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『阿木譲の光と影」シリーズ 第一弾 KENTARO HAYASHIインタビュー

『阿木譲の光と影」シリーズ 第一弾 KENTARO HAYASHIインタビュー
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

「魂に降り注ぐ音楽」

晩年の阿木譲に関わりのあったミュージシャンから話を聞きたいと常々考えていた。
まずは、阿木がその作り出す音響を「柔らかい機械だ」と高く評価し、信頼を寄せていた電子音楽家KENTARO HAYASHI。
そんな彼の作品『PECULIAR』は、阿木が亡くなってからremodelからCD、その後イギリスのOpal TapesよりLPとしてリリースされている。なぜ生きている間に阿木自ら立ち上げたremodelから世に出されなかったのだろうか。そんな思いもあり、話を聞いた。

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KENTARO HAYASHI (林 賢太郎)

紹介
https://opaltapes.com/album/peculiar
http://www.ele-king.net/review/album/008207/
https://twitter.com/KENTAROHAYASHI_
http://www.bath-studio.jp/

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●林賢太郎
○嘉ノ海幹彦

【阿木譲との出会い】

○こんな感じで林くんと話をしたことなかったよね(笑)。よろしくお願いします(笑)。

●そうですね。こちらこそ、よろしくお願いします(笑)。

○まずは、音楽との出会いは?どんなところから?

●学生の頃にギターを買って練習していましたが、友人がDJ Krushのレコードを聴かせてくれて、ミキサーで遊んでいるのを見て衝撃を受けて、クラブミュージックに興味を持つようになりました。

○具体的にはどんなジャンル? どんなミュージシャンが好きだったの?

●アブストラクトが好きでMo’ WaxやNinja Tuneのレコードを集めてました。ブリストル系も好きでしたし、HIP HOPのプロデューサーも好きで聴いてました。そのあとハウスやテクノに傾倒してDJをしていました。とにかくクラブでずっと遊んでました。ただしばらくして、それにも少し飽きてしまったのですが、それに変わる新しい音楽を見つけることができず、しばらくそこから抜け出せずにいました。その他のジャンルも幅広く聴いていましたが、自分がやる音楽という感じではありませんでした。

○自分がやっている音楽に停滞感を感じていたんだね。

●2009年のYCAM(山口情報芸術センター)での池田亮司のライブを体験したことで四つ打ちの呪縛から解放されて、何か新しい音楽やジャンルが生まれてくる可能性を感じたのを覚えてます。そのあとすぐには見つかリませんでしたが、しばらくして新しい音楽を見つけることができました。阿木さんとはそんなタイミングで出会いました。

○阿木譲のことが出てきましたね(笑)。阿木さんとの出会いは?いつ、どこで、どんな状況で?

●2013年にアーティストを検索していたら、何回か阿木さんのブログに引っかかって、この人誰だろう?と思ったのが最初です。0g(雑誌)の1冊目が販売されるタイミングで大阪阿波座のnu thingsに初めて行き、そこで初めて阿木さんに会いました。2014年1月27日です。

○阿木さんが新しいブログ「a perfect day」を2013年1月に再開したその頃の話だね。
以前のブログが復元されているけど、音楽を聴いて空気感なり時代感をリアルなものとして言語化している。 阿木さんらしさが感じられる独特なものだ。

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きょうRECORDSのHPで阿木 譲の晩年約10年間の資料的価値が高いブログが復元されている。(継続中)
以下がそのURLなのでアクセスして頂きたい。

「talkin’ about nu things」 Agi Yuzuru

「talkin’ about nu things」 Agi Yuzuru

CASCADES 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 / 阿木 譲

CASCADES 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 / 阿木 譲

BRICOLAGE 「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧

BRICOLAGE 「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧

KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧

KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧

NO WAVE 「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク

NO WAVE 「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク


「0g(zero-gauge)」Agi Yuzuru

「0g(zero-gauge)」Agi Yuzuru


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○この段階で新たに音楽を作り始めていた?

●企業に音楽を提供したりはしていましが、その頃はまだ自分の音楽は作れていませんでした。一時期オーディオ・ヴィジュアルが音楽の進化する形だと思っていて、色々と模索していましたが、しっくりきていませんでした。でも阿木さんがブログで紹介しているようなダークな音楽が、アブストラクトやブリストルの音と重なる部分があって、テクノやノイズ、現代音楽の要素を吸収して、進化して戻ってきたような印象を受けました。阿木さんはコンテンポラリー・モダン・ミュージック( Contemporary – modern music )と言っていましたが、アンダーグラウンドな雰囲気を持った音楽が、より洗練されて戻って来た感じで、新しいデザインがどんどん生まれてきて刺激的でした。ヴィジュアルがなくてもいいし、自分の中で音楽がまた先頭に立った感じです。真っ暗な中でテクノを聴いていたように、音に入っていけるような感覚があって、この頃にもう一度自分の音楽を作りたいと思い始めました。

○あのブログも言葉だけじゃなくて映像や画像やデザインも含めて『ロック・マガジン』や『EGO』みたいに編集していたと思っているんですよね。印刷物じゃないからひとりでどんなことも出来るしね。特に復元された過去のブログはその特徴が顕著に現れていると思うので、林君が阿木さんに出会う前のものなので見てみるといいと思う。
ところで、阿木さんと会ったときに印象は?

●怖そうなイメージでしたが、実際会うと気さくで紳士的な印象でした。音楽を作っている事を知って、「ミュージシャンの林くん」と紹介してくれたり。帰る時に「音楽頑張ってください」みたいに丁寧に言われて。

○その感じは昔から変わらないな。最後に阿木さんと0gで会ったときもそんな感じだった。

●初めて会った日に「これから音楽はどう進化しますか?」って質問したら、「まだわからない、まだ数が揃ってないから、はっきり見えない」と言っていて、正直な人だなと思いました。文脈をパズルみたいに組み立てるのが面白いと言ってました。俯瞰して見てるんだと。

○実際に話してみて阿木さんの印象は?

●音楽に対してまっすぐというか、70歳を超えても、まだまだ音楽で何かやってやるんだ、音楽しかない、音楽が一番面白いんだという姿勢が印象的で、僕にポジティブな影響を与えてくれていたと思います。

○阿木さんとの出会いが、その後の音楽家KENTARO HAYASHIに与えた影響は?

●阿木さんに出会わなければ、今のように音楽活動ができていなかったと思います。阿木さんに言われて、「SUBSTRATUM」というイベントを始めたのがきっかけです。1人でDJとライブをやってましたが、お客さんが少なくても、店の隅に座って聴いてくれて、感想やアドバイスをしてくれました。「間違った事はやってないんだから続けろ」って励ましてくれたり、気にかけてくれていたと思います。

○やっぱり、その辺りは昔と変わっていないな(笑)。

●阿木さんが今まで気にかけて、近くで活動したミュージシャンは沢山いると思いますが、僕もぎりぎり間に合った感じで、「林で最後だな」と言ってました。0gでイベントを続けられた事で今の自分のスタイルができたと思います。

○2014年からだと最後の4年半だね。そこからの付き合いは深かったね。

●月1ペースでやっていた阿木さんのイベントにはほとんど行ってましたし、阿木さんを通して新しくて刺激的な音楽に沢山出会いました。0gで新譜をみんなで聴くのは楽しかったです。阿木さんも「新しい音楽をみんなで聴いたり、話したりする時間が最高だよな」と言ってました。イベント終わりによくファミレスに行って話をしていました。

○今に繋がることとは?

●阿木さんの近くで先端音楽に触れたのは、今の自分の音楽スタイルに繋がっていますし、Opal Tapesのレコードを初めて聴いたのも阿木さんのイベントだったと思います。また0g で出会った人や、東瀬戸さん、中村さん、嘉ノ海さん、能勢さんとの縁も、今日のこの時間も阿木さん繋がりだと思います。東京のイベントに呼んでもらったりもそうですし、色々な人たちと繋がるきっかけになっています。遡ると阿木さんがいるみたいな感じです。

○毎年夏にベルリンに行っているよね。(現在はCOVID-19で中断)

●Berlin Atonalは刺激的で他にないから行ってしまいます。コロナがなければ続けて行っていたと思います。Kraftwerk Berlinの空間は独特で、「gargouille」(『Peculiar』より)はMAIN STAGEで体験した空間とその音響に影響を受けた作品です。STAGE NULLで朝5時ぐらいにPessimistがテクノからジャングルに繋げた瞬間、みんなが荷物や上着を置いて踊り出す光景は印象的でした。OHMでのMetristやTUTUのDJも新しくてかっこよかったですし、Tressorでも朝まで遊んでいました。まだまだクラブミュージックの可能性を感じて嬉しかったです。Demdike StareやPuce Maryのライブも素晴らしかったですし、あんなに大勢のオーディエンスと一緒にノイズを聴くのは初めてで、とても印象に残っています。Gabor Lazarもよかったです。全てを伝えきれませんが、現場で体験しないとわからないことが沢山ありました。阿木さんが最後まで0gという現場を残していたのも、そういう理由だと思います。「現場を知らないと評論家として説得力がないだろ?俺はプロの評論家なんだ」と言っていました。

【尖端音楽の伝道者としての阿木譲について】

○確かに0gという場所は、特化した音響装置だよね。単に大音量というだけではなく、音の質というか、場所なので質の中にはその時に居合わせた人の魂も音の中で響きあっている感じがする。

●阿木さんは経歴からして知識量は当然すごいと思いますが、センス、嗅覚がすごかったと思います。文脈だけでは見つからないような新しいレーベルや作品を誰よりも早く見つけてきて、その全てがかっこよくて刺激的でした。

○具体的に印象に残っている阿木さんの言葉とかある?

●「音楽の雰囲気を聴いている」とか、「片耳が聞こえなくなっても何も怖くない、片耳だけでも音楽は理解できる」というのは印象的でした。Puce Maryもモノラルでも十分だと言っているのをどこかで読んだ記憶があります。

○2014年にnu thingsで阿木さんと出会って、一番初めにライブしたのはいつ?

●2014年11月30日にnu thingsで開催された2日間のイベントです。そのあと2015年2月20日に「SUBSTRATUM」の1回目をやりました。10回やって最後が2016年7月17日です。

○結構、長期間やったね。

●そのあとは2018年4月28日に「Peculiar」を企画してもらい、2回目から自分でブッキングするようになり、不定期ですが今も続けています。阿木さんは1回目は見てくれています。阿木さんと一緒にやったイベントは2016年3月12日「atonal」、2017年10月21日「AFTER THE BERLIN ATONAL」です。

○阿木さんの2014年は東京から呼ばれて、東京都現代美術館でもトークショーやブリコラージュをしたり、幸せな年だったのではなかったかと思いますね。『アイデア』で特集されたりしているしね。美術関係の若い世代から自分のやってきた仕事を評価してもらったり。
そして翌2015年にがんの手術をしている。退院の際にThe Strangerの”providence or fate”を絡めて以下のように書いている。 人生の整理をしようとしていたんだと思った。阿木さんらしい文章なので少し引用しよう。

退院後、週2日の検診と、生活を新しい環境へと移行するため、部屋探しなどにおわれ、ネット環境もままならないので更新もできなく、申し訳ない、、0g Web(zero-gauge)のほうも手元に素晴らしい作品が溜まっていて気になっているのだが、もうすこしお待ちください。この機会に過去のすべてを淘汰して、倉庫に山積みになっているレコードも、80年代のインダストリアルから2000年代まで蒐集してきた、すべてのレコードを売り払い(マニアの方で良い値で固めて買ってくださる方がいたら至急ぼくに連絡ください、、、出来るならひとつのジャンルを時間と労力をかけて集めた物をバラバラにするのは避けたいとは思っていますが、誰かぼくの意志を継いでくれるかたがいたら、、、、嬉しいけれど、、でもそれが無理なら、業者のかたにすべて売るつもりです。驚くような貴重な作品が山のように眠っています、、、、)身辺整理して、この10年ほどのレコードだけを残して、新しい環境の下で、全く新しい音楽評論と音楽活動を始めようと決心しました。
それがぼくの「providence or fate」(摂理か宿命)だろうから、、、
2015年9月19日 a perfect day

○林君が0gの保証人になったのって2015年のこの辺りだよね。

●初めは断っていましたが、阿木さんに何度も強くお願いされたので。今は違います。

○もちろん今は平野隼也君がオーナーなんだけど、それを聞いた時には、それだけ強い繋がりがあったのかなと思った。

【晩年の阿木譲について】

●阿木さんの健康状態が悪くなったのもあると思いますが、ただ人に当たるような時期があって、数ヶ月少し距離を置いていました。ある日「元気か?」と優しい声で電話がかかってきたんですが、ろれつが回らず、上手く喋れてない印象でした。「阿木の言葉を憶えているか?お前も元気出してがんばってくれよ」と言ってくれて、それが最後の会話でした。2018年7月です。ベルリンのお土産を渡す約束をしていましたが、帰国後に電話をしても出ない状態が続いて、そのあと話す機会もなく亡くなってしまいました。

○以前、林君に聞いた阿木さんの「俺が死んだらお前ら迷子になるぞ」というのは?

●それは元気な頃からよく言ってましたが、「文脈を理解して新しい音楽を紹介している人が他にいないからどうするんだ?俺が死んだら何を聴いたらいいかわからなくなるぞ」ということです。

○林君にとって阿木さんは優しい感じ?

●気にかけてくれていたと思いますが、癇にさわったら顔色がすぐに変わりますし、厳しく言われることもありました。それでも自分の音楽について言われたときは、真摯に聞いていました。正直に言ってくれる人も中々いないのでありがたかったです。

○ま、昔から忖度する人じゃないからね(笑)。

●忖度する人ではなかったので、音楽評論家としての言葉に鮮度があったと思いますし、信用していました。

○晩年には分からなかったけど、僕が知っていた頃(1980年前後)の阿木さんは信用できるから、他を探す必要がなかったと思う。

●音楽センスは飛び抜けてましたね。色々問題はあるかもしれませんが。

○あのバランスの悪さというか独特な人格というか、あの魂がどこから生まれてきたのかに興味があるんだよね。10代後半で歌謡曲歌手を経験しているでしょ。その時代に経験したことが阿木譲のベースになっている気がしていて。当時はたぶん理不尽なことが当たり前の世界だからね。歌手が自己主張できる世界じゃなかった。だから、その世界から離反することになる。その後、1976年に『ロック・マガジン』を創刊することになるんだけど、共通の価値観を持った人々と共同作業を始める。0gとかもそうだけど、共同で何かを始めることに阿木個人は活路を見出そうとしていたんだろうか?

●阿木さんのイベントに来ていたミュージシャンは少なかったです。阿木さんは共同で何かしたいと思っていたと思いますが、難しかったと思います。阿木さんは「何のために音楽を聴きに来てるんだ?何もしないなら来ても意味ないだろ?」と問いかけますし、実際イベントをしても容赦のない感想を言うので、中途半端にはできないですし、距離感を保つのが難しいのかもしれません。それで常連客やミュージシャンが来なくなってしまうのかなと。僕は新しい音楽への興味が全然勝っていたので、「お前はまだまだだ」と言われても、自分でも分かってましたし、だから来てるんですって感じでした。

○その話題になったら、いつも19世紀ドイツの思想家マックス・シュティルナーを思い出す。一言でいうと何者にも影響を受けない独立した、何者にもかえがたい、かけがえのない唯一者としての人間精神を理想としたんだ。そんな精神を「エゴイズム」といった。じゃあ一人で孤立していいかというとそうじゃない。一人では生きていけないからね。シュティルナーは、そんな唯一者の集まり「エゴイスト同盟」が必要だと説いていた。孤独と孤立は全く違うんだけど、逆にいうと他者との関係は、対立しやすくなる。

●昔から知っている人は晩年優しくなったと言いますが、それでも厳しい人だったと思います。自分がやっているレベルで本気でないと許さない感じでした。

○でも、結局Vanityや『ロック・マガジン』みたいな作品は生み出せなかったし、remodelも継続できなかった。先日亡くなったEDITIONS MEGOのピーター・レーバーグみたいなことが出来なかったのだろうか?
つまり、自分のレーベルを持って定期的に自分のコンセプトに合ったミュージシャンをセレクトしレコーディング=編集した音楽をリリースするような。
阿木さんの真骨頂は作品をプロデュースしたりデザインしたり、つまり総合的に編集する力を発揮することだと思っている。
だって、『PECULIAR』は結果的にOpal Tapesからリリースされたけど、本来なら阿木さんの仕事だったと思うんだけどね。
林君はその辺り阿木さんに対してどう感じてた?単純に制作費の問題だけでもないような気がするんだけど。

●僕の音楽のクオリティがまだリリースできるレベルではなかったのだと思います。作りたかったのですが、阿木さんが生きている間に作りきれませんでした。「作品を作って次に行け。作品を作って捨てていかないと、いつまでも同じことろにいて次に行けないぞ」と言われてたんですが。

○そんなことないと思う。阿木さんも2011年11月のブログでremodelから『a sign paria – ozaka – kyoto』をリリースする前に書いてる。
「ひとつの作品を仕上げるのに、今回ほど苦労したことがない、それはvanity recordsやrock magazineのように、ボク個人のデスク作業で創られたものではなく,多くのアーティストたちの熱意とエネルギーと、アンガージュマン ( engagement ) の精神で成り立っているからでしょう。」
「ボク個人のデスク作業で創られたもの」ってVanityや『ロック・マガジン』に関わった人間はみんな、異論があると思うんだけどね(笑)。
でも、やっぱり阿木さんは晩年は時代と拮抗する(Friction)エネルギーが枯渇してたんじゃないかと思うんだよね。人には何かをしないといけないんじゃないか、といいながら、阿木譲としては何も残せていない。あれだけレコードやCDとか物(material)に拘った人だったのに。
だってVanityだって単にリリースをしてたのではなく本にも書かれているけど、ミュージシャンと対峙して自分の感覚にさわった音楽を通して作品として生み出そうとしていたんだよ。
KENTARO HAYASHIやJunya Tokudaを素材として、EmptysetやpitaやLeyland Kirbyの世界を作れたはずだと思う。個人的には、一抹の歯がゆさみたいなものを感じていたんだ。

●どうなんでしょう、今までの活動を統括したいと思っていたかもしれませんが、真相はわかりません。エネルギーが枯渇していたかもしれませんね。阿木さんの最後のツイッターは「ながい音楽人生のピリオドを迎えた。さよなら先端音楽!」で締めくくられています。余命を理解していたのか、阿木さんの中で終わらせたかったのかもしれません。

【これからのKENTARO HAYASHI】

○じゃ、最後に2つ質問をさせてください。
まず、今後の活動のプランを教えてください。

●新しい作品もまた作りたいと思っていますし、ライブの予定もあるので、多くの人に聴いてもらえる機会が増えたら嬉しいです。

○他のミュージシャンにも聞いた質問です。ウイリアム・バロウズは「言語は宇宙からのウイルスだ」と言ったわけですが、そもそも音楽はウイルスだと思っています。音楽は形がなく伝染しますし、感染した人の意識を変容させますし、人生を変える力を持っています。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対して、どのような感想を持っていますか?

●コロナの影響で現場での音楽体験がしにくいですし、人に会う機会も減っているので、情報が偏ってると思いますが、どこかで刺激的で新しい作品が作られていると思います。リリースするペースが落ちているレーベルもありますが、見えないだけで、現場やホームスタジオでは何かが始まっているのでは?と期待しています。

○長時間ありがとうございました。次のライブを楽しみにしています。また0gで会いましょう。

●こちらこそありがとうございました。また0gかどこかの現場で会いましょう。

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【改めて阿木譲のこと・・・インタビューを終わって】

○林くんにとって阿木譲とはどんな人物だったのか。

●音楽をやるきっかけを作ってくれた人ですし、色々教えてくれた先生のような人です。ときには音楽友達のようでした。

○KENTARO HAYASHIの仕事について

●マスタリングやデザインは責任もありますし重要な役割だと思っていますが、やりがいを感じます。完成したときの喜びもあるので、これからも色々な作品に携われたら嬉しいです。学びも沢山あります。

○KENTARO HAYASHI – 『Peculiar』について

●初めての作品ですし、制作には時間がかかりましたが、名刺代わりの作品ができたと思います。MerzbowとJim O’Rourkeのリミックスが先に完成していて、そのクオリティにも刺激をもらいました。remodelからリリースされたCDは自分でマスタリングをしたので、アルバムを通して聴いてもらえたら嬉しいです。またOpal Tapesがレコードをリリースしてくれたので、海外のアーティストがMIXで使ってくれて、 多くの人に聴いてもらえるきっかけを作ってくれました。リリースを決断してくれたremodelの中村さんとOpal TapesのStephenには感謝しています。

○Vanity-TAPESのRemasteringについて

●現存している複数のカセットを元に検証をしたり、マスタリングよりも修復に時間がかかりました。地味な作業が多かったですが、色褪せない作品も素晴らしくて、楽しい作業でした。

○MerzbowやJuri Suzueのmasteringについて

●自分がMerzbowの作品に携わるとは想像もしていなかったので嬉しいですし、歴史に残る作品群だと思うので光栄に思っています。制作スピードが驚異的で、どれも密度の濃い作品です。
Juri Suzueさんはイベントで共演していたので携われて嬉しいです。『Rotten Miso』で初めてレコードのマスタリングもやりました。デザインも担当したので、手にとって聴いてもらえたら嬉しいです。

○インタビューを終わって
林くんの話を聞いていると、阿木さんの光の部分が印象的だった。40年あまり言葉を交わしていなかったし、晩年のブログも生前はほとんど読んだことはなかった、はたしてエゴイストとしての阿木譲の晩年は幸せだったのだろうか。
阿木の最後の拠点となった0gという場所が、佐藤薫のいう魂が交差して日々変化をもたらし常に新しいモノを生み出すヴェニューであったかどうかは分からない。
しかし、阿木に化学反応を起こしたremodelのミュージシャンの魂は確実に引き継がれていく。その系譜は自らのアルバムの最後に刻印されているSpecial thanks to AGI Yuzuruからも読み取れるのである。

「0g(zero-gauge)」Agi Yuzuru

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part6「0g(zero-gauge) Agi Yuzuru」をアップしました。このPart6でシリーズは終了となります。当時、有料サイトということもありあまり読まれていなかったのですが貴重なテキストだと思いました。是非沢山の方々にお読みいただければ幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。


http://www.zero-gauge.com/0g/

NO WAVE 「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 5『NO WAVE「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/nowave/

KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 4『KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/klingklang/

BRICOLAGE 「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 3『BRICOLAGE「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/bricolage/

CASCADES 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 / 阿木 譲

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 2『CASCADES「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧』を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/cascades/

「talkin’ about nu things」 Agi Yuzuru

単行本「vanity records」の編集作業のプロセスの中で現在、阿木 譲氏のwebサイトに公開されておりませんが過去に公開されていたブログ、テキスト及び有料会員webサイト等が保存され残っていることが判明しました。
阿木 譲氏の晩年約10年間の資料的価値が高いと判断して公開させていただくことに致しました。
尚、これらの全てのデータは阿木氏の有料webサイトを制作、運営されていた(有)ノーツの久保田利文氏よりご提供いただきました。
また久保田氏をご紹介していただいた林賢太郎氏、掲載許可をいただきました東瀬戸悟氏に感謝して御礼申し上げます。
ありがとうございました。
尚、大量に残されていますので5〜6回に分けてのアップとなります。
また当時のオリジナルのままとなりますので画像及びYouTube等は削除されているものがかなりありますがご容赦ください。

Part 1「blog」を公開させていただきますのでお楽しみいただければ幸いです。


http://studiowarp.jp/kyourecords/blog/

remodel 31 V.A.『VANITY 7” Singles』

V.A.
『VANITY 7” Singles』

¥2,750 (with tax)
remodel 31
2021年8月20日リリース

Amazon  https://amzn.to/2Tck0Fr

1980年にVanity Recordsよりリリースされた3枚の7インチシングルを⼀つにまとめた編集盤。単独でのCD化は今回が初。声とエレクトロニクスの使⽤を共通項としたSYMPATHY NERVOUS、MAD TEA PARTY、PERFECT MOTHERの楽曲が収められ、Vanity Recordsのリリース中でも際⽴ってポップな仕上がりが⽿を引く。ジャケット写真は3枚全て同年VanityからLPをリリースしたBGMの⽩⽯隆之の撮影。

<作品概要>
1980年にVanity Recordsよりリリースされた3枚の7インチシングル(SYMPATHY NERVOUS『Polaroid』、MAD TEA PARTY『Hide And Seek』、PERFECT MOTHER『You’ ll No So Wit』)を⼀つにまとめた編集盤。単独でのCD化は今回が初となる。新沼好⽂によるSYMPATHY NERVOUS同年Vanityから単独でLPをリリースしており、U.C.G.と命名された⾃作のコンピュータ・システムを駆使したプロト・テクノな作⾵が特徴。本作の収録曲ではヴォコーダーによる語りを⽤いた「Polaroid」が出⾊の出来。「d-b-TV」でもほぼノイズと化したような声の使⽤がある。
MAD TEA PARTYは吉祥寺マイナーやイーレムに出⼊りしていた⽩⽯喜代美が率いるガールズ・トリオ・バンド。7インチでのA⾯にあたる「Hide And Seek」ではエッジーなサウンドのポスト・パンクを演奏し、B⾯の「Modern Time’s Pop」と「In A Tea-Bag」ではテープの逆回転やダブ処理を多⽤したいわばスタジオでの実験によってなされる⾳楽性を⾒せている(クレジットにはremixed at YLEM Studio ’80 Springとの表記あり)。
PERFECT MOTHERは東京の⾳楽/アート集団『イーレム』組織者、上⽥雅寛が率いるレフトフィールド・エレクトロニック・ポップ・グループ。「Youll No So Wit」での中⼼の定まらないような声の扱い、「Ephemeral Pieces」の5つの断⽚からなるコラージュ/ミックステープのような成り⽴ちなどアブストラクトなアプローチが⽿を引く。
収録された3組は声とエレクトロニクスの使⽤を共通項としており、そのためかVanity Recordsのリリース中でも際⽴ってポップな仕上がりとなっている。『イーレム』周辺のアーティストが多く収録されていることも⾒逃せない特徴だ。
また、これらの7インチのジャケットに使⽤された写真は3枚全て同年VanityからLPをリリースしたBGMの⽩⽯隆之の撮影によるもであり、今回の編集盤もその3枚が並べられたデザインとなっている。

よろすず

Track List:
SYMPATHY NERVOUS – Polaroid
1. Polaroid
2. Polyester 35 Micron
3. d-b-TV

MAD TEA PARTY – Hide And Seek
1. Hide and Seek
2. Modern Time’s Pop
3. In a Tea-Bag

PERFECT MOTHER – You’ll No So Wit
1. Dark-Disco-Da-Da-Da-Da-Run
2. Youll No So Wit
3. Ephemeral Pieces

単行本『vanity records』発売のお知らせ

タイトル:vanity records
監修:中村 泰之
著:嘉ノ海 幹彦、東瀬戸 悟、よろすず、平山 悠、能勢 伊勢雄
価格:¥3,850(税込)
ISBN:978-4-86400-040-6
発売日:2021 年7 月23 日
版型:B5(257×182×24.5mm)
ページ数:本文392 ページ(カラー90 ページ)
製本:並製
初版特典:CD2 枚組
発行元:きょうレコーズ
発売元:株式会社スタジオワープ

Amazon https://amzn.to/3yVM1Ql

商品詳細情報

本文見本

ロック・マガジン復刻 見本

remodel 32 SYMPATHY NERVOUS『Sympathy Nervous』

SYMPATHY NERVOUS
『Sympathy Nervous』

¥2,750 (with tax)
remodel 32
2021年7月16日リリース

Amazon  https://amzn.to/3c81yDT

1980年7⽉にVanity Recordsよりオリジナルがリリースされた新沼好⽂によるSYMPATHY NERVOUSの1stアルバム。U.C.G.と命名された⾃作のコンピュータ・システムを駆使し、精密なビート・プログラミングと⾳響デザインによって⾁感的な脈動をトレースするかのようなプロト・テクノ。構造⾯での創意⼯夫、千崎達也のノイズ・ギターによるインダストリアルなニュアンス、ジャーマン・ニュー・ウェイヴを思わせるサウンドなど、⾳楽的なバリエーションと⾼度さにおいて当時としては破格のクオリティを⾒せつける傑作。

<作品概要>
1980年7⽉にVanity Recordsのカタログ0007としてオリジナルがリリースされた新沼好⽂によるSYMPATHYNERVOUSの1stアルバム。
U.C.G.と命名された⾃作のコンピュータ・システムを駆使し、精密なビート・プログラミングと⾳響デザインによって⾁感的な脈動をトレースするかのようなプロト・テクノ。3連符系統のリズムが乱れ⾶ぶ「A Worm」、4つ打ちを基調としながらもシャッフルするリズムを絡ませる「Deaf Picture」、シーケンスをまばらに収縮させるアブストラクトな「Automatic Type」など構造的な⾯での遊び⼼に加え、「Temprament」や「Sympathetic Nerves」では千崎達也のノイズ・ギターによるインダストリアルなニュアンスやジャーマン・ニュー・ウェイヴを思わせるサウンドが表れるなど、⾳楽的なバリエーションと⾼度さにおいて当時としては破格のクオリティを⾒せつける傑作。
Vanityのカタログの中でも最も純度の⾼いエレクトロニクス・ミュージックでありながら⾁体性への希求が伺え、これは同じくVanityからリリースされたBGMの楽器演奏によって無機的なサウンドを具現化するアプローチとは対照的だが、ある種の屈折を抱えた試⾏錯誤によって⾳楽的な魅⼒が⽣じているという点では相通じるものがある。
ジャケット写真はラ・デュッセルドルフのロゴ・デザインやロック・マガジンの表紙画を⼿掛けたドイツの画家/写真家アヒム・デュホウ。
新沼は本作の発表後は東京を離れプログラマーの仕事をしながらも地道に録⾳を続け、90年代にはテクノ・シーンへ参⼊。2000年に⼊って岩⼿県宮古市で国産テルミンの⼯房を設⽴するが、3.11により⼯房を失い、⽶ミニマル・ウェイヴによって過去⾳源を編集したチャリティ・アルバムが制作された。2014年逝去。
よろすず

Track List:
1. A Worm
2. Go On And Off
3. Temperament
4. Deaf Picture
5. Automatic Type
6. Quick Starttype
7. Inverted Type
8. Sympathetic Nerves

VANITY INTERVIEW
⑨ 明橋大二

VANITY INTERVIEW ⑨ 明橋大二
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

『それにもかかわらず敢えてなお』

最後のインタビューは明橋大二。現在真生会富山病院心療内科部長としてコロナ禍の最中勤務している。彼は『ロック・マガジン』時代に一番長く一緒に編集の仕事をしたスタッフだった。今回はVanityからリリースされているミュージシャンではない明橋と『ロック・マガジン』や阿木譲のことについて話したかった。当時編集の内容や音楽のこと個人的なことなどについて会話をしたことがなかった。ただ今なら現代に繋がるかつてのことについて話せるのではないかと思った。『ロック・マガジン』編集の現場を通してどのようなことを考え、彼の人生にどのような影響を与えたのか、また医師の視線から今のコロナ禍の時代をどのように見ているのか。何よりも阿木譲と最後まで交流した彼の想いを聞きたかった。
それではZoomオンラインミーティングに参加しよう。

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明橋大二
昭和34年(1959年)、大阪府生まれ。 京都大学医学部卒業。 子育てカウンセラー・心療内科医。 国立京都病院内科、名古屋大学医学部付属病院精神科、愛知県立城山病院をへて、真生会富山病院心療内科部長。 児童相談所嘱託医、NPO法人子どもの権利支援センターぱれっと理事長。 専門は精神病理学、児童思春期精神医療。
《D.A.Tプロフィール&結成秘話》
明橋大二は、幼少時からピアノを習い、さまざまな音楽に親しむ。
特にロックの持つ魂の叫びに魅せられて、京大入学後、大阪発のロック雑誌『ロック・マガジン』の編集に没頭する。
昭和56年、刀塚俊起が学生の時、自主制作したカセットテープを明橋が聞き、興味を示す。めちゃくちゃ下手な音源だったが、なぜか明橋ひとりが評価した。明橋に説得されてコンサートを開くことになる。
昭和57年―59年 学園祭にてコンビを組み関西でコンサート活動。
昭和63年 4作自主制作した後、本業に専念。活動休止に入る。
平成13年 病院にてコンサート、活動再開。
平成16年 「Recovery」自主制作CD発表。
平成20年 「Infinite Preciousness」自主制作CD発表。
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プロフィール | 明橋大二オフィシャルサイト
http://www.akehashi.com/profile/

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▲明橋大二
●嘉ノ海幹彦

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《阿木譲や『ロック・マガジン』との出会い》

●こんばんは。明橋は医療服着てるから現場(病院)からですね。明橋って呼び捨てにしてるけど(笑)。このような話をするのは初めてだと思いますが、よろしくお願いします。

▲いいですよ(笑)。よろしくお願いします(笑)。

●実際に阿木さんと出会ったのはいつごろ?

▲レコードコンサートだと思うんですよね(※大阪心斎橋の喫茶店ドムスで定期的に開催)。それまでは『ロック・マガジン』が大好きで読んでいました。実際に参加したら女の子もオシャレだし、今まで住んでた世界とは全く違ったので気後れした記憶があります。その時には阿木さんと話をしていないかも知れませんね。でもとてもスペシャルな場所に来れて嬉しかったです。

●阿木さんのラジオ(FAZZ BOX INN)は聴いていなかったの?

▲まず『ロック・マガジン』からですね。後でラジオを知ってから聴きましたが。嘉ノ海さんは?

●僕はA4版の鋤田正義さん表紙の『ロック・マガジン』からですね。(※第三期 A4中綴じ版)

▲私はその前ですね。合田佐和子さん表紙の『ロック・マガジン』です。(※第二期 A5版)

●じゃ、明橋の方が先に出会っているんだね。僕は阿木さんというより、松岡正剛や間章が書いているので惹かれました。最初の出会いはやはりドムスのレコードコンサートでしたね。「これが阿木譲か」という感じだった(笑)。終了後何人かで編集室に遊びに行ったり、ディスコ(死語!)が流行っていたので宗右衛門町の店に阿木さんや雨宮ユキさんと一緒に行きました。その後『ロック・マガジン』主催のイヴェントで登場する四ツ橋のパームスはまだ営業していなかったと思いますね。みんな鏡の前で踊っていて途中でチークタイムがあって飲み放題でという典型的なディスコでした。だからパームスとは全く違う雰囲気だった。1978年から79年にかけてだと思う。その頃明橋は?

▲私が大学に入ったのが昭和54年(1979年)ですね。その年の秋くらいに大学の学園祭で「キャバレー・ボルテール」ってのをやってパブリック・イメージ・リミテッドをかけたり、少しいかがわしいアヴァンギャルドな出し物もやりました。だけど学園祭の雰囲気には合わなくて、大学で出来ることはこれくらいかな、と思った時に『ロック・マガジン』誌上で「NEW PICNIC TIME」(1979年12月23日大阪芸術センター)のスタッフ募集の告知を見て参加したんですよ。嘉ノ海さんともその時に会いました。スタッフとして参加して面白かったけど自分としてはもっと出来ると思っていた。でも結局何もできなかったという想いがあって、このままでは終われないと残って編集の仕事を始めることになりました。たぶんそれから1年くらいは編集室にいたと思うんですけどね。1980年は編集室で迎えました。

●そうだったんだね。明橋は当時からスロッビング・グリッスルとかキャバレー・ボルテールとか歌詞がない(意味を持った言葉のない)音楽を聴いていたんだ。僕も歌詞がない音楽が出てきた時は衝撃的だったんですね。それまではブライアン・イーノにしても「Before and After Science」(1977年)ではまだ歌詞があったのに、言葉の世界から意味のない「ノイズ」的な世界への過渡期のような時代だった。象徴的なのがイーノがプロデュースしたトーキング・ヘッズ「Fear Of Music」(1979年)の「I Zimbra」という曲でチューリッヒ・ダダのカフェ「キャバレー・ボルテール」(1916年)店主フーゴ・バルの音声詩をベースに曲を作っていることだったんだ。音声詩は言葉を使われ切った意味から解放することを目的に考案された音響システムのようなものだった。
その後「キャバレー・ボルテール」という名を冠したバンドがイギリスのシェフィールドから出てきたりして、ネーミングセンスに驚いた。ドイツの教育機関だった「バウハウス」という名前のバンドも出てくるしね。

▲私は、合田さん表紙の『ロック・マガジン』からですからパンクから入っているんですよね。それまでの『ロック・マガジン』では「ユーロプログレ」だったですが(※第一期 B5版)、その後のパンク・ムーブメントとシンクロしていました。12号だったと思いますが、牧野美恵子さんがフューチャーされて初期のニューヨーク・パンク、ロンドン・パンクに対する熱量がすごかった。そのパンクの勢いをレイアウトに表現してすごくインパクトのある本だったんですよね。その号は何十回、何百回読んだかもしれないくらい。その後、阿木さん=『ロック・マガジン』はフリー・ジャズとかフィリップ・グラスとかの方向に舵を切っていったんです。その後を追いかけて言葉のない音楽の方に入っていった。
そのつなぎ目になっているが、イーノの「NO NEW YORK」ですね。パンク的な要素もあるし、美しいメロディでもないそれ以降のリズムとか新しい音楽の姿を示したと思います。私の中では衝撃的な作品でした。


V.A./NO NEW YORK

●「NO NEW YORK」は1978年にブライアン・イーノがプロデュースした作品だ。ジャケット写真やデザインもイーノ自身で行っている。阿木さんも同じようなことをしているけどね(笑)。ここはVanity Recordsとも繋がるんだけど、イーノがその前に何をしていたかというと1975年から1978年にかけてObscure Recordsをリリースしているわけですね。

▲そうなんですよね。『ロック・マガジン』ではObscureのことも紹介されていたし阿木さんのイーノへのインタビューも載ってました。

●「NO NEW YORK」に参加していたのは4バンド。ジェームス・チャンスのザ・コントーションズ、リディア・ランチのティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス、マーズ、アート・リンゼイやイクエ・モリのDNA。当時は何者か全く判らなかったし、裏ジャケットには指名手配みたいな顔写真ばっかりだったしね。もちろんその後、彼らはそれぞれのフィールドで活躍するのでわかるんだけど。新しい音楽の予感を感じさせるアルバムだったよね。

▲その先にキャバレー・ボルテールとかスロッビング・グリッスルとかその後のWHITEHOUSEとか、音楽がメロディとかじゃない歌とかでもない世界に入っていたという感じですね。

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《当時の『ロック・マガジン』で特集していたもの》

●そういえばちょうどキャバレー・ボルテールが出てきた頃に、『ロック・マガジン』で工業神秘主義音楽(1981年1月)を特集したよね。インダストリアル・ミュージックです。その号でフーゴ・バルの研究家土肥美夫さんに最新ロックの中にこんなバンドが出ました!といってMix-Up (1979年)を持参してインタビューしたり、ファシズム研究のドイツ文学者池田浩士さんに「歪んだ鏡としての表現主義を生きた人々」を題して20世紀初頭の時代精神を中心に話を聞いた。インダストリアル・ミュージックって工業音楽なんだけど、当時ロンドン在住の羽田明子に聞くと彼らはアレイスター・クロウリーとかの魔術をやっていて音楽を使って儀式を行っていると。だから真ん中に神秘主義という言葉を入れて「物語」を作ったということなんだ。

▲スロッビング・グリッスルのジェネシス・P・オリッジなんかは魔術の話をしてますもんね。嘉ノ海さん、その少し前に『ロック・マガジン』ムジカ・ヴィヴァ特集(1980年1月)とか作ってましたよね。「NEW PICNIC TIME」と並行して編集していたのですよね。

●そう、ムジカ・ヴィヴァ特集は並行して編集していたね。
先ほど出たイーノがやってきたことを振り返ると1971年から73年までロキシー・ミュージックなんだよね。その後ソロアルバムと並行してObscureのシリーズを連続してリリースするんだけど、参加している作曲家達はジョン・ケージを始めギャヴィン・ブライアーズ、デレク・ベイリー、マイケル・ナイマン、デヴィッド・トゥープ、マックス・イーストリー、ハロルド・バッドなど聴覚芸術の実験をやってた人なんだ。そのObscure10枚目のリリースが終わった直後の1978年に「NO NEW YORK」をプロデュースすることになる。今考えるととんでもないことだよね。
ムジカ・ヴィヴァを編集する過程では西洋音楽の系譜の中にロックミュージックも含めて「時代と呼応する精神」という地下水脈みたいなものを通してもう一度音楽の歴史を捉えなおさないといけないという強い気持ちがあったんだ。ムジカ・ヴィヴァというのは第二次世界大戦の敗戦国であるドイツミュンヘンで起こった音楽復興運動だけど、その意匠を借りて現代音楽、実験音楽がロックミュージックに繋がってくるということを現したかったんだ。当時阿木さんと一緒にドイツ文化センター(現ゲーテ・インスティトゥート大阪)に行った時にこの本(MUSICA VIVA)を見つけてこれだと思って編集したものなんだ。『ロック・マガジン』の特集号としては評判にもならなかったし売れなかったけど、あの本を作ったから今でも音楽を聴いて時代を捉えたり考えたりする際のベースになっている。
最終的には『ロック・マガジン』の編集そのものについてはその後途中で放り投げてしまったけど、特集エリック・サティは「家具の音楽=アンビエント」を提示し、その後の「工業神秘主義音楽」はインダストリアル・ミュージックの魁になったのは間違いないと思う。他の音楽誌とかでは扱ってなかったし。

▲その頃から、ロックミュージックというのは、一方ではポップミュージックとかブルースとかルーツがあるんですけど、もう一つはクラシックだったり現代音楽だったりフリーミュージックだったりするルーツがあって、その辺がイーノとかニューヨークでは化学反応を起こしてたのではないかと思うんです。そこをきちんと取り上げて評価していたことが『ロック・マガジン』の凄さかなと、手前味噌ですが(笑)。どこの雑誌もやってなかったですしね。イーノの中にも二つのルーツという考えがあるんですよね。イーノもObscureやりながらトーキングヘッズもプロデュースしてますしね。それをきちんと捉えて発信していたのが『ロック・マガジン』だったということですよね。

●ここでひとつイーノの至言を紹介しよう。昔阿木さんにイーノの言葉で「ロック(音楽)はあらゆる要素を吸収するスポンジだ」というのを教えてもらった。意味は、音楽が全ての時代性(気配、商品を含めた物質、経済)を吸い取るスポンジみたいなものだ。
だから逆にいうと音楽から時代を読み解くことができるということなんだ。

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《どうして精神科医になったのか、『ロック・マガジン』との関係は?》

●今日は明橋に是非聞きたいんだけど、キャバレー・ボルテールが出てきた頃には日本の中で雑誌「エピステーメー」で哲学者のジル・ドゥルーズと精神分析医のフェリックス・ガタリが共著の「リゾーム」(アンチ・オイディプスの一部)が翻訳されて1977年に出版されたんですよ。「カフカ論」(1978年)でもそれまでのカフカの捉えかたを一変させたんだよね。もちろん当時は新しい世界の見方である構造主義が紹介されつつあった時期でもあるんだけど、どんな感じで見ていたの?また80年代に入ると浅田彰の「逃走論」(1984年)でリゾーム的で多面的な視点の必要性を説きスキゾフレニア(統合失調症)なんかの精神疾患を持ち出したんだけど。その時代性と音楽との接点というか、どうなんでしょう。だって医学部って入学当初から精神科医になるとか決めるわけではないでしょ。そもそも明橋はどうして精神科医になったの?

▲まさに『ロック・マガジン』のお陰というか、『ロック・マガジン』のせいというか(笑)。
もともと父親が医学部ではなく農学部出なんですけど、ビタミンとか食中毒の研究とかしていて医学の博士号をもっているんです。大阪の衛生研究所に勤めていて家でも医学的な話はよく出ていました。3人兄弟のうち一人は医者になって欲しいみたいな中で育って、小学生の頃から京大の医学部に入ろうと思っていたんです。ただ医学部に入る頃には研究者になろうと思っていたんです。高校生の時には哲学の勉強もして生命の意味みたいなことを考えていました。当時分子生物学が活発になってきていたので、生命の本質みたいなものが判ってくれば命の意味がわかるのではないかと思ってました。実際、京大の研究室はレベルが高く世界的な研究がなされていたので実験を手伝いに行ったりしてましたね。
ところが『ロック・マガジン』に関わって、スピリチュアルなものの中に凄く豊かな世界があって、分子原子を研究してもそれで命のことがわかるわけでもない。その上に雨宮ユキさん(ロックマガジンの経理担当。モデル、ファッションデザイナー。阿木さんが亡くなるまでパートナーとして阿木さんの仕事を支えた。ロックマガジンのスタッフにとっては姐御であり、母親的な存在だった)の体験した話を通して分子原子では割り切れないということを肌で思い知らされたことがあったんです。

●「肌で思い知らされた」という経験って具体的にどういうことだったの?人生を決めた大きな経験でしょ。

▲ユキさんて、何か不思議な人じゃないですか。実際、いろんな不思議な体験をしているんですよね。

●そういえば、そういった話は、自分も時々聞いたことがあったけれど。

▲細かい話は省きますが、とにかく、私にとっては、この世の中には、単純に数字とか、機械論で割り切れないことがたくさんあるんだな、ということを肌で知らされた経験だったんです。
当時私は、大学で仏教の勉強をしていたんですが、最初は単なる知的な好奇心だったんですよ。最終的には、分子原子とかDNAで、すべて生命は説明できると思ってました。
でもユキさんや阿木さんと話をする中で、生命(いのち)というのは、そんな単純なものではないなと。過去や未来ともつながっているし、宇宙ともつながっている。自分の今まで持っていた生命観というのが、いかに浅薄であったかを知らされたんですよね。それから自分は、仏教を自分の問題として学ぶようになったし、それはその後の自分の人生の土台になっています。そのきっかけになったのが、『ロック・マガジン』との出会いだったんですよね。
あのまま進んでいたら、どこかで行き詰まって、おかしくなっていたんじゃないかと思うし、そういう意味では、『ロック・マガジン』と阿木さんは、自分の人生の恩人なんですよ。

●そんなことがあったんだね。阿木さんの晩年最後までサポートしていた理由が判った。こんな話は初めて聞いた。

▲こんな話は誰にでもしないですよ(笑)。ちょっと怪しい話だし(笑)。

●全然怪しい話じゃないよ(笑)。人との出会いが決定的になることってあるよね。音楽との出会いにも人生を決定させることもあるけど。単に出会いというだけじゃなくて、出会う局面により状況が変わるよね。いつどんな時にどのように出会うかにより、人生が決まっていくもんだしね。

▲そんな経験もあって、一時期出家しようと思ってたんですよ。でもせっかく医学部に入ったことも考えたときに精神医学だったら今まで自分が考えてきたことが役立つのではないか、大学ではろくに勉強もしてこなかったけど『ロック・マガジン』での見聞きしたこととか考えたことが生かされるのではないかと思って精神科医になったんです。だから『ロック・マガジン』に入っていなかったら精神科医にはなってなかったと思いますね。

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《Vanity RcordsとVanity TAPES》

●ここで少しVanity Rcordsについての話をしたいんだけど。たしか、あがた森魚「乗物図鑑」の録音の際にピアノを弾いていなかったっけ?

▲その時はいなかったんですよ。私が録音に関係したのはR.N.A. Organismなんですね。さっき確認したらB面最後の「Matrix」という曲の中で背景のピアノを弾いているのが私なんですよ。

R.N.A. Organism/R.N.A.O Meets P.O.P.O

●そうか、勘違いしていた。確かに時系列では「NEW PICNIC TIME」もあがたさんが出演しているので録音は既に終わっているんですね。R.N.A. Organismは翌年の1980年の録音だからね。新事実(笑)。
でも実際のスタジオ録音の際に立ち会ったりとか、Vanity Recordsとの関わりは?

▲実はVanity Rcordsについてはほとんどタッチしていないですね、別行動だったんで。だたR.N.A. Organismの録音の際にピアノの情景描写音が欲しいということになって、明橋がピアノ弾けるらしいということで阿木さんから呼ばれたんです。だからVanityの制作現場にはほとんど関わってないです。

●そうだったんだ。僕の記憶の中でBGMの白石隆之君の録音とかNORMAL BRAINの藤本由紀夫さんの録音の時にも明橋もいたと思い込んでいた(笑)。確かに『ロック・マガジン』やVanityと並行して『ファッション』も一緒に編集してたから、むちゃくちゃ忙しかった記憶しかないなあ。そういえば『ファッション』は3冊しか出版されなかったけど、輝いていて美しい本だったね。

▲そうです。あの1980年は『ロック・マガジン』にしても『ファッション』にしてもデザイン的にも一番充実してましたよね。内容的にも深いし。あの時期はVanity Rcordsも『ロック・マガジン』『ファッション』もあったし一番アクティブで激しかった時期でしたね(笑)。というか凄かった時期ですよね(笑)。

●それぞれが相互に絡み合って動いていたしね。『ロック・マガジン』がなければVanity Rcordsはなかっただろうし。
Vanityでは「MUSIC」の後レコードではなく、コクトーの詩の一節が添えてある【Vanity-Tapes】6本組みカセットテープをリリースするよね。膨大な量(200本以上?)のカセットテープがロックマガジン社に送られてきてたと思うんだけど。
リリースと同時に『ロック・マガジン』02号(1981年3月)特集ホワイト・アプカリプスの中のカセットテープ・ミュージック「騒音仕掛けの箱に吹き込まれた風景」と題した記事で阿木さんと対談しているよね。

▲ホントに自分が言っていることは意味がないとつくづく思いますけど(笑)。

●そんなことないよ。このやり方はムジカヴィヴァの時(阿木譲と対談記事を掲載)と同じように阿木さんとの筆談でしょ。原稿用紙に直接書いて、「ハイ」という感じで阿木さんに渡して阿木さんが書いて「ハイ」というキャッチボールで仕上げていったんだよね。時間がないので、そのまま写植屋さんに出せるようにね。

▲そうですね、たぶんテープ起こしする人もいないですからね。阿木さんがカセットテープ・ミュージックを掛けて、それを聴きながら筆談したんですね。

●でも結構な数のカセットテープがあったでしょ。

▲かなりありました。まずその中から阿木さんが選んで一本一本聴きながら対談したんだと思います。

●Vanityインタビューであのカセットテープの中から二人(DEN SEI KWANとsalaried-man club)とメールベースだけど会話した。DEN SEI KWANは福島の人でね。先ほどのスロッビング・グリッスルとかキャバレー・ボルテールじゃないけど、Vanity Tapeの『Pocket Planeteria』は、今のノイズミュージックに似てるという人がいるけど、現在との決定的な違いは暗さだといってた。でも彼も新しく音楽を作り始めているので楽しみにしているんだけどね。またsalaried-man clubも「近未来のvisionのsound trackとしての音楽を構想中」とのことなので再始動するんじゃないかな。

▲あの時のミュージシャンと実際に会話するって凄いですね。

●それで明橋が対談したカセットテープ・ミュージックは6本組みでVanity TAPESとしてリリースしたでしょ。その後阿木さんはカセットテープで何か展開しようとしたのかしら。Vanityとして連続的にシリーズで出すとか。

▲おそらく、この6アーティストの中から積極的に活動する人が出てくれればいいという想いはあったと思いますね。それは阿木さんとの対談の中からでも伺えると思います。

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《阿木譲との関わりについて》

●明橋が『ロック・マガジン』を編集していたのはいつまで?

▲編集室に泊まり込みだったのは1980年の夏くらいまでだったと思います。大学に戻らないといけなくなったので。だけど、その後も行き来はしていて長い間関わっています。『EGO』の初期の頃は翻訳を手伝ったりしてると思います。

●阿木さんとは頻繁じゃなくてもずっと付き合いが続いたんだよね。『EGO』後の『Infra』とか『Bit』の阿木さんの編集や雑誌の仕事をどのように見てましたか?

▲その辺りは全く関わっていないですね。

●まだ『EGO』の頃は阿木さんの個性が出てて魅力的だったんだけど、『Infra』とか『Bit』になると薄っぺらなカタログ本という感じがした。

▲ユキさんを通じて本をもらったり、お店〈M2(Mathematic Modern)〉(1990年)とか〈cafe blue〉(1993年)、〈nu things〉(2004年)には行ったりしていました。ただ、医者という本業もあるし距離もありますからね。阿木さんから「もういいよ!」と電話を切られたこともありました。結局その頃になると阿木さんの周りには、ムジカヴィヴァとか工業神秘主義とかを『ロック・マガジン』で出してた頃のような思想的な深まりとかを編集できる人が回りにいなくなっていたからだと思います。
だから本当に阿木さんの孤独な作業になっていたんだと思います。

●松岡さんは新しい音楽を聴いているわけじゃないし、阿木さんとも付き合いもなくなっていた。もちろん今でも工作舎ではいい本を出版しているし、松岡さんはいろんな場所で話したり、面白い発想で読み説きしていると思います。知の伝道師、知の便利屋さんという感じです。一般の人にはわかりやすい。ただ音楽から時代を読み解くようなことはしないと思います。松岡さんは新しい科学の知識やアプローチの仕方を自分の持っている知性と結びつけて考えようとしているんだろうけどね。だから話は面白いんだけどね。

▲知的な世界というか言葉の人ですよね。「NEW PICNIC TIME」の後にみんなで工作舎に遊びに行ったことがありましたよね。その時に思ったんですけど、それまで阿木さんが関わってこなかった知性の部分と化学反応が起きて、松岡さんにとってもインパクトがあったと思うけど、阿木さんによっても音楽に接するときの深まりとなっていったと思います。その結果が『ロック・マガジン』01 02 03 04 05号(1980-81年)だったんじゃないかと。だからあの頃の『ロック・マガジン』が一番面白いと思いますし、その現場に立ち会えたのは幸運でした。

●B5判サイズの時だよね。『ロック・マガジン』で紹介している音楽が時代と交感(コレスポンダンス)しているリアリティを常に感じさせる時期だった。

▲今日、阿木さんとの関わりで是非喋っておきたいことがあるんです。私にとって忘れられない光景があって『ロック・マガジン』02か03号の頃だと思うんですが、制作途中では阿木さんもピリピリしていてモノが飛んできたりするじゃないですか(笑)、版下まで出来上がった頃に阿木さんの住まいから電話がかかって来て夜明けに行ったんですよ。その時に聴かされたのがジョイ・ディヴィジョンの「Closer」(1980年)だったんです。既にイアン・カーティスは自死で亡くなってたんですが、アルバム・ジャケット(ジェノヴァの共同墓地スタリェーノにあるアッピアーニ家墓所の大理石彫刻)を見ながら、阿木さんが「この音楽を聞いてみろ。この音楽を奏でている時点で、彼はもうすでに死んでいるよ。」といったんです。二人でイアン・カーティスの死を悼みながら聴いていたんですが、後で思ったんですけど、私が来る前に阿木さんはもしかしたら泣いていたんじゃないかと思うんですよね。それまでいろんな人が出入りしていたけど、その時にはもう誰もいなくなってスタッフは私だけだったんですね。その時の阿木さんの孤独というか悲しみというかその情景は忘れることが出来ないんです。
音楽では情緒的なものを排除しているのに、矛盾しているんですよね。やっぱり人間を信じ続けていたと。だからこそ、こんな美しい音楽を求めたのかも知れません。一度そういう姿を見てしまうと、やっぱりどこかで放っておけないですよね(笑)。

Joy Division/CLOSER

●僕も『ロック・マガジン』を抜けた後は結構ボロボロだったのよ。

▲そうだと思いますよ。

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《阿木譲の晩年について》

●明橋は付き合いというラインを超えていろんな面でサポートをしていたよね。結局最後も看取ったの?

▲私の前で亡くなったわけではないけど、亡くなる前日に会いに行きました。
それ以前の数年前に膀胱がんになって、その時も病院とか色々手配して紹介状とかも書いたりしたけど、ただ阿木さんは医者嫌いなのでね。

●そうだよね。阿木さんが医者嫌いなの知ってますよ。『ロック・マガジン』の時も病院とか行ったことなかったもの。高熱があっても行かなかった。

▲それで、入院して手術後に管をつけてブログに「プラスチック人間になった」って書いてましたけどね(笑)。この段階で自分の死期も判っていたんじゃないかと思いました。その後暫く落ち着いていたんだけど再発したんです。その時に直ぐに処置すればよかったんだけど、なかなか病院に行くとはいわなくて最終的に色々探して紹介状書いて受診した時には手遅れで、結局在宅で看取りということになりました。僕も時々会いに行ってたけど、最後にユキさんから倒れたと連絡があり、行ったら病院で人工呼吸器を装着されていて意識がない状態でした。その次の日に亡くなりました。

●最後の阿木さんの様子は、後からユキさんからも聞きました。ユキさんに感謝の言葉を言ってたとかね。

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《自利利他について》

●先ほどの話に戻りたいんだけど、生命の問題と仏教のこと。今勤めている真生会富山病院にもそういう理念がある?

▲仏教精神に基づく医療を実現しようとしている病院ですね。
※真生会富山病院のホームページの理念には以下のことが書かれている。
仏法に説かれている「自利利他」の精神に基づいて、安心と満足の医療をめざします。
自利利他とは、他人を幸せにする(利他)ことが、そのまま自分の幸せになる(自利)ということです。

●現代フランスの経済学者ジャック・アタリがパンデミックという深刻な危機に直面した今こそ、「他者のために生きる」という人間の本質に立ち返らねばならない」と利他主義の必要性を説いているんだけど。利他主義って仏教用語でしょ。
※ジャック・アタリの語った言葉
利他主義は最善の合理的利己主義に他ならない。パンデミックという深刻な危機に直面した今こそ、他者のために生きるという人間の本質に立ち返らねばならない。協力は競争よりも価値があり、人類は一つであることを理解すべきだ。利他主義という理想への転換こそが、人類のサバイバルのカギである。

▲「自利利他」っていうんですけどね。自分の幸せが人の幸せになるし、人のために尽くすことが自分の幸せになる。菩薩の道が「自利利他」なんです。

●僕は阿木さんのことは気にはなっていたけど何にもしていないわけです。明橋は阿木さんを最後までサポートしていたでしょ。阿木さんとは亡くなってから死者としての阿木譲とは対話をしているけどね。今Vanity再発の原稿を書いたりしているのは、阿木さんの業績が少しでも評されるといいと思っているからなんです。
明橋が『ロック・マガジン』と出会って今の職業に就いて仏教の勉強もして、その辺りに僕では判らない信仰とかの問題があるのかなと思ったんだけど。

▲阿木さんは人生の恩人ですね。親と仏教の先生。次に阿木さんとユキさんは人生の恩人だと思っています。どれだけしても返しきれない恩を受けたと思っているのです。

●僕は幼児の頃にカソリックの洗礼を受けていて、宗教のことはよく考えるんだけど、信仰というのはよくわからない。だから親鸞の言葉かもしれないけど「自利利他」というのも信仰に関係があるのではないかと思ったりするんだけど。

▲親鸞聖人ももちろん使われているけど、元々仏教の言葉ですね。
阿木さんには、医者として忙しくなったので何もできなかったなというのが想いですね。

●そんなことないよ、阿木さんが晩年まで活躍できたのは明橋の功績が大きかったと本当に思います。

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《『ロック・マガジン』的言葉とは》

Lucy Railton/「時の終わりのための四重奏曲」第5楽章(イエスの永遠性への賛歌)

●僕にとっては途中抜けたこともあるけど1979年から81年までの『ロック・マガジン』にはむちゃくちゃ思い入れが強いんですよ(笑)。そこで音楽との接し方が決定的になったので今だに音楽を単純に楽しむという聴き方はできない。音楽を聴いて単に気持ちがいいとかだけではなくて、これは何だろう、この音は何を表しているんだろう、何を感じているんだろう、きっとこれに違いないとかね。そこから今の時代を読み取ったりとかするために本を読んだり勉強したりした。
最近だと阿木さんもとても好きだったMODERN LOVEというレーベルから女性チェリストLUCY RAILTONのレコードがCovid-19のチャリティのためにリリースされていているんだけど、演奏されている曲がオリヴィエ・メシアンの「時の終わりのための四重奏曲」の第5楽章(イエスの永遠性への賛歌)なんです。この曲はヨハネの黙示録の言葉から着想を得た作品で、1941年にナチスの強制収容所捕虜で作曲し演奏された。このレコードは2010年にデボンのバックファスト修道院でのライブ演奏で観客の咳や声も音楽の一部として録音されている。ここから何を読み取るかというのは明らかに『ロック・マガジン』的な感覚だし言語化したいというのは常にある。

▲阿木さんは文字を信じてないというか、文学を信じてないというところから出発しているのがあるじゃないですか。でも阿木さんは結構楽しんで聴いていたんじゃないかと思いますが、どうなんでしょう?

●今思い出したけど、阿木さんから「僕は松岡正剛や君らのような言葉型の人間じゃないから」とよくいわれたな。でも本人は言語学の勉強とかしていて「嘉ノ海、言語っていうのは結局記号なんだよな」といって記号論の話をしたことがある。この前阿木さんが亡くなってからブログを読んでみるとジル・ドゥルーズの「襞」(1998年)とかを取り上げていたので、自分の聴いてきた音楽の裏づけとしての哲学的な世界の読み取り方にも関心があったんだと思います。理路整然と論理展開をするのではなく阿木さんらしいいい文章だったけどね。

▲阿木さんは感覚的に本質を捉えるんですよね。音楽を通して時代の精神とか、時代の空気とかを捉える。それを表現するためには、やはり言葉が必要だったんだと思うんですよね。それがラジオであったり『ロック・マガジン』だったりするので、そういう意味で阿木さんも矛盾しているわけですよね。だけどどこかで言葉以前のものとか感覚的なものを大事にしたと思います。

●今明橋はLINEのラジオをやっているよね。登録してるからたまに聞くんだけど。
※LINE「ココロほっとLINE@」で明橋大二の話が聞ける!!!

▲お奨めの曲を紹介して、好きなことを言い散らかしているんですけど(笑)。それでも歌詞を通じてメッセージを読み取るということやっているんです。ただリスナーには歌詞だけじゃなくて「音楽」を聴いて欲しいと思うしミュージシャンも「音楽」を伝えたいんですよね。歌詞を表現するために「音楽」があるんじゃないという認識は持ってますけどね。こんなん阿木さんに聞かれたらボロクソにいわれそう(笑)。

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《remodelの今後の動きについて》

●Vanity-BOXが届いたでしょう。Studio Warpの中村泰之さんが明橋さんには是非持ってて欲しいということで送られたんですよ。阿木さんが企画して中村さんが資金を出して立ち上げたremodelというレーベル番号が付番されているんだけどね。そのremodelから新しいミュージシャンのCDがリリースされているんですよ。阿木さんから引き継いだ平野隼也くんが運営しているenvironment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ] で活動している音響系の音楽家なんですね。生前の阿木さんと交流があった人が多いです。そのような動きがremodelの再開となって、海外も視野に活発化するようです。僕は今彼らとも交流してるんだけど音楽について雄弁に語る人はいないんです。本当はもっと語って欲しいだけどね(笑)。でも作っている音楽は凄くいいんですよね。今の時代を感覚的に捉えている音楽です。

▲中村さんからVanity-BOXを送ってもらってありがとうございます。中村さんってどんな方なんですか?

[中村さんの紹介、阿木さんとの関係とか嘉ノ海との関係と2011年7月に制作されていたVanity-BOXの説明・・使用許諾の問題とかを説明、ミュージシャンへの対応 マスタテープの返却、連絡がつかない人、VODや海外での動きなどを説明 ※東瀬戸悟 「阿木譲とVanity」を参照]

▲今聞いているだけでも凄い労力ですよね。中村さん、よくリリースしてくれたと思います。

●トレーランスはLP化されていないテープが残っていてremodel(『Dose』『Demo』)としてリリースされている。これが前作と違う感じで途轍もなく素晴らしい作品なんだよね。今回何十年ぶりに聴いてどうでしたか?

▲今回Vanity-BOXを聴いても全然古くないですね。何十年も先に行ってたんだと改めて思いました。
個人的にはこのような音楽を聴く機会があまりなくて、肉声とかギターの音とか好きなんですよね。でもremodelを聴いてから巷に溢れている音楽を聴くといらないものがたくさん入っているなあと感じますね。音響とか美しいものを追求していった時にたどり着いている音楽なのかなと思いました。情念が乗りすぎている音楽はうそ臭いって阿木さんもいってましたが、電子音楽の中にある喜びや悲しみが信じられるのかなと聴いていて感じました。

●聴いてもらった中に入っていたミュージシャンのKENTARO HAYASHIは晩年の阿木さんのブリコラージュCDのマスタリングもしているんですね。阿木さんとも交流も深かった。彼の音楽を聴くとコロナ禍での音楽の役割について考えるんです。岡山ペパーランドの能勢伊勢雄さんは傷ついたエーテル体を修復するために音楽の効用があるのではないかというんです。それは聴いていて癒されるとか気持ちがいいとかだけではないんですよね。エーテル体はというのは生命体というか宇宙的な叡智といってもいいかも知れないけど、その時代に働きかける時代霊とも関係があるんだけどね。時代を読み解くとは音楽を体験して感じられるものであるし。
事前の会話で明橋がいっていたコロナ禍の中で傷ついた部分がストレスとなって女性や子供の自殺者数の急増に影響を与えているという話もこの傷ついたエーテル体と大いに関係がると思う。そんな禍の中でこそ音楽の役割があるのではないかと強く感じる。remodelのミュージシャンはそんな位置にあるとも思っているんだよ。
先ほどのremodelからリリースしている電子音楽家の作品のジャケットにはSpecial thanks to AGI Yuzuruのクレジットも入っているんですよ。中村さんとしてはVanity-BOXも含め7割くらいは海外で販売しているしremodelはヨーロッパやアメリカをターゲットに考えているようなんだ。日本より外国の方がきちんと評価されると思っているので、このインタビューも含めてVanityとはどのようなものだったのか、ミュージシャンがどのような想いをもってVanityに参加したのかを伝えたいと思っています。
実際にドイツとか海外で反響があり、Vinyl-On-DemandでLP化され2020年5月にリリースされた。だから今はモノ(音源)が流通している段階なのでどのような背景があったのかとか海外では詳しく知られていない状態。だからVanity Recordsの海外展開を通して阿木譲や『ロック・マガジン』『ファッション』などの評価がなされることを期待しているところです。
これらの動きにより何万枚も売れるものじゃないけど、少しでも評価してもらえたらと思ってます。
ま、阿木さんはこの動きをどう思うか判らないけど、少なくとも個人的な想いはあるしね。

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《再び阿木譲のこと》

▲そうですよね。阿木さんが再評価されたら嬉しいです。阿木さんも絶対喜んでくれますよ。嘉ノ海さんのことは離れても気にしていたし愛してましたから。だから厳しく接してたんだと思います。僕は医者の世界に戻っていくんだと阿木さんも思っていてどっかで距離感があったと思うし、だからこそ長続きしたんだといえるんだけど。でも嘉ノ海さんのことは自分の分身みたいに思っていたし、離れてからもずっといってたんですよ。
阿木さんもあっちの世界に行ったら少しは素直になって感謝していると思いますけどね(笑)。

●いやあ、そうかなあ(笑)。
阿木さんの一周忌の時に(2019年)3日間0gで縁があったミュージシャンによるライブが開催されたんですが、『ロック・マガジン』の編集に深く関わった人は誰も来なかった。告知もされていたから、林(春美)くんとか中野(由美子)さんとか一人くらい会えるかなあと期待していたんだけど。

▲それは全員トラウマになっているんですよ(笑)。その人の中にしっかりと生きていると思いますけどね。
松岡正剛の「千夜千冊」で阿木さんの「イコノスタシズ」(1984年)のことを書いているけどめちゃくちゃ情緒的な文章ですよね。

●松岡さんと阿木さんの関係って不思議だよね。2016年に大分県立美術館で開催された能勢伊勢雄プロデュース「シアターインミュージアム」展で松岡さんと15年振りに会って「おう。嘉ノ海君元気か?」という感じで話をしたんだけど。その時に「阿木君はどうしているんだ?元気してるの?」「会ったらよろしくといっといてよ」とか何回もいうわけ。すごく気にしていましたね。阿木さんも晩年0gで会ったときに「松岡正剛と会ったりするのか?」と気にしてました。
1980年当時から思ってたけどあの二人の関係って変だよね(笑)。素直じゃないし(笑)。

▲お互いリスペクトしていたんですよ。松岡さんにないものを阿木さんが持っていたし、阿木さんにないものを松岡さんが持っていた。

●阿木さんが亡くなってから、今に至るまでコメント出してないんですよね。だから松岡正剛にインタビューしようか迷ったんだけど、『ロック・マガジン』やVanityとなると明橋でよかったと改めて思います。依頼したら応じてくれたとは思うんけど。

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《コロナパンデミックについて》

●最後に医者としての明橋に聞きたいのだけど、コロナ禍におけるパンデミックって「スペイン風邪」とかあったけど、僕らが生きている間にこんな経験するとは思わなかった。世界同時並行的に感染症が起こっているという経験だよね。
現場で考えていることや感じていることなどについて是非聞かせて欲しい。

▲コロナ禍は社会的に影響も大きいし亡くなる人もいるわけですが、職業的にはメンタルヘルスへの影響について気にしているし調べたりしているわけです。子供へのアンケートでは何らかのストレス反応を示したパーセンテージが72%で凄く高いです。東日本大震災の時にも同じような質問をしていて43%なんです。この時は被災地以外の地域の人にもアンケートをとっているので被災地だけであればもっと高いパーセントになったと思いますが、それでも43%は高いと思います。しかし今回は72%と東日本大震災を遥かに上回るストレス反応が出ています。中には「赤ちゃん帰り」とか「チック」とか「爪噛み」とか医学的な症状を出している子供もいるし、親もそのために切れて怒鳴ったりするのが36%だとかね。という形でメンタルヘルスへの影響がかなり出ているということなんですね。
それが一番典型的に現れているのが自殺者の数です。警察の暫定値というのが2021年1月31日に出てまして1年間の自殺者が21,077人ということなんです。実はリーマンショック(2008年)の時に自殺者が30,000人を超えて国も自殺防止のために対策を講じて年々減って来てたんです。ところが今回11年ぶりに自殺者が増えたんですね。明らかに新型コロナウイルスの影響です。前回は男性が一気に増えたんですね。でも今回は女性と子供なんです。2020年8月は前年比180%でした。小中学生も倍くらいとかでした。
女性はうつになりやすいですが、男性に比べて自殺には至らないんです。男性は溜め込むけど女性は喋れるからではないかと言われています。喋ることにより発散していたのが新型コロナの影響でそれが出来なくなったからではないかと。ファミレスで何時間でもしゃべっていたのが出来なくなった。そして子供達も孤立しているんですね。そうしたソーシャルキャピタル(人と人との関係性や繋がりを資源としてとらえて評価する考え方)というか社会的資源を使えなくなったということが特に女性の場合にダメージを与えている。
なんでうつになっているのかがわからない人がたくさんいる。それは我々が気付かないこころの中でじわじわとダメージが蓄積されていくというかストレス反応が進行していく。だから日常生活がそれなりに送れているけど、慢性的なストレスがメンタルに影響を与えている。
だからこそ、このようなオンライン技術もそうですが、必要になっていると思います。分断されているので繋ぐ努力を意識して行わないと孤立してしまう。ただオンラインさえあればいいかというと、そうでもなくて、たとえばカウンセリングでは対面の方が結果的には効果が高くなると言われています。全部オンラインでもダメなんですよね。原始的なことなんだけど、コロナ禍を通して結局は人と人が関わるということがこんなに大事なことだったんだと逆に炙り出されたと思うんです。

●先ほどの自殺者が女性の方が多いという傾向は世界ではどうなんだろう。

▲どうなんでしょうか、というか世界は新型コロナの死者数の方が遥かに多いですね。日本では昨年新型コロナでの死者は3,400人くらいなんです。で、自殺者20,000人。日本ではコロナの死者よりも自殺者数が遥かに多いんです。

●そうか、それで海外メディアがその事実に驚愕したんだよね。

▲そう、諸外国がびっくりしたんです。だからこの傾向は日本独自のものですね。

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《死者の役割》

●東日本大震災の時にも感じたんだけど、現代においての死者と対話することがなくなったことが大きいのではないかと思うんだけど。死者との関わりがなくなっているので孤立しやすいとか分断されやすいのではないか。さっきのメシアンの「時の終わりのための四重奏曲」を聴いて何を感じるかというと単に癒しが欲しいとかではなくてその音楽を通して死者が語りかけてくる、対話するという感覚が必要なのではないかと思うんだけど。

▲そう思います。死を排除した文化ですね。どんどんばい菌を排除して清潔にしてまたウイルスにやられるということがあるように、死を生活の中から排除して全部病院の中で亡くなるとか死をタブーにしてみなかったことにするとかすることにより、魂から反逆を受けているというか。生と死は裏表だしくっついているものなので、どちらか一方だけはないので。だけどそれを繋ぐ手段が宗教だったり音楽だったりするわけですね。昔の音楽は太鼓を叩いたり祝祭とか儀式とかね。音楽ってそこから発生しているわけじゃないですか。ブルースも鎮魂の要素もありますし日本の祭りも死者との交流という意味もありますしね。音楽は我々と見えないものの交通であり窓口みたいな役割だと思うし、だからこそ阿木さんが音楽を聴かなくなったらダメだと言い続けていたのはそういうことなのかなと思っています。

●僕もそうですよ。ちゃんとLPなりCDを買って聴きますよ。音楽はリアルな霊ですから(笑)。もちろん消費するだけの商品もありますけどね。その中から感覚を持って選び取っていくということですね。Vanityも『ロック・マガジン』も一緒ですよ。そういえば他のミュージシャンへのインタビューは読んでくれた?

▲佐藤薫さんのインタビューは読みました。

●あれ面白かったでしょ。突っ込んで聞いたからね。それと元々、Vanity Recordsのレヴューや当時のことを書くのは嘉ノ海が適任じゃないのって佐藤薫さんがいってくれたんですよ。それで今回の企画を引き受けた。
藤本さんへのインタビューは興味深いものだった。結局阿木さんのことを雄弁に語ってくれたし。ちゃんと見ていたんだなと思いましたね。

▲みんな阿木さんに対してはいやな思いもしてるけど、リスペクトもしてるしね(笑)。複雑なんですよね(笑)。Vanity Recordsは40年経ってremodelとして再生されても今の時代でも聴けるということは40年も先に行ってたんだなあと思います。世界的にみても凄いですね。

●阿木さんとも交流のあったjunya tokudaがトレーランスのリミックスを手がけているんだけど、トレーランスの音は今聴いてもすごいっていってた。だからトレーランスにしても現代に繋がる音楽を作っていたのは間違いないね。
病院から勤務中に長時間ありがとう。また会おうね。

▲是非お会いしましょう。

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※明橋大二が指摘していた日本における自殺者数は海外から驚きをもって伝えられた。
参考にWeb上にあるヘッドラインを抜粋する。

新型コロナよりも多く失われた命。「10月、自殺によってコロナの10か月間よりも多くの日本の命が奪われる」(「CBS NEWS」より)

新型コロナウイルスが拡大するのと並行して、メンタルヘルスに関連したパンデミックがやってくる……。すでに日本はその第一波に飲み込まれているのだ。

アジアでは、欧米に比べてメンタルヘルスの問題について汚点がつきまとうことが、死者数の原因かもしれない。例えば日本では、自分の感情や本当の自分を見せることに対して、社会的圧力がある。

真っ先に「自助」を求められる社会では、追い詰められたときに助けを求めることすら叶わない。まさに生き地獄だ。

あまりに多い自殺者数、先進国のなかで遅れに遅れている女性の社会進出、イジメ……。これらはすっかり我々にとって「当たり前の日常」となってしまった。いや、人によってはそれを「日本の文化」とすら呼ぶかもしれない。

新型コロナウイルス感染による日本の死者数は、(世界的にみれば)かなり少ない。だが、一方で日本の自殺者はかなり多い。そして、最近の女性の自殺者の急増は、この国特有の悲劇的な問題といえる。

日本の自殺率は長年、先進7カ国(G7)で最も高くなっている。新型コロナウイルスのパンデミックはその日本で、さらに多くの人を自殺という選択に追い込んでいるようだ。

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▲インタビューを終えて
阿木さんとは、自分が19歳の時に出会ってから亡くなるまでの間、随分長い間、関わってきたような気がする。しかし実際、『ロック・マガジン』のスタッフとして編集室に泊まり込んで過ごした期間は、1年にも満たない。
ただその1年間は、自分の人生にとって、決定的に、豊穣で深遠で衝撃的な時間だったと改めて思う。それを通じて、ものの見方は根本的に変わったし、今の自分があるのは、『ロック・マガジン』と阿木さんのお陰だ、という気持ちはずっと変わらない。
阿木さんほど毀誉褒貶の激しい人はなかったと思う。実際、阿木さんとまともに関わった人は、みなある意味トラウマを抱えている。ただそれは(少し美化して言えば)阿木さんの言葉があまりにも本質を衝いているために他ならぬ自分自身と向き合わざるを得なくなるからだと思う。
「音楽だけは聞き続けろよ。」亡くなる前、遺言のように言われた言葉は、本当に遺言になってしまった。その遺言を、自分は守ることができているだろうか。
そして出会った時、阿木さんから突きつけられた問い、「君には何ができる?」に自分は何か答えることができただろうか。
その答えを阿木さんから聞くことはもうできない。ただ19歳から20歳という二度と来ない時期に、阿木さんの編集室に飛び込んで、開けた世界は、今も心の中で鳴り響き、自分を衝き動かしてくれている気がする。

●インタビューを終えて
一つの音楽が人生に化学反応を起こし新しい世界観を獲得することがあると改めて感じたインタビューだった。人智学者の高橋巌に人生の中で一番大切にしているものは何かと聞いたときに「出会いです」と答えられたことを思い出していた。出会いの対象は人でありレコードであり本であり映画であり絵画であるがそのひとつひとつが銀河のように輝いていることがあり、それこそが生きている醍醐味であり普通のことなのだ。
今回の話には阿木譲という稀有な人物が介在するのだが、今なおモノとして存在する『ロック・マガジン』やVanity Recordsはそんな化学反応の痕跡を留めている。
このインタビューのタイトルを『死者はそう遠方へは行ってしまわない』と考えた。この言葉の元は、民俗学者柳田国男の「日本人の死生観では人は死んだら霊となり、この国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、かなり根強くまだ持ち続けられている」から着想した。阿木さんと対話したりすることも同じことだと思ったからだ。明橋が最後のほうにコロナ関連でストレスを抱えて自死する女性や子供の話をしてくれた時にこの国に存在する死者たちのことを考えた。だから死者は墓の中にいるわけでもなく現役なんだ。阿木さんも。
しかし結局タイトルは『それにもかかわらず敢えてなお』にした。『ロック・マガジン』特集工業神秘主義音楽の表紙に阿木さんがインレタの残りをつかってローマ字で刻印した言葉だ。これは当時阿木さんに紹介したドイツ表現主義の詩人ゲオルク・ハイムの詩からとられた言葉だ。ハイムは「三たび『それにもかかわらず敢えてなお』と言うこと、古参兵のように三たび手につばをつけること」こんなの詩を1911年に残している。やっぱり阿木さんにはこっちの方が似つかわしい。

VANITY INTERVIEW
⑧ DADA(小西健司)

VANITY INTERVIEW ⑧ DADA(小西健司)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


DADA

『音風景としての「浄」』

『浄/DADA』についての試論

「浄」のレコード・ジャケットで使われている「餓鬼草子」の図は京都国立博物館所蔵の第5段である。絵巻物では餓鬼道に堕ちたことの苦しみは前世での行いのせいであると仏様が餓鬼たちに説法する場面だ。しかしジャケット・デザインでは仏衣の一部と風景(背景)のみである。また同じ第5段には餓鬼が食べ物が炎に変わる場面や転生していく餓鬼も描かれている。しかし、阿木さんが切り取った断片はあくまでも「Obscure」の意味通り「はっきりしない、ぼんやりとした」ものであり、聴き手が絵巻物に惑わされず音楽からイメージさせるような工夫がされているのである。

また、『浄/DADA』の音源を聴くと「ドイツの音楽グループのポポル・ヴーを想起してしまう」と東瀬戸悟(フォーエヴァーレコード)は語っていた。ポポル・ヴーはクラウトロックの旗手であり、1970年代ニュー・ジャーマン・シネマの代表的映画監督ヴェルナー・ヘルツォーク(1942年-)の映画音楽を手がけている。今回改めて『アギーレ/神の怒り Aguirre, der Zorn Gottes (1972年)』や『ガラスの心 Herz aus Glas (1976年)』のサウンドトラック盤を聴くと確かに「音風景」としての「浄」が立ち現れるのである。

阿木さんは、VANITY0005『乗物図鑑/あがた森魚』の録音時と同じように、既存のもの(ポポル・ヴー)から「浄」というコンセプトだけを変えて全く別のものに置き換える手法を既に使っていた。サンプリングという今では当たり前の音楽制作技だが、阿木さんが体験した音楽の中からコンセプトに合った何を選択するのか、ここに現代に通じる意味がある。またその技法は同時並行的に行われていた『ロック・マガジン』のデザインにも応用されていくのである。

このアルバムはBRIAN ENOに捧げられている。明らかにObscure Recordsへの阿木さんのENOに対する返答なのだろう。ここで少しObscure Recordsに触れてみよう。1975年から1978年に掛けてリリースされた10枚のLPシリーズに参加している実験音楽の作曲家達を列挙すると、ギャヴィン・ブライアーズ、デレク・ベイリー、マイケル・ナイマン、デヴィッド・トゥープ、マックス・イーストリー、ジョン・ケージ、ハロルド・バッド他。その中で注目すべきは音楽学者としての肩書きを持つマイケル・ナイマン(1944-)である。彼が「Experimental Music: Cage and Beyond」(邦題:『実験音楽 ケージとその後』1992年水声社)を出版したのが1974年であり、ENOが既に読んでいたことは想像に難くない。ナイマンが音楽誌に寄稿していたのが1970年から1972年までであり、ENOがロキシー・ミュージック在籍期間(1971年-73年)と重なっているのである。ENOは音楽芸術そのものの深遠な冒険を既に始めていてその後のアンビエント(家具の音楽)への流れを見据えていたのではないかと想像するのである。
おまけにObscure Recordsは、ENOが設立したレーベルではあるが、Island RecordsやPolydor Records、Virgin Recordsの販売網を利用しながら世界中に展開された。
なのでVanity Recordsの第一作目の『浄/DADA』は阿木譲のENOのオマージュとして捉えることも出来るのである。
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DADA 小西健司へのインタビュー
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DADAは1978年に阿木譲が設立したVanity Records第一作目としてVANITY0001『浄/DADA』をリリースしている。彼らのことやこのアルバムの成り立ちについてもほとんど知らない。他のスタッフと同じように『ロック・マガジン』と関わった時期(1979-1981)がずれているのが理由だ。当時どのような経緯でリリースされたのかを聞きたかった。小西君(呼ばせてください)とは、彼がその後結成する4-Dの関係で知り合うことになった。DADAもう一人の泉君はスケジュールが合わず残念ながら参加していただけなかったが当時の写真を提供してもらった。


DADA

ということで小西君にはこの機会に当時のことや今の時代をどのように感じているのかを語ってもらった。
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小西健司
ドイツLeipzigと大阪をベースにLeibachを核とするアートプロジェクトNSKが主催するビエンナーレやLeipzigで毎年催されるNacht Der Kunst等にサウンドオブジェや音響構築作品を出展する他自作楽器KonishiPhoneやアナログシンセ、センサー等を使用したライブも行う。
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泉陸奥彦
フリーの作曲家。元カリスマの菅沼孝三(drum)近藤研之(bass)らと共にトリオのバンド「Thrteen Triangle」を結成するも、現在はコロナ禍のため活動を自粛中。
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▲小西健司(DADA)
●嘉ノ海幹彦


DADA 泉陸奥彦と小西健司(1980年)
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●『浄/DADA』はVanityの第一弾として1978年にリリースされたましたがどのような経緯はがあったのでしょうか?また阿木譲との初対面の印象やどのような感じでお会いになりましたか?

▲『浄/DADA』制作の経緯は忘れてしまいました(笑)。 ただ何度も「餓鬼草紙」は制作前に見せてもらいました。

●少しでも思い出してくださいね(笑)。でも大変興味深いですね。「餓鬼草紙」のコンセプトは阿木さんが第一作目として暖めていたものなんですね。「餓鬼草紙」は平安時代後期に死後転生するという仏教思想の六道の餓鬼世界を描いた絵巻物です。その頃はブライアン・イーノのObscure Recordsの10枚組シリーズ(1975-1978)が始まっていたのでイーノへの返答として何か日本的な生死に関わるようで物語になるような連続したリリースイメージは持っていたと思います。ユーロプログレ的に日本の生死世界観をシリーズで展開しようとしていたのかも知れません。

▲阿木氏と最初に会う事になった経緯も忘れましたが、DADAとしてではなく同時にやっていたバンド飢餓同盟として心斎橋にあった喫茶店「Williams」で、メンバーの安田隆と結成したまさにその日に初めて会いました。その後阿木氏を長時間待っていたのですが現れず、近くの席に座っていた「それ風な」人に声を掛けてみると阿木ではなく八木さんという人でした。偶然にも八木さんは阿木さんの知り合いであったため電話(公衆電話)で連絡を取ってもらい、めまいがするので出て来られないというので阿木氏の居る住居兼事務所へ連れて行ってもらいました。


飢餓同盟 小西健司と安田隆(『ロック・マガジン』9号1977年8月より)

阿木譲がプロデュースしたライブハウス梅田「モンスター・タイムズ」のフライヤー(1975年)

●飢餓同盟結成その日だったんですね。ところで阿木さんと会った印象は?

▲第一印象は「なんで家の中でもサングラス?」です(笑)。正確には自分はこれ以前、高校生時代に大阪城公園の片隅で行われていたフリーコンサートで阿木氏のステージを見て彼の自主制作シングル曲「俺らは悲しいウィークエンドヒッピー」に大きな衝撃を受けていたのですが、それが阿木譲氏だとはしばらく気が付きませんでした。

●「俺らは悲しいウィークエンドヒッピー」は阿木さんがフォークシンガーの頃ですね(笑)。自分が高校生の時に行った初期の「春一番」コンサートにも出ていたのかなあと思いました。憶えていないですけど(笑)。
『浄/DADA』を録音したのは、どちらでしたか?やはり西天満のスタジオ・サウンド・クリエーションでしょうか。

▲そう、スタジオ・サウンド・クリエーションです。


『浄』の録音風景(於:大阪西天満スタジオ・サウンズ・クリエーション1978年4月19日)

●プロデューサーとしての阿木譲の役割はどのようなものでしたか?

▲こんな感じでという指示に従ってDADAが即興で具体的な音にしてゆくというプロセスだったと思います。予め収録曲のようなモチーフや手法があったわけではありません。

●今回『浄/DADA』のリマスタリングを宇都宮泰さんがされているのですが、実際に聴くと別物ではないかと思うくらい音の奥行き感も音粒の表れも臨場感にしても音響が違って聴こえました。また全体的に「餓鬼草子」の絵巻物で表現されいる「水」のイメージを強く感じます。クレジットによると1978年4月19日とありますが、一日で録音したのですよね。またVanityリリース以降のDADAとしてどのような活動をされたのでしょうか?
『浄/DADA』が有効に働いていたのでしょうか?

▲ライブ活動は行っていましたが、「浄」を意識してライブ演奏に取り入れた事はありません。またリリース枚数が少なかった事もあり、活動に於いて「浄」が何かのきっかけになった覚えもありません。
むしろ多くの機材やシンセを使ったライブを行うシンセデュオとしての局面の方が比率的には遥かに多かったと思います。

●小西君としては「浄」という作品は自分たちにとって別物という感じがあったのですね。阿木さんのリクエストに応えたという感じでしょうか。『ロック・マガジン』で好きだった(気に入っていた)号は何号でしょうか?発刊初期の頃だとおもいますが。

▲阿木氏が『ロック・マガジン』と言い出していた時は、いわゆるロック雑誌を出版するのかと思っていたら本当にロックマガジンという名の雑誌だった事に驚きました(笑)。

●当時聴いていた音楽は?叉影響を受けたアーティストやレーベルはとか教えてください。

▲当時の阿木氏の事務所兼住居で、Faustはじめいわゆる多くのクラウトロックを聴かせられたのですが、Canの「TAGOMAGO」以外興味があるものがなくむしろ彼が番組の為に購入していたような、Tiger B Smithみたいなハードロックに興味があり、後に自分でも購入して聴きました。

●現在の活動と今後の活動のプランを教えてください。

▲DADA以降ずっとやっている4-D mode1での活動と並行して4-D mode1のメンバーでもある横川理彦とのデュオSchneider x Schneiderそして音響オブジェ含めたソロライブ活動です。

●新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対してどのような感想をお持ちでしょうか?
生きている間にこのような時代(世界が民族や言語を超えて同時に同じ惨禍にある)と対峙することは、幸運にも(失礼)そうあることではありません。

▲よい経験を経て見えにくかったものが可視化し始めて来たと思っています。

●記憶を辿って質問に答えて頂き有難うございました。

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●インタビューを終わって
今回の会話を機にVanity Records(1978-1981)の『浄/DADA』を聴くと3作目以降のVanityの展開が全く想像できない。『ロック・マガジン』の変遷と共にVanityが作られたのだと改めて感じた。
小西君とは1983年に初めて会ったと記憶している。DADAの後の4-Dの頃だ。
さっき記憶の押入れから探し出してきた小西君のソノシート『4-D/After Dinner Party』(小西健司、成田忍、横川理彦、中垣和也)のジャケットを見ると1983年とある。special thanksに名前を入れてもらっていたので少し付き合いがあったのだ。佐藤薫の名前も確認できる。当時『ロック・マガジン』をやめて1年後くらいたったころに古川隆人さん(パニック商事のギターリストで1976年の万博公園「8.8 Rockday」に音源がある)のアパートに長期間居候していて色んな人に出会った。部屋にはKORGのシーケンサーやTEACの8トラック・オープンリールがあり、テープをセラミックで切り貼りして音楽を作っていた。1980年代前後の音響機器の革命はVanityインタビューで様々なミュージシャンが語っている。
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最後に、本インタビューについては東瀬戸悟氏にご協力頂きました。

阿木 譲とVanity

『阿木 譲とVanity』
テキスト:東瀬戸 悟

まず、1968年終わりに歌謡曲歌手を辞めてからVanity Records設立に至るまでの阿木譲の足跡をざっと辿ってみよう。1969年に大阪へ戻ってからは関西フォーク・シーンに関わり、1970年にシングル『生きてるだけのことなんだ / 俺らは悲しいウィークエンド・ヒッピー』を自主制作。1972年サンフランシスコ、1973年入間ヴィレッジでのレイドバックしたコミューン生活を経て、都会的でアンダーグラウンドなロックの世界へと足を踏み入れる。1974~75年にかけては、裸のラリーズ、クールスらのコンサート企画、ファッション・ブランド『I am a boy』立ち上げ、近畿放送のラジオ番組『Fuzz Box In』のDJも始める。1976年にロック・マガジンを創刊。そして1978年にVanity Records始動。1960〜70年代のポップ・カルチャーそのものが、現在と比較にならないほど目まぐるしいスピードで変容してきたとは言え、わずか10年でこれだけの転身を重ねてきたことに驚嘆する。

1977年7月に阿木は、ブルースとアメリカン・ロックが主流だった関西で、英欧プログレッシヴ・ロック/ハード・ロック志向のスタイルで活動していたグループ《飢餓同盟(後にDADAに発展)、天地創造(後にAIN SOPHと改名)、だててんりゅう、連続射殺魔、SAB、ヒロ・グループ》をピックアップし、NHKラジオ『若いこだま』で6夜に渡って放送(1977年8月8日〜13日)。この流れを受け、ロック・マガジン9号(1977年8月)に於いて『今まさにしっかりと感じとれる日本ロックの息吹き』と題した記事で、だててんりゅうと飢餓同盟を紹介。だててんりゅうのリーダー、隣雅夫のソロ・アルバム制作を皮切りにしたレコード・レーベル立ち上げを告知した。同誌11号(1977年12月)ではレーベル名『Vanity Records』を発表、初めての広告が掲載された。この広告で確認できるアーティスト・ラインナップは、飢餓同盟、AIN SOPH、だててんりゅう、隣雅夫、SAB、鵺(ぬえ)の6組だった。
阿木の所蔵カセット・テープの中から、隣雅夫のデモ録音と詳細不明のデュオ:鵺の『Electric Delirium』が発見されている。隣の作品は雅やかな和テイストが香るミニマル・シンセサイザー音楽で、ジャズロック的なサウンドを展開していた当時のだててんりゅうとは趣を異にする。鵺はエレクトロニクスとドラムのノイジーなインプロヴィゼイションで最初期クラフトワーク~ノイ!を荒々しくしたようなサウンドが興味深い。最終的に、デュオとなって間もないDADAを起用し、1978年4月19日に西天満スタジオ・サウンド・クリエイションで録音した『浄』がVanity第一弾として同年7月に発表された。

大半のVanity作品の録音とミックスを担ったスタジオ・サウンド・クリエイションは、1974年に桑名正博グループ、パフォーマンス(山本翔)、ユグダラジル(加賀テツヤ)、だるま食堂らを収録したコンピレーションLP『Introduction I』を自主制作。24ch機材を備え、ディランII、大塚まさじ、河内音頭の録音などを手掛けていた。エンジニアの奥直樹はNOMAL BRAIN:藤本由紀夫の先輩(大阪芸術大学・音響工学科)にあたり、AUNT SALLY、あがた森魚のアルバムではテープ・ループの編集も行っている。
レコードをプレスしたコジマ録音は1974年設立、現在も存続する老舗会社。自社レーベル『ALM Records』では、主に現代音楽(湯浅譲二、佐藤聡明、高橋悠治)、フリー・ジャズ(阿部薫、スティーヴ・レイシー、土取利行、吉沢元治)など、非商業的だが質の高いアルバムをリリース。外注のレコード・プレス会社として、ロック、フォーク、舞台音楽、民謡、80年代インディーズ・ブーム期の様々なレーベルに至るまで、多くのレコードを製造し、自主制作音楽のシーンを支えてきた。Vanityの盤面外周部分の刻印『LM』はコジマ録音のプレス品番である。
Vanity初期4枚(DADA、SAB、AUNT SALLY、TOLERANCE)のレーベル・ロゴ・マークは、スケルトン仕様のフィギア『変身サイボーグ』(タカラ)がモチーフで、ロック・マガジン2号(1976年5月)に掲載されたイーノやプログレッシヴ・ロックに関するテキスト『サイボーグ・ジャガー:半機械豹論』の世界観を受け継ぎつつ、オモチャ・コレクターだった阿木の趣味を反映するものだった。
1980年の7作目SYMPATHY NERVOUS以降は、版下編集の際に多用していたインスタントレタリング(レトラセット)の男性マークをそのまま使用。スマートで即物的なデザインに変化した。

阿木の一周忌にあたる2019年10月21日にリリースされた3種類のCDボックス、Musik 2CD (400部 Remodel03)、Vanity Tapes 6CD(300部 Remodel03)、Vanity Box 11CD (500部:黄色箱250部/ピンク箱250部 Remodel05) ついて説明しよう。これらは初めてVanityの全アルバム、シングル、コンピレーション、カセット・テープを集大成したもので、2011年7月にStudio Warp:中村泰之が、阿木への原盤権使用料、JASRACへの著作権使用料、スタジオでのリマスタリング、パッケージ印刷、CDプレス費用などを全額出資し、阿木の監修によって制作されたものだ。この際に阿木はアーティスト側への連絡を一切しないまま完成させ、発売告知を行ったため、アーティスト達の大半から抗議と発売差し止めの声が上がる事態となり、現物が既に出来上がっていたものの世に出せずお蔵入りとなってしまった。

雑誌の編集であれ、レコードの制作であれ、阿木は自分の直感でのみ反射的に動き、細かな確認や配慮を行わないまま突き進むことが多々あった。この点は本書の各アーティスト達のインタビュー発言からもうかがい知れるだろう。阿木の前のめりで強引なまでのダイナミックさがあればこそ、ロック・マガジンもVanityも特異な存在として際立っていたわけだが、常に卓越した先見の明と行動力を持ちながら、その性格ゆえビジネスとして成立出来なかったことは残念である。

阿木の死去後、Studio Warpは所在が判明しているアーティスト達に改めて連絡を取り、2011年から倉庫に眠ったままだったCDボックスの発売許諾を得るとともに、原盤権の譲渡とマスター・テープの返却を行って、8年越しでようやく日の目を見せることが出来た。元々の制作部数が少なかったこともあり、このボックスは予約のみで完売。半数以上はスイスWRWTFWW(We Release Whatever The Fuck We Want)によって海外配給された。

2011年制作のCDボックスは一般にほとんど行き渡らなかったため、2020年に入ってStudio Warp傘下Kyou Recordsは、原盤権を譲渡したアーティスト達から再び許諾を取り、新たに発掘された未発表音源も加えながら『Remodel』企画の下、ボックスあるいは単独CDで順次リリース。限定プレスではあるが以前より容易に全作品が聞ける状況が生まれた。

70年代末~80年代初頭のインダストリアル/エクスペリメンタル/ミニマル・シンセ音楽に関して世界有数のコレクターであり、マニアックな再発を数多く手掛けるドイツのフランク・マイヤーは、阿木の生前から自身が主宰する『Vinyl On Demand (VOD)』でVanityの再発をオファーしていた。80年代からVanityの諸作品は海外マニア間で人気があり、高値のプレミア・アイテムとして知られていたが、近年はインターネット経由でさらに情報が広まり、数種類の海賊盤LP/カセットが出廻ることになってしまい、正式再発が望まれていた。海外でVanityの再発を任せるにあたって、レーベルの方向性と質の高い仕事ぶりから考えてVODが最も相応しい存在であることに間違いはない。
VODは、2020年5月に2LP『Music』(500部限定)、6LP『The Limited Edition Vanity Records Box Set VAT 1-6』(500部限定:Vanity TapesのLP化)の2タイトル。2021年に4LP+7″『TOLERANCE』(800部限定)、5LP『Vanity Box I』(800部限定:R.N.A.ORGANISM、BGM、SYMPAHY NERVOUS、SAB、7”singles – SYMPATHY NERVOUS/MAD TEA PARTY/PERFECT MOTHER) 、4LP『Vanity Box II』(800部限定:DADA、あがた森魚、NORMAL BRAIN、R.N.A.ORGANISM – Unaffected Mixes)の3タイトルをリリース。AUNT SALLYを除くカタログがLPボックス化された。

1960年代初頭のアメリカン・ポップスに始まり、R&B、フォーク、プログレッシヴ・ロック、現代音楽、グラム、パンク、ニューウェイヴ、インダストリアル、ノイズ、アンビエント、ハウス、テクノ、Nu-jazz、『尖端音楽』と名付けて晩年に展開した暗く終末的な響きのエレクトロニック・ミュージックに至るまで、阿木は常に新しく発売されたばかりのレコードを買い続けながら終生流転していった。
「自分がつくったものにいつまでもこだわっていると、前に行けない。」と語っていた阿木にとっては、Vanityも一つの通過点にしか過ぎなかったのだろう。しかし、ここには次世代に聞き継がれてゆくに値する音楽が並んでいる。  (東瀬戸悟)

VANITY INTERVIEW
⑦ NORMAL BRAIN(藤本由紀夫)

VANITY INTERVIEW ⑦ NORMAL BRAIN(藤本由紀夫)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


「藤本由紀夫 at NEW PICNIC TIME」

『引算の音楽』

今回はNormal Brainの藤本由紀夫。メールではなくインタビューを行った。40年前に松岡正剛に取材して以来のことだ。神戸三宮に未だ残っているアールデコ調風情の古いビルにあるアトリエにお伺いした。藤本さんと本当の意味で話をしたのは初めてかもしれない。声をかけたのは学生時代に遡る。大阪北浜にあった三越百貨店の上階にある三越劇場でのことだった。そこではマルチメディアのイベントが開催されており映像と電子音楽が演奏されていた。なぜそこに行ったのか、なぜ終演後に声をかけたのか、全く記憶にない。それから数年後の1979年に『ロック・マガジン』の編集スタッフになっていた。Vanityからあがた森魚のLP(VANITY0005『乗物図鑑』 )をリリースするということで録音することになり、藤本さんにも声を掛けて編集室に来て頂いた。そこではアレンジを担当するSAB(VANITY0002『Crystallization )も同席し阿木さんと引き合わせることになった。阿木さんを紹介したことを本当はどのように思っておられたのかが気になっていたが、その辺の話も伺うことができた。さてカセットデッキではなくスマートフォンをタップ。
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藤本由紀夫の活動に関しては、こちらのホームページをアクセスして頂きたい。
経歴や過去の作品などもこちらから確認することができる。
http://shugoarts.com/news/17798/

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■藤本由紀夫(Normal Brain)
●嘉ノ海幹彦


「藤本由紀夫と志村哲 at NEW PICNIC TIME」
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《人が人を管理する社会について》

●現在情報処理会社で人事管理システムを導入する仕事をしているのですが、時代の移り変わりと人事制度の変化に興味があります。人事制度の変遷を簡単に俯瞰すると「年功序列」「終身雇用制」から1980年代以降は、「成果主義」による「年俸制」となり、成果や業績が評価対象となり、「目標管理」といわれる設定した目標の達成度による人事評価制度が導入されました。現在「タレントマネジメント」という管理方法では人材の個別要素を9つに細分化し(9ボックス)各要素に対して指標と個人スキルを比較したダイヤグラムを作成し「人材の適正配置」を確保しようとしています。世界的にみれば、1979年にイギリスの首相マーガレット・サッチャーが新自由主義を掲げた時から、規制緩和の名の下に人事制度や雇用契約も大きく変化しました。ちょうどイギリスのロックバンドCRASSが盛んに反サッチャーを歌っていたころです。その後、日本でも1986年に「労働者派遣法」が施行され、今では非正規雇用者が3倍以上に増加しています。
イギリスの自死した評論家マーク・フィッシャーが「資本主義リアリズム」(堀之内出版)の中で、1980年代に多かった分裂症に代表される精神疾患が2000年代に入ってくると逆に少なくなってきて、うつ病が多くなっているとあります。80年代サッチャーイズムの時代と今の時代の変遷がその違いに反映されていると。この傾向はますます顕著になってきています。彼は大学の教員をしていたわけですが、仕事上関係している企業の人事評価システムの一部を応用して学生を管理しているのでちょっとびっくりしました。教師はモジュール・リーダーとなって学生の評価を上げるように管理をしないといけない。半期ごとに目標を定めて成果を大学に報告することになる。そんな中で教師自身もうつ病になるということが多いとも記載していました。企業内で行われていることと多くの共通点があることに驚愕しました。
藤本さんは現在も京都芸術大学にお勤めですよね。日本の大学って今どうなんでしょうか。

■昔の大学のイメージはなくなっていて、僕なんかは50歳になってから教授で入ったからもうそのままやりたい放題です(笑)。
65歳で定年ですが、そのままの籍で京都芸術大学教授の肩書だけでいるんですが、7-8年前から大学院がメインになってからもう個人ですね。今は本当に学生を管理しなくなったんでありがたい。
全国の大学がそうですけど、どんどん締め付けが厳しくなって、90分授業で最初の何分で何をするとか。僕が居た情報デザイン学科が特別だったらしいです。僕なんかは全く言うこと聞かずに勝手にやってるから、何もいわれなかったんだけど。静かにしといてもらったらいいですよと、もう出来上がっちゃった人だからという感じで勝手にやってるんですね(笑)。

●藤本さんは昔からそんな感じですよね(笑)。

■でも今の授業を見てたら、ルールに従ってどう見てもいわゆる研修センターみたいなものですよね、おかしいのが授業内で成果を出さなきゃいけないということなんです。

●それはマーク・フィッシャーの話と同じですね。

■そのためなんですけど、教師同士がお互いに観察し合うというのがあるんですね。僕もそのやってる人の授業を見にいってびっくりしたんだけど、最初の10分でまずグループ分けをさせ、何かの課題を出すわけ。その後10分位それぞれの人たちが考えて成果を発表し合うんですけど、めちゃくちゃ短いんですよね。それと同じのを90分の中で2回やる。学生は従うわけですよね、今の学生は反抗しないから。やるんでけどテーマが出たのに対してグループでディスカッションして、でも10分で纏めないといけないから大したものは出来ないわけです。学生だってわかっているからこのテーマならどんなことを要求しているんだろうというのを纏めてグループリーダーが発表する。でも見ていたらあるグループが面白くなってきたみたいで、こんなことをやったらどうだろうみたいなことになって、これは面白くなるぞと思った時に先生が止めて、「はい次の課題にいきます」って(笑)。ここからなのになあと思っている時に(笑)。ちょっともうこれは駄目だなって(笑)。

●当然自己抑制をするわけだから、教師も精神疾患を患いますね。今後どうなるだろう。特にアートを扱っている大学でそのようなことが起こっているとは。。。

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《藤本由紀夫との出会い》

●今回は、一番初めに会ったときから話をしたいんですけど。出会いは、大阪北浜の三越劇場なんですよね。そこでは映像があって電子音響が流れていた。演奏の後に僕から声をかけたのが最初でした。どのようなイベントだったのですか?

■江並直美(現グラフィック・デザイナー、電子出版物プロデューサー)さんという当時大阪の高校生だったと思うけど、学校の中でかなり尖ったことをやっていて映像のイベントをやりたいけど音楽はわからないのでということで、彼らから接触してきたのが始まりでした。その江並さんと永原(康史)さんとも親しい関係だったと思います。その時の三越劇場のイベントで関わったんです。

●永原康史(現多摩美術大学教授)くんとは1979年『ロック・マガジン』主催のイベント「NEW PICNIC TIME」(大阪芸術センター)を一緒にやりましたね。そんな縁があったんですね。

■結局、イベントをやったのが原因だったのか高校を退学させられて、江並さんはそのまま東京行ってデザイナーになりスポーツ雑誌の『Number』とかのアートディレクターやったり、CD-ROMを使ってデジタル・コンテンツの先駆けみたいなことやって出世した人なんですよ。高校を中退しているのに東京大学に教えに行っているって話題になった(笑)。

●当時藤本さんは大阪芸大の助手でしたよね。なぜ三越劇場という映画上映を主としている会場でイベントすることになったのですか?

■三越劇場って面白かったですね。ディレクターがすごくってゴダールやタルコフスキーとかの映画を上映してましたね。彼らもそんな場所でマルチメディアをやりたくて、企画を持ち込んだらOKとなった。でも映像は作ってるけど音はよくわからないからということで接触してきたんですね。

●当時の見た時の印象は映像と電子音楽がマッチしていなくて、逆にそれが面白くて、終わってから声をかけたのではと思います。でもKORGとかコンパクトな電子機器はまだなかったですよね。機材はどうされたんですか?

■KORGとかの前ですよね。機材はその頃既に「維新派」(劇団「日本維新派」)と演ったんですけど、コンパクトなものはほとんどなかったから、大阪芸大の電子音楽スタジオからラックに入っている機材ごとハイエースに積み込んで、モニターとかスピーカーも持ち出して演奏したんです。当時は機材とかを使えるだけでも珍しかった。個人で持っている人は居なかったし。まだローランドが出してたものも高かったですし、その後にKORGがコンパクトなものを出してから急にみんな学生でも買えるようになった。本当に革命でした。電子音響の機材で音が出るっていうだけでみんなびっくりしたんですね。

●不思議なことにローランドは大阪の会社だったし、KORGは京王技術研究所なんで東京かな。カシオは京都だし関西が多かった。

■KORGは未だに面白い会社ですね。音響機器ではソニーとかはオーソドックスなローランドみたいな会社だけど、それに対してアイワっていうメーカーはKORG的な位置づけで、1977-78年にウォークマンが発売された時にソニーは再生専用だったけど、その後でアイワが「カセットボーイ」っていう小さいのを出すんだけど、それはコンパクトなのに録音ができる機能が付いていたんです。これだっていうことになった。録音ができなかったら意味がないだろうということですね。しかしソニーは録音できるのは出さないですよね。聴きながら歩くっていうコンセプトだから。

●なるほど。

■それに対してアイワはやっぱり使えるので、やってくれたなあという感じがして、KORGもそういうところがあるんですよね。コストは低くするんだけどマニアが使える機能を盛り込む。だから簡単に扱える音響機器が出て世界全体が変わったんじゃないですか。あっという間に。

●今Vanity Recordsからリリースした80年前後の人たちとメールでやり取りするんですけども、やっぱり何人かは録音するにしてもTEACの4チャンネルが出たりとか機材が安価に手に入ったりして画期的だったと語ってますね。自分ひとりで音楽が作れると。

■カセットのマルチトラックレコーダーが出たのも大きかったです。それまではオープンリールでマルチトラックとなると持ち運び出来ないから、持って行けてマルチトラックで出来るっていうのがすごかったですよね。

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《万博と反博とシュトックハウゼンと電子音楽の限界》

●もう少し時間を戻したいんですけど、藤本さんは50年生まれですね。僕が54年生まれなんで4年違うんです。僕らの世代から見ると4年違うと相当違う感じがするんですが、高校1年生の時に大阪万博があったんです。中学生の時から上浪渡のNHK-FM「現代の音楽」と小泉文夫の「世界の民族音楽」を聴いていたんです。その番組で紹介されていた作曲家が万博で登場したという衝撃的な体験がありました。回数券を購入して何回も行きました。藤本さんは?

■僕、行ってないんですよ。

●えっ、そうなんですか。今日はその話を聞こうと思っていたんですが(驚)。

■反博だったんですよ(笑)、立場として。当時は万博に参加したアーティストっていうだけですぐ全共闘(美共闘=美術家共闘会議)から攻撃されたんです。ほんとにあの資本主義に負けた野郎達みたいな(笑)。

●20才位の時に、工作舎で紹介してもらった藤本さん世代の音楽家沼澤慧さんと万博の話をしたらやっぱり「僕は反博だったんで行ってないです。」っておっしゃってました(笑)。その時には万博に関して驚きの方が大きかったんでよくわからなかったんですが、例えばE.A.T.(Experiments in Art and Technology)とか後で何だったのかを理解したという感じです。その後大阪にカールハインツ・シュトックハウゼンが来て淀屋橋のフェスティバルホールで「シリウス」の上演を見に行ったりしました。

■その時にはシュトックハウゼンはもう直観音楽になっていたんですね。だからもう何っていう感じで、シュトックハウゼンは70年には電子音楽に未来はないってわかってたんですよね。でも既に電子音楽の権威として祭り上げられていたからね。

●帝王みたいな感じになったんですね。

■シュトックハウゼンはケルンの電子音楽スタジオを始めて数年間で電子音楽がどっちみちダメだってわかったみたいです。サインウエーブでの合成で作れるなんて数が100や200重ねたところでできないってすぐわかったみたいで。ほんとに当時は情報こなかったので後になってやっぱりそうだったのかって。

●藤本さんがやっぱりそうだったのかっていうのは?

■僕はまだ電子音楽を信じていたんですよね。万博のスローガンだった科学と技術が未来をつくるっていうのを。だから電子音楽が合成で全ての音が作れてコントロールもできるので未来の音楽はこうなるだろうと思ってたんですけど。

●だから大学もそっちの方面へ行かれたんですよね。

■そうですね。大阪芸大には、NHKと同じ電子音楽スタジオがあって技術のトップだった塩谷宏(元NHK電子音楽スタジオのエンジニア)が教授で来て、上波渡(元NHK電子音楽スタジオのプロデューサー)も集中講義で来ていたんです。年4回ぐらい来て毎回NHKに届いたレコードやテープを聴かせるだけっていうことをしていた、1日にせいぜい3枚位かけて「聴かなきゃ始まらないから」って必ず言うんですよ。当時はまだ発売されてないNHKに届いたものを持ってきてくれるんですが、僕らは聴いてもなんだろうって、ちょっとタイトルが書いてるだけで解説をしてくれなかった。それが一番印象に残っている。もっとすごかったのがその塩谷教授。シュトックハウゼンにドイツに来いって言われたような人なんだけど。電子音楽スタジオの使い方を一切教えてくれなかった。職人ですよ。見て盗めって。もう最初は録音するのに20キロ位のテープレコーダーを地下鉄で持って移動するとかね。そういうのを今となってはそれがよかったと思うんだけど、僕も多分その教授も電子音楽というのが賞味期限が切れてるってわかってたと思うんです。だからそれを教えても多分将来のためには?というのがわかってたんだなっていうのがありました。

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「藤本由紀夫と志村哲 at NEW PICNIC TIME 1979年12月 於:大阪芸術センター」

《Normal Brain前史》

●その時は電子音楽に未来のないことを気付かれて次の展開として何を考えていたんですか?具体的には?

■その前に、大学では自分で様々な音を出せるし、設備もあったしね。学科には5-6人学生がいたけど、他の人はそんなに興味がない人来てたから、スタジオは使い放題で勝手にやるのは全然問題なくて、どんどん機材使ってたら面白くてね。最初は色々変えると波の音ができたり、ピアノらしい音ができたり。
でもやってるうちになんか変だなと思いだして、それを打開するやり方として音を足していった。最初は一つしか音出してないから、つまんないんでもう一つ音を足していく。典型的なのが音量を上げていくとか。結局そういう考えにとらわれていって、どんどん色んな音を積み重ねるとか、物理的にもスピーカーを8つとか積み上げて、その方法はプラスプラスだからノイズに行くわけですよ。ホワイトノイズがいいなあとなって(笑)、しかも1日中スタジオに篭っているからランナーズハイ状態になるんですよ。でもその時はいいんだけど、また次回に同じ事をやると満足できないんですね。慣れてきてどれだけたくさんやっても2回目って全然刺激がなくなって、3回目にはどんどん対数的にテンションが落ちていく。そうなると今度は音量を上げていくわけですよ。と次はどうなるかっていうとやばかったのが、スタジオで1人でスピーカーを10何個か積み上げて音量を上げたらロッカーの壁とかそのうち蛍光灯とか震え出して、そんな状態までいったんです。
そのうちに体がおかしくなって家に帰っても眠れないし。だけど体は動かしていないので肉体的な疲れはないんですよ。感覚だけは鋭いんです、音を浴びすぎて。へとへとでこのままでいくとダメになるなと思いました。そう思ったのが70年代の半ば。だから今でも音楽でアンバランスになる人は多いですよね。ドラッグと同じで刺激が目的になってしまう。
もう一つすごく大きなきっかけは、合成音っていくら種類が出来ても全部同じ音に聴こえるんですよ。よく考えたら合成してたって目の前のスピーカーの音しか聴いてないわけですよ。風の音だって本当の風の音ではないし、波の音だって波の音じゃない。楽器の音だって楽器の音じゃない。同じスピーカーから出てる全部同じ音だなあと思った。その経験があったんでいくら音を重ねたって最後はスピーカーからの振動音になってしまう。じゃあ何が出来るんだろうと思ったら何も出来ないなあと思った。大学4年間いてそのまま残って何年かスタジオにいてどんどん可能性ないなぁっていうのを実感してた。

●なるほど、そのことを実感というか体感したんですね。

■それと共に70年代POPSの音楽は60年代のイギリスのプログレッシヴ・ロックからアメリカのウエストコーストになったんで、積み重ねていく音楽がどんどん職人的な方向に広がっていって、そっちの方も全く共感できずにいた。所謂現代音楽は壊滅的な状況にあったんで、何も出てこなかったから本当に何もなくなった。
その中で今でも思うけど、すごかったのがクラスターの「Zuckerzeit」(1974年)を聴いた時にリズムがずれまくりながら音出して、単におもちゃ箱をひっくり返したみたいになっている。こんなにいい加減でいいんだっていうのがショックだった。

それまでのドイツの音楽ってきっちり作っているイメージがあったんですよね。こんな音楽の作り方があるんだと思っていて、止めを刺されたのがデビッド・ボウイの「LOW」(1977年ブライアン・イーノとの共作)を聴いた時だったんです。それまでのLPはA面B面があってその中でどれだけの世界を作り上げられるかというものでしたよね。デビッド・ボウイももちろんそうだったんだけど、「LOW」を聴いたときに、全部デモテープみたいでいきなり1分位で切れるとか、ドイツで作っているとか知らなくて本当にびっくりした。またセックス・ピストルズの音数の少なさが対位法的だなあと思って。つまり、ビートルズもそうだけど和声的な厚みで音楽を作るのが多かった中で、クラスターもそうだけど、結局対位法ですよ。旋律だけ重ねていくだけで中身はスカスカでちゃんと音楽作品を作ってる。はじめはセックス・ピストルズってパンクロックだって思わなかった。シャレてるというかこんな音数が少なくてもちゃんと音楽になっている。「LOW」に似ているなあと思った記憶がある。この程度だったら自分で作れるんじゃないかと思ったんです。音の厚みで重ねるんじゃなくて、削りっぱなしでいけるんじゃないかと。ちょうどそういう気持ちとそのままポンと投げ出しただけでもいける音楽っていいなぁと思ったのとウォークマンが出てきたり、カセットのマルチトラックが出てきたりしてね。また僕にとって大きかったのは電池式のスピーカーが出てきたことだった。これがあれば自分の家でも全部スタジオができちゃう、カセットマルチでね。その後KORGが出てきた。モニターも電池の小さいのが出てきてスピーカーとかも机の上に準備して、ちょっとそれで何か作ってみようっていうのが70年代の後半からですね。またやりだしたら、子供の時にそのテープレコーダーで遊んでたと同じような感覚が蘇った。止め刺されたのはKORG MS-20シンセサイザーとSQ-10のシーケンサーのセットですね。購入したら机の上に完全にシンセサイザースタジオが完成できちゃう(笑)。

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《あがた森魚「乗物図鑑」への参加》

●その時期ってちょうどあがた森魚「乗物図鑑」の頃ですよね。1979年の秋に録音したんですよ。あの時はじめてSABとあがたさんに会ったんですけど、その時に藤本さんに「乗物図鑑」制作に是非参加して欲しいって声を掛けたんです。今のお話を聞いてスタジオで藤本さんが「クラフトワークってすごいですよね、あんな機材を持っているのに、あそこまで単純化して音楽を作っている」っていってた意味がわかりましたし、繋がりました。

■確か、あがた森魚でアルバムを作るコンセプトはパンクと現代音楽って言ってませんでしたっけ(笑)。
それで呼ばれていきなり会わされたような(笑)。編集室の近くのヒュー(Phew)の部屋があがたさんとSABの合宿場所みたいになって。だからその時に阿木さんともはじめて会いました。

●「乗物図鑑」の録音が終わってからしばらくして「NEW PICNIC TIME」(1979年12月)に藤本由紀夫で出演して頂いたと思います。時系列的には「乗物図鑑」リリースの前でしたね。でも「NEW PICNIC TIME」の演奏形式はNormal Brainだったですね。その時の写真が残っていてびっくりしました。

■「乗物図鑑」レコーディングの時、あがたさんは困っていたんですよね。SABはノリノリであがたさんはちょっと違うなあという感じでやってたんだけど、僕はそばにいてこれで本当に出来るのかなあと思っていた。途中であがたさんはスタジオから逃げ出しちゃって古本屋で稲垣足穂の新潮文庫の「一千一秒物語」を買ってきて「僕は古本屋でこの本を見るとかわいそうで買わずにはいられない。もう何冊も買っているんですよ」という話をしてたんで「僕は稲垣足穂の録音を持っていますよ」といってやっとあがたさんと話が出来るようになった。ヒューが帰ってきてその時に「僕はブライアン・イーノが好きで」といったら「イーノなんかよりデヴィッド・カニンガムの方がずっと上よ」ってフライング・リザーズを聴かせてくれたんですよ。「なるほどクラスターみたいだ」と思いました(笑)。それがきっかけで仲良くなりました。何日か経って部屋に見知らぬ人がいて、それが鈴木創士(仏文学者、EP-4)でフランスから帰ってきたばかりだった。そんな感じで行く度にいろんなことが起きて面白かった。
でもレコーディングはうまくいってなくて、SABがプログレまがいのアレンジばっかりやって、あがたさんは自分の中にイメージないっていってて、阿木さんもなんかイライラして一緒に録音してて、最後はこれでいくかみたいな、もうしょうがないからってなった時に、阿木さんが急に僕に向かって「ちょっと一緒に編集室に来てくれる」っていわれたんですよ。
着いたらいきなり「今のアレだけど」って、どう思うとかも聞かれなくて、「わかってるよね。これじゃダメでしょ」という感じだった。そうしたら阿木さんはいきなりテレックスのレコード出してきて聴きながら「これで行きましょう」、「いいですよ」、「自作した電子音があるから」、「じゃそれをのせよう」とか30分くらいでどんどん決まっていって。次っていうのでジョイ・ディヴィジョンが出てきて、「これいいですね」って(笑)。僕もそういうのは全く抵抗ないから、むしろ変にアレンジしてやるよりはこのまま取った方が格好いいと思った。その時にはさすが阿木譲と思ったんだけど、あがた森魚にはこれが合うとか非常に的確なんですよ。僕もテレックス聞いたのは初めてだったんだけどあがた森魚に合うなあと思った。じゃ僕も稲垣足穂の声(瀬戸内晴美との対談での飛行機のエンジン音のモノマネ)をここに入れてとか。POPなやつはそれで決まって、コンテンポラリーなものはループで重ねたらって話になって、その1時間くらいで決まったんです。決まったことはSABは全く知らないんですよ。だからどうやるんだろうと思ったら阿木さんはSABを外して一演奏家にしてしまって、これでいくってなった。僕はテレックスのシーケンスを全部作って入れ直して録音したんですよ。あの時レコーディングした「スタジオ・サウンド・クリエイション」のミキサーをしていたのが奥(直樹)さんで大阪芸大の先輩だったんです。よく知っているからやり易くってループの曲も一緒に作ろうという感じで大学でやってたのと同じようにテープを切って作ってスムーズに出来たんですよね。びっくりしたんだけど本当に一日で作れるんだというのを見た。あれは阿木譲のすごいところだと思いますよ。本人には具体的なテクニックはないわけですよね。でもレコードとかこの感じとか頭の中に全部あるから、この場合はこうという感じでまさにディレクター、今でいうサンプリングをちゃんとして今のDJですよね。それで結局あがたさんも乗っちゃって、はっぴいえんどとかはちみつぱいとかと作っていたレコーディングとは全く違うやり方でびっくりしてたと思う。
その後アルバムが出てから、あがたさんのライブへ行ったりして今も仲良くしているんだけど。あがたさんは録音が終わった後に「僕はこれでいく。今までのじっくり作っていたのはもうやらない」と言ってたし、あがたさんにとってもそれまでの方法から切り替わったんじゃないかと思います。

●あがたさんにとって「乗物図鑑」は今までのやり方から新たな方向へと行くものであったんですね。
藤本さんは録音に参加して、どうでしたか?

■僕なんかPOPSの世界は全く知らなかったんで、本当に面白いと思ったんですよ。阿木譲が面白いと思ったんです、こんな人がいるんだって。いわゆる叩き上げのミュージシャンじゃない、全然違うやり方によって音楽で自分の世界を作る人がいるというのが面白いと思いましたね。

●僕はスタジオ行ったり、ヒューの家に行ったりしましたけど、編集もあるし、本当にテンパッてたから今色々思い出しました(笑)。ところで『ロック・マガジン』とかは読んでいましたか?

■阿木信者はみんな大変だったと思いますよ。後から考えたらオウム真理教みたいでしたね。高嶋(清俊:写真家)さんとか永原さんとかは、阿木さんと知り合う前に知ってたんですよね。『ロック・マガジン』はそれまで読んだ記憶はないですね。高嶋さんの写真や永原さんのフロッタージュを載せる雑誌なんだくらいの印象でしたね。

●『ロック・マガジン』についてはブライアン・イーノが表紙のA4サイズくらいからの関わりなんですが、特にここに持ってきている中表紙がベーラ・バルトークの特集「MUSICA VIVA」なんですけど、西洋音楽のが今のパンクミュージックにまで流れている時代精神がそれぞれの時代と拮抗しながら地下水脈のように流れているというコンセプトのもとに編集された本です。ちょうど先ほどの藤本さんのお話に出てきたケルン音楽スタジオも入っていますが。

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「藤本由紀夫と志村哲 at NEW PICNIC TIME」

《Normal Brainとは?》

●前フリが長かったですが、ここからNormal Brainに移ります(笑)。あがたさんの録音が終わって、その流れでVanityからNormal Brainをという話になったんですか?

■最初はソノシートですよ。『ロック・マガジン』の付録につけるので何か曲はないか、ということでした。ソノシートっていいなあと思ったんですよ。ちゃんとした音源にする必要もないので、マルチカセットとか持ってた機材を繋いでテレビからの音源を入れてカットしてとかシーケンサーでとか家の中で録りっ放しの「LOW」みたいな感じで。最初は1曲だけでよかったんですけど、それでいっぱい作ったから何本かカセットテープを渡したんですよ。そしたら阿木さんからLPを作らないかと言われたんです。こういうのでいいんだ、面白いと思って作ることになったんで、LPを出したいとか特別に何の考えもなかったし、面白いと思って家でいろんな方法で何本か作っただけでした。

●カセットに曲を入れてた段階でNormal Brainっていう名前はついていたんですか?

■既にNormal Brainという名前は付いてました。回りでも70年代からバンドやってる子が多かったんですね。プロになってる子もいて、それを見てて結局最後は解散したりとか分裂したりとか、バンドだと人間関係がめんどくさいなあと思ってた。かといって個人だと自由に出来にくいからなんかないかなあと考えてグループ名みたいなものだと何をやるにもやり易そうだと思ってつけたんですよ。まだ大学にも残っていたし現代音楽だと個人ということになるしね。それでバンドじゃなくてユニットにしたらどうかと考えて名前だけ付けといたら一人でもいけるし、その時だけ誰か入ってもいけるし、名前だけ付けたんですよね。Normal Brainだったら映像だけでもなんでもいけるんじゃないかと。それだけのためだったんですよ。だから所謂バンド名ではない。
その後レコーディングして中のスリーブのデザインとかも出来ていたけれど、レコーディングの終わりに阿木さんと喧嘩して結局全部ストップしてしまったんですよ。

●そうでしたか。

■だからその後にVanityからリリースされたLPに入っている曲名が違うんです。先日スイスからリリースした時に直したんですよ。(2019 reissue by WRWTFWW Records) 「Tomorrow never knows」っていう曲があるんだけど、フライング・リザーズみたいにやっているんで著作権に引っ掛かっていたかも(笑)。作ったけど僕も出したいって強く思っていたわけでもなかったので、アルバムに入れる入れないって、お互い引かなかったから、なかったことにするとか、もういいやっとなってほっといたんです。そしたら1年ぐらいしてから阿木さんから出そうと連絡があった。その時は最初のレコーディングした曲に満足してなかったから、自分の作っていた曲に差し替えたんです。そのことに関しては阿木さんは全く興味を示していなくって準備していたので、何でもいいから出せればいいって感じだったのかも知れない。
音源を自分で作って持っていって、それを元にレコードは出たんだけど、中のスリーブのデザインとかは最初にレコーディングしてた時に頼んでいたので、そのままチェックなしでいきなり出ちゃった。ということで曲名も違うままリリースされたんです。その後、『ロック・マガジン』の事務所で出来たアルバム3枚もらっただけという記憶がある。そういう経緯なんですよ。

●『Ready Made/Normal Brain』がリリースされたのが1980年10月なんですよね。

■僕があせっていたのは、Speak & Spell(Texas Instruments)をボーカルにした曲(「MUSIC」など)があるでしょ。これは面白いと思ってやってたけど、絶対クラフトワークが使うぞと思ってたんですよ。クラフトワークが使っているのが出てからだとやばいなあと思ってたんで。だから出来上がってから1年くらいが一番やばいと思っていたんですよ。でもこれがリリースされた後に「電卓」(1981年コンピューター・ワールド)とか出たんだけど本当に心配した。彼らが使わない訳がないと思ってた(笑)。阿木さんにはそんな意識は一切なかったですが(笑)。

●ジャケット・デザインは阿木さんですよね。スリーブのところに5ミリくらいの細長い穴が縦に空いているでしょ。あれは製本屋さんでの手作業ですよ。僕らは現場でお願いしました。ジャケットを糊で張り合わせたり箱を作ったりしました。結構大変でした。本の表紙に穴をあけるのも手作業に近いですしね。『ロック・マガジン』がB5サイズの頃で、セクション毎に紙も違うし色も違うし、製本屋さんも紙が違うから大変でしたけど、「こんなのは出来ない、出来てもとんでもなく手間が掛かる。仕事じゃない。費用が合わない。」っていうこところを何とかお願いして印刷してもらいましたが、インクの濃度も輪転機の速度も圧力も全部都度調整する必要があり、僕らも印刷をしている間はずっと立ち会いましたが、輪転機に紙がまき付いてその度に剥がして洗ってインクをのせてと大変でした。

■だからいいんですよ。阿木さんのすばらしい所だと思います。全て手作りで拘りたい。この色違いの本は工作舎の「遊」からでしょ。「遊」はスポンサーからたまたま余った紙をもらって印刷してたけど、阿木さんはわざわざ違う紙でしかも質が違う紙を選んで手間を掛けて本にしているわけだからすごい。「乗物図鑑」のテレックスも同じですよね。だから単なるコピーじゃないんですよ。そこの違いは大きいですね。そこの魅力はありますね。

●阿木さんは盗んでくるのが上手な人なんですね。だから『ロック・マガジン』の初期のものと僕らが関わった後のものは全然違いますね。後で見ると戸田ツトムや杉浦康平のブックデザインからの影響もあるけど、コピーじゃないし、全く違うように書き換えるデザインセンスはすばらしいと思います。
でも印刷屋さんとか製本屋さんとか実際の現場には来なかったですよ、いつも僕等だけ(笑)。

●話はNormal Brainに戻しますが、リリースした後にライブとかは?

■70年代にやっていたのはフリー・ミュージックみたいなもので、リリースした後は確か『ロック・マガジン』主催で、大阪四ツ橋の「パームス」と京都河原町の「クラブ・モダーン」(佐藤薫主宰)でライブしましたね。レコードと同じように演奏するためにMS-20を持っていったんですよ。シーケンサーも全部。2ステージやるんですね。部屋でやる分には問題ないんだけど、ライブハウスのリハでセッティングして上手くいっても、アナログだから本番で照明が点いたら電圧がどーんと落ちて一曲目で音程が全部くるっちゃう(笑)。今となっては逆に面白かったと思うんだけど、1曲目から全部シーケンスが狂っていて、その時は直せないですよ。打ち込んで何とか2回目は上手くいったんだけど、それはいやだなあと思って。面白いとも思わなかったし。
その中で増えてきたのがカセットボーイとかマルチのカセットデッキですね。全部電池で作動するので、友達のギャラリーでのオープニングに呼ばれてテーブルの上に全部セッティングしたらライブが出来てしまう。音は小さいけど、そのまま自由にできるから面白くなって80年代にはそっちの方に興味が出てきました。

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「藤本由紀夫と鳥居愛優美 1980年2月」

《Normal Brain以降》

●当時はギャラリーで演奏したり音を出したりってあんまりなかったんじゃないですか?

■あったとしてもギター・アンプとか置いたら展覧会の邪魔になるので、楽器一本でやるとか舞踏と一緒にやるとかが多かったですね。それに対して電子的なのは机の上に置いてできるし演奏して終わったらさっと片付けられ、すぐパーティに移れる。そうなると一人で全部出来ちゃうから複数人は必要ないんですね。
その頃に「Für Augen und Ohren」(目と耳のために)という本を見つけて。これはワタリウム美術館の前身のギャラリーワタリの本屋で見つけた展覧会の図録で、電子音響機器の歴史や、20世紀の音をテーマとしたアートやフルクサスとかの歴史も載っている。
その頃にテーブルで出来るのはいいんだけど、配線はぐちゃぐちゃになるし、終わったら組みなおさないといけないし、電池代がもう馬鹿にならない位の数で、そっちの経費が大変だからもっとシンプルにテーブルの上だけで出来ないかと考えててこの本を見つけたんです。それでオブジェにしたらいいのかっていうのを見つけてはじめて納得できて。この本はちゃんとしててエリック・サティとかも掲載されているんです。全部ドイツ語のみのテキストですけど、この中にアタナシウス・キルヒャー(17世紀のドイツの学者でありイエズス会司祭)のイラストが載っていてびっくりしたんです。この本には「機械音楽の歴史」の章もあり、彼は17世紀に自動演奏楽器の研究をやってたんです。(興味がある読者は「Fur_Augen_und_Ohren_1980」を参照)
これも自動演奏楽器だけど牛の首の上に水槽があって、そこに水を掛けると重みで牛が息を吐き出してバグパイプに送られて、回転するオルゴールに連動しメロディーを演奏するというバイオテクノロジーですよね、今でいう。これがきっかけでアタナシウス・キルヒャーを調べ出した。だからイラストの力はすごいなあと思います。

「アタナシウス・キルヒャーの自動演奏楽器 Fur_Augen_und_Ohren_1980」

●そんなことを考えておられたんですね。

■ええ、80年代に入ってからはオブジェの方に興味を持って進んだので、LP出したっていっても1年以上遅れているし、僕の中で音楽に関してはLPというアルバムを出すこと自体がダサいと思っていたんですね。それを家でじっくり聴くなんて文化自体がおかしいと思っていましたね。
実はNormal Brainのアルバムを出すときに、阿木さんに言ったのは「ソノシートでやりたい、アルバムだからソノシート10枚組みくらいで一枚づつハムのパックみたいにして出したい。聴いたら後はゴミ箱に捨てる感じでやりたい」といったら阿木さんに怒られて「藤本君、音楽はそういうもんじゃないんだよ。アルバムは大切に作って大切に聴くものだよ」といわれて完璧に拒否されましたね(笑)。使い捨てソノシートは面白いじゃないかとハムみたいで。でも全く聞き入れられなかった。それからレコード出したときに阿木さんと会って、その後は数年間会ってなかった。
80年代の半ばになって東瀬戸(悟:現フォーエヴァー・レコード)さんが勤めていた「LPコーナー」で「藤本さん、またテクノがはやって来ましたよ」っていうんですね、それがハウスだった。見せてもらったらジャケットがノーデザインでハンコだけ押してあってラベルも真っ白でしたね。「彼らにとっては踊るだけの音楽なんで、作って1回クラブで掛けたらすぐ捨てるんですよ」って言うので、あっ、僕が考えてたやつだと思った(笑)。踊るためだけなんで、リズムパターンだけのものとか(笑)。

●ありました。レコード盤に線が3本とか、リズムパターンが違うのがループになっているのとか(笑)。

■だから誰が作ったかなんて関係ないんですよね。踊るためだけのものだから。毎週踊りに行ったときに新しい音が鳴ってたらいいんですよ、って東瀬戸さんが言ってました。だから1週間したらゴミ箱に入れるみたいなね。面白いと思って買ってたら、そんなハウスの情報が阿木さんにも伝わったみたいで。僕は86年に大阪のノースフォートというギャラリーで初めてオルゴールの作品を出して、どんどんギャラリーでやりだした頃に阿木さんも大阪のギャラリーを回ってたみたいなんですよ。友達が「阿木さんが来てサングラスを掛けたまま観て帰りました(笑)」って。

●『EGO』の編集していた頃ですね。

■僕は「箱庭の音楽」という原稿書きました。アメリカ村のカフェで会ったんですよ。随分おとなしくなってましたね。3冊くらい持ってきてその中の1冊が段ボールみたいな表紙の本で、その次の号に載せる原稿を頼まれました。その時に表紙のシールが微妙にずれているのを阿木さんが気にして直そうとしていて、ほんのちょっとなんだけどね(笑)。この人は本当に本が好きなんだなあと思いました。
その時に「藤本くんも頑張ってるよねー」とか言われて「アートを中心にやり出してるんで」っていったら「いろいろがんばっているけど何か足りないね、音楽かなあ」って言われて(笑)、可愛らしい人だなあと思いました。何か言ってやろうという感じがね(笑)。

●そういう言い方は阿木さんらしいですね(笑)。

■ソノシートはダメっていいながら、シャール・プラッテン・ノイではあんなレコードばっかりを扱いだしたのに(笑)。そんなのダメだったっていってた人が(笑)。
阿木さんとはその原稿を書いた後はほとんど接点がなかったんだけどクラブを始めてましたね。知り合いの若いDJとかは阿木さんのところでやれるというのがステイタスになってました。それは伝説になっているんですが、阿木さんがダンスフロアでDJをやり始めた頃で、曲が終わると無音で一回止めてレコードを掛け直して、その間は音が消えるんですよね(笑)。繋げないのがすごいって話になってて、ダンスフロアで沈黙が訪れるっていう伝説になってましたね。お客さんは踊りに来ているのに(笑)。阿木さんとしてはレコードを一枚聴かせようとしたのかも知れないけですけどね(笑)。
別の機会に行ったら、店が閉まってから夜中にドンドンって音がしてヤクザの借金取りが来て、相変わらず綱渡りでやってるんだなあと思いました。それが阿木さんと会った最後かなあ。90年代初めくらいですかね。クラブジャズとかいってるのは周りから聞いたけどピンとこなくて。

●『infra』とか『bit』の頃ですね。単にタワーレコードで配布しているような情報誌って感じになってましたね。阿木さんが作ってたから買ってましたけどね。僕は阿木さんが亡くなる1年位前に会いました。「元気か」って感じで周りの人を紹介してくれましたけど、昔のような元気はなかったですね。

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《「時代」との関わり ケージの今日的意味の一端》

●少し「時代精神」ということについて話をしたいのですが。

■汽車が走るとか活版印刷ができるとか、それだけで思想も変わりますよね。時代が変わるってそういうものだと思います。グーテンベルグも手書きが効率悪いから手抜きで作っただけですよね。それがプロテスタントを生み、革命を起こしたんですから。階級制度も変える。

●まさしくそうなんですよ。社会が変わって時代が変わる。例えばヴァルター・ベンヤミンが「ボードレール論」の中で書いているように、この神戸でもありますけど、パリでアーケードが出来て都市生活者が出てくることで殺人が起こり探偵小説が生まれる。音楽も大きく影響を受けるわけですよね。先ほどのカセットテープレコーダーも同じだと思うんです。
そこで現在新型コロナパンデミックの社会に生きているわけですが、「時代精神」とまでいわなくても、歴史的なものをどのように表現するか、音楽は聴いてああいいなあという時代ではないんだろうと思うわけです。
そうなると歴史性の中の音楽とは何か、時代との接点を僕らは見たり聴き取ったりするわけですよね。
藤本さんが先ほど言われた昔にやっていたことと今やっていることは違いませんよ、というのと時代とは関係ありませんというのは違うと思うんです。

■でも僕は時代を表現するつもりはないんです。今まで色々やってると時代と合っている時もあるし、ズレている時もあるわけですよ。今の時代はズレていると思っている。今やっていることはトレンドでもないし、時代が変わったから表現を変えなければいけないわけではない。合う場合と合わない場合があり、それが大事だと思う。逆にわかるんだけど、ポスト・コロナとかいっている人は、ダメだなあと思うし、時代をちゃんと見てないと思います。マクルーハンがいっているようにメディアが代わったからといって昔の状態を新しいメディアに注ごうとするのは間違いだっていうことでしょう。だからどうするかという問題でしょうね。ひとつはアナーキーだと思うんですよね。今後はこれしかない、ケージの発想に似ているんだけど、コントロールしないという方法。でも大きくはコントロールするんですよね。チャンス・オペレーションってそういう意味なんですよね、オペレーションって入っているから、偶然のシステムを使ってコントロールする。偶然というのを受け入れるというのが大事だけど、今の時代はそれを受け入れないでしょう。政治でもどうなるかわからないものは絶対に受け入れないですよね。さっき言った大学の授業も同じだけど、わからなくなるのはダメだとか。成果じゃないけど成果主義ですよ。

●企業でも一緒ですよ。どんなリスクがあってちゃんとリスクヘッジしているか、エビデンス(証跡)はあるか、コンプライアンスはどうか、いつも問われますから。

■音楽はますますそうなると思うんですよ。出来上がったものを聴く時代じゃない、そんなものはいらないんじゃないかと思うんです。

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《家具の音楽 今の時代に考えること》

■ところで、今このアトリエでは10数箇所から音を出してるんですけど。全然気にならないと思うんです。このままでも普通にこの音楽を聴きますしね。

●気が付かなかったです。というかさっきこの部屋に入った瞬間、音が鳴ってるって感じたんですけど、藤本さんに声を掛けてから忘れてました(笑)。

■それって勝手にやらしておく訳ですよ。

●それって丸っきり「家具の音楽」ですね。

■そうなんです。でもそこから自分で聴く。だからAMAZONと一緒ですよ。自分で見繕って、それが届くみたいなものですよ。中には必要がないものも買ってしまうとか、生活の中に入ってますよね。それは今の時代だからこそできることだろうから、そこに何とか関わってみるのは面白いと思うけど、今の状況だからなんとか前の状態を復活させようとかはダメでしょうね。だからライブハウスがネット配信でお金をとってますけど、それはライブハウスじゃない。配信だったらやらないほうがいいのになんで古い形にこだわるのかと思います。さっきのソノシートのことで阿木さんが拘ったのと変わりがない(笑)。時代は何年か経ったら捨てる時代になったわけですから。だからいつの時代でも成り立つわけではないですよね。今の時代だから成り立つものはあると思う。さっき出たウォークマンがあるから成り立つとかもあるので、主義主張じゃない。だから音楽はもっと可能性がある。本当にそれをやろうとしたのが70年の万博だったと思うんですけど。

●でも藤本さんは「反博」だったわけでしょ(笑)。

■だから万博はやれてなくて、後になって気付いたら電子音楽の墓場だったっていうことですよ。あそこが電子音楽のピークで後は下り坂だったというのは、当時の人はその真っ只中に居たのでわからなかったんですよ。歴史が証明したと。だからといって電子音楽がなくなる訳じゃなく次のスタイルでパンクとかその精神は出てくる訳だから。

●先ほど見せていただいた17世紀のキルヒャーですけど、その精神が藤本さんの中に入って、そのままではなく違うものとして出てくるわけですよね。

■キルヒャーはライプニッツとも親交があったんですよね。キルヒャーって全部否定されて未だに名誉回復できてない人ですけど、彼は17世紀の人じゃなくて、これから出てくるようなウィキペディアみたいな人なんですよ。イエズス会の重鎮なんで当時世界中に行ったイエズス会の宣教師がローマに帰ってきたときに中国とかの聞き伝えの話をイラストレーターに画かせてそれを出版するので、ものすごい奇妙な出版物になるんだけど、全部自分でやってないから情報だけを集めて編集して出すわけですから、当時の『ロック・マガジン』みたいなものですよ、勝手に翻訳して(笑)、「MACHINE」(fashion)とか(笑)。今やったら大問題ですよ。キルヒャーは自分が文部大臣みたいな立場だったから出来たのと世界中にイエズス会というネットワークがあったから最新情報を集めることが出来た。彼は最初はまじめに分析するんだけど、その情報を見てるとアイデアが沸いて、自動楽器でも牛がこうなるとということを描いて、後で全否定されちゃうわけです。これがアートの一番大事なところですよね、単なる妄想じゃなくて、情報を意識しながらまじめにぶっ飛んだことをやっちゃう(笑)。そういう人がいないと社会はダメになると思うんですけどね。だから時代というのは意識してもその時にいないとわからないと思うんですよね。後から振り返ると60年代はこういう時代だったとか70年代はこうだったとかになるけど、その中にいたら実はわからないですよね。だからといって振り返ったから正しいかどうかはわからない。
僕は60年代の後半は少しは知っているけど、60年代のアンディ・ウォーホールが出てきた頃は知らないし、70年代に本を読んでそうかと思っていたけれど、今になればそれも怪しい。
70年代後半や80年代の音とか語る人がいるけど、その時に生きていたリアルタイムに聴いていた人じゃなくて、若い人が資料をもとに喋るので本当のところはわからないですよね。この間もハウスは82年からだって書いてあってその頃はまだ日本に入ってきてないのに(笑)。でも資料ではそうなっているって、まあこういうのは永遠にこうなのかもしれないですけどね。歴史って作られていくんだと思う。

●もちろん、先ほどのボードレールのアーケードの話にしても書物を読んで時代がそうだったんだと理解することから始めるんですが、その書き手の精神の痕跡を読んでいるんですよね。

■テキストってそういうものですよね。そういう情報を得た人がその場所に行った時にそのような行動に出るとか、さっき言ったように音楽は聴く人が作るものというのと同じなんですよ。別に理解しているのではなくて断片としてインプットしておいて何かのきっかけで結びついて出てくるのは変わらないですよ。
今はもっと細分化できている面白い時代だと思うんですよね。材料だけでいいんだから、完成品はいらないんです。だから揃ったというかベースが出来たというか、今の時代にやっと出てきたという感じがしています。

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《「音楽」との関わりと新しい試み》

●これからの音楽はどうなっていくと思いますか。藤本さんの音楽は?

■これは昔から思っていたことだけど、音楽というのは体験した人が作るというのは間違いない。ベートーヴェンだろうがバッハだろうが出来上がったものを受け取るのではないです。演奏の解釈の仕方も変わるし聴き方も変わる。バッハがイヤホンで聞くことを想定しているわけではないので体験するのはそれも断片ですね。材料はいくらでもあるわけだからそれを自分が組み合わせていくらでも作る。それはどんどん加速すると思うんです。その時に能力が問われると思う。その能力は演奏する能力じゃなくて断片をきちっと形に出来る能力。だから断片は作らなくてもいい、まさに阿木さんなんですよね。オリジナルはなくても集めてきて形にしてポンと出しちゃう力が音楽的な才能になってくる時代だと思う。

●なるほど。ところで藤本さんは今は自粛中とか関係ないですか?計画とかありますか?

■今年はじめは展覧会とかやってましたが、やっぱり2ヶ月くらいは自粛しててここにも来なかったんです。やってたのは断捨離ですね。今データにしないと渡せないから、この機会に昔のポジフィルムをスキャンしてコンピュータに入れてたら、久しぶりのフィルムを手に取るとオブジェとしてこんな面白いものがあるんだ気付きましたね。やり出すと整理しているだけなのに、これを使って何かできるっていう新しい発見がありますね。
それと一緒にビデオも8ミリビデオの時代からDVからの時代にかけて、80年代を記録してたやつとかもテープのままずっと置いてたの取り込んだんですけどね。それをやってたお陰で、シュウゴアーツのオンラインショー(藤本由紀夫オンラインショー: Yukio Fujimoto Sound Album)で載せられたのは、たまたま整理していただけでこのために纏めたものじゃないんですよ。家でYOUTUBEを見てた時に4kの映像も30年代とか40年代の映像も同等の価値で上がってくるわけですよ。歴史的なやつなんか60年代のビートルズの映像とか、かたや4k8kの映像と同じ価値で見れるっていうのは、このコンテンツのやり方は面白いと思ってね。オンラインショーの時は展覧会みたいにプロジェクションで見せるわけではないので8ミリビデオのクオリティは関係ないんですね、ノイズ交じりでも。

●藤本さんのオンラインショーでNormal Brainの曲に合わせて女の子のスライドショーとかありましたね。これも昔のものですか?

■80年代初頭のNormal Brainで出した作品ですね。大阪でビデオアンデパンダンという展覧会があって出そうとしたんだけど、ビデオカメラが大学にはあったけど、まだ個人が持つような時代じゃなかった。その展覧会に出品するとビクターがスポンサーでカメラとデッキを貸してくれたので、作品を作るという名目で借りて来たんですよ。でも何を撮ったらいいのかわからなくて、ちょうどNormal BrainのLP制作の時と重なったんですよ。音楽もそのままテレビからとか入力してコントロールしてとかやってたんです。だからビデオでも同じことができると思いました。たまたま35ミリのポジのスライドがあったのでcopy to copyを繰り返して画質が荒くなって、ポジフィルムを作ろうとして撮影していた時に露光を間違えてほとんど真っ白になったんですよ。たまたま35ミリのポジのスライドが20枚ほどあったんです。そのスライドは、少女のポートレイトをcopy to copyの繰り返しで、段々画像が荒くなっていく作品をポジフィルムで撮影したものですが、露光を間違えてほとんど透明になってしまったものなんです。1枚ならほとんど透明で使えないなあと。でも10枚くらい重ねたら像が浮かび上がってきてこれは面白いと思ってビデオで撮影した。畳の部屋でスタンドの明かりを下から上に当ててスライドを乗せて定点で撮っただけなんですよね。今考えたらちゃんとレイヤーになっているんです。40年前のこの機会に取り込んでみるとまた発見があって、今やっていることも昔と全く変わっていないと実感できたのでよかったです(笑)。

●だから藤本さんは昔から今もやっていることは全く変わらないと(笑)。

■40-50年全く変わっていないアーティストってあまりいないですよね(笑)。

●この質問を考えたときに、たぶんこれから変わっていきますか、と質問しても、藤本さんは昔と変わらないですよって答えると思ってました(笑)。

■これからの事はいつの時代もわからないですよね(笑)。でも振り返ってみれば変わってないというのはわかりましたけど。だからといってこれから変わらないかどうかはわからない。これはNormal Brainのメモをカード型にしたマルチプルな作品ですけど、誰もこれが40年前の言葉だって気付かなかった(笑)。だから今よりもちゃんとしてたっていうか、今と全く一緒だし。
(Normal Brainの言葉をカードにした作品を見せて頂いた。)

NORMAL BRAIN MEMO
1980-2019
紙、アルミケース
95 x 60 x 8 mm
ed.50

●今回のインタビューがあるから、40年前自分は何をしてたんだろうと思ってNormal Brainの頃の『ロック・マガジン』を見たらデヴィッド・カニンガムのことを書いていたんですよ。「グレースケール」のことを書いているんですけど、さっき言ってたパリのアーケードのことと絡めて探偵小説音楽だって。自分で書いてて憶えていなかったんですが、今日藤本さんを会うので何かがこのことを思い出させたのか。藤本さんの話とこのカードを見ていて不思議な感覚になりました(笑)。いや変な錯覚かなあ(笑)。

■だからこのNormal Brainの言葉をつかって何か作品を作ってもいいし、40年も経つともはや自分のものではない、文字通りレディメイドですよね。当時は何かを見て書いた言葉なのか、それさえも憶えてないけど、逆に面白いですね。

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「アトリエにて」

■インタビューを終わって
今までいくつかインタビューを受けてきましたが、30〜40年前のことについて語ると、思い違いや、制作年の違い等、無意識に発言していることに自分自身あきれています。それほど過去の自分のことには興味がないのだと思います。阿木さんについても、懐かしむ存在ではなく、今生きてたら何をするのだろうかということに興味があります。

●インタビューを終わって
『Ready Made/Normal Brain』リリースを中心として、その前後に考えていたことや、何をヒントに行き詰まりを打破していったのがわかるインタビューとなった。想像はしていたが、藤本さんがやっていることは当時と変わらない。その変わらなさの中に作品として反映していることがある。それは、「鑑賞者」によそ見、誤解、ずれ、間違い、機能とは違う道具の使い方、による「造り出すこと」を気付かせることである。その芸術的行為が歴史=時代に触れているかどうか。Normal Brainのリリースの前後には明らかに時代とシンクロしていた。それは懐かしさではなく、今のコロナパンデミックを生きる我々に気付きを与えるに違いない。
インタビューが終わって雑談をしていた時に、藤本さんも行かれた1976年4月5日に京都府立体育館で行われたジョン・ケージとマース・カニングハムの公演の話になった。机の上に置かれていたサボテンから音を取り出したり、小杉武久さんの動きや表情のことをリアルに思い出した。実は、ケージとデヴィッド・カニンガムの話をしたかったのだが時間が足りない!それは次回のお楽しみにとっておきますね。

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VANITY0009『Ready Made/Normal Brain』1980/10
藤本由紀夫の『Ready Made/Normal Brain』は、”Kraftwerk”の「The Man Machine」の『ロック・マガジン』的回答としての音楽だ。
藤本由紀夫は、”Kraftwerk”の音楽についてエレクトロニクスをピュアに使用していることを評価していた。ピュアでありながら緻密、ジョン・ケージの音楽にも通低する。
1962年10月に来日した際にジョン・ケージが鈴木大拙と交わした会話で、ケージが「先生の講義で忘れられない言葉は、”山は山である。春は春である。”という名句です。私はその時に”音は音である”と霊感のように思ったんです。」と話している。
この大拙の言葉は、十牛図第9の「返本還源」のことを示している。
続けて大拙の「現代音楽というものは、非常に知的なものだということをいう人がおるが」という問いに対して、ケージは「それがあんまり、知的なものにならないように、一生懸命努力しているのです。知的なものじゃつまらない」「音は、ただ音であるようにしたいと」と答えている。(『芸術新潮』1962年11月号より)
『Ready Made/Normal Brain』に関連して『ロック・マガジン』01(1981年01月号)では”Normal Brain”のコンセプトシートを掲載した。
”Normal Brain”の由来は、19世紀イギリスの作家メアリー・シェリーのゴシック小説の『フランケンシュタイン』では若きフランケンシュタイン博士が死者を蘇えらせようとして、Normal BrainとAbnormal Brainとを取り違え「怪物」を生み出してしまった物語だ。藤本由紀夫は1世紀以上を経て、フランケンシュタイン博士が取り違えた「怪物」の脳を”Normal Brain”として蘇えらせた。
また、アルバムタイトルの『Ready Made』はフランスの美術家マルセル・デュシャンが、1917年に男性用小便器に偽のサインを入れ、「Fountain(泉)」というタイトルをつけて公募展に応募し、これは「これはアート作品だ」と言って、本人自らが「レディメイド」と呼んだことからの引用である。
デュシャン・フリークである藤本由紀夫らしい。
デュシャンは、音楽芸術に対しても「音楽的誤植」という概念も打ち出している。
イギリスの作曲家デヴィッド・カニンガムの「Grey Scale (1977)」の「Error System」もデュシャンを強く意識した作品だ。
藤本由紀夫は2015年デヴィッド・カニンガムとロンドンで二人会を開催したり、現在も交流しているそうだが、音楽へのアプローチはお互い影響を与え合っているのだろう。
藤本由紀夫は、”Normal Brain”以降も「音は、ただ音であるようにしたい」と思索し続けている。
【Vanity Recordsと『ロック・マガジン』1978-1981より】
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R.N.A. Organism テキスト 1980

RNAO on ロック・マガジン

ヴァニティ・レコードからこの5月下旬に発表する「R.N.A.オーガニズム」も、音楽の本来持っている力を具現化しようとしているようだが、バルやトリスタン・ツァラが中心だったチューリッヒ・ダダがパリにおいて 集会を行なったのが、一九二三年のワイマールでなのだが、彼らR.N.A.オーガニズムも「ワイマール22」という曲を呪術的でエレクトロニックな原始リズムにのせて音声詩さながらに国籍不明の曲を作り上げている。彼らも又、キャバレー・ヴォルテールやバウハウスというバンドと同じようにバルの精神を明確に受け継いでいる。

工業都市ミラノのルイジ・ルッソロが騒音音楽宣言をしてから、もう70年という時間が経過しようとしている。この脈々と流れる騒音機械主義は、イントナルモーリの都市風景化により体内リズム変化を我々にもたらしているのだ。イントナルモーリとは元々都市騒音や車の音を表現するためにルッソロが作り出したシンセサイザーのようなものなのだ。

今や機械というこの肉体や精神の外延にあるシステムは、 我々の生活のリズムとなり、それはとりもなおさず機械のリズムであり、心臓のリズムでは、もはやない。このシステムは我々の感覚でありエクスタシーである。

今世紀のアート、精神活動を根底から揺さぶった最大のマテリアルでありコンセプトである機械は、現代においてついに呪術儀式にまで登場することになった。

この未来派、バウハウス、表現主義、ダダ、 構成主義、キュビズムなどの20世紀初頭の精神活動を魅了しつづけた機械は、今や商品とともに我々の体内にまで入り込んでしまったようだ。そういった意味では芸術家などもはや存在しないし、成立もしえないといえるだろう。
R.N.A.オーガニズムが「SAY IT LOUD!」と金属の声でうたうと、人々は「WE ARE DILETTANTE!」 我々はアマチュア芸術愛好家だと叫ぶ。彼らR.N.A.オーガニズムは全く新しい現代の呪術的儀式を生み出そうとしている。

それはアフリカの民族音楽にみられる呪術や、フーゴ・バルがボール紙というプラスティック美学を肉体に纏い、言葉の本来の力によって行なった音声詩朗読の呪術儀式と変わりはしない。彼らは音楽が持つ本来の力によって超自然的な生命力を身体に精神に宿らせようとしているのだ。

ジョルジュ・バタイユが「アルタミラの壁画」の研究の中で言っているのは、あの壁画が芸術でもなんでもなく、生産のために神とポゼッションし、エクスタシーに達するための儀式の一部として描かれたということなのだ。

太初、絵や音楽など呪術にかかせないものは総て占い師が司っていたという。
芸術家などは存在しなかった。

そして不思議なことにロック・エンド宣言の時代である現代も、それと同じ状況にあるのだ。ジョニー・リドンは誰よりもそのことを知っている。

阿木譲
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RNAO on HEAVEN #3 ’80

R.N.A. Organism:匿名・著

[1] システムとアノニム

①ロンドンはケンジントンの消印の押された封筒が届けられる。中にはカセットテープが一本入れられており場所の謎を告げる。
②ところが、こった事にカセットテープの表面には「咳止め薬」の(おそらくは日本の大正時代のものらしい)ラベルが貼られており、その記号の謎が脳をよぎる。
③テープの再生回転数の指示は?(くわしくは遊#1013ーナム・ジュン・パイク参照)
④実体不明、性別不明の声(マントラ)が、リズムボックスのリズムに乗って流れてくる。どのようにして制作したのか不明のまま、人々はその「音頭」的な原始音に耳をかたむける。日本人? 実体の謎。
⑤このテープを聞いた Mr. A はレコード発売を企画する。彼はこの転末を文章化することになる。(遊#1013ープラスティック時代の呪術)
⑥5月末レコード発売。デビッド・カニンガムのフライングリザードやスロッビング・グリッスルなどと比較されるだろう。
⑦京都河原町三条のクラブMODERNでのオールタナティブ・ダンス・パーティには、テープのみのライブを行うことにする。
手の上に置かれた、セロハンに包まれたカセットテープには音は録音されていない。私は一本のテープがこれからたどる①~⑦のプロセスを設定しようとしている。このプランは、一本の磁性帯が見るうたかたの物質の夢の如きものかもしれない。アクリル床の上で光をあびたメタル=プラスチックなケースは十分に生体以上に生理的だ。この、バタイユならば「呪われた部分」とよんだであろうカセットテープを「MUSIC」と呼ぶにはやぶさかとしても、システムそのものを音楽と呼ぼう。人は音楽にコンセプトの流束を時代の精神幾何学と相似させて聞いているのだから。テープレコーダーが音を鳴らす前には、アノニム(匿名)な影があるばかりで一方、「労働?そんなものは機械にでもまかせておけ!」というようなリラダン調子の人間人形がダンスをしているシーンを想いうかべていただければよいだろうか。ともかくも、ここに音楽家などというような実体はない。よしんばあったとしても、それはまるで、デュシャンの「独身者の機械」の九つの鋳型のように中が「ウツ」な代者ときている。システムとは、産業革命以降、生産効率とともに歩んできた組織論であったが、この時代の平面の上では、関係こそが、「社会物質」という価値形態なのである。言いかえれば、われわれは、ファンクション(函数)上の存在にほかならない。「システムとしての音楽」とは、音楽産業ではなく、新たに「産業音楽」のシステムを作り出すものだ。それはちょうど、中世における呪術や観念技術、あるいは、結界の張り方とよく似ている。トマス・ピンチョンが『V.』や『グラヴィティズレインボー』で描いてみせた暗号都市のまっただ中で、モノモノの流通をつかさどることこそ音楽の機能である。テクノロジーと魂は今や二つで一つの関係なのだ。存在学こそシステムであり、「間」は匿名にほかならない。

[2] オーガニズムとSPY

命のないところに魂はありえない。「気質かたぎ」とは、気と器の存在様式を指すことばである。生命の置かれる環境が、加速度的にアーティフィシャルになっていく中で、存在様式は当然ながら変容ミューテーションする。中国において、「理気哲学」の興隆が、一方で世界に比類ない「官僚制」を伴っていたことは意味深長である。有機体思想(オーガニズム)が問題にされるとき同時に、機械的な国家レベルでのシステム化が強力に行われているわけだ。一方、生命は、シュレディンガーが言うように、エントロピー増大に対して「負のエントロピー」を喰い続けている。今やテクノロジーとオーガニズムの接点あたりでは、存在の様式はあたかもスパイのような連続変換的な構造を持つに至るのである。デカルトの「機関オルガン」ではないけれど、世の地下秘密工作隊は時としては、敵も味方も喰いやぶる「命」として機能する。あまたの秘密結社が国家のへり[傍点]で発生し国境を越え国家をくいつくし、もう一つの領土に向かわんとするわけだ。1922年のワイマール。チューリヒではダダが発生し、クルト・シュビッタースは音響詩を歌い、ロシアではフレーブニコフが革命の言語、ザーウミを発明した。歌と普遍言語は別世界をめざす。人々は R.N.A. の中にそれを見出すことになるだろう。「0123ゼロイチニイサン」、「ゼロ」、「Chance」という記号とも名前ともつかないものでワレワレを呼ぶことになる。ダダがちょうどヨーロッパを包むころ、魔都上海、ゼムフィルド大通りでは殺人が横行した。国民党、中国共産党、日本軍のあやつるC・C団、藍衣団、76号などの結社が「機関」として暗躍した。そして、R.N.A. は場所から切りはなされたメディアという領土の中で、ポスト・インダストリアルな時代の「機関」そのものとなるだろう。交響的陰謀オーケストラル マヌーバス

[3] メディウムと浄土

では、ならば R.N.A. は何故にあるのだろうか? いや、その問い自体意味をなさない。かって、ケプラーは月を観念のエイジェントと見立てた。月とは中世の夢の棲み家であったわけだ。この至福千年の王国の地上的投影こそ「都」の造営の作業であった。北斗を地上に現実するものとして都が出来上がったり、熊野詣でをしたりすること、あるいは共産社会の前段階としてのフーリエやオーエンら空想社会主義者がファランステールという定員制国家を作らんとしたことこそ「夢の領土」の造営であったのだ。ケプラーの言う「ソムニウム」とはアソコとココの関係として想定されるのではなく、ココが即アソコであるような場所を言うのである。江戸時代の華厳経五十三次は幕府というものが、国家内の結界ネットを支配していたことのみならず、国土と浄土をしきる「マク」をつかさどっていた。商いは、物の交換であるとともに霊の交感であった。この人間人形たちをメディウムと呼ぶ人類の「類」とはこのことを言うのだろう。浄土というのは、人類が木の上で生活していたころへの追憶かもしれない。アルミサッシのはまったビルの5Fからザワザワゆれる木を見ているとそういう思いがやってくる。人工自然の中にこそ平等院は現実されるだろう。それが人工幻想都市の店だ。店こそ21C.の魂函たまばことしての可能性を秘めている。そこにこそ人間人形の楽土がある。ワレワレの室内にはられた写真にうつる人は緑色の髪をしている。彼は数枚の写真の中を旅する。

[4] 自在機械と観音

風体。風が吹いてくる。アーティフィシャルな光景の間をぬってインスパイアされてくる「惑物」たちは、このウツなる都市のあちこちでノイズをあげている。量子雑音事件たちのぼる街のたたずまいの中でふりこまれてくるものがある。その出所は? およそこの国体ナショナルボディは人類がえいえいと作り出したものだ。シャルダンが地球精神圏と呼び、バタイユが生命の経済圏としたものは、宇宙と地殻のカンショウ物だ。それが生命のエピジェネティック・ランドスケープである。それはオーガニズムであると同時にシステム! そう、人工こそ自然にほかならず、国家こそアナーキーであるという姿が見える。エピジェネティックな光景こそデジタルなのだ。遠くで聞こえる道路工事の音やTVの会話、植物のざわめき、骨のきしむ音。人工自然のただ中で生まれたワレワレにとって、機械は「惑物」をふりこむ装置である。音が音づれる。活字化される直前の言霊や音の中にこそ、シンクロニシティーや「未来の記憶」がひそんでいる。ルッソロの騒音音楽は言わば、それを方法論としたものだ。言わずともデパートの音はコラージュされている。テクノロジーと環境音をここに導入すると機械学的呪術性が強まる。この振りこまれるプロセスを観「音」と言う。これはサイ科学でいう五次元情報系にあたる。来たれ機械時代の魂ふり!

[5] 姫

「なにもしないのに、こうなっちゃうの」

[6] 時代からの逃走とHEIAN

「あわれ」という構造は、あるシーンを別の座標から見ている姿になる。言わば、神ののぞき穴からの視点である。これは中世におけるヒエラルキアにあたる。ワレワレはアーティフィシャルな Chinese Box の中にいる。アインシュタインの相対性原理を説明する図のように別の系が多数ある。フーゴ・バルは機械が神に代わって登場した時あらわれた。彼は、強烈な DADAIST であると同時にビザンチン研究をしつづけた。さて、テクノポリスに幽妙なる魂さぶらわせる時節ともなり、バル氏は平安をこそ求めるとしても、彼は彼の属する宿業の系のヒエラルキアからはそう簡単に出られない。矛盾に向かえるもののみそのサイクルを横超できる「Chance」をもつ。ヨーロッパのヒエラルキアは重力方向に出来上がっていて、その斗争のいい例がヴェイユだ。ところがワガ日本国の場合は、遍路していく構造が横にむかっているわけだ。ともかくも、この宿業を転ぜぬかぎり、他の系へは行けない。あわれである。気狂わしたとしてもそれまで。ならばこの地獄を当然とせぬかぎり風の如く涼しき境地へおもむくことなぞできまい。グルジェフのヒエラルキー理論をくぐりぬけ、今ここにいる。遊星上のオルターナティブな景観、HEIAN。

◎ 5月末 R.N.A. オーガニズム LP発売。

Reproduced with permission by courtesy of Harumi Yamazaki
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遊 #1013 ’80

VANITY INTERVIEW
⑥ R.N.A. Organism (佐藤薫)

VANITY INTERVIEW ⑥ R.N.A. Organism (佐藤薫)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦

『内なるウイルスが交感する場所』

今回はR.N.A. Organismのプロデューサー、佐藤薫。当時、京都河原町「クラブ・モダーン」のプロデュースや東京のアート集団「イーレム」との共同作業やバンド活動など音楽制作のみならず様々な活動を牽引。そして現在では、φononレーベルのプロデューサーとして内外で活動されている。佐藤さんとはじめて会話したのは1980年の大阪四ツ橋にあったカフェ「パームス」だった。この年は『fashion』を発刊し隔月刊の『ロック・マガジン』と並行していたので毎月締め切りに追われ、日々の作業で忙殺されていた。Vanityについても同様で、この年にLP7枚と全タイトルの半数以上がリリースされている。だから『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』リリースの経緯は全く知らなかった。今回、そのあたりを中心に聞きたいと思っている。
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佐藤薫のプロデュースするφononレーベルへはこちらのサイトにアクセスして頂きたい。

レーベル・サイト:https://skatingpears.com/
試聴サイト:https://audiomack.com/sp4non

それではインタビューを始めよう。

★佐藤薫(R.N.A. Organism プロデューサー)
●嘉ノ海幹彦

●Vanity Recordsの中でもこの『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』という作品は、リリースの方法が他と比べかなり異質だと思ってます。まずR.N.A. Organismは国籍も含めて匿名のミュージシャンであり、最初に物語を創ってその具体物としてアルバムをリリースしました。阿木さんが『ロック・マガジン』2005 1980年5月号の中で「ロンドンはケンジントン郵便局の消印がある茶封筒にリリースして欲しいという英文と共にカセットテープが入っていた」(要約)と書いています。この文章がR.N.A. Organismという名前が公になった一番最初ですね。
まずVanityからリリースされた経緯はどのようなものだったのでしょうか?
また阿木さんとの初対面の印象はどうでしたか?

★正直はっきり覚えていない。70年代後半、ぼくは個人輸入したレコードを大阪のディスコなどに手売りしていたのですが、その頃なにかの機会にお会いしたのかと。78年頃から「パームス」というディスコ&カフェでぼくは週一のDJをしていて、確か阿木さんも同店で時々DJをしていたから、よく顔を合わせてはいました。だから初対面の印象は特にないですね。
とにかく阿木さんは、DJスタイルで音を聴けて踊れるようなクラブ的拠点となる、今様に言うとヴェニュー(Venue)がほしくて仕方ない様子でしたね。彼はその方面にはまったく疎かったので、ディスコ/ライヴ・ハウス/クラブ──などの流れなどについて話した記憶があります。

●まさしく「クラブ・モダーン」じゃないですか(笑)。たしか1980年からですよね。直接的には関係ないかも知れないけど、すこし「場所」との関連で話を聞いてもいいですか?京都河原町にあった「クラブ・モダーン」に何回か行きましたが、「場所」として特異なコンセプトを持っていたと思います。僕は昔から民族音楽が好きなのですが、ダンスフロアでは”THE POP GROUP”と同レベルでアフリカの民族音楽(そのまま)がかかっていて、お客さんは踊っていました。その時は時代の『ロック・マガジン』的展開だと勝手に思っていたのですけど(笑)。「場所」という現場から関係性を通して「モノ=形」が生まれてくるわけですから。
佐藤さんにとって「場所」とR.N.A. Organismとはどのような関連性というか位置づけにあったのでしょうか?
また、今の時代に必要なVenueとは何でしょうか?当時のVenueに変わるものでもいいです。

★ぼくがヴァイナル抱えてDJ周りをしていたのは「クラブ・モダーン」よりずっと前、関西では1973年からで、それ以前は東京の六本木あたりの箱で回していました。当時は主にブラック/ソウル/R&B・ミュージックを中心に選曲していたのですが、75年くらいにはディスコでディスコ・ミューシックを回すことに辟易していて、時間を区切ってクラフトワークやフェラ・クティ、カンなどをかけ始めたんです。そこにピストルズが登場したことで、「Autobahn」「Zombie」「Upside Down」「Flow Motion」「Anarchy in the UK ~ Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols」──あたりが入り乱れた混沌が一部のディスコに音連れたわけです。
そしてぼくが回してる箱では、ニューウェイヴ全般を踊れる踊れないを無視した形で無理矢理聴かされるようになっていったのですが、当然そのまま受け入れられるわけもなく数年間の紆余曲折の末、一般のディスコではかからないような曲だけがかかる所謂ニューウェイヴ・ディスコとして「クラブ・モダーン」に収斂していった感じです。そこに新たに加わっていた大きな要素は、ギグれるクラブ。DJで踊れるだけじゃなく小規模なライヴもできるようにしたことかな……。
ということで、ぼくにとっては「時代の『ロック・マガジン』的展開」というのはまったく逆で、こういう「場所(ヴェニュー)」が圧倒的に重要だということを阿木さんには力説しましたよ。彼はパームスを発展させることができれば……と考えていたようですが、ぼくは文化が違うからそれは無理だろうと。ディスコ文化ともライヴハウス文化とも異なる、どちらかと言えばサロン/カフェ的な方向の手頃な箱が必要だと……。だから「ロック・マガジンのヴェニュー的展開」がテーマだったはずですね。その後の阿木さんの馳駆の労を振り返れば明かですよね。
R.N.A. Organismに関しては、そのヴェニューに直結した位置づけはありません。なにしろ、ライヴにはメンバーは出演しないでカセットテープを送りつけてプレイしてもらうというスタイルだったので……。後にイーレムでまとめることになるバンドやユニットがいくつかあって、その中のひとつということです。彼らがライヴやイベントを開催する際の「場所」をモダーンのほかにも開拓していくことが重要でした。その際のポイントとなったのが、イス無しのスタンディングでギグれるスペースであることでした。今じゃ当たり前ですが、当時のライヴハウスなどは基本イスとテーブルは必須でしたから。その先鋒に立ったのが80年に結成したEP-4で、当初からスタンディング不可の場所では演らないと決めていて難儀しました。だから出演先ヴェニューとして多かったのが大学などのホールでしたね。文化祭や学生のイベントも盛んになっていてシンクロしていました。ああいうところはフラットな空間が基本デザインでしたから……。
今でこそヴェニューという語彙は比較的一般に使われるようになりましたが、もちろん当時の用語ではありません。規模の大小に関わらず、カテゴリー/分類/概念規定の難しい場所の総称として当たり前に使われるようになったのだと思います。つまり、新たに規定するのもヤボになる用語ですかね。簡単に言えば、なにかが起きる/起きている/起きた──場所や空間ということですね。同じ場所でもなにも起きていなければ単なる「place (場所)」ということになる。しかしそれは、あるコミュニティに属した意味において……ということですね。一般用語としては、犯罪現場も代表的ヴェニューなのが示唆的かも。

●「場所」は現場と化し物語を生むということですね。ボードレールの昔は「場所」が街路やアーケードであり殺人事件が起こり探偵小説が生まれる。それこそウラジミール・マヤコフスキーの「街路は絵筆で、広場はパレットだ」やチューリッヒ・ダダのフーゴ・バル「キャヴァレー・ヴォルテール」でも詩の朗読や小演劇が上演されていました。これらもヴェニューといえるのかも知れません。
それで今思い出しましたが、イス無しが「クラブ・モダーン」の特異な場所である要因のひとつですね。当時はそのような場所はなかった。その後のEP-4への流れも含めてそのような「場所」を必要と考えていることはよくわかりました。
さて、「クラブ・モダーン」じゃないけど「パームス」へは頻繁に行きました。佐藤さんとは韓国の政治状況について話した記憶もありますよ。読売TV『11PM』のロケも「パームス」の前でした。
その「パームス」で阿木さんと『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』の構想を練られたのでしょうか?

★ロック・マガジンの事務所には一度しか行ってないと思うので、パームス、もしくはその周辺でしょうか。京都で松岡正剛さんと会ったときに阿木さんもジョインしたりして、そんな折にふれた構想だったかと思います。

●最初『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』に関しては、佐藤さんから阿木さんに持ち込まれたのですか?それとも阿木さんからの依頼で提供したのでしょうか?

★いやあ、どっちということもなかったので記憶の彼方です。宅録ユニットでいくつか変なのがありますよ……ってことで阿木さんに聴いてもらってはいました。その中でもR.N.A. Organismというユニット名が気に入っていたようで、インフルエンザやウイルスについてその特異性、その音楽的相似性などについてああだこうだ徒然のうちにリリースが決まっていたんじゃなかったかな……。

●R.N.A. OrganismとしてなぜVanityからのリリースだったのでしょうか?
佐藤さんと阿木さんの間でどのような目的なり目論見があったのでしょうか?

★先ほどのヴェニューの話と同じように、作品化やそのメディア、レーベルなどは、DIYで音づくりを始めた人間には重要なテーマでしたから。当時は色々な人と多くの意見を交わしていました。実際には、本気で作品を世に問う気があるなら方法はいくらでもあり簡単なことだ……というのがぼくの立場でした。だから、その中のひとつがR.N.A. OrganismでありVanityだったということかな。
ぼくの立場としては、やってみたいことや、やれそうなことがR.N.A. Organismに限らず山積みになっていた時期で……。同時期には、のちに発売されるイーレムの『沫』(81年、R.N.A. Organismも参加)というLP2枚組コンピレーションの企画も始まっていましたし、カセット・レーベルのSkating Pearsも準備していたりだったので、特別な目論見みたいなものはぼくの側にはなかったと記憶しています。

●レコーディングはどのようにされたのでしょうか。他のVanityミュージシャンと同じようにスタジオ・サウンド・クリエーションなどのスタジオとか使われたのでしょうか?また阿木さんのプロデューサーとしての役割とはどのようなものだったのでしょう?

★京都の普段使っていたスタジオでメンバーとぼくだけで録ったものと、大阪のサウンド・クリエーションで阿木さんが加わって録ったものを合わせて進行しました。阿木さんはまあ……テクニカルなところが暗くて、変わったことをしようとすると説明に時間がかかったなあ。音楽プロデューサーとしてではなく、エグゼクティブ・プロデューサー(統括制作者)かレコード会社の担当ディレクターという感じで意見をもらいました。で、アルバムとして仕上げる段階の諸々決定は、メンバーとぼくの意見を参考に阿木さんのほうでまとめてもらうという役割でしたね。

●話は変わりますが、ひょっとして『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』のジャケット・デザインは佐藤さんが提案したものですか?なぜこんな質問をするかというと、それまでの物語性を持ったVanity Recordsのものとは全く違う無機質なミニマルなものに変わっていますよね。確かに雑誌をデザインする際にはインスタントレタリングを使ってはいましたが、レコード・ジャケット全面をインレタで被うとはちょっとびっくりしました。時系列で考えると1980年発刊の『fashion 1,2,3』の装丁では『ロック・マガジン』とは内容が違うとはいえ、裏表の表紙全面がR.N.A. Organismのジャケット と同様にインレタで覆われていました。

★そうですね。ぼくが考えていたものとは多少異なった結果になりましたが、記号インレタのシートをまんま使いましょうと提案して、いくつかサンプルを渡してアイデアを伝えました。インナースリーヴにもクレジットがあるように、デザインはメンバーとぼくで大凡を詰めて阿木さんに打診するというやりとりでした。確かR.N.A. Organismをリリースする話が始まった当初に、ジャケットの件やレコードのカッティングやプレスについてアイデアなどを伝えて諸々調べてもらいました。最終的デザインは統括の阿木さんにお任せすることになったんです。
その後、あのジャケットと同じ系列のデザインを阿木さんが好んで使うようになったのは知っています。まあ、阿木さんらしいという一貫性ですかね? ぼくとしては“オリジナル”なんてことを標榜するのは破廉恥だとしても、方法的懐疑を抜きに進めることはある種の原理に反して、同様に破廉恥なことだと……。

●いやあ、その破廉恥さがデザイナー阿木譲の才能だし他に類を見ない(笑)。感覚に触れたものを使って何が悪いってよく言ってました(笑)。
レコード・ジャケットは音楽の衣装を纏わす重要なものだと思いますが、阿木さんは「R.N.A. Organism」をブック・デザインに応用していったんですね。今remodelとしてBOXセットがリリースされていますが、『fashion』のデザインが踏襲されているのは感慨深いものがあります。
ところで、R.N.A. Organismの由来は?新型コロナ・ウイルスも「情報」としてのRNAを持っていますね。
名前に対する想いなどあれば教えてください。

★いまでも続いているウイルスは生物か否かという論争が由来だと思います。当時は、生物であるか否かは別としてもウイルスは生物進化に決定的な影響を及ぼしていることが明確になりつつあった時期で、メンバー間では〈DNAをもたない特異性生物〉という合意があったということです。それが自然にユニット名となったらしいです。78年の結成時だったか……。

●音楽はウイリアム・バローズがいうウイルスだと思いますし、連想させますよね、しかも密だし(笑)。
ところで『ロック・マガジン』とか読んでました?それともFAZZ BOX IN?

★はっきり言って読みものとしては読んでいませんでした。ほかでは紹介されないレコードの情報を得るための情報誌という感じでしたから、何号と言えるような読者じゃありませんね。FAZZ BOX INについても同様な番組としてエアチェックしてました。

●情報源としての『ロック・マガジン』ですか。僕の関わった頃の『ロック・マガジン』では如何に時代精神を表現するかということに重点を置いていたので、情報を流すというのは一義的には考えていなかったですね。
では当時聴いていた音楽は?叉影響を受けたアーティストやレーベルはありますか?

★あまりにも何でもかんでも聴いていたので……。オルタナ系は業務全般という感じで掘っていましたが、個人的な対象はブラジル~南米系とアフリカ系のヴァイナルでした。とにかく本場モノは入手困難な時代でしたから。それと、ブラック・ミュージックの流れから生じた辺境系。韓国歌謡/ロックにもはまっていた時期ですね。まあ、ブラインド・ディガーでしたが……。

●現在関心があるアーティストは?メチャクチャたくさん聴かれているとは思いますが、興味があります。当然φonon関連になると想定していますが、それ以外で注目しているミュージシャンについては?

★残念ながら物理的要因で積極的リスナーになれない状況がこの10年ほど続いています。必要火急を基本に対応していますので、φonon関連以外の外交上のやりとりや具体点について明らかにすることは控えさせていただきます……。

●やっぱり(笑)。そうですよね。
では質問を変えて(笑)、2020年の音楽をどのように読み取っていますか?ヴェイパー・ウェイブなどの動きも含めて、いかがでしょう。

★音楽だけではないのですが、メディアとしての体質的な問題というか、90年代後半以降、ネット前/後かも知れませんが、全体としてはすべてが等価で同時に存在し続けるような、末期的平坦風景が見えつつあるという気がします。情報の量と質ですべてが決定してしまうような、個人的パッションやらエモーションの介入する余地のないフラット性というか。どう発信/受信するか……、もちろん受信はリスナー側ですが、どのようにして出会った音で、それはどう聴かれるのかという神話的課題に誰もが知らずに対峙することになる。当然同じことが発信側にも生起するわけだし、双方の融合が顕在化したのが正に80年代、宅録以降のあの頃だったわけでしょ……。
当人は個人的パッション等々によって動機づけられているように思わせるメディア──、あまりにも何でもありなので自らよそ見をしないように調教されたメディア──、このブリンカー効果は当然受信側に強く発揮されますから、個々には平坦な世界は見えにくいようになっていく……。なっていくと言うより、自分でその仮想的な山あり谷あり世界/ストーリーを構築しちゃう。メディアというのは媒介ですから、そもそもその実体は存在しない仮想的なモノという本質が、ゆっくりと時間のかかる爆発を始めているんじゃないかと。フラットワールドに抗しがたいというストレスが、ヴェイパーウェイヴなどの形をとって表層化する。これはこれまでも/これからも繰り返されていることですが、それはどこまで持続性があるのかという疑問が重要な時期でしょうね。

●確かにメディアによるブリンカー効果という問題は大きいですね、受信者側が無意識的に自ら作り出していく錯覚はSF的世界にしかリアリティを感じないかも知れない。人と社会との関係性における現在の後期資本主義的社会をどのように感じていますか?またNet社会や次世代5Gなどの環境にどのように対峙しようとしていますか?

★なんちゅう質問ですか……。特になにも感じてないですよ!
ただレッテルというか概念については、後期資本主義やポスト資本主義というのは、あまりリアルではなくてロマンに感じてしまう。あるいはアンチ・ロマンか……。
単に資本主義というのであれば、概念の順序は別として熱力学的なエネルギー/熱量の問題を社会人類学的に置き換えたようなところがある。また私的所有や利益、競争原理となればダーウィニズムと支え合っているわけで、ある意味、資本主義の起源は人類誕生より古いシステムですよね。だからこそ本来は普遍的で、人類滅亡後も続いていくはずです。シンプルに言えば、そういう人間目線の収支、地球経済システムに帰結しちゃう。だとすれば、マルチな階層的インプットとアウトプットであっても、太陽エネルギー以外は等価な交換によってエントロピー増大を一時的に抑えるような、低エントロピーな仮想的定常状態をできるかぎり持続させるための運動なのかも知れない。ただ、そのスピードにおいて加速的に過ぎる資本主義に対する歯止めが必要だと考えることも自然で、★★主義や★★教という運動の骨子になり得るでしょう。
で、人間が人間抜きの思考を持てるかどうかは多いに疑問ではありますが、愛すべきノウアスフィアに端を発した生態学的思考の流れは、資本主義を含めた人類社会の実践的思考実験として注目かな……。アントロポセン/人新世~ホモ・デウスとソフィスティケートする潮流は、ソ連の仕掛けた時限装置の発動ではないでしょうか──って、マジに受け取らないでくださいね。でもまあ米国の大統領選挙を眺めていると、あながち軽口とも受け取ってほしくないですが……。
反対側には加速主義なんてのもあるわけで、つくづく人間は考えつくモノなら何でも考えるが、考えもつかないモノに関してはお手上げなんだと考えてしまうわけです。こんなんでいいでしょうか?
で、質問の連続性にも疑問がありますが……、いまとなってはネット社会やその環境の進化には特段大きなパラダイムの変換は必要ないかと思います。音楽の発信や受信への興味は尽きないけれど、配信方法はあまり気にもせず是々非々対応が無難というところ。その意味では、レーベル運営をある程度持続するためにはプラグマティックにならざるを得ないかな。

●現在の活動と今後の活動のプランを教えてください。

★現在も、近い今後もφononレーベルの運営が中心となる活動ですね。一身上の都合ということもあって、引きこもってCOVID対応で作業できるよう心がけています。

●これからの音楽芸術はどのようになってくると思いますか?また音楽を制作するにあたりどのようなことを考えていますか?佐藤さんにとって音楽とは?

★音楽芸術とは言えないかもですが、好みや傾向によってその場でAI生成されるものになるでしょうね。著作権の概念がどこまで持続するかわかりませんが、抵触しない音楽生成ということになるかな。生成~再生され、その場で消滅していくような。だから、音楽制作は音源提供という側面がはっきりしてくるんじゃないかな。最大公約数から提供される音ってことは、現在のヒット曲と大差ないアイデアだけれど、どうなるかは御慰みです。なんかフニャっとしたモノか……。

●「フニャっとしたモノ」、いいですね。情報処理技術の中ではRPAとか含めAI活用が現実の世界で眼に見えるようになって来てますね。それらの技術が、フニャっとしたほどほどで身の丈にあったもののために応用されればいいと思います。
さて最後の質問です。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対してどのような感想をお持ちでしょうか?生きている間にこのような時代(世界が民族や言語を超えて同時に同じ惨禍にある)と対峙することは、幸運にも(失礼)そうあることではありません。

★まだほとんどなにもはっきりしていないモノに対する、権威やシステムそして自分を含めた人間の反応に興味は尽きませんね。訳知りな言説や予言めいた物言いを含め、見えないモノを見ようとする/見てしまった人間が自ら背負った十字架のような……。先ほどのブリンカー効果と同じことですが、見えないことの恐怖から発生する集中と慣れ──、同時に、見えすぎることに対する反応にも留意しなければいけないかな。

●フニャっとしていてほどほどで身の丈にあった生き方を注意深くということでしょうか。
今回は佐藤さんと話が出来て嬉しかったです。ありがとうございました。

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★インタビューを終わって
確信を持てない修正第十二仮想記憶条項だらけの当時のトピックの中では、レコードという形で残すことができたR.N.A. Organismの存在は比較的記憶にはっきり焼き付けられている方だが、やはり細かな事情となると「???」な部分が多い。嘉ノ海さんに突っついてもらって少しずつ絞りだしてみたものの、実際に阿木さんやVanityに紐付けられているのは、それそのものより田中浩一さんや嘉ノ海さんをはじめとした人物の周縁事象だ。インタビュー中では触れなかったが、殊に、足穂の磯巾着に倣って「人類海鼠説」を称えた田中浩一は、原罪による世界の滅亡(二十五世紀的悲劇?)と人間以降を予見しながら高校の教壇に立っていたという大丈夫の魂だが、ある意味で不器用だった阿木さんの本質的な態様を彼こそが体現していたのだと感じている。
阿木さんにはなにかと僻事がつきまとい、会うたびに徒事を吐く五月蠅い男だと煙たがられていたと思う。ただ、自分とはまるで重ならない素性を面白がってくれていた気がする。もう少し言っておくべき事柄が残ってはいたが、いまに至れば術ないだけなので、ついでに尚更、煙になっておきたい。

●インタビューを終わって
佐藤さんとは当時はもちろん面識もあり話したこともあったのだが、阿木さんとの関係とか佐藤さんが何を考えていたのかなど知らないことばかりだった。R.N.A. Organismのことを中心にお伺いしようと思っていたが、時代の沫だったこともわかった。それより何よりも佐藤さんが試みていたことは「場所」を確保しようとしていたことだった。人が集まる場所、退避する場所、何かが起こる予感を帯びた場所。場所を模索し続けたのではと感じた。阿木さんも『ロック・マガジン』の後にM2(Mathematic Modern)や(nu things)、(environment 0g [zero-gauge] )を立ち上げて、ヴェニュー(場所)から外へと続くアヴェニュー(街路)へという想いがあったのではないかと想像した。
阿木さんと最後に会った時に「嘉ノ海、元気にしているのか、そろそろ何かを始めないといけないんじゃないか。」という言葉を思い出した。今も0gは場所から街路へと繋がっている。

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《今回リリースされたR.N.A. Organismの未発表ミックス集『Unaffected Mixes』を聴いて》

●全く別物ですね。びっくりしたと同時にほほーって、こう来たかと思いました。
当時のものの価値(R.N.A.O Meets P.O.P.O)は、時代は常に変化しているので当価値ではありません。
今回の「Unaffected Mixes」は、意匠を変えてというか、時代の「衣装」を着せ替えたものと理解しました。
特に最終曲終盤の残響(reverberation)音は、減衰していく音の波が見えるようでした。
今風の言い方をすると後期資本主義的世界(マーク・フィッシャー)の黄昏ていく風景への憧憬や祈りのようなものを感じました。少し先の歴史性へに対する感覚も。

★R.N.A. Organismの『Unaffected Mixes』は、カセットコピーした仮ミックスなどからテープの切り貼り編集などで制作していた当時のものです。阿木さんが、ライヴできるバンドというかユニットを望んでいてストレートなミックスが好みだったようなのであまり興味を示さなかったものです。一応ヴァニティ音源なのでいままで表に出さずにいたテープがけっこうな量ありますので、そこからセレクトしたもの。まだアルバム2~3枚分はあります。機会があれば他のトラックも放出したいと思います。有り体に言うとボツテイク集ということですが……。

●もちろん全体の雰囲気やメロディから当時のものだとわかります。タイトルも伊/仏語に変わっていたり、Singularなんて今風の言葉が使われていたりしてます。「全く別物ですね」は、Mixにより生まれ変わったといった意味です。加えて他のものも何らかの形で、是非リリースして欲しいです。

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VANITY0006『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』1980/05
佐藤薫の初期プロデュース作品。
”R.N.A. Organism”の一番初めの出現は、Vanity Recordsのミュージシャンが多く出演した1979年12月のロックマガジン主催のイベント「NEW PICNIC TIME」の匿名の観客としてだった。
頭髪を緑色に染めた集団。それは佐藤薫率いる時代に拮抗した過激派であり他の観客を刺激した。
当時佐藤薫が主宰(拠点?)していた京都河原町のディスコ「クラブ・モダーン」では、ダンスミュージックとして西アフリカの民族音楽をかけていた。何の加工もせずそのままの音源でリスナー(参加者)は朝まで踊っていた。
その「場所」は僕らが名付けたエスノ(エスノミュージックとテクノとを融合した)ミュージックの実験空間でもあったのだ。当然エスノにはジェイムズ・ブラウンなどのR&B、イヌイットの狩猟の音楽、日本の舞楽なども含まれていた。
イギリスでは”THE POP GROUP”や”THE SLITS”の音楽が新しい原始リズムを刻んでいた。二十世紀初頭ロシアの作曲家イゴーリ・ストラヴィンスキーの”春の祭典”のように…。
佐藤薫は現在も時代精神を反映した個人レーベル「フォノン」で時代の響き(ドローン)を発信し続けている。二十一世紀音楽は「響き」をいかに時代の背景音として捉えるかにかかっている。現在の彼の音楽的冒険はいわば二十一世紀にメタモルフォーズし再登場したパンクミュージックだ。
【Vanity Recordsと『ロック・マガジン』1978-1981より】

KYOU-039 Viola Renea『Syguiria Lady』LP(レコード)

発売日:2020年11月25日
定価:¥3,200(-税別)
品番:KYOU-039
仕様:
□輸入盤LP, Strangelove Music SL107
□初アナログリイシュー
□フルサイズ アートインサート, ライナーノーツ付属

Amazon  https://amzn.to/3kjqQAt
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Viola Renea
Syguiria Lady(LP Record)

side A
01. Amitoung Ashyljoung
02. Vimana Beam
03. Faros Faras Island
side B
01. Sōma Yāna
02. Māyā Candra
03. Samsāra
04. Polaris Line
05. Chariot of Palace

KYOU-039
25.Nov 2020 release
3.200yen+tax

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1984~85年に大阪で展開していたレーベル「ファンタン ラトゥール レコーズ」から1985年にリリース(LP)されたヴィオラ リネア/シギリア レディを初CD化!今回、ニュージーランドのStrangelove MusicからのLPリイシューのオファーにより2020年秋にLP/CD/デジタル配信によるワールドワイドな展開となります。

<作品概要>
Viola Reneaは、1983年までに兵庫県の西宮市を拠点に置く自身のレーベル、Kagerohから2枚のシングルを既に発表していたグループだ。
今村空樹は、“未知の記憶”から発生した奇妙で新しい音楽を読み解く旅の進路を開拓した。中近東、ギリシャや東ヨーロッパの民謡に影響されたこのバンドの欲望は秘境の異質さを探求すること…起源への回帰だ。
生み出されたサウンドは古賀俊司によるベースと迎久良による“波形的な”マンドリンの不気味な装飾リズムのコンビネーション。本作のリリース直前に今村氏は自身の歌詞を「リーディア主義」と称する架空のオカルト科学の用語(造語)を使ったものだと語っている。
結果、谷口純平とみなみなみ子による電子伴奏により併記された他民俗(エイリアン・フォーク)への感傷によって、夢の風景は当時のテクノ・ポップが回帰したテーマ、ノアールと誘惑、の呪文を模索する。聴覚的なビジョンと奇妙な音楽的な愛が魔性の女(ファム・ファタール)、シギリアン・レディと一体となった。

remodel 42 V.A.『Vanity Box Ⅱ』

発売日:2020年12月11日
定価:¥8,000(-税別)
品番:remodel 42
仕様:
□ブックレット1 8P
□ブックレット2 じゃばら
□ポストカード 5 枚
□オリジナル ボックス(135×135×22mm)
□CD5 枚組(紙ジャケット)BOX SET

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V.A.
Vanity Box Ⅱ

CD1 DADA – 浄
CD2 Aunt Sally – Aunt Sally
CD3 あがた森魚 – 乗物図鑑
CD4 Normal Brain – Lady Maid
CD5 R.N.A. Organism – Unaffected Mixes

remodel 42
11.Dec 2020 release
8.000yen+tax

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日本初のインディペンデント・レーベルの1つともいわれ70年代末から80年代初頭の日本の自主制作/インディーズ音楽シーンを語る上において欠くことのできない重要な存在であるVanity Records。本作『Vanity Box Ⅱ』はそのカタログの中からDADA『浄』、Aunt Sally『Aunt Sally』、あがた森魚『乗物図鑑』、Normal Brain『Lady Maid』を収録し、更に今回が初リリースとなるR.N.A. Organismの未発表音源集『Unaffected Mixes』を加えたCD5枚組のボックス・セット。1978~1980年までのおよそ2年ほどの期間でリリースされたこれらのアルバムからは、この時期における「時代のムード」の激しい移り変わりが窺い知れる。

<作品概要>
『Rock Magazine』編集長の阿木譲によって1978に設立され、パンク以降の価値観で活動する新たなバンドや、バンド活動を経た音楽家のオルタナティブなアプローチ、時代の先端としてのエレクトロニクス・ミュージックやインダストリアル・ミュージックなど、同時代の先鋭的な音楽動向をいくつかの側面から捉えてみせたVanity Recordsは、日本初のインディペンデント・レーベルの1つともいわれ70年代末から80年代初頭の日本の自主制作/インディーズ音楽シーンを語る上において欠くことのできない重要な存在だ。
本作『Vanity Box Ⅱ』はそのカタログの中から1978年リリースのDADA『浄』、79年リリースのAunt Sally『Aunt Sally』、80年リリースのあがた森魚『乗物図鑑』とNormal Brain『Lady Maid』を収録し、更に今回が初リリースとなるR.N.A. Organismの未発表音源集『Unaffected Mixes』を加えたCD5枚組のボックス・セットである。
Vanity Recordsの記念すべき最初のリリースであり同時代の(ObscureからAmbientへと至る)イーノの動向への眼差しも感じられるDADA、当時の関西パンク・シーンにおける伝説的なバンドの一つでありPhewがボーカルを務めたことでレーベルのカタログ中でも特に知名度の高い一作となっているAunt Sally、フォーク歌手としてのイメージの強かったあがた森魚をテクノ・ポップのコンセプトでプロデュースした『乗物図鑑』、そして2020年現在まで関西を拠点にインスタレーションやサウンド・オブジェの制作など、音に対する「気付き」に基づく活動を続けている藤本由紀夫によるユニットNormal Brainまで、およそ2年ほどの期間でリリースされたこれらのアルバムからは、この時期における「時代のムード」の激しい移り変わりが窺い知れる。
そして今回初めて世に出ることとなったR.N.A. Organism『Unaffected Mixes』についてはバンドのプロデューサーある佐藤薫氏よりコメントをいただいたので引用させていただく。
“R.N.A. Organism唯一のLP『R.N.A.O MEETS P.O.P.O』(Vanity 0006, 1980)は、比較的ストレートなミックスを中心としたトラックでアルバム化された。しかし、メンバーとプロデューサーによってミックス/カットアップ/エディットされた、多くの別ミックス/ヴァージョンがカセットテープで残され40年間眠り続けてきた。このたびその一部をアルバム『Unaffected Mixes』として発表する機会を得た。”
いわば『R.N.A.O MEETS P.O.P.O』の「衣装違い」のような存在といえるだろうか。Vanity0007以降エレクトロニクス・ミュージックへ大きく踏み出すこととなるレーベルの動きを知る現在から見れば、このアブストラクトなミックスは(その時点でリリースされることはなかったものの)そういった後の動向を示唆する存在のようにも思える。結果的に「影」のような存在となってしまったこのような音源もまた、当時の先鋭的な音楽動向がどのように察知され、形作られていったかを物語る重要な一部である。
また、今回のDADA『浄』のデジタルリマスタリングは宇都宮泰ヴァージョン(マーキー/べル・アンティーク・レーベル)を使用している。
よろすず

KYOU-036 V.A. (サロンキティ /ヴィオラリネア/BCレモンズ)『fantin latour(3CD)』

発売日:2020年12月18日
定価:¥4,000(-税別)
品番:KYOU-036

Amazon  https://amzn.to/31RdeWH
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V.A. (サロンキティ /ヴィオラリネア/BCレモンズ)
fantin latour(3CD)

CD1. Salon Kitty / 植物
CD2. VIOLA RENEA / SYGUIRIA LADY
CD3. THE BC LEMONS / SUPER SINGLE

KYOU-036
18.Dec 2020 release
4.000yen+tax

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1984〜85年ポストVanity Recordsを意識して展開されたfantin latour Records。リリースした3枚のレコードをオリジナルマスターテープより初CD化。また当時を知る宇都宮 泰氏がすべてのデジタルリマスタリングを担当。ファンタン ラトゥール レコーズのリィシュー完全版3CD BOX SET完成‼︎

<作品概要>
Salon Kitty / 植物
ヴィオラ、アコーディオンを中心にした音世界の上にファルセット・ヴォイスや詞が重ねられるサロンキティの音楽は、日本の「間」と通底する。茶室や日本庭園の、無いものと有るものの絶妙な調和は、サロンキティのゆったりとした間の取り方や、音と音の間、声と声の間に充満しているものを生かす為にこそ音を奏するという態度に継承されている。限りなく涼しく、冷たく、華やかな音楽。宗達の「かきつばた」の絵が想い出される。
(REV Vol.2 1985.4.20レコードレヴュー/田中浩一より抜粋)

VIOLA RENEA / SYGUIRIA LADY
ヴィオラリネアのサウンドは「未知の記憶」を打ち出す。その音はダイナミックなファンク・べースと細やかな装飾リズムを打つドラムを基調に、マンドリンが波打ち、リーディア教と称する神秘学上に立脚した造語を主にヴォーカルが展開されるものだ。特にマンドリンの使い方は、ギリシャ民族音楽を想わせる。中近東やギリシャ、東欧の民俗音楽を研究している彼等は、どこか遠い記憶の底にあるメロディーと、テクノ・ポップに共通の「クリミナル・ワールドとしての未来」を融合させ、そこにシギリアン・レディというファム・ファタールを置く。
(REV Vol.2 1985.4.20 レコードレヴュー /田中浩一より抜粋)

THE BC LEMONS / SUPER SINGLE
パンク以降からオルタナティブへの流れは大変興味のある事でした。必然的にそうなるとも思っていましたが、それは同時にロック・ミュージックがムーブメントから離れて個人的な傾向を強くしていくことを意味していたと思います。つまり当時の他の音楽を聴いて「僕もこういうことをしよう」などと考えることはもう違うのではないかと。混沌としたものではなく、すっかり上空へ抜けた感じにしたかったのです。以前から好きだった紀元前B.C.という響きと合う言葉や意味を探していてLemonsを合わせました。ロック・バンドという形を変えたくてアコースティック・ギターとドラム・セットなしの打楽器とオルガンぐらいではじめました。
ロック・ミュージックはとっくに終わってしまったのだとしても、真に感覚的な音楽というものはまだ目覚めぬ脳や感性の中に見え隠れしている。
(ヴァニティ インタビュー/飯田充宏 2020.9.17 Kyou Recordsより抜粋)

VANITY INTERVIEW
⑤ BGM

VANITY INTERVIEW ⑤ BGM
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


『BGM/Back Ground Music』のマスターテープ

『家具の音楽-その有用性について』

今回は白石隆之へのインタビュー。白石君と話をするのは40年ぶりだ。彼はあれから音楽を作り続けている現役のミュージシャンでもあり、感慨深いものがある。昨年の『Missing Link』に続き、今年は『Anthologia』をStudio Muleよりリリースしている。
そんな彼が、当時何を考えていて、そして今の時代の中で音楽を通して何を考えどのように読み取っているのか。耳という器官は眼球と違い塞いでも常に音は聴こえる。音そのものは気付きの現象であり、生活の中での音楽とは、そして音楽の有用性とは。今の時代にあえて問いたい。
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現在の白石隆之の活動に関してはこちらのホームページを是非アクセスして頂きたい。
https://www.takayukishiraishi.com

Studio Muleよりリリースしたアーカイブ・シリーズの配給元であるドイツのKOMPAKTのページはこちらを参照
BGM以降の白石隆之の活動の紹介されており、VANITY RECORDSのことにも触れられている。
https://kompakt.fm/releases/anthologia

BGM以降の作品はこちら(SoundCloud)から聴くことができる。

さて、白石隆之と話してみよう。

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当時デモテープと一緒に送ったBGMのアーティスト写真

☆白石隆之(BGM)
●嘉ノ海幹彦

●さて白石君と呼ばせて頂きます。というか今でも君の事は憶えています。『Back Ground Music』のレコーディングの際にもスタジオで立ち合ったし、コジマ録音からレコードが納品された後にジャケットを糊付けして出荷しました。そもそもVanityからリリースされたのはどのような経緯だったのですか?

☆記憶を辿りつつ、ちょっと手前の話から…。僕は中学に入った頃から輸入盤店に通ってレコードを買ってはいたものの、なかなか自分にしっくり来るものが無く、とりあえず洋楽(死語ですね)の全体像を掴む為に色んなジャンルのものを勉強みたいな感じで聴いていたのですが、中学2年の時にパンクと出会って、あぁこれは自分達のムーブメントだと感じてのめり込みました。

でも僕の興味はどちらかというとパンクのデザイン面や、メジャーの作品とは異なる荒い録音(音質以外にもリハーサルテープのような雑な終わり方とか)の感触だったりしたので、3コードのロックンロールを自分でやるという気持ちにはならなかったのですが、その直後に今で言うポストパンク、ノーウェーブ、インダストリアル・ミュージックが表出して来て、別にワンコードでも構わないし、特にルールなんて無いのだと感じ、1979年に入った頃、カセットテープレコーダーで録音を始めました(特に、その頃出た『No New York』を聴いたのが大きなキッカだと思います)。楽器が少し出来る友達や、その友達の友達にフレーズやパターンを口で説明し「ヘタにオカズとか要らないからシンプルに反復して欲しい」と言って録音して来たドラムやベースの上に自分で音を重ねて行くというのがその頃の基本的な作業パターンです。

そんな感じで、ほぼまともな音楽的知識も無いまま試行錯誤しつつ色々作ってみたのですが、従来のロック的なパフォーマンスが苦手だった為ライブハウスに出る気にはならず(そもそもバンドではないですし)、それよりも録音芸術としてのレコードの方に興味があったので、どうしようかと思っていた頃、当時ほぼ毎号買っていた『ロック・マガジン』が運営するVanity Recordsがパンク以降の音に移行したことを知り、何はともあれ送ってみたという流れです。それが1980年の2月くらいだったかと(その時は高2でした)。早々に阿木さんからアルバムを出したいという電話が来て、一旦レコーディングの日取りも決まった後に少し延期させてくれとの連絡があり、結局1980年の7月に楽器を弾いてもらうメンツを連れて新幹線で東京から大阪へ行き、スタジオに入って1日でレコーディングしました。

☆余談ですが、テープを送る数ヶ月前、地元の飯田橋の本屋で僕が立読みしている時、たまたま嘉ノ海さんがロックマガジンの営業に来て、僕が声をかけて喫茶店で少し話しをしたことをさっき思い出しました。

●そのことは僕も覚えている。飯田橋にあった今はなき文鳥堂という本屋ですね。白石君は学生服だったよね。さすがに会話の詳細は憶えていないけど、音楽のことや作品を作っていることも話していた。当時はまだ東京の『ロック・マガジン』千駄ヶ谷事務所があり、名刺を持って書店回りをしていた時期だった。その時の会話の内容は覚えている?

☆文鳥堂は小さい出版社の個性的な本や雑誌も置いていたので、学校の帰りにほぼ毎日寄っていました。嘉ノ海さんが文鳥堂の店員と話している映像と喫茶店の中の映像は断片的ですが頭の中に割とハッキリ残っていますよ。会話の内容に関しては僕も朧げです。

●記憶は常に変化する幻影だからね。さて話を戻そうか。ブライアン・イーノプロデュースの『No New York』には僕も衝撃を受けました。リリースは1978年ですね。この作品には布石があって、まず1975年-1978年の「Obscure Rcords」で実験音楽そのものを問い直した。並行して1977年にソロ・アルバム『Before and After Science』のリリースとニューヨーク・パンクのトーキング・ヘッズのプロデュース。そして同時期の1978年に「Ambient Music」というコンセプトでイーノ版「家具の音楽」としての『Music For Airport』を発表している。

☆ポップミュージックと実験音楽の間を行き来する当時のイーノの振れ幅の大きい動きには非常に刺激をうけたし、彼のおかげで知った音楽も多いです。オブスキュアや『Music For Airport』と平行して『No New York』をプロデュースする辺り、イーノは信用出来るなと思いました。BGMはポストパンクやノーウェーブへのリアルタイムのリアクションでしたが、1970年代半ばから1981年頃までのイーノの動きから受けた影響は、BGMを終了させた以降の自分の核になっているように思います。自分にとってイーノとコニー・プランクは大きい存在ですね。

●なるほど。そのような状況の中で「YMO」の『BGM』に先駆けて、BGMの『Back Ground Music』が1980年9月にリリースされたんだね。「YMO」のコンセプトがどうなのか知らないけど、君の方が早いよね(笑)。
いずれにしても当時、僕らは音楽の流れの中で同時代性を感じていた。だから『ロック・マガジン』でもエリック・サティの「FurnitureMusic」すなわち「家具の音楽」を編集したんだ。
ところでB.G.Mの由来は?どんなこと考えていたの?

☆例えばマーク・スチュワート達が自分達のバンドにTHE POP GROUPと名付けたことと同じような意味合いですね。皮肉でもあり、同時に真でもあるという。実際に自分達が生活している背景で鳴っている音…地下鉄の走行音、隣の部屋から漏れて来る話し声、遠くから聴こえる工事現場の反響音などなど、それこそが都市で暮らす自分にとってのBGMであるという意味を込めて付けました。BGMのアルバムに収録した曲の中で具体音(ガレージで録音した足音)を使用したのは”Mix”だけですが、楽器パートと同じ要素として具体音を使うというのは元々BGMのコンセプトでもあり、もっとそこを押し出すべきだったなと思います。レコーディングの時にも色々な音を録ったテープを持って行ったものの時間が無くて色々試すことが出来ず、そこは非常に残念に思っています。

●そうか。B.G.Mは「家具の音楽」と捉えていたけど、まさしくエリック・サティ的な諧謔的なネーミングだ。誤解している人が多いけど、「家具の音楽」は環境音楽とは根本が違うから。でも色んな音を録音して予め用意していたのは今はじめて知った。レコーディングを通していろいろ試したかったんだね。

☆まぁ若くて未熟だったし反省点が多くて、つい最近までBGMのことは記憶から消していた感じなんですけど、この時の体験が、自分の頭の中のイメージを正確に音化するにはエンジニアリングも含めて自分でコントロールするべきだということを真剣に模索するキッカケになったのは事実ですし、あれが今も音楽を続けている自分にとっての起点だと思ってます。因みに1986年以降の自分の作品でサンプリングを使うのも、当時テープを使用したことの延長です。

●じゃあ改めて僕も立ち合った「記憶から消していた」大阪のスタジオ・サウンドクリエイトでのレコーディングについて聞きたいんだけど(笑)。録音時、白石君は高校生だけど他のメンバーもそう?

☆そうです。全員学年は同じで当時は高3ですね。レコーディングの時、僕は17歳でした。

●メンバーのHarunobu Kawashima、Kenichi Ebisawa、Syuichi HashimotoはBGM以外に音楽活動してますか?

☆川島は後にDer Zibetというバンドのベーシストとしてメジャーで活動していましたが、他の2人は特にやってないんじゃないかと思います。川島は小中と同じ学校なんですが、EbisawaとHashimotoは川島の高校の同級生で、僕が川島に「ドラムを叩ける人とシンセ持ってる知り合いいない?」という話をしたら連れて来た2人です。ヴァニティのレコーディングの話が来てから声をかけたんじゃなかったかと思います。正直言ってBGMはバンドではなく、打ち込みで曲を完成させるのが未だ難しい時代に僕がイメージした音をカタチにする為の非常にエゴイスティックなものでした。実際に音楽的イメージをそれなりに共有出来ていたのは川島だけですね。他の2人には感謝していますが、レコーディング当日を入れて数回しか会ってないと思います。

●このレコーディング・メンバーでライヴとか演奏活動は行った?

☆いいえ。

●数回しか会ってないメンバーだとバンドとは言えないよね。
ところで、プロデューサーとしての阿木さんの役割はどんなものでしたか?

☆僕自身マルチトラックのレコーディングの手順も良く分かっていない状態だったので、ただでさえ余裕が無かった上に、レコーディング中、阿木さんが「君は音楽で何がやりたいんだ?」「君にとって音楽は何なんだ?」など非常に根源的な問いかけを浴びせながらガンガン圧をかけて来た為、更にテンパって大変でした(笑)。ドラムの音処理についてなどエンジニアの人に諸々質問しながら作りたかったのですけど、そういう雰囲気でもなく、とにかく僕としてはタイトなスケジュールの中でやれることをどうにかやり、僕が行き詰まった時には阿木さんも幾つかアイディアを出してくれて、何とか纏めた感じです。そんな感じでしたが諸々勉強にはなったし、機会をくれた阿木さんには感謝しています。

●当日、サウンドクリエイションで阿木さんがその話をしていたのを憶えているよ(笑)。費用的にも1日しかスタジオを使えなかったので、緊張感が半端なかった。その中で『BGM/Back Ground Music』は出来上がった。1980年はVanity Recordsにとって『乗物図鑑/あがた森魚』『R.N.A.O Meet P.O.P.O/RNA ORGANISM』『SYMPATHY NERVOUS/SYMPATHY NERVOUS』『Ready Made/Normal Brain』『2LP MUSIC/V.A.』のLPと『Polaroid/Sympathy Nervous』『Hide & Seek/Mad Tea Party』『You’ll No So Wit/Perfect Mother』の7″シングルが連続的にリリースされ一番動きのあった年だった。
ところで音楽とは違う質問なんだけど、7″シングル『Hide & Seek/Mad Tea Party』と『You’ll No So Wit/Perfect Mother』のスリーヴ写真は白石君が撮った写真って聞いたんだけど。

☆そうです。何故かクレジットが抜けていますが『Polaroid/Sympathy Nervous』のシングルも僕の撮影した写真です。あれらの写真はそもそも僕がBGMのデモテープと一緒にヴァニティに送ったもので、それをあの3枚のシングルに使用するという話は一切されないまま、店頭に並んでいるのを見て初めて知りました(笑)。

●全く知らなかったけど、そうだったんだ。そのあたり当時は普通にいい加減でした。僕も少しは関係があったので申し訳ない。しかし阿木さんは送られてきたモノや編集室にあったモノは素材としてしか見てなかった。だからいい素材を使って素敵なデザインして何が悪いっていうことになる(笑)。
話をもどそう。『ロック・マガジン』はいつから読んでいましたか?好きだった(気に入っていた)号は何号でしょうか?

☆最初に『ロック・マガジン』を買ったのはジョニー・ロットンとシドの合田佐和子さんによる鉛筆画が表紙の号だったかと。New York Rocker誌の翻訳やロンドン在住の羽田明子さんによるインタビューが多数掲載されていたA4の28号から33号までは、自分がBGMのことで関わった時期でもあり印象深いのですけど、紙の選別も含めて最も手作業感が強まった81年の35号から41号が特に本というモノとして気に入ってます。

●A4からB5サイズの時期は『ロック・マガジン』と出合って編集にも関わっていた時期と重なる。今でもその辺りの『ロック・マガジン』に愛着があるし、新しい音楽の動きがあるたびに版形も含め激しく変化していった。
ところで、当時聴いていた音楽は?叉影響を受けたアーティストやレーベルは?

☆1980年辺りに絞ってみると、アーティスト、グループとしては、PIL、DNA、元WIREのGraham LewisとBruce GilbertによるDomeやCupolなどのプロジェクト、This Heat、New Age Steppers、4人組の頃のDAFなどなど。あと並行してENOのソロやJon Hasselなど。

レーベルだと、前述のDomeの2人が運営していたDome Recordsの独特のこもった音質と、それに呼応するザラついたデザインセンスが印象に残っています。基本的に自分達の作品をリリースする為の非常にプライベートなレーベルでありつつ、ストリートで自作楽器を演奏していたMichael O’Sheaに声をかけてリリースするような自由さもイイなと。

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白石隆之撮影 ZINE『dʌ́b』より

※白石隆之のルーツに関しては、今年の7月にオーストラリアのネット・メディア、Low End Theoristsからオファーされ、「影響を受けた音楽」というテーマで作ったSpotifyのプレイリストがあるので、こちらを参照願いたい。

またLow End Theoristsの記事はこちらを参照。
https://www.lowendtheorists.com/playlists/takayuki-shiraishi-selects-his-biggest-musical-influences

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●DomeやCupolは工業神秘主義音楽。羽田明子のインタビュー記事もあったし『ロック・マガジン』で紹介したミュージシャンですね。上げてくれた音楽は極めて同時代性を感じる。
逆に現在関心があるアーティストはいますか?

☆思うところがあり、一昨年くらいからクラブでDJするのをやめてからは半分意識的にあまり音楽を聴かないようにしていたのですが、今年からは数ヶ月ごとにレコード屋のサイトをハシゴして新譜を片っ端からチェックすることはやってます。以前は12インチ中心に買ってましたが、今はLP中心に変化していますね。

ここのところ気になっているコトというと、ウガンダのレーベルNyege Nyege Tapes周辺のアフリカのアンダーグラウンドなシーン経由で出て来るMetal PreyersやNihiloxicaなどの動きです。アフリカの呪術的な要素と現在のインダストリアルでエレクトロニックなテイストの音が融合した謂わばアフリカン・ゴシックと言うべきもので、久々に興味深い動きだなと思ってます。アフリカの音楽への西洋からの返答に対する更なる返答という感じで、音的にはCanや23Skidoo、そのCanのドラムのJakiが晩年に遺したコラボ作とかにも通じるものがあり、影響は巡り巡るものだなと改めて思いました。その他で今年聴いて印象に残ったアルバムというとMinaeMinae『Gestrüpp』、 Roméo Poirier『Hotel Nota』、Hiele『Stadspark』とかでしょうか。それぞれ独特の捻れたウネリをもっているところがイイなと思います。

●その辺りは全く知らないけど、呪術とインダストリアルって工業神秘主義的なんだろうか。一度探ってみようと思います。それらの中から2020年の音楽をどのように読み取っていますか?(ヴェイパーウェイブなどの動きも含めて)

☆今年の初頭であれば、前の質問で答えたアフリカのアンダーグラウンドシーンのように欧米以外の様々な地域から従来のイメージを覆す音が更に出て来るだろうとか大雑把な答えをしていたと思います。新型コロナが出て来て、今後マーケットに限らず、それぞれの地域の音楽性にも大なり小なり影響を及ぼすであろうし、それは一体どのような変化なのだろうかとか考えつつ、自分自身も当事者なので2020年を読み取る余裕などなく混乱の真ん中にいます。

ヴェイパーウェイブについては、きっとアノ辺の音を指すんだろうなとボンヤリ横目で見ていたような認識しかないのですが、独特のノスタルジーとかネットとの関係の深さも含めて、その背景については少し興味はありましたし、ちょっと前に色々と論じる対象となっていたのは理解出来るのですけれど、自分にとって快楽を得られるタイプの音楽では無かったですね。ヴェイパーウェイブというと2012年くらい?のイメージですが、その頃はレギュラーパーティーを持っていたし、抽象度高めなディープハウスやテンポの遅い分類しにくいテクノとかを混ぜて如何に客をグルーヴの中に巻き込むかということを試していたので。

●人と社会との関係性についての質問です。現在の後期資本主義的社会をどのように感じていますか?

☆資本主義の拡大と、人種の分断、差別、格差は結果的にひとつのパッケージになっていたと思うのですが、非常にグロテスクで息がし辛い社会が出来上がってしまったなと思います。現在は新コロナによって、その歪さが炙り出されている状況で、今後この資本主義社会がどのように変化するのか、変わらないのか、更に加速するのか。とりあえず個人としては安易なニヒリズムに落ち入らず、少しでもマシな社会になるよう日常の中で考え、声を上げていかないといけないなと至極シンプルに思う今日この頃です。自分だけ居心地が良い社会というのは存在しないので。あとネット社会というか、ネットに関しては可能性を感じながら日常的に「気持ち悪いなぁ」と思いながら使ってます。

●今後の活動のプランを教えてください。

☆昨年8月に1980年代後半の未発表曲をまとめた『Missing Link』、10月にBGMのヴァイナル・リイシュー、今年の5月に1990年代前半に制作した曲からピックアップした『Anthologia』という僕の音楽的変遷を辿るStudio Muleからのアーカイブ・シリーズ(配給はドイツのKompakt)をひと段落させ、現在は、自分がここ数年撮影して来た多重露光の写真作品を編集したZINEと、A面に2020年の新曲、B面に1986年の未発表曲を収録した7inchレコードをセットにした dʌ́b[ダブ] というタイトルの作品を製作中です。これは同時にスタートさせる HERE. という名の僕のプライベート・レーベルからリリースします。大体今年の12月くらいになるかと。

ネット配信も利用はしますが、一方で「取り出す」「ページをめくる」など、触れることを意識したフィジカルなモノを作りたいという欲求が自分の中で強くなって来ているので、それを具現化して行ければと思いますし、別にコンセプチュアルなものにする気はないですが、「A面とB面」とか「音質と収録時間の関係」とか「傷がつく」とか「絡まる」とか、それぞれのメディアの特徴を考えながら遊べればと思います。あと昨年に過去作のアーカイブ化作業をする中で、40年前から現在に至る時間の流れが一旦リセットされ、過去も現在も関係なく並列されたような感覚になったのですが、その辺りも反映されることになるでしょう。

曲作りやリリースに関しては、ここ10年くらいずっとモチベーションが上がらず腰が重くなっていたのですけど、結局のところ一寸先は闇だし、予想を立てても大体外れるものなので、足取り軽めにやっていこうというのが今後の指針です。

●これからの音楽芸術はどのようになっていくと思いますか?音楽を制作するに当たりどのようなことを考えていますか?また白石隆之にとって音楽とは?阿木さんみたいなってきた(笑)。

☆これからの音楽芸術がどうなっていくかという問いは大き過ぎて答えは出ませんが、この先も音楽は生命体のように変化し続けるだろうし、その潮流に巻き込まれることを楽しみたいと思います。自分にとって音楽とは何か?ということについては常に考えているとも言えますし、同時に考え過ぎないようにもしています。言うならば自分にとって音楽は、この世界の本当のカタチを探知する為のソナーみたいなものだと思ってます。まぁ、とにかく精神的にも肉体的にもサヴァイブ出来ればと思います。

●アーティストの役割は、時代を歴史に関連付けて少し未来を見せることだと思っています。
このことと関連があるんだけど、最後の質問です。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対してどのような感想をお持ちでしょうか?生きている間にこのような時代(世界が民族や言語を超えて同時に同じ惨禍にある)と対峙することは、幸運にも(失礼)そうそうあることではありません。

☆こんなにあっさりと社会を劇的に変化させる存在が出て来たことに驚きました。人と人との距離を引き離して密接なコミュニケーションをさせないようにするしつこさを思うと、このウイルス自身に何か特別な意思でもあるのでは?とか馬鹿な妄想をしてしまいます。とは言え、人類は今まで何度もパンデミックを通過して来たわけですし、こういう変化はやはり唐突に容赦なく当たり前にやって来るものなんだなと小さい溜息をつきつつ、それでも続く日々を過ごしてます。まぁ人間の経済活動が止まった状態の方が人間以外の存在は生きやすいだろうし、4月の緊急事態宣言の時の、人が殆ど出歩いていない東京の街なかの光景を見て「これはこれで落ち着くな」と思ったのも事実ではありますが…。しかし、なかなか巧妙に人間の心理面をついて来るウイルスですね。何やら色々と試されているような気分です。

●人間の身体の中には常に内なるものとしてのウイルスが存在しているし、生命の進化(変容)と関係があるのかも知れない。音楽そのものがウイルス的機能を持ったものであるとすれば、音楽における有用性とは逸早く察知反応し時代に働きかける恩寵だと思ってます。恩寵とは新しい世界を見せてくれて、同時に危機意識に働きかけてくれる気配みたいなものじゃないかな。

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白石隆之撮影 ZINE『dʌ́b』より

▼インタビューを終わって

☆嘉ノ海さんとのやりとりによって自分の頭の中の区画整理がちょっと出来たような気がします。今回色々と当時を思い出したりしつつも懐かしいという感情が全く湧かないのは、あの地点から続く延長線上に今の自分がいるからなのでしょう。

最後にちょっと阿木さんのことを。僕の90年代以降の音楽的変遷というとデトロイトテクノ、アンビエントハウス、ブレイクビーツ、アブストラクト・ヒップホップ、エレクトロニカ、レフトフィールドなハウスなどなど、そこから更に続くという感じなのですが、辿ってみると90年代以降の阿木さんも似たような弧を描いて流れていたんだなと思います(阿木さんがハードコアテクノからガバに行った期間とストレートなジャズに行った期間は除きますけど)。90年代初頭、僕が後にR&S傘下のApolloからリリースされることになる曲を作っていた頃、阿木さんが無謀にも大阪でM2というテクノオンリーのクラブを始めてDJもやっていると知り、ちょっと驚きました。その後、大阪に遊びに行った時にM2で10年ぶりに再会し、その数年後に彼の次の店、カフェブルーに呼ばれてDJをしたのですが、阿木さんと言葉を交わしたのはそれが最後になります。正直言って阿木さんのクラブミュージック以降の音楽の捉え方にはかなり違和感を感じる部分もありますが、80年代辺りで止まったままの人が多い中、亡くなるまでひとつの場所に留まらず自分のやり方を貫いたのだなと。まぁ色んな人に迷惑かけながらでしょうけど、諸々含めて阿木さんらしい一生だったのではないかと、そう思います。

●インタビューを終わって
答えにくい質問もあったかも知れないけど、答えてくれてありがとう。白石君がどのようなことを考えていてこれからどのように継続的に動こうとしているのかわかった気がした。メールインタビューの最中に君の『Missing Link』と『Anthologia』を阿木さん晩年の「場所」であるenvironment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ]の音響システム で聴いた。引き継いだ今のオーナーである平野隼也君が「めちゃくちゃカッコいいですね」と言ってた。僕はこの色彩を帯びた作品を聴きながら0gの壁に映った音の影を見つめていた。しかし不思議と懐かしいとかそんな感情はわかなかった。白石君、今度大阪に来る機会があれば是非一緒に行きましょう。
本当にこれからの音楽活動を楽しみにしています。次回はメールじゃなくてゆっくり話をしようね。

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白石隆之撮影 ZINE『dʌ́b』より

『Missing Link』(2019)と『Anthologia』(2020)について・・・・・白石隆之

『Missing Link』は、ニューウェイブが失速し、一方でON-U周辺とヒップホップの接点からTackheadみたいなものが生まれたり、ノイズ系がアンビエントや宗教音楽的な方向に行ったりと、次の予兆を感じさせつつも混沌とした1980年代後半の空気の中で録音していた作品をまとめた未発表曲集で、『Anthologia』は、僕が80年代末にデトロイトテクノやシカゴハウスと出会い、そのエッセンスを吸収した後、定型にとらわれずに自分なりの表現に辿り着こうと様々な実験をしていた頃(1990-1996)の曲をコンパイルしたものです(8曲中3曲は未発表、5曲は90年代の後半にリリースされました)。

これらのアーカイブをリリースすることになったキッカケ自体は自発的なものではなく、多分に受動的なものでした。背景として、海外の音楽マニアやバイヤーによる80年代の日本の音楽の発掘ブームが2010年代初頭辺りからあり、その対象は所謂シティポップとアンビエント/ニューエイジ系がメインで様々な作品がリイシューされましたが、いつしか音源の掘り起こしは80年代の日本のニューウェイブやエクスペリメンタルな音楽にも拡がり、Vanity Recordsのリイシューに対する海外からの注目もそういう流れのひとつと言えます。

僕自身はその辺りの発掘/リイシューのブームに興味は無かったし、距離を置いていたのですが、2018年にStudio Mule(母体はヨーロッパでの評価を確立している日本のダンスミュージック・レーベル Mule Musiqで、Studio Muleは日本の音楽の再発をメインとしたサブレーベル)からオファーを受け、最初は余り積極的になれなかったものの、とりあえず放置していた大量のDATやカセットを引っ張り出し、ひとつずつ聴き直す作業を続けていくうちに、当時の自分がやろうとしたこと、その後の自分に繋がっていくこと、その後捨てたもの、ずっと一貫して底に在るものなどが色々と客観的に見えて来た感じがして、BGMから始まる自分のキャリアを点ではなく線として流れが分かるように海外に示しておく良いタイミングだと思い直し、前向きにアーカイブ作業をした次第です。

2000年代にリリースしたアルバム『Slow Shoutin’』『S as in Soul.』や、今回のアーカイブからハズしたアンビエント/エクスペリメンタル系の作品なども、今後、新しい制作と平行してカタチに出来ればと思っています。
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BGMのデモテープ

VANITY0008『BGM/Back Ground Music』1980/09
白石隆之の作品。まだ高校生だった彼は大阪に来てVanity Records作品の多くをレコーディングしたサウンドクリエイションにおいて1日で録音した。
『ロック・マガジン』では「家具の音楽」を特集していたが、「家具の音楽」とは、元々フランスのベル・エポック時代の作曲家エリック・サティが「家具のように、そこにあっても日常生活を邪魔しない音楽、意識的に聴かれることのない音楽」をコンセプトとしていたものだ。「家具の音楽」の思想はその後ブライアン・イーノによって「Ambient Music」へと昇華させた。
Vanity Recordsの『BGM/Back Ground Music』(1980/09)もこの系譜に位置される。
1980年代以降音楽が新たな展開を見せる前夜に出された「Erik Satie Funiture Music特集」号(1980/11)では、サティの音楽や思想そのものの捉えなおしを行い、工業神秘主義音楽などオルタネイティヴな世界への準備を行ったのである。
その展開としての”Back Ground Music”は、ブルガリアの思想家エリアス・カネッティ『群集と権力』で記述されているアーケードの中の群集、大衆の中に存在する潜在意識、意識下で蠢く醒めた欲望機械のための音楽だ。群集の複数の足音は、ある瞬間から創発性をおび時代の意味深長なリズムとなり、体内整流音楽へと変化する。『BGM』は突如として身体に現れる創発性の音楽として意識された。
ちなみに同じタイトルの「YMO」の『BGM』は1981年3月にリリースされたが、全く異なる音楽である。
【Vanity Recordsと『ロック・マガジン』1978-1981より】

ヴィオラ リネア『シギリア レディ』 LPライナーノーツ用メールインタビュー

ヴィオラ リネア『シギリア レディ』
LPライナーノーツ用メールインタビュー

――ヴィオラ・リネアなどのバンドが活動していた1980年代初頭の大阪の「シーン」について少しお伺いしますが、東京とはどのように違いましたか?またどのような特徴があったのでしょうか?

ヴィオラ・リネアが活動していた1984~85年頃の2年間は大阪にシーンは存在していませんでした。音楽がファッション=モードとなりロックエンドが具現化した時期だと思います。また東京の状況もEP-4の佐藤薫氏がプロデュースしたレコードレーベル「WECHSELBALG」での展開と当時、すでに英国のNMM紙に紹介されていたメルツバウの影響は個人的には大きかったがはたしてシーンと呼べるものであったかは疑問に思います。

 

――当時の大阪の音楽シーンの中でヴァニティ・レコードなどのレーベルの影響力は大きかったのでしょうか?

ヴァニティ=ロックマガジンの影響力は一部にはあったと思いますがリスペクトするリスナーと反発するリスナーが同じバランスでした。反面教師として新しくレーベルを立ち上げた人たちが後にシーンを形成していったのでやはり影響力は強かったのでしょう。

 

――ヴィオラ・リネアとは何者で、彼らにはどのようなストーリーがあったのでしょうか?

ヴィオラ・リネアのリーダー今村空樹はインディレーベル「かげろうレコード」を主宰。「ヴィオラ・リネアを聴くならば夢が現実に反撃するための一つのパワーを得ることになるでしょう。」という当時の今村空樹の言葉通りバンド活動とレーベル展開をしていたアーティスト集団がヴィオラ・リネアであった。

 

――このバンドは、いくつかのエレクトロニックな要素と、いくつかのゴシックな要素、そして際立ったエンジニアリングが混成した魅力的なサウンドを持っていたと思います。本作は非常に不気味なアルバムであり、曲のタイトルは離島や異国情緒あふれる場所について語っています。このアルバムのサウンドやストーリー性の背景にある考え方について教えてください。

ヴィオラ・リネアのサウンドは「未知の記憶」を打ち出す。その音はダイナミックなファンク・ベースと細やかな装飾リズムを打つドラムを基調に、マンドリンが波打ち、リーディア教と称する神秘学上に立脚した造語を主にヴォーカルが展開されるものだ。特にマンドリンの使い方は、ギリシャ民族音楽を想わせる。中近東やギリシャ、東欧の民俗音楽を研究している彼等は、どこか遠い記憶の底にあるメロディーと、テクノ・ポップに共通の「クリミナル・ワールドとしての未来」を融合させ、そこにシギリアン・レディというファム・ファタールを置く。
(REV Vol.2 1985.4.20 レコードレヴュー田中浩一より抜粋)

 

――Fantin Latourについて、このレーベルを立ち上げたアイディアやヴィオラ・リネアとの関係についてお話しいただけますか?

ファンタン ラトゥールというレーベルのネーミングはニューオーダーのセカンドアルバム「POWER CORRUPTION & LIES」のジャケットに使用された絵画を描いた画家の名前を使用した。「FACTORY」に対するリスペクトからだった。1984年ロックエンドを強く意識した結果、自分自身がどの程度感動出来たのかが唯一の目安でアーティストを選択。サロンキティ、ヴィオラリネア、THE BC LEMONS、3アーティストをリリースして終了した本当に小さな個人的なレーベルでした。

以上

remodel 35 V.A.『VANITY MUSIC(2CD)』

発売日:2020年11月20日
定価:¥3,000(-税別)
品番:remodel 35
仕様:
□CD2枚組(紙ジャケット)BOX SET
□ヴァニティロゴステッカー
□ポストカード5枚
□オリジナルボックス(135×135×17mm)
□ブックレット32P
( 2019年リリース VANITY BOX 封入と同内容。20ページに及ぶ当時のヴァニティ広告を掲載。資料的価値が高く封入)
□オリジナルマスターテープよりデジタルリマスタリング

Amazon  https://amzn.to/2EJCnKs
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V.A.
VANITY MUSIC(2CD)

〈CD-1〉
01. PESSIMIST  SATTYUZAI
02. UNABLE MIRROR  HISCHOOL PIGS
03. UNABLE MIRROR  IGNORANT ANIMAL
04. MR  213
05. ANODE/CATHODE
…OF THE PASSIVE VOICE THROUGH THE LIGHT
06. KIIRO RADICAL  DENKI NOISE DANCE PART 1
07. KIIRO RADICAL  DENKI NOISE DANCE PART 5
08. KIIRO RADICAL  DENKI NOISE DANCE PART 6~7
09. KIIRO RADICAL  DENKI NOISE DANCE PART 8
10. KIIRO RADICAL  DENKI NOISE DANCE PART 14
11. TOKYO  CASSETTE TAPE

〈CD-2〉
01. DAILY EXPRESSION  INKA SANKA 1
02. DAILY EXPRESSION  INKA SANKA 2
03. PLAZMA MUSIC  GREEN BRAIN
04. NOSE  DOLBY NR ON
05. NEW YORK  1976
06. ARBEIT  BUNDES NACHRICHTEN DIENST
07. INVIVO  ISOLATION
08. NECTER LOW  ARTIFICIAL ONE

remodel 35
20.Nov 2020 release
3.000yen+tax

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ロック・マガジンへ全国から送られてきた100本以上のカセットテープの中から13組を選出しVanity Recordsより1980年12月にリリースされた2枚組LP『MUSIC』それまでのVanity Recordsのリリースとは異なり、カセット音源をそのまま収録するというアプローチによって宅録/DIYムーブメントの初期を生々しく捉え、来る80年代の音楽状況を予見する一作。

<作品概要>
1980年12月にVanity Recordsよりリリースされた2枚組LP『MUSIC』は、ロック・マガジンへ全国から送られてきた100本以上のカセットテープの中から13組を選出し収めたコンピレーション作品であった。
1978年に設立されたVanity Recordsは英Virgin Recordsなどをはじめとする海外のインディペンデント・レーベルに刺激を受け、レコード産業の思惑に左右されないミュージシャン主体のリリースを指向し、無名だが才能をもったアーティストにレコード製作という機会を与え、それを活用しより広く活動してもらうことを目的としていた。
レーベルのリリースにはパンク以降の価値観で活動する新たなバンドや、バンド活動を経た音楽家のオルタナティブなアプローチを短期間のレコーディングでパッケージしたものなどが並んでいたが、より電子音楽的傾向の強い作品(SYMPATHY NERVOUS、BGM、Normal Brain)をリリースする中でロック・マガジン編集部には全国の無名のアーティストから多数のカセットテープが送られてくることとなる。
この“動き”から以降の音楽の動向をつぶさに察知し、来る80年代の音楽状況を予見するものとして、“動き”をより生々しく伝えるためカセット音源をそのまま収録するというそれまでとは異なるアプローチで制作されたのが2枚組LPのコンピレーション作品『MUSIC』だ。
後のカセットリリースへと繋がっていくVanity Recordsの新たな動向を紐解くうえでも、Throbbing Gristleの登場以降世界中に波及していった宅録/DIYムーブメント初期のドキュメントとしても意義深い作品だ。

よろすず

remodel 27 tolerance『Today’s Thrill』

発売日:2020年11月20日
定価:¥500(-税別)
品番:remodel 27

Amazon  https://amzn.to/33eQ4uz
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tolerance
Today’s Thrill

1 Today’s Thrill

remodel 27
20.Nov 2020 release
500yen+tax

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東京の丹下順子によるプロジェクトtoleranceによる音源「Today’s Thrill」が初の単独CD化!この音源は『ロック・マガジン 32号』(1980/07)に付属のソノシートに収録されていたものである。Vanity Recordsからリリースされた2枚のLPの間の時期にあたる1980年に制作されたものと思われ、1stアルバム『anonym』の延長線的に響く要素も抱えながら“INDUSTRIAL MYSTERY MUSIC=工業神秘主義音楽”へと確実に歩を進めていることが嗅ぎ取れる1曲。

<作品概要>
Vanity Recordsより2枚のLPをリリース、レーベルの主宰である阿木譲がヴァニティ作品のフェイヴァリットに挙げ、NWWリストに選出されるなど同時代の作家への影響力も持っていた東京の丹下順子によるプロジェクトtoleranceによる音源「Today’s Thrill」が初の単独CD化。
この音源は『ロック・マガジン 32号』(1980/07)に付属のソノシート(vanity 2005)に収録されていたものであり、toleranceが2枚のLP以外では唯一世に出した音源となっていた。CD化にあたりオリジナルマスターテープから宇都宮泰がリマスタリングしている。
制作はおそらく2枚のLPの間の時期にあたる1980年。内容は静謐かつ無機的に打たれ続けるビートと囁くような声によって生み出される緊張感が聴きどころとなっている。
しっかりと輪郭を保った丹下によるエレクトリック・ピアノの演奏など1stアルバム『anonym』の延長線的に響く要素も抱えているが、演奏の方向性はフレーズの反復に徹した機械的な指向が強まっており、“INDUSTRIAL MYSTERY MUSIC=工業神秘主義音楽”へと確実に歩を進めていることが嗅ぎ取れる。静の様相の強いサウンドに突発的な動を差し込むように用いられたテープ・コラージュの技法も印象的だ。

よろすず

remodel 20 SYSTEM『Love Song』

発売日:2020年11月20日
定価:¥500(-税別)
品番:remodel 20

Amazon  https://amzn.to/30lnVjn
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SYSTEM
Love Song

1 Love Song

remodel 20
20.Nov 2020 release
500yen+tax

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大阪で短期間活動した女性5人組バンドSYSTEMの音源「Love Song」が初の単独CD化!この音源は『ロック・マガジン 36号』(1981/03)に付属のソノシートに収録されていたものである。抑揚を配した歌声はAunt Sallyを想起させずにおかないが、重苦しく打たれるドラムビートや音程のアウトしていくギターやベースからなる呪術的な演奏からはノー・ウェイヴの影響が伺え、繰り返し唱えられる「ねえ、地球っていつまでもつと思う?」という歌詞によって退廃性が前景化している。

<作品概要>
大阪で短期間活動した女性5人組バンドSYSTEMの音源「Love Song」が初の単独CD化。
この音源は『ロック・マガジン 36号』(1981/03)に付属のソノシート(Vanity8102)に収録されていたものであり、CD化にあたりオリジナルマスターテープから宇都宮泰がリマスタリングしている。
SYSTEMは佐用暁子が中心となって活動していたバンドで、メンバーは佐用に加え沢田弥寿子、大前裕美子、初田知子、芦田哉女の5人。
『ロック・マガジン 35号』(1981/01)のP88-89に紹介されており、編集部からメンバーに翻訳の依頼をしたこともあったようで、当時『ロック・マガジン』との繋がりが強かったバンドの1つであったとのことだ。
抑揚を配した歌声はAunt Sallyを想起させずにおかないが、重苦しく打たれるドラムビートや音程のアウトしていくギターやベースからなる呪術的な演奏からはノー・ウェイヴの影響が伺え、繰り返し唱えられる「ねえ、地球っていつまでもつと思う?」という歌詞によって退廃性が前景化している。

よろすず

VANITY INTERVIEW
④ PLAZMA MUSIC

VANITY INTERVIEW ④ PLAZMA MUSIC
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


『光の中で紡ぎ出される音楽』

今回のインタビューはイイダミツヒロ。彼とは昨年2019年に強い共時性(synchronicity)をもって再会した。フォーエヴァー・レコードの東瀬戸悟くんに誘われて初めて「難波ベアーズ」に行ったときに40年ぶりに彼と会った。
その際に『ロック・マガジン』の編集室で話したことなど一気に記憶が蘇えった。ただしB.C.Lemonsなど彼の音楽活動は見ていない。その後Vanity Recordsの再発の話があり、またこのように会話をすることになるとは。
基本的なやり取りは質問と回答の繰り返しで行った。今の時代に何を考えどのように生きようとしているのか。同時代を生きた同志としての彼の感覚を感じたかった。
さて前置きはこのくらいでイイダくんと話をしよう。

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▼イイダミツヒロ(PLAZMA MUSIC B.C.Lemons)
●嘉ノ海幹彦

●昨年は、ベアーズで、それも偶然会うなんて、カール・グスタフ・ユングのいう共時性ですね。たぶん阿木さんが呼んだとしか思えなかった。だってベアーズ行ったのは初めてだったんですよ。このような経緯でイイダくんとメールのやり取りをするのはとっても嬉しいです。

▼ベアーズ初めてだったんですか?僕は30年ぶりに行ったんですけど、すごい偶然でこわいですね。たぶんあの日にしか会えなかった。
僕がはじめてあの四ツ橋の編集室に呼ばれて行ったとき、最初に簡単なインタビューを受けました。
それが嘉ノ海さんだったと記憶しているのですが、『ロック・マガジン』01号に記載されているのはその時の話を文章に起こしたものと一部僕が書いた文章だったと思います。

●それはPLAZMA MUSICの記事のことですね。あの時書いた部分と君の文章が一緒になって掲載されました。
しかし、このような再会を考えれば、この世界は霊的なものだと思います。本人が意図していなくても自然の力がこの世に作用して現実化(物質化)します。アンドレイ・タルコフスキーが映画で表現している「ソラリスの海」のようなものだと思ってます。だから、この前もすごく嬉しかったけど、反面「やっぱり」って思いました(苦笑)。

▼僕も個人的には何かが作用していると思います。また逆に何も作用していないのかもしれませんが。人間はまだそのへんのところはほとんどわかっていないのですが、その未知の領域に何らかの新しさがある。僕にとっての音楽はそこへ足を踏み入れるための手段だった。それは今もそうですが。

●さて、そろそろ質問したいと思います。Vanityの『MUSIC』からリリースされた経緯は?阿木さんから話があったのでしょうか?

▼80年の秋ぐらいに『ロック・マガジン』にテープを送って、しばらくして阿木さんから編集室に来てくれと電話がありました。

●ちょうど『MUSIC』を企画していた頃ですね。電話があったときにどう思いましたか?また最初に編集室で阿木さんと会ったときにどのような話をしましたか?『MUSIC』の話?

▼その時どう思ったかはあんまり覚えてないのだけれど、編集室では少し阿木さんと話した後に嘉ノ海さんと話したのではないかな?
またその日か別の日か忘れたけど阿木さんがアルバムのタイトルを『NOISE』にしようか『MUSIC』にしようか悩んでいるどっちがいいと思う?と聞いてきたので、僕はすかさず『MUSIC』がいいと答えました。このやり取りは覚えています。

●結果的に、阿木さんからタイトルは『MUSIC』にしたと聞きました。僕も『MUSIC』の方がいいと思いますよ、って感じでした。正解でしたね。当時はNOISEはまだ一般的ではなかったけど、その後WhitehouseなどのNOISEというジャンルが出てきた頃だった。個人的にはNOISEも音楽だと思っていたので、今でもNOISEって言葉は好きじゃない。

●『MUSIC』に参加したミュージシャンの記事は『ロック・マガジン』01号 1981/01 特集 INDUSTRIAL MYSTERY MUSIC=工業神秘主義音楽の誌面で、「この音楽家たち そして電気配線され」として掲載されていた。その中のP80-81に「PLAZMA MUSIC」として紹介されていますね。今読み返しても今の時代を現しているいい文章だと思う。どのような感じで音楽を作り始めたの?

▼78年頃からカセットデッキ2台による多重録音を始めた。『ロック・マガジン』がテープを募集していたのかどうかははっきりした覚えがないけれど、『ロック・マガジン』にはテープを送っていいと思った。他の音楽雑誌には興味がなかったので。
『MUSIC』に収められた「Green Brain」はバンドとは関係がなく、一人で録音したものです。

●そのあたりの話をすると、当時テープは募集する前から既に何本も編集室に送られて来てました。それは既にVanityから何枚かLPがリリースされていることや『ロック・マガジン』というメディアがあったことが大きかったと思います。君の「『ロック・マガジン』にはテープを送っていいと思った」というのは、僕らが求めていた事でした。一生懸命に雑誌を作り「こいこい、『ロック・マガジン』を読んで編集部に!」という思いで発行していた。だから、カセットが送られてくることがとても嬉しかったのを憶えています。
「Green Brainは一人で録音したもの」そうだったんだ。びっくりしました。ということは「PLAZMA MUSIC」ってその後結成したバンドだったのですね。「PLAZMA MUSIC」って名前は何か意味があるの?

▼そんなに深い意味はなくてちょうど読んでいた科学雑誌のようなものにプラズマの説明があって、その状態や音の響きに興味を持ったんだと思います。

●ちなみに、その後の「B.C.Lemons」というバンド名の由来は?結成した時は『MUSIC』リリースの時期とは違うよね。『ロック・マガジン』では田中浩一編集の時代ですね。「PLAZMA MUSIC」の他のメンバーは?どのような構成でしたか? バンドは5人だよね。そのあたりの関係は?

▼一人の多重録音で数曲できたのでそれをライブで演奏しようと考えた。それでその頃『ロック・マガジン』誌上で知り合った山野直子(後の少年ナイフ)とお互いの知り合いを集めてバンドをやり始めた。80年の夏ごろかな。
イイダミツヒロVo、ヤマノナオコBass、ツツイアツシDr、アサノタカユキG、ハヤシユカKey。その後「PLAZMA MUSIC」は81年の夏に解散。ライブは5月と6月に2回、難波のライブハウス「バハマ」でやりました。

●「一人の多重録音で数曲できたのでそれをライブで演奏しようと考えた」、それじゃあバンドだっていう発想が面白い。パンク的じゃないよね(笑)。山野さんは『ロック・マガジン』誌にバンドメンバーを募集していたね。編集部にも遊びに来たので憶えています。数年前ライブハウス「岡山ペパーランド」で偶然会って話をしました。
それで約1年バンドをやってどうでしたか?80年くらいからノイズとか歌のない音楽が主流になってくると思いますが、その後も「B.C.Lemons」とか歌ですよね。なにか理由とか言葉に対するこだわりとかありましたか?その後は?個人的な多重録音の世界に戻るのではなく「B.C.Lemons」を結成するわけですよね。

▼録音した音を流しながら演奏するといった方法も考えたのですが、何か違うなと感じていました。固定された音と今生まれてる音が混じり合う意味をとらえ切れなかった。
テープに固定化するときは時空をコントロールできると感じていたのに逆にライブでは時空がこちらを固定化していく。僕にとってはすごく大きな問題でした。いまだにわからないですが、、
絵画はライブ・ペインティングもあるけれど固定化してるのが常態なのに、音楽はほんの100年ほど前に有史以来はじめて固定化されたのだと思います。
これは配信の時代になってもさほど変わらない問題でしょう。演奏をそのまま録ったものと多重録音されたものは明らかに違うのです。前者はいわば記録です。多重録音は作品感が強いのです。どちらも音楽ですが、
なぜこんな話をしているかというと当時僕は、録音に可能性を持ち込むほどライブ演奏と離れていくという問題に突きあたりました。メンバー全員に僕が録音したこの感じを再現してくれなんておかしな話だと思っていたし、またそれぞれ自由にやってみてと言うと全く違う音場になっていった。。
それでPlazma Musicという5人編成のバンドが難しく感じてきました。

●イイダくんの問題意識は、たぶん音楽を作る上で誰でも抱える課題だと思います。ピアニストのグレン・グールドのように演奏活動をやめてしまって録音に活路を見出したり、逆にデヴィッド・チュードアのようにレコーディングをやめてライブ・エレクトロニクスに移行する音楽家もいました。
ただ、ライブ(演奏と聴衆)という問題はコロナとも関連すると思います。結局この問題は、自己と他者(人でも物でもオブジェクトといってもいい)の関係だと思います。音楽も絵画と同じ芸術作品なんです。ただ「音楽」には形がない、音は鳴る=聞えるけど減衰して最後は消えるので絵画や建築のように形はない。触れることはできない。「音楽」には楽譜はあるけどそれだけでは音がないので、そのものは「音楽作品」とはいえない。でもウイルスと同じで感染する。後は会場(場所)の問題もありますね。Web配信は自己と他者の関係性を変えていくと思います。この問題は是非とも今の時代に考えるべきだと思います。ここはもう少し会話したいなあ。

▼そうですね、またいろいろとお話ししたいですね。

▼バンドを休止して半年ぐらいかな、次は混沌としたものではなく、すっかり上空へ抜けた感じにしたかったのです。以前から好きだった紀元前B.C.という響きと合う言葉や意味を探していてLemonsを合わせました。ロック・バンドという形を変えたくてアコースティック・ギターとドラム・セットなしの打楽器とオルガンぐらいではじめました。

●田中浩一さんの編集時代にはどんな関わりがありましたか?やりとりとか。後で知りましたが、1983年くらいには『ロック・マガジン』にB.C.Lemonsは掲載されていましたよね。

▼時々阿木さんから呼ばれたりしてました。四ツ橋「パームス」の地下での音楽イベントがあって、蘒原君がライブ・ペイントして、「B.C.Lemons」が演奏するような形で、他にもいくつかバンドが出てたのかもしれません。その打ち合わせかな。田中浩一さんとも話をしているはずです。インタビューを受けた記憶もあります。

●カセットテープというメディアに興味があり、関連で聞きたいのですが、当時はカセットで多重録音していたのですね。今でもカセットテープは使ってますか?新しい音楽でもカセットテープのリリースとかありますよね。ヴェイパーウェイブとか興味ありますか。Web上でしかないような新しい音楽のリリース方法の多くがカセットテープなのですよ。CDとかと比べても情報量が少ないし音質もよくないしテープが伸びたり切れたりするし。

▼当時録音するのはカセットテープしかなかった。オープンはテープも機械も結構高額でしたから、この家で録音できるということが画期的なことだったと思います。それまで多くの人にとって音楽は聴くか演奏するだけだった。特に70年代の終わりごろ4トラックのカセット多重録音器が発売されたことが大きな変革だったと思います。当時から1990年代中ごろまではメモ的なものは全部カセットで録音していました。今も時々使用しますが主に再生がメインです。録音はデジタルレコーダーにしています。
カセットテープの音は独特な音だと思います。レコードも実際溝が刻まれています。テープも磁気の動きをそのまま刻んでいるようなものです。その物理的にものが動いている圧力めいたものを人が感じている音だと思うのです。

●4トラックのカセット多重録音器は、確かに画期的でしたね。1979年はウォークマンが生まれた年でした。カセットテープを利用した4トラックのマルチトラック・レコーダーがティアック社から同じ1979年に発売されていますね。当時友人のミュージシャンがオープンリールの8chを持っていて、テープに各パートを録音してました。バスドラ、スネア、ハイハットの音を録音して、セラミックのハサミを使って、そのテープを切り貼りして作ってましたね。演奏できなくても音楽が作れる。ヒスノイズ交じりのアナログの世界で、手作りの音楽でした。電子音楽の世界になると2000年位にはレコードのクラックル・ノイズを意図的に使うようなものが出てました。今は結構使っているミュージシャン多いですね。
そもそもテープは時間が経過しているので、記憶と関係があります。ジョン・ケージが音楽で一番重要な要素は何かと問われ「時間」と答えていました。晩年は時間に関係する作品ばかり作曲してましたね。

▼たぶんTEACの後に発売されたミキサー付きのYAMAHAの物だったと思います。その後ミキサーを購入してTEACの単独デッキ型の4トラックを使用しました。

●当時(1980年81年くらい)聴いていた音楽は?叉影響を受けたアーティストやレーベルは?

▼パンク以降からオルタナティブへの流れは大変興味のある事でした。必然的にそうなるとも思っていましたが、それは同時にロック・ミュージックがムーブメントから離れて個人的な傾向を強くしていくことを意味していたと思います。つまり当時の他の音楽を聞いて「僕もこういうことをしよう」などと考えることはもう違うのではないかと。僕が音楽を作ろうとしていなかったらそれらを聴くことをもっと必要としたかもしれない。
また一方で楽器や録音機材にお金が必要でレコードを買うことができなかったということもあったと思います。以前から持っていたマーク・ボラン、シド・バレット、ベルベット・アンダーグランドのレコードを聞いていました。もちろん当時の音楽も聞いていました。初期のトーキング・ヘッズ、ドルッティ・コラム、トーマス・リア、ロバート・レンタル、など。

●自分で新しい音楽を作り出そうとしていたのですね。先ほどパンクじゃないっていいましたが、なぜパンク以降にオルタナティブって必然と思ったのでしょうか?パンク・ミュージックがニューヨークから始まってイギリスでファッションも含めて洗練され商業的にも成功しました。その動きに触発されてジョイ・ディヴィジョンあたりがポスト(先に行く)として出てきたのではないかと思っています。
1978年ジョン・ライドンが「ロックンロールは死んだ」とメロディ・メイカー誌で発言したことと関連します。その頃から独立レーベルの百花繚乱の世界になるわけですね。だから、よくある(影響を受けたアーティストは?)って質問したけど、誰かの音楽に触発されてコピーしてって時代は過去のものになったってことだよね。トーキング・ヘッズやドルッティ・コラムとか、どんなところに惹かれましたか?
余談ですが、ヴィニ・ライリーがおじいさんになっていてびっくりしました。でもそれはそれでかっこいい。

▼パンクは、当時面白くない方向に膠着していったロック・ミュージックを60年代中頃までゆりもどして、リセットするような働きがあったのだと思います。もともとはロック・ミュージックは多様性を含んだ器を持っていたのだからそこからまたいろんなことができるようになったのだと。だからパンク以降の展開はごく自然にそうなるのだろうなと思っていました。
トーキング・ヘッズは『Fear Of Music』ぐらいまでかなデヴィッド・バーンの神経症的なのに元気な音とか好きでした。ドルッティ・コラムはその時の僕の心情に合ってたかな。お気に入りのバンドそれぞれがそれぞれの形を、しかも必然的な形を持っていたのです。ほんとうにエキサイティングなことでした。ロックミュージックの最後の夏の時代であったように思います。特にこれだけをというように当時の音楽を聴いていたのではなくて、聴ける範囲で聴いていました。でも本当によく聞いていたのは前にも言いましたがマーク・ボランやシド・バレットの音楽です。そこにはパンクやオルタナティブの根っこの部分、始まりの光があると感じていました。

●今現在関心があるアーティストは?

▼今のことは本当によくわからないのです。ただ現在の他者の作品に興味がなく拒否しているわけではありません。

●常に新しい音楽を聴いている(追いかけている)わけではありませんが、昨年からマーク・フィッシャーの音楽評論集「わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来」(eleking-books)を読んでいて、そこに出てくるthe care taker、burial、Bliss signalなどを聴いています。それ以外にも、晩年の阿木さんのやってた0g(environment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ] )で活動している若い世代(といっても30代から40代くらい)のミュージシャンから教えてもらったりしてます。電子音楽系が多いのでポップな音楽はありませんが。機会があれば彼らにイイダくんを紹介したいと思ってます。いづれにしても、音楽なんでまずは聴いてみるのとそこから気配を感じ取ることからかな。時代精神と密接に関係しているので『ロック・マガジン』的に読み解きたいと思っています。

●質問の関連ですが、2020年の音楽をどのように読み取っていますか?(ヴェイパーウェイブなどの動きも含めて)

▼なので2020年の音楽と問われても考えたこともないことなので答えることもできません。2019年の音楽についても同じです。ヴェイパーウェイブもよく知りません。今は個人的に自分自身とまたほんの幾人かの人だけが僕の音楽を聴くだけです。

●現在の後期資本主義的社会をどのように感じていますか? 特に人と社会との関係性において。またNet社会や次世代5Gなどの環境にどのように対峙しようとしていますか?

▼現在が後期資本主義的社会なのかどうかはわかりませんが、まだまだ経済的な偏りは大きくなっていくと思います。結果としてこうなったのではなく、もともとこれを作り出すための仕組みであったように思います。富む者と無自覚に消費する者、火星へは富む者だけが行くのでしょうか?

●同感です途中までは。1980年以降から「欲望」の作り出すグローバルという複雑な世界は既に現出していたと思います。ジョイ・ディヴィジョンが音楽で提示していたと思いませんか?「富む者と無自覚に消費する者、火星へは富む者だけが行くのでしょうか?」という表現はどても気に入りました。その顕著な結果が富や生活レベルの格差だと思います。このリアリズム(現実世界)に対峙するにはカルマを伴った個が感じるリアリティ(実在感)しかない。イギリスのニック・ランドは、この世界は加速し最後には自壊するといってます。近未来のSF小説(例えばP・K・ディックやオーウェルの『1984』)のディストピア的イメージかも知れません。

●今後の活動のプランは?

▼表立った活動はほとんどしてません。自分とほんの幾人かが聞くために作り続けてはいましたが。ネット上で聴ける音楽という形がどういう意味を持つのかあまり理解できなかったのです。最近僕の断片的な音楽を気に入ってくれる人がネット上にあげたいという話があるので実際に体験してもいいかなと思っています。

●いいと思います。今のイイダミツヒロという身体を通して化学反応を起こした音を出せばいいよ。
これからの音楽芸術はどのようになっていること思いますか?またあなたにとって音楽とは?

▼音楽だけではなく19世紀後半からのモダンアートの興奮するような試みは、一通り終わったのではないかと思っています。また新たな領域が暗示的に提示され先端の人々がそれに切り込んでいくようなそのような時が来ればいいな、、それは僕の夢かな、、

●そうですね、オリジナルなものは出尽くしていると思います。だからファインアートもなくなるかも知れないですね。概念しか残らないかも。身の丈にあった、一番身近にある概念的な世界になるような気がしてます。だからやっぱり音楽は面白い!!

●最後の質問です。ウイリアム・バローズは「言語は宇宙からのウイルスだ」といったわけですが、そもそも音楽はウイルスだと思っています。音楽は形がなく伝染しますし、感染した人の意識を変容させますし、人生を変える力を持っています。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対してどのような感想を持っていますか?

▼そうですね。人類は過去何度か疫病やウイルスのパンデミックを受けてきていますね。その大きな波の中で社会の変容もあったわけですが、
僕はそれによって人類自体が大きく変容することはないのではないかと思います。今回も社会制度や風習、経済の状況は変わるでしょう。
ただ収まるときが来ればまた何事もなかったかのように戻ってしまうのではないか。人類全体とはそういうものだと思うのです。
変容はごく限られた人々の内に起き、それらを必要とする者、理解するものの中に伝播します。
人類全体はそれをいつ受け取ったかもわからないような形で知るということだと思います。
人類全体は無自覚なので逆に言うとタフです。
ペストの時にヨーロッパの人口が半世紀で半分になったと聞きます。しかし現在の人口は77億です。
もし何かのパンデミックで半数が死んでもまだまだ種としての数は十分ではないか?
むしろ暮らしやすくなる可能性さえあるのではと考えると少し怖い気もします。話がずれてしまいましたか?
言語や音楽はいわば情報です。おっしゃるとおり伝播し相手を変容させます。しかしそれは本当に必要とする者にだけだと思います。
現代の人類はとりあえずモダンアートを知っているのです。19世紀の人類が理解しえないことを。
しかしそれらを生み出した人、また本当にそれらを必要とした人々に起こった変容とは種類が違うのだと思います。

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イイダミツヒロとは音楽以外の会話も行ったので、その中からやりとりをいくつか掲載します。

《映画の話》

●アンドレイ・タルコフスキーの映画『ストーカー』見たことありますか?「ゾーン」(何かが起こった地域)の案内人である主人公のストーカーと同じ仕事をしているヤマアラシの話が出てきます。「ゾーン」では自分の想念が現実化する場所です。ヤマアラシは「ゾーン」の中で愛する死んだ自分の兄をよみがえらせて欲しいと願います。そして現実社会へ帰ってきたときにヤマアラシは大金持ちになってしまったという。つまり霊的な働きは単純に物質化するだけではないのです。

▼90年ごろかな、夜中にテレビでタルコフスキーの特集をやっていて全部録画したのですが、なぜか最後まで見ることができず。僕はタルコフスキーのいい鑑賞者とは言えませんね。またトライしてみます。ちなみに僕はブニュエルや川島、溝口あたりを何度も見てしまいます。

●ルイス・ブニュエル、溝口健二、川島雄三か、川島以外は見てますね。溝口については、『雨月物語』などの着物などの時代考証をした日本画家の甲斐庄楠音のことを書いておきますね。あまり紹介されませんが、甲斐庄の絵の情念性はなかなかすごいです。日本画ってほとんど関心がないのですが別格に好きです。

▼甲斐庄楠音どこかで見た名前だと思っていましたら、「ある映画監督の生涯」の本の中で見た名前でした。元禄忠臣蔵から時代考証でかかわったと。画像などネットで見てましたら甲斐庄氏は楠木正成末裔を自称した一族との情報もありました。楠音はその文字をとったのでしょうね。
関係ないのですが、僕の家の近くに真言密教系の寺がありまして、その本尊が千手観音菩薩で矢受観音とも身代わり観音とも呼ばれているのです。その観音に伝説があるのです。楠木正成が尊氏の軍との戦いの前にこの寺で祈願し戦いでは多くの矢を受けたが不思議に無傷、戦いののち訪れるとその観音が矢を受け血を流していたと。

●千手観音菩薩の話は、ルルドの泉を思い出しました。個人的には、幼児洗礼ですがバプテスマを受けている関係もあり、こどもの頃カソリック教会に行ってたのでマリアの方が親近感あります。ちなみにロック・ミュージックってマリア信仰だと思っています。

▼中学がカトリックの学校だったのです。それまでキリスト教とは縁もゆかりもない生活だったので、大変興味深くその異教感を体験してました。各教室の黒板の上には血を流しぐったりしている男が十字架にかかっていました。隣接する教会に週に一回は集まりがあり、パイプオルガンで賛美歌を歌ったり、授業にも聖書の時間がありました。

●いい体験をしましたね。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの世界にはそんな感覚をどのように持ちうるかということと絡めて感じました。 きょうレコードのHPの文章「『ロック・マガジン』とVanity Recordsと音楽的背景と当時のことなど 後半」の「工業神秘主義音楽」特集の箇所に20C初頭ドイツのゲオルク・ハイムという表現主義時代の忘れ去られた詩人の詩を全文載せました。原本は「モナ・リーザ泥棒」(河出書房新社)という絶版になっている短編集の最後の一文です。阿木さんに紹介したらすごく気に入って詩の中から部分的にローマ字で表紙に刻印しました。
改めて、「ぼくらの病気は、世界の日の終末に、その腐臭に耐えられぬほどに息苦しい夕ぐれに生きていることである。」という箇所が僕らの内なるコロナと共感されます。本当に恐ろしいのは外なるコロナではないことを改めて感じます。

【砂の星2010】

●作品を送ってくれてありがとう。(やり取りの過程でイイダミツヒロが2010年に作った作品を送ってくれた)

▼添付した音楽はテープエコー2台とシンセサイザーで作ったものです。こういった音の断片がたくさんあります。

●まとめて発表すればいいと思う。機会があれば聴かせてください。「砂の星2010」の感想(心象)を記載します。ゲオルク・フィリップ・フリードリヒ・フォン・ハルデンベルク=ノヴァーリスを思い出しました。憐れみの記憶、音はエーテル体となって木々の間を通り抜けます。地球を通り抜ける際に木の枝にゆがみの痕跡を付けていきます。同じ箇所を繰り返すことにより「けものみち」のような痕を残すのです。エーテル体はいつも黄泉のくにからやってくるものです。2010年の曲でしょうか。もっともっと長いといいと思いました。

▼僕の曲の感想もありがとうございます。ノヴァーリスは僕にとって大事な作家です。曲を聞いて彼を思いだしたと聞いてとても不思議な気持ちです。それを感じさせるような部分があの短い断片にはたしてあったのかな?と。何か表現された音にはその人の情報子のようなものが組み込まれているのかもしれません。
実は「砂の星2010」はもっと長い作品です。あれはカットされた部分になります。

●直接のコメントになってないですが、音源を出すということについてはいつもJ・S・バッハのことを思います。バッハの「音楽の捧げ物」って聴いたことありますか。自己表現でもなく、誰かに伝えるものでも聴かせるものでもなく、神的なるものに「捧げる」音楽です。というのは勝手な解釈でフーガの技法です。ちなみにアントン・ヴェーベルン編曲のものがいいですよ。でも近代においては作曲は個人の作品ということで発展してきた経緯があります。やはりレコードとかCDの方がYOUTUBEより好きですが。

▼また聞いてみます。バッハは平均律やマタイなど聞きます。けっこう偏った聴き方をしてると思います。平均律はグールドのやつをテープに録って逆回転で聴いたりします。。。もちろん普通にも聞きます。

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▼インタビューを終わって

ロック・ミュージックはとっくに終わってしまったのだとしても、真に感覚的な音楽というものはまだ目覚めぬ脳や感性の中に見え隠れしている。
インタビューの中でも少し触れていますが、単純に歌える音楽と空間や時間を意識的に組み立てていく音楽というものはかたち上は相反するものだけど、砂の惑星のような音場の中で単純な旋律を歌ってみたいという思いがあります。どのような形で発信していくかはあまり見えていませんが少しそういう試みもしてみようと思います。たくさんのメールをまとめていただいてありがとうございました。また会った時にとりとめもなくお話ししましょう。

●インタビューを終わって
イイダ君と呼ばせてもらっている。彼とは1980年に1回か2回くらいしか会っていないし何を話したかも憶えていない。このインタビューでのやり取りの中で40年ぶりに再会した「意味」をずっと考えていた。
音楽が隣り合う音と音との関係性の中で出来ているとすれば、イイダミツヒロの音楽は聴こえないはずの「声」が聞こえてくるのではないか。音楽の中に時代を読み取るとは、その個人(エゴイズム)にどれだけ関係性を感じ経由した中に一回性である幽かなアウラを見ることが出来るのではないだろうか。そして彼が会話の最後に送ってくれた「砂の惑星2010」を聴きながらこんな事を考えていた。いつかそんな「意味」をもって全曲ヴァージョンを聴いてみたい。
最後になりましたが、誠実に答えてくれたイイダミツヒロに感謝します。新型コロナウイルスが落ち着いた頃にまた会おうね。

VANITY INTERVIEW
③ ANODE CATHODE(Part 2)

VANITY INTERVIEW ③ ANODE CATHODE(Part 2)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


『「同時代精神」ある時代霊の働き』

金野さんとは、このVanityインタビューが初対面なので、自己紹介のつもりで雑誌『スペクテイター』44号に掲載された拙文を送らせて頂いた。その後思いがけなく「対話への参考になれば」と詳細な感想文が届いた。
対話の中で強く感じたのは、別の場所(関西と東北)だが同じ時代を生きた人間として考えていたことや今に至るまで興味を持ち続けている事柄について、多くの共通点を持っていたことだった。
場所性は時代性と共に精神に大きく作用する。それを踏まえて途中からテーマを絞らずに自由に会話しようという暗黙の了解を経て会話は続けられた。Vanity当時の雰囲気なども感じて頂けると幸いである。
しばらくお付き合い願いたい。
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◆金野吉晃
●嘉ノ海幹彦

《新型コロナ・ウイルス=パンデミックの世界》

◆情況は悪化してきましたが、問題はこの事態が収束した後だと思っています。
やるべき事は多々あるのですが、多すぎて手につかないので、面白そうな事から始めるという方針です。
というわけで、嘉ノ海さんの文章を読みつつ反応して行きたいと。

●新型コロナ・ウイルス=パンデミックは、内なるコロナを変容させているような気がします。アントナン・アルトーも内なるペストとかいっているのを読んだことがあります。
本当はずっと以前からウイルスに感染していてそれが外なるコロナとして顕在化したのではとも思います。

◆理解していませんがわかります。カミュの『ペスト』が売れていますが、私はチェルノブイリや福島の被災後の放射性物質汚染のことを思い出します。また幾つかの映画も。

●考えてみれば文化的な感染は、時代の恩寵としての音楽が媒体となったり思考や感情を共有をしたりしてウイルスのように伝播するものでしょう。つまり三密(密閉、密集、密接)だということです。それを避けなければならないとなると孤立することと思考することしかないと考えます。しかしそれは内なるウイルスだともいえるのではないかとも思うのです。

◆三密を避けろというのは要するに直接的コンタクトを、その当事者の意志や感情において自発的に止めさせるという、実にうまい方便な訳です。これは以前書いたのですが、温暖化は停止できない事なのにそれを炭酸ガス排出量規制としてエコロジーという、誰もが反対できない倫理=イデオロギーとして植え付け、これに反する言動を社会正義の名において潰す。一方排出ガスの売買というこれまた巧い手段で、発展途上国の疎外と先進国のエネルギー使用をそのままにしようということ。恐れ入ります。世の中には頭のいい人達が居る。そしてそれを実行できる。
経済と暴力の絡み合い。『ルガノ秘密報告書』というセミフィクションがあり、だいぶ前の本ですが、国連で情報分析していた女性の著作、恐ろしい内容でした。

《同時代のことなど》

●今回話をすることになり調べたのですが、金野さんとは『G-modern』や『同時代音楽』を通して出会っていたのですね。なんということでしょう。40年以上前に。坂口卓也さんのhttps://onyak.at.webry.info/の過去の記事で「第五列」のことを見つけました。

◆私は自分の記事が掲載された雑誌等もまめには見ていない事があります。時間が経ってから見直します。雑誌を一過性のものにしたくない気持ちもあり、『JAM』, 『HEAVEN』などもとってあります。しかし造本が弱くてばらばらになりつつあり。

●そうですね。保有している『ロック・マガジン』も表紙が取れているものもあります。朝日出版社の『リゾーム』なんかは本当にばらばらになり書き込みも含め、もうリゾーム状態です(笑)。
『スペクテイター』44号の感想を書いて頂きましたが、『ロック・マガジン』のことを椹木野衣が「ロックと知的なモードをファッショナブルに繋つなぎ、時代精神を読み取ろうとし、ニュー・アカデミズムを先取り」との評価に触れています。

◆椹木野衣の著書に納得したくだりを前回のメールにも記しましたが、彼が『ロック・マガジン』の愛読者だったのは知りませんでした。
私もニューアカにはかぶれた方で、『遊』、『エピステーメー』、『現代思想』、『ユリイカ』、『美術手帖』などを興味と財布に相談しつつ買いあさっておりました。関連するテーマの単行本は、大学の研究費をあてて購入、未だに未読のが多々あります。最近はそっち系統よりもより古い思想、文化に興味がありますが、やはり若い頃に「難解」な領域に挑戦しておいたのは良かったなと。
というのは中学時代からソフト・マシーン、マザーズなど聴いて「背伸び」していた方ですから、思春期の終わりに思想などで、また背伸び期はあったと思います。
松岡正剛が阿木氏と同い年だったというのも意外でした。『遊』に関心をもっていた私はしかし、すぐ杉浦康平のほうに惹かれて行きました。当時いろんなデザインをしたのですが、フライヤー、カセット・インデックス、イラスト、同人誌レイアウトなど、今見ても完全に杉浦イズムです。私もまた「言葉型の人間じゃない」のかもしれません。

●椹木さんは会った事はないのですが、追悼文を『新潮』2019年2月号に載せていましたね。2014年には阿木さんを引っ張りだして、阿木さんには東京都現代美術館でブリコラージュや話をしたりしてもらっています。阿木さんのデザインは大胆で既存のやり方を無視した独特な手法ををとっていたので美術方面から関心をもたれていたと思います。またなぜ椹木さんを引用したかというと編集者から「嘉ノ海さんの文章では難しすぎて一般読者が読みにくい」といわれたからです(笑)。それでこの様な引用をしました。しかし『ロック・マガジン』のことをうまく表現していると思います。また確かに書いたものを読んで頂かないと話にならないですからね。

◆物を書いて食って行くという事は、そこに肝があるようです。私も近年、皆さんに読んで頂けるように書く事を意識していますが。
まあこれは現代美術であれ、前衛音楽であれ、この背景はとか鑑賞方法を示唆すると、皆さんが入って来てくれると感じるわけです。考えていた事を批評で書くより小説にした方がいいと思った次第です。

●私のポストモダンの出会いはドゥルーズ/ガタリの『リゾーム』と『カフカ論』ですね。それまでの実存主義的読み解きから解放してくれたような気がしました。化学反応としてのカフカとか、側根とかモールとかの捉え方にリアリティを感じました。

◆カフカは高校時代、ザッパが『流刑地にて』を読む事を推薦していたことから読み始めました。もともと解決の無い、テレビの「ミステリー・ゾーン」的なSFや奇譚が好きでしたのではまりました。
当時、サンリオSF文庫で山野浩一がどんどん新しいSFを翻訳していましたが、私にはSFもニューウェーブが合っていました。
サルトルなどが性に合わず心理学に傾いていましたが、ラトモルフィズムや数量化した心理学実験がつまらなくて、狂気、精神異常などについて読むようになり、精神分析に接近して行った感じですね。

●初期工作舎『遊』の杉浦康平や先日亡くなられた戸田ツトムの装丁がかっこよかったです。そういえば阿木さんの工作舎から1980年に出版された『ロック・エンド』も戸田さんの装丁でしたね。
阿木本人はいってませんでしたが、この時期から『ロック・マガジン』のデザインが大きく変わっていきました。影響は少なからずあったと思います。しかし『ロック・マガジン』では最新のレコードから音楽感覚と同時にジャケットからのインスピレーションを得てレイアウトに反映し、判型やサイズも変わり、紙質や印刷方法にも細かく指定するようになりました。コピー機を導入し、雑誌の切り抜きのみならずコピーのコピーとかも利用しています。しかも特集毎に紙見本や色見本から選択して表現されています。阿木さんが「人が嫉妬するような本を作りたい」と常々言ってたのを思い出しました。時代そのものを様々な表象から寄せ集め雑誌として融合させるような編集をしていたと思います。本にはオブジェ感覚もありましたね。
話を戻しますと、当時『エピステーメー』とか『GSたのしい知識』は購入してました。また内容も音楽の記事が多かったですね。『エピステーメー叢書』でも音楽関係のものが多くありました。ケージとか近藤譲とかユングのUFOの本とかありましたね。今見ても面白いと思います。

◆近藤譲とか、細川周平なんかでしょう。読みやすかったです。

●近藤さんの『線の音楽』、『音楽の種子』もいいですが、ジョン・ケージの『音楽の零度』の翻訳がすごくよかったです。

◆私は全くファッションというものが分からない質でして、ようするにヒトは他から多様に見えているので、それを敢えて誘導する必要は無いという考え、それは今も堅持しています。
自分に自信が無いというより、その裏返しのようです。しかもそれを見せたく無いというひねくれ。

●ファッションは時代だったと思います。阿木さんは死ぬまでずっとおしゃれでしたが、私は今も服はあまり持ってません。パンク以降表象=POPにリアリティを感じていました。だから雑誌『fashion』は『流行通信』よりかっこよく作りたいと思ってました。

◆まあウォーホルあたりのポップアートが既にファインアートであり、後のクーンズとかシミュレーショニズム関連の言説となればまた椹木さんですか。岩井克人は結構読みました。読み返したい人です。

《阿木譲について》

◆『ロック・エンド』は読んだ覚えはあるのですが、内容に記憶はありません。あまり印象に残らなかったようです。

●『ロック・エンド』は対談集ですし、これといった発言もしていないと思います。ただ阿木譲とはどのような道を歩んできたかを記述している「end to end」はとてもいい文章です。阿木さんが松岡正剛と出会って少したったころだったので、工作舎と一緒に仕事をするということだったのかも知れません。ただ『ロック・エンド』の編集を手伝う過程で阿木さんの精神の遍歴を知ることが出来ました。

◆阿木氏の流行歌手時代、フォーク時代の歌も誰かに聴かせてもらいましたが、これも印象に残っていません。

●阿木さんと編集の仕事をしていた時には一回も聞いたことがありませんでしたが、昨年ある機会があって東芝専属歌手の時代の歌を聴きました。やっぱり歌うまいと思いました(笑)。

◆ヒッピー・コミュナリズム、ドラッグ・カルチャーに関しては私よりも友人達の関わりが強かったのですが、其の影響は確実に受けています。
一言でいうのは難しいですが、現在も尚、この領域に関しては考え方を変更しつつあります。この問題だけでかなりのことを語れるように思います。

●そうですね。音楽は体験芸術だともいえるけど、実際体験により変化しますし、聴覚とかは純正調の響きを聞き続けると開きますしね。

◆この最後の意味がわからなかったんですけど。

●阿木さんはトランスを聴かなかったのです。クラブ・カルチャーまでいって、ウイリアム・バローズや『E』とかで変成意識も扱っていたのを思い出します。でもレイヴとかトライバルとかトラベラーとかには関心がなかった。

◆私もあまりよくわからないです。

●ここに阿木さんのコミューン体験が絡んでいるのではと思っています。特にヒッピー・コミューンについてユーロ・プログレとの出会いも含めて内的体験とかあったのではないかと思ってます。またドラッグ・カルチャーについてもMDMAとかシロシビンとかと阿木さんの頃にはなかったのではないのかと。どこかで発言しているかも知れないですが、阿木さんとドラッグカルチャーについてはちゃんと話した記憶はないです。話しとけばよかったと思っています。

《サイケデリック・カルチャー》

◆最初からドラッグになじまないタイプの人もありますけどね。私も割にそうです。酒ですね。タバコは喉が弱いので十年ほどまえから殆ど吸ってません。周囲が吸っても気にはならない。吸い込むタイプのものはむせてしまうのでダメですね。服用するのも体質が合わないようです。射つのは経験していません。
カウンター・カルチャー、サイケデリック・ムーブメントと向精神薬、植物の問題は興味ある領域です。
若い頃、呪術師シリーズに結構はまり、カスタネダらのエスノメソドロジー、ガーフィンケルらのフィールド主義には興味あるのですが、結局観察主体がインフォーマントに与える影響の問題は回避できないでしょうし、それはブラッキング「人間の音楽性」のなかで、長期間ある部族の中に住み込んでもいざ祭礼というときには排除される研究者とか、そうであれば小泉文夫さんも土取利之さんも同じかなどと思ったりもします。
部外者には決して見えないものがあると同時に、交叉イトコ婚の理由などのように部内者には見えないものもある訳で、では自分はどのようなスタンスをとるかが問われます。
そしてここからユーロ・プログレやジャーマン・ロックにはあと一歩なのですが、アメリカのヒッピイズムとこれらの音楽の土壌は決してイコールではないと思います。それは特集されたニューヨーク・アンダーグラウンド・シーンとも違います。ここではアメリカのパンク、ニューウェイヴの性格を追求する必要があります。それらは英国の潮流とも違うし、イーノはまた独自のスタンスをとったと思えるのです。
イーノのロキシー参加以前の動向が分かるにつれ、かれがロック・シーンというステージでやりたかったことが見えてくる。そして彼がオブスキュアを設立した事も。

●アメリカとヨーロッパは音楽のみならず根本的に違うと思います。アメリカは新大陸なのですね。ケージはともかくケージの好きなヘンリー・デイヴィッド・ソローなんかもエマーソンの影響があるので広義のプロテスタンティズムというか月に人を送り込んだ国だし、大きな違いがあると思います。

◆最近になって読んでこれは良い本だと思えたのが『イデオロギーとしての英会話』(ダグラス・スミス、76年)ですが、これは表題の論よりも、アメリカ社会の性格について気がつかなかったような指摘がありました。つまりアメリカ合衆国を初期に形成し、憲法を起草し、また西進してネイティヴをほぼ根絶やしにしたような人々の基本的な精神構造があり、これは欧州の文化基盤と全く違う。しかし、また、第二次大戦後の米国民は均質とは言いがたい訳で、それは階層化進行と関係しますね。そこにビートニクスやヒッピーの存在意義が出てくる。

●もちろん、パンクはジャック・ケルアックからパティ・スミス、トーキングヘッズへ系譜であり、ニューヨークからヨーロッパに渡ったパンクとは違いますね。(すいません、乱暴にはっしょってます)。

◆個人的には、パンクは英国の階級社会が生んだ反動的回帰主義だと思っています。なにしろプログレが注目されていた時代ですから。
アメリカでは一見階級社会ではないが、労働者層(あるいは失業者層)ではなく、戦後の美術、文学などを信奉する層からのオルタナティヴがパンクに走ったと考えています。逆にアメリカには、大雑把に言えばプログレがない。あるとしたら田舎のオタクによるマニアックなプログレです。

●逆にクラフトワークがデトロイトでアンダーグラウンド・レジスタンスに影響を与え、アシュラ・テンぺルがR&Sとかへのダンスミュージックに影響を与えたのは、民族とかではないかとも考えてしまいます。

◆なるほど、クラフトヴェルクとアシュラ・テンペルは対照的ですね。前者がテクノの直系元祖であり、後者はゲッチングのソロという回り道を通ってハウスへと引き継がれた。この中間にシュルツェとかフレーゼも存在している。まあ個人的にはシュルツェは『ミラージュ』の頃にはもう関心を失い、フレーゼは『エプシロン…』、T・ドリームも『フェードラ』までが好きなんですけど。

●「イーノのロキシー参加以前の動向が分かるにつれ、かれがロックシーンというステージでやりたかったことが見えてくる。」ここはよく知らないので教えていただきたいです、
ただマイケル・ナイマンの『実験音楽 ケージとその後』が1974年に出版されているので間違いなくイーノは読んでますね。オブスキュアはこれがきっかけになっているのかと思っていました。

◆イーノは中間層の出身ですが、よくある経歴でアートスクールから音楽を志向したというのはT・ヘッズ的でもありますね。両者が繋がったのもわかる。イーノは実験的なバンド(SMTとMDの二つあるようですがそれを聞いていないのが悔しい)を経て実験音楽のセミナーを開始、そこでスクラッチ・オーケストラに参加したようです。ですからポーツマス・シンフォニアにも彼の名前がある。しかしC・カーデュー流のイデオロギーは、彼に取ってはむしろポップミュージックへアイデアを転化すべきと映ったのでしょう。ちなみにカーデュー、AMM、スクラッチ・オーケストラなどは私の強い関心領域です。
欧州、とくに西ドイツ固有の音響科学的性格が、我々日本人には共鳴しやすかったかもしれません。
松本清張『砂の器』はお読みになりましたか。映画化の際には映像化不能だったようで略されますが、音響に依る殺人や堕胎などを、欧州留学した天才的音楽家がやってしまうというのが基本で、そのモデルはおそらく黛敏郎でしょう。ケルン流の電子音楽を持ち込んだのは彼ですし。残念ながら彼の弟子達からラルフもフローリアンも出て来なかった。

●そうだと思います。DAFなんかの2拍子はドラムとリズム・マシーンの微妙な誤差(差異)がつんのめるかっこよさがありますね。
同じように、コンラッド・シュニッツラーが編纂したオムニバスLPに日本の詔が入っていて加藤郁乎さんに聞いていただいたことがありました。ドイツ語とかの発音やユーモアの部分で共感できたのかもしれないです。

◆わかりますね。私はドイツ語の響きが大好きで、ヒトラーはじめナチ高官達の演説もときどき聞きますし、ユーチューブでしか見れないですけど『宇宙パトロール・オリオン』というドイツ版スタートレックも見ています。ドイツ語はあまり聞き取れないし字幕もないですが、まあ話はわかります。議論ばかりしていてさっぱり話が進まないのがかえっておかしいし、その発音を聞いて楽しみます。
DAFはいいです。あとバッハ・コレギウムヤパンのマタイとか聞いているとドイツ人以上に昔風の発音をするのでいいと思います。みんな朝はみそ汁と納豆と梅干しだったろうにと。
以前はライバッハも好きでしたが最近はだめですね。北朝鮮にいってからだめだ。やはり本物には負ける。

◆嘉ノ海さんの民族音楽、現代音楽、万博での音楽体験は全く重なる所があり、まあ知人達も結構NHKラジオは聞いていたという連中がおりますので、意識的に何か聞こうと言う若者は自然に聴くもの、読むものが重なってくるのは当然でしょう。とくにいまほど情報が氾濫していませんのでね。其の意味ではある種の同族意識があります。また間章との出会いも笑える程に近いですね。まあそういう人は多々ありましょう。

《『ロック・マガジン』について》

●『ロック・マガジン』の編集室で高校生だった美川俊治君が「学校では僕が好きな音楽は誰も聴いていない」と言ってましたが「当然だよ!」って会話した記憶があります。私は金野さんが関心がある音楽について非常に近いと思いますし、嬉しいです。

◆私は幸い、周囲に物好きが何人かいて、ジャズ、ジャズロック、ロックなどは色々聞かせてもらいました。現代音楽や民族音楽は皆無です。
私が欠かさず買っていたのは『JAZZ』(後に『ジャズ・マガジン』と改称)で、間と竹田賢一さんの文章を愛読していました。間さんにも、竹田さんとも知己となりえたのは僥倖でした。竹田さんとはさらにお付き合いが深まり、共演してCDにしたり、スケルトン・クルーの公演を盛岡で開催したり、雑誌『同時代音楽』での頁ももらいました。

●金野さんは音楽を演奏されるし、オーガナイズもされているので様々な関係が深くなりますよね。間章とも話をしたかったです。

◆間さんがらみの企画はしなかったです。東京以外では仙台でのみ。
サックス奏者山内桂さんなどは間さんの企画を受けていたようです。山内さんも一時は毎年盛岡まできていましたが。

●竹田さんは『ロック・マガジン』時代に何回か話したことがあります。79年に京大西部講堂の楽屋で向井千恵さんに紹介してもらって「最近キャバレー・ヴォルテールっていうバンドがイギリスからでました。」という話をしたら、興味津々という感じでしばらく話し込んだのを憶えています。
『JAZZ』は持ってませんが、『同時代音楽』は数冊あります。私はJAZZってほぼ経験していないんです。ただ京都のジャズ喫茶(死語!)SABOとかは行ってたので聴いてはいるのですが、JAZZジャズファンがいやでした。みなさん難しそうな顔をして音楽聴いているし。。。。
でも西部講堂でハン・ベニンクとペーター・ブロッツマン(かっこよかった!)や向井さんの関係で吉沢元治さんは見てます。

◆私もジャズ喫茶は遠慮していました。しかし盛岡に一軒だけICP, FMPを入れてる店があって、聞きたいからリクエストするんですが、あまり良い顔されず、5枚あとになるけどいいかなんて聞かれて、粘りました。いま、ジャズ喫茶よりもジャズバーが何軒かあり、ライブをやらせてもらったり、バカ話をしたり、結構飲ませてもらえるのでよく行きます。目的は今まで真面目に聞いて来なかったモダンジャズ名盤を聞かせてもらう事ですね。この数年、ほんとにクラシック、ジャズの名作と言われるものを聞きなおすことに力を入れています。その中でかなり発見がありますから。私はザッパ・ファンでしたが、ストラヴィンスキーを聞き込むにつれ、いかにザッパが影響を受け、しかも及ばないかを分かるようになりました。
西部講堂でも演奏は2、3回していますし、京大の尚賢館という小講堂での演奏も録音にあります。

◆『ロック・マガジン』MUSICA VIVAは誰かに貸してもらった記憶が甦りました。当時は「随分また背伸びした企画、特集だな」と感じたのを思い出します。パンク、ニューウェーブ、オルタナティヴをいくら聴いていても、いきなり二十世紀初頭の、しかも西欧の一部の突出した作曲家連中のことを、自分達の問題意識に引きつけて解釈しようとする耳がどれほどあるかと。
しかし考えてみれば新ウィーン楽派だって、当時のどマイナーな世界です。シュルレアリスム、ダダ、未来派、ロシア構成主義、みなマイナーです。その見地からすれば先達への共感を現したいという『ロック・マガジン』の気持ちは今、わかります。どれくらいの数が聴くか、いるかではなく、編集者として何を表現したいかのほうが重要でしょう。それが時代の要求に媚ない姿勢ですし、新しい芸術の到来は、需要ではなく供給に依るのです。

《「音楽」とは一体何なのか?》

●西洋音楽は広義の「音楽」という範囲でいえば亜種ですよね。いびつですけど。音楽は常に変質しますし、絵画などと違い形がありませんし、そもそも作品かどうか。

◆これは大事だと思うのですが、音楽という概念こそは西欧の発明であり、いわゆるリベラルアーツのひとつだった。この音楽は儀礼や宗教や祝詞などから離れた、音の構成理論すなわち楽理として記述されて来た。当初のグレゴリオ聖歌という宗教音楽から次第に音響構成だけが抽出されるに至ったといえますね。他の文化圏ではなかなか分離しなかった問題です。西欧音楽の特徴は、作曲(記譜)の優位(から後には先行)、そして調律の既定と調性移行の自由度、鍵盤楽器の発達があると思いますが、これらは宗教や儀礼から分離していく過程で発達したと思います。そして遂に音楽が商品として売買流通していく。これもまた他のジャンルの芸術と比較して行くと、市民社会の成立や産業構造の変化と軌を一にすると思うのです。そして大衆音楽に関しては20世紀までとその後半ではかなり違った様相がある。それは移民社会の問題と、マスメディアの発達にあると考えます。

●ちなみにヤンハインツ・ヤーンの『アフリカの魂を求めて』を読まれましたか。アフリカでは音楽は哲学であり医学であり思想であり、他の国へ伝播されて様式が変わってもその本質は変わらない、というようなことが書かれている本です。西洋における音楽が芸術作品だなんて、しかも西洋近代において。やっぱりここでも近代=モダニズムの問題があると思います。

◆私は上述のように図式化していますが、アフリカのグリオなどは歴史の記録(記憶)者でもあり、物語伝承者でもあり、ときに政治家・外交官であったりもする。また音楽の役割が広く、言葉で論じる事は出来なくても歌で公表するのは構わないなど、分離されていないだけに却って多機能な音楽があるようです。川田順造の著書で面白く書かれていました。

●「MUSICA VIVA」は音楽作品を通してその時代を生きた精神が受け継がれている様子をまとめたいという想いだけで編集しました。1945年戦後敗戦国ドイツの音楽復興運動がMUSICA VIVAです。共感してくれた阿木さんには本当に感謝しています。

◆阿木氏がロックを呪い続けたというのは間章のジャズに対する態度と似ているように思えます。

●考えたことなかったですが、なるほど。『ロック・マガジン』で連載していた「アナーキズム遊星群」の最後がルー・リード論だったでしょう。間さんはルー・リードのことをこれは断じてロックじゃないって言ってました。阿木さんはロック・ミュージックの本質は文学だと思っていたのではないでしょうか。晩年まで阿木さんはドゥルーズなど読んでいたようです。つまり音楽は文学ではなく記号化の過程で作られるものと考えていたのではないか。だから記号(ソシュールでもバフチンでもいいですが)化して差異や襞(ドゥルーズ)に、その裏づけを求めたのではないでしょうか。

◆強引に引きつける訳でもないですが間さんも阿木さんも音楽を文学に写像というか転換してしか語れなかったのではないかと。
私は最近物を書く事が多くなりましたので感じるのですが、今こうして書いている瞬間も「これは文字に依る作曲だ。この文字列が読む人の中で音響映像として鳴るのだ」という意識です。毎日作曲しているのです。しかして演奏は、楽器に触れた瞬間に全く別の次元になっている。それは無意味な音響で、しかし私に取って気持ちのよい振動そのものである。その振動をいかにしてか変化させ、かつ継続する事が「演奏」です。
上記の文章のなかで「記号化の過程としての音楽」というのは音響とは関係のない次元での音楽であり、それは非常に大きな意味があります。音楽そのものは空気振動とは関係ないといってもいいでしょう。耳が聞こえなくても音楽はある。聞こえなくても音楽はある。そのように思って3つの次元を考えた事があります。ラカンの三段階をしるまえですが。
作曲家は、その曲が響く前に脳裏に音楽が完成している。あとは書き写すだけ。まるでミケランジェロが「必要のないところを削り落としていけば彫刻が出来る」といったようなもんです。しかしまた記号は音楽の影であり、指示に過ぎないとも。下段へ続く話です。

●音楽の本質はという問いは意味がないように思います。あなたにとって音楽の重要な要素は?時間です(ケージ)、響きです(ヴェーベルン)、残響です(オリベロス)とか答えたり、具体的に音を提示できたりすると思います。

◆「阿木さんはロック・ミュージックの本質は文学だと思っていたのではないでしょうか(前回の対話でもでてきた話です)。つまり音楽は文学ではなく記号化の過程で作られるものと考えていたのではないか。」と前段書いておられますが、貴重な要素はという問いを阿木さんに発したらなんと応えたでしょう。しかし貴重な要素ということと本質は意味の違う問いですね。
音は提示できるのでしょうか?ケージは「作曲とは音の出し方の指示だ」といいましたし、アドルノは「バッハは楽譜にも演奏にも存在しない」といった。「意味が無い問い」は実に「意味がある」訳で、『打ち手の無い槌』なのかも。あるいはゼロ記号、ゼロ集合なのかもしれません。無である事に依って他を機能させ続けるコトバ。
全く逆に「歌詞が良く無ければ音楽は聞かないよ」という人も多数存在する。その人達は無言である歌を聴いていないというのではなく、メッセージの乗り物としての音楽を望んでいるわけですね。しかしまたリズムがあってそこにMCでもいいし、ラップでもいいS、伴奏無しで歌うと、もうロックは成立しちゃう。それをDAFとかに聞いて衝撃を受けたわけです。逆にいくらロック的な演奏をしても歌が、歌手が無いとロックではないと感じてしまうこともある。昔のクリームとか、クリムゾンもそうでしたが。延々即興だけやってるバンドを、かつてジャズ・ロックだといったのも分かる。しかしではジャズには歌が無いのか。そんなことはない。延々と歌に関する思いが渦巻きます。
自分の演奏にしても歌の無いのが大半ですから、これはロックではないのだろうとか思いますね。

●阿木さんの尖端音楽はそれぞれ意味性を排して純粋に音響として聴くことができますし、それぞれのコンセプトも面白い。でも音楽なので思想(考え方)を解体できても、また様式(建築様式とすれば)を解体することはできても、音楽そのものを解体することはできない。でも言葉でここまで書くと観念過ぎるのでやめときます。音楽は生活にとって「有用」なものだと信じているからです。

◆音楽の有用性とはどういうものでしょうか。機能性ということになるでしょうか。
先端音楽はいかに定義されますか。それぞれということだと多様なのですね。多様な表現形のなかに共通する分母としての音楽、または音響。
しかしまた音楽=音響というのはちょっと厳しいものがある。観念的すぎるとみずからおっしゃってますので、この辺りもう少しご教示下さい。

●「音楽=音響」というわけではありません。音楽から何をどのように読み解くかということが有用性とも関係があります。尖端音楽って何ですか?って阿木さんに聞いたら「新しくリリースされた音楽は全部尖端音楽だ」というかもしれません。
私にとって「尖端音楽」とは時代の少し先を予感させてくれる音楽だと考えています。「先」ではなく「尖」というところが阿木さんの持ち味ですが、時代の風を切り裂くという重要なイメージです。加えて速度も重要です。ベンヤミンは「歴史を逆なでする」といいましたが、音楽の有用性とは、時代の読み説きを生活の中で道具として利用することだと思います。「生活」という生命維持活動が最終的に重要で音楽はその気付きに対する機能でもあります。ですから観念論ではなく実証的な働きを持って作用するものだと思っています。『ロック・マガジン』に関わっている時もそんな想いはもっていた気がします。「音楽」の中にその歴史哲学があり、今になって思うに『ロック・マガジン』特集「MUSICA VIVA」はドイツの音楽復興運動ですから、精神の生命活動に関する歴史哲学的な精神の系譜に位置していると改めて思います。

◆そういえば、東京以北では『フールズメイト』の影響力が強かったように思えます。実際私の現在も音楽上の仲間である一人は北村昌士と仲が良く、北村の最晩年、盛岡に単独ライブに来てそのバックまでやりました。私自身はあまり『フールズメイト』にも北村の音楽にも関心が薄くなっていたのですが、ああ、大阪に阿木、東京に北村かと思った程度でした。

●北村さんと交流があったのですね。『フールズメイト』は友人が見せてくれたことはありますが、購入したことはありません。『ロック・マガジン』とはカラーが違うというか、阿木さんと北村さんの違いかも知れません。

◆非常階段の広重君、美川君、そしてウルトラビデの藤原君は何故か知り合いで、非常階段の二人は、ボルビトマグースやニヒリスト・スパズム・バンドの盛岡公演に着いて来てくれて共演しました。藤原君とは一緒にテリー・ライリーのライブを見に行きました。

●広重君や美川君やビデとお知り合いでしたか。美川君やビデは彼らが高校生の時に知り合いました。美川君は『ロック・マガジン』の編集を通してですが、ビデはその後あがた森魚さんのVanityからリリースされる『乗物図鑑』録音の際にいろいろ手伝ってくれました。『ロック・マガジン』を抜けてからぜんぜん会ってなかったのですが、10年くらいまえにビデが日本に帰ってきてのライブを見に行って再会しました。
広重くんとはぜんぜん会ってないです。最後にヴィトゲンシュタインについて話したことを憶えています。

《同時代性》

◆大学時代の嘉ノ海さんの思想的遍歴は共感できますね。私も学生時代は読みあさりましたが、ものの見事に吹っ飛んだ気もします。当時から30代にかけて書いたものを読んでも、こりゃ何を言ってるんだ、難解でさっぱりわからん自己満足だなとしか思えないことが多々あります。
まあそういう時代は必要だと思います。化粧を覚えたばかりの女子がいきなりある時期厚化粧になるようなものでしょう。
また音楽も30代まではとにかく尖ったものほど良いという意識でした。
去年、6ヶ月『デレク・ベイリー論』を連載したのですが、これはまあ言わば憑きもの落としのような意味合いでした。今もベイリーは聴きますが、非常に冷静にその良否を意識できます。彼に代表される非イディオマティック即興演奏の限界を自らの実践でしみじみ感じた次第です。ですから二十世紀以前のアーカイブにも素直になれた。それが良かったと思います。
たとえば若い頃にロマン派以前ばかりとか、モダンジャズばかり聴いていて、歳を食ってからケージやエヴァン・パーカーにはまるということはないでしょう。私は若い頃に消化不良になっていて良かったと思うんです。それは思想等にも言えますね。折口、小林、今西などいまになって共感できるのです。
スコッチも若い頃はシングルモルト派でしたが、今はサントリーの角瓶で十分です。しかしそれはシングルモルトを飲んだ事があるという経験なくしてのことではない。

●トーキング・ヘッズへのインタビューの際に阿木さんに同行させて頂いたのですが、デビッド・バーンとキャバレー・ヴォルテールの店主フーゴ・バルの話で盛り上がりました。バルの『時代からの逃走』やチューリッヒ・ダダのことなど。そのうちにバルの音声詩を曲にしたと聞いてびっくりしました。しかもリズムはアフリカだというのです。後日その曲である『ジンブラ』を聴いて驚愕しました。

◆私も『フィア・オブ・ミュージック』の『ジンブラ』に驚いた一人です。しかしアルバムとしてはファーストが好きです。カラオケで『サイコキラー』を歌います。

●私は1978年リリースの『More Songs About Buildings and Food』からですね。

◆私の恩人の一人、高橋昭八郎さんは、北園克衛らと視覚詩、具体詩、音声詩などの運動を開始した盛岡在住だった方ですが、ラウール・ハウスマンとの交流があったそうです。ハウスマンの音声詩もCDになってますね。しかしまたアルトーの朗読とか声はなんと言えば良いのか。
キャバレー・ヴォルテールといえば、チューリヒに学会で行った際に、旧市街に残るその建物の前で一人感動していました。なんでもその向かい側の建物にはレーニンが住んでいたとか。ソ連は崩壊してもダダは死なず、でしょうか。キャブスのあとに生まれたハフラー・トリオも気になる集団でした。これは坂口氏がかなり推してしましたね。

●うらやましいなあ。レーニンですか。ハフラー・トリオは重要ですね、音響の人体に与える影響を研究してました。CABSの片割れは後にWARPを設立しますね。今でもWARPは重要なレーベルですしOPNとかスクエア・プッシャーとか新しい音楽をリリースしています。

◆そうなんですか。マリンダー、ワトソン、カークでいえばカークですか。あの人ならソロアルバムが好きでした。ハフラーはワトソンですよね。もはやあそこまでいくと大衆音楽ではない。

《Vanityのミュージシャン》

◆あがた森魚に関しては殆ど思い入れなく過ごしてきました。

●あがたさんはVanity『乗物図鑑』の録音の際に1週間一緒にいたので好きなタルホの話をしてました。私も藤本由紀夫さんもタルホが大好きなので盛り上がりました。「エアプレイン」という曲では藤本さんがNHKラジオでの瀬戸内晴美さんとタルホの対談を録音したテープを持っていてタルホが飛行機のプロペラの音を口真似した声をコラージュしましたね。『ヂパング・ボーイ』とか『永遠の遠国』とか好きですよ。

◆藤本由起夫さんに関してはサウンド・アーティストということでしか知りません。

●藤本さんは『ロック・マガジン』以前から知り合いでした。PIANO RECORDSのデヴィッド・カニンガムをご存知ですか?藤本さんはこの系統ですね、音楽の美術家だと思います。

◆はい、フライング・リザーズですね。ディス・ヒートも出していた。私はこの辺の作品に関わっていたスティーヴ・ベレスフォード、デヴィッド・トゥープらとテープのやり取りをしていました。フランク・チッキンズのホウキ・カズコさんやその前夫クライヴ・ベルさんともちょっと付き合いがありました。
神戸の山際のかつての移民局だったかの場所で藤本さんのアトリエや作品をみました。
ドクメンタの出品作もキーボードとゴムバンドで人を食ったもので面白かったですね。昔私の友人はセロテープで鍵盤をはりつけていましたが。この人も美術家でした。

◆ヒューのシングルで坂本がバックをやってる訳ですが、竹田さんと彼が学習団の核ではなかったかと。
雑誌『同時代音楽』の2号ではカバー裏に学習団の宣言文が掲載されていました。

●『同時代音楽』に掲載されてましたね。家にあります。金野さんも書かれていたのですね。失礼しました。『同時代音楽』にこの記述があったので坂本龍一には自分がやっているYMOは商業主義じゃないのかということを聞きたかったのです。そういえばこの前、共産同戦旗派だった友人に聞いたら、リセン=理論戦線で合ってるって言ってました。『同時代音楽』、『morgue』、今手元に『モルグ・マイナス1号』があります。かっこいい雑誌です。

◆書かれていたというより見開きで4頁もらい、勝手にレイアウトしていいから版下でくださいといわれ、めちゃくちゃしました。
商業主義そのものは悪くは無いのですがその目的が問題でしょう。例えばまた麻薬の原料を作って売りこれを革命運動の資金にするのはどうなのかとか。
モルグは持ってます。阿基米得という人の文章が面白かったですね。あの方は当時あちこちに書いていた。青森県人ですね。オカルト古代史の研究家。私も実はそっち方面が好きで。特に青森はすごいんです。

◆ロックの本質は文学だ、ということは最近私が無調音楽の帰結が文学に、あるいはフリージャズや、インプロもそれに接近して行くしか無いことに思い至り、実感します。
W・バロウズあたりが、あるいはB・ガイシン、音声詩の連中が注目されるのも分かります。

●フリージャズや即興については、あまり考えたことないです。。。。
ただ間さんの文章は自分なりに分かります。その影響でセリーヌを読んだし、カフカの読み方も面白かった。「モルグ発刊の辞」に「我々は個を基軸としてしなやかに開かれた個体主義を、オカルティズムとアナーキズムの中で見つめながら、我々の肉の無意識、智の地下室へと降りていく。」この言葉から始まって延々と続くのですが、この長文にジャズや音楽のことは全く書かれていない。音楽評論はこうあるべきだと今でも思います。

◆私は十代の終わりから還暦までほぼ一貫したテーマとして即興演奏を考えていました。いまは少し離れ気味です。フリージャズというのは二種類あります。真性のと、その形式化したものと。そしてまたジャズ、フリージャズ、即興演奏、ノイズの問題についてはほぼ整理がついた気持ちです。
間さんの紹介したあらゆる人物は興味深いのでその意味では教師の一人ですね。ただ、それはかなり我田引水、牽強付会の感がないでもない。しかし自分の思想を鍛えていくなかで、あらゆる援用できる思想を動員するのはありえることです。私もいま、音楽や演奏を考える中で国文学の研究が意外に役立つということを感じます。音楽論だけでやっていても同じ檻(ケージ)の中で車を必死に回しているだけに思えるのです。また国文学を考えるときに音楽論が良い視点を提供する事もある。
確かに間さんは最後はシュタイナーとアナーキズムの和合を考えていたようにも思うのですが、それは錬金術のように豊かな不毛だと思います。錬金術は一つの思想体系であり、かつ実践だった。しかし決して黄金を生み出す事は無かった。

《「音楽」の肉の影について》

◆実験的、前衛的な先端音楽はやはり物語と言葉を必要とします。理論と音響だけでは限界が来る。
「西洋音楽の本質は宗教音楽にある。」と嘉ノ海さんは明解に書かれていますが、民衆音楽についてはどのようにお考えでしょうか。宗教と起源を一にしないものがあると思いますが。
しかし西洋音楽が宗教音楽という形式を得て発展したのは当然で、だからこそ我々はキリスト教の根源を知らずに批判は出来ない。いや、批判する為に勉強しています。

●そうです。あの宗教改革の時代にバッハとゴシック建築がキリスト教社会を精神的に支えていた。まだ宗教と一体となった音楽が物理的に存在価値があったのです。生活に有用な音楽だったと思います。

◆西欧音楽が石材を積み上げて行く方法論のような堅牢なものだっとして、対照的に水や炎のような捕まえられない、しかし確たる現象として息づく音楽としてシタール演奏等の即興重視を言ったのが小杉武久です。西欧音楽が宗教生活と一体化していたようにインド音楽も宗教と間違いなく絆がある。しかしその性格がまるで違う。いわば西欧のそれは強制する音楽であり、インドのは共生する音楽だといったら言い過ぎでしょうか。

●また宗教音楽(キリスト教音楽)はモダニズム直前の音楽でもあると思います。つまりバッハは18Cの作曲家で教会専属ですよね。産業革命が始まり、50年位したらボードレールの時代ですから遊民の登場です。

◆だとすればモダニズムの前段階としての近代を置いてもいいのではないでしょうか。モダニズムをどう考えますか。ルネサンスはもうモダニズムでしょうか。まあその頃はまだ古楽ですが、合唱曲などは極点に達していたと思われます。またフレスコヴァルデやスカルラッティを聞いても、こりゃプログレじゃわいなと感じたります。つまりマニエリスムがかなり進行している。すると反動が来ますよね。パンクが。

●ロック・ミュージックってキリスト教音楽だと思いませんか。I LOVE YOUのYOUはマリアのことだと。これは、私が長野のカソリック教会で幼児バプテスマを受けていること関係があるかも知れません。小学校まで毎週日曜学校に行ってました。

◆それはアラブ系音楽での恋歌の対象が神であるとされるのも似ていますね。ただ、何故マリアなのか。イエスではなく?ジーザス&マリーチェインというバンドは好きでした。
まあ西欧社会は、神は死んだとかいいながら、秩序の象徴としての神概念を持ちますね。世を統べるものとして。しかしアラブ社会は別として東洋の場合、神概念はもっと鷹揚なものでしょう。人が死ぬのも生きるのもそれは仕方ない事だと。しかしキリスト教はそうは言わないでしょう。

●アンドレイ・タルコフスキーやイングマール・ベルイマンなどの映画にバッハが多用されるのは理解ができますし、映画音楽というジャンルの中でも傑出していると思います。ルイ・マル『鬼火』のエリック・サティもそうです。

◆最近、テレンス・マリックの『ツリーオブライフ』を見まして、ああ、これはまさに今風の宗教映画だと感心しました。そして編集と音楽の使い方も素晴しいです。

●だからパンデミックの今聞かれたりするのでしょう。バッハは単なる癒しや安らかな気持ちになれるっていう音楽じゃないですよね。でもその側面はありますね。

◆聞き方と演奏者にも依ると思います。それはそば屋でも寿司屋でもBGMにジャズが流れていますけど、よく聞けばあれらの演奏でも非常にシビアなことが行われていたりする。「弱い聴取」という状況であればどんなに激しく主張の強い音楽も壁紙です。バッハの音楽の美は構成力だと思います。それは石造りの大伽藍にも匹敵するけれど、四畳半のラジカセで聞いた時のほうが染みてくるかもしれない。またその構成力ゆえの圧倒さに拝跪するしかないようにも思える。石造りの家は結局、墓か城です。それは籠るしか無い。

●「民衆音楽」についてはどこまで聞いているのか自分でも疑問ですが、カルロ・ギンズブルグの『ベナンダンディ』や『チーズとうじ虫』の中の「聖なる神が宿っている」に象徴される歴史主義は興味深いです。
近代により失われた、もしくは隠されている宗教的世界があると思います。

◆私の解釈では、人間はチーズの中に巣くっているウジ虫みたいなものなんだと考えましたが間違ってますか。たしか本は持ってる筈です。民衆、大衆という概念は分離しなくてもいいですけど、大衆が自前の思想で世界と神の関係を理解しようとすること、それに音楽はどう働いてくるのだろうか。チーズ職人が鼻歌を歌いながら牛乳をこね回すとき、彼は神になってるかもしれない。これから生まれるチーズという世界の。

◆最後に『バフォメット』が出て来て嬉しい。私も好きな作品で、特に霊魂観への影響があります。異端キリスト教の背景をもっと知りたいと思っていました。当然ながらネオ・プラトニズム、グノーシスあたりの知識は吸収不全ですし、カバラー、スーフィズム、タオイズム、仏教における密教の流れ、これらは現在も強く関心領域としております。

●ありがとうございます。とても嬉しいです。ピエール・クロソフスキーは高校から大好きな作家です。金野さんと同じように昔から関心があります。ゲルショム・ショーレムや井筒俊彦など。キリスト教は分派を許さず異端として断罪した歴史がありますが、イスラム教は分派する方向でスーフィもそうですが様々な道を開いていきますね。

◆しかしまあなんとも分派同士の抗争もあとを断たないではありませんか。私はイスラム思想で最初に惹かれたのがスーフィズムでした。それはあのジクルという独自のトランスへの方法であり、メブレビの旋回舞踏であり、カッワーリーの熱い歌です。音楽を禁ずるイスラムの中にあってもっとも激しく音楽を訴求することは矛盾を乗り越える信仰でしょうか。
一般に密教化した宗教は音楽も独自の物をもつのですが、カバラーには見られないようです。しかしジョン・ゾーンの「コブラ」はそれかもしれない。

●いきなりですが(笑)、この会話をしている5月16日はイアン・カーティスの命日でした。

◆私も彼は好きでした。そしてまさに成功しかけた所で自ら敗者になっていったような。

《その時代のこと》

●さて少し私自身のことを語ってみますね。
昭和29年9月22日長野市生まれです。といっても父親の転勤がたまたまということであまり記憶がないのですが。数箇所の転勤先を経て、小学3年の時に大阪市の鴫野という場所に引っ越してきました。小松左京の小説『日本アパッチ族』の舞台になったあたりです。当時はその感じがまだ残ってました。宮本輝原作で小栗康平の映画『泥の河』をご覧になりましたか。あの雰囲気もまだ少し残っていました。「ロバのパン屋」の車を引いているのが当たり前に本物のロバでした。

◆『泥の河』は見ました。心に残ります。カニに火をつけるところとか。ロバを町中で見た事はありません。代わりに私の子供時代には、金魚、野菜、鮮魚、花、豆腐、ドン(米のポップコーン、甘い)、などがリヤカーで売りに来ました。また町中を荷馬車が歩いていましたが、その運搬物は糞尿で、田舎から買いに来ていたのですね。昭和30年代前半の話。当時盛岡はかなり寒く、つららは日陰では軒と地面で繋がり、路面は春まで凍っていました。道路で下駄スケートができました。市内の大きな池は30センチくらいの氷が張ってスピードスケート、フィギュアもやっていました。

●金野さんのソフト・マシーンやマザーズまで行きませんが、グループ・サウンズ真っ只中でしたので近所のお兄ちゃんがオックスやタイガース(関西なので)を見に連れて行ってくれました。

◆そういうのが見れなかったのが残念です。

●1970年大阪万博の開催に向けて街が変わっていきました。阪神高速とか道路が整備され千里団地とかができて、ヘドロの運河(物流の役割を果たしていた)は道路になりました。また整備と共にヘドロのくさい臭いもなくなりました。でも1960年代後半の大阪で暮らしたのは面白かったです。

◆そういう状況は東京でもそのようでしたが、もっと早い時代だったのですね。明治後半から。そして関東大震災で一気に変化した。

●最近知ったのですが、中学校の美術担当は鷲見康男という「具体美術協会」の前衛美術家でした。新聞の訃報でそのことを初めて知りました。授業では絵筆は一切使わずにシュルレアリズム絵画で使用するコラージュ(新聞の切抜きや布などを貼り付ける)とかフロッタージュ(鉛筆などで形をこすったりする)、デカルコマニー(紙的な素材の間に絵具を挟んでぐしゃっとする)ばっかりでした。本人はソロバンを使って絵を描いていました。その頃は前衛芸術家?が美術教師で食っていたんですね。

◆私の中学の美術教師も前衛でした。いまでも描いています。現代美術は、その先生の部屋に自由に出入りして画集を食い入るようにみておぼえました。中学では卒業制作と卒業論文があったので、キュビスムを研究して、その技法で油彩を描きました。

●70年万博は高校一年生の時でした。回数券を買っていたので頻繁に行きました。NHK-FM「現代の音楽」で紹介された作品やとんでもない近未来(今でいうレトロ=フューチャー)の姿にワクワク感が半端なかったです。

◆一度だけ親戚といき、アジア、アフリカなどの小さい国のパビリオンばかり見てあるきましたが、西ドイツ、フランスなどは覚えているし、鉄鋼館の現代音楽や音響彫刻は感激しました。
まあエクスポ70は幻影ですね。KRAFTWERKのコンセプト通りの世界。過去に夢見られた未来。私は子供時代に読んだ未来社会の本をもっていますが、エアカーとか都市農園はあるがコンピュータやネットなどは全く出て来ない。テレビ電話は期待したが、いまやる気はしない。

●当時通っていたのは大阪府立枚方高校という学校で社会に対して強いアゲンストを掲げていました。府教委への抗議デモもしてました。
先輩はバリ封とハンストを決行したり、社研(ってありましたよね)のメンバーの多くは4トロ(日本革命的共産主義者同盟第四インター日本支部:正式名を今回はじめて知りました!)でした。
入学早々6.23安保集会に行きました。4.28沖縄闘争、水俣、特に三里塚闘争は激しかった。同級生が行きましたが、停学になり留年したのはショックでした。

◆私は地方高校ですし、もう嵐が去った頃でした。高校入学71年ですから。生徒会は民青が仕切っていました。岩手は国労、動労などが昔から強く、その影響でしょうか。

●先輩(といっても2年生3年生)がチューターでフォイエルバッハ、ヘーゲル、マルクス、レーニンからカミュ、カフカ、など読書会もやってました。同時期に先輩に連れられ「武闘訓練」と称して京大の吉田グラウンドに行き「連帯の挨拶」(死語)をさせられました。

◆本格的の一歩前ですね。

●NHK-FMの「現代の音楽」はずっと聴き続けていたのですが、その反面CSNYや日本のフォークも聴いてました。天王寺野音で開催された「春一番コンサート」にも連続して行きました。フォーク時代の阿木さんの歌も聴いたかも知れません。
高校3年生になった頃「ラジオのように」に出会いました。間章にも。映画見たり本読んだり音楽聴いたりばっかりしてたので2浪して立命館大学に入りました。

◆盛岡には大学が当時は2つしかなくて、あとは短大でした。2つというのは岩手大学と、私の岩手医科大学です。岩大はまだ、学生運動の余波がありましたが消えかけ、医大のほうは最後の牙城新聞部が消えて、学友会報になり、私は音楽関係の記事を書いたりしました。デヴィッド・ローゼンブームやアルヴィン・ルシエの脳波音楽、バイオフィードバックについてですね。多少医学的かと。

●高校時代の友人と同人誌を作ったり、秋山邦晴に会ったり、新宿にあったころの工作舎で松岡正剛に会ったりしました。

◆大学時代に「第五列」を開始し、京都では<どらっぐすとぅあ>が拠点でした。
まったくどこが中心とか代表とかなしで、そう名乗ればそうだということにしました。これは信頼だと思います。まあ「気分はもうリゾーム」。

●端山貢明、沼澤慧や芦川聡に会ったり、『音楽』という雑誌を編集している人に会いに行ったり。金野さんはご存知でしょうか。板橋あたりか?記憶が定かではありません。

◆『音楽』は持っています。ミュージック・リベレーションセンター・イスクラの出版ではなかったですか。ニューズレターも出していた。そしてレコードも出しましたね。小杉・一柳・ランタの名盤とか。大学時代、休みには東京に行ってマイナー関係の連中とつきあいました。一緒にライブもしました。芦川さんにはひとかたならぬお世話になりました。早世され残念至極です。今、彼の作品、レーベルの評価が高まっているのは嬉しい事です。

●また1977年でしょうか同志社大学や京都大学などの学祭で、松岡正剛や草間弥生が講演したり、日本維新派とか田中泯の「身体気象」とかやってました。間章の講義を聞いたのもこの年だと思います。

◆『遊』はあまり読んでいなかったので、遅れを感じました。維新派は関西ですよね。間さんはいきなり出会いました。

●『ロック・マガジン』でもインタビューしましたが、ドイツ文学者の池田浩士とは立命文学部の講義で出会いました。『教養小説の崩壊』という連続授業で後に現代書館(今はインパクト出版)から本になりました。
ドゥルーズ/ガタリの『カフカ』が出た頃で池田さんはとても評価されていたのを憶えています。同じくドイツ文学者の土居美夫にも会いました。フーゴ・バルの『時代からの逃走』の訳者です。
池田浩士はその後大衆小説や『日野葦平論』などファシズムと大衆について書いてますね。『ロック・マガジン』で特集した「SUR-FACISM]は池田さんのことがベースにありました。
編集していた頃はバタイユのコントルアタックのことは全く知りませんでした。

◆そのあたりは不勉強で、せいぜい今村仁司さんの講演を聴いたくらいです。『リゾーム』は訳わからないながらもかんじるものがありました。ガタリが日本に来て、そのとき八戸まで豊島重之さんが招聘して、モレキュラー・シアターの上演を見せたりしました。
『ミルプラトー』や『アンチエディプス』は一応読んだもののほとんど抜けてしまいました。「この機械は壊れる事で機能している」というのは逆説好きの私には残る言葉でしたが。「この本は忘れる事で機能している」のでしょうか。

《80年代以降の事など》

●1981年に『ロック・マガジン』を完全に離れて、当時の人間関係は全くなくなりました。というよりも意識的に連絡は取りませんでした。ですので、音楽も聴かなくなり今で言うフリーターのような生活を3年くらい続けたでしょうか。趣味でPC(昔の)をやっていたので夜間のコンピュータ専門学校へ行ってから1984年に就職しました。30歳を超えていましたね。そこで情報処理技術者として販売管理や生産管理などの業務を経験しました。その後、1995年から人事給与のパッケージ作成とシステム導入コンサルタントに特化した仕事をしています。
企業の中で人を計画的に教育し、様々な角度から評価し賃金に反映させ、必要に応じて採用計画も含め人材を確保し適正配置し、総合的に人材の中で戦略を立案し、といった業務要件をカバーするためのシステムです。
社会の中で人はどう生きるべきかという問いに直結しているので結構興味をやってます。たまにビルドゥングス・ロマンを思い浮かべます。

◆荒俣宏みたいな経歴ですね。

●80年代の新自由主義=サッチャーイズムやポスト・フォーディズムから現代の後期資本主義(欲望の資本主義?)へ加速していく課程で企業の人事制度が数年毎に変化していきます。そんな仕事をしています。

◆19世紀から20世紀初頭の変換もドラスティックでしたが、それは大戦へと向かった。20世紀後半の変化はコンピュータの民生化が大きく影響しましたね。そしてネットです。初期コンピュータ関連の書籍は如何にプログラムするかばかりでしたが、ソフトがどんどん充実し、結局ネットに繋がっていないパソコンは無意味だとなった訳です。私も博士論文を書く時点(40歳くらいですが)で、ようやく岩手大学とネットでデータやりとりするようになり、実に便利だと感じました。その頃はその害毒性も考えず。

●業界では数年前からRPA(Robotic Process Automation)を業務に導入したり、AI(Artificial Intelligence)が果たす役割の具体例が出てきています。5Gの環境でビックデータを活用する流れはコロナ以降加速するでしょうね。

◆思いますにRPAのような仕事は大事です。私はそれを修行としてやることがある種の精神的進展を促すと思う。ただ、それを無自覚にやってはいけないし、意識的もいけない。無というかゼロというか、中立的になり、身体と精神を分離してみる。そういう作業はあると思います。ただ、それを効率やノルマのなかでやってはいけない。それは産業の要求するものですからね。

●昨年から思想家マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム論』や『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』を読んでいるのですが、今までやってきた仕事に直結する視点なので、音楽を読み解くヒントをいろいろ与えてくれます。

◆最近は古い本ばかり読んでいます。文芸書が多いです。思想や分析はどんどん変わるので、基礎のないワタシにはなかなか。だから基礎になるような日本語の思想を。

●音楽以外のことでは、1985年くらいからシュタイナーの「オイリュトミー」を笠井叡さんに教えていただいてました。シュタイナーの本も読みましたし、その周辺の人たち(日本人智学協会)とも交流しました。今はほとんど付き合いないですが。松本順正とその頃オイリュトミーを通して知り合いました。元遊塾生で山崎晴美や大里俊晴とバンドやってたそうです。後述しますが、岡山でのFM放送でたまに会います。彼は精神科医として岡山でシュタイナー・クリニックを開業しています。

◆面白い人脈ですね。山崎さんは、雑誌『アルテス』で私と彼の小説が隣あって掲載されました。彼の文才には及びません。私はいまは<ジャズトーキョー>にたまに載せます。山崎さんは昨年暮れ、東京の幡ヶ谷であいました。ライブでした。

●音楽については、現代音楽や民族音楽は聴いていましたが、1982年から1997年まで新しいものは全く触れてませんでした。

《最近の事など》

◆私は積極的に流行ってるものを聞いたのは76〜87年あたりまでです。その後次第に新たな音楽への興味は減り、宗教音楽、伝統音楽、部族音楽、古楽そしてモダンジャズを聞くようになりました。この数年はもっぱらクラシックです。いまは20世紀初頭のばかりです。しかし古い音楽も新しい演奏は変わりますし、部族音楽も伝統音楽もそうです。同じ地域の民族音楽を聞いて歴史的な変遷に驚く事がありますが口承だとそういう変化が普通であり、記譜や録音によって変化が止まる、権威化するというのが分かります。古事記以前の伝承はどうなったのかとか考えます。
最近、万葉集についてのエッセイを頼まれたのですが、あれはまさにソングブックだったという視点で描きました。

●1982年以降の『ロック・マガジン』とか『EGO』とかは買ってましたが共感をもって読んでいませんでした。
しかし1997年にライブハウス「岡山ペパーランド」を主催されている能勢伊勢雄さん(『ロック・マガジン』、『EGO』などの編集に関わっていた)から連絡がありました。
能勢さんは岡山の<レディオ・モモ>というシティFM放送局で「能勢伊勢雄のムジック・スペクタクル」という番組を長年担当されているのですが、その番組内で「MUSICA VIVA」をやりませんかというお誘いでした。
週1時間番組ですが好きなようにやっていいですよ、ということで『ロック・マガジン』の「MUSICA VIVA」に登場する音楽家を紹介することにしました。番組では音源をかけながら能勢さんと話をするという形式でした。たまにゲストが参加したりしましたが、基本的には二人での会話を放送していました。
引き続き能勢さんとは今もお付き合いがあるのですが、「MUSICA VIVA」シリーズを延々3年くらいはやりました。その中で日本の作曲家の作品やアウシュビッツで死んだ忘れ去られた作曲家の作品も放送しました。
「MUSICA VIVA」シリーズ終了後も放送を続けて能勢さんが保有している1982年以降の音楽も放送することになり、その過程でポストインダストリアルなど『ロック・マガジン』で体験した以降の音楽を聴きました。
さすがに今ではほとんど参加することはなくなりましたが、「能勢伊勢雄のムジック・スペクタクル」は今も続いており新しい音楽を紹介しています。能勢さんとお会いするたびに色々教えて頂いています。

◆『Shoah, Les musiciens martyres de l’holocauste』というアルバムを聴きましたが、まさにそういう作曲家達の作品集でした。非常に良かったです。
日本の忘れられた、というか不遇な作曲家、有名作曲家の知られざる作品という観点でリリースを続けているのがオメガポイントです。私のところにあった幾つかの実験的、前衛的録音のカセットで、新たにリリース予定もあります。意外な音楽家の意外な作風のです。50〜60年代の日本の作曲家の映画音楽集も面白いですね。古いLPでオムニバスがあって聞いています。一番多様なのは武満さんですねえ。
あと、やはりユダヤ系作曲家というのはなにかと凄いですね。シェーンベルク、ライヒ(ライシュと読むべき?)、ゾーンは同じように、理論的な音楽からオリジンに回帰して行く途を歩んだのが面白い。『モーセとアロン』、『ディファレンストレイン』、『クリスタルナハト』がそれぞれの基盤でしょうか。
私も地元FMに時々、特集番組で出演し選曲は私がやってあとはホストと語り合う形式です。録音あります。また映画祭で作品に関するトーク、とか音楽祭で70年代80年代の地元音楽シーンと世界の関係なんてのも鼎談したり。

●「能勢伊勢雄のムジック・スペクタクル」では阿木さんの追悼番組として、2014年の『Bricolage Archive 2』のCD 4枚を音源として録音しました。まだ放送はされていませんが、そのうちされます。

◆これは全く知りません。

《再び阿木譲と間章について》

●阿木さんとは4年前に0gに行ってお会いしたのが最後です。ブリコラージュをやってましたね。
いささか丸くなった印象はありましたが、「嘉ノ海、どうしているんだ、何かはじめないといけないんじゃないか」と言ってましたね。

◆阿木さんが「何か」というのはどういうイメージがあったのでしょうね。言葉、文字ではないタイプとしてですかね。でも嘉ノ海さんはそうではないでしょう。やはり書籍とか叢書編集ですかね。

●個人的には阿木さんには音楽の聴き方を教えていただいて感謝しています。(あの3年間はほんとうにいろいろありましたが)
昨年来、原稿も書いたり、0gで音楽を作っている方達と知り合いになったり、こうして金野さんとやりとりしているのも阿木さんがいて『ロック・マガジン』やVanityがあったからです。

◆私の場合は間章が最初でしたが、まああまりにも文学的かつレトリックが多く、竹田賢一さんによってある意味左翼的視点を開かれました。それは高橋悠治も同じです。しかし左翼になるには遅すぎたというか真面目に取り組む障壁があった。廣松とか今西とかは読みましたが。いまになってネグリなど読んでます。アルチュセールはラカンがらみで読んでさっぱりわからず。

《ライブについて》

●「ライブ配信」は音楽体験を希薄にするでしょうね。所謂いい音であればあるほどスペクタクル社会=資本主義の気持ちよさに思考停止、感性停止されそうな気がします。

◆一昨日も青森県の子供中心のブラバンがZOOMでオンライン合奏をしているニュースが流され、それに参加した子供がすごく喜んでいる訳です。その子がまた大変に可愛らしい。こうしてオンラインでも皆に出会える、合奏も出来て楽しい楽しいと煽るわけです。
もともと音楽というのは、特に聞くという行為においては思考停止させる機能がある訳で、演奏行為では楽曲の場合あまり宜しく無いですが、即興演奏では常に考えざるを得ません。
ネットを介した即興的な演奏のやり取りは既に90年代からされていましたが、アメリカの電子音楽の連中で<アーチファクト>というレーベルに依っている人達でしたね。
まあいずれオンライン専門のライブ集団もできてくるでしょう。これはグレン・グールドやビートルズがライブをやめてしまったのと事情が違うのですが言及する必要はあるでしょう。
生の音、ライブで聞こえる音の圧力、訴求力は、自室でいくらいいスピーカーにつないだところで違いますでしょうし、大体にしてでかい音で聞く環境を皆さんは持ってないでしょう。
カーステか、ヘッドフォンです。まあ今度はヘッドフォン再生を前提にした音声送信も考えるでしょうけど(アフターディナーや宇多田ヒカルはやってますが)。つまり環境に応じて表現は変わってくるというべきですね。しかし、私は生が一番であとは二次的だ、シミュレーションに過ぎないという偏見はありません。スピーカーから出てくる音はことごとく電気信号の変換という意味では変わりないのですし。
むしろ録音する為にライブ演奏しているとさえいえる。そしてライブでいい音が録れるのが一番嬉しい。最高の聴き手はマイクロフォンだとさえ思います。
デリダでしたか、電話内存在と書いたのは。まあそれに近い他者です。
それを認識しながらも、配信ではないライブ環境での音作りを考えて行きたいのです。おそらくそれは不確定性や偶然性、あるいはエラー、ミスということに関わって生成されるのでは。
それとネットという巨大なシステム、不特定多数の意志のクラウドを介するのも気味が悪い。別に怒ってる訳ではないが私のレーベルの作品がダウンロードできてしまう環境は面白く無い。勝手に自分の評価できないような演奏が流されているのも楽しく無い。

●共有する「場所」の問題はコロナ以降に考え直す必要があると思います。タージ・マハール・トラベラーズが提起した、生活=音楽(聴く+発する)=場所により自分自身が変化していくようなことでしょうか。
このあたりは金野さんの専門分野でしたね。すいません、やっぱり今の時代にはタージ・マハールはありえませんね。やはりこれもスペクタクルになってしまうと思います。

◆そうとも言えないように思います。新たにタージ・マハールを開始すべきかもしれない。でもインドは遠いからまあ成田山とか恐山とか出雲大社あたりがいいでしょうか。
田中泯は「場所とは記憶である」といいました。では記憶は場所たるでしょうか。共有される記憶というのは可能でしょうか。容易にもみえ、あり得ないようにも思われ。

●この1年、月に2回くらい阿木さん最後の箱である0gに行き阿木さんと付き合いのあったミュージシャン(大半は電子音楽かDJ)の演奏を聴いて話をします。
もちろんここ2ヶ月は閉じてますが、再開すればまた行こうと思っています。彼らの音楽は面白いですよ。そんな「場所」でじかに彼らと接して「尖端音楽」について会話をしたいと。

◆私もクラブなどには行きます。興味ある音楽家がきたり、またなんかやってくれと言われたり、DJとの共演もします。

●『ロック・マガジン』の記事を書いていた羽田明子が現在ベルリンに住んで映像をやっているのですが、報道されている通り支援が手厚いらしいです。またかけがえのないという意味で、うろ覚えですが高橋悠治が「インドネシアの材木が伐採され輸出されるけど、インドネシアの音楽は決して輸出できない」と書いているのを思い出しました。

◆ガムランや、ケチャは、エキゾチシズムのお土産みたいな感じでしか聞かれていないかもしれませんが、素晴しいですけどね。ガムランはジョグジャカルタのゆったりしたのも、バリのハードコアなのも、また編成の小さいがゆえに構造の良く分かるのも、巨大竹ガムラン「ジェゴグ」もみな好きです。かつて小泉さんがケチャの由来についてトランソニックに書いていましたね。あれは驚きでした。サンギャンという儀礼を観光化したものだとは。まあそれは日本各地の神楽や祭り囃子、山車の運行に伴う音楽も派手になって行く。最近は北東北各地の神楽等を見て回っています。面白いです。若々しいし。
密閉、密集、密接はまさに即興演奏の環境ならぬ感興です。音が漏れないように、集団で、互いの演奏に接する。と無理矢理に関係づける気もないですが、まあソウシャル・ディスタンスよりは「ソウシャル・ギャザリング」です。このタイトルのアルバムもあります。日本のロック名盤ですけど。
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◆インタビューを終わって

嘉ノ海さんという名前は印象的だったので意識はしていたが、このように対話する機会が無かったのは残念でした。まあちょうど対照的な関係にあったでしょう。関西の先鋭的ロックシーンの中核を自負していた『ロック・マガジン』におられた方と、東北の片隅で周囲には全く共感されない音楽を制作していた私。今でこそ、世界観、生命観、倫理観という三つの視点で、あらゆる人と語れると思うが、40年前に出会っても喧嘩別れで終わったかもしれない。時間が存在するか否かは議論を措くとして、まずはここで経過したものが再び意味を持って立ち上がってくる。それを契機に会話が始まる。とても面白い経験だ。関係各位に感謝します。

●インタビューを終わって

今回の対話を通じて初めてAnode/Cathodeが盛岡の方だと初めて知った。Vanityミュージシャンへのインタビューと銘打っているが、どちらが話を聞いているのかという感じになり、自分自身のことについても会話させて頂くことになった。そして話の終わりは見えず「場外」になることも多々あった。もちろん「乱闘」ではない(笑)。これでも半分くらいは割愛した。話題についての共通項が多いのも不思議な体験だった。
最後にこのような会話に長時間付き合っていただいた金野吉晃氏に感謝致します。そして新しい時代への音楽を期待します。金野さん、いつの日にかイーハトーヴで会いましょう。

VANITY INTERVIEW
③ ANODE CATHODE(Part 1)

VANITY INTERVIEW ③ ANODE CATHODE(Part 1)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


『音楽の影を巡って』

金野ONNYK吉晃。70年代から音楽家としてのみならず文筆家としても活動されている。Web上に最近の文章が掲載されているので閲覧願いたい。

https://jazztokyo.org/?s=ONNYK

この会話が始まってから想定されていたことだが、音楽以外に多方面に展開されたので、今回とは別に掲載したいと思っている。併せて読んで頂くと金野ONNYK吉晃の世界はもっとわかる。
ここでは、「当時何を考えていて、そして今の時代の中で何を考えどのように読み取っているのか、そして金野ONNYK吉晃とって音楽とは」を中心にインタビューした。タイトルの『音楽の影を巡って』は『ロック・マガジン』01号 1981/01 に「この音楽家たち そして電気配線され」として掲載されていたAnode/Cathodeの「我々は《音楽》を聴き得ない、我々が聞くのは《音楽》の影である」から拝借した。

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◆Anode/Cathode:金野ONNYK吉晃
●嘉ノ海幹彦

●Anode/CathodeはVanity Recordsの『MUSIC』に入っていますが、リリースされた経緯はどのようなものだったのでしょうか?

◆たしか、坂口卓也さんだったと思いますが、この雑誌でコンピレーションを計画してカセットを募っているようだから出してみてはと薦められました。
送付の後しばらくして夜に自宅に電話が有り、『ロック・マガジン』の編集部を名乗る女性が「貴方の作品を使います」とだけ伝えられました。それは嬉しい事で、待っていたのですがその後何も連絡はなく、どうなったのかも分かりませんでした。私の地域では『ロック・マガジン』を入手するのが難しかったのです。しかしあるとき友人が、君の作品を収録したレコードが出ていると教えてくれ、しかもそれはもう入手不能で、名前も間違っているということが分かりました。これは非常に不服だったので、リリース前に確認すべきとか、当然もらう権利が有るのではないかなど、一度手紙を書いた事が有ります。しかし反応はありませんでした。その意味ではヴァニティに不信感を抱いた次第です。

●当時はそのあたりが当たり前にいい加減でした。申し訳ないです。言い訳にしかなりませんが、リリースするという想いの方が強くミュージシャンの事は考えられていませんでした。
「カセットを募っているようだから」とは1980年11月発刊の『ロック・マガジン』特集エリック・サティ Funiture MusicのLAST WARDで阿木さんがカセットテープの募集をしていました。このことだと思います。
ONNYKやAnode/Cathodeの由来は?また名前に対する想いなどあれば教えてください。金野さんはONNYKという名義を使い続けていますよね。最近、貴重な電子音楽や実験音楽のアーカイヴスをリリースしている「omega point」からの『Eary Electronic Works』を聴きました。ここではONNYK名義でした。

◆アノード/カソードは友人と計画したフィクションのひとつでした。そのような謎のバンドがアメリカの西海岸に存在して、彼等のデモテープだけが残され、それを所有していた知人も行方不明になったというストーリーです。後にアメリカにアノードというバンドがあったり、日本の某氏がそういう名前で活動されたのも知りました。単に電気的なニュートラルな、情念を感じないような名前をと思いました。
ONNYKはKINNOの綴りを逆にしてYに変えただけです。YKは私のイニシャルでもありますので。これは私の立場を逆さまにしたら、といった気持ちも有りますが、当時邦文をローマ字で書いて逆から読み、それを録音して逆に再生する、といったことが好きでしたから。たまには「鬼句」という名で定型詩を詠む事もあります。金野と吉晃の間に挟むのはジャズトーキョーで最初にそう記載されたからです。

●『ロック・マガジン』で好きだった(気に入っていた)号は何号でしょうか?

◆先ほど書きましたように殆ど入手不能で、関西エリアに住む友人がたまに送ってくれたのを眺めていました。あるいはコピーをもらいましたが、当時はモノクロコピーでも高かったですから。探せば出てくると思います。そういえば漫画ももらった覚えがあります。

●当時聴いていた音楽は?叉影響を受けたアーティストやレーベルは?

◆私は日本以外のポップス、ロック、フリージャズ、即興演奏、現代音楽、民族音楽、音響彫刻など全般に聴いていました。
プログレは思春期の始めから、ジャズロックは高校時代、ザッパにもはまりました。パンクにはあまり関心がなく、テクノポップは機材が無く、二十歳あたりで、インダストリアル、ニューウェーヴに接し、丁度色々機材を持つ友人もいて録音を開始したのです。
あ、『NO NEW YORK』と、<ほぶらきん>はショックでしたね。前者についてはイーノへの関心が強かったので「そうきたか!」という印象。また後者には正直言葉を失いました。
もうひとつ、坂口さんからもらったSMEGMA、LAFMSのビデオは、なんというか、涙がこぼれましたね。いろんな意味で。根源的情動と超越的痴性。
しかし次第にINCUS, ICP, FMP, METALANGUAGEなどの即興演奏への傾倒が始まりました。
若い頃にはこう考えていました。
「非イディオマティック即興演奏は、どのような音楽文化、様式、技術からもメタ化した、構造化を拒否する演奏/聴取〜音楽体験である。従って現状の経済体制にも依存しない、所有権や固有名を拒否し、商品生産、経済活動たりえないものだ。だから我々その実践者は、社会体制への異議を唱えているということでもある」
まあ、理想主義です。社会主義革命を信奉するようなものです。
それが「第五列」を始め、Anode/Cathodeをやった頃ですね。Anode/Cathodeは敢えてロックを採用したのですけど。

●現在関心があるアーティストは?

◆音楽家という意味では作曲家が多いです。また忘れられた音楽家、作曲家、残された録音などに関心が有り、最新のものはあまり知りません。
最近は毎日ストラヴィンスキーを聴いています。友人が、ストラヴィンスキー自信が指揮した21枚組を貸してくれたせいもありますし、ザッパを語るには知らずにはおれません。
またかつては殆ど聴かなかった邦楽、民謡なども積極的に聴いています。自分でも邦楽器を触れています。
音楽以外の意味でも現代のものより、近代ですね。あるいは古代かもしれません。

●上記質問の関連ですが、2020年の音楽をどのように読み取っていますか?
(ヴェイパーウェイブなどの動きも含めて)

◆今の音楽を殆ど知らないので、友人のDJなどに教えてもらう程度です。しかし「あいみょん」とかはヤバいなと思いました。私が権力者で為政者なら即、放送禁止にするでしょう。それくらい言葉の魔力は有りますね。
椹木野衣の本を読んで「ああ、ポップスの歴史、いや音楽の歴史は、いちはやく終わったというか、少なくとも折り返し点は回ったのだなあ」と思いました。しかし即興演奏だけはその牙城を守るだろうなどと暢気に考えていました。しかし結局、いわゆる非イディオマティック即興も、ある種のクリシェとイディオムのプールに過ぎないと思うに至り、では俺は如何にすべきと思ったのですが、何も見えてません。
では現在の音楽をどうとらえるか。丁度ヴェイパーウェイヴという言葉が出たので流れを示されたかのようですが、元々其の種の音楽はPC上で製作されているので、よりネット依存、VRへの参入が進展するのでしょうね。ライブをすることがあたかも罪悪視されるような情況が来ているのですが、音楽という現象の機能が、20世紀までのそれとは全く違う位相に移行するのかななどと思います。では過去の音楽の機能的問題などというとかなりくどくなりますし、社会学的視点になるのでしょう。ちょっと措きますね。
また私の常なる見方として、対発生、対消滅、対称性ということからすれば、上記のネット型音楽と丁度正反対の位相を持った儀式型、独立型の音楽が必ずや成長するでしょう。その芽は常にあるので、あとはその機会をうかがうだけです。

●現在の後期資本主義的社会をどのように感じていますか?特に人と社会との関係性において。またNet社会や次世代5Gなどの環境にどのように対峙しようとしていますか?

◆上記の回答に書いた通りです。

●今後の活動のプランを教えてください

◆私は今幾つかの活動領域を持っていますので列挙します。
JAZZTOKYOと「ちゃぷちゃぷレコード」とDEADSTOCK RECORDS関連のサイト、ブログへの寄稿。ちゃぷちゃぷではレコードブック単行本の出版も既刊あり、さらに出す予定のようです。
口琴デュオMUNDIIの活動。エフェクター使用でテクノ的、またベースを加えてダブ的なサウンドも作ります。
3ピースバンドTUBEROSEでの演奏。ライブ予定無し。近日中にユーチューブに動画あげようかと。
個人的な即興演奏活動。サックスやギターを中心に。なるべく生音でのリアルタイムの。
年一度のバンド「飛頭蛮」のライブ。
現在停止中のバンド「チェーンソウマサカーリターンズ」のレコーディング。
花巻市在住の周尾淳一とのコラボ。下記をご覧下さい。他にも有ります。周尾のソロ「山海経」は私のプロデュースです。

セクステット「NGAMOKAS」の活動。現在メンバーチェンジやコロナ騒ぎでライブ予定検討中。下記参照(右端が私です)

海外のレーベルから私の過去のソロやバンドのアルバムが、複数リリースされる予定です。2020年以内にという計画です。まあ80年代の日本のローカル、マイナーな音楽という意味で注目されているだけかもしれないのですけど、私が百歳くらいになれば、今やってる事が注目されて、新たなメディアに乗るのでしょうか。

●これからの音楽芸術はどのようになっていくと思いますか?
音楽を作成するに当たりどのようなことを考えていますか?またあなたにとって音楽とは?

◆複合的なご質問ですので一気にはお答えできません。
上記回答に関連してきますが、私はネット社会の一員としては最低レベルだろうと思います。あと二三年のガラケー使用者であり、ネットでの情報発信、収集もろくに出来ず、アナログ信奉者として、日々カセットのデジタル化だけせっせとやっている穴居人です。しかし自分の堀った穴の責任はとるべく、この穴を訪れる方にはなるべく誠実に接したいと思っています。しかし私が新たなラッダイトになるかとか、儀式的な部族的な方向にいくことはないでしょう。古い楽器を、古い音楽を愛でるハーミットなら格好いいかとか思いますけど。

●新型・コロナウイルス=パンデミックの同時代に対してどのような感想をお持ちでしょうか?生きている間にこのような時代と対峙することは、幸運にも(失礼)そうあることではありません。
金野さんに是非聞いてみたいです。

◆このウイルスは感染力が強く、症状は平均的には弱く、特定の条件の人に激烈になるというもので、感染は短時間接触でも、そして不顕性感染期間にも起こるという厄介な物です。ウイルス一個は生存サイクルが短いですからこの数ヶ月のうちにどんどん株の変異が起きるのは当然でしょう。じゃあワクチンも無駄?インフルエンザだってタイプ別のワクチンじゃないですか。何年もかけて作ったワクチンでさえ副作用が起きて社会問題になるほどなのに、あわてて作ったワクチンなんて危なくてしょうがない。それを接種義務化なんてされたらどうなるのでしょう。
と思ってはみたが、なんのことはない、パンデミック前から準備してたものがあるのだろうか。
この疾患騒動の一番の社会的問題は、個人意識の暗部に、また社会の構造にある「見えない差別」を助長して、市井の、無辜の、衆愚ほど行動に出ることではないでしょうか。善意の悪行というより、正義感の愚挙、デマゴギー推進性の「病い」です。放射性物質の汚染にも近い。
あるいはまた、攻撃的でない人は自虐的になり、引きこもり、他者との接触を極度に恐れる。
恐れの源と差別は不可視であるほど強調され、人と人を疎縁、隔絶する。と同時に、いかにもそれを補完するように見えるテクノロジーが幅を利かせてくる。
最近、盛んにCMでは高齢者のスマホデビューをあおり、家庭内、離れて住む家族間でのスマホコミュニケーションが重要だと売り込みます。
アフリカに感染者が増加しています。そこでも貧困層にさえスマホを持たせて、感染者への給付金をスマホ決済させる。スマホと、ドローンと、ロボットとが蔓延しているのです。
インフラの弱い地域こそ携帯電話、衛星放送の普及が早いということは知られていました。スマホ利用者に限れば、若者から壮年まででした。しかし給付金となれば、一斉に今まで関心の無かった世代や地域まで広がるでしょうね。まあそういうことなんですね。ある勢力が競って世界を乗っ取ろうとしている。単に利益が上がっただけではありません。支配域を広げています。テレワークだ、リモートだ、配信だ、そしてユーチューバーばかり持ち上げられる。この半年におけるIT産業とGAFA、マイクロソフトの収益が跳ね上がってるのはよく知られています。状況だけから判断すれば誰が得をしているか、誰が仕掛人かは見えてくるんじゃないですかね。一気に世界の支配の仕組みを変えようというのかな。しかし、そういう世界を望んでいる人々もある。
「プライバシー監視が嫌だとかいうより、生命の安全を「国家」が保障してくれるほうがいいじゃないですか、現金決済よりスマホでなんでも済ませられるのは便利じゃないですかという人達は少なく無い。あるいは「音楽なんてそのときかっこ良く聞こえていればいいんですよと。
構いませんよ。ただ、私はこんな世界が嫌だなと思うだけです。

●興味深い回答をありがとうございました。では、引き続き『「同時代精神」ある時代霊の働き』に移りましょう。

KYOU-035 Viola Renea『Syguiria Lady』

発売日:2020年10月16日
定価:¥2,000(-税別)
品番:KYOU-035

Amazon  https://amzn.to/2EueBSG
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Viola Renea
Syguiria Lady

01. Amitoung Ashyljoung
02. Vimana Beam
03. Faros Faras Island
04. Sōma Yāna
05. Māyā Candra
06. Samsāra
07. Polaris Line
08. Chariot of Palace

KYOU-035
16.Oct 2020 release
2.000yen+tax

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1984~85年に大阪で展開していたレーベル「ファンタン ラトゥール レコーズ」から1985年にリリース(LP)されたヴィオラ リネア/シギリア レディを初CD化!今回、ニュージーランドのStrangelove MusicからのLPリイシューのオファーにより2020年秋にLP/CD/デジタル配信によるワールドワイドな展開となります。

<作品概要>
Viola Reneaは、1983年までに兵庫県の西宮市を拠点に置く自身のレーベル、Kagerohから2枚のシングルを既に発表していたグループだ。
今村空樹は、“未知の記憶”から発生した奇妙で新しい音楽を読み解く旅の進路を開拓した。中近東、ギリシャや東ヨーロッパの民謡に影響されたこのバンドの欲望は秘境の異質さを探求すること…起源への回帰だ。
生み出されたサウンドは古賀俊司によるベースと迎久良による“波形的な”マンドリンの不気味な装飾リズムのコンビネーション。本作のリリース直前に今村氏は自身の歌詞を「リーディア主義」と称する架空のオカルト科学の用語(造語)を使ったものだと語っている。
結果、谷口純平とみなみなみ子による電子伴奏により併記された他民俗(エイリアン・フォーク)への感傷によって、夢の風景は当時のテクノ・ポップが回帰したテーマ、ノアールと誘惑、の呪文を模索する。聴覚的なビジョンと奇妙な音楽的な愛が魔性の女(ファム・ファタール)、シギリアン・レディと一体となった。

remodel 26 tolerance『Demos』

発売日:2020年10月16日
定価:¥1,500(-税別)
品番:remodel 26

Amazon  https://amzn.to/34BbJhr
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tolerance
Demos

1 Demos

remodel 26
16.Oct 2020 release
1.500yen+tax

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Vanity Recordsより2枚のLPと1枚のソノシートをリリース、レーベルの主宰である阿木譲がヴァニティ作品のフェイヴァリットに挙げ、NWWリストに選出されるなど同時代の作家への影響力も持っていた東京の丹下順子によるプロジェクトtoleranceの発掘カセット音源が初の単独CD化!本作の制作時期は正確には判明していないがtoleranceの活動時期を鑑みると80年前後と思われる。音源は発掘されたカセットテープからのデジタルリマスタリング。いくつもの曲の断片が切れ目なく繋がれたミックステープのような収録内容となっており、toleranceの音楽が常に含んでいた霞のようなサウンドの扱い、アトモスフェリックな魅力をより際立っている。

<作品概要>
Vanity Recordsより2枚のLPと1枚のソノシートをリリース、レーベルの主宰である阿木譲がヴァニティ作品のフェイヴァリットに挙げ、NWWリストに選出されるなど同時代の作家への影響力も持っていた東京の丹下順子によるプロジェクトtoleranceの発掘カセット音源が初の単独CD化。
本作の制作時期は正確には判明していないがtoleranceの活動時期を鑑みると80年前後と思われる。音源は発掘されたカセットテープからのデジタルリマスタリング。
いくつもの曲の断片が切れ目なく繋がれたミックステープのような収録内容となっているが、この状態は完成形ではなくあくまでデモ音源故にとられた形態であった可能性も伺える。
しかしながらその左右にフラフラと揺れながらいくつものサウンドが浮かんでは消えるといった構成は、toleranceの音楽が常に含んでいた霞のようなサウンドの扱い、アトモスフェリックな魅力をより際立たせている。2ndアルバム『divin』で完成を見るような反復するノイズやリズムマシンのサウンドも用いられてはいるが、この音源ではそれらの要素は楽曲の重心を安定させる方向へは機能せず、終始ボトムが抜け落ちたような浮遊感のある音楽性となっている。
冒頭では声を溶かし込んだようなサウンドによって安らぎへ誘われ、様々な音風景を潜り抜けた先にぶつ切りの停止とその後が待ち受ける様相は、走馬灯や黄泉といった言葉を連想させずにはおかない。

よろすず