『阿木譲の光と影」シリーズ 第五弾 東瀬戸悟インタビューPart 1

『阿木譲の光と影」シリーズ 第五弾 東瀬戸悟インタビュー Part 1

『阿木譲との出会いによる化学反応について』

第五弾は、forever recordsの東瀬戸悟。阿木譲と彼との関係は、近畿放送「fuzz box in」のリスナーより始まり、『ロック・マガジン』創刊号からの読者を経て、晩年まで続いていた。現在は残された遺品整理や管理を行っている。彼とは2018年に阿木さんが亡くなってから話をするようになった。店舗であるforever recordsを訪ねるたびに『ロック・マガジン』時代の予期せぬ出会いが起こり不思議な感覚に襲われることも多い。
彼は、時代により阿木譲とは関わりの濃淡はあるとはいえ最後は火葬まで立ち会うことになる。
まず2010年のremodel発足前夜までをPart 1としてお送りする。東瀬戸悟がロック・ミュージックに興味を持ち、ラジオ放送を通して阿木譲と出会い『ロック・マガジン』の読者となった経緯を聞いた。その後彼はレコード店での勤務を始め「音楽」と関わり続ける人生を選択する。その過程で実際に阿木さんとどのように関わっていたのか。その関わりを通してロック・ミュージックの変遷も語っていただいた。(嘉ノ海)

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forever records(東瀬戸悟)については、こちらのページにアクセスしていただきたい。

https://twitter.com/neuschnee_
https://foreverreco.thebase.in/
https://auctions.yahoo.co.jp/seller/forever_records_osaka

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●東瀬戸悟
○嘉ノ海幹彦

《『ロック・マガジン』創刊号前史》

○僕が最初に阿木さんと出会ったのは1978年の『ロック・マガジン』が月刊の頃で、それまでは阿木譲とは何者でどんな経歴なのかも全然知らなかったんです。その意味では東瀬戸君の方がラジオも聞いていたし、先行しているわけですね。まずはその辺りからお聞きしたいです。今日はよろしくお願いします。

●こちらこそよろしくお願いします。最初に阿木譲を知ったのは、1975年の冬だったと思います。「fuzz box in」の放送が同年の春から始まっているんです。毎週水曜日20時からの放送でFMではなくAMです。しかも近畿放送(京都)は神戸や大阪からだと電波が入りにくくてちゃんと聞こえない。
ロック誌については、1972年から『MUSIC LIFE』や『音楽専科』を読み始めてました。当時は個性的な書き手が評論中心の本は、中村とうようさんの『ニュー・ミュージック・マガジン』(現・ミュージック・マガジン)か、渋谷陽一さんの『ロッキング・オン』ぐらいしかなかった。渋谷さんはNHKのラジオ番組『若いこだま』をもっていて、影響力も強かった。当時ブリティッシュ・ロック系の若手評論家としては渋谷さんと大貫憲章さんのふたりが双璧だったかな。
その頃に知り合いから近畿放送に変な番組があるということで阿木譲を知ることになるんです。友人の話では、DJがとても嫌な奴で気に入らない葉書が来ると読んでから文句をつけて破り捨てると(笑)。わざわざマイクの前でビリビリと(笑)。で、クイーンの『オペラ座の夜』のリリースが1975年の12月なんですが、日本盤発売前にその番組で全曲かけるということで初めて阿木譲の放送を聞きました。

○初めて阿木さんの声を聞いた印象は?何歳の時?

●ノイズだらけの電波の中から聞こえてくるぼそぼそと喋る人(笑)。15歳、高校一年の時です。
翌年の春に『ロック・マガジン』創刊号が店頭に並びました。すぐ買って読みました。変わっていて面白い本というのが第一印象。レコード・レビューにしてもフリップ&イーノ、クラフトワーク、カン、ピーター・ハミルとか、かなり尖っていて新しくて知らない音楽が多かったし、クイーンやキッスの漫画も載っている。『ロック・マガジン』で紹介しているレコードは輸入盤屋でしか手に入らないものが多かったけど、そんな音源も「fuzz box in」で紹介していたんです。

○その辺りのレコードはその頃から興味があって聴いていたの?

●中学二年生の頃から「LPコーナー」(大阪の輸入レコード店)に出入りして、ELPやイエスとかいわゆるプログレ系を聴いていました。シンセサイザーがめずらしい時代でしたね。『音楽専科』で佐藤斗司夫さんがドイツ、イタリア、フランスのプログレッシヴ・ロックを紹介してたし、Virgin Recordsの日本盤も発売されていたから、タンジェリン・ドリームとかクラウス・シュルツェは知ってた。タンジェリン・ドリームの日本盤ライナーノーツは間章さんでした。

○そうでしたね。間さんは結構たくさん書いていた。僕は高校生の時にブリジット・フォンテーヌのライナーノーツで間章の文章に出会いました。

●中3だから何を書いてるのか理解ができていないけれど、変わった文章を書く人だなあと思いました。
阿木譲に関しては創刊号、2号、3号と読み進めて、ラジオも聴いているうちに自分の意見をぐいぐいと押していく人だと分かってきたんですね。『ロック・マガジン』に掲載されているインタビューにしても、創刊号では石坂敬一さんや折田育造さんとかレコード会社のディレクターに、2号では日本のロック・ミュージシャン相手に喧嘩を売ってるんですよ(笑)。

○普通のインタビュワーは、少しくらい話を合わせる部分もあるよね。でも最初から阿木モード全開なんですね(笑)。初めから変わらないなあ(笑)。

●最初から自分の中に答えがあって、それに相手が同意してくれないと話が終わってしまうようなね(笑)。我の強さというか。創刊号から既にあります。

○先ほどのラジオ放送で葉書を破る話とかも一緒やね。普通は始めから葉書を読まないか、読んでも自分の考えを喋るけど、わざわざ破るパフォーマンスをするのは阿木さんらしいし、僕の知っている頃も全く変わらなかったということですね(笑)。

●15-6才の子供にしてみたら、そんな人が存在していることが驚きなわけですよ(笑)。でも、雑誌としては紹介している音楽も含め魅力的だったしポップで面白かった。

○なるほど、僕とは全く違う出会いですね。1978年10月号(デビッド・ボウイ表紙)で松岡正剛が書いていたから買いました。『遊』の読者だったからね。それまでは全く知らなかった。

《いざ『ロック・マガジン』編集室へ》

●僕らが高校生の頃は、ロックと漫画とSFが精神生活の3本柱でした(笑)。創刊時に宇宙大作戦のミスター・スポックのバッジを作って配っていたし、プログレとSF小説の関係を論じる特集もあった。今は怪獣絵師として有名な開田裕二さんが編集部にいました。
編集後記に、遊びに来てくださいねとか書いていて、ロックと少女マンガのミニコミを作っていた女友達と一緒に事務所に行きました。その友人のイラストは2号と3号に載ってます。

○『ロック・マガジン』誌上でそのような呼びかけをするのは発刊当初からだったんですね。同じ音楽に興味をもっている人と一緒に何かを作っていきたいという主旨は僕らの時も一緒でしたからね。
『遊』を発行していた工作舎とかも同じ様に呼びかけをしていました。そんな時代だったのかも知れないです。

●そもそも『ロック・マガジン』自体、「fuzz box in」で阿木さんがリスナーに呼びかけて発刊されたものですからね。当時は高校生もたくさん遊びに来てましたよ。

○その時に初めて阿木本人と会ったんですよね?

●そうです。1976年の春、高校2年生の時かな。場所は編集室があった野々垣ビルですね。今もアメリカ村にビルはあります。編集室内で蛇革のロンドンブーツを履いた阿木さんの写真が残ってるけど、まさにあの状態。雨宮ユキさん、牧野美恵子さん、三重野明さんがいたと思います。それから何回か行って、平川晋さん(後のゼロレコード主宰)、坂口卓也さん、山崎春美さんにも会いました。
夏に阿木さんは、ロンドンとニューヨークへ開田裕二さんと取材旅行に行きました。ロンドンではブライアン・イーノ、デヴィッド・アレン、ドクターズ・オブ・マッドネス、ヴァン・ダー・フラフ・ジェネレイター、レディング・フェスティバルなんかの取材をしていますが、ニューヨークでは、まだアンダーグラウンドだったパンク・シーンを取材しているんです。
1976年の春くらいからパンクという言葉は伝わっていたけど、日本の音楽誌でまとめて紹介したのは『ロック・マガジン』が一番早かった。編集部の人から次号から変わりますよとは聞いていたけど、いきなり4号で版形も誌面も変わり、ニューヨーク・アンダーグラウンド、パンクが特集されていてビックリしました。
それ以上に、知らないレコードが次々と紹介されていて、ミュージシャンの写真もカッコいいし興味津々でしたね。編集室近くのロック喫茶で取材旅行の報告イベントが開かれたので参加しました。
80年代でも取材してきたものをビデオ・コンサートという形でイベントやって見せてたでしょ。当時はビデオはないからスライドだったけど同じです。スライドを見せながら阿木さんがイーノやテレヴィジョン、トーキング・ヘッズ、ラモーンズなどの説明をして、レコードをかけてね。ニューヨークではこんな動きがあるんだと思いました。

○高校生としては最先端のニューヨークのパンク・ムーブメントがリアルタイムに知ることが出来るというのは驚きだったでしょうね。

●「fuzz box in」でも併行して、CBGBとマクシズで録音してきたラモーンズやタフ・ダーツのライブと現地レポートを放送してました。雑誌とラジオ番組が連動してたわけです。パンクっていってもこの時期だと、レコードはまだそんなに出てないし、日本にほとんど入ってきてない。

○まさに世界で発生している時代精神を表象文化そのものとしての雑誌と、それを保管するためのラジオ放送で表現していたということですね。つまり編集者自身や読者も含め時代と連動していたということでしょう。
もう一つのメディアである「ポップス・イン・ピクチャー」は?

●そうそう。テレビがあったよね。近畿放送とサンテレビで放映していたかな。ビデオテープじゃなくてフィルムの時代ですね。ロックの映像がテレビで流れるのはNHKぐらいで、それも数ヶ月に1回「ヤング・ミュージック・ショー」でピンク・フロイドやELPなんかを単発でやるくらいでしたからね。『ロック・マガジン』創刊後に「ポップス・イン・ピクチャー」で阿木さんのコーナーが出来たと思います。

○連動してたんだよね。そういえば、服飾も時代と共に移り変わっていく表象だと思っていたんですよ。このコンセプトが後の『fashion』に繋がるんだけど。
その関連で、その頃阿木さんの風貌はでしたか?

●最初の頃は長髪にサングラス、普通にジーンズを履いてロックっぽいヨーロピアン風。パンクに入れ込んでからは、いきなり短髪になってました。いつもの調子で周囲に「君はまだそんな長い髪をしているのか。切りなさい」って強要してました(笑)。時代はもう次にいっているぞという感じ。
1977年1月号の『ロック・マガジン』別冊「プログレッシブ・ロック・カタログ」にはものすごく大きな影響を受けました。特にドイツ系のプログレをあれだけまとめたカタログ本はありませんでした。阿木さんは序文だけで、執筆は坂口卓也、山崎春美、牧野美恵子の三人です。それをチェックして当時は廃盤だったカンとかアモンデュールなんかのレコードを探し回りました。

○道しるべというか、何を聴いたらいいかが分かったわけだね。

●阿木さんは、このカタログはプログレの総決算というか墓標だといってたけど、僕らとしてはまだファウストもアシュ・ラ・テンペルも全部聴いてないですからね。

○そうやね。『ロック・マガジン』のこの号ではパティ・スミスの特集だし、イギー・ポップ、ルー・リード、801なんかも登場するよね。ユーロ・プログレとは決別している。

《『ロック・マガジン』の変遷》

●1977年になってロンドンパンク、セックス・ピストルズが大きく出てくるんだけど『ロック・マガジン』で特集していたようにニューヨーク・パンクの方が先なんです。ニューヨークでリチャード・ヘルをみてマルコム・マクラーレンがピストルズを作ったわけですからね。阿木さんは最初からロンドン・パンクはグラム・ロックの流れでありファッションだって言い切っていました。
その年の夏に二日間に渡ってポップス・イン・ピクチャー主催の大きなフィルム・コンサート(中ノ島公会堂)をやるんですよ。届いたばかりのセックス・ピストルズやジャムのフィルムを見せて、阿木さんが司会、ゲストが大貫憲章さんでした。テレビの宣伝力もあったからたくさんお客さんが入って盛況でした。
同時にNHK第1放送「若いこだま」では飢餓同盟、だててんりゅう、天地創造など関西のプログレッシヴなバンドを紹介して、日本にもアンダーグランドな自主レーベルとCBGBやマクシズみたいなライブハウスが必要だと強調してるんです。これがVanity Recordsや後のM2にも繫がっていくんですよ。
一方『ロック・マガジン』は同じ頃に、一般にはジャズ系のレーベルだと思われていたECMを大きく特集していますが、これにも驚きました。

○今気がついたけど『ロック・マガジン』(1978年4月特集モダーン・ミュージック)に、スロッビング・グリッスル(TG)が載っている。今更だけどその先見の明と先鋭性にビックリするね。

●TGを日本で一番早く紹介したのがこの号です。「モダン・ミュージック」じゃなくて「モダーン・ミュージック」という表記が阿木さんらしい。PSFレーベルをやってた明大前のレコード店名の由来にもなりました。
次の1978年6月号の特集は表現主義です。デビッド・ボウイとイギー・ポップがベルリンで録音した作品をオーストリアの画家エゴン・シーレと表現主義に重ねていった。こういった切り口は他の音楽誌にはなかった。

○次の『ロック・マガジン』(1978年8月特集現代音楽)は、芦川聡や高橋悠治とかが掲載されている。これもビックリだけど、今までの流れでは不思議じゃないよね。けど何で現代音楽?

●元々はプログレとイーノのオブスキュア(Obscure Records 1975~1978年)の流れかな。パンク、ニュー・ウェイヴと併行して新譜を買い漁ってるうちに、この手のレコードも集まってきたんでしょうね。テリー・ライリーやラモンテ・ヤング、フリップ・グラス、ピエール・アンリとかね。

○フランソワ・ベイルやベルナール・パルメジャーニとかのミュジーク・コンクレート作品も掲載されていましたね。INA(フランス国立視聴覚研究所)のレコードが中心だった。

●阿木さんは京都のコンセール四条というクラシック系の輸入レコード屋で現代音楽系のレコードを買ってた。その結果がこの特集。この号で注目すべきはクラフトワーク『Man Machine』の紹介記事で「テクノ・ポップ・ミュージック」という言葉を初めて使ったことです。

○新しい音源を感じ取り、新しいモードとして編集する基本は変わらないよね。

●当時はレコード屋へ行くのが本当に楽しかったです。パンク、ニュー・ウェイヴのスピード感もあったし、シングルもどんどんリリースされていたしね。レコード屋でもよく阿木さんに会いました。これを買えばいい、と声を掛けてくれて、色々教えてくれました。
1978年の春に「fuzz box in」が終了して、夏から『ロック・マガジン』は左開きの薄い月刊誌になった。お手本はイギリスの『ZIGZAG』誌でしょう。表紙は合田佐和子さんの絵から鋤田正義さんの写真に変わりました。併行してVanity Recordsが始まってDADA『浄』、SAB『Crystalization』、アーント・サリーもリリースされているし、個人的にはこの辺りの『ロック・マガジン』が一番面白かったですね。

○月刊誌になって、執筆者もいきなり松岡正剛、間章に変わりますからね。

●1年後の1979年8月に再度ニューヨーク取材に行って帰ってきたら『ロック・マガジン』は、また右開きの隔月刊に戻って版形はA4サイズでソノシートが付録に付くようになった。

○僕が関わりだした頃ですね。ある日いきなりこの版形にするって(笑)。この頃は隔月刊になり、併行して『fashion』を発刊していた。まさにロック・ミュージックと同じように突然変異する(笑)。

●新譜を買う、それにインスパイアされたものをアウトプットする。雑誌なり、ブログなり、DJなりでね。この姿勢は晩年までずっと変わらなかったと思います。こちらは十代なので新譜はそんなに買えないし、新しい音楽の水先案内人として本当にすごいなあと思ってみてました。

○同時にそこに当時関わっていた人との関係が誌面に大きく反映されていると思います。松岡さんとか僕もその一員なんだけど、もちろん羽田明子の取材であったり、だから単なる個人誌ではないんですね。それこそイーノのいうスポンジ状態だといえるんだよね。

(阿木の当時の編集ノートを見せてもらう)

●執筆予定者として今野雄二さん、近田春夫さんの名前や、次号の特集に向けたコンセプトのアイデアや予算が書いてありますよ。こういった部分は表には見せなかったけど、きっちりしているというか几帳面な人ではあったんですね。そうじゃないと雑誌なんか作れない。
1981年1月の35号から1982年1月の41号までが、阿木本人がいう「オブジェ雑誌」の時期です。この頃の号はレイアウト、紙の選び方まで素晴らしく完成度の高いものでした。ビデオカメラを持ってイギリス、ヨーロッパに取材に行ったり、阿木さんも三十代後半、活動的で脂がのってた時期です。
ファクトリー、ミュート、4AD、インダストリアル・レコーズ、ユナイテッド・デアリーズ、カム・オーガニゼイション、ノイエ・ドイチェ・ヴェレとポスト・パンク期の多彩な音楽を紹介してました。

○1990年代の終わりに一度だけ阿木さんから電話をもらったことがあって長時間話したんだけど、この時期の『ロック・マガジン』について一番充実していた時期だったと言っていた。

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rock magazine vol.39 vol.40 vol.41
1981年の5月下旬から7月にかけてドイツ/デュッセルドルフから、フランス/ルーアン、ベルギー/ブリュッセル、ロンドンに取材に出かけた。ホルガー・シューカイ、コニー・プランク、クラウス&トーマス・ディンガー、ダフ、ダー・プラン、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ、ジャン・ピエールターメル、ローレンス・デュプレ、ルル・ピカソ、レス・ディスク・デュ・クレプスキュール、BCギルバート&Gルイス、ジョアン・ラ・バーバラ、デヴィッド・トゥープ、ディス・ヒート、デヴィッド・カニンガム、ジェネシス・P・オーリッジ、ダニエル・ダックス&カール・ブレイクなどなどに会いインタヴューを敢行し、この3冊の「rock magazine」を編集して終わりにしようと考えていた。それからかなりの時間を要したのは、編集室に集まってきていたスタッフの熱意を消すわけにもいかなかったのと、微かな望みもあったからだろうけれど、この3冊のエディトリアルでボクのロックへのすべての夢と熱いエナジーが閉ざされ消えてしまっていたのだろうと、いまにして思う。(ディス・ヒートの長時間にわたるインタヴューはvol.41に掲載されています)。

「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 CASCADES 58
2008年04月09日 阿木譲

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《阿木譲との新たな関係》

○ここからは、阿木さんとの新たな関係が始まるのですよね。

●1982年春からLPコーナーに勤めだしてレコード屋になりました。今までは『ロック・マガジン』の一読者だったのが大きく変わりました。つまり阿木さんはお客さんとなったわけですね。

○1982年ですか。僕との関わりがないわけだ。それに『ロック・マガジン』も大きく変わるよね。

●『ロック・マガジン』(1982年3月)は蘒原敏訓さんが表紙を描いて再び月刊誌に戻ります。時代的にはニュー・ウェイヴがファッション化してオシャレなものになっていました。この時期は最低でも1万部刷ってて一番売れていたらしいです。DCブランドの服に音楽はカルチャー・クラブやABC、オシャレなカフェ・バー・ミュージック的なものです。レーベルでいうとクレプスキュールやチェリーレッドかな。

○個人的にはその頃から新しい音楽は聴かなくなった。情報処理関連の仕事に埋没していたな。

●月刊のまま1983年11月の60号でまたA4サイズ左開きに変わりました。この時から阿木さんが徐々に誌面レイアウトをしなくなり、執筆量も大きく減りました。実は既に終刊を考え、別の展開を計画していたらしく1984年4月の65号以降はほとんどノータッチ。編集は田中浩一さん、森山雅夫さん、中西信一さん、能勢伊勢雄さん、西尾友里さん達に委ねられるようになりました。読んでいてもあれ?どうしたんだ?ていう感じでした。

○先ほどの東瀬戸くんが影響を受けた新しい音楽動向はどうだったの?

●ニュー・ウェイヴのモード化が行き詰って新しい流れは現れてこなかった。まあ、ヒップホップとシンセ・ポップ、ポスト・インダストリアル的なものは出てきましたけどね。デジタル機材の進化、コンピュータとサンプラーで音色が変わったというのは重要だったかな。エレクトロ化したニュー・オーダーの『ブルー・マンデイ』、トレヴァー・ホーンのZTTとアート・オブ・ノイズとかね。SPKがダンサブルに変身したり、クレプスキュール傘下のL.A.Y.L.A.Hがカレント93、コイル、ナース・ウイズ・ウーンド周辺をリリースし始めたことも興味深かった。
そして、『ロック・マガジン』はロック号、69号(1984年8月)で終刊します。

《『ロック・マガジン』終刊と『EGO』の発刊》

○その後は『EGO』(1985年8月)ですね。エゴイストとはドイツの思想家マックス・シュティルナーの唯一者から来ていると思うんだけど、個人主義そのままの誌名で阿木さんらしい。

●そう、阿木さんは西宮の愛宕山に引っ越して『EGO』ですね。『イコノスタシス』(1985年9月)も出版されました。なぜ西宮に引っ越したのかは分からないけど、門戸厄神の駅からバスに乗って十数分。結構な距離がある山のふもとの一軒家だった。阿木さんはいつもバスじゃなくてタクシーでした(笑)。

○分かるよ、新幹線でもグリーン車にしか乗らない人だったもの(笑)。

●愛宕山は駅から遠いちょっと不便な所だったので、「新譜を持ってきてくれ」と電話がかかってきてよく家まで配達に行きました。ちょうど近くに僕の兄が住んでいましたしね。
で、なぜ晩年まで阿木さんと何故ずっと付き合えてたかというと、単純にレコード屋だったからですよ(笑)。普通は阿木さんと会いたくなければ距離を置いて避ければ済むんですが、向こうからレコード買いにやってくるしね、逃れられない(笑)。

○そういう関係もあったからかもしれないけど、東瀬戸君は『EGO』にも文章を書いているよね。

●家にはよく行ったけど編集に直接関わったりはしてないですよ。『EGO』のデザインとレイアウトは全部阿木さんが一人で部屋にこもってやってました。写植ではなくてワープロで打ち出した文章と暗室で現像した写真の切り貼りです。1986年10月07号でメールアートの特集をした際には、西宮に住んでいた「具体美術協会」の嶋本昭三さんや秋田昌美さんが寄稿してます。秋田さんは1984年から『ロック・マガジン』に度々書いてますが、実際に阿木さんとはメルツバウがzero-gaugeで演奏する2016年まで一度も会ったことがなかった。

○『EGO』創刊号の特集はポスト・インダストリアルでしたね。2号はカセットだった。イイダ・ミツヒロ君のB・C・レモンズとかが入っていました。写植からワープロになったり編集の自由度も格段に高くなった時代ですね。

●2号ではLPコーナーやカンテ・グランテに出入りしてたミュージシャン達に連絡して協力はしました。バブル期直前で西宮の家の家賃は月30万だったし、どこからそんなお金が出てくるんだろうと思ってました(笑)。

○資金はユキさんかな(笑)。ユキさんは?

●心斎橋から西宮の家まで電車とタクシーでご飯を届けに通ってましたよ。当時、阿木さんは編集を手伝ってた何人かの女の子と付き合ってました。高校を出たばかりの子もいたかな。阿木さんのところにいた女の子たちの顔は忘れても、ユキさんがずっと食料やなんかを阿木さんに届けていた姿は忘れられないですよ。晩年までずっとそれは変わらなかったからね。

○僕の頃も同じ。パームスにいた時も可愛い子がいたら「ユキちゃん、声かけてきて」って言って、ユキさんは話しかけてたもんなあ。食事や生活物資も運んでいたし。そこは変わらなかったんやね。

《『EGO』の終刊とノイ・プロダクトの発足とシャールプラッテン・ノイ》

○話が少し前後するけど、1981年の終わり辺りから『ロック・マガジン』で「レコード・ギャラリー」とかあったよね。あの辺りはレコード屋に務める前でしょ。

●よく買いに行きましたよ。よその輸入レコード屋よりも安かったから。四ツ橋の編集室内で澁谷守君が編集作業しながら販売してた。1981年のヨーロッパ取材で知り合ったカルメン・クヌーベルの店やソルディテ・サンチマンタル、クレプスキュール、ラフ・トレードから直接輸入してましたね。ディー・クルップスなんか大量に仕入れて販売してた。
その数年後に新星堂がクレプスキュールと契約して日本配給するようになるんですが、元々はクレプスキュールの設立者アニーク・オノレと知り合いだった羽田明子さんが『ロック・マガジン』で紹介したのが最初です。WAVEがアタタックと契約するのが1984年かな。阿木さんは「僕が最初に見つけてきたものを後で全部大手が持っていくんだよ」と文句いってましたけどね(笑)。でも阿木さんは一般に広まる頃に、もう別のところへ行っている。新しいものに反応するセンスと速度は常にあったから早いのは早い(笑)。

○その頃は、「レコード・ギャラリー」はあったけどレコード屋さんではなかったんですね。
で話を戻すと、『EGO』の終刊が1987年9月です。

●ここで西宮から大阪に帰るんです。そのタイミングで西尾友里さんが阿木さんを顧問に会社を作るということになった。それがノイ・プロダクトです。社長は西尾さん。
阿木さんからノイ・プロダクトの中でレコード屋をやるから来ないかという誘いがあって、LPコーナーで務めて5年、自分で独立してやってみたいという気持ちがあった。事務所はアメリカ村の御津八幡宮の横にでした。
でもこれまで阿木さんの行動パターンを散々見ているので、西尾さんには「阿木さんを直接こちらに来させないでくださいね」とお願いしてから引き受けることにしました。
ノイ・プロダクトのレコード屋部門は仕切るということで、仕入れも必要になりますから300万くらいは出資もしました。

○自己資金を出したわけですね。

●それで輸入盤のルートを引いて仕入れも始めるわけです。事務所では復刊『ロック・マガジン』(1988年2月)の編集も始まっていて、こっちが仕入れた商品を阿木さんがどんどん持っていくんですよ(笑)。僕のお金で店のために仕入れてる商品なのに(笑)。利益率の低い新譜だけでやっていくのは難しいから、中古盤も扱って、阿木さんのレコード・コレクションをライブラリーにして年会費を取って生かすという計画も立てたけど、それも阿木さんに反対されて頓挫した。まあ、こうなるだろうことは予想できていたので最初から西尾さんに念を押してたわけだけど、結局、防波堤にはならなかったです。
ノイ・プロダクトは出版やレーベル運営とか、複数の事業を計画していて、経理担当や営業も含めて西尾さんが用意したスタッフが7-8人いました。でも、まだ何の形にもなってないのに経理や営業なんて必要ないと思ってました。

○東瀬戸君としては、シャールプラッテン・ノイというレコード屋をちゃんと運営しようとしてた訳ですね、当たり前だけど。

●阿木さんは完全に自分の店だと思っていたからね(笑)。
整理すると1987年夏にLPコーナーをやめて、秋から仕入れなど店の準備をしていました。その間にノイ・プロダクトではPBC(Perfect Body Control)のレコードを作っていたり、裸のラリーズのレコーディングの話も併行してやっていたし。PBCは3000枚プレスしたのかな。

○むちゃやね(笑)。3000枚。

●そんなに売れるわけない(笑)。止めたんやけどね。だってVanityでも300とか500枚ですからね。結局西尾さんは3000枚プレスして、12月28日に心斎橋ミューズ・ホールのレコ発ライブも入れてました。PBCだけでは客が集まらないので、町田町臓、ボアダムス、オフマスク00、D’f(ウルフルケイスケ在籍)、ロリポップ・ソニック(小山田圭吾在籍)なんかを呼んで、ライブ当日は司会進行もやりました。

○客の入りとかはどうだったの?

●それなりのメンバーを集めたので結構入ったと思います。

○その後シャールプラッテン・ノイはどうなったの?

●1987年12月24日にオープンしましたが、開店10日前に阿木さんと喧嘩して、これ以上ここで仕事するのは無理だとなっていたんです。阿木さんに「店で仕入れてるレコードを勝手に持っていってもらうと困る」と苦言したら「おまえは、俺が引き抜いたんじゃないか!」って逆切れされて灰皿で殴られました。もう一つ、店のスタッフとして僕の補佐をしてくれた女の子に本の編集を手伝わせて、その挙句に彼女を足蹴りして殴ったことも許せなかった。激しやすい人なのはわかってたけど、これはもうダメだと。だから「ここまで準備はしたので店のオープンまで責任を持ってやるけれど辞めます」と。オープンさせて、28日のライヴをやってから撤退しました。

○その後は?

●シャールプラッテン・ノイで仕入れたレコードはそのまま置いてきて、西尾さんに渡したということになった。店はオープンできているしね。出資したお金は西尾さんから後で返していただきました。僕は、あまり間を置かずforever recordsに入って今に至るということです。僕が離れた後は阿木さんと一緒に住んでたミカさんが、シャールプラッテン・ノイを続けていました。その後のM2、Cafe Blueも彼女が表に立って運営してますよ。

○既に復刊した『ロック・マガジン』(1988年6月)も終わってたし、阿木さんは何をしてたんだろう。

●『ノイ通信』ですね。これは店で無料配布していた新譜紹介のカタログです。レイアウトも含めすべて一人で作っていました。これらは阿木さんらしいセンスの良さがありますよ。

○シャールプラッテン・ノイの経営はどうだったんだろう。

●そこそこ売れていたと思いますよ。ただ自分の分も余分に仕入れているし、買い方が尋常じゃなかった(笑)。88年の暮れだったか、僕が引いた仕入先から「阿木さんがお金を払ってくれない。何とかしてくれ」と電話があって。やっぱりなあと思いましたね。

○1988年辺り音楽の流れはどうだったんだろう。

●シャールプラッテン・ノイ開店の頃から、大きく変化してきました。EBM(エレクトロニック・ボディ・ミュージック)とハウス・ミュージックが出てきた。EBMまでは、まだロックやパンクの続きのイメージがあったけど、ハウスになるとロックとは切れてると思いましたね。

○ハウスってニューヨークのパラダイス・ガラージとかシカゴのウエアハウスとか?

●その辺りのゲイ・ディスコから派生した王道ハウスは既にあったけど日本ではほとんど知られてなくて、イギリス経由で少しづつレコードや情報が入ってきた。主にアシッド・ハウスですね。サイキックTVがいきなりアシッド・ハウスに変わるわけだから。イギリス経由のアシッド・ハウスはサイケデリック・ロックやインダストリアルの変形という要素もあった。でも、当時はちゃんと理解出来ていなかったと思います。
個人的には、カレント93、ナース・ウィズ・ウーンドなんかのインダストリアルと併行してソニック・ユースやプッシー・ガロア、バットホール・サーファーズ、グランジの先駆けになるロックを聴いていました。

○ソニック・ユースとかになるとアメリカのバンドですよね。

●ザ・スミスが最後くらいでイギリスのニュー・ウェイヴがつまらなくなってきたしね。テクノという言葉はあったけど、デトロイト・テクノなんかもまだこれからという感じ。ソニック・ユースもアメリカでは売れずにイギリスのブラスト・ファーストやドイツのツェンゾア経由で知られるようになった。ブラスト・ファーストの大元はミュートなんですよね。パンクも、ハウスも日本に入ってきた時は、本国アメリカからじゃなくてイギリス、ヨーロッパ経由です。

《シャールプラッテン・ノイの閉店と『E』出版とM2のオープン》

○その頃の阿木さんは?

●ロック的なものはもういいという感じでしたね。これからはハウスとテクノだ、ということで『E』(1990年8月)ですね。M2のオープンが90年10月なので、シャールプラッテン・ノイはこの時に閉店してたんじゃなかったかな。

○ところでノイ・プロダクトは?

●もう僕がシャールプラッテン・ノイをやらないとなった段階でほぼ解体。後は清算する方向ですよね。『E』の発行はノイ・プロダクトとなっているけど、実体は既になかったんです。僕が離れた時に他のスタッフもいなくなって後は西尾さんに出資したお金を返してもらって終了です。

○シャールプラッテン・ノイ自体はやっていたんだよね。

●1987年末から1990年まで店は続いてました。シカゴのワックス・トラックスとベルギーのプレイ・イット・アゲイン・サムのEBM辺りから始まって、ニュー・ビート、アシッド・ハウスとレイヴ系、The KLF、808ステイトなんかに流れていった時代です。そして阿木さんは、M2をオープンさせて、その辺りの音源を中心にDJを始めることになるわけです。地下がダンスルームで1階がチル・ルームでした。内部の施工は中西信一くんが中心になってやってましたね。

○この時期から0gに続くクラブへとシフトするよね。僕はM2は行ったことなかったけど、中西君が工事をやったって聞きました。彼は電気工事屋でしたから。

●M2をやるときも資金がないから、関わるみんなに作業させてましたね。その部分もずっと一緒でしょ(笑)。

○平野君の話でも内装工事などやったことがないのに、自分たちでやったって言ってた。

●シャールプラッテン・ノイの時も同じでしたよ。集まった連中がレコード棚を作ったり、壁を白く塗ったりしてました。

○結局、全部無償ですよね(笑)。

●そうですよ。阿木さんは「何もないところからみんなで作り上げるんだ」と言ってたけど、タダ働きですから。シャールプラッテン・ノイにしても、『ノイ通信』を発行して面白いレコードを販売しているんだけど、仕入先に支払いしていないとか。そりゃ続けられないですよ。仕入れ先への返済については、どうなったかは聞いていませんけどね。

○M2とはどんな店だったんだろう。扱っていた音楽は、やっぱりEBMとかハウス?

●場所は島之内の川沿いにありました。音楽はブリープ・ハウスやアンビエント・ハウスへ移っていました。藤本由紀夫さんたちと一緒に行ったのが最初かな。ウィリアム・バロウズとブライオン・ガイシンのドリーム・マシーンの紙製レプリカとロシア構成主義のロトチェンコの家具を模した鉄のテーブル・セットがあった。そのテーブル・セットは今もzero-gaugeで使ってますよ。
僕はforevereで普通にロックもインダストリアルも売ってたけど、阿木さんは既にそういった音楽は否定してました。

○この90年代に入った頃には、東瀬戸君と阿木さんは頻繁に会うということはなかったんですね。

●その頃は大阪にWAVEが出店してきて、阿木さんは主にそこでレコードを買っていたので、うちの店に来ることもほぼなかった。こちらもシャールプラッテン・ノイのことがあったので横目では見てはいるけど積極的に近づかなかったですね。
たまにM2に行くと石野卓球君が遊びに来ていたりね、彼もニュー・ウェイヴ時代の『ロック・マガジン』の読者でしたから。ドミューンの宇川直弘君も『E』に衝撃を受けたって言ってますね。『E』のレコード・レビューは12インチ・シングルのレーベル部分がアップじゃなくて、白と黒の無地ジャケット写真が並んでいるページがあってびっくりしました(笑)。

○『E』は椹木野衣さんや武邑光裕さんが関わったりしているから、その辺りでも衝撃受けたんだろうな。

●M2の後の店Cafe BlueではSYMPATHY NERVOUSの新沼好文さんやBGMの白石隆之君が来たときには見に行きましたよ。ちょうど僕はパナソニックのPAL方式ビデオ・デッキ(※)を購入したので、PALしか出ていなかったテクノ方面のCGをNTSC方式に変換して持っていたり、その程度の協力はしていました。
※1967年に西ドイツを中心にヨーロッパ各国などで使用されていた地上アナログ放送で使われたテレビジョン方式。日本やアメリカが採用していたNTSC方式では再生できなかった。

○1993年にM2からCafe Blueに変わっているんだね。経緯とかは?

●M2は家賃滞納で出ていかざるを得なくなったと聞いてます。借金も凄かったらしく、取り立てに来たヤクザを追い返したとか、自慢げに話してたけど、まあ誉められません(笑)。

○その当時、阿木さんは外部発信してないでしょ。ブログもないし。

●M2初期のフライヤーには『ノイ通信』の続きみたいな部分が少しありましたが、外向けにはほとんど発信してない。店の中で完結してた感じです。WARPやR&Sといったテクノ、Mo’ Waxとトリップホップ、アブストラクトの時代かな。当時のドラムンベースについてもレコードはけっこう買ってはいたんだけど、何故かほとんど語っていないんですね。

《『infra』の発刊と「Jazz的なるもの」へ》

○『infra』が1999年に発刊ですね。

●1990年代は、本も作ってないし、『ノイ通信』みたいなものもないし、ひたすら店でDJをやっていたという印象です。この当時のことを本人に聞いたら、「家でゲームをやってた」って言ってました(笑)。確か一時期帝塚山(大阪の郊外)に住んでたと思います。いづれにしても一番よくわからない時期です。
で、1999年に『infra』が出てまた驚かされました。今度はクラブ・ジャズでしたから。シャールプラッテン・ノイの頃のアシッド・ハウスに対抗して出てきたアシッド・ジャズに関しては否定的だったのに。

○!K7とかCompostとかG Stoneとかドイツやオーストリアのクラブ・ジャズ系のレーベルがあったよね。

●最初はフューチャー・ジャズでまだテクノ的な要素があった。でも阿木さんはその後スタンダードなジャズ、ブルーノートなんかに手を伸ばしました。それは意外でしたね。ジャズの中古盤ならうちにもあるから、また阿木さんがお客として来るようになったんです。

○不思議な縁ですね(笑)。

●クラブ・ジャズが打ち込み系のフューチャー・ジャズから生バンド的なものに移行して、DJ視点で60年代、70年代ジャズの再発が盛んに行われるようになっていました。阿木さん自身も「今まで中古レコードや過去の再発レコードを買うようなことは全くなかった」といっているので、すごく奇妙な感じでしたよ。で、そうなると、今度はテクノを否定しはじめた(笑)。
パンクの時はプログレ否定、テクノの時はロック否定と同じ流れです。でも、はっきりと「Jazz」じゃないんですよね。ずっと「Jazz的なるもの」って言い続けてたでしょ。なんか歯切れが悪くて、もやっとしてる(笑)。

○阿木さんと2000年くらいに岡山ペパーランドで再会しているんだけど、当時はトランスとかを聴いていたら、「こんなものを聴いているのか」ってボロクソに言ってましたね(笑)。

●ゴアでも、ジャーマンでも、トランスはけちょんけちょんでしょ。もちろん、トランスも出始めの頃には買ってたし、DJでも使ってたけど、認めていませんでしたね。

○ガバ(ロッテルダム・ハードコア)やDHR(Digital Hardcore Recordings)とかも?

●ガバはM2末期には派手にかけてましたが、すぐに単なるバカ騒ぎになっていくのが嫌で止めたみたいです。藤本由紀夫さんに「阿木さんが“これからはポインが流行る”と言うんですが、それは何でしょうか?」とたずねられて、最初は判らなかったけど、しばらくしてロッテルダムの”Poing”だと気付きました。

○1990年代に出てきたラスター・ノートンやオウテカなどの音響系は?
その後のremodelに繋がる動きではあるよね。

●僕は面白いと思って聴いていたけど、その辺りすら否定的でしたね。オウテカはワープ初期には支持してました。ラスター・ノートンやmegoが台頭してきた頃に阿木さんは渋めのジャズに入れ込んでるから「何でそんなものを聴いているんだ」って言ってました。『ロック・マガジン』時代にソフト・マシーンなんかのUKジャズロックやECMなんかは特集してたから、ヨーロピアン・ジャズはわかるんだけど、阿木さんはジャズ・ファンク、フュージョン、イージー・リスニング・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、スウィングまで買ってた。まあ、2000年頃の空気感では、そういったジャズすら新鮮に聴こえたのも事実なんですけどね。時代がぐるっと回ってこれもありかなという感じは確かにあった。

○そうだったんですね。

●だからあの時代、2000年から2010年のモード・ミュージックとして「Jazz的なるもの」は正解だったのかなとは思います。でも、後に「あの10年は無駄だった」と言うんですけどね(笑)。2010年以降はジャズのことなんか無かったかのようにラスター・ノートンやモダーン・ラヴ、ニュー・インダストリアル系、阿木さんがいうところの「尖端音楽」に移っていきました。

《jazz cafe〈nu things〉→ jaz’room nu things → nu things JAJOUKA → nu thingsへの変遷》

○その後、nu thingsからの時代はどうだったの?東瀬戸君としては何か協力したの?

●nu thingsは、湊町→本町→心斎橋アメリカ村→阿波座と複数回移転してますね。いや本町で2回移転しているかな。湊町nu thingsでは能勢伊勢雄さんや森山雅夫さんなど『ロック・マガジン』関係者を集めてトークショーをやったり、本町では阿木さんに依頼されてロック史のレクチャーを5~6回やりました。アメリカ村で鈴木昭男さん、阿波座でMiki Yuiさんのライブのブッキングもしました。

○2003年に0gの平野君が阿木さんと出会っているから、その辺りは間近でみているんだよね。

●2010年アメリカ村の時には中村泰之さんが登場ですね。初めて中村さんと会ったときは阿木さんから紹介されました。

◆◆◆◆◆◆◆ Part 2に続く ◆◆◆◆◆◆◆