しいものを追求していった時にたどり着いている音楽なのかなと思いました。情念が乗りすぎている音楽はうそ臭いって阿木さんもいってましたが、電子音楽の中にある喜びや悲しみが信じられるのかなと聴いていて感じました。

●聴いてもらった中に入っていたミュージシャンのKENTARO HAYASHIは晩年の阿木さんのブリコラージュCDのマスタリングもしているんですね。阿木さんとも交流も深かった。彼の音楽を聴くとコロナ禍での音楽の役割について考えるんです。岡山ペパーランドの能勢伊勢雄さんは傷ついたエーテル体を修復するために音楽の効用があるのではないかというんです。それは聴いていて癒されるとか気持ちがいいとかだけではないんですよね。エーテル体はというのは生命体というか宇宙的な叡智といってもいいかも知れないけど、その時代に働きかける時代霊とも関係があるんだけどね。時代を読み解くとは音楽を体験して感じられるものであるし。
事前の会話で明橋がいっていたコロナ禍の中で傷ついた部分がストレスとなって女性や子供の自殺者数の急増に影響を与えているという話もこの傷ついたエーテル体と大いに関係がると思う。そんな禍の中でこそ音楽の役割があるのではないかと強く感じる。remodelのミュージシャンはそんな位置にあるとも思っているんだよ。
先ほどのremodelからリリースしている電子音楽家の作品のジャケットにはSpecial thanks to AGI Yuzuruのクレジットも入っているんですよ。中村さんとしてはVanity-BOXも含め7割くらいは海外で販売しているしremodelはヨーロッパやアメリカをターゲットに考えているようなんだ。日本より外国の方がきちんと評価されると思っているので、このインタビューも含めてVanityとはどのようなものだったのか、ミュージシャンがどのような想いをもってVanityに参加したのかを伝えたいと思っています。
実際にドイツとか海外で反響があり、Vinyl-On-DemandでLP化され2020年5月にリリースされた。だから今はモノ(音源)が流通している段階なのでどのような背景があったのかとか海外では詳しく知られていない状態。だからVanity Recordsの海外展開を通して阿木譲や『ロック・マガジン』『ファッション』などの評価がなされることを期待しているところです。
これらの動きにより何万枚も売れるものじゃないけど、少しでも評価してもらえたらと思ってます。
ま、阿木さんはこの動きをどう思うか判らないけど、少なくとも個人的な想いはあるしね。

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《再び阿木譲のこと》

▲そうですよね。阿木さんが再評価されたら嬉しいです。阿木さんも絶対喜んでくれますよ。嘉ノ海さんのことは離れても気にしていたし愛してましたから。だから厳しく接してたんだと思います。僕は医者の世界に戻っていくんだと阿木さんも思っていてどっかで距離感があったと思うし、だからこそ長続きしたんだといえるんだけど。でも嘉ノ海さんのことは自分の分身みたいに思っていたし、離れてからもずっといってたんですよ。
阿木さんもあっちの世界に行ったら少しは素直になって感謝していると思いますけどね(笑)。

●いやあ、そうかなあ(笑)。
阿木さんの一周忌の時に(2019年)3日間0gで縁があったミュージシャンによるライブが開催されたんですが、『ロック・マガジン』の編集に深く関わった人は誰も来なかった。告知もされていたから、林(春美)くんとか中野(由美子)さんとか一人くらい会えるかなあと期待していたんだけど。

▲それは全員トラウマになっているんですよ(笑)。その人の中にしっかりと生きていると思いますけどね。
松岡正剛の「千夜千冊」で阿木さんの「イコノスタシズ」(1984年)のことを書いているけどめちゃくちゃ情緒的な文章ですよね。

●松岡さんと阿木さんの関係って不思議だよね。2016年に大分県立美術館で開催された能勢伊勢雄プロデュース「シアターインミュージアム」展で松岡さんと15年振りに会って「おう。嘉ノ海君元気か?」という感じで話をしたんだけど。その時に「阿木君はどうしているんだ?元気してるの?」「会ったらよろしくといっといてよ」とか何回もいうわけ。すごく気にしていましたね。阿木さんも晩年0gで会ったときに「松岡正剛と会ったりするのか?」と気にしてました。
1980年当時から思ってたけどあの二人の関係って変だよね(笑)。素直じゃないし(笑)。

▲お互いリスペクトしていたんですよ。松岡さんにないものを阿木さんが持っていたし、阿木さんにないものを松岡さんが持っていた。

●阿木さんが亡くなってから、今に至るまでコメント出してないんですよね。だから松岡正剛にインタビューしようか迷ったんだけど、『ロック・マガジン』やVanityとなると明橋でよかったと改めて思います。依頼したら応じてくれたとは思うんけど。

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《コロナパンデミックについて》

●最後に医者としての明橋に聞きたいのだけど、コロナ禍におけるパンデミックって「スペイン風邪」とかあったけど、僕らが生きている間にこんな経験するとは思わなかった。世界同時並行的に感染症が起こっているという経験だよね。
現場で考えていることや感じていることなどについて是非聞かせて欲しい。

▲コロナ禍は社会的に影響も大きいし亡くなる人もいるわけですが、職業的にはメンタルヘルスへの影響について気にしているし調べたりしているわけです。子供へのアンケートでは何らかのストレス反応を示したパーセンテージが72%で凄く高いです。東日本大震災の時にも同じような質問をしていて43%なんです。この時は被災地以外の地域の人にもアンケートをとっているので被災地だけであればもっと高いパーセントになったと思いますが、それでも43%は高いと思います。しかし今回は72%と東日本大震災を遥かに上回るストレス反応が出ています。中には「赤ちゃん帰り」とか「チック」とか「爪噛み」とか医学的な症状を出している子供もいるし、親もそのために切れて怒鳴ったりするのが36%だとかね。という形でメンタルヘルスへの影響がかなり出ているということなんですね。
それが一番典型的に現れているのが自殺者の数です。警察の暫定値というのが2021年1月31日に出てまして1年間の自殺者が21,077人ということなんです。実はリーマンショック(2008年)の時に自殺者が30,000人を超えて国も自殺防止のために対策を講じて年々減って来てたんです。ところが今回11年ぶりに自殺者が増えたんですね。明らかに新型コロナウイルスの影響です。前回は男性が一気に増えたんですね。でも今回は女性と子供なんです。2020年8月は前年比180%でした。小中学生も倍くらいとかでした。
女性はうつになりやすいですが、男性に比べて自殺には至らないんです。男性は溜め込むけど女性は喋れるからではないかと言われています。喋ることにより発散していたのが新型コロナの影響でそれが出来なくなったからではないかと。ファミレスで何時間でもしゃべっていたのが出来なくなった。そして子供達も孤立しているんですね。そうしたソーシャルキャピタル(人と人との関係性や繋がりを資源としてとらえて評価する考え方)というか社会的資源を使えなくなったということが特に女性の場合にダメージを与えている。
なんでうつになっているのかがわからない人がたくさんいる。それは我々が気付かないこころの中でじわじわとダメージが蓄積されていくというかストレス反応が進行していく。だから日常生活がそれなりに送れているけど、慢性的なストレスがメンタルに影響を与えている。
だからこそ、このようなオンライン技術もそうですが、必要になっていると思います。分断されているので繋ぐ努力を意識して行わないと孤立してしまう。ただオンラインさえあればいいかというと、そうでもなくて、たとえばカウンセリングでは対面の方が結果的には効果が高くなると言われています。全部オンラインでもダメなんですよね。原始的なことなんだけど、コロナ禍を通して結局は人と人が関わるということがこんなに大事なことだったんだと逆に炙り出されたと思うんです。

●先ほどの自殺者が女性の方が多いという傾向は世界ではどうなんだろう。

▲どうなんでしょうか、というか世界は新型コロナの死者数の方が遥かに多いですね。日本では昨年新型コロナでの死者は3,400人くらいなんです。で、自殺者20,000人。日本ではコロナの死者よりも自殺者数が遥かに多いんです。

●そうか、それで海外メディアがその事実に驚愕したんだよね。

▲そう、諸外国がびっくりしたんです。だからこの傾向は日本独自のものですね。

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《死者の役割》

●東日本大震災の時にも感じたんだけど、現代においての死者と対話することがなくなったことが大きいのではないかと思うんだけど。死者との関わりがなくなっているので孤立しやすいとか分断されやすいのではないか。さっきのメシアンの「時の終わりのための四重奏曲」を聴いて何を感じるかというと単に癒しが欲しいとかではなくてその音楽を通して死者が語りかけてくる、対話するという感覚が必要なのではないかと思うんだけど。

▲そう思います。死を排除した文化ですね。どんどんばい菌を排除して清潔にしてまたウイルスにやられるということがあるように、死を生活の中から排除して全部病院の中で亡くなるとか死をタブーにしてみなかったことにするとかすることにより、魂から反逆を受けているというか。生と死は裏表だしくっついているものなので、どちらか一方だけはないので。だけどそれを繋ぐ手段が宗教だったり音楽だったりするわけですね。昔の音楽は太鼓を叩いたり祝祭とか儀式とかね。音楽ってそこから発生しているわけじゃないですか。ブルースも鎮魂の要素もありますし日本の祭りも死者との交流という意味もありますしね。音楽は我々と見えないものの交通であり窓口みたいな役割だと思うし、だからこそ阿木さんが音楽を聴かなくなったらダメだと言い続けていたのはそういうことなのかなと思っています。

●僕もそうですよ。ちゃんとLPなりCDを買って聴きますよ。音楽はリアルな霊ですから(笑)。もちろん消費するだけの商品もありますけどね。その中から感覚を持って選び取っていくということですね。Vanityも『ロック・マガジン』も一緒ですよ。そういえば他のミュージシャンへのインタビューは読んでくれた?

▲佐藤薫さんのインタビューは読みました。

●あれ面白かったでしょ。突っ込んで聞いたからね。それと元々、Vanity Recordsのレヴューや当時のことを書くのは嘉ノ海が適任じゃないのって佐藤薫さんがいってくれたんですよ。それで今回の企画を引き受けた。
藤本さんへのインタビューは興味深いものだった。結局阿木さんのことを雄弁に語ってくれたし。ちゃんと見ていたんだなと思いましたね。

▲みんな阿木さんに対してはいやな思いもしてるけど、リスペクトもしてるしね(笑)。複雑なんですよね(笑)。Vanity Recordsは40年経ってremodelとして再生されても今の時代でも聴けるということは40年も先に行ってたんだなあと思います。世界的にみても凄いですね。

●阿木さんとも交流のあったjunya tokudaがトレーランスのリミックスを手がけているんだけど、トレーランスの音は今聴いてもすごいっていってた。だからトレーランスにしても現代に繋がる音楽を作っていたのは間違いないね。
病院から勤務中に長時間ありがとう。また会おうね。

▲是非お会いしましょう。

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※明橋大二が指摘していた日本における自殺者数は海外から驚きをもって伝えられた。
参考にWeb上にあるヘッドラインを抜粋する。

新型コロナよりも多く失われた命。「10月、自殺によってコロナの10か月間よりも多くの日本の命が奪われる」(「CBS NEWS」より)

新型コロナウイルスが拡大するのと並行して、メンタルヘルスに関連したパンデミックがやってくる……。すでに日本はその第一波に飲み込まれているのだ。

アジアでは、欧米に比べてメンタルヘルスの問題について汚点がつきまとうことが、死者数の原因かもしれない。例えば日本では、自分の感情や本当の自分を見せることに対して、社会的圧力がある。

真っ先に「自助」を求められる社会では、追い詰められたときに助けを求めることすら叶わない。まさに生き地獄だ。

あまりに多い自殺者数、先進国のなかで遅れに遅れている女性の社会進出、イジメ……。これらはすっかり我々にとって「当たり前の日常」となってしまった。いや、人によってはそれを「日本の文化」とすら呼ぶかもしれない。

新型コロナウイルス感染による日本の死者数は、(世界的にみれば)かなり少ない。だが、一方で日本の自殺者はかなり多い。そして、最近の女性の自殺者の急増は、この国特有の悲劇的な問題といえる。

日本の自殺率は長年、先進7カ国(G7)で最も高くなっている。新型コロナウイルスのパンデミックはその日本で、さらに多くの人を自殺という選択に追い込んでいるようだ。

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▲インタビューを終えて
阿木さんとは、自分が19歳の時に出会ってから亡くなるまでの間、随分長い間、関わってきたような気がする。しかし実際、『ロック・マガジン』のスタッフとして編集室に泊まり込んで過ごした期間は、1年にも満たない。
ただその1年間は、自分の人生にとって、決定的に、豊穣で深遠で衝撃的な時間だったと改めて思う。それを通じて、ものの見方は根本的に変わったし、今の自分があるのは、『ロック・マガジン』と阿木さんのお陰だ、という気持ちはずっと変わらない。
阿木さんほど毀誉褒貶の激しい人はなかったと思う。実際、阿木さんとまともに関わった人は、みなある意味トラウマを抱えている。ただそれは(少し美化して言えば)阿木さんの言葉があまりにも本質を衝いているために他ならぬ自分自身と向き合わざるを得なくなるからだと思う。
「音楽だけは聞き続けろよ。」亡くなる前、遺言のように言われた言葉は、本当に遺言になってしまった。その遺言を、自分は守ることができているだろうか。
そして出会った時、阿木さんから突きつけられた問い、「君には何ができる?」に自分は何か答えることができただろうか。
その答えを阿木さんから聞くことはもうできない。ただ19歳から20歳という二度と来ない時期に、阿木さんの編集室に飛び込んで、開けた世界は、今も心の中で鳴り響き、自分を衝き動かしてくれている気がする。

●インタビューを終えて
一つの音楽が人生に化学反応を起こし新しい世界観を獲得することがあると改めて感じたインタビューだった。人智学者の高橋巌に人生の中で一番大切にしているものは何かと聞いたときに「出会いです」と答えられたことを思い出していた。出会いの対象は人でありレコードであり本であり映画であり絵画であるがそのひとつひとつが銀河のように輝いていることがあり、それこそが生きている醍醐味であり普通のことなのだ。
今回の話には阿木譲という稀有な人物が介在するのだが、今なおモノとして存在する『ロック・マガジン』やVanity Recordsはそんな化学反応の痕跡を留めている。
このインタビューのタイトルを『死者はそう遠方へは行ってしまわない』と考えた。この言葉の元は、民俗学者柳田国男の「日本人の死生観では人は死んだら霊となり、この国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、かなり根強くまだ持ち続けられている」から着想した。阿木さんと対話したりすることも同じことだと思ったからだ。明橋が最後のほうにコロナ関連でストレスを抱えて自死する女性や子供の話をしてくれた時にこの国に存在する死者たちのことを考えた。だから死者は墓の中にいるわけでもなく現役なんだ。阿木さんも。
しかし結局タイトルは『それにもかかわらず敢えてなお』にした。『ロック・マガジン』特集工業神秘主義音楽の表紙に阿木さんがインレタの残りをつかってローマ字で刻印した言葉だ。これは当時阿木さんに紹介したドイツ表現主義の詩人ゲオルク・ハイムの詩からとられた言葉だ。ハイムは「三たび『それにもかかわらず敢えてなお』と言うこと、古参兵のように三たび手につばをつけること」こんなの詩を1911年に残している。やっぱり阿木さんにはこっちの方が似つかわしい。

VANITY INTERVIEW
⑧ DADA(小西健司)

VANITY INTERVIEW ⑧ DADA(小西健司)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


DADA

『音風景としての「浄」』

『浄/DADA』についての試論

「浄」のレコード・ジャケットで使われている「餓鬼草子」の図は京都国立博物館所蔵の第5段である。絵巻物では餓鬼道に堕ちたことの苦しみは前世での行いのせいであると仏様が餓鬼たちに説法する場面だ。しかしジャケット・デザインでは仏衣の一部と風景(背景)のみである。また同じ第5段には餓鬼が食べ物が炎に変わる場面や転生していく餓鬼も描かれている。しかし、阿木さんが切り取った断片はあくまでも「Obscure」の意味通り「はっきりしない、ぼんやりとした」ものであり、聴き手が絵巻物に惑わされず音楽からイメージさせるような工夫がされているのである。

また、『浄/DADA』の音源を聴くと「ドイツの音楽グループのポポル・ヴーを想起してしまう」と東瀬戸悟(フォーエヴァーレコード)は語っていた。ポポル・ヴーはクラウトロックの旗手であり、1970年代ニュー・ジャーマン・シネマの代表的映画監督ヴェルナー・ヘルツォーク(1942年-)の映画音楽を手がけている。今回改めて『アギーレ/神の怒り Aguirre, der Zorn Gottes (1972年)』や『ガラスの心 Herz aus Glas (1976年)』のサウンドトラック盤を聴くと確かに「音風景」としての「浄」が立ち現れるのである。

阿木さんは、VANITY0005『乗物図鑑/あがた森魚』の録音時と同じように、既存のもの(ポポル・ヴー)から「浄」というコンセプトだけを変えて全く別のものに置き換える手法を既に使っていた。サンプリングという今では当たり前の音楽制作技だが、阿木さんが体験した音楽の中からコンセプトに合った何を選択するのか、ここに現代に通じる意味がある。またその技法は同時並行的に行われていた『ロック・マガジン』のデザインにも応用されていくのである。

このアルバムはBRIAN ENOに捧げられている。明らかにObscure Recordsへの阿木さんのENOに対する返答なのだろう。ここで少しObscure Recordsに触れてみよう。1975年から1978年に掛けてリリースされた10枚のLPシリーズに参加している実験音楽の作曲家達を列挙すると、ギャヴィン・ブライアーズ、デレク・ベイリー、マイケル・ナイマン、デヴィッド・トゥープ、マックス・イーストリー、ジョン・ケージ、ハロルド・バッド他。その中で注目すべきは音楽学者としての肩書きを持つマイケル・ナイマン(1944-)である。彼が「Experimental Music: Cage and Beyond」(邦題:『実験音楽 ケージとその後』1992年水声社)を出版したのが1974年であり、ENOが既に読んでいたことは想像に難くない。ナイマンが音楽誌に寄稿していたのが1970年から1972年までであり、ENOがロキシー・ミュージック在籍期間(1971年-73年)と重なっているのである。ENOは音楽芸術そのものの深遠な冒険を既に始めていてその後のアンビエント(家具の音楽)への流れを見据えていたのではないかと想像するのである。
おまけにObscure Recordsは、ENOが設立したレーベルではあるが、Island RecordsやPolydor Records、Virgin Recordsの販売網を利用しながら世界中に展開された。
なのでVanity Recordsの第一作目の『浄/DADA』は阿木譲のENOのオマージュとして捉えることも出来るのである。
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DADA 小西健司へのインタビュー
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DADAは1978年に阿木譲が設立したVanity Records第一作目としてVANITY0001『浄/DADA』をリリースしている。彼らのことやこのアルバムの成り立ちについてもほとんど知らない。他のスタッフと同じように『ロック・マガジン』と関わった時期(1979-1981)がずれているのが理由だ。当時どのような経緯でリリースされたのかを聞きたかった。小西君(呼ばせてください)とは、彼がその後結成する4-Dの関係で知り合うことになった。DADAもう一人の泉君はスケジュールが合わず残念ながら参加していただけなかったが当時の写真を提供してもらった。


DADA

ということで小西君にはこの機会に当時のことや今の時代をどのように感じているのかを語ってもらった。
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小西健司
ドイツLeipzigと大阪をベースにLeibachを核とするアートプロジェクトNSKが主催するビエンナーレやLeipzigで毎年催されるNacht Der Kunst等にサウンドオブジェや音響構築作品を出展する他自作楽器KonishiPhoneやアナログシンセ、センサー等を使用したライブも行う。
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泉陸奥彦
フリーの作曲家。元カリスマの菅沼孝三(drum)近藤研之(bass)らと共にトリオのバンド「Thrteen Triangle」を結成するも、現在はコロナ禍のため活動を自粛中。
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▲小西健司(DADA)
●嘉ノ海幹彦


DADA 泉陸奥彦と小西健司(1980年)
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●『浄/DADA』はVanityの第一弾として1978年にリリースされたましたがどのような経緯はがあったのでしょうか?また阿木譲との初対面の印象やどのような感じでお会いになりましたか?

▲『浄/DADA』制作の経緯は忘れてしまいました(笑)。 ただ何度も「餓鬼草紙」は制作前に見せてもらいました。

●少しでも思い出してくださいね(笑)。でも大変興味深いですね。「餓鬼草紙」のコンセプトは阿木さんが第一作目として暖めていたものなんですね。「餓鬼草紙」は平安時代後期に死後転生するという仏教思想の六道の餓鬼世界を描いた絵巻物です。その頃はブライアン・イーノのObscure Recordsの10枚組シリーズ(1975-1978)が始まっていたのでイーノへの返答として何か日本的な生死に関わるようで物語になるような連続したリリースイメージは持っていたと思います。ユーロプログレ的に日本の生死世界観をシリーズで展開しようとしていたのかも知れません。

▲阿木氏と最初に会う事になった経緯も忘れましたが、DADAとしてではなく同時にやっていたバンド飢餓同盟として心斎橋にあった喫茶店「Williams」で、メンバーの安田隆と結成したまさにその日に初めて会いました。その後阿木氏を長時間待っていたのですが現れず、近くの席に座っていた「それ風な」人に声を掛けてみると阿木ではなく八木さんという人でした。偶然にも八木さんは阿木さんの知り合いであったため電話(公衆電話)で連絡を取ってもらい、めまいがするので出て来られないというので阿木氏の居る住居兼事務所へ連れて行ってもらいました。


飢餓同盟 小西健司と安田隆(『ロック・マガジン』9号1977年8月より)

阿木譲がプロデュースしたライブハウス梅田「モンスター・タイムズ」のフライヤー(1975年)

●飢餓同盟結成その日だったんですね。ところで阿木さんと会った印象は?

▲第一印象は「なんで家の中でもサングラス?」です(笑)。正確には自分はこれ以前、高校生時代に大阪城公園の片隅で行われていたフリーコンサートで阿木氏のステージを見て彼の自主制作シングル曲「俺らは悲しいウィークエンドヒッピー」に大きな衝撃を受けていたのですが、それが阿木譲氏だとはしばらく気が付きませんでした。

●「俺らは悲しいウィークエンドヒッピー」は阿木さんがフォークシンガーの頃ですね(笑)。自分が高校生の時に行った初期の「春一番」コンサートにも出ていたのかなあと思いました。憶えていないですけど(笑)。
『浄/DADA』を録音したのは、どちらでしたか?やはり西天満のスタジオ・サウンド・クリエーションでしょうか。

▲そう、スタジオ・サウンド・クリエーションです。


『浄』の録音風景(於:大阪西天満スタジオ・サウンズ・クリエーション1978年4月19日)

●プロデューサーとしての阿木譲の役割はどのようなものでしたか?

▲こんな感じでという指示に従ってDADAが即興で具体的な音にしてゆくというプロセスだったと思います。予め収録曲のようなモチーフや手法があったわけではありません。

●今回『浄/DADA』のリマスタリングを宇都宮泰さんがされているのですが、実際に聴くと別物ではないかと思うくらい音の奥行き感も音粒の表れも臨場感にしても音響が違って聴こえました。また全体的に「餓鬼草子」の絵巻物で表現されいる「水」のイメージを強く感じます。クレジットによると1978年4月19日とありますが、一日で録音したのですよね。またVanityリリース以降のDADAとしてどのような活動をされたのでしょうか?
『浄/DADA』が有効に働いていたのでしょうか?

▲ライブ活動は行っていましたが、「浄」を意識してライブ演奏に取り入れた事はありません。またリリース枚数が少なかった事もあり、活動に於いて「浄」が何かのきっかけになった覚えもありません。
むしろ多くの機材やシンセを使ったライブを行うシンセデュオとしての局面の方が比率的には遥かに多かったと思います。

●小西君としては「浄」という作品は自分たちにとって別物という感じがあったのですね。阿木さんのリクエストに応えたという感じでしょうか。『ロック・マガジン』で好きだった(気に入っていた)号は何号でしょうか?発刊初期の頃だとおもいますが。

▲阿木氏が『ロック・マガジン』と言い出していた時は、いわゆるロック雑誌を出版するのかと思っていたら本当にロックマガジンという名の雑誌だった事に驚きました(笑)。

●当時聴いていた音楽は?叉影響を受けたアーティストやレーベルはとか教えてください。

▲当時の阿木氏の事務所兼住居で、Faustはじめいわゆる多くのクラウトロックを聴かせられたのですが、Canの「TAGOMAGO」以外興味があるものがなくむしろ彼が番組の為に購入していたような、Tiger B Smithみたいなハードロックに興味があり、後に自分でも購入して聴きました。

●現在の活動と今後の活動のプランを教えてください。

▲DADA以降ずっとやっている4-D mode1での活動と並行して4-D mode1のメンバーでもある横川理彦とのデュオSchneider x Schneiderそして音響オブジェ含めたソロライブ活動です。

●新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対してどのような感想をお持ちでしょうか?
生きている間にこのような時代(世界が民族や言語を超えて同時に同じ惨禍にある)と対峙することは、幸運にも(失礼)そうあることではありません。

▲よい経験を経て見えにくかったものが可視化し始めて来たと思っています。

●記憶を辿って質問に答えて頂き有難うございました。

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●インタビューを終わって
今回の会話を機にVanity Records(1978-1981)の『浄/DADA』を聴くと3作目以降のVanityの展開が全く想像できない。『ロック・マガジン』の変遷と共にVanityが作られたのだと改めて感じた。
小西君とは1983年に初めて会ったと記憶している。DADAの後の4-Dの頃だ。
さっき記憶の押入れから探し出してきた小西君のソノシート『4-D/After Dinner Party』(小西健司、成田忍、横川理彦、中垣和也)のジャケットを見ると1983年とある。special thanksに名前を入れてもらっていたので少し付き合いがあったのだ。佐藤薫の名前も確認できる。当時『ロック・マガジン』をやめて1年後くらいたったころに古川隆人さん(パニック商事のギターリストで1976年の万博公園「8.8 Rockday」に音源がある)のアパートに長期間居候していて色んな人に出会った。部屋にはKORGのシーケンサーやTEACの8トラック・オープンリールがあり、テープをセラミックで切り貼りして音楽を作っていた。1980年代前後の音響機器の革命はVanityインタビューで様々なミュージシャンが語っている。
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最後に、本インタビューについては東瀬戸悟氏にご協力頂きました。

阿木 譲とVanity

『阿木 譲とVanity』
テキスト:東瀬戸 悟

まず、1968年終わりに歌謡曲歌手を辞めてからVanity Records設立に至るまでの阿木譲の足跡をざっと辿ってみよう。1969年に大阪へ戻ってからは関西フォーク・シーンに関わり、1970年にシングル『生きてるだけのことなんだ / 俺らは悲しいウィークエンド・ヒッピー』を自主制作。1972年サンフランシスコ、1973年入間ヴィレッジでのレイドバックしたコミューン生活を経て、都会的でアンダーグラウンドなロックの世界へと足を踏み入れる。1974~75年にかけては、裸のラリーズ、クールスらのコンサート企画、ファッション・ブランド『I am a boy』立ち上げ、近畿放送のラジオ番組『Fuzz Box In』のDJも始める。1976年にロック・マガジンを創刊。そして1978年にVanity Records始動。1960〜70年代のポップ・カルチャーそのものが、現在と比較にならないほど目まぐるしいスピードで変容してきたとは言え、わずか10年でこれだけの転身を重ねてきたことに驚嘆する。

1977年7月に阿木は、ブルースとアメリカン・ロックが主流だった関西で、英欧プログレッシヴ・ロック/ハード・ロック志向のスタイルで活動していたグループ《飢餓同盟(後にDADAに発展)、天地創造(後にAIN SOPHと改名)、だててんりゅう、連続射殺魔、SAB、ヒロ・グループ》をピックアップし、NHKラジオ『若いこだま』で6夜に渡って放送(1977年8月8日〜13日)。この流れを受け、ロック・マガジン9号(1977年8月)に於いて『今まさにしっかりと感じとれる日本ロックの息吹き』と題した記事で、だててんりゅうと飢餓同盟を紹介。だててんりゅうのリーダー、隣雅夫のソロ・アルバム制作を皮切りにしたレコード・レーベル立ち上げを告知した。同誌11号(1977年12月)ではレーベル名『Vanity Records』を発表、初めての広告が掲載された。この広告で確認できるアーティスト・ラインナップは、飢餓同盟、AIN SOPH、だててんりゅう、隣雅夫、SAB、鵺(ぬえ)の6組だった。
阿木の所蔵カセット・テープの中から、隣雅夫のデモ録音と詳細不明のデュオ:鵺の『Electric Delirium』が発見されている。隣の作品は雅やかな和テイストが香るミニマル・シンセサイザー音楽で、ジャズロック的なサウンドを展開していた当時のだててんりゅうとは趣を異にする。鵺はエレクトロニクスとドラムのノイジーなインプロヴィゼイションで最初期クラフトワーク~ノイ!を荒々しくしたようなサウンドが興味深い。最終的に、デュオとなって間もないDADAを起用し、1978年4月19日に西天満スタジオ・サウンド・クリエイションで録音した『浄』がVanity第一弾として同年7月に発表された。

大半のVanity作品の録音とミックスを担ったスタジオ・サウンド・クリエイションは、1974年に桑名正博グループ、パフォーマンス(山本翔)、ユグダラジル(加賀テツヤ)、だるま食堂らを収録したコンピレーションLP『Introduction I』を自主制作。24ch機材を備え、ディランII、大塚まさじ、河内音頭の録音などを手掛けていた。エンジニアの奥直樹はNOMAL BRAIN:藤本由紀夫の先輩(大阪芸術大学・音響工学科)にあたり、AUNT SALLY、あがた森魚のアルバムではテープ・ループの編集も行っている。
レコードをプレスしたコジマ録音は1974年設立、現在も存続する老舗会社。自社レーベル『ALM Records』では、主に現代音楽(湯浅譲二、佐藤聡明、高橋悠治)、フリー・ジャズ(阿部薫、スティーヴ・レイシー、土取利行、吉沢元治)など、非商業的だが質の高いアルバムをリリース。外注のレコード・プレス会社として、ロック、フォーク、舞台音楽、民謡、80年代インディーズ・ブーム期の様々なレーベルに至るまで、多くのレコードを製造し、自主制作音楽のシーンを支えてきた。Vanityの盤面外周部分の刻印『LM』はコジマ録音のプレス品番である。
Vanity初期4枚(DADA、SAB、AUNT SALLY、TOLERANCE)のレーベル・ロゴ・マークは、スケルトン仕様のフィギア『変身サイボーグ』(タカラ)がモチーフで、ロック・マガジン2号(1976年5月)に掲載されたイーノやプログレッシヴ・ロックに関するテキスト『サイボーグ・ジャガー:半機械豹論』の世界観を受け継ぎつつ、オモチャ・コレクターだった阿木の趣味を反映するものだった。
1980年の7作目SYMPATHY NERVOUS以降は、版下編集の際に多用していたインスタントレタリング(レトラセット)の男性マークをそのまま使用。スマートで即物的なデザインに変化した。

阿木の一周忌にあたる2019年10月21日にリリースされた3種類のCDボックス、Musik 2CD (400部 Remodel03)、Vanity Tapes 6CD(300部 Remodel03)、Vanity Box 11CD (500部:黄色箱250部/ピンク箱250部 Remodel05) ついて説明しよう。これらは初めてVanityの全アルバム、シングル、コンピレーション、カセット・テープを集大成したもので、2011年7月にStudio Warp:中村泰之が、阿木への原盤権使用料、JASRACへの著作権使用料、スタジオでのリマスタリング、パッケージ印刷、CDプレス費用などを全額出資し、阿木の監修によって制作されたものだ。この際に阿木はアーティスト側への連絡を一切しないまま完成させ、発売告知を行ったため、アーティスト達の大半から抗議と発売差し止めの声が上がる事態となり、現物が既に出来上がっていたものの世に出せずお蔵入りとなってしまった。

雑誌の編集であれ、レコードの制作であれ、阿木は自分の直感でのみ反射的に動き、細かな確認や配慮を行わないまま突き進むことが多々あった。この点は本書の各アーティスト達のインタビュー発言からもうかがい知れるだろう。阿木の前のめりで強引なまでのダイナミックさがあればこそ、ロック・マガジンもVanityも特異な存在として際立っていたわけだが、常に卓越した先見の明と行動力を持ちながら、その性格ゆえビジネスとして成立出来なかったことは残念である。

阿木の死去後、Studio Warpは所在が判明しているアーティスト達に改めて連絡を取り、2011年から倉庫に眠ったままだったCDボックスの発売許諾を得るとともに、原盤権の譲渡とマスター・テープの返却を行って、8年越しでようやく日の目を見せることが出来た。元々の制作部数が少なかったこともあり、このボックスは予約のみで完売。半数以上はスイスWRWTFWW(We Release Whatever The Fuck We Want)によって海外配給された。

2011年制作のCDボックスは一般にほとんど行き渡らなかったため、2020年に入ってStudio Warp傘下Kyou Recordsは、原盤権を譲渡したアーティスト達から再び許諾を取り、新たに発掘された未発表音源も加えながら『Remodel』企画の下、ボックスあるいは単独CDで順次リリース。限定プレスではあるが以前より容易に全作品が聞ける状況が生まれた。

70年代末~80年代初頭のインダストリアル/エクスペリメンタル/ミニマル・シンセ音楽に関して世界有数のコレクターであり、マニアックな再発を数多く手掛けるドイツのフランク・マイヤーは、阿木の生前から自身が主宰する『Vinyl On Demand (VOD)』でVanityの再発をオファーしていた。80年代からVanityの諸作品は海外マニア間で人気があり、高値のプレミア・アイテムとして知られていたが、近年はインターネット経由でさらに情報が広まり、数種類の海賊盤LP/カセットが出廻ることになってしまい、正式再発が望まれていた。海外でVanityの再発を任せるにあたって、レーベルの方向性と質の高い仕事ぶりから考えてVODが最も相応しい存在であることに間違いはない。
VODは、2020年5月に2LP『Music』(500部限定)、6LP『The Limited Edition Vanity Records Box Set VAT 1-6』(500部限定:Vanity TapesのLP化)の2タイトル。2021年に4LP+7″『TOLERANCE』(800部限定)、5LP『Vanity Box I』(800部限定:R.N.A.ORGANISM、BGM、SYMPAHY NERVOUS、SAB、7”singles – SYMPATHY NERVOUS/MAD TEA PARTY/PERFECT MOTHER) 、4LP『Vanity Box II』(800部限定:DADA、あがた森魚、NORMAL BRAIN、R.N.A.ORGANISM – Unaffected Mixes)の3タイトルをリリース。AUNT SALLYを除くカタログがLPボックス化された。

1960年代初頭のアメリカン・ポップスに始まり、R&B、フォーク、プログレッシヴ・ロック、現代音楽、グラム、パンク、ニューウェイヴ、インダストリアル、ノイズ、アンビエント、ハウス、テクノ、Nu-jazz、『尖端音楽』と名付けて晩年に展開した暗く終末的な響きのエレクトロニック・ミュージックに至るまで、阿木は常に新しく発売されたばかりのレコードを買い続けながら終生流転していった。
「自分がつくったものにいつまでもこだわっていると、前に行けない。」と語っていた阿木にとっては、Vanityも一つの通過点にしか過ぎなかったのだろう。しかし、ここには次世代に聞き継がれてゆくに値する音楽が並んでいる。  (東瀬戸悟)

VANITY INTERVIEW
⑦ NORMAL BRAIN(藤本由紀夫)

VANITY INTERVIEW ⑦ NORMAL BRAIN(藤本由紀夫)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


「藤本由紀夫 at NEW PICNIC TIME」

『引算の音楽』

今回はNormal Brainの藤本由紀夫。メールではなくインタビューを行った。40年前に松岡正剛に取材して以来のことだ。神戸三宮に未だ残っているアールデコ調風情の古いビルにあるアトリエにお伺いした。藤本さんと本当の意味で話をしたのは初めてかもしれない。声をかけたのは学生時代に遡る。大阪北浜にあった三越百貨店の上階にある三越劇場でのことだった。そこではマルチメディアのイベントが開催されており映像と電子音楽が演奏されていた。なぜそこに行ったのか、なぜ終演後に声をかけたのか、全く記憶にない。それから数年後の1979年に『ロック・マガジン』の編集スタッフになっていた。Vanityからあがた森魚のLP(VANITY0005『乗物図鑑』 )をリリースするということで録音することになり、藤本さんにも声を掛けて編集室に来て頂いた。そこではアレンジを担当するSAB(VANITY0002『Crystallization )も同席し阿木さんと引き合わせることになった。阿木さんを紹介したことを本当はどのように思っておられたのかが気になっていたが、その辺の話も伺うことができた。さてカセットデッキではなくスマートフォンをタップ。
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藤本由紀夫の活動に関しては、こちらのホームページをアクセスして頂きたい。
経歴や過去の作品などもこちらから確認することができる。
http://shugoarts.com/news/17798/

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■藤本由紀夫(Normal Brain)
●嘉ノ海幹彦


「藤本由紀夫と志村哲 at NEW PICNIC TIME」
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《人が人を管理する社会について》

●現在情報処理会社で人事管理システムを導入する仕事をしているのですが、時代の移り変わりと人事制度の変化に興味があります。人事制度の変遷を簡単に俯瞰すると「年功序列」「終身雇用制」から1980年代以降は、「成果主義」による「年俸制」となり、成果や業績が評価対象となり、「目標管理」といわれる設定した目標の達成度による人事評価制度が導入されました。現在「タレントマネジメント」という管理方法では人材の個別要素を9つに細分化し(9ボックス)各要素に対して指標と個人スキルを比較したダイヤグラムを作成し「人材の適正配置」を確保しようとしています。世界的にみれば、1979年にイギリスの首相マーガレット・サッチャーが新自由主義を掲げた時から、規制緩和の名の下に人事制度や雇用契約も大きく変化しました。ちょうどイギリスのロックバンドCRASSが盛んに反サッチャーを歌っていたころです。その後、日本でも1986年に「労働者派遣法」が施行され、今では非正規雇用者が3倍以上に増加しています。
イギリスの自死した評論家マーク・フィッシャーが「資本主義リアリズム」(堀之内出版)の中で、1980年代に多かった分裂症に代表される精神疾患が2000年代に入ってくると逆に少なくなってきて、うつ病が多くなっているとあります。80年代サッチャーイズムの時代と今の時代の変遷がその違いに反映されていると。この傾向はますます顕著になってきています。彼は大学の教員をしていたわけですが、仕事上関係している企業の人事評価システムの一部を応用して学生を管理しているのでちょっとびっくりしました。教師はモジュール・リーダーとなって学生の評価を上げるように管理をしないといけない。半期ごとに目標を定めて成果を大学に報告することになる。そんな中で教師自身もうつ病になるということが多いとも記載していました。企業内で行われていることと多くの共通点があることに驚愕しました。
藤本さんは現在も京都芸術大学にお勤めですよね。日本の大学って今どうなんでしょうか。

■昔の大学のイメージはなくなっていて、僕なんかは50歳になってから教授で入ったからもうそのままやりたい放題です(笑)。
65歳で定年ですが、そのままの籍で京都芸術大学教授の肩書だけでいるんですが、7-8年前から大学院がメインになってからもう個人ですね。今は本当に学生を管理しなくなったんでありがたい。
全国の大学がそうですけど、どんどん締め付けが厳しくなって、90分授業で最初の何分で何をするとか。僕が居た情報デザイン学科が特別だったらしいです。僕なんかは全く言うこと聞かずに勝手にやってるから、何もいわれなかったんだけど。静かにしといてもらったらいいですよと、もう出来上がっちゃった人だからという感じで勝手にやってるんですね(笑)。

●藤本さんは昔からそんな感じですよね(笑)。

■でも今の授業を見てたら、ルールに従ってどう見てもいわゆる研修センターみたいなものですよね、おかしいのが授業内で成果を出さなきゃいけないということなんです。

●それはマーク・フィッシャーの話と同じですね。

■そのためなんですけど、教師同士がお互いに観察し合うというのがあるんですね。僕もそのやってる人の授業を見にいってびっくりしたんだけど、最初の10分でまずグループ分けをさせ、何かの課題を出すわけ。その後10分位それぞれの人たちが考えて成果を発表し合うんですけど、めちゃくちゃ短いんですよね。それと同じのを90分の中で2回やる。学生は従うわけですよね、今の学生は反抗しないから。やるんでけどテーマが出たのに対してグループでディスカッションして、でも10分で纏めないといけないから大したものは出来ないわけです。学生だってわかっているからこのテーマならどんなことを要求しているんだろうというのを纏めてグループリーダーが発表する。でも見ていたらあるグループが面白くなってきたみたいで、こんなことをやったらどうだろうみたいなことになって、これは面白くなるぞと思った時に先生が止めて、「はい次の課題にいきます」って(笑)。ここからなのになあと思っている時に(笑)。ちょっともうこれは駄目だなって(笑)。

●当然自己抑制をするわけだから、教師も精神疾患を患いますね。今後どうなるだろう。特にアートを扱っている大学でそのようなことが起こっているとは。。。

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《藤本由紀夫との出会い》

●今回は、一番初めに会ったときから話をしたいんですけど。出会いは、大阪北浜の三越劇場なんですよね。そこでは映像があって電子音響が流れていた。演奏の後に僕から声をかけたのが最初でした。どのようなイベントだったのですか?

■江並直美(現グラフィック・デザイナー、電子出版物プロデューサー)さんという当時大阪の高校生だったと思うけど、学校の中でかなり尖ったことをやっていて映像のイベントをやりたいけど音楽はわからないのでということで、彼らから接触してきたのが始まりでした。その江並さんと永原(康史)さんとも親しい関係だったと思います。その時の三越劇場のイベントで関わったんです。

●永原康史(現多摩美術大学教授)くんとは1979年『ロック・マガジン』主催のイベント「NEW PICNIC TIME」(大阪芸術センター)を一緒にやりましたね。そんな縁があったんですね。

■結局、イベントをやったのが原因だったのか高校を退学させられて、江並さんはそのまま東京行ってデザイナーになりスポーツ雑誌の『Number』とかのアートディレクターやったり、CD-ROMを使ってデジタル・コンテンツの先駆けみたいなことやって出世した人なんですよ。高校を中退しているのに東京大学に教えに行っているって話題になった(笑)。

●当時藤本さんは大阪芸大の助手でしたよね。なぜ三越劇場という映画上映を主としている会場でイベントすることになったのですか?

■三越劇場って面白かったですね。ディレクターがすごくってゴダールやタルコフスキーとかの映画を上映してましたね。彼らもそんな場所でマルチメディアをやりたくて、企画を持ち込んだらOKとなった。でも映像は作ってるけど音はよくわからないからということで接触してきたんですね。

●当時の見た時の印象は映像と電子音楽がマッチしていなくて、逆にそれが面白くて、終わってから声をかけたのではと思います。でもKORGとかコンパクトな電子機器はまだなかったですよね。機材はどうされたんですか?

■KORGとかの前ですよね。機材はその頃既に「維新派」(劇団「日本維新派」)と演ったんですけど、コンパクトなものはほとんどなかったから、大阪芸大の電子音楽スタジオからラックに入っている機材ごとハイエースに積み込んで、モニターとかスピーカーも持ち出して演奏したんです。当時は機材とかを使えるだけでも珍しかった。個人で持っている人は居なかったし。まだローランドが出してたものも高かったですし、その後にKORGがコンパクトなものを出してから急にみんな学生でも買えるようになった。本当に革命でした。電子音響の機材で音が出るっていうだけでみんなびっくりしたんですね。

●不思議なことにローランドは大阪の会社だったし、KORGは京王技術研究所なんで東京かな。カシオは京都だし関西が多かった。

■KORGは未だに面白い会社ですね。音響機器ではソニーとかはオーソドックスなローランドみたいな会社だけど、それに対してアイワっていうメーカーはKORG的な位置づけで、1977-78年にウォークマンが発売された時にソニーは再生専用だったけど、その後でアイワが「カセットボーイ」っていう小さいのを出すんだけど、それはコンパクトなのに録音ができる機能が付いていたんです。これだっていうことになった。録音ができなかったら意味がないだろうということですね。しかしソニーは録音できるのは出さないですよね。聴きながら歩くっていうコンセプトだから。

●なるほど。

■それに対してアイワはやっぱり使えるので、やってくれたなあという感じがして、KORGもそういうところがあるんですよね。コストは低くするんだけどマニアが使える機能を盛り込む。だから簡単に扱える音響機器が出て世界全体が変わったんじゃないですか。あっという間に。

●今Vanity Recordsからリリースした80年前後の人たちとメールでやり取りするんですけども、やっぱり何人かは録音するにしてもTEACの4チャンネルが出たりとか機材が安価に手に入ったりして画期的だったと語ってますね。自分ひとりで音楽が作れると。

■カセットのマルチトラックレコーダーが出たのも大きかったです。それまではオープンリールでマルチトラックとなると持ち運び出来ないから、持って行けてマルチトラックで出来るっていうのがすごかったですよね。

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《万博と反博とシュトックハウゼンと電子音楽の限界》

●もう少し時間を戻したいんですけど、藤本さんは50年生まれですね。僕が54年生まれなんで4年違うんです。僕らの世代から見ると4年違うと相当違う感じがするんですが、高校1年生の時に大阪万博があったんです。中学生の時から上浪渡のNHK-FM「現代の音楽」と小泉文夫の「世界の民族音楽」を聴いていたんです。その番組で紹介されていた作曲家が万博で登場したという衝撃的な体験がありました。回数券を購入して何回も行きました。藤本さんは?

■僕、行ってないんですよ。

●えっ、そうなんですか。今日はその話を聞こうと思っていたんですが(驚)。

■反博だったんですよ(笑)、立場として。当時は万博に参加したアーティストっていうだけですぐ全共闘(美共闘=美術家共闘会議)から攻撃されたんです。ほんとにあの資本主義に負けた野郎達みたいな(笑)。

●20才位の時に、工作舎で紹介してもらった藤本さん世代の音楽家沼澤慧さんと万博の話をしたらやっぱり「僕は反博だったんで行ってないです。」っておっしゃってました(笑)。その時には万博に関して驚きの方が大きかったんでよくわからなかったんですが、例えばE.A.T.(Experiments in Art and Technology)とか後で何だったのかを理解したという感じです。その後大阪にカールハインツ・シュトックハウゼンが来て淀屋橋のフェスティバルホールで「シリウス」の上演を見に行ったりしました。

■その時にはシュトックハウゼンはもう直観音楽になっていたんですね。だからもう何っていう感じで、シュトックハウゼンは70年には電子音楽に未来はないってわかってたんですよね。でも既に電子音楽の権威として祭り上げられていたからね。

●帝王みたいな感じになったんですね。

■シュトックハウゼンはケルンの電子音楽スタジオを始めて数年間で電子音楽がどっちみちダメだってわかったみたいです。サインウエーブでの合成で作れるなんて数が100や200重ねたところでできないってすぐわかったみたいで。ほんとに当時は情報こなかったので後になってやっぱりそうだったのかって。

●藤本さんがやっぱりそうだったのかっていうのは?

■僕はまだ電子音楽を信じていたんですよね。万博のスローガンだった科学と技術が未来をつくるっていうのを。だから電子音楽が合成で全ての音が作れてコントロールもできるので未来の音楽はこうなるだろうと思ってたんですけど。

●だから大学もそっちの方面へ行かれたんですよね。

■そうですね。大阪芸大には、NHKと同じ電子音楽スタジオがあって技術のトップだった塩谷宏(元NHK電子音楽スタジオのエンジニア)が教授で来て、上波渡(元NHK電子音楽スタジオのプロデューサー)も集中講義で来ていたんです。年4回ぐらい来て毎回NHKに届いたレコードやテープを聴かせるだけっていうことをしていた、1日にせいぜい3枚位かけて「聴かなきゃ始まらないから」って必ず言うんですよ。当時はまだ発売されてないNHKに届いたものを持ってきてくれるんですが、僕らは聴いてもなんだろうって、ちょっとタイトルが書いてるだけで解説をしてくれなかった。それが一番印象に残っている。もっとすごかったのがその塩谷教授。シュトックハウゼンにドイツに来いって言われたような人なんだけど。電子音楽スタジオの使い方を一切教えてくれなかった。職人ですよ。見て盗めって。もう最初は録音するのに20キロ位のテープレコーダーを地下鉄で持って移動するとかね。そういうのを今となってはそれがよかったと思うんだけど、僕も多分その教授も電子音楽というのが賞味期限が切れてるってわかってたと思うんです。だからそれを教えても多分将来のためには?というのがわかってたんだなっていうのがありました。

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「藤本由紀夫と志村哲 at NEW PICNIC TIME 1979年12月 於:大阪芸術センター」

《Normal Brain前史》

●その時は電子音楽に未来のないことを気付かれて次の展開として何を考えていたんですか?具体的には?

■その前に、大学では自分で様々な音を出せるし、設備もあったしね。学科には5-6人学生がいたけど、他の人はそんなに興味がない人来てたから、スタジオは使い放題で勝手にやるのは全然問題なくて、どんどん機材使ってたら面白くてね。最初は色々変えると波の音ができたり、ピアノらしい音ができたり。
でもやってるうちになんか変だなと思いだして、それを打開するやり方として音を足していった。最初は一つしか音出してないから、つまんないんでもう一つ音を足していく。典型的なのが音量を上げていくとか。結局そういう考えにとらわれていって、どんどん色んな音を積み重ねるとか、物理的にもスピーカーを8つとか積み上げて、その方法はプラスプラスだからノイズに行くわけですよ。ホワイトノイズがいいなあとなって(笑)、しかも1日中スタジオに篭っているからランナーズハイ状態になるんですよ。でもその時はいいんだけど、また次回に同じ事をやると満足できないんですね。慣れてきてどれだけたくさんやっても2回目って全然刺激がなくなって、3回目にはどんどん対数的にテンションが落ちていく。そうなると今度は音量を上げていくわけですよ。と次はどうなるかっていうとやばかったのが、スタジオで1人でスピーカーを10何個か積み上げて音量を上げたらロッカーの壁とかそのうち蛍光灯とか震え出して、そんな状態までいったんです。
そのうちに体がおかしくなって家に帰っても眠れないし。だけど体は動かしていないので肉体的な疲れはないんですよ。感覚だけは鋭いんです、音を浴びすぎて。へとへとでこのままでいくとダメになるなと思いました。そう思ったのが70年代の半ば。だから今でも音楽でアンバランスになる人は多いですよね。ドラッグと同じで刺激が目的になってしまう。
もう一つすごく大きなきっかけは、合成音っていくら種類が出来ても全部同じ音に聴こえるんですよ。よく考えたら合成してたって目の前のスピーカーの音しか聴いてないわけですよ。風の音だって本当の風の音ではないし、波の音だって波の音じゃない。楽器の音だって楽器の音じゃない。同じスピーカーから出てる全部同じ音だなあと思った。その経験があったんでいくら音を重ねたって最後はスピーカーからの振動音になってしまう。じゃあ何が出来るんだろうと思ったら何も出来ないなあと思った。大学4年間いてそのまま残って何年かスタジオにいてどんどん可能性ないなぁっていうのを実感してた。

●なるほど、そのことを実感というか体感したんですね。

■それと共に70年代POPSの音楽は60年代のイギリスのプログレッシヴ・ロックからアメリカのウエストコーストになったんで、積み重ねていく音楽がどんどん職人的な方向に広がっていって、そっちの方も全く共感できずにいた。所謂現代音楽は壊滅的な状況にあったんで、何も出てこなかったから本当に何もなくなった。
その中で今でも思うけど、すごかったのがクラスターの「Zuckerzeit」(1974年)を聴いた時にリズムがずれまくりながら音出して、単におもちゃ箱をひっくり返したみたいになっている。こんなにいい加減でいいんだっていうのがショックだった。

それまでのドイツの音楽ってきっちり作っているイメージがあったんですよね。こんな音楽の作り方があるんだと思っていて、止めを刺されたのがデビッド・ボウイの「LOW」(1977年ブライアン・イーノとの共作)を聴いた時だったんです。それまでのLPはA面B面があってその中でどれだけの世界を作り上げられるかというものでしたよね。デビッド・ボウイももちろんそうだったんだけど、「LOW」を聴いたときに、全部デモテープみたいでいきなり1分位で切れるとか、ドイツで作っているとか知らなくて本当にびっくりした。またセックス・ピストルズの音数の少なさが対位法的だなあと思って。つまり、ビートルズもそうだけど和声的な厚みで音楽を作るのが多かった中で、クラスターもそうだけど、結局対位法ですよ。旋律だけ重ねていくだけで中身はスカスカでちゃんと音楽作品を作ってる。はじめはセックス・ピストルズってパンクロックだって思わなかった。シャレてるというかこんな音数が少なくてもちゃんと音楽になっている。「LOW」に似ているなあと思った記憶がある。この程度だったら自分で作れるんじゃないかと思ったんです。音の厚みで重ねるんじゃなくて、削りっぱなしでいけるんじゃないかと。ちょうどそういう気持ちとそのままポンと投げ出しただけでもいける音楽っていいなぁと思ったのとウォークマンが出てきたり、カセットのマルチトラックが出てきたりしてね。また僕にとって大きかったのは電池式のスピーカーが出てきたことだった。これがあれば自分の家でも全部スタジオができちゃう、カセットマルチでね。その後KORGが出てきた。モニターも電池の小さいのが出てきてスピーカーとかも机の上に準備して、ちょっとそれで何か作ってみようっていうのが70年代の後半からですね。またやりだしたら、子供の時にそのテープレコーダーで遊んでたと同じような感覚が蘇った。止め刺されたのはKORG MS-20シンセサイザーとSQ-10のシーケンサーのセットですね。購入したら机の上に完全にシンセサイザースタジオが完成できちゃう(笑)。

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《あがた森魚「乗物図鑑」への参加》

●その時期ってちょうどあがた森魚「乗物図鑑」の頃ですよね。1979年の秋に録音したんですよ。あの時はじめてSABとあがたさんに会ったんですけど、その時に藤本さんに「乗物図鑑」制作に是非参加して欲しいって声を掛けたんです。今のお話を聞いてスタジオで藤本さんが「クラフトワークってすごいですよね、あんな機材を持っているのに、あそこまで単純化して音楽を作っている」っていってた意味がわかりましたし、繋がりました。

■確か、あがた森魚でアルバムを作るコンセプトはパンクと現代音楽って言ってませんでしたっけ(笑)。
それで呼ばれていきなり会わされたような(笑)。編集室の近くのヒュー(Phew)の部屋があがたさんとSABの合宿場所みたいになって。だからその時に阿木さんともはじめて会いました。

●「乗物図鑑」の録音が終わってからしばらくして「NEW PICNIC TIME」(1979年12月)に藤本由紀夫で出演して頂いたと思います。時系列的には「乗物図鑑」リリースの前でしたね。でも「NEW PICNIC TIME」の演奏形式はNormal Brainだったですね。その時の写真が残っていてびっくりしました。

■「乗物図鑑」レコーディングの時、あがたさんは困っていたんですよね。SABはノリノリであがたさんはちょっと違うなあという感じでやってたんだけど、僕はそばにいてこれで本当に出来るのかなあと思っていた。途中であがたさんはスタジオから逃げ出しちゃって古本屋で稲垣足穂の新潮文庫の「一千一秒物語」を買ってきて「僕は古本屋でこの本を見るとかわいそうで買わずにはいられない。もう何冊も買っているんですよ」という話をしてたんで「僕は稲垣足穂の録音を持っていますよ」といってやっとあがたさんと話が出来るようになった。ヒューが帰ってきてその時に「僕はブライアン・イーノが好きで」といったら「イーノなんかよりデヴィッド・カニンガムの方がずっと上よ」ってフライング・リザーズを聴かせてくれたんですよ。「なるほどクラスターみたいだ」と思いました(笑)。それがきっかけで仲良くなりました。何日か経って部屋に見知らぬ人がいて、それが鈴木創士(仏文学者、EP-4)でフランスから帰ってきたばかりだった。そんな感じで行く度にいろんなことが起きて面白かった。
でもレコーディングはうまくいってなくて、SABがプログレまがいのアレンジばっかりやって、あがたさんは自分の中にイメージないっていってて、阿木さんもなんかイライラして一緒に録音してて、最後はこれでいくかみたいな、もうしょうがないからってなった時に、阿木さんが急に僕に向かって「ちょっと一緒に編集室に来てくれる」っていわれたんですよ。
着いたらいきなり「今のアレだけど」って、どう思うとかも聞かれなくて、「わかってるよね。これじゃダメでしょ」という感じだった。そうしたら阿木さんはいきなりテレックスのレコード出してきて聴きながら「これで行きましょう」、「いいですよ」、「自作した電子音があるから」、「じゃそれをのせよう」とか30分くらいでどんどん決まっていって。次っていうのでジョイ・ディヴィジョンが出てきて、「これいいですね」って(笑)。僕もそういうのは全く抵抗ないから、むしろ変にアレンジしてやるよりはこのまま取った方が格好いいと思った。その時にはさすが阿木譲と思ったんだけど、あがた森魚にはこれが合うとか非常に的確なんですよ。僕もテレックス聞いたのは初めてだったんだけどあがた森魚に合うなあと思った。じゃ僕も稲垣足穂の声(瀬戸内晴美との対談での飛行機のエンジン音のモノマネ)をここに入れてとか。POPなやつはそれで決まって、コンテンポラリーなものはループで重ねたらって話になって、その1時間くらいで決まったんです。決まったことはSABは全く知らないんですよ。だからどうやるんだろうと思ったら阿木さんはSABを外して一演奏家にしてしまって、これでいくってなった。僕はテレックスのシーケンスを全部作って入れ直して録音したんですよ。あの時レコーディングした「スタジオ・サウンド・クリエイション」のミキサーをしていたのが奥(直樹)さんで大阪芸大の先輩だったんです。よく知っているからやり易くってループの曲も一緒に作ろうという感じで大学でやってたのと同じようにテープを切って作ってスムーズに出来たんですよね。びっくりしたんだけど本当に一日で作れるんだというのを見た。あれは阿木譲のすごいところだと思いますよ。本人には具体的なテクニックはないわけですよね。でもレコードとかこの感じとか頭の中に全部あるから、この場合はこうという感じでまさにディレクター、今でいうサンプリングをちゃんとして今のDJですよね。それで結局あがたさんも乗っちゃって、はっぴいえんどとかはちみつぱいとかと作っていたレコーディングとは全く違うやり方でびっくりしてたと思う。
その後アルバムが出てから、あがたさんのライブへ行ったりして今も仲良くしているんだけど。あがたさんは録音が終わった後に「僕はこれでいく。今までのじっくり作っていたのはもうやらない」と言ってたし、あがたさんにとってもそれまでの方法から切り替わったんじゃないかと思います。

●あがたさんにとって「乗物図鑑」は今までのやり方から新たな方向へと行くものであったんですね。
藤本さんは録音に参加して、どうでしたか?

■僕なんかPOPSの世界は全く知らなかったんで、本当に面白いと思ったんですよ。阿木譲が面白いと思ったんです、こんな人がいるんだって。いわゆる叩き上げのミュージシャンじゃない、全然違うやり方によって音楽で自分の世界を作る人がいるというのが面白いと思いましたね。

●僕はスタジオ行ったり、ヒューの家に行ったりしましたけど、編集もあるし、本当にテンパッてたから今色々思い出しました(笑)。ところで『ロック・マガジン』とかは読んでいましたか?

■阿木信者はみんな大変だったと思いますよ。後から考えたらオウム真理教みたいでしたね。高嶋(清俊:写真家)さんとか永原さんとかは、阿木さんと知り合う前に知ってたんですよね。『ロック・マガジン』はそれまで読んだ記憶はないですね。高嶋さんの写真や永原さんのフロッタージュを載せる雑誌なんだくらいの印象でしたね。

●『ロック・マガジン』についてはブライアン・イーノが表紙のA4サイズくらいからの関わりなんですが、特にここに持ってきている中表紙がベーラ・バルトークの特集「MUSICA VIVA」なんですけど、西洋音楽のが今のパンクミュージックにまで流れている時代精神がそれぞれの時代と拮抗しながら地下水脈のように流れているというコンセプトのもとに編集された本です。ちょうど先ほどの藤本さんのお話に出てきたケルン音楽スタジオも入っていますが。

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「藤本由紀夫と志村哲 at NEW PICNIC TIME」

《Normal Brainとは?》

●前フリが長かったですが、ここからNormal Brainに移ります(笑)。あがたさんの録音が終わって、その流れでVanityからNormal Brainをという話になったんですか?

■最初はソノシートですよ。『ロック・マガジン』の付録につけるので何か曲はないか、ということでした。ソノシートっていいなあと思ったんですよ。ちゃんとした音源にする必要もないので、マルチカセットとか持ってた機材を繋いでテレビからの音源を入れてカットしてとかシーケンサーでとか家の中で録りっ放しの「LOW」みたいな感じで。最初は1曲だけでよかったんですけど、それでいっぱい作ったから何本かカセットテープを渡したんですよ。そしたら阿木さんからLPを作らないかと言われたんです。こういうのでいいんだ、面白いと思って作ることになったんで、LPを出したいとか特別に何の考えもなかったし、面白いと思って家でいろんな方法で何本か作っただけでした。

●カセットに曲を入れてた段階でNormal Brainっていう名前はついていたんですか?

■既にNormal Brainという名前は付いてました。回りでも70年代からバンドやってる子が多かったんですね。プロになってる子もいて、それを見てて結局最後は解散したりとか分裂したりとか、バンドだと人間関係がめんどくさいなあと思ってた。かといって個人だと自由に出来にくいからなんかないかなあと考えてグループ名みたいなものだと何をやるにもやり易そうだと思ってつけたんですよ。まだ大学にも残っていたし現代音楽だと個人ということになるしね。それでバンドじゃなくてユニットにしたらどうかと考えて名前だけ付けといたら一人でもいけるし、その時だけ誰か入ってもいけるし、名前だけ付けたんですよね。Normal Brainだったら映像だけでもなんでもいけるんじゃないかと。それだけのためだったんですよ。だから所謂バンド名ではない。
その後レコーディングして中のスリーブのデザインとかも出来ていたけれど、レコーディングの終わりに阿木さんと喧嘩して結局全部ストップしてしまったんですよ。

●そうでしたか。

■だからその後にVanityからリリースされたLPに入っている曲名が違うんです。先日スイスからリリースした時に直したんですよ。(2019 reissue by WRWTFWW Records) 「Tomorrow never knows」っていう曲があるんだけど、フライング・リザーズみたいにやっているんで著作権に引っ掛かっていたかも(笑)。作ったけど僕も出したいって強く思っていたわけでもなかったので、アルバムに入れる入れないって、お互い引かなかったから、なかったことにするとか、もういいやっとなってほっといたんです。そしたら1年ぐらいしてから阿木さんから出そうと連絡があった。その時は最初のレコーディングした曲に満足してなかったから、自分の作っていた曲に差し替えたんです。そのことに関しては阿木さんは全く興味を示していなくって準備していたので、何でもいいから出せればいいって感じだったのかも知れない。
音源を自分で作って持っていって、それを元にレコードは出たんだけど、中のスリーブのデザインとかは最初にレコーディングしてた時に頼んでいたので、そのままチェックなしでいきなり出ちゃった。ということで曲名も違うままリリースされたんです。その後、『ロック・マガジン』の事務所で出来たアルバム3枚もらっただけという記憶がある。そういう経緯なんですよ。

●『Ready Made/Normal Brain』がリリースされたのが1980年10月なんですよね。

■僕があせっていたのは、Speak & Spell(Texas Instruments)をボーカルにした曲(「MUSIC」など)があるでしょ。これは面白いと思ってやってたけど、絶対クラフトワークが使うぞと思ってたんですよ。クラフトワークが使っているのが出てからだとやばいなあと思ってたんで。だから出来上がってから1年くらいが一番やばいと思っていたんですよ。でもこれがリリースされた後に「電卓」(1981年コンピューター・ワールド)とか出たんだけど本当に心配した。彼らが使わない訳がないと思ってた(笑)。阿木さんにはそんな意識は一切なかったですが(笑)。

●ジャケット・デザインは阿木さんですよね。スリーブのところに5ミリくらいの細長い穴が縦に空いているでしょ。あれは製本屋さんでの手作業ですよ。僕らは現場でお願いしました。ジャケットを糊で張り合わせたり箱を作ったりしました。結構大変でした。本の表紙に穴をあけるのも手作業に近いですしね。『ロック・マガジン』がB5サイズの頃で、セクション毎に紙も違うし色も違うし、製本屋さんも紙が違うから大変でしたけど、「こんなのは出来ない、出来てもとんでもなく手間が掛かる。仕事じゃない。費用が合わない。」っていうこところを何とかお願いして印刷してもらいましたが、インクの濃度も輪転機の速度も圧力も全部都度調整する必要があり、僕らも印刷をしている間はずっと立ち会いましたが、輪転機に紙がまき付いてその度に剥がして洗ってインクをのせてと大変でした。

■だからいいんですよ。阿木さんのすばらしい所だと思います。全て手作りで拘りたい。この色違いの本は工作舎の「遊」からでしょ。「遊」はスポンサーからたまたま余った紙をもらって印刷してたけど、阿木さんはわざわざ違う紙でしかも質が違う紙を選んで手間を掛けて本にしているわけだからすごい。「乗物図鑑」のテレックスも同じですよね。だから単なるコピーじゃないんですよ。そこの違いは大きいですね。そこの魅力はありますね。

●阿木さんは盗んでくるのが上手な人なんですね。だから『ロック・マガジン』の初期のものと僕らが関わった後のものは全然違いますね。後で見ると戸田ツトムや杉浦康平のブックデザインからの影響もあるけど、コピーじゃないし、全く違うように書き換えるデザインセンスはすばらしいと思います。
でも印刷屋さんとか製本屋さんとか実際の現場には来なかったですよ、いつも僕等だけ(笑)。

●話はNormal Brainに戻しますが、リリースした後にライブとかは?

■70年代にやっていたのはフリー・ミュージックみたいなもので、リリースした後は確か『ロック・マガジン』主催で、大阪四ツ橋の「パームス」と京都河原町の「クラブ・モダーン」(佐藤薫主宰)でライブしましたね。レコードと同じように演奏するためにMS-20を持っていったんですよ。シーケンサーも全部。2ステージやるんですね。部屋でやる分には問題ないんだけど、ライブハウスのリハでセッティングして上手くいっても、アナログだから本番で照明が点いたら電圧がどーんと落ちて一曲目で音程が全部くるっちゃう(笑)。今となっては逆に面白かったと思うんだけど、1曲目から全部シーケンスが狂っていて、その時は直せないですよ。打ち込んで何とか2回目は上手くいったんだけど、それはいやだなあと思って。面白いとも思わなかったし。
その中で増えてきたのがカセットボーイとかマルチのカセットデッキですね。全部電池で作動するので、友達のギャラリーでのオープニングに呼ばれてテーブルの上に全部セッティングしたらライブが出来てしまう。音は小さいけど、そのまま自由にできるから面白くなって80年代にはそっちの方に興味が出てきました。

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「藤本由紀夫と鳥居愛優美 1980年2月」

《Normal Brain以降》

●当時はギャラリーで演奏したり音を出したりってあんまりなかったんじゃないですか?

■あったとしてもギター・アンプとか置いたら展覧会の邪魔になるので、楽器一本でやるとか舞踏と一緒にやるとかが多かったですね。それに対して電子的なのは机の上に置いてできるし演奏して終わったらさっと片付けられ、すぐパーティに移れる。そうなると一人で全部出来ちゃうから複数人は必要ないんですね。
その頃に「Für Augen und Ohren」(目と耳のために)という本を見つけて。これはワタリウム美術館の前身のギャラリーワタリの本屋で見つけた展覧会の図録で、電子音響機器の歴史や、20世紀の音をテーマとしたアートやフルクサスとかの歴史も載っている。
その頃にテーブルで出来るのはいいんだけど、配線はぐちゃぐちゃになるし、終わったら組みなおさないといけないし、電池代がもう馬鹿にならない位の数で、そっちの経費が大変だからもっとシンプルにテーブルの上だけで出来ないかと考えててこの本を見つけたんです。それでオブジェにしたらいいのかっていうのを見つけてはじめて納得できて。この本はちゃんとしててエリック・サティとかも掲載されているんです。全部ドイツ語のみのテキストですけど、この中にアタナシウス・キルヒャー(17世紀のドイツの学者でありイエズス会司祭)のイラストが載っていてびっくりしたんです。この本には「機械音楽の歴史」の章もあり、彼は17世紀に自動演奏楽器の研究をやってたんです。(興味がある読者は「Fur_Augen_und_Ohren_1980」を参照)
これも自動演奏楽器だけど牛の首の上に水槽があって、そこに水を掛けると重みで牛が息を吐き出してバグパイプに送られて、回転するオルゴールに連動しメロディーを演奏するというバイオテクノロジーですよね、今でいう。これがきっかけでアタナシウス・キルヒャーを調べ出した。だからイラストの力はすごいなあと思います。

「アタナシウス・キルヒャーの自動演奏楽器 Fur_Augen_und_Ohren_1980」

●そんなことを考えておられたんですね。

■ええ、80年代に入ってからはオブジェの方に興味を持って進んだので、LP出したっていっても1年以上遅れているし、僕の中で音楽に関してはLPというアルバムを出すこと自体がダサいと思っていたんですね。それを家でじっくり聴くなんて文化自体がおかしいと思っていましたね。
実はNormal Brainのアルバムを出すときに、阿木さんに言ったのは「ソノシートでやりたい、アルバムだからソノシート10枚組みくらいで一枚づつハムのパックみたいにして出したい。聴いたら後はゴミ箱に捨てる感じでやりたい」といったら阿木さんに怒られて「藤本君、音楽はそういうもんじゃないんだよ。アルバムは大切に作って大切に聴くものだよ」といわれて完璧に拒否されましたね(笑)。使い捨てソノシートは面白いじゃないかとハムみたいで。でも全く聞き入れられなかった。それからレコード出したときに阿木さんと会って、その後は数年間会ってなかった。
80年代の半ばになって東瀬戸(悟:現フォーエヴァー・レコード)さんが勤めていた「LPコーナー」で「藤本さん、またテクノがはやって来ましたよ」っていうんですね、それがハウスだった。見せてもらったらジャケットがノーデザインでハンコだけ押してあってラベルも真っ白でしたね。「彼らにとっては踊るだけの音楽なんで、作って1回クラブで掛けたらすぐ捨てるんですよ」って言うので、あっ、僕が考えてたやつだと思った(笑)。踊るためだけなんで、リズムパターンだけのものとか(笑)。

●ありました。レコード盤に線が3本とか、リズムパターンが違うのがループになっているのとか(笑)。

■だから誰が作ったかなんて関係ないんですよね。踊るためだけのものだから。毎週踊りに行ったときに新しい音が鳴ってたらいいんですよ、って東瀬戸さんが言ってました。だから1週間したらゴミ箱に入れるみたいなね。面白いと思って買ってたら、そんなハウスの情報が阿木さんにも伝わったみたいで。僕は86年に大阪のノースフォートというギャラリーで初めてオルゴールの作品を出して、どんどんギャラリーでやりだした頃に阿木さんも大阪のギャラリーを回ってたみたいなんですよ。友達が「阿木さんが来てサングラスを掛けたまま観て帰りました(笑)」って。

●『EGO』の編集していた頃ですね。

■僕は「箱庭の音楽」という原稿書きました。アメリカ村のカフェで会ったんですよ。随分おとなしくなってましたね。3冊くらい持ってきてその中の1冊が段ボールみたいな表紙の本で、その次の号に載せる原稿を頼まれました。その時に表紙のシールが微妙にずれているのを阿木さんが気にして直そうとしていて、ほんのちょっとなんだけどね(笑)。この人は本当に本が好きなんだなあと思いました。
その時に「藤本くんも頑張ってるよねー」とか言われて「アートを中心にやり出してるんで」っていったら「いろいろがんばっているけど何か足りないね、音楽かなあ」って言われて(笑)、可愛らしい人だなあと思いました。何か言ってやろうという感じがね(笑)。

●そういう言い方は阿木さんらしいですね(笑)。

■ソノシートはダメっていいながら、シャール・プラッテン・ノイではあんなレコードばっかりを扱いだしたのに(笑)。そんなのダメだったっていってた人が(笑)。
阿木さんとはその原稿を書いた後はほとんど接点がなかったんだけどクラブを始めてましたね。知り合いの若いDJとかは阿木さんのところでやれるというのがステイタスになってました。それは伝説になっているんですが、阿木さんがダンスフロアでDJをやり始めた頃で、曲が終わると無音で一回止めてレコードを掛け直して、その間は音が消えるんですよね(笑)。繋げないのがすごいって話になってて、ダンスフロアで沈黙が訪れるっていう伝説になってましたね。お客さんは踊りに来ているのに(笑)。阿木さんとしてはレコードを一枚聴かせようとしたのかも知れないけですけどね(笑)。
別の機会に行ったら、店が閉まってから夜中にドンドンって音がしてヤクザの借金取りが来て、相変わらず綱渡りでやってるんだなあと思いました。それが阿木さんと会った最後かなあ。90年代初めくらいですかね。クラブジャズとかいってるのは周りから聞いたけどピンとこなくて。

●『infra』とか『bit』の頃ですね。単にタワーレコードで配布しているような情報誌って感じになってましたね。阿木さんが作ってたから買ってましたけどね。僕は阿木さんが亡くなる1年位前に会いました。「元気か」って感じで周りの人を紹介してくれましたけど、昔のような元気はなかったですね。

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《「時代」との関わり ケージの今日的意味の一端》

●少し「時代精神」ということについて話をしたいのですが。

■汽車が走るとか活版印刷ができるとか、それだけで思想も変わりますよね。時代が変わるってそういうものだと思います。グーテンベルグも手書きが効率悪いから手抜きで作っただけですよね。それがプロテスタントを生み、革命を起こしたんですから。階級制度も変える。

●まさしくそうなんですよ。社会が変わって時代が変わる。例えばヴァルター・ベンヤミンが「ボードレール論」の中で書いているように、この神戸でもありますけど、パリでアーケードが出来て都市生活者が出てくることで殺人が起こり探偵小説が生まれる。音楽も大きく影響を受けるわけですよね。先ほどのカセットテープレコーダーも同じだと思うんです。
そこで現在新型コロナパンデミックの社会に生きているわけですが、「時代精神」とまでいわなくても、歴史的なものをどのように表現するか、音楽は聴いてああいいなあという時代ではないんだろうと思うわけです。
そうなると歴史性の中の音楽とは何か、時代との接点を僕らは見たり聴き取ったりするわけですよね。
藤本さんが先ほど言われた昔にやっていたことと今やっていることは違いませんよ、というのと時代とは関係ありませんというのは違うと思うんです。

■でも僕は時代を表現するつもりはないんです。今まで色々やってると時代と合っている時もあるし、ズレている時もあるわけですよ。今の時代はズレていると思っている。今やっていることはトレンドでもないし、時代が変わったから表現を変えなければいけないわけではない。合う場合と合わない場合があり、それが大事だと思う。逆にわかるんだけど、ポスト・コロナとかいっている人は、ダメだなあと思うし、時代をちゃんと見てないと思います。マクルーハンがいっているようにメディアが代わったからといって昔の状態を新しいメディアに注ごうとするのは間違いだっていうことでしょう。だからどうするかという問題でしょうね。ひとつはアナーキーだと思うんですよね。今後はこれしかない、ケージの発想に似ているんだけど、コントロールしないという方法。でも大きくはコントロールするんですよね。チャンス・オペレーションってそういう意味なんですよね、オペレーションって入っているから、偶然のシステムを使ってコントロールする。偶然というのを受け入れるというのが大事だけど、今の時代はそれを受け入れないでしょう。政治でもどうなるかわからないものは絶対に受け入れないですよね。さっき言った大学の授業も同じだけど、わからなくなるのはダメだとか。成果じゃないけど成果主義ですよ。

●企業でも一緒ですよ。どんなリスクがあってちゃんとリスクヘッジしているか、エビデンス(証跡)はあるか、コンプライアンスはどうか、いつも問われますから。

■音楽はますますそうなると思うんですよ。出来上がったものを聴く時代じゃない、そんなものはいらないんじゃないかと思うんです。

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《家具の音楽 今の時代に考えること》

■ところで、今このアトリエでは10数箇所から音を出してるんですけど。全然気にならないと思うんです。このままでも普通にこの音楽を聴きますしね。

●気が付かなかったです。というかさっきこの部屋に入った瞬間、音が鳴ってるって感じたんですけど、藤本さんに声を掛けてから忘れてました(笑)。

■それって勝手にやらしておく訳ですよ。

●それって丸っきり「家具の音楽」ですね。

■そうなんです。でもそこから自分で聴く。だからAMAZONと一緒ですよ。自分で見繕って、それが届くみたいなものですよ。中には必要がないものも買ってしまうとか、生活の中に入ってますよね。それは今の時代だからこそできることだろうから、そこに何とか関わってみるのは面白いと思うけど、今の状況だからなんとか前の状態を復活させようとかはダメでしょうね。だからライブハウスがネット配信でお金をとってますけど、それはライブハウスじゃない。配信だったらやらないほうがいいのになんで古い形にこだわるのかと思います。さっきのソノシートのことで阿木さんが拘ったのと変わりがない(笑)。時代は何年か経ったら捨てる時代になったわけですから。だからいつの時代でも成り立つわけではないですよね。今の時代だから成り立つものはあると思う。さっき出たウォークマンがあるから成り立つとかもあるので、主義主張じゃない。だから音楽はもっと可能性がある。本当にそれをやろうとしたのが70年の万博だったと思うんですけど。

●でも藤本さんは「反博」だったわけでしょ(笑)。

■だから万博はやれてなくて、後になって気付いたら電子音楽の墓場だったっていうことですよ。あそこが電子音楽のピークで後は下り坂だったというのは、当時の人はその真っ只中に居たのでわからなかったんですよ。歴史が証明したと。だからといって電子音楽がなくなる訳じゃなく次のスタイルでパンクとかその精神は出てくる訳だから。

●先ほど見せていただいた17世紀のキルヒャーですけど、その精神が藤本さんの中に入って、そのままではなく違うものとして出てくるわけですよね。

■キルヒャーはライプニッツとも親交があったんですよね。キルヒャーって全部否定されて未だに名誉回復できてない人ですけど、彼は17世紀の人じゃなくて、これから出てくるようなウィキペディアみたいな人なんですよ。イエズス会の重鎮なんで当時世界中に行ったイエズス会の宣教師がローマに帰ってきたときに中国とかの聞き伝えの話をイラストレーターに画かせてそれを出版するので、ものすごい奇妙な出版物になるんだけど、全部自分でやってないから情報だけを集めて編集して出すわけですから、当時の『ロック・マガジン』みたいなものですよ、勝手に翻訳して(笑)、「MACHINE」(fashion)とか(笑)。今やったら大問題ですよ。キルヒャーは自分が文部大臣みたいな立場だったから出来たのと世界中にイエズス会というネットワークがあったから最新情報を集めることが出来た。彼は最初はまじめに分析するんだけど、その情報を見てるとアイデアが沸いて、自動楽器でも牛がこうなるとということを描いて、後で全否定されちゃうわけです。これがアートの一番大事なところですよね、単なる妄想じゃなくて、情報を意識しながらまじめにぶっ飛んだことをやっちゃう(笑)。そういう人がいないと社会はダメになると思うんですけどね。だから時代というのは意識してもその時にいないとわからないと思うんですよね。後から振り返ると60年代はこういう時代だったとか70年代はこうだったとかになるけど、その中にいたら実はわからないですよね。だからといって振り返ったから正しいかどうかはわからない。
僕は60年代の後半は少しは知っているけど、60年代のアンディ・ウォーホールが出てきた頃は知らないし、70年代に本を読んでそうかと思っていたけれど、今になればそれも怪しい。
70年代後半や80年代の音とか語る人がいるけど、その時に生きていたリアルタイムに聴いていた人じゃなくて、若い人が資料をもとに喋るので本当のところはわからないですよね。この間もハウスは82年からだって書いてあってその頃はまだ日本に入ってきてないのに(笑)。でも資料ではそうなっているって、まあこういうのは永遠にこうなのかもしれないですけどね。歴史って作られていくんだと思う。

●もちろん、先ほどのボードレールのアーケードの話にしても書物を読んで時代がそうだったんだと理解することから始めるんですが、その書き手の精神の痕跡を読んでいるんですよね。

■テキストってそういうものですよね。そういう情報を得た人がその場所に行った時にそのような行動に出るとか、さっき言ったように音楽は聴く人が作るものというのと同じなんですよ。別に理解しているのではなくて断片としてインプットしておいて何かのきっかけで結びついて出てくるのは変わらないですよ。
今はもっと細分化できている面白い時代だと思うんですよね。材料だけでいいんだから、完成品はいらないんです。だから揃ったというかベースが出来たというか、今の時代にやっと出てきたという感じがしています。

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《「音楽」との関わりと新しい試み》

●これからの音楽はどうなっていくと思いますか。藤本さんの音楽は?

■これは昔から思っていたことだけど、音楽というのは体験した人が作るというのは間違いない。ベートーヴェンだろうがバッハだろうが出来上がったものを受け取るのではないです。演奏の解釈の仕方も変わるし聴き方も変わる。バッハがイヤホンで聞くことを想定しているわけではないので体験するのはそれも断片ですね。材料はいくらでもあるわけだからそれを自分が組み合わせていくらでも作る。それはどんどん加速すると思うんです。その時に能力が問われると思う。その能力は演奏する能力じゃなくて断片をきちっと形に出来る能力。だから断片は作らなくてもいい、まさに阿木さんなんですよね。オリジナルはなくても集めてきて形にしてポンと出しちゃう力が音楽的な才能になってくる時代だと思う。

●なるほど。ところで藤本さんは今は自粛中とか関係ないですか?計画とかありますか?

■今年はじめは展覧会とかやってましたが、やっぱり2ヶ月くらいは自粛しててここにも来なかったんです。やってたのは断捨離ですね。今データにしないと渡せないから、この機会に昔のポジフィルムをスキャンしてコンピュータに入れてたら、久しぶりのフィルムを手に取るとオブジェとしてこんな面白いものがあるんだ気付きましたね。やり出すと整理しているだけなのに、これを使って何かできるっていう新しい発見がありますね。
それと一緒にビデオも8ミリビデオの時代からDVからの時代にかけて、80年代を記録してたやつとかもテープのままずっと置いてたの取り込んだんですけどね。それをやってたお陰で、シュウゴアーツのオンラインショー(藤本由紀夫オンラインショー: Yukio Fujimoto Sound Album)で載せられたのは、たまたま整理していただけでこのために纏めたものじゃないんですよ。家でYOUTUBEを見てた時に4kの映像も30年代とか40年代の映像も同等の価値で上がってくるわけですよ。歴史的なやつなんか60年代のビートルズの映像とか、かたや4k8kの映像と同じ価値で見れるっていうのは、このコンテンツのやり方は面白いと思ってね。オンラインショーの時は展覧会みたいにプロジェクションで見せるわけではないので8ミリビデオのクオリティは関係ないんですね、ノイズ交じりでも。

●藤本さんのオンラインショーでNormal Brainの曲に合わせて女の子のスライドショーとかありましたね。これも昔のものですか?

■80年代初頭のNormal Brainで出した作品ですね。大阪でビデオアンデパンダンという展覧会があって出そうとしたんだけど、ビデオカメラが大学にはあったけど、まだ個人が持つような時代じゃなかった。その展覧会に出品するとビクターがスポンサーでカメラとデッキを貸してくれたので、作品を作るという名目で借りて来たんですよ。でも何を撮ったらいいのかわからなくて、ちょうどNormal BrainのLP制作の時と重なったんですよ。音楽もそのままテレビからとか入力してコントロールしてとかやってたんです。だからビデオでも同じことができると思いました。たまたま35ミリのポジのスライドがあったのでcopy to copyを繰り返して画質が荒くなって、ポジフィルムを作ろうとして撮影していた時に露光を間違えてほとんど真っ白になったんですよ。たまたま35ミリのポジのスライドが20枚ほどあったんです。そのスライドは、少女のポートレイトをcopy to copyの繰り返しで、段々画像が荒くなっていく作品をポジフィルムで撮影したものですが、露光を間違えてほとんど透明になってしまったものなんです。1枚ならほとんど透明で使えないなあと。でも10枚くらい重ねたら像が浮かび上がってきてこれは面白いと思ってビデオで撮影した。畳の部屋でスタンドの明かりを下から上に当ててスライドを乗せて定点で撮っただけなんですよね。今考えたらちゃんとレイヤーになっているんです。40年前のこの機会に取り込んでみるとまた発見があって、今やっていることも昔と全く変わっていないと実感できたのでよかったです(笑)。

●だから藤本さんは昔から今もやっていることは全く変わらないと(笑)。

■40-50年全く変わっていないアーティストってあまりいないですよね(笑)。

●この質問を考えたときに、たぶんこれから変わっていきますか、と質問しても、藤本さんは昔と変わらないですよって答えると思ってました(笑)。

■これからの事はいつの時代もわからないですよね(笑)。でも振り返ってみれば変わってないというのはわかりましたけど。だからといってこれから変わらないかどうかはわからない。これはNormal Brainのメモをカード型にしたマルチプルな作品ですけど、誰もこれが40年前の言葉だって気付かなかった(笑)。だから今よりもちゃんとしてたっていうか、今と全く一緒だし。
(Normal Brainの言葉をカードにした作品を見せて頂いた。)

NORMAL BRAIN MEMO
1980-2019
紙、アルミケース
95 x 60 x 8 mm
ed.50

●今回のインタビューがあるから、40年前自分は何をしてたんだろうと思ってNormal Brainの頃の『ロック・マガジン』を見たらデヴィッド・カニンガムのことを書いていたんですよ。「グレースケール」のことを書いているんですけど、さっき言ってたパリのアーケードのことと絡めて探偵小説音楽だって。自分で書いてて憶えていなかったんですが、今日藤本さんを会うので何かがこのことを思い出させたのか。藤本さんの話とこのカードを見ていて不思議な感覚になりました(笑)。いや変な錯覚かなあ(笑)。

■だからこのNormal Brainの言葉をつかって何か作品を作ってもいいし、40年も経つともはや自分のものではない、文字通りレディメイドですよね。当時は何かを見て書いた言葉なのか、それさえも憶えてないけど、逆に面白いですね。

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「アトリエにて」

■インタビューを終わって
今までいくつかインタビューを受けてきましたが、30〜40年前のことについて語ると、思い違いや、制作年の違い等、無意識に発言していることに自分自身あきれています。それほど過去の自分のことには興味がないのだと思います。阿木さんについても、懐かしむ存在ではなく、今生きてたら何をするのだろうかということに興味があります。

●インタビューを終わって
『Ready Made/Normal Brain』リリースを中心として、その前後に考えていたことや、何をヒントに行き詰まりを打破していったのがわかるインタビューとなった。想像はしていたが、藤本さんがやっていることは当時と変わらない。その変わらなさの中に作品として反映していることがある。それは、「鑑賞者」によそ見、誤解、ずれ、間違い、機能とは違う道具の使い方、による「造り出すこと」を気付かせることである。その芸術的行為が歴史=時代に触れているかどうか。Normal Brainのリリースの前後には明らかに時代とシンクロしていた。それは懐かしさではなく、今のコロナパンデミックを生きる我々に気付きを与えるに違いない。
インタビューが終わって雑談をしていた時に、藤本さんも行かれた1976年4月5日に京都府立体育館で行われたジョン・ケージとマース・カニングハムの公演の話になった。机の上に置かれていたサボテンから音を取り出したり、小杉武久さんの動きや表情のことをリアルに思い出した。実は、ケージとデヴィッド・カニンガムの話をしたかったのだが時間が足りない!それは次回のお楽しみにとっておきますね。

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VANITY0009『Ready Made/Normal Brain』1980/10
藤本由紀夫の『Ready Made/Normal Brain』は、”Kraftwerk”の「The Man Machine」の『ロック・マガジン』的回答としての音楽だ。
藤本由紀夫は、”Kraftwerk”の音楽についてエレクトロニクスをピュアに使用していることを評価していた。ピュアでありながら緻密、ジョン・ケージの音楽にも通低する。
1962年10月に来日した際にジョン・ケージが鈴木大拙と交わした会話で、ケージが「先生の講義で忘れられない言葉は、”山は山である。春は春である。”という名句です。私はその時に”音は音である”と霊感のように思ったんです。」と話している。
この大拙の言葉は、十牛図第9の「返本還源」のことを示している。
続けて大拙の「現代音楽というものは、非常に知的なものだということをいう人がおるが」という問いに対して、ケージは「それがあんまり、知的なものにならないように、一生懸命努力しているのです。知的なものじゃつまらない」「音は、ただ音であるようにしたいと」と答えている。(『芸術新潮』1962年11月号より)
『Ready Made/Normal Brain』に関連して『ロック・マガジン』01(1981年01月号)では”Normal Brain”のコンセプトシートを掲載した。
”Normal Brain”の由来は、19世紀イギリスの作家メアリー・シェリーのゴシック小説の『フランケンシュタイン』では若きフランケンシュタイン博士が死者を蘇えらせようとして、Normal BrainとAbnormal Brainとを取り違え「怪物」を生み出してしまった物語だ。藤本由紀夫は1世紀以上を経て、フランケンシュタイン博士が取り違えた「怪物」の脳を”Normal Brain”として蘇えらせた。
また、アルバムタイトルの『Ready Made』はフランスの美術家マルセル・デュシャンが、1917年に男性用小便器に偽のサインを入れ、「Fountain(泉)」というタイトルをつけて公募展に応募し、これは「これはアート作品だ」と言って、本人自らが「レディメイド」と呼んだことからの引用である。
デュシャン・フリークである藤本由紀夫らしい。
デュシャンは、音楽芸術に対しても「音楽的誤植」という概念も打ち出している。
イギリスの作曲家デヴィッド・カニンガムの「Grey Scale (1977)」の「Error System」もデュシャンを強く意識した作品だ。
藤本由紀夫は2015年デヴィッド・カニンガムとロンドンで二人会を開催したり、現在も交流しているそうだが、音楽へのアプローチはお互い影響を与え合っているのだろう。
藤本由紀夫は、”Normal Brain”以降も「音は、ただ音であるようにしたい」と思索し続けている。
【Vanity Recordsと『ロック・マガジン』1978-1981より】
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R.N.A. Organism テキスト 1980

RNAO on ロック・マガジン

ヴァニティ・レコードからこの5月下旬に発表する「R.N.A.オーガニズム」も、音楽の本来持っている力を具現化しようとしているようだが、バルやトリスタン・ツァラが中心だったチューリッヒ・ダダがパリにおいて 集会を行なったのが、一九二三年のワイマールでなのだが、彼らR.N.A.オーガニズムも「ワイマール22」という曲を呪術的でエレクトロニックな原始リズムにのせて音声詩さながらに国籍不明の曲を作り上げている。彼らも又、キャバレー・ヴォルテールやバウハウスというバンドと同じようにバルの精神を明確に受け継いでいる。

工業都市ミラノのルイジ・ルッソロが騒音音楽宣言をしてから、もう70年という時間が経過しようとしている。この脈々と流れる騒音機械主義は、イントナルモーリの都市風景化により体内リズム変化を我々にもたらしているのだ。イントナルモーリとは元々都市騒音や車の音を表現するためにルッソロが作り出したシンセサイザーのようなものなのだ。

今や機械というこの肉体や精神の外延にあるシステムは、 我々の生活のリズムとなり、それはとりもなおさず機械のリズムであり、心臓のリズムでは、もはやない。このシステムは我々の感覚でありエクスタシーである。

今世紀のアート、精神活動を根底から揺さぶった最大のマテリアルでありコンセプトである機械は、現代においてついに呪術儀式にまで登場することになった。

この未来派、バウハウス、表現主義、ダダ、 構成主義、キュビズムなどの20世紀初頭の精神活動を魅了しつづけた機械は、今や商品とともに我々の体内にまで入り込んでしまったようだ。そういった意味では芸術家などもはや存在しないし、成立もしえないといえるだろう。
R.N.A.オーガニズムが「SAY IT LOUD!」と金属の声でうたうと、人々は「WE ARE DILETTANTE!」 我々はアマチュア芸術愛好家だと叫ぶ。彼らR.N.A.オーガニズムは全く新しい現代の呪術的儀式を生み出そうとしている。

それはアフリカの民族音楽にみられる呪術や、フーゴ・バルがボール紙というプラスティック美学を肉体に纏い、言葉の本来の力によって行なった音声詩朗読の呪術儀式と変わりはしない。彼らは音楽が持つ本来の力によって超自然的な生命力を身体に精神に宿らせようとしているのだ。

ジョルジュ・バタイユが「アルタミラの壁画」の研究の中で言っているのは、あの壁画が芸術でもなんでもなく、生産のために神とポゼッションし、エクスタシーに達するための儀式の一部として描かれたということなのだ。

太初、絵や音楽など呪術にかかせないものは総て占い師が司っていたという。
芸術家などは存在しなかった。

そして不思議なことにロック・エンド宣言の時代である現代も、それと同じ状況にあるのだ。ジョニー・リドンは誰よりもそのことを知っている。

阿木譲
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RNAO on HEAVEN #3 ’80

R.N.A. Organism:匿名・著

[1] システムとアノニム

①ロンドンはケンジントンの消印の押された封筒が届けられる。中にはカセットテープが一本入れられており場所の謎を告げる。
②ところが、こった事にカセットテープの表面には「咳止め薬」の(おそらくは日本の大正時代のものらしい)ラベルが貼られており、その記号の謎が脳をよぎる。
③テープの再生回転数の指示は?(くわしくは遊#1013ーナム・ジュン・パイク参照)
④実体不明、性別不明の声(マントラ)が、リズムボックスのリズムに乗って流れてくる。どのようにして制作したのか不明のまま、人々はその「音頭」的な原始音に耳をかたむける。日本人? 実体の謎。
⑤このテープを聞いた Mr. A はレコード発売を企画する。彼はこの転末を文章化することになる。(遊#1013ープラスティック時代の呪術)
⑥5月末レコード発売。デビッド・カニンガムのフライングリザードやスロッビング・グリッスルなどと比較されるだろう。
⑦京都河原町三条のクラブMODERNでのオールタナティブ・ダンス・パーティには、テープのみのライブを行うことにする。
手の上に置かれた、セロハンに包まれたカセットテープには音は録音されていない。私は一本のテープがこれからたどる①~⑦のプロセスを設定しようとしている。このプランは、一本の磁性帯が見るうたかたの物質の夢の如きものかもしれない。アクリル床の上で光をあびたメタル=プラスチックなケースは十分に生体以上に生理的だ。この、バタイユならば「呪われた部分」とよんだであろうカセットテープを「MUSIC」と呼ぶにはやぶさかとしても、システムそのものを音楽と呼ぼう。人は音楽にコンセプトの流束を時代の精神幾何学と相似させて聞いているのだから。テープレコーダーが音を鳴らす前には、アノニム(匿名)な影があるばかりで一方、「労働?そんなものは機械にでもまかせておけ!」というようなリラダン調子の人間人形がダンスをしているシーンを想いうかべていただければよいだろうか。ともかくも、ここに音楽家などというような実体はない。よしんばあったとしても、それはまるで、デュシャンの「独身者の機械」の九つの鋳型のように中が「ウツ」な代者ときている。システムとは、産業革命以降、生産効率とともに歩んできた組織論であったが、この時代の平面の上では、関係こそが、「社会物質」という価値形態なのである。言いかえれば、われわれは、ファンクション(函数)上の存在にほかならない。「システムとしての音楽」とは、音楽産業ではなく、新たに「産業音楽」のシステムを作り出すものだ。それはちょうど、中世における呪術や観念技術、あるいは、結界の張り方とよく似ている。トマス・ピンチョンが『V.』や『グラヴィティズレインボー』で描いてみせた暗号都市のまっただ中で、モノモノの流通をつかさどることこそ音楽の機能である。テクノロジーと魂は今や二つで一つの関係なのだ。存在学こそシステムであり、「間」は匿名にほかならない。

[2] オーガニズムとSPY

命のないところに魂はありえない。「気質かたぎ」とは、気と器の存在様式を指すことばである。生命の置かれる環境が、加速度的にアーティフィシャルになっていく中で、存在様式は当然ながら変容ミューテーションする。中国において、「理気哲学」の興隆が、一方で世界に比類ない「官僚制」を伴っていたことは意味深長である。有機体思想(オーガニズム)が問題にされるとき同時に、機械的な国家レベルでのシステム化が強力に行われているわけだ。一方、生命は、シュレディンガーが言うように、エントロピー増大に対して「負のエントロピー」を喰い続けている。今やテクノロジーとオーガニズムの接点あたりでは、存在の様式はあたかもスパイのような連続変換的な構造を持つに至るのである。デカルトの「機関オルガン」ではないけれど、世の地下秘密工作隊は時としては、敵も味方も喰いやぶる「命」として機能する。あまたの秘密結社が国家のへり[傍点]で発生し国境を越え国家をくいつくし、もう一つの領土に向かわんとするわけだ。1922年のワイマール。チューリヒではダダが発生し、クルト・シュビッタースは音響詩を歌い、ロシアではフレーブニコフが革命の言語、ザーウミを発明した。歌と普遍言語は別世界をめざす。人々は R.N.A. の中にそれを見出すことになるだろう。「0123ゼロイチニイサン」、「ゼロ」、「Chance」という記号とも名前ともつかないものでワレワレを呼ぶことになる。ダダがちょうどヨーロッパを包むころ、魔都上海、ゼムフィルド大通りでは殺人が横行した。国民党、中国共産党、日本軍のあやつるC・C団、藍衣団、76号などの結社が「機関」として暗躍した。そして、R.N.A. は場所から切りはなされたメディアという領土の中で、ポスト・インダストリアルな時代の「機関」そのものとなるだろう。交響的陰謀オーケストラル マヌーバス

[3] メディウムと浄土

では、ならば R.N.A. は何故にあるのだろうか? いや、その問い自体意味をなさない。かって、ケプラーは月を観念のエイジェントと見立てた。月とは中世の夢の棲み家であったわけだ。この至福千年の王国の地上的投影こそ「都」の造営の作業であった。北斗を地上に現実するものとして都が出来上がったり、熊野詣でをしたりすること、あるいは共産社会の前段階としてのフーリエやオーエンら空想社会主義者がファランステールという定員制国家を作らんとしたことこそ「夢の領土」の造営であったのだ。ケプラーの言う「ソムニウム」とはアソコとココの関係として想定されるのではなく、ココが即アソコであるような場所を言うのである。江戸時代の華厳経五十三次は幕府というものが、国家内の結界ネットを支配していたことのみならず、国土と浄土をしきる「マク」をつかさどっていた。商いは、物の交換であるとともに霊の交感であった。この人間人形たちをメディウムと呼ぶ人類の「類」とはこのことを言うのだろう。浄土というのは、人類が木の上で生活していたころへの追憶かもしれない。アルミサッシのはまったビルの5Fからザワザワゆれる木を見ているとそういう思いがやってくる。人工自然の中にこそ平等院は現実されるだろう。それが人工幻想都市の店だ。店こそ21C.の魂函たまばことしての可能性を秘めている。そこにこそ人間人形の楽土がある。ワレワレの室内にはられた写真にうつる人は緑色の髪をしている。彼は数枚の写真の中を旅する。

[4] 自在機械と観音

風体。風が吹いてくる。アーティフィシャルな光景の間をぬってインスパイアされてくる「惑物」たちは、このウツなる都市のあちこちでノイズをあげている。量子雑音事件たちのぼる街のたたずまいの中でふりこまれてくるものがある。その出所は? およそこの国体ナショナルボディは人類がえいえいと作り出したものだ。シャルダンが地球精神圏と呼び、バタイユが生命の経済圏としたものは、宇宙と地殻のカンショウ物だ。それが生命のエピジェネティック・ランドスケープである。それはオーガニズムであると同時にシステム! そう、人工こそ自然にほかならず、国家こそアナーキーであるという姿が見える。エピジェネティックな光景こそデジタルなのだ。遠くで聞こえる道路工事の音やTVの会話、植物のざわめき、骨のきしむ音。人工自然のただ中で生まれたワレワレにとって、機械は「惑物」をふりこむ装置である。音が音づれる。活字化される直前の言霊や音の中にこそ、シンクロニシティーや「未来の記憶」がひそんでいる。ルッソロの騒音音楽は言わば、それを方法論としたものだ。言わずともデパートの音はコラージュされている。テクノロジーと環境音をここに導入すると機械学的呪術性が強まる。この振りこまれるプロセスを観「音」と言う。これはサイ科学でいう五次元情報系にあたる。来たれ機械時代の魂ふり!

[5] 姫

「なにもしないのに、こうなっちゃうの」

[6] 時代からの逃走とHEIAN

「あわれ」という構造は、あるシーンを別の座標から見ている姿になる。言わば、神ののぞき穴からの視点である。これは中世におけるヒエラルキアにあたる。ワレワレはアーティフィシャルな Chinese Box の中にいる。アインシュタインの相対性原理を説明する図のように別の系が多数ある。フーゴ・バルは機械が神に代わって登場した時あらわれた。彼は、強烈な DADAIST であると同時にビザンチン研究をしつづけた。さて、テクノポリスに幽妙なる魂さぶらわせる時節ともなり、バル氏は平安をこそ求めるとしても、彼は彼の属する宿業の系のヒエラルキアからはそう簡単に出られない。矛盾に向かえるもののみそのサイクルを横超できる「Chance」をもつ。ヨーロッパのヒエラルキアは重力方向に出来上がっていて、その斗争のいい例がヴェイユだ。ところがワガ日本国の場合は、遍路していく構造が横にむかっているわけだ。ともかくも、この宿業を転ぜぬかぎり、他の系へは行けない。あわれである。気狂わしたとしてもそれまで。ならばこの地獄を当然とせぬかぎり風の如く涼しき境地へおもむくことなぞできまい。グルジェフのヒエラルキー理論をくぐりぬけ、今ここにいる。遊星上のオルターナティブな景観、HEIAN。

◎ 5月末 R.N.A. オーガニズム LP発売。

Reproduced with permission by courtesy of Harumi Yamazaki
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遊 #1013 ’80

VANITY INTERVIEW
⑥ R.N.A. Organism (佐藤薫)

VANITY INTERVIEW ⑥ R.N.A. Organism (佐藤薫)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

『内なるウイルスが交感する場所』

今回はR.N.A. Organismのプロデューサー、佐藤薫。当時、京都河原町「クラブ・モダーン」のプロデュースや東京のアート集団「イーレム」との共同作業やバンド活動など音楽制作のみならず様々な活動を牽引。そして現在では、φononレーベルのプロデューサーとして内外で活動されている。佐藤さんとはじめて会話したのは1980年の大阪四ツ橋にあったカフェ「パームス」だった。この年は『fashion』を発刊し隔月刊の『ロック・マガジン』と並行していたので毎月締め切りに追われ、日々の作業で忙殺されていた。Vanityについても同様で、この年にLP7枚と全タイトルの半数以上がリリースされている。だから『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』リリースの経緯は全く知らなかった。今回、そのあたりを中心に聞きたいと思っている。
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佐藤薫のプロデュースするφononレーベルへはこちらのサイトにアクセスして頂きたい。

レーベル・サイト:https://skatingpears.com/
試聴サイト:https://audiomack.com/sp4non

それではインタビューを始めよう。

★佐藤薫(R.N.A. Organism プロデューサー)
●嘉ノ海幹彦

●Vanity Recordsの中でもこの『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』という作品は、リリースの方法が他と比べかなり異質だと思ってます。まずR.N.A. Organismは国籍も含めて匿名のミュージシャンであり、最初に物語を創ってその具体物としてアルバムをリリースしました。阿木さんが『ロック・マガジン』2005 1980年5月号の中で「ロンドンはケンジントン郵便局の消印がある茶封筒にリリースして欲しいという英文と共にカセットテープが入っていた」(要約)と書いています。この文章がR.N.A. Organismという名前が公になった一番最初ですね。
まずVanityからリリースされた経緯はどのようなものだったのでしょうか?
また阿木さんとの初対面の印象はどうでしたか?

★正直はっきり覚えていない。70年代後半、ぼくは個人輸入したレコードを大阪のディスコなどに手売りしていたのですが、その頃なにかの機会にお会いしたのかと。78年頃から「パームス」というディスコ&カフェでぼくは週一のDJをしていて、確か阿木さんも同店で時々DJをしていたから、よく顔を合わせてはいました。だから初対面の印象は特にないですね。
とにかく阿木さんは、DJスタイルで音を聴けて踊れるようなクラブ的拠点となる、今様に言うとヴェニュー(Venue)がほしくて仕方ない様子でしたね。彼はその方面にはまったく疎かったので、ディスコ/ライヴ・ハウス/クラブ──などの流れなどについて話した記憶があります。

●まさしく「クラブ・モダーン」じゃないですか(笑)。たしか1980年からですよね。直接的には関係ないかも知れないけど、すこし「場所」との関連で話を聞いてもいいですか?京都河原町にあった「クラブ・モダーン」に何回か行きましたが、「場所」として特異なコンセプトを持っていたと思います。僕は昔から民族音楽が好きなのですが、ダンスフロアでは”THE POP GROUP”と同レベルでアフリカの民族音楽(そのまま)がかかっていて、お客さんは踊っていました。その時は時代の『ロック・マガジン』的展開だと勝手に思っていたのですけど(笑)。「場所」という現場から関係性を通して「モノ=形」が生まれてくるわけですから。
佐藤さんにとって「場所」とR.N.A. Organismとはどのような関連性というか位置づけにあったのでしょうか?
また、今の時代に必要なVenueとは何でしょうか?当時のVenueに変わるものでもいいです。

★ぼくがヴァイナル抱えてDJ周りをしていたのは「クラブ・モダーン」よりずっと前、関西では1973年からで、それ以前は東京の六本木あたりの箱で回していました。当時は主にブラック/ソウル/R&B・ミュージックを中心に選曲していたのですが、75年くらいにはディスコでディスコ・ミューシックを回すことに辟易していて、時間を区切ってクラフトワークやフェラ・クティ、カンなどをかけ始めたんです。そこにピストルズが登場したことで、「Autobahn」「Zombie」「Upside Down」「Flow Motion」「Anarchy in the UK ~ Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols」──あたりが入り乱れた混沌が一部のディスコに音連れたわけです。
そしてぼくが回してる箱では、ニューウェイヴ全般を踊れる踊れないを無視した形で無理矢理聴かされるようになっていったのですが、当然そのまま受け入れられるわけもなく数年間の紆余曲折の末、一般のディスコではかからないような曲だけがかかる所謂ニューウェイヴ・ディスコとして「クラブ・モダーン」に収斂していった感じです。そこに新たに加わっていた大きな要素は、ギグれるクラブ。DJで踊れるだけじゃなく小規模なライヴもできるようにしたことかな……。
ということで、ぼくにとっては「時代の『ロック・マガジン』的展開」というのはまったく逆で、こういう「場所(ヴェニュー)」が圧倒的に重要だということを阿木さんには力説しましたよ。彼はパームスを発展させることができれば……と考えていたようですが、ぼくは文化が違うからそれは無理だろうと。ディスコ文化ともライヴハウス文化とも異なる、どちらかと言えばサロン/カフェ的な方向の手頃な箱が必要だと……。だから「ロック・マガジンのヴェニュー的展開」がテーマだったはずですね。その後の阿木さんの馳駆の労を振り返れば明かですよね。
R.N.A. Organismに関しては、そのヴェニューに直結した位置づけはありません。なにしろ、ライヴにはメンバーは出演しないでカセットテープを送りつけてプレイしてもらうというスタイルだったので……。後にイーレムでまとめることになるバンドやユニットがいくつかあって、その中のひとつということです。彼らがライヴやイベントを開催する際の「場所」をモダーンのほかにも開拓していくことが重要でした。その際のポイントとなったのが、イス無しのスタンディングでギグれるスペースであることでした。今じゃ当たり前ですが、当時のライヴハウスなどは基本イスとテーブルは必須でしたから。その先鋒に立ったのが80年に結成したEP-4で、当初からスタンディング不可の場所では演らないと決めていて難儀しました。だから出演先ヴェニューとして多かったのが大学などのホールでしたね。文化祭や学生のイベントも盛んになっていてシンクロしていました。ああいうところはフラットな空間が基本デザインでしたから……。
今でこそヴェニューという語彙は比較的一般に使われるようになりましたが、もちろん当時の用語ではありません。規模の大小に関わらず、カテゴリー/分類/概念規定の難しい場所の総称として当たり前に使われるようになったのだと思います。つまり、新たに規定するのもヤボになる用語ですかね。簡単に言えば、なにかが起きる/起きている/起きた──場所や空間ということですね。同じ場所でもなにも起きていなければ単なる「place (場所)」ということになる。しかしそれは、あるコミュニティに属した意味において……ということですね。一般用語としては、犯罪現場も代表的ヴェニューなのが示唆的かも。

●「場所」は現場と化し物語を生むということですね。ボードレールの昔は「場所」が街路やアーケードであり殺人事件が起こり探偵小説が生まれる。それこそウラジミール・マヤコフスキーの「街路は絵筆で、広場はパレットだ」やチューリッヒ・ダダのフーゴ・バル「キャヴァレー・ヴォルテール」でも詩の朗読や小演劇が上演されていました。これらもヴェニューといえるのかも知れません。
それで今思い出しましたが、イス無しが「クラブ・モダーン」の特異な場所である要因のひとつですね。当時はそのような場所はなかった。その後のEP-4への流れも含めてそのような「場所」を必要と考えていることはよくわかりました。
さて、「クラブ・モダーン」じゃないけど「パームス」へは頻繁に行きました。佐藤さんとは韓国の政治状況について話した記憶もありますよ。読売TV『11PM』のロケも「パームス」の前でした。
その「パームス」で阿木さんと『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』の構想を練られたのでしょうか?

★ロック・マガジンの事務所には一度しか行ってないと思うので、パームス、もしくはその周辺でしょうか。京都で松岡正剛さんと会ったときに阿木さんもジョインしたりして、そんな折にふれた構想だったかと思います。

●最初『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』に関しては、佐藤さんから阿木さんに持ち込まれたのですか?それとも阿木さんからの依頼で提供したのでしょうか?

★いやあ、どっちということもなかったので記憶の彼方です。宅録ユニットでいくつか変なのがありますよ……ってことで阿木さんに聴いてもらってはいました。その中でもR.N.A. Organismというユニット名が気に入っていたようで、インフルエンザやウイルスについてその特異性、その音楽的相似性などについてああだこうだ徒然のうちにリリースが決まっていたんじゃなかったかな……。

●R.N.A. OrganismとしてなぜVanityからのリリースだったのでしょうか?
佐藤さんと阿木さんの間でどのような目的なり目論見があったのでしょうか?

★先ほどのヴェニューの話と同じように、作品化やそのメディア、レーベルなどは、DIYで音づくりを始めた人間には重要なテーマでしたから。当時は色々な人と多くの意見を交わしていました。実際には、本気で作品を世に問う気があるなら方法はいくらでもあり簡単なことだ……というのがぼくの立場でした。だから、その中のひとつがR.N.A. OrganismでありVanityだったということかな。
ぼくの立場としては、やってみたいことや、やれそうなことがR.N.A. Organismに限らず山積みになっていた時期で……。同時期には、のちに発売されるイーレムの『沫』(81年、R.N.A. Organismも参加)というLP2枚組コンピレーションの企画も始まっていましたし、カセット・レーベルのSkating Pearsも準備していたりだったので、特別な目論見みたいなものはぼくの側にはなかったと記憶しています。

●レコーディングはどのようにされたのでしょうか。他のVanityミュージシャンと同じようにスタジオ・サウンド・クリエーションなどのスタジオとか使われたのでしょうか?また阿木さんのプロデューサーとしての役割とはどのようなものだったのでしょう?

★京都の普段使っていたスタジオでメンバーとぼくだけで録ったものと、大阪のサウンド・クリエーションで阿木さんが加わって録ったものを合わせて進行しました。阿木さんはまあ……テクニカルなところが暗くて、変わったことをしようとすると説明に時間がかかったなあ。音楽プロデューサーとしてではなく、エグゼクティブ・プロデューサー(統括制作者)かレコード会社の担当ディレクターという感じで意見をもらいました。で、アルバムとして仕上げる段階の諸々決定は、メンバーとぼくの意見を参考に阿木さんのほうでまとめてもらうという役割でしたね。

●話は変わりますが、ひょっとして『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』のジャケット・デザインは佐藤さんが提案したものですか?なぜこんな質問をするかというと、それまでの物語性を持ったVanity Recordsのものとは全く違う無機質なミニマルなものに変わっていますよね。確かに雑誌をデザインする際にはインスタントレタリングを使ってはいましたが、レコード・ジャケット全面をインレタで被うとはちょっとびっくりしました。時系列で考えると1980年発刊の『fashion 1,2,3』の装丁では『ロック・マガジン』とは内容が違うとはいえ、裏表の表紙全面がR.N.A. Organismのジャケット と同様にインレタで覆われていました。

★そうですね。ぼくが考えていたものとは多少異なった結果になりましたが、記号インレタのシートをまんま使いましょうと提案して、いくつかサンプルを渡してアイデアを伝えました。インナースリーヴにもクレジットがあるように、デザインはメンバーとぼくで大凡を詰めて阿木さんに打診するというやりとりでした。確かR.N.A. Organismをリリースする話が始まった当初に、ジャケットの件やレコードのカッティングやプレスについてアイデアなどを伝えて諸々調べてもらいました。最終的デザインは統括の阿木さんにお任せすることになったんです。
その後、あのジャケットと同じ系列のデザインを阿木さんが好んで使うようになったのは知っています。まあ、阿木さんらしいという一貫性ですかね? ぼくとしては“オリジナル”なんてことを標榜するのは破廉恥だとしても、方法的懐疑を抜きに進めることはある種の原理に反して、同様に破廉恥なことだと……。

●いやあ、その破廉恥さがデザイナー阿木譲の才能だし他に類を見ない(笑)。感覚に触れたものを使って何が悪いってよく言ってました(笑)。
レコード・ジャケットは音楽の衣装を纏わす重要なものだと思いますが、阿木さんは「R.N.A. Organism」をブック・デザインに応用していったんですね。今remodelとしてBOXセットがリリースされていますが、『fashion』のデザインが踏襲されているのは感慨深いものがあります。
ところで、R.N.A. Organismの由来は?新型コロナ・ウイルスも「情報」としてのRNAを持っていますね。
名前に対する想いなどあれば教えてください。

★いまでも続いているウイルスは生物か否かという論争が由来だと思います。当時は、生物であるか否かは別としてもウイルスは生物進化に決定的な影響を及ぼしていることが明確になりつつあった時期で、メンバー間では〈DNAをもたない特異性生物〉という合意があったということです。それが自然にユニット名となったらしいです。78年の結成時だったか……。

●音楽はウイリアム・バローズがいうウイルスだと思いますし、連想させますよね、しかも密だし(笑)。
ところで『ロック・マガジン』とか読んでました?それともFAZZ BOX IN?

★はっきり言って読みものとしては読んでいませんでした。ほかでは紹介されないレコードの情報を得るための情報誌という感じでしたから、何号と言えるような読者じゃありませんね。FAZZ BOX INについても同様な番組としてエアチェックしてました。

●情報源としての『ロック・マガジン』ですか。僕の関わった頃の『ロック・マガジン』では如何に時代精神を表現するかということに重点を置いていたので、情報を流すというのは一義的には考えていなかったですね。
では当時聴いていた音楽は?叉影響を受けたアーティストやレーベルはありますか?

★あまりにも何でもかんでも聴いていたので……。オルタナ系は業務全般という感じで掘っていましたが、個人的な対象はブラジル~南米系とアフリカ系のヴァイナルでした。とにかく本場モノは入手困難な時代でしたから。それと、ブラック・ミュージックの流れから生じた辺境系。韓国歌謡/ロックにもはまっていた時期ですね。まあ、ブラインド・ディガーでしたが……。

●現在関心があるアーティストは?メチャクチャたくさん聴かれているとは思いますが、興味があります。当然φonon関連になると想定していますが、それ以外で注目しているミュージシャンについては?

★残念ながら物理的要因で積極的リスナーになれない状況がこの10年ほど続いています。必要火急を基本に対応していますので、φonon関連以外の外交上のやりとりや具体点について明らかにすることは控えさせていただきます……。

●やっぱり(笑)。そうですよね。
では質問を変えて(笑)、2020年の音楽をどのように読み取っていますか?ヴェイパー・ウェイブなどの動きも含めて、いかがでしょう。

★音楽だけではないのですが、メディアとしての体質的な問題というか、90年代後半以降、ネット前/後かも知れませんが、全体としてはすべてが等価で同時に存在し続けるような、末期的平坦風景が見えつつあるという気がします。情報の量と質ですべてが決定してしまうような、個人的パッションやらエモーションの介入する余地のないフラット性というか。どう発信/受信するか……、もちろん受信はリスナー側ですが、どのようにして出会った音で、それはどう聴かれるのかという神話的課題に誰もが知らずに対峙することになる。当然同じことが発信側にも生起するわけだし、双方の融合が顕在化したのが正に80年代、宅録以降のあの頃だったわけでしょ……。
当人は個人的パッション等々によって動機づけられているように思わせるメディア──、あまりにも何でもありなので自らよそ見をしないように調教されたメディア──、このブリンカー効果は当然受信側に強く発揮されますから、個々には平坦な世界は見えにくいようになっていく……。なっていくと言うより、自分でその仮想的な山あり谷あり世界/ストーリーを構築しちゃう。メディアというのは媒介ですから、そもそもその実体は存在しない仮想的なモノという本質が、ゆっくりと時間のかかる爆発を始めているんじゃないかと。フラットワールドに抗しがたいというストレスが、ヴェイパーウェイヴなどの形をとって表層化する。これはこれまでも/これからも繰り返されていることですが、それはどこまで持続性があるのかという疑問が重要な時期でしょうね。

●確かにメディアによるブリンカー効果という問題は大きいですね、受信者側が無意識的に自ら作り出していく錯覚はSF的世界にしかリアリティを感じないかも知れない。人と社会との関係性における現在の後期資本主義的社会をどのように感じていますか?またNet社会や次世代5Gなどの環境にどのように対峙しようとしていますか?

★なんちゅう質問ですか……。特になにも感じてないですよ!
ただレッテルというか概念については、後期資本主義やポスト資本主義というのは、あまりリアルではなくてロマンに感じてしまう。あるいはアンチ・ロマンか……。
単に資本主義というのであれば、概念の順序は別として熱力学的なエネルギー/熱量の問題を社会人類学的に置き換えたようなところがある。また私的所有や利益、競争原理となればダーウィニズムと支え合っているわけで、ある意味、資本主義の起源は人類誕生より古いシステムですよね。だからこそ本来は普遍的で、人類滅亡後も続いていくはずです。シンプルに言えば、そういう人間目線の収支、地球経済システムに帰結しちゃう。だとすれば、マルチな階層的インプットとアウトプットであっても、太陽エネルギー以外は等価な交換によってエントロピー増大を一時的に抑えるような、低エントロピーな仮想的定常状態をできるかぎり持続させるための運動なのかも知れない。ただ、そのスピードにおいて加速的に過ぎる資本主義に対する歯止めが必要だと考えることも自然で、★★主義や★★教という運動の骨子になり得るでしょう。
で、人間が人間抜きの思考を持てるかどうかは多いに疑問ではありますが、愛すべきノウアスフィアに端を発した生態学的思考の流れは、資本主義を含めた人類社会の実践的思考実験として注目かな……。アントロポセン/人新世~ホモ・デウスとソフィスティケートする潮流は、ソ連の仕掛けた時限装置の発動ではないでしょうか──って、マジに受け取らないでくださいね。でもまあ米国の大統領選挙を眺めていると、あながち軽口とも受け取ってほしくないですが……。
反対側には加速主義なんてのもあるわけで、つくづく人間は考えつくモノなら何でも考えるが、考えもつかないモノに関してはお手上げなんだと考えてしまうわけです。こんなんでいいでしょうか?
で、質問の連続性にも疑問がありますが……、いまとなってはネット社会やその環境の進化には特段大きなパラダイムの変換は必要ないかと思います。音楽の発信や受信への興味は尽きないけれど、配信方法はあまり気にもせず是々非々対応が無難というところ。その意味では、レーベル運営をある程度持続するためにはプラグマティックにならざるを得ないかな。

●現在の活動と今後の活動のプランを教えてください。

★現在も、近い今後もφononレーベルの運営が中心となる活動ですね。一身上の都合ということもあって、引きこもってCOVID対応で作業できるよう心がけています。

●これからの音楽芸術はどのようになってくると思いますか?また音楽を制作するにあたりどのようなことを考えていますか?佐藤さんにとって音楽とは?

★音楽芸術とは言えないかもですが、好みや傾向によってその場でAI生成されるものになるでしょうね。著作権の概念がどこまで持続するかわかりませんが、抵触しない音楽生成ということになるかな。生成~再生され、その場で消滅していくような。だから、音楽制作は音源提供という側面がはっきりしてくるんじゃないかな。最大公約数から提供される音ってことは、現在のヒット曲と大差ないアイデアだけれど、どうなるかは御慰みです。なんかフニャっとしたモノか……。

●「フニャっとしたモノ」、いいですね。情報処理技術の中ではRPAとか含めAI活用が現実の世界で眼に見えるようになって来てますね。それらの技術が、フニャっとしたほどほどで身の丈にあったもののために応用されればいいと思います。
さて最後の質問です。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対してどのような感想をお持ちでしょうか?生きている間にこのような時代(世界が民族や言語を超えて同時に同じ惨禍にある)と対峙することは、幸運にも(失礼)そうあることではありません。

★まだほとんどなにもはっきりしていないモノに対する、権威やシステムそして自分を含めた人間の反応に興味は尽きませんね。訳知りな言説や予言めいた物言いを含め、見えないモノを見ようとする/見てしまった人間が自ら背負った十字架のような……。先ほどのブリンカー効果と同じことですが、見えないことの恐怖から発生する集中と慣れ──、同時に、見えすぎることに対する反応にも留意しなければいけないかな。

●フニャっとしていてほどほどで身の丈にあった生き方を注意深くということでしょうか。
今回は佐藤さんと話が出来て嬉しかったです。ありがとうございました。

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★インタビューを終わって
確信を持てない修正第十二仮想記憶条項だらけの当時のトピックの中では、レコードという形で残すことができたR.N.A. Organismの存在は比較的記憶にはっきり焼き付けられている方だが、やはり細かな事情となると「???」な部分が多い。嘉ノ海さんに突っついてもらって少しずつ絞りだしてみたものの、実際に阿木さんやVanityに紐付けられているのは、それそのものより田中浩一さんや嘉ノ海さんをはじめとした人物の周縁事象だ。インタビュー中では触れなかったが、殊に、足穂の磯巾着に倣って「人類海鼠説」を称えた田中浩一は、原罪による世界の滅亡(二十五世紀的悲劇?)と人間以降を予見しながら高校の教壇に立っていたという大丈夫の魂だが、ある意味で不器用だった阿木さんの本質的な態様を彼こそが体現していたのだと感じている。
阿木さんにはなにかと僻事がつきまとい、会うたびに徒事を吐く五月蠅い男だと煙たがられていたと思う。ただ、自分とはまるで重ならない素性を面白がってくれていた気がする。もう少し言っておくべき事柄が残ってはいたが、いまに至れば術ないだけなので、ついでに尚更、煙になっておきたい。

●インタビューを終わって
佐藤さんとは当時はもちろん面識もあり話したこともあったのだが、阿木さんとの関係とか佐藤さんが何を考えていたのかなど知らないことばかりだった。R.N.A. Organismのことを中心にお伺いしようと思っていたが、時代の沫だったこともわかった。それより何よりも佐藤さんが試みていたことは「場所」を確保しようとしていたことだった。人が集まる場所、退避する場所、何かが起こる予感を帯びた場所。場所を模索し続けたのではと感じた。阿木さんも『ロック・マガジン』の後にM2(Mathematic Modern)や(nu things)、(environment 0g [zero-gauge] )を立ち上げて、ヴェニュー(場所)から外へと続くアヴェニュー(街路)へという想いがあったのではないかと想像した。
阿木さんと最後に会った時に「嘉ノ海、元気にしているのか、そろそろ何かを始めないといけないんじゃないか。」という言葉を思い出した。今も0gは場所から街路へと繋がっている。

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《今回リリースされたR.N.A. Organismの未発表ミックス集『Unaffected Mixes』を聴いて》

●全く別物ですね。びっくりしたと同時にほほーって、こう来たかと思いました。
当時のものの価値(R.N.A.O Meets P.O.P.O)は、時代は常に変化しているので当価値ではありません。
今回の「Unaffected Mixes」は、意匠を変えてというか、時代の「衣装」を着せ替えたものと理解しました。
特に最終曲終盤の残響(reverberation)音は、減衰していく音の波が見えるようでした。
今風の言い方をすると後期資本主義的世界(マーク・フィッシャー)の黄昏ていく風景への憧憬や祈りのようなものを感じました。少し先の歴史性へに対する感覚も。

★R.N.A. Organismの『Unaffected Mixes』は、カセットコピーした仮ミックスなどからテープの切り貼り編集などで制作していた当時のものです。阿木さんが、ライヴできるバンドというかユニットを望んでいてストレートなミックスが好みだったようなのであまり興味を示さなかったものです。一応ヴァニティ音源なのでいままで表に出さずにいたテープがけっこうな量ありますので、そこからセレクトしたもの。まだアルバム2~3枚分はあります。機会があれば他のトラックも放出したいと思います。有り体に言うとボツテイク集ということですが……。

●もちろん全体の雰囲気やメロディから当時のものだとわかります。タイトルも伊/仏語に変わっていたり、Singularなんて今風の言葉が使われていたりしてます。「全く別物ですね」は、Mixにより生まれ変わったといった意味です。加えて他のものも何らかの形で、是非リリースして欲しいです。

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VANITY0006『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』1980/05
佐藤薫の初期プロデュース作品。
”R.N.A. Organism”の一番初めの出現は、Vanity Recordsのミュージシャンが多く出演した1979年12月のロックマガジン主催のイベント「NEW PICNIC TIME」の匿名の観客としてだった。
頭髪を緑色に染めた集団。それは佐藤薫率いる時代に拮抗した過激派であり他の観客を刺激した。
当時佐藤薫が主宰(拠点?)していた京都河原町のディスコ「クラブ・モダーン」では、ダンスミュージックとして西アフリカの民族音楽をかけていた。何の加工もせずそのままの音源でリスナー(参加者)は朝まで踊っていた。
その「場所」は僕らが名付けたエスノ(エスノミュージックとテクノとを融合した)ミュージックの実験空間でもあったのだ。当然エスノにはジェイムズ・ブラウンなどのR&B、イヌイットの狩猟の音楽、日本の舞楽なども含まれていた。
イギリスでは”THE POP GROUP”や”THE SLITS”の音楽が新しい原始リズムを刻んでいた。二十世紀初頭ロシアの作曲家イゴーリ・ストラヴィンスキーの”春の祭典”のように…。
佐藤薫は現在も時代精神を反映した個人レーベル「フォノン」で時代の響き(ドローン)を発信し続けている。二十一世紀音楽は「響き」をいかに時代の背景音として捉えるかにかかっている。現在の彼の音楽的冒険はいわば二十一世紀にメタモルフォーズし再登場したパンクミュージックだ。
【Vanity Recordsと『ロック・マガジン』1978-1981より】

KYOU-039 Viola Renea『Syguiria Lady』LP(レコード)

発売日:2020年11月25日
定価:¥3,200(-税別)
品番:KYOU-039
仕様:
□輸入盤LP, Strangelove Music SL107
□初アナログリイシュー
□フルサイズ アートインサート, ライナーノーツ付属

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Viola Renea
Syguiria Lady(LP Record)

side A
01. Amitoung Ashyljoung
02. Vimana Beam
03. Faros Faras Island
side B
01. Sōma Yāna
02. Māyā Candra
03. Samsāra
04. Polaris Line
05. Chariot of Palace

KYOU-039
25.Nov 2020 release
3.200yen+tax

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1984~85年に大阪で展開していたレーベル「ファンタン ラトゥール レコーズ」から1985年にリリース(LP)されたヴィオラ リネア/シギリア レディを初CD化!今回、ニュージーランドのStrangelove MusicからのLPリイシューのオファーにより2020年秋にLP/CD/デジタル配信によるワールドワイドな展開となります。

<作品概要>
Viola Reneaは、1983年までに兵庫県の西宮市を拠点に置く自身のレーベル、Kagerohから2枚のシングルを既に発表していたグループだ。
今村空樹は、“未知の記憶”から発生した奇妙で新しい音楽を読み解く旅の進路を開拓した。中近東、ギリシャや東ヨーロッパの民謡に影響されたこのバンドの欲望は秘境の異質さを探求すること…起源への回帰だ。
生み出されたサウンドは古賀俊司によるベースと迎久良による“波形的な”マンドリンの不気味な装飾リズムのコンビネーション。本作のリリース直前に今村氏は自身の歌詞を「リーディア主義」と称する架空のオカルト科学の用語(造語)を使ったものだと語っている。
結果、谷口純平とみなみなみ子による電子伴奏により併記された他民俗(エイリアン・フォーク)への感傷によって、夢の風景は当時のテクノ・ポップが回帰したテーマ、ノアールと誘惑、の呪文を模索する。聴覚的なビジョンと奇妙な音楽的な愛が魔性の女(ファム・ファタール)、シギリアン・レディと一体となった。

remodel 42 V.A.『Vanity Box Ⅱ』

発売日:2020年12月11日
定価:¥8,000(-税別)
品番:remodel 42
仕様:
□ブックレット1 8P
□ブックレット2 じゃばら
□ポストカード 5 枚
□オリジナル ボックス(135×135×22mm)
□CD5 枚組(紙ジャケット)BOX SET

Amazon  https://amzn.to/32iwUmi
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V.A.
Vanity Box Ⅱ

CD1 DADA – 浄
CD2 Aunt Sally – Aunt Sally
CD3 あがた森魚 – 乗物図鑑
CD4 Normal Brain – Lady Maid
CD5 R.N.A. Organism – Unaffected Mixes

remodel 42
11.Dec 2020 release
8.000yen+tax

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日本初のインディペンデント・レーベルの1つともいわれ70年代末から80年代初頭の日本の自主制作/インディーズ音楽シーンを語る上において欠くことのできない重要な存在であるVanity Records。本作『Vanity Box Ⅱ』はそのカタログの中からDADA『浄』、Aunt Sally『Aunt Sally』、あがた森魚『乗物図鑑』、Normal Brain『Lady Maid』を収録し、更に今回が初リリースとなるR.N.A. Organismの未発表音源集『Unaffected Mixes』を加えたCD5枚組のボックス・セット。1978~1980年までのおよそ2年ほどの期間でリリースされたこれらのアルバムからは、この時期における「時代のムード」の激しい移り変わりが窺い知れる。

<作品概要>
『Rock Magazine』編集長の阿木譲によって1978に設立され、パンク以降の価値観で活動する新たなバンドや、バンド活動を経た音楽家のオルタナティブなアプローチ、時代の先端としてのエレクトロニクス・ミュージックやインダストリアル・ミュージックなど、同時代の先鋭的な音楽動向をいくつかの側面から捉えてみせたVanity Recordsは、日本初のインディペンデント・レーベルの1つともいわれ70年代末から80年代初頭の日本の自主制作/インディーズ音楽シーンを語る上において欠くことのできない重要な存在だ。
本作『Vanity Box Ⅱ』はそのカタログの中から1978年リリースのDADA『浄』、79年リリースのAunt Sally『Aunt Sally』、80年リリースのあがた森魚『乗物図鑑』とNormal Brain『Lady Maid』を収録し、更に今回が初リリースとなるR.N.A. Organismの未発表音源集『Unaffected Mixes』を加えたCD5枚組のボックス・セットである。
Vanity Recordsの記念すべき最初のリリースであり同時代の(ObscureからAmbientへと至る)イーノの動向への眼差しも感じられるDADA、当時の関西パンク・シーンにおける伝説的なバンドの一つでありPhewがボーカルを務めたことでレーベルのカタログ中でも特に知名度の高い一作となっているAunt Sally、フォーク歌手としてのイメージの強かったあがた森魚をテクノ・ポップのコンセプトでプロデュースした『乗物図鑑』、そして2020年現在まで関西を拠点にインスタレーションやサウンド・オブジェの制作など、音に対する「気付き」に基づく活動を続けている藤本由紀夫によるユニットNormal Brainまで、およそ2年ほどの期間でリリースされたこれらのアルバムからは、この時期における「時代のムード」の激しい移り変わりが窺い知れる。
そして今回初めて世に出ることとなったR.N.A. Organism『Unaffected Mixes』についてはバンドのプロデューサーある佐藤薫氏よりコメントをいただいたので引用させていただく。
“R.N.A. Organism唯一のLP『R.N.A.O MEETS P.O.P.O』(Vanity 0006, 1980)は、比較的ストレートなミックスを中心としたトラックでアルバム化された。しかし、メンバーとプロデューサーによってミックス/カットアップ/エディットされた、多くの別ミックス/ヴァージョンがカセットテープで残され40年間眠り続けてきた。このたびその一部をアルバム『Unaffected Mixes』として発表する機会を得た。”
いわば『R.N.A.O MEETS P.O.P.O』の「衣装違い」のような存在といえるだろうか。Vanity0007以降エレクトロニクス・ミュージックへ大きく踏み出すこととなるレーベルの動きを知る現在から見れば、このアブストラクトなミックスは(その時点でリリースされることはなかったものの)そういった後の動向を示唆する存在のようにも思える。結果的に「影」のような存在となってしまったこのような音源もまた、当時の先鋭的な音楽動向がどのように察知され、形作られていったかを物語る重要な一部である。
また、今回のDADA『浄』のデジタルリマスタリングは宇都宮泰ヴァージョン(マーキー/べル・アンティーク・レーベル)を使用している。
よろすず

KYOU-036 V.A. (サロンキティ /ヴィオラリネア/BCレモンズ)『fantin latour(3CD)』

発売日:2020年12月18日
定価:¥4,000(-税別)
品番:KYOU-036

Amazon  https://amzn.to/31RdeWH
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V.A. (サロンキティ /ヴィオラリネア/BCレモンズ)
fantin latour(3CD)

CD1. Salon Kitty / 植物
CD2. VIOLA RENEA / SYGUIRIA LADY
CD3. THE BC LEMONS / SUPER SINGLE

KYOU-036
18.Dec 2020 release
4.000yen+tax

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1984〜85年ポストVanity Recordsを意識して展開されたfantin latour Records。リリースした3枚のレコードをオリジナルマスターテープより初CD化。また当時を知る宇都宮 泰氏がすべてのデジタルリマスタリングを担当。ファンタン ラトゥール レコーズのリィシュー完全版3CD BOX SET完成‼︎

<作品概要>
Salon Kitty / 植物
ヴィオラ、アコーディオンを中心にした音世界の上にファルセット・ヴォイスや詞が重ねられるサロンキティの音楽は、日本の「間」と通底する。茶室や日本庭園の、無いものと有るものの絶妙な調和は、サロンキティのゆったりとした間の取り方や、音と音の間、声と声の間に充満しているものを生かす為にこそ音を奏するという態度に継承されている。限りなく涼しく、冷たく、華やかな音楽。宗達の「かきつばた」の絵が想い出される。
(REV Vol.2 1985.4.20レコードレヴュー/田中浩一より抜粋)

VIOLA RENEA / SYGUIRIA LADY
ヴィオラリネアのサウンドは「未知の記憶」を打ち出す。その音はダイナミックなファンク・べースと細やかな装飾リズムを打つドラムを基調に、マンドリンが波打ち、リーディア教と称する神秘学上に立脚した造語を主にヴォーカルが展開されるものだ。特にマンドリンの使い方は、ギリシャ民族音楽を想わせる。中近東やギリシャ、東欧の民俗音楽を研究している彼等は、どこか遠い記憶の底にあるメロディーと、テクノ・ポップに共通の「クリミナル・ワールドとしての未来」を融合させ、そこにシギリアン・レディというファム・ファタールを置く。
(REV Vol.2 1985.4.20 レコードレヴュー /田中浩一より抜粋)

THE BC LEMONS / SUPER SINGLE
パンク以降からオルタナティブへの流れは大変興味のある事でした。必然的にそうなるとも思っていましたが、それは同時にロック・ミュージックがムーブメントから離れて個人的な傾向を強くしていくことを意味していたと思います。つまり当時の他の音楽を聴いて「僕もこういうことをしよう」などと考えることはもう違うのではないかと。混沌としたものではなく、すっかり上空へ抜けた感じにしたかったのです。以前から好きだった紀元前B.C.という響きと合う言葉や意味を探していてLemonsを合わせました。ロック・バンドという形を変えたくてアコースティック・ギターとドラム・セットなしの打楽器とオルガンぐらいではじめました。
ロック・ミュージックはとっくに終わってしまったのだとしても、真に感覚的な音楽というものはまだ目覚めぬ脳や感性の中に見え隠れしている。
(ヴァニティ インタビュー/飯田充宏 2020.9.17 Kyou Recordsより抜粋)

VANITY INTERVIEW
⑤ BGM

VANITY INTERVIEW ⑤ BGM
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


『BGM/Back Ground Music』のマスターテープ

『家具の音楽-その有用性について』

今回は白石隆之へのインタビュー。白石君と話をするのは40年ぶりだ。彼はあれから音楽を作り続けている現役のミュージシャンでもあり、感慨深いものがある。昨年の『Missing Link』に続き、今年は『Anthologia』をStudio Muleよりリリースしている。
そんな彼が、当時何を考えていて、そして今の時代の中で音楽を通して何を考えどのように読み取っているのか。耳という器官は眼球と違い塞いでも常に音は聴こえる。音そのものは気付きの現象であり、生活の中での音楽とは、そして音楽の有用性とは。今の時代にあえて問いたい。
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現在の白石隆之の活動に関してはこちらのホームページを是非アクセスして頂きたい。
https://www.takayukishiraishi.com

Studio Muleよりリリースしたアーカイブ・シリーズの配給元であるドイツのKOMPAKTのページはこちらを参照
BGM以降の白石隆之の活動の紹介されており、VANITY RECORDSのことにも触れられている。
https://kompakt.fm/releases/anthologia

BGM以降の作品はこちら(SoundCloud)から聴くことができる。

さて、白石隆之と話してみよう。

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当時デモテープと一緒に送ったBGMのアーティスト写真

☆白石隆之(BGM)
●嘉ノ海幹彦

●さて白石君と呼ばせて頂きます。というか今でも君の事は憶えています。『Back Ground Music』のレコーディングの際にもスタジオで立ち合ったし、コジマ録音からレコードが納品された後にジャケットを糊付けして出荷しました。そもそもVanityからリリースされたのはどのような経緯だったのですか?

☆記憶を辿りつつ、ちょっと手前の話から…。僕は中学に入った頃から輸入盤店に通ってレコードを買ってはいたものの、なかなか自分にしっくり来るものが無く、とりあえず洋楽(死語ですね)の全体像を掴む為に色んなジャンルのものを勉強みたいな感じで聴いていたのですが、中学2年の時にパンクと出会って、あぁこれは自分達のムーブメントだと感じてのめり込みました。

でも僕の興味はどちらかというとパンクのデザイン面や、メジャーの作品とは異なる荒い録音(音質以外にもリハーサルテープのような雑な終わり方とか)の感触だったりしたので、3コードのロックンロールを自分でやるという気持ちにはならなかったのですが、その直後に今で言うポストパンク、ノーウェーブ、インダストリアル・ミュージックが表出して来て、別にワンコードでも構わないし、特にルールなんて無いのだと感じ、1979年に入った頃、カセットテープレコーダーで録音を始めました(特に、その頃出た『No New York』を聴いたのが大きなキッカだと思います)。楽器が少し出来る友達や、その友達の友達にフレーズやパターンを口で説明し「ヘタにオカズとか要らないからシンプルに反復して欲しい」と言って録音して来たドラムやベースの上に自分で音を重ねて行くというのがその頃の基本的な作業パターンです。

そんな感じで、ほぼまともな音楽的知識も無いまま試行錯誤しつつ色々作ってみたのですが、従来のロック的なパフォーマンスが苦手だった為ライブハウスに出る気にはならず(そもそもバンドではないですし)、それよりも録音芸術としてのレコードの方に興味があったので、どうしようかと思っていた頃、当時ほぼ毎号買っていた『ロック・マガジン』が運営するVanity Recordsがパンク以降の音に移行したことを知り、何はともあれ送ってみたという流れです。それが1980年の2月くらいだったかと(その時は高2でした)。早々に阿木さんからアルバムを出したいという電話が来て、一旦レコーディングの日取りも決まった後に少し延期させてくれとの連絡があり、結局1980年の7月に楽器を弾いてもらうメンツを連れて新幹線で東京から大阪へ行き、スタジオに入って1日でレコーディングしました。

☆余談ですが、テープを送る数ヶ月前、地元の飯田橋の本屋で僕が立読みしている時、たまたま嘉ノ海さんがロックマガジンの営業に来て、僕が声をかけて喫茶店で少し話しをしたことをさっき思い出しました。

●そのことは僕も覚えている。飯田橋にあった今はなき文鳥堂という本屋ですね。白石君は学生服だったよね。さすがに会話の詳細は憶えていないけど、音楽のことや作品を作っていることも話していた。当時はまだ東京の『ロック・マガジン』千駄ヶ谷事務所があり、名刺を持って書店回りをしていた時期だった。その時の会話の内容は覚えている?

☆文鳥堂は小さい出版社の個性的な本や雑誌も置いていたので、学校の帰りにほぼ毎日寄っていました。嘉ノ海さんが文鳥堂の店員と話している映像と喫茶店の中の映像は断片的ですが頭の中に割とハッキリ残っていますよ。会話の内容に関しては僕も朧げです。

●記憶は常に変化する幻影だからね。さて話を戻そうか。ブライアン・イーノプロデュースの『No New York』には僕も衝撃を受けました。リリースは1978年ですね。この作品には布石があって、まず1975年-1978年の「Obscure Rcords」で実験音楽そのものを問い直した。並行して1977年にソロ・アルバム『Before and After Science』のリリースとニューヨーク・パンクのトーキング・ヘッズのプロデュース。そして同時期の1978年に「Ambient Music」というコンセプトでイーノ版「家具の音楽」としての『Music For Airport』を発表している。

☆ポップミュージックと実験音楽の間を行き来する当時のイーノの振れ幅の大きい動きには非常に刺激をうけたし、彼のおかげで知った音楽も多いです。オブスキュアや『Music For Airport』と平行して『No New York』をプロデュースする辺り、イーノは信用出来るなと思いました。BGMはポストパンクやノーウェーブへのリアルタイムのリアクションでしたが、1970年代半ばから1981年頃までのイーノの動きから受けた影響は、BGMを終了させた以降の自分の核になっているように思います。自分にとってイーノとコニー・プランクは大きい存在ですね。

●なるほど。そのような状況の中で「YMO」の『BGM』に先駆けて、BGMの『Back Ground Music』が1980年9月にリリースされたんだね。「YMO」のコンセプトがどうなのか知らないけど、君の方が早いよね(笑)。
いずれにしても当時、僕らは音楽の流れの中で同時代性を感じていた。だから『ロック・マガジン』でもエリック・サティの「FurnitureMusic」すなわち「家具の音楽」を編集したんだ。
ところでB.G.Mの由来は?どんなこと考えていたの?

☆例えばマーク・スチュワート達が自分達のバンドにTHE POP GROUPと名付けたことと同じような意味合いですね。皮肉でもあり、同時に真でもあるという。実際に自分達が生活している背景で鳴っている音…地下鉄の走行音、隣の部屋から漏れて来る話し声、遠くから聴こえる工事現場の反響音などなど、それこそが都市で暮らす自分にとってのBGMであるという意味を込めて付けました。BGMのアルバムに収録した曲の中で具体音(ガレージで録音した足音)を使用したのは”Mix”だけですが、楽器パートと同じ要素として具体音を使うというのは元々BGMのコンセプトでもあり、もっとそこを押し出すべきだったなと思います。レコーディングの時にも色々な音を録ったテープを持って行ったものの時間が無くて色々試すことが出来ず、そこは非常に残念に思っています。

●そうか。B.G.Mは「家具の音楽」と捉えていたけど、まさしくエリック・サティ的な諧謔的なネーミングだ。誤解している人が多いけど、「家具の音楽」は環境音楽とは根本が違うから。でも色んな音を録音して予め用意していたのは今はじめて知った。レコーディングを通していろいろ試したかったんだね。

☆まぁ若くて未熟だったし反省点が多くて、つい最近までBGMのことは記憶から消していた感じなんですけど、この時の体験が、自分の頭の中のイメージを正確に音化するにはエンジニアリングも含めて自分でコントロールするべきだということを真剣に模索するキッカケになったのは事実ですし、あれが今も音楽を続けている自分にとっての起点だと思ってます。因みに1986年以降の自分の作品でサンプリングを使うのも、当時テープを使用したことの延長です。

●じゃあ改めて僕も立ち合った「記憶から消していた」大阪のスタジオ・サウンドクリエイトでのレコーディングについて聞きたいんだけど(笑)。録音時、白石君は高校生だけど他のメンバーもそう?

☆そうです。全員学年は同じで当時は高3ですね。レコーディングの時、僕は17歳でした。

●メンバーのHarunobu Kawashima、Kenichi Ebisawa、Syuichi HashimotoはBGM以外に音楽活動してますか?

☆川島は後にDer Zibetというバンドのベーシストとしてメジャーで活動していましたが、他の2人は特にやってないんじゃないかと思います。川島は小中と同じ学校なんですが、EbisawaとHashimotoは川島の高校の同級生で、僕が川島に「ドラムを叩ける人とシンセ持ってる知り合いいない?」という話をしたら連れて来た2人です。ヴァニティのレコーディングの話が来てから声をかけたんじゃなかったかと思います。正直言ってBGMはバンドではなく、打ち込みで曲を完成させるのが未だ難しい時代に僕がイメージした音をカタチにする為の非常にエゴイスティックなものでした。実際に音楽的イメージをそれなりに共有出来ていたのは川島だけですね。他の2人には感謝していますが、レコーディング当日を入れて数回しか会ってないと思います。

●このレコーディング・メンバーでライヴとか演奏活動は行った?

☆いいえ。

●数回しか会ってないメンバーだとバンドとは言えないよね。
ところで、プロデューサーとしての阿木さんの役割はどんなものでしたか?

☆僕自身マルチトラックのレコーディングの手順も良く分かっていない状態だったので、ただでさえ余裕が無かった上に、レコーディング中、阿木さんが「君は音楽で何がやりたいんだ?」「君にとって音楽は何なんだ?」など非常に根源的な問いかけを浴びせながらガンガン圧をかけて来た為、更にテンパって大変でした(笑)。ドラムの音処理についてなどエンジニアの人に諸々質問しながら作りたかったのですけど、そういう雰囲気でもなく、とにかく僕としてはタイトなスケジュールの中でやれることをどうにかやり、僕が行き詰まった時には阿木さんも幾つかアイディアを出してくれて、何とか纏めた感じです。そんな感じでしたが諸々勉強にはなったし、機会をくれた阿木さんには感謝しています。

●当日、サウンドクリエイションで阿木さんがその話をしていたのを憶えているよ(笑)。費用的にも1日しかスタジオを使えなかったので、緊張感が半端なかった。その中で『BGM/Back Ground Music』は出来上がった。1980年はVanity Recordsにとって『乗物図鑑/あがた森魚』『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』『SYMPATHY NERVOUS/SYMPATHY NERVOUS』『Ready Made/Normal Brain』『2LP MUSIC/V.A.』のLPと『Polaroid/Sympathy Nervous』『Hide & Seek/Mad Tea Party』『You’ll No So Wit/Perfect Mother』の7″シングルが連続的にリリースされ一番動きのあった年だった。
ところで音楽とは違う質問なんだけど、7″シングル『Hide & Seek/Mad Tea Party』と『You’ll No So Wit/Perfect Mother』のスリーヴ写真は白石君が撮った写真って聞いたんだけど。

☆そうです。何故かクレジットが抜けていますが『Polaroid/Sympathy Nervous』のシングルも僕の撮影した写真です。あれらの写真はそもそも僕がBGMのデモテープと一緒にヴァニティに送ったもので、それをあの3枚のシングルに使用するという話は一切されないまま、店頭に並んでいるのを見て初めて知りました(笑)。

●全く知らなかったけど、そうだったんだ。そのあたり当時は普通にいい加減でした。僕も少しは関係があったので申し訳ない。しかし阿木さんは送られてきたモノや編集室にあったモノは素材としてしか見てなかった。だからいい素材を使って素敵なデザインして何が悪いっていうことになる(笑)。
話をもどそう。『ロック・マガジン』はいつから読んでいましたか?好きだった(気に入っていた)号は何号でしょうか?

☆最初に『ロック・マガジン』を買ったのはジョニー・ロットンとシドの合田佐和子さんによる鉛筆画が表紙の号だったかと。New York Rocker誌の翻訳やロンドン在住の羽田明子さんによるインタビューが多数掲載されていたA4の28号から33号までは、自分がBGMのことで関わった時期でもあり印象深いのですけど、紙の選別も含めて最も手作業感が強まった81年の35号から41号が特に本というモノとして気に入ってます。

●A4からB5サイズの時期は『ロック・マガジン』と出合って編集にも関わっていた時期と重なる。今でもその辺りの『ロック・マガジン』に愛着があるし、新しい音楽の動きがあるたびに版形も含め激しく変化していった。
ところで、当時聴いていた音楽は?叉影響を受けたアーティストやレーベルは?

☆1980年辺りに絞ってみると、アーティスト、グループとしては、PIL、DNA、元WIREのGraham LewisとBruce GilbertによるDomeやCupolなどのプロジェクト、This Heat、New Age Steppers、4人組の頃のDAFなどなど。あと並行してENOのソロやJon Hasselなど。

レーベルだと、前述のDomeの2人が運営していたDome Recordsの独特のこもった音質と、それに呼応するザラついたデザインセンスが印象に残っています。基本的に自分達の作品をリリースする為の非常にプライベートなレーベルでありつつ、ストリートで自作楽器を演奏していたMichael O’Sheaに声をかけてリリースするような自由さもイイなと。

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白石隆之撮影 ZINE『dʌ́b』より

※白石隆之のルーツに関しては、今年の7月にオーストラリアのネット・メディア、Low End Theoristsからオファーされ、「影響を受けた音楽」というテーマで作ったSpotifyのプレイリストがあるので、こちらを参照願いたい。

またLow End Theoristsの記事はこちらを参照。
https://www.lowendtheorists.com/playlists/takayuki-shiraishi-selects-his-biggest-musical-influences

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●DomeやCupolは工業神秘主義音楽。羽田明子のインタビュー記事もあったし『ロック・マガジン』で紹介したミュージシャンですね。上げてくれた音楽は極めて同時代性を感じる。
逆に現在関心があるアーティストはいますか?

☆思うところがあり、一昨年くらいからクラブでDJするのをやめてからは半分意識的にあまり音楽を聴かないようにしていたのですが、今年からは数ヶ月ごとにレコード屋のサイトをハシゴして新譜を片っ端からチェックすることはやってます。以前は12インチ中心に買ってましたが、今はLP中心に変化していますね。

ここのところ気になっているコトというと、ウガンダのレーベルNyege Nyege Tapes周辺のアフリカのアンダーグラウンドなシーン経由で出て来るMetal PreyersやNihiloxicaなどの動きです。アフリカの呪術的な要素と現在のインダストリアルでエレクトロニックなテイストの音が融合した謂わばアフリカン・ゴシックと言うべきもので、久々に興味深い動きだなと思ってます。アフリカの音楽への西洋からの返答に対する更なる返答という感じで、音的にはCanや23Skidoo、そのCanのドラムのJakiが晩年に遺したコラボ作とかにも通じるものがあり、影響は巡り巡るものだなと改めて思いました。その他で今年聴いて印象に残ったアルバムというとMinaeMinae『Gestrüpp』、 Roméo Poirier『Hotel Nota』、Hiele『Stadspark』とかでしょうか。それぞれ独特の捻れたウネリをもっているところがイイなと思います。

●その辺りは全く知らないけど、呪術とインダストリアルって工業神秘主義的なんだろうか。一度探ってみようと思います。それらの中から2020年の音楽をどのように読み取っていますか?(ヴェイパーウェイブなどの動きも含めて)

☆今年の初頭であれば、前の質問で答えたアフリカのアンダーグラウンドシーンのように欧米以外の様々な地域から従来のイメージを覆す音が更に出て来るだろうとか大雑把な答えをしていたと思います。新型コロナが出て来て、今後マーケットに限らず、それぞれの地域の音楽性にも大なり小なり影響を及ぼすであろうし、それは一体どのような変化なのだろうかとか考えつつ、自分自身も当事者なので2020年を読み取る余裕などなく混乱の真ん中にいます。

ヴェイパーウェイブについては、きっとアノ辺の音を指すんだろうなとボンヤリ横目で見ていたような認識しかないのですが、独特のノスタルジーとかネットとの関係の深さも含めて、その背景については少し興味はありましたし、ちょっと前に色々と論じる対象となっていたのは理解出来るのですけれど、自分にとって快楽を得られるタイプの音楽では無かったですね。ヴェイパーウェイブというと2012年くらい?のイメージですが、その頃はレギュラーパーティーを持っていたし、抽象度高めなディープハウスやテンポの遅い分類しにくいテクノとかを混ぜて如何に客をグルーヴの中に巻き込むかということを試していたので。

●人と社会との関係性についての質問です。現在の後期資本主義的社会をどのように感じていますか?

☆資本主義の拡大と、人種の分断、差別、格差は結果的にひとつのパッケージになっていたと思うのですが、非常にグロテスクで息がし辛い社会が出来上がってしまったなと思います。現在は新コロナによって、その歪さが炙り出されている状況で、今後この資本主義社会がどのように変化するのか、変わらないのか、更に加速するのか。とりあえず個人としては安易なニヒリズムに落ち入らず、少しでもマシな社会になるよう日常の中で考え、声を上げていかないといけないなと至極シンプルに思う今日この頃です。自分だけ居心地が良い社会というのは存在しないので。あとネット社会というか、ネットに関しては可能性を感じながら日常的に「気持ち悪いなぁ」と思いながら使ってます。

●今後の活動のプランを教えてください。

☆昨年8月に1980年代後半の未発表曲をまとめた『Missing Link』、10月にBGMのヴァイナル・リイシュー、今年の5月に1990年代前半に制作した曲からピックアップした『Anthologia』という僕の音楽的変遷を辿るStudio Muleからのアーカイブ・シリーズ(配給はドイツのKompakt)をひと段落させ、現在は、自分がここ数年撮影して来た多重露光の写真作品を編集したZINEと、A面に2020年の新曲、B面に1986年の未発表曲を収録した7inchレコードをセットにした dʌ́b[ダブ] というタイトルの作品を製作中です。これは同時にスタートさせる HERE. という名の僕のプライベート・レーベルからリリースします。大体今年の12月くらいになるかと。

ネット配信も利用はしますが、一方で「取り出す」「ページをめくる」など、触れることを意識したフィジカルなモノを作りたいという欲求が自分の中で強くなって来ているので、それを具現化して行ければと思いますし、別にコンセプチュアルなものにする気はないですが、「A面とB面」とか「音質と収録時間の関係」とか「傷がつく」とか「絡まる」とか、それぞれのメディアの特徴を考えながら遊べればと思います。あと昨年に過去作のアーカイブ化作業をする中で、40年前から現在に至る時間の流れが一旦リセットされ、過去も現在も関係なく並列されたような感覚になったのですが、その辺りも反映されることになるでしょう。

曲作りやリリースに関しては、ここ10年くらいずっとモチベーションが上がらず腰が重くなっていたのですけど、結局のところ一寸先は闇だし、予想を立てても大体外れるものなので、足取り軽めにやっていこうというのが今後の指針です。

●これからの音楽芸術はどのようになっていくと思いますか?音楽を制作するに当たりどのようなことを考えていますか?また白石隆之にとって音楽とは?阿木さんみたいなってきた(笑)。

☆これからの音楽芸術がどうなっていくかという問いは大き過ぎて答えは出ませんが、この先も音楽は生命体のように変化し続けるだろうし、その潮流に巻き込まれることを楽しみたいと思います。自分にとって音楽とは何か?ということについては常に考えているとも言えますし、同時に考え過ぎないようにもしています。言うならば自分にとって音楽は、この世界の本当のカタチを探知する為のソナーみたいなものだと思ってます。まぁ、とにかく精神的にも肉体的にもサヴァイブ出来ればと思います。

●アーティストの役割は、時代を歴史に関連付けて少し未来を見せることだと思っています。
このことと関連があるんだけど、最後の質問です。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対してどのような感想をお持ちでしょうか?生きている間にこのような時代(世界が民族や言語を超えて同時に同じ惨禍にある)と対峙することは、幸運にも(失礼)そうそうあることではありません。

☆こんなにあっさりと社会を劇的に変化させる存在が出て来たことに驚きました。人と人との距離を引き離して密接なコミュニケーションをさせないようにするしつこさを思うと、このウイルス自身に何か特別な意思でもあるのでは?とか馬鹿な妄想をしてしまいます。とは言え、人類は今まで何度もパンデミックを通過して来たわけですし、こういう変化はやはり唐突に容赦なく当たり前にやって来るものなんだなと小さい溜息をつきつつ、それでも続く日々を過ごしてます。まぁ人間の経済活動が止まった状態の方が人間以外の存在は生きやすいだろうし、4月の緊急事態宣言の時の、人が殆ど出歩いていない東京の街なかの光景を見て「これはこれで落ち着くな」と思ったのも事実ではありますが…。しかし、なかなか巧妙に人間の心理面をついて来るウイルスですね。何やら色々と試されているような気分です。

●人間の身体の中には常に内なるものとしてのウイルスが存在しているし、生命の進化(変容)と関係があるのかも知れない。音楽そのものがウイルス的機能を持ったものであるとすれば、音楽における有用性とは逸早く察知反応し時代に働きかける恩寵だと思ってます。恩寵とは新しい世界を見せてくれて、同時に危機意識に働きかけてくれる気配みたいなものじゃないかな。

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白石隆之撮影 ZINE『dʌ́b』より

▼インタビューを終わって

☆嘉ノ海さんとのやりとりによって自分の頭の中の区画整理がちょっと出来たような気がします。今回色々と当時を思い出したりしつつも懐かしいという感情が全く湧かないのは、あの地点から続く延長線上に今の自分がいるからなのでしょう。

最後にちょっと阿木さんのことを。僕の90年代以降の音楽的変遷というとデトロイトテクノ、アンビエントハウス、ブレイクビーツ、アブストラクト・ヒップホップ、エレクトロニカ、レフトフィールドなハウスなどなど、そこから更に続くという感じなのですが、辿ってみると90年代以降の阿木さんも似たような弧を描いて流れていたんだなと思います(阿木さんがハードコアテクノからガバに行った期間とストレートなジャズに行った期間は除きますけど)。90年代初頭、僕が後にR&S傘下のApolloからリリースされることになる曲を作っていた頃、阿木さんが無謀にも大阪でM2というテクノオンリーのクラブを始めてDJもやっていると知り、ちょっと驚きました。その後、大阪に遊びに行った時にM2で10年ぶりに再会し、その数年後に彼の次の店、カフェブルーに呼ばれてDJをしたのですが、阿木さんと言葉を交わしたのはそれが最後になります。正直言って阿木さんのクラブミュージック以降の音楽の捉え方にはかなり違和感を感じる部分もありますが、80年代辺りで止まったままの人が多い中、亡くなるまでひとつの場所に留まらず自分のやり方を貫いたのだなと。まぁ色んな人に迷惑かけながらでしょうけど、諸々含めて阿木さんらしい一生だったのではないかと、そう思います。

●インタビューを終わって
答えにくい質問もあったかも知れないけど、答えてくれてありがとう。白石君がどのようなことを考えていてこれからどのように継続的に動こうとしているのかわかった気がした。メールインタビューの最中に君の『Missing Link』と『Anthologia』を阿木さん晩年の「場所」であるenvironment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ]の音響システム で聴いた。引き継いだ今のオーナーである平野隼也君が「めちゃくちゃカッコいいですね」と言ってた。僕はこの色彩を帯びた作品を聴きながら0gの壁に映った音の影を見つめていた。しかし不思議と懐かしいとかそんな感情はわかなかった。白石君、今度大阪に来る機会があれば是非一緒に行きましょう。
本当にこれからの音楽活動を楽しみにしています。次回はメールじゃなくてゆっくり話をしようね。

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白石隆之撮影 ZINE『dʌ́b』より

『Missing Link』(2019)と『Anthologia』(2020)について・・・・・白石隆之

『Missing Link』は、ニューウェイブが失速し、一方でON-U周辺とヒップホップの接点からTackheadみたいなものが生まれたり、ノイズ系がアンビエントや宗教音楽的な方向に行ったりと、次の予兆を感じさせつつも混沌とした1980年代後半の空気の中で録音していた作品をまとめた未発表曲集で、『Anthologia』は、僕が80年代末にデトロイトテクノやシカゴハウスと出会い、そのエッセンスを吸収した後、定型にとらわれずに自分なりの表現に辿り着こうと様々な実験をしていた頃(1990-1996)の曲をコンパイルしたものです(8曲中3曲は未発表、5曲は90年代の後半にリリースされました)。

これらのアーカイブをリリースすることになったキッカケ自体は自発的なものではなく、多分に受動的なものでした。背景として、海外の音楽マニアやバイヤーによる80年代の日本の音楽の発掘ブームが2010年代初頭辺りからあり、その対象は所謂シティポップとアンビエント/ニューエイジ系がメインで様々な作品がリイシューされましたが、いつしか音源の掘り起こしは80年代の日本のニューウェイブやエクスペリメンタルな音楽にも拡がり、Vanity Recordsのリイシューに対する海外からの注目もそういう流れのひとつと言えます。

僕自身はその辺りの発掘/リイシューのブームに興味は無かったし、距離を置いていたのですが、2018年にStudio Mule(母体はヨーロッパでの評価を確立している日本のダンスミュージック・レーベル Mule Musiqで、Studio Muleは日本の音楽の再発をメインとしたサブレーベル)からオファーを受け、最初は余り積極的になれなかったものの、とりあえず放置していた大量のDATやカセットを引っ張り出し、ひとつずつ聴き直す作業を続けていくうちに、当時の自分がやろうとしたこと、その後の自分に繋がっていくこと、その後捨てたもの、ずっと一貫して底に在るものなどが色々と客観的に見えて来た感じがして、BGMから始まる自分のキャリアを点ではなく線として流れが分かるように海外に示しておく良いタイミングだと思い直し、前向きにアーカイブ作業をした次第です。

2000年代にリリースしたアルバム『Slow Shoutin’』『S as in Soul.』や、今回のアーカイブからハズしたアンビエント/エクスペリメンタル系の作品なども、今後、新しい制作と平行してカタチに出来ればと思っています。
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BGMのデモテープ

VANITY0008『BGM/Back Ground Music』1980/09
白石隆之の作品。まだ高校生だった彼は大阪に来てVanity Records作品の多くをレコーディングしたサウンドクリエイションにおいて1日で録音した。
『ロック・マガジン』では「家具の音楽」を特集していたが、「家具の音楽」とは、元々フランスのベル・エポック時代の作曲家エリック・サティが「家具のように、そこにあっても日常生活を邪魔しない音楽、意識的に聴かれることのない音楽」をコンセプトとしていたものだ。「家具の音楽」の思想はその後ブライアン・イーノによって「Ambient Music」へと昇華させた。
Vanity Recordsの『BGM/Back Ground Music』(1980/09)もこの系譜に位置される。
1980年代以降音楽が新たな展開を見せる前夜に出された「Erik Satie Funiture Music特集」号(1980/11)では、サティの音楽や思想そのものの捉えなおしを行い、工業神秘主義音楽などオルタネイティヴな世界への準備を行ったのである。
その展開としての”Back Ground Music”は、ブルガリアの思想家エリアス・カネッティ『群集と権力』で記述されているアーケードの中の群集、大衆の中に存在する潜在意識、意識下で蠢く醒めた欲望機械のための音楽だ。群集の複数の足音は、ある瞬間から創発性をおび時代の意味深長なリズムとなり、体内整流音楽へと変化する。『BGM』は突如として身体に現れる創発性の音楽として意識された。
ちなみに同じタイトルの「YMO」の『BGM』は1981年3月にリリースされたが、全く異なる音楽である。
【Vanity Recordsと『ロック・マガジン』1978-1981より】

ヴィオラ リネア『シギリア レディ』 LPライナーノーツ用メールインタビュー

ヴィオラ リネア『シギリア レディ』
LPライナーノーツ用メールインタビュー

――ヴィオラ・リネアなどのバンドが活動していた1980年代初頭の大阪の「シーン」について少しお伺いしますが、東京とはどのように違いましたか?またどのような特徴があったのでしょうか?

ヴィオラ・リネアが活動していた1984~85年頃の2年間は大阪にシーンは存在していませんでした。音楽がファッション=モードとなりロックエンドが具現化した時期だと思います。また東京の状況もEP-4の佐藤薫氏がプロデュースしたレコードレーベル「WECHSELBALG」での展開と当時、すでに英国のNMM紙に紹介されていたメルツバウの影響は個人的には大きかったがはたしてシーンと呼べるものであったかは疑問に思います。

 

――当時の大阪の音楽シーンの中でヴァニティ・レコードなどのレーベルの影響力は大きかったのでしょうか?

ヴァニティ=ロックマガジンの影響力は一部にはあったと思いますがリスペクトするリスナーと反発するリスナーが同じバランスでした。反面教師として新しくレーベルを立ち上げた人たちが後にシーンを形成していったのでやはり影響力は強かったのでしょう。

 

――ヴィオラ・リネアとは何者で、彼らにはどのようなストーリーがあったのでしょうか?

ヴィオラ・リネアのリーダー今村空樹はインディレーベル「かげろうレコード」を主宰。「ヴィオラ・リネアを聴くならば夢が現実に反撃するための一つのパワーを得ることになるでしょう。」という当時の今村空樹の言葉通りバンド活動とレーベル展開をしていたアーティスト集団がヴィオラ・リネアであった。

 

――このバンドは、いくつかのエレクトロニックな要素と、いくつかのゴシックな要素、そして際立ったエンジニアリングが混成した魅力的なサウンドを持っていたと思います。本作は非常に不気味なアルバムであり、曲のタイトルは離島や異国情緒あふれる場所について語っています。このアルバムのサウンドやストーリー性の背景にある考え方について教えてください。

ヴィオラ・リネアのサウンドは「未知の記憶」を打ち出す。その音はダイナミックなファンク・ベースと細やかな装飾リズムを打つドラムを基調に、マンドリンが波打ち、リーディア教と称する神秘学上に立脚した造語を主にヴォーカルが展開されるものだ。特にマンドリンの使い方は、ギリシャ民族音楽を想わせる。中近東やギリシャ、東欧の民俗音楽を研究している彼等は、どこか遠い記憶の底にあるメロディーと、テクノ・ポップに共通の「クリミナル・ワールドとしての未来」を融合させ、そこにシギリアン・レディというファム・ファタールを置く。
(REV Vol.2 1985.4.20 レコードレヴュー田中浩一より抜粋)

 

――Fantin Latourについて、このレーベルを立ち上げたアイディアやヴィオラ・リネアとの関係についてお話しいただけますか?

ファンタン ラトゥールというレーベルのネーミングはニューオーダーのセカンドアルバム「POWER CORRUPTION & LIES」のジャケットに使用された絵画を描いた画家の名前を使用した。「FACTORY」に対するリスペクトからだった。1984年ロックエンドを強く意識した結果、自分自身がどの程度感動出来たのかが唯一の目安でアーティストを選択。サロンキティ、ヴィオラリネア、THE BC LEMONS、3アーティストをリリースして終了した本当に小さな個人的なレーベルでした。

以上

remodel 35 V.A.『VANITY MUSIC(2CD)』

発売日:2020年11月20日
定価:¥3,000(-税別)
品番:remodel 35
仕様:
□CD2枚組(紙ジャケット)BOX SET
□ヴァニティロゴステッカー
□ポストカード5枚
□オリジナルボックス(135×135×17mm)
□ブックレット32P
( 2019年リリース VANITY BOX 封入と同内容。20ページに及ぶ当時のヴァニティ広告を掲載。資料的価値が高く封入)
□オリジナルマスターテープよりデジタルリマスタリング

Amazon  https://amzn.to/2EJCnKs
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V.A.
VANITY MUSIC(2CD)

〈CD-1〉
01. PESSIMIST  SATTYUZAI
02. UNABLE MIRROR  HISCHOOL PIGS
03. UNABLE MIRROR  IGNORANT ANIMAL
04. MR  213
05. ANODE/CATHODE
…OF THE PASSIVE VOICE THROUGH THE LIGHT
06. KIIRO RADICAL  DENKI NOISE DANCE PART 1
07. KIIRO RADICAL  DENKI NOISE DANCE PART 5
08. KIIRO RADICAL  DENKI NOISE DANCE PART 6~7
09. KIIRO RADICAL  DENKI NOISE DANCE PART 8
10. KIIRO RADICAL  DENKI NOISE DANCE PART 14
11. TOKYO  CASSETTE TAPE

〈CD-2〉
01. DAILY EXPRESSION  INKA SANKA 1
02. DAILY EXPRESSION  INKA SANKA 2
03. PLAZMA MUSIC  GREEN BRAIN
04. NOSE  DOLBY NR ON
05. NEW YORK  1976
06. ARBEIT  BUNDES NACHRICHTEN DIENST
07. INVIVO  ISOLATION
08. NECTER LOW  ARTIFICIAL ONE

remodel 35
20.Nov 2020 release
3.000yen+tax

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ロック・マガジンへ全国から送られてきた100本以上のカセットテープの中から13組を選出しVanity Recordsより1980年12月にリリースされた2枚組LP『MUSIC』それまでのVanity Recordsのリリースとは異なり、カセット音源をそのまま収録するというアプローチによって宅録/DIYムーブメントの初期を生々しく捉え、来る80年代の音楽状況を予見する一作。

<作品概要>
1980年12月にVanity Recordsよりリリースされた2枚組LP『MUSIC』は、ロック・マガジンへ全国から送られてきた100本以上のカセットテープの中から13組を選出し収めたコンピレーション作品であった。
1978年に設立されたVanity Recordsは英Virgin Recordsなどをはじめとする海外のインディペンデント・レーベルに刺激を受け、レコード産業の思惑に左右されないミュージシャン主体のリリースを指向し、無名だが才能をもったアーティストにレコード製作という機会を与え、それを活用しより広く活動してもらうことを目的としていた。
レーベルのリリースにはパンク以降の価値観で活動する新たなバンドや、バンド活動を経た音楽家のオルタナティブなアプローチを短期間のレコーディングでパッケージしたものなどが並んでいたが、より電子音楽的傾向の強い作品(SYMPATHY NERVOUS、BGM、Normal Brain)をリリースする中でロック・マガジン編集部には全国の無名のアーティストから多数のカセットテープが送られてくることとなる。
この“動き”から以降の音楽の動向をつぶさに察知し、来る80年代の音楽状況を予見するものとして、“動き”をより生々しく伝えるためカセット音源をそのまま収録するというそれまでとは異なるアプローチで制作されたのが2枚組LPのコンピレーション作品『MUSIC』だ。
後のカセットリリースへと繋がっていくVanity Recordsの新たな動向を紐解くうえでも、Throbbing Gristleの登場以降世界中に波及していった宅録/DIYムーブメント初期のドキュメントとしても意義深い作品だ。

よろすず

remodel 27 tolerance『Today’s Thrill』

発売日:2020年11月20日
定価:¥500(-税別)
品番:remodel 27

Amazon  https://amzn.to/33eQ4uz
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tolerance
Today’s Thrill

1 Today’s Thrill

remodel 27
20.Nov 2020 release
500yen+tax

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東京の丹下順子によるプロジェクトtoleranceによる音源「Today’s Thrill」が初の単独CD化!この音源は『ロック・マガジン 32号』(1980/07)に付属のソノシートに収録されていたものである。Vanity Recordsからリリースされた2枚のLPの間の時期にあたる1980年に制作されたものと思われ、1stアルバム『anonym』の延長線的に響く要素も抱えながら“INDUSTRIAL MYSTERY MUSIC=工業神秘主義音楽”へと確実に歩を進めていることが嗅ぎ取れる1曲。

<作品概要>
Vanity Recordsより2枚のLPをリリース、レーベルの主宰である阿木譲がヴァニティ作品のフェイヴァリットに挙げ、NWWリストに選出されるなど同時代の作家への影響力も持っていた東京の丹下順子によるプロジェクトtoleranceによる音源「Today’s Thrill」が初の単独CD化。
この音源は『ロック・マガジン 32号』(1980/07)に付属のソノシート(vanity 2005)に収録されていたものであり、toleranceが2枚のLP以外では唯一世に出した音源となっていた。CD化にあたりオリジナルマスターテープから宇都宮泰がリマスタリングしている。
制作はおそらく2枚のLPの間の時期にあたる1980年。内容は静謐かつ無機的に打たれ続けるビートと囁くような声によって生み出される緊張感が聴きどころとなっている。
しっかりと輪郭を保った丹下によるエレクトリック・ピアノの演奏など1stアルバム『anonym』の延長線的に響く要素も抱えているが、演奏の方向性はフレーズの反復に徹した機械的な指向が強まっており、“INDUSTRIAL MYSTERY MUSIC=工業神秘主義音楽”へと確実に歩を進めていることが嗅ぎ取れる。静の様相の強いサウンドに突発的な動を差し込むように用いられたテープ・コラージュの技法も印象的だ。

よろすず

remodel 20 SYSTEM『Love Song』

発売日:2020年11月20日
定価:¥500(-税別)
品番:remodel 20

Amazon  https://amzn.to/30lnVjn
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SYSTEM
Love Song

1 Love Song

remodel 20
20.Nov 2020 release
500yen+tax

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大阪で短期間活動した女性5人組バンドSYSTEMの音源「Love Song」が初の単独CD化!この音源は『ロック・マガジン 36号』(1981/03)に付属のソノシートに収録されていたものである。抑揚を配した歌声はAunt Sallyを想起させずにおかないが、重苦しく打たれるドラムビートや音程のアウトしていくギターやベースからなる呪術的な演奏からはノー・ウェイヴの影響が伺え、繰り返し唱えられる「ねえ、地球っていつまでもつと思う?」という歌詞によって退廃性が前景化している。

<作品概要>
大阪で短期間活動した女性5人組バンドSYSTEMの音源「Love Song」が初の単独CD化。
この音源は『ロック・マガジン 36号』(1981/03)に付属のソノシート(Vanity8102)に収録されていたものであり、CD化にあたりオリジナルマスターテープから宇都宮泰がリマスタリングしている。
SYSTEMは佐用暁子が中心となって活動していたバンドで、メンバーは佐用に加え沢田弥寿子、大前裕美子、初田知子、芦田哉女の5人。
『ロック・マガジン 35号』(1981/01)のP88-89に紹介されており、編集部からメンバーに翻訳の依頼をしたこともあったようで、当時『ロック・マガジン』との繋がりが強かったバンドの1つであったとのことだ。
抑揚を配した歌声はAunt Sallyを想起させずにおかないが、重苦しく打たれるドラムビートや音程のアウトしていくギターやベースからなる呪術的な演奏からはノー・ウェイヴの影響が伺え、繰り返し唱えられる「ねえ、地球っていつまでもつと思う?」という歌詞によって退廃性が前景化している。

よろすず