『阿木譲の光と影」シリーズ 第四弾 Junya Hiranoインタビュー

『阿木譲『阿木譲の光と影」シリーズ 第四弾 Junya Hiranoインタビュー

『復活祭の果てに』

第四弾は、environment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ] でスタッフとして、長年にわたり阿木譲をサポートし、現在はオーナーとして活動している平野隼也。彼は、場所=現場を仕切り、remodelの再始動を果たし、次々と音源をリリースしている。今回のテーマである「阿木譲の光と影」を語るには一番ふさわしい存在だ。阿木譲が亡くなった当日の経験を、後日自身の言葉で書いていた。
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2020年2月11日 平野隼也 記
13:45
阿木さんが風呂に入られへんから体を拭いて欲しいということで自宅に呼ばれ、風呂場で体を拭く。その途中までは呼びかけても呻き声の様な返事があった。
体を拭き終わり両脇を抱えベッドへ戻る時、浴槽へ風呂場の扉に足をぶつけてしまい「すみません!」と言うが反応なし。
ベッドへ仰向けに寝かせたら目を見開いて口を開けっ放しになっていたので「あ…死んだ………..」って心の中で呟く。
そして心臓マッサージ開始。
16:15
そばにいたゆきさんに「阿木さん死んだ!救急車呼んで!」と怒鳴るが、ゆきさんはテンパってただただ狼狽えるばかりでどうにもならんので心臓マッサージしながら119番へ電話。
焦る自分と、それを俯瞰して見る「セカンド自分」の存在を認識した。
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平野君は、このように阿木さんが亡くなった様子を客観的に描写している。2003年の阿木さんとの出会いから2018年の15年間にわたって雨宮ユキさん以外に身近で見ていた人物は彼しかいない。そんな平野君に阿木譲の晩年の姿や今後の0gやremodelについても話を聞きたいと思った。さあ、インタビューをはじめよう。途中から中村泰之さんにも加わっていただいた。(嘉ノ海)
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Junya Hirano(平野隼也)、environment 0g [zero-gauge]、remodelについては、こちらにアクセスしていただきたい。
https://twitter.com/environment_0g
https://nuthings.wordpress.com/
http://studiowarp.jp/remodel/
https://twitter.com/remodel_japan
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●平野隼也
△中村泰之
○嘉ノ海幹彦

《音楽との出会い》

○よろしくお願いします。今回は「阿木譲の光と影」というテーマで話を聞いているんだけど、平野君の場合には、私生活も含めて一番深い関係があったでしょ。だから、今まで話を聞いてきた他のミュージシャンと全く違うスタンスなんで色々話を聞きたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

●よろしくお願いします。

○平野隼也とはどのような人物かということから聞きたいです。まず音楽との出会いは?
学生の頃から楽器とか?

●いや楽器は一切出来ないです。聴くだけでした。
阿木さんと出会った頃は、エレクトリックマイルス、松浦亜弥、ブランキー・ジェット・シティとかJON(犬)&ウツノミア(宇都宮泰) とかボアダムズ、小杉武久、池田亮司などです。他には雑多に聴いてましたね。The Jam、ポール・ウェラーから入ってニール・ヤング、ザ・バンド、エイフェックス・ツイン、スクエアプッシャーとか。

○ジャンル的にはバラバラだね(笑)。でも比較的ライブ感のあるバンドが多い。

●基本的にロック好きでしたからね。2003年に阿木さんと出会っているんですが、ロックも好きだしクラブも行ってたし。ゴアトランスやブレイクコアなどのパーティーでROCKETS、ベイサイドジェニーへも行ってました。

○トランス・ミュージックが好きだったので、ベイサイドジェニー、Zepp大阪とかよく行った。DJ TSUYOSHIのTOKIO DROMEとか阿蘇山のレイヴ・パーティ(VOLCANO)に行ったり、四国や中国山脈の中でのレイヴに行ったこともあります。ゴア・ギルが京都に来たときには山中でのレイヴを体験したりね。結構はまっていた時期があった。

●あの時は面白かったですよね。2000年前後だと思います。

○TIP(The Infinity Project)のラジャ・ラムが来日した時もベイサイドジェニーで見ました。僕の話はともかく(笑)。阿木さんとは2003年に出会っているのですね。

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[創刊誌等]
『ロック・マガジン』1976年~1984年、1988年(復刊)
『fashion』1980年
『EGO』1985年~1987年
『イコノスタシス』1984年
『E』1990年
『infra』1999年~2001年
『BIT』2002年

[前史]
1990▼〈M2(Mathematic Modern)〉
1993▼〈cafe blue〉をオープン
2001▼8月 レーベル〈personnages recordings〉を立ち上げ、辰巳哲也『Aspects from Both Sides』リリース
[nu things時代]
2003▼3月 辰巳哲也『Reflection and Integration』リリース
▼7月12日 大阪市の湊町にjazz cafe〈nu things〉をプレ・オープン
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《阿木譲との出会い》

●ちょうどjazzの頃ですね。このころはエレクトリック期のマイルス・デイビスを聴いていました。ジョン・ゾーンから入ってマイルスとか菊地成孔の「DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN」がROVOとのスプリットCDをリリースした時期だったと思います。

○初めて会ったのは「jazz cafe〈nu things〉」で?

●そうですね、当時よく遊んでいた友達の奥山君がjazz cafe〈nu things〉のすぐ近くに住んでたんでね。1Fに前面ガラス張りで、中は白の壁(今の0gのような)で近くを自転車で通る度になんやろ、と思ってた。いつも閉まっているんだけど、たまたま通りかかったら雨宮ユキさんが店の前にいて声を掛けられました。で、音楽が好きなことなどを話していたら「今週末に阿木譲というすごい人がDJするから遊びにおいで」と誘われて奥山君と行くことなった。その時に阿木さんと会いました。

○初対面の印象は? また阿木さんのDJはどうだったの?

●DJはかっこよかったです(笑)。COMPOSTとかのフューチャー JAZZとか!K7とかの頃でしたね。終わってからユキさんに紹介されて話をしました。第一印象はいいおっちゃんでしたね(笑)。話も面白かったし音楽も聴いたことのないかっこいいものだったし、それからはイベントがある度に行きました。
その年の秋に3週間くらいヨーロッパに行ったんですけど、帰ってきてから土産をもって〈nu things〉へ行きました。後日奥山君にユキさんから店のスタッフをやらないかと誘いがあったよ、と聞きました。おもろそうやからやろか、という軽いノリで付き合いが始まりました。

○スタッフとしては店の運営とか機材の搬送とかだよね。その時のバイト代とかは?

●もちろん、ないっすね(笑)。でもその時は店でがっつり働いていたわけでもないし、イベントも頻繁にやってるハコでもなかったし。JAZZというコンセプトでやっているから、週一阿木さんのDJとたまにライブをやってくれる人がいてという感じでした。

○どんな感じの場所?ライブもやっているけどお酒も飲めてというカフェバーみたいな感じ?
平野君はその時から週何回か通っていたんだよね?

●はい。カフェーバーみたいな感じです。今でも跡地がありますよ。まあ、家からだったり、奥山君ちに泊めてもらったりして通っていました。

○新譜が出たら店で聴くこともできるし、阿木さんの話も聞けたりということですね。でもjazz cafe〈nu things〉は2004年5月には閉店してるから、期間的には1年だよね。なぜ閉店?

●2Fの店の人と騒音問題で、裁判になってたんですよ。

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2004▼1月10日 <jazz cafenu things〉〉正式オープン
▼5月8日 <jazz cafe <nu things>同じビルの住人からの騒音苦情に耐えかねたため、一時閉店
▼8月8日 南本町で<jaz’room nu things>を再オープン
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○当時のことを岡山ペパーランドの能勢伊勢雄さんに聞いたことがあるんだけど、ビルの1階で外が見えるガラス張りの店だよね。外に音が漏れるし、とてもライブハウスとはいえない造りなんでしょ。

●ライブハウスとは全く違いますね(笑)。ホンマにガラス張りですからね(笑)。一応地下もスペースがあったんですけど、プレ・オープンの時にはイベントをやってたみたいなんです。でも僕は入ったことはないです。

○それで閉店時の裁判はどうなった?

●もうどっちが訴えたのかも憶えてないですね。でも出頭書とか来てたし裁判はやりましたよ。

○結局その後、店は続けられなくて移転するんだよね。そこが<jaz’room nu things>だったんだけど、どうだったの?音は出せた?

●いやあ、そこも同じような感じだったので、音を出せる環境ではなかったです。普通のオフィス・ビルの地下1階で、1階に大家がいて普通に6時までは仕事をしてましたね。ライブやる日も基本的にリハは6時からという感じでした。スタートが遅いのでオールナイトもやってました。

○平野君がヨーロッパに行った2003年頃は、ドイツのCOMPOSTとかNu Jazzの流れでウィーンとかでもライブ演奏をそのままレコーディングしたり、トランス系でもTsuyoshi SuzukiのTokio Dromeとか音響的にそれまでもモノとは根本的に違う音になってきているよね。PAという概念が変わった時期ですね。前段としては90年代にはJUNO REACTORがNovaMute Recordsからリリースしたり、キリング・ジョークのYouthがDragonfly Recordsを立ち上げたり、世界的に大きな流れになってきた。単に爆音というだけではなく身体全体も響くようになって、音響ということばが実態を伴ってきたそんな時期だったよね。
そんな時代に、移転するのは仕方がないかも知れないけど、阿木さんは、なぜガラス張りの店とかだと音を出せないし、トラブルとか起こるのもわかっているのに、その店を選んだんだろう。周りから「もう少し音を下げて」といわれるとわざと音量を上げるような人でしょ(笑)。

《<jaz’room nu things〉での悲惨な生活》

●そうですね。すみませんといえば納まるのに、くってかかってましたからね(笑)。僕は<jaz’room nu things〉に移転したときには、正直関わりたくなかったですね。オープンする前の内装とかの工事は、真夏に自分らでやってたんですよ。8月8日にオープンしているんで、それまで工事しててね。正直にいうと、その前に自分らが工事費用を工面してました。阿木さんもユキさんも僕も奥山君も出していたんですよ。しかも工事とかもやったことがないんでやり方もわからないし、進捗も遅くなるしね。しかも寝る時間もなく体を動かしっぱなしで、おまけに地下だったんで日の光を浴びない日もありました。だからマジで気が狂いそうでした。そんな作業が続いたんで僕も奥山君もおかしくなっていったんです。ある日夜中に作業をしていた時に、事故って3週間入院しました(笑)。未だに骨折した傷あとが残ってますよ。こんなこともあったんでマジでやりたくなかったです。で、そんな状態でも退院してから半ばムリしながら復帰しました。

○エッ、なんで?そこまでの状態で、もういいってならなかったの?普通は逃げるよね。

●その時には、だたの洗脳状態にあったんでしょうね(笑)。

△その資金って総額いくら集めたの?

●みんながいくら出したのかは、分からないですね。僕はレコードとか全部売って10-20万くらいをつくり残りは70-80万くらいですかね。その後店の運営で金が必要になって追加で借りました。だから全部で120万とかかな。

△けっこうきつかったね。日々の運転資金も自分達で用立てる月もあったんやね。

●奥山君も同じく用立ててましたね。で、奥山君はバンドやってたんでライブハウスのことを少しは知っていたんですけど、僕はそれまでは全く知らなかったですからね。もちろん見に行ったことはあるけど、運営に関しては全く知らない。
元々音楽の専門学校に行ってたんですけど、PA学科じゃなくてラジオ番組制作学科だったんです。でも店ではPAとかやってました。ミキサーの使い方が少し分かる程度で基本的なことは出来てなくて、評判は悪かったです。

○でもライブハウスなんで、売り上げもあるでしょ。

●もちろん、定期的にはライブやってましたよ。でも店の売り上げだけでは回らなかったですね。

△おそらく、阿木さんはお金を出していないなあ。平野君と奥山さんとで出してたんじゃない? それで足りなかったらユキさんが用立てるという感じじゃないの?

●いや、ユキさんが一番多く出してましたよ。しかもそれだけでなく、阿木さんの生活費も出してたし。難波時代は僕は出していないです、立替したりとかはありましたけど。

△さっきのスタッフになってバイト代は? というのは愚問やなあ(笑)。

●そうですよ(笑)。本当に(笑)。

△要するに無償で働いて、次の展開でお金を出したということやね。

●でも繰り返しになりますが、ユキさんが一番出しているのは間違いないです。ユキさんが業者にお金を払ったり、飯を食べさせてもらったりしてましたからね。
結局、店では家賃が何とかなるくらいの売り上げはあるんですけど、阿木さん、ユキさん、奥山君、僕といるわけじゃないですか。だから給与としてお金が入ってきたことはないですね。

○ライブのブッキングとかは?

●運営的には、奥山君が先々まで計画する能力があったので主にブッキングしてました。月に10本くらいとかやって、僕は4本くらいです。

△そんな感じで、店が回るような感じにはならなかったの?

●ならなかったですね。結局たまにライブをやって人が入った感じですかね。それに向こうから来るわけではないので自分たちでブッキングしてますから、収入の保障なんてないです。今の0gではやってないですけど当時はノルマ制で出演者にチケットを何枚と売ってもらっていたので予想は立ちやすかったですけどね。それでも足りなかったです。
で、早い段階で奥山君がメンタル面をやられて、やめたんです。ブッキングできる人間が抜けたんであとは悲惨でした。
そこでは6年やっているんですけど、最初の2年で奥山君が抜けたんです。だから残りの4年間は僕も出してたけど大半のお金はユキさんが出していた。

○というか、ユキさんはそのために他の仕事をしていたんだろうな。

●ユキさんは店だけじゃなくて、阿木さんの食費だけでも使ってましたからね。その上阿木さんからずっと文句を言い続けられるような状態でしたし。

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2010▼4月10日 心斎橋アメリカ村で<nu things JAJOUKA>として移転オープン。jazzの文字が消え去った
▼10月 スタジオワープから阿木さんへ仕事の依頼

2011▼2月 現代音楽からグリッチ、尖端音楽、アーカイヴを横断するレーベル〈remodel〉立ち上げ
▼2月16日 remodel01 V.A.『a sign paria – ozaka – kyoto』CD+DVD
▼11月18日 remodel02 V.A.「Prologue:Semantica Records Compilation」
▼8月 完成 リリースは2019.10.21 remodel 03 V.A.「Music」2CD BOX
remodel 04 V.A.「Vanity Tapes」6CD BOX
remodel 05 V.A.「Vanity BOX」11CD BOX
2012▼8月9日 remodel 06 Momus「in samoa」CD+DVD

2012▼3月3日 阿波座に「nu things」を移転
▼11月19日 ストーカー(銃刀法違反)で逮捕

2015 ▼1月 有料制 [ 0g – zero gauge ] web 立ち上げ http://www.zero-gauge.com/
▼3月15 南堀江に新店舗environment : 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント:ゼロジー[ゼロゲージ] をプロデュース/オープン
▼8月15日入院 手術前
▼8月25日サイボーグ人間としてデビューする日 僅かな時間は神からもらったおまけのようなもの
▼8月28日退院

2016 ▼environment 0g ( zero-gauge ) にて毎月1度のBricolage

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《阿木譲の魅力》

△話を戻すと、阿木さんのどこに魅力を感じたの?何にはまったんだろう。

●初めて阿木さんのDJを見た時にかっこいいと思ったのと、話を聞いているうちにだんだんとはまっていきました。音楽だけだったら、そして客としていくだけだったらよかったんですけど(笑)。きっと若いときはモノを知らないので、極端なことをいう人は魅力的に感じたんですね。

△話を聞いていて、なぜそこまではまったんだろうと思って(笑)。

●そうですよね。新興宗教と一緒ですよ(笑)。
まず、自分の好きなものを否定される。かっこいいものはコレって新しい価値観を植えつける。マインドコントロールされていたんですよ。

△阿木さんに説得する力があったんやな。出会った頃ってマイルスを聴いていて、それに変わるものを提示できたんかな。

●その頃は専門学校を卒業してフリーターで、すし屋で働いていていたんです。俺これからどうなるんやろ、という漠然とした不安感がありました。そこにズバッと阿木さんが入ってきました。

△2003年で聴いていた音楽が池田亮司というのは早いよ。『matrix』が2001年だし。

●でも流行っていましたよ。グリッチとか。

△阿木さんは、池田亮司以上のものを提示してきた?

●クラブ・ミュージックがスタイリッシュでこんなにかっこいいものやとその時に思いました。それまではノイズとかメルツバウとかも聴いていたし、アングラな感じが好みでした。
当時はmegoからツジコノリコがリリースされたり、アメリカ村のタワーレコードの3Fの現代音楽のコーナーにずっといました。そこで池田亮司とか初めて聴いて衝撃を受けました。

△整理すると、阿木さんに関しては、まずDJする姿見てかっこいいなあと思って、終わった後話し始めて何回か会っているうちに引き込まれたっていう感じやな。それがあったから2004年は乗り切ったんやな。

●けど、ずっと嫌だと思ってましたよ。この時によくなかったのが自分もjazz cafe〈nu things〉に軽いノリで声を掛けられたので、軽く関わっていたんですけど、でも実態はそうじゃなかった。お手伝いのように関わっていたのにいつの間にか自分でお金を出すようになっていた。寝ずに仕事もやってボロカスに言われたりして、マジでずっと逃げ腰でしたね。今考えるとそれが良くなかったと思います。

△でも奥山さんが2年で抜けて、逃げ腰どころか自分に全部のしかかってきたわけでしょ。やらざるを得ない状況に追い込まれたって感じで。代わりの人はいなかった?

●代わりが入ったとしても、阿木さんはあんな感じなのでうまく行くわけもないし。もちろんライブハウスなので働きたいっていうスタッフ候補が何人も来るわけなんですよ。でも来ても抜けていくし。
だから仕事に対してもモチベーションが上がらない状態でした。やめたいと思って仕事をやっててもうまくいくわけないじゃないですか。ずっと正気じゃなかったと思います。
それで、ようやく正気を取り戻したのが、阿木さんがストーカー事件で捕まった時位からですからね(2012年)。その時から自分でも普通に阿木さんに言い返せるようになった。

○1年毎に聞いていこうかと思っていたけど、この激動の6年間の話はすごいなあ。

●えぐい話しか出てこないですよ。

△平野君にとって阿木さんはそれだけの魅力があったんやね。

●それって魅力というんですかね。マインド・コントロールですよ(笑)。僕もふわふわしてた時期だったし(笑)。

○逃げたいけど逃げられない。オウム真理教のようにマインド・コントロールされているような状態から脱却できたら、自ら何していたんだろうと思えるけど、その渦中にいた時には分からないのかも知れないね。好きでいるわけじゃないのに抜けられないというのは、こんな感覚かもしれない。
もう一度聞くけど、あの6年間の記憶の中で阿木さんからこんな話を聞いたとか、こんな姿を見て感銘を受けたとか阿木さんが書いた文章とか残っている?阿木さんってその頃何してた?週末にDJしたり、他には?

●たしか当時は雑誌『remix』に連載してましたね。他は外に発信するとしたらブログかな。

○この頃って雑誌も作ってないし、『BIT』にしたってカタログ本になってたし。それもなくなったら発信はブログだけ?

●そういえば今思い出しましたが、阿木さんがBlue Noteの音源でDJをやったときはめちゃかっこよかったですね。1500とか4000のhard bop期のジャズですね。<jaz’ room nu things〉後期から<nu things jajouka>の初期中期くらいですね。2009年から2011年くらいですかね。Club Jazzの頃と比べても断然hard bopやってた方がかっこよかった。

○「かっこよかった」というのも分かるけど、音楽は体験芸術やから、その音楽に出会ったら世界観が変わってしまうくらいの衝撃があるでしょ。阿木さんも新しい音楽に出会うことにより変わっていったと思っているんだけど、Jazzの時期が一番よくわからない。さっきもいったけど、僕はトランス・ミュージックとの出会いで世界観が変わったんだけどね。

●阿木さんはゴアトランスとかは全くないですよ。Rising Highとか初期トランスのレーベルはありましたけど、そこからブレイクビーツの方にいったんだと思います。その辺りは〈cafe blue〉(1993年)の頃ですね。

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『E』1990年
1990年に〈M2(Mathematic Modern)〉、1993年に〈cafe blue〉をオープン。
1999▼6月1日 『infra』創刊準備号刊行
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○2010年にオープンしたはライブハウスとしてはどうだったの?前のようにガラス張りとかではないでしょ。

●ガラス張りでしたが自分らで工事したのもあるし、心斎橋アメリカ村なので苦情は来なかったですね。結構音は出してました。でも今(0g)の方が出してますけどね。

○2010年になると平野君は阿木さんの右腕的なスタッフになっているわけでしょ。だってミュージシャンとの付き合いやブッキングとかもやっているわけだから。で、アメリカ村に移った経緯は?

●本町から移った経緯は、家賃滞納です(笑)。

○いつもの感じやなあ(笑)。で、の方は経営的にどうだったの?

●ダメですよ(笑)。地獄でした(笑)。タイミングが悪かったのいうのもあったんです。風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)の問題もあったんですよ。地震もあったしオールナイト営業ができなくなった。家賃も60万円ぐらいはしてたんで経営的にもひどかった。本町の時でも50万くらいだったのに。

○そんなに。さっきの話ではブッキングしたバンドにノルマがあったとしても結構難しいよね。

●でも場所はよかったです。キャパも余裕で100人は入るし広かったです。

○ちょうど、その頃は中村さんも登場してくるし、TOKUDA君とかAOE君とかも関わってくるよね。それまでと違って何か始まりそうな予感とかあったんじゃないの。

●TOKUDAさんは音源をMySpaceに上げていて阿木さんが見つけたんですよ。で、まず音楽的に変わりましたね。
時系列で整理すると、△僕と一緒にやるときには、Jazzは一切無しで。

○ここで今に繋がる流れになったんですね。中村さんとの出会いがその契機になったのは間違いないな。
でも阿木さんらしいといえば、そうですね。『ロック・マガジン』の変遷を見てても分かるけど、一気に変わっていますよね。

●店としては、今までJazzの付き合いもあったのでバンドのライブとかはあったんですけどね。阿木さんとしてはJazzはもうなかったですね。

△『a sign』をやるときには振り切ったよな。みんなにRaster-Notonみたいなことをやらしたんやからね。成功したものも違和感のある音源もあるけど、Jazzという記号をきっぱりと振り切ったタイミングやね。それに何か起こりそうな予感もあり、阿木さんも張り切ってたよね。

○そうなんですよね。きょうレコードにUPされている当時のブログを読んでも、阿木さんの期待感は半端じゃなかった。
この辺りを俯瞰すると、1995年以降でもレーベルでいうとStefan Betkeの~scapeとかAutechreでもMarkus PoppのOvalでもいいんだけど、ヨーロッパを中心に新しいエレクトリック・ミュージックが出てたわけでしょ。池田亮司とか面白いと感じたのもその頃だと思う。クラブ系でもモーリッツ・フォン・オズワルドのBASIC CHANNEL(1993年)もあの頃でしょ。単なるミニマル・テクノでもないしね。既にWARPが1992-94年に『Artificial Intelligence』をリリースしていたし、1993年にはPan Sonicが結成されているしね。

●Autechreの「CONFIELD」(2001年)なんかも超名盤だけど。逆に阿木さんは通ってないんですよね。Autechreのそれ以前の作品はもちろん持ってはいたんですが。

△だから2010年に全部持ってきたという感じやね。丸々ね。ここで気がついたのか。阿木さんにとっては全部が新譜だった。

○その頃のブログをみると、『ロック・マガジン』を再整理しているし、2010年に出会った新しい音源とインダストリアル・ミュージックやDAFやDie Kruppsとをもう一度つなげようとしているのがわかる。

△その辺りのズレが阿木さんをリスペクトできなくなった契機となっているのかな?

●それでも阿木さんのJazzはかっこいいと思ってました。当時表出してきたダブステップも少し聴いていたのですが、心に余裕がなくて自然と聴かなくなりました。レーベルでいうとHyperdub(2004年)とかアーティストでいうとBURIAL(2005年)とかね。

△僕と仕事をするタイミングで一気にという感じ。阿木さんはめちゃくちゃ燃えてたよなあ。またレコードもむちゃくちゃ買い始めたしね。その辺りの感じはブログからも感じられるよね。

○文章のタッチも熱が入っていると思った。平野君とか内部からはその頃の阿木さんとかどう見えていた?

●そんなことは全然感じなかったです(笑)。

△家賃の60万のプレッシャーが全部かかってたからね(笑)。且つPAのセッティング、当日のオペレーションまで何もかも平野君がやっているわけだから、あまりにも忙しすぎて憶えてないよな。
2004年の立ち上げ時とあまり変わってないくらい忙しかったから。△現場を滞りなくこなす、という以外のことは考えられなかったんだよね。海外から大物が来てたしね。
ペーター・ブロッツマンとか来たし、それなりに準備が大変やったでしょ。
この辺りは阿木さんとの関係はどうだった?

●ブロッツマンとか北欧ジャズのライブはマーク・ラパポートさん(音楽ライター、評論家、プロデューサー)がほとんど準備してくれていたので、意外に大変ではなかったです。まだ阿木さんとはどっぷりの関係でした。少し前から気持ち的に切れたりはありましたよ、でも面と向かってなにもいえなかったですね。
だから阿木さんからの洗脳から抜け出せたのは、2012年のストーカーで逮捕されたときくらいからでした。

△スタジオワープが阿木さんとの関係を解消して引き上げてからやなあ。

○当時中村さんとやってたremodelはどうなってたの?

●イベントはいろいろやってたけど、発展はしなかったですね。


△2012年8月にMomusの『in samoa』(remodel 06)をリリースしたけど、その3ヵ月後に逮捕されているからね。

○remodelの後のイベントは阿波座に移ってからですね(2012年3月)。阿波座はどんな場所?

●普通のマンションの地下一階ですね。家賃も25万くらいでしたから、前よりは安かったけど規模も小さくなりました。それでもうまくいかなかったですね。
ドリンクが足りなくてちゃんと出せなかったらイベントに支障があるじゃないですか。当時は売り上げの全額を阿木さんやユキさんに渡していたので自分で把握していなかったんですよね。だから店で本当に必要なものも買えないし、知らないところでお金が減っているので、やる気もだんだんなくなってくるし。店をするならお釣りを用意するとか必要な飲み物を仕入れるとかありますよね。でもキャッシャーはユキさんがやっていて、僕の手元には金がないんですよ。
今となっては完全に反面教師ですね。必要なものは多少無理してでも買うし。当時も必要なのはわかってたけど、何も出来なかったですね、金がなさ過ぎて。

《ストーカー事件以降》

○ストーカーでつかまった時は?

●ストーカーではなく銃刀法違反ですね。包丁を持っていったから。阿木さんには前日にもあれだけ「そんなものもって行ったら絶対に捕まりますよ」と忠告してたんですけどね。

○そうか、やっぱりおかしくなっていたんやね。

△スタジオワープが切ってからおかしくなった。打ち切ったのが発端にあると思う。

●これから始まるという気分も盛り上がったところでうまく行きませんでしたからね。

△『Vanity Box』という現物まで作ったけど、アーティスト側から阿木さんには権利がないといい出して、引き上げざるを得なくなった。2010年から2011年夏くらいにかけて、やり取りの中で阿木さんとしてはアーティストにつぶされて、僕はアーティスト側について、結局引き上げた。この時からおかしなったんやろな。

僕はその辺りの記憶はないんですけど、相当荒れてましたね。中村に電話しろってしょっちゅういってましたね。

△本人は、もう一回やりたかったし、Vanityも出して欲しかったやろな。

○remodelプロジェクトの発端となった京都のMETROで阿木さんがraster-noton(ラスター・ノートン)のカールステン・ニコライと会ったときの話を教えてください。

△それは、remodelでコンピレーションを作るという企画を阿木さんが出してきて、カールステン・ニコライとかOVALを入れるということになっていた。スタジオ・ワープとしては既に仕事としてお金を出す話もしているしね。そこで、阿木さんがいきなり彼らに連絡したんですよ。ても訳の分からないところでのコンピレーションに参加することもあり得なかった。そこで糸魚健一さんが見るに見かねて阿木さんとカールステン・ニコライとの場をセッティングしたんです。でも結果はまとまらなかった。
結局、阿木さんは自分のいうことをきくアーティストを集めて『a sign』をリリースしたんです。
僕は『a sign』は失敗だと思っていて、その段階で引き上げようと思っていたんです。Vanityの原盤権の件がなくてもね。だって、阿木さんに前金で30万払っていて、その金額に見合う仕事が出来なかったら、引き上げるのが当たり前でしょ、仕事だからね。もう少し有名なアーティストはいないのかというOVALからの返事が今でも残っていますよ。
スタジオ・ワープとしては、阿木さんを通してアーティストにオファーしているということですからね。それまでの信頼関係がないとコンピレーションとしては成り立つわけないわけですよ。

○阿木さんは相当ショックだったと思います。通用しなかったということなんですね。カールステン・ニコライとかOVALとかの関係を結べなくて。
彼らの音楽のルーツなり、目指している音楽の方向性なりを語れなかったのではないかと思うんですよ。あなたの音楽の方向性と僕の求めている音楽性が一緒なのでやりませんか?といっても通用しなかったのかも知れないですね。
70年代後半から80年代前半までは『ロック・マガジン』もあったし、ロンドンには羽田明子さんもいたし、Vanityもあったし『Fashion』もあったから、僕は時代に対してこうですといえたわけですよ。

△そうやって、阿木さんとカールステン・ニコライを繋ごうとしている姿を見て、阿木さんよりも糸魚さんの方がいけると思った。だから糸魚ラインになった。僕からすると仕事だし、ノーギャラじゃないんですよ。
さっきの話だけど、Vanityの権利関係の時にアーティスト側に付いたのがものすごくショックだったと思う。だから怒りの矛先がストーカーの方向にいったんだと思った。

●それに店もうまく回ってなかったんです。相手の女性も阿木さんがいやになって別の男の人と付き合い始めたという感じでした。

《晩年の阿木譲の活動について》

○2014年にはストーカー事件の後、それまでのブログを消して「a perfect day」を始めるわけですね。東京の美術館に呼ばれたりDJをしたり。東京都の関係が出来てきたということでしょ。

●美術館でDJをしたのは、FRUEっていうイベントがあってその人が呼んでくれたんです。阿木さんがSVRECA スヴレカのことを初期のブログに書いていてそれを読んでいたんです。

△SEMANTICAのことやね。
※『REMODEL 02 PROLOGUE』スペインのSemanticaレーベルの首謀者Svrecaとコラボレートしたコンピレーション・アルバム
阿木さんは全部自分がやってるみたいなことをいってたけど、そうではない。僕は、彼らにも阿木さんにもギャラを払って、もちろんマスタリングもちゃんとやった。そして最終的に作品化して商品(remodel)として流通させるところまでやったから、信頼関係もできた。阿木さんはその流れに乗ったということやね。だから阿木さんにとってはremodelをやったメリットはあったよね。

●そうですね、SVRECA スヴレカと繋がったのも大きかったです。またそのremodelから美術館でのイベントやBUNKAMURAでの秋山伸さんへと繋がったわけですね。埼玉県立美術館の梅津元さんとかの絡みですね。紹介してくれたのが、inframince [アンフラマンス]の岡村英昭さんでした。

△いや、秋山さんを阿木さんに紹介したのは[a sign]にも参加したバンドVELVELJINのマナさん?。仕事としてはMOMUSのジャケットデザインをやってもらった。だから5万円のデザイン料も払ってからの付き合いです。
こちらとしては阿木さんを見切ってても仕事としてはちゃんとやっているわけですよ。
※remodel 06-C MOMUS『REMODEL 06 IN SAMOA』

○そこまできっちりやってたから、信用も出来て阿木さんに声がかかったということですね。僕はもっとクリエイティヴな感じで偶然に現場で知り合ってとか、ずっと阿木さんが尊敬されていて招待されたとか、そんなイメージを持ってました(笑)

△それはないよ(笑)。僕が築いたものを阿木さんが自分でやった、というのはいいんですよ。ただ内実をいうとSEMANTICAについては2枚目が出なかったし、提案はいっぱい阿木さんからありました。でももうその段階でVanityのアーティスト側に付くと決めた後だったから、もう一回やるという選択肢はなかった。

○そうか、2014年以降の東京から呼ばれたり、阿木さんのデザインとしての仕事を再評価されたり、アーティストと出会ったり、光の部分かなあと思っていたんですけど(笑)。
でも、先ほどの美術館の人とか椹木野衣とか高校生くらいの時に『ロック・マガジン』を読んでいたわけでしょ。それで今はキュレーションしたり人を呼べる力もあるから、阿木さんを尊敬していてね。その部分もありますよね。でもremodelとかの実績があったから呼ばれたんですね。じゃないともっと早くにキュレーションされていると思う。

△ストーカー事件の後だったというがミソやね。その頃は相当精神的にも塞ぎ込んでたからね。だから阿木さんにはもっと元気出して欲しいという流れがあったんだと思う。

○でも東京方面からのオファーは、2014年だけでしたね。2015年には手術するし。平野君はこの辺りの阿木さんをどのように見ていた?

●東京の人間関係は広がるなあと思いました。でも個人的には阿木さんへの気持ちが冷え冷えでしたからね、だから正直関わりたくないという感じでした。自分の視界に入れたくないくらいの気持ちでした。ストーカーやったのに俺は何も悪くない、相手もまだ俺のことを思っているとか、もうムリって(笑)。阿木さんにはげんなりしてました。
その時は精神的におかしくなったというより、元々自己愛が強すぎる人やから、何の話をしても自分の方向に持っていくし。相手を否定して自分が正しいという持っていき方には本当にうんざりしていました。

△その頃に、スタジオワープに電話してきてうちの子に自分が正しいとかいってたのは知らないでしょ。

●それは知らないですね。
大丈夫ですか。今まで美しい話は一切出てきてないですよ(笑)。
今、中村さんと一緒に仕事をやっててよかったと思うのは、アーティストにオファーして、断られたらしゃあないと割り切るじゃないですか。阿木さんだったら、「なんでや!すぐ電話しろ」ってことになりますよ。

○それは昔からそうだった。『ロック・マガジン』の時でもスタッフに連絡つかなかったら大変だった(笑)。

《environment 0g [zero-gauge] エンヴァイロメント ゼロジー [ゼロゲージ]》

○2015年に0gがオープンしてるよね。場所は前よりどう?家賃とかはどうしてたの?

●場所は狭くなりました。保証人になってくれたのは林さんともう一人です。家賃は今までの中で一番安いですね。店の経営に関しても、阿木さんに金が渡るのだったら何もしたくない。こいつのために利益になることは何もしたくないと思っていました。関係性としては最悪でした。
阿木さんが亡くなる2年前くらいからようやく店として回りだしたという感じです。金の流れもむちゃくちゃすぎて分からなかったです。さっきもいったけど、売り上げは全部ユキさんにいって、その中から1日に3千円とか4千円が阿木さんの飯代と消えていくわけだし。
本町の時にユキさんが骨折してまだ杖をついているのに、買い物に行けとかいってたんで、さすがに、それは見かねて一緒に行ったこともあります。当時から阿木さんに対してはいい感情はなかったです。

○阿木さんが亡くなる日(2018年10月21日)のことは、平野君が書いた文章を読んだんだけど、その前も世話してたの?

●しょっちゅう電話がかかってきて阿木さんのマンションに行ってましたよ。ただ正直もう会いたくなかった。うちの親父も調子悪かったんで、それを口実に実家に戻っていました。

○そうか、で最後2018年10月21日に呼ばれて行って。

●それでも週に2-3回は会ってましたからね。家で体拭いたりとかそんな感じですね。ガチの介護ですよ。

○亡くなったときは、どう思った?

●死んだなあって感じです。これからどうしていくかとかは考えましたね。しかも当日の21日にイベントがあったんですよ。16時15分くらいだったんで、病院からオーナーが亡くなったんで遅れるからちょっと待っててって出演者にメールしました。週明け月曜は東瀬戸さんが組んでくれたイベントがあったんです。かぶっていたしバタバタだったんですよ。

○それで葬式なんだけど。みんな集まったんだよね。

●葬式じゃなくて、火葬ですね。林さん、宮本さん、ユキさん、東瀬戸さん達7名が集まって火葬しました。

《これからの平野隼也の活動方針》

○今後平野君がやりたいことなど活動計画を教えてください。考えていること。まずはremodelのディレクションですね。場所を継続していくということはあると思うんだけど。

●深く考えてないんですよ、自分って流されて生きているなあと思っています。だからPOSTコロナとか考えてないです。その時に時流に乗ってやります。こんな鈍感な性格が、いいところでもあり悪くもありと思っていますね。だからPOSTコロナとか全く気にしてないし。
remodelでどんなミュージシャンを扱っていきたいかというと、電子音楽って範囲が広くってテクノやハードコア、ブラック・メタル、ベース・ミュージックから来た人、いっぱいいるんですよ。それらのルーツが違う人を0gという場所で結び付けたいと思っていて。近そうに見えるけど近くない人を結び付けたいなと思ってます。僕は全部好きなんですよ。

○平野君は本当にものすごい数の音楽を聴いてきているし、そんな試みも面白いと思う。

●時代のトレンドとかマジで追ってないんで。だからこのままやっていきますよ。

○自分の中で文脈を作ってやっていく感じ?ライブハウスってカラーがあると思うんですよ。レーベルでもね。MUTEだったら、こんな音みたいなイメージがあるように、こんなカラーで自分にあっているか考えると思うんだけど。
そういう方向性を出していくのではなく、そんなのは決めずにやっていきたいということですね。

●ごった煮にしたいですね。ゼロゲージは阿木さんが亡くなる前から2年間任せてもらっていますが、やりたくないことは一切やってないですね。自分のわがままをひたすら貫いていきたいというのはあります。
答えになっているかどうかわかりませんけど。
これに関してや、今までのこと、これからのことなどは自分でも文章を書かないといけないと思います。。。。

△remodelとしては、これからEVOLもリリースするし、Junya TokudaのLPを出したし、今日の話でも阿木さんを見切っているのも良くわかったし。深く考えないというところで十何年間阿木さんと一緒に仕事をしてきたのもわかった。
ストーカー事件以降は、阿木さんがいてもいなくても自分のやり方をしているしね。ただ、音楽だけは続けようというのが一本筋が通っていたから。ここでライブをやってCDがリリースできて海外のマーケットに流れて、そんな単純な喜びでやっていくのかと思うけど。ある種、阿木さんの理想だったのかも知れないね。
平野君がやりたかったことがやれる状況になって、阿木さんのことも語れる状況になっていたということじゃないのかな。

○阿木さんが亡くなってremodelをもう一度やろうかな、という思いになった理由が、平野君だったからですよね。彼はずっと音楽を聴き続けているし、remodelの再開も中村さんと平野君の3分間の立ち話で決まったんでしょ(笑)。

△深く考えなかったもんな(笑)。深く考えたら、やめとことなったと思う。だから立ち話で『a sign 2』をやろかで決まったんですよ。ただこの流れはコロナじゃなかったら、ライブとリリースがもう少しうまく出来たかもしれないとは思うけどね。最初に話したのはコロナ前だったからね。

●ブログにも書いたんですけど、CINDYTALKに出てもらったときに「出ているミュージシャンをリリースしなよ」という言葉をもらってたんですよ。やりたいけど、そういうノウハウないしなあと思っていた。そんなタイミングで中村さんからremodelの話をもらったんで、ビックリするタイミングだったんですね。
※ブログ “備忘録 – CINDYTALKとの出会い、REMODEL再始動 –“
https://nuthings.wordpress.com/2021/04/13/

△僕の中ではCINDYのリリースについてもやらないよりはやったほうがいいという結論だった。一回やってみようということで、ここまで来たという感じですね。もう7-8枚リリースしたね。
阿木さんから影響を受けたんじゃなくて、阿木さんを反面教師にしているよね。それは意味があったんやろね。

●阿木さんだったらPOSTコロナっていっぱい喋ってると思いますが、そんなのがウンザリだったんです。だからPOSTコロナはどう思うかって、考えてないですよ、という答えになる(笑)。
でも単純化しすぎているなあともう少し考えた方がいいとは思ってるんです(笑)。

△ただ言葉じゃなくてやっている強みがあるからね。数的にも前のremodelを超えたからね。

●しかもremodelはいい曲しか入っていないという自信もありますし。

△特に2011年のremodelで強調したいのは、阿木さんがやってたというより、スタジオワープが阿木さんを雇っていたということだからね。ギャラを出しているからね。だからremodelを一緒にやっているといわれると心外やね。レーベルの名前を決めたらお前のものかということになるしね。それは違うだろうとね(笑)。

●最後に阿木さんのいい話をしておきましょう。
阿木さんの言葉で記憶に残っているのは、アメリカ村の時ですけど、若いミュージシャンに対して「お前らは場所があるのがどれだけ大切か分かっていない」と言ってたけど、ようやく分かってきた気がしますね。場所があったからこうやってやってこれたし、レーベルもスタートラインに立てたしね。場所がいかに大切かを教えてもらった。

△レーベルも場所だしね。二つ場所があるわけやから、本当はこれが阿木さんがやりたかったことやと思うけどなあ。

○佐藤薫さんとの話でもヴェニューということばが出てきたけど、元々は待ち合わせ場所とかの意味だけど、今はもう少し広い意味で汎用的に使われるよね。『ロック・マガジン』を編集していた頃だけど、阿木さんに場所のノウハウがないから佐藤さんに相談してたみたい。阿木さんは『BIT』までやってたけど、その間も店(場所)は続いていたんですよね。僕が阿木さんと知り合った頃は、雑誌も作ってたし、レーベルもあったけど、その頃から場所を作りたかったんだと思いました。

△阿木さんにとっては、存在証明と自己顕示でもあるしね。場所を持ち続けて言いたいことをいえる背景をムリにでもつくったと思うけどね。だから内実が伴わないと評価は難しい時代になって来ていると思う。

●僕は阿木さんと関わってきて、金のことでいろんな人に嘘ついて金を借りたりして返せていない状態なんですけど、今は嘘つくこともないんですけど、そうして不義理をした人に対して返済したいという気持ちになってます。過去の清算という意味でですけど。ここをきっちりしないとスタートラインにも立ててない気もするし。

△でもremodelの6枚を超えたというのは大きいよね。それにその内3枚(Vanity)は生きている間に出せなかったからね。平野君に声をかけたときに絶対6枚はやろうと思ってたよね。現在でその枚数を超えたし、次のリリースも決まっているしね。8枚はもう決まっている。

○でもremodelはいい音響システムで聴かないとって思うよ。Isolate Lineの作品とか家だと全然ダメですね。0gとかそれなりの音響設備があるハコで聴くべき音楽だと思いましたね。

●爆音で聴く音楽ですよね。体験ですよね。

△彼の持ち味が出ないかも知れないですね。

●2022年にリリース予定のEVOLと知り合ったのも、彼の新譜を探したけど売り切れていて、いろんなサイトを探してやっと見つけてメールでやりとりをしたらメンバーの1人であるRoc本人だった。偶然なんですよ。で、あなたのファンで、こんな店でこんなレーベルやっていると自己紹介して仲良くなったんですよ。その後オファーしたら喜んでくれたんですよ。

△これからは、僕らがリリースしないとあかんな。


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《阿木譲への手紙・・・インタビューを終えて》

0gという「場」、そこでやっていることを現場以外にも発信するメディアとしてのremodel、この両輪があってこそ他にはない活動ができると考えているので、新たな出会いを求めています。
現在は電子音楽と一括りでいっても現代音楽、テクノ、アブストラクト・ヒップホップ、エレクトロニカ、ノイズ、ハードコアパンク、ブラックメタル、ニューウェイヴ、アンビエント、即興など様々な音楽にルーツがあり、ルーツの違うアーティスト同士が密接につながることが少なく、それらをつなげることにより新たなものが生まれると信じています。
0gで出会ったアーティストと共に音楽を媒介とした未知なる体験、異形のサウンドスケープを現出させ続けたい。

environment 0gへと移り阿木譲氏が体調を崩し、ブッキングだけでなく金銭を含め運営をほぼ任されるようになりようやく「場」として整ってきたのは皮肉なものです。

阿木さんが自分の死期を悟った時、電話で呼び出され向かうと「最後に何か言うことあるか?」と問われる。息が詰まる。ようやく絞り出した言葉は「今までありがとうございます」だけ。「ありがとうございま”した”」、でなく「ありがとうござい”ます”」と言ったのは、すぐに訪れる別れを受け入れることがまだできなかったからですが、うまく伝わらなかったように思います。それを聞いたあなたの「なんだそれだけか」と言わんばかりの失望した表情は、今でも脳裏に焼き付いています。その表情を見て言葉を探すが見つからない。「まだ死ぬには早いですよ」なんて今のあなたを見て言えるわけがない。自己愛の強いあなたは最後に褒めて?肯定?して欲しかったんだろうと思います。しかし今まで見て見ぬ振りをしていたあなたと僕の間にある深い溝が2012年以降看過できないものとなったのはわかっていたでしょう。
病に苦しみ「首を吊るからロープを買ってきてくれ」と何度も電話してきましたね。真意はそうでなく助けてくれという叫びだったと思いますが、父の病気やイベントを口実に避け続け、あなたの苦しみ、辛さ、恐怖を受け止めることはありませんでした。
もしあともう少し僕が仕事ができたら、もしあともう少しあなたが人に優しい言葉をかけることができたら少しは違ったでしょう。

あなたからの強い影響、それは呪縛といっても過言ではないもの。
あなたと出会い18年目となる今、それから自由になりようやくスタートラインに立てたように思います。

nu things JAJOUKA時代にイベントの後に「お前たちは場がどれだけ大事かわかっていない」と言ったことを痛感しています。
あなたと出会う前の若かりし自分はロック、トランス、ノイズ、テクノ、ブレイクコアなど様々なジャンルの現場に行き、結果そのどれにも馴染めなかった。
nu things時代は自分の場をつくろうともがき、仮想敵と戦い、失敗し多くの方に迷惑をかけっぱなしでした。
0gは自分のわがままを通し、美意識を全うする場だと思っていて、それに賛同してくれる方がこんなにもいることに驚き、感謝しています。

あなたがいなくなってから1年ほどは僕の口から阿木譲の名を出すことは憚られました。自分のやっていることにまだ自信がなく、虎の威を借る狐の様に思ったから。

しかし今は阿木譲の弟子であるといっていきたいと思っています。

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○インタビューを終えて
考えてみれば、『ロック・マガジン』も含め歴代スタッフの中で平野君が一番身近で阿木をサポートをしてきたことが良くわかるインタビューだった。途中で逃げ出すこともせず、その期間は亡くなるまでの15年にも及ぶ。そして彼は阿木さんとは全く違う方法で音楽との向き合い方をしてきた。
阿木は音楽を通しての人との関わりから、言葉という記号に遊ぶことにより世界を認識する方法を発見した。だたしこの認識論には「感覚」という一種の思い込みや独断に左右される危うさもあり、はたして時代と向き合った時に、読み解けていたかどうかは、甚だ疑問である。しかし、その孤立主義的な生き方は阿木らしかった。僕はそんな阿木が好きだった。
そんな阿木とは違う方法で、音楽や時代と対峙しremodelを引き継いだ平野君は阿木にはない柔軟性をもっている。彼は阿木の歪な社会に対する考えを反面教師的に捉えているようだ。0gというヴェニューを拠点にremodelのミュージシャンを発掘し育てて、自分も刺激を受けながら活動をしていくのだろう。
そうして、溶けて移ろいゆく未来の響きの中で、その展開が楽しみである。