『阿木譲の光と影」シリーズ 第一弾 KENTARO HAYASHIインタビュー
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦
「魂に降り注ぐ音楽」
晩年の阿木譲に関わりのあったミュージシャンから話を聞きたいと常々考えていた。
まずは、阿木がその作り出す音響を「柔らかい機械だ」と高く評価し、信頼を寄せていた電子音楽家KENTARO HAYASHI。
そんな彼の作品『PECULIAR』は、阿木が亡くなってからremodelからCD、その後イギリスのOpal TapesよりLPとしてリリースされている。なぜ生きている間に阿木自ら立ち上げたremodelから世に出されなかったのだろうか。そんな思いもあり、話を聞いた。
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KENTARO HAYASHI (林 賢太郎)
紹介
https://opaltapes.com/album/peculiar
http://www.ele-king.net/review/album/008207/
https://twitter.com/KENTAROHAYASHI_
http://www.bath-studio.jp/
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【阿木譲との出会い】
○こんな感じで林くんと話をしたことなかったよね(笑)。よろしくお願いします(笑)。
●そうですね。こちらこそ、よろしくお願いします(笑)。
○まずは、音楽との出会いは?どんなところから?
●学生の頃にギターを買って練習していましたが、友人がDJ Krushのレコードを聴かせてくれて、ミキサーで遊んでいるのを見て衝撃を受けて、クラブミュージックに興味を持つようになりました。
○具体的にはどんなジャンル? どんなミュージシャンが好きだったの?
●アブストラクトが好きでMo’ WaxやNinja Tuneのレコードを集めてました。ブリストル系も好きでしたし、HIP HOPのプロデューサーも好きで聴いてました。そのあとハウスやテクノに傾倒してDJをしていました。とにかくクラブでずっと遊んでました。ただしばらくして、それにも少し飽きてしまったのですが、それに変わる新しい音楽を見つけることができず、しばらくそこから抜け出せずにいました。その他のジャンルも幅広く聴いていましたが、自分がやる音楽という感じではありませんでした。
○自分がやっている音楽に停滞感を感じていたんだね。
●2009年のYCAM(山口情報芸術センター)での池田亮司のライブを体験したことで四つ打ちの呪縛から解放されて、何か新しい音楽やジャンルが生まれてくる可能性を感じたのを覚えてます。そのあとすぐには見つかリませんでしたが、しばらくして新しい音楽を見つけることができました。阿木さんとはそんなタイミングで出会いました。
○阿木譲のことが出てきましたね(笑)。阿木さんとの出会いは?いつ、どこで、どんな状況で?
●2013年にアーティストを検索していたら、何回か阿木さんのブログに引っかかって、この人誰だろう?と思ったのが最初です。0g(雑誌)の1冊目が販売されるタイミングで大阪阿波座のnu thingsに初めて行き、そこで初めて阿木さんに会いました。2014年1月27日です。
○阿木さんが新しいブログ「a perfect day」を2013年1月に再開したその頃の話だね。
以前のブログが復元されているけど、音楽を聴いて空気感なり時代感をリアルなものとして言語化している。 阿木さんらしさが感じられる独特なものだ。
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きょうRECORDSのHPで阿木 譲の晩年約10年間の資料的価値が高いブログが復元されている。(継続中)
以下がそのURLなのでアクセスして頂きたい。
「talkin’ about nu things」 Agi Yuzuru
CASCADES 「ジャズ的なるもの」からブリティッシュ・ロックへの回顧 / 阿木 譲
BRICOLAGE 「ジャズ的なるもの」からクラブ・ミュージックへの回顧
KLINGKLANG 「ジャズ的なるものから」ジャーマン・エクスペリメンタル・ミュージックへの回顧
NO WAVE 「アブソリュートリー・フリー」から「ミッシング・ファウンデイション」のニューヨーク
「0g(zero-gauge)」Agi Yuzuru
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○この段階で新たに音楽を作り始めていた?
●企業に音楽を提供したりはしていましが、その頃はまだ自分の音楽は作れていませんでした。一時期オーディオ・ヴィジュアルが音楽の進化する形だと思っていて、色々と模索していましたが、しっくりきていませんでした。でも阿木さんがブログで紹介しているようなダークな音楽が、アブストラクトやブリストルの音と重なる部分があって、テクノやノイズ、現代音楽の要素を吸収して、進化して戻ってきたような印象を受けました。阿木さんはコンテンポラリー・モダン・ミュージック( Contemporary – modern music )と言っていましたが、アンダーグラウンドな雰囲気を持った音楽が、より洗練されて戻って来た感じで、新しいデザインがどんどん生まれてきて刺激的でした。ヴィジュアルがなくてもいいし、自分の中で音楽がまた先頭に立った感じです。真っ暗な中でテクノを聴いていたように、音に入っていけるような感覚があって、この頃にもう一度自分の音楽を作りたいと思い始めました。
○あのブログも言葉だけじゃなくて映像や画像やデザインも含めて『ロック・マガジン』や『EGO』みたいに編集していたと思っているんですよね。印刷物じゃないからひとりでどんなことも出来るしね。特に復元された過去のブログはその特徴が顕著に現れていると思うので、林君が阿木さんに出会う前のものなので見てみるといいと思う。
ところで、阿木さんと会ったときに印象は?
●怖そうなイメージでしたが、実際会うと気さくで紳士的な印象でした。音楽を作っている事を知って、「ミュージシャンの林くん」と紹介してくれたり。帰る時に「音楽頑張ってください」みたいに丁寧に言われて。
○その感じは昔から変わらないな。最後に阿木さんと0gで会ったときもそんな感じだった。
●初めて会った日に「これから音楽はどう進化しますか?」って質問したら、「まだわからない、まだ数が揃ってないから、はっきり見えない」と言っていて、正直な人だなと思いました。文脈をパズルみたいに組み立てるのが面白いと言ってました。俯瞰して見てるんだと。
○実際に話してみて阿木さんの印象は?
●音楽に対してまっすぐというか、70歳を超えても、まだまだ音楽で何かやってやるんだ、音楽しかない、音楽が一番面白いんだという姿勢が印象的で、僕にポジティブな影響を与えてくれていたと思います。
○阿木さんとの出会いが、その後の音楽家KENTARO HAYASHIに与えた影響は?
●阿木さんに出会わなければ、今のように音楽活動ができていなかったと思います。阿木さんに言われて、「SUBSTRATUM」というイベントを始めたのがきっかけです。1人でDJとライブをやってましたが、お客さんが少なくても、店の隅に座って聴いてくれて、感想やアドバイスをしてくれました。「間違った事はやってないんだから続けろ」って励ましてくれたり、気にかけてくれていたと思います。
○やっぱり、その辺りは昔と変わっていないな(笑)。
●阿木さんが今まで気にかけて、近くで活動したミュージシャンは沢山いると思いますが、僕もぎりぎり間に合った感じで、「林で最後だな」と言ってました。0gでイベントを続けられた事で今の自分のスタイルができたと思います。
○2014年からだと最後の4年半だね。そこからの付き合いは深かったね。
●月1ペースでやっていた阿木さんのイベントにはほとんど行ってましたし、阿木さんを通して新しくて刺激的な音楽に沢山出会いました。0gで新譜をみんなで聴くのは楽しかったです。阿木さんも「新しい音楽をみんなで聴いたり、話したりする時間が最高だよな」と言ってました。イベント終わりによくファミレスに行って話をしていました。
○今に繋がることとは?
●阿木さんの近くで先端音楽に触れたのは、今の自分の音楽スタイルに繋がっていますし、Opal Tapesのレコードを初めて聴いたのも阿木さんのイベントだったと思います。また0g で出会った人や、東瀬戸さん、中村さん、嘉ノ海さん、能勢さんとの縁も、今日のこの時間も阿木さん繋がりだと思います。東京のイベントに呼んでもらったりもそうですし、色々な人たちと繋がるきっかけになっています。遡ると阿木さんがいるみたいな感じです。
○毎年夏にベルリンに行っているよね。(現在はCOVID-19で中断)
●Berlin Atonalは刺激的で他にないから行ってしまいます。コロナがなければ続けて行っていたと思います。Kraftwerk Berlinの空間は独特で、「gargouille」(『Peculiar』より)はMAIN STAGEで体験した空間とその音響に影響を受けた作品です。STAGE NULLで朝5時ぐらいにPessimistがテクノからジャングルに繋げた瞬間、みんなが荷物や上着を置いて踊り出す光景は印象的でした。OHMでのMetristやTUTUのDJも新しくてかっこよかったですし、Tressorでも朝まで遊んでいました。まだまだクラブミュージックの可能性を感じて嬉しかったです。Demdike StareやPuce Maryのライブも素晴らしかったですし、あんなに大勢のオーディエンスと一緒にノイズを聴くのは初めてで、とても印象に残っています。Gabor Lazarもよかったです。全てを伝えきれませんが、現場で体験しないとわからないことが沢山ありました。阿木さんが最後まで0gという現場を残していたのも、そういう理由だと思います。「現場を知らないと評論家として説得力がないだろ?俺はプロの評論家なんだ」と言っていました。
【尖端音楽の伝道者としての阿木譲について】
○確かに0gという場所は、特化した音響装置だよね。単に大音量というだけではなく、音の質というか、場所なので質の中にはその時に居合わせた人の魂も音の中で響きあっている感じがする。
●阿木さんは経歴からして知識量は当然すごいと思いますが、センス、嗅覚がすごかったと思います。文脈だけでは見つからないような新しいレーベルや作品を誰よりも早く見つけてきて、その全てがかっこよくて刺激的でした。
○具体的に印象に残っている阿木さんの言葉とかある?
●「音楽の雰囲気を聴いている」とか、「片耳が聞こえなくなっても何も怖くない、片耳だけでも音楽は理解できる」というのは印象的でした。Puce Maryもモノラルでも十分だと言っているのをどこかで読んだ記憶があります。
○2014年にnu thingsで阿木さんと出会って、一番初めにライブしたのはいつ?
●2014年11月30日にnu thingsで開催された2日間のイベントです。そのあと2015年2月20日に「SUBSTRATUM」の1回目をやりました。10回やって最後が2016年7月17日です。
○結構、長期間やったね。
●そのあとは2018年4月28日に「Peculiar」を企画してもらい、2回目から自分でブッキングするようになり、不定期ですが今も続けています。阿木さんは1回目は見てくれています。阿木さんと一緒にやったイベントは2016年3月12日「atonal」、2017年10月21日「AFTER THE BERLIN ATONAL」です。
○阿木さんの2014年は東京から呼ばれて、東京都現代美術館でもトークショーやブリコラージュをしたり、幸せな年だったのではなかったかと思いますね。『アイデア』で特集されたりしているしね。美術関係の若い世代から自分のやってきた仕事を評価してもらったり。
そして翌2015年にがんの手術をしている。退院の際にThe Strangerの”providence or fate”を絡めて以下のように書いている。 人生の整理をしようとしていたんだと思った。阿木さんらしい文章なので少し引用しよう。
退院後、週2日の検診と、生活を新しい環境へと移行するため、部屋探しなどにおわれ、ネット環境もままならないので更新もできなく、申し訳ない、、0g Web(zero-gauge)のほうも手元に素晴らしい作品が溜まっていて気になっているのだが、もうすこしお待ちください。この機会に過去のすべてを淘汰して、倉庫に山積みになっているレコードも、80年代のインダストリアルから2000年代まで蒐集してきた、すべてのレコードを売り払い(マニアの方で良い値で固めて買ってくださる方がいたら至急ぼくに連絡ください、、、出来るならひとつのジャンルを時間と労力をかけて集めた物をバラバラにするのは避けたいとは思っていますが、誰かぼくの意志を継いでくれるかたがいたら、、、、嬉しいけれど、、でもそれが無理なら、業者のかたにすべて売るつもりです。驚くような貴重な作品が山のように眠っています、、、、)身辺整理して、この10年ほどのレコードだけを残して、新しい環境の下で、全く新しい音楽評論と音楽活動を始めようと決心しました。
それがぼくの「providence or fate」(摂理か宿命)だろうから、、、
2015年9月19日 a perfect day
○林君が0gの保証人になったのって2015年のこの辺りだよね。
●初めは断っていましたが、阿木さんに何度も強くお願いされたので。今は違います。
○もちろん今は平野隼也君がオーナーなんだけど、それを聞いた時には、それだけ強い繋がりがあったのかなと思った。
【晩年の阿木譲について】
●阿木さんの健康状態が悪くなったのもあると思いますが、ただ人に当たるような時期があって、数ヶ月少し距離を置いていました。ある日「元気か?」と優しい声で電話がかかってきたんですが、ろれつが回らず、上手く喋れてない印象でした。「阿木の言葉を憶えているか?お前も元気出してがんばってくれよ」と言ってくれて、それが最後の会話でした。2018年7月です。ベルリンのお土産を渡す約束をしていましたが、帰国後に電話をしても出ない状態が続いて、そのあと話す機会もなく亡くなってしまいました。
○以前、林君に聞いた阿木さんの「俺が死んだらお前ら迷子になるぞ」というのは?
●それは元気な頃からよく言ってましたが、「文脈を理解して新しい音楽を紹介している人が他にいないからどうするんだ?俺が死んだら何を聴いたらいいかわからなくなるぞ」ということです。
○林君にとって阿木さんは優しい感じ?
●気にかけてくれていたと思いますが、癇にさわったら顔色がすぐに変わりますし、厳しく言われることもありました。それでも自分の音楽について言われたときは、真摯に聞いていました。正直に言ってくれる人も中々いないのでありがたかったです。
○ま、昔から忖度する人じゃないからね(笑)。
●忖度する人ではなかったので、音楽評論家としての言葉に鮮度があったと思いますし、信用していました。
○晩年には分からなかったけど、僕が知っていた頃(1980年前後)の阿木さんは信用できるから、他を探す必要がなかったと思う。
●音楽センスは飛び抜けてましたね。色々問題はあるかもしれませんが。
○あのバランスの悪さというか独特な人格というか、あの魂がどこから生まれてきたのかに興味があるんだよね。10代後半で歌謡曲歌手を経験しているでしょ。その時代に経験したことが阿木譲のベースになっている気がしていて。当時はたぶん理不尽なことが当たり前の世界だからね。歌手が自己主張できる世界じゃなかった。だから、その世界から離反することになる。その後、1976年に『ロック・マガジン』を創刊することになるんだけど、共通の価値観を持った人々と共同作業を始める。0gとかもそうだけど、共同で何かを始めることに阿木個人は活路を見出そうとしていたんだろうか?
●阿木さんのイベントに来ていたミュージシャンは少なかったです。阿木さんは共同で何かしたいと思っていたと思いますが、難しかったと思います。阿木さんは「何のために音楽を聴きに来てるんだ?何もしないなら来ても意味ないだろ?」と問いかけますし、実際イベントをしても容赦のない感想を言うので、中途半端にはできないですし、距離感を保つのが難しいのかもしれません。それで常連客やミュージシャンが来なくなってしまうのかなと。僕は新しい音楽への興味が全然勝っていたので、「お前はまだまだだ」と言われても、自分でも分かってましたし、だから来てるんですって感じでした。
○その話題になったら、いつも19世紀ドイツの思想家マックス・シュティルナーを思い出す。一言でいうと何者にも影響を受けない独立した、何者にもかえがたい、かけがえのない唯一者としての人間精神を理想としたんだ。そんな精神を「エゴイズム」といった。じゃあ一人で孤立していいかというとそうじゃない。一人では生きていけないからね。シュティルナーは、そんな唯一者の集まり「エゴイスト同盟」が必要だと説いていた。孤独と孤立は全く違うんだけど、逆にいうと他者との関係は、対立しやすくなる。
●昔から知っている人は晩年優しくなったと言いますが、それでも厳しい人だったと思います。自分がやっているレベルで本気でないと許さない感じでした。
○でも、結局Vanityや『ロック・マガジン』みたいな作品は生み出せなかったし、remodelも継続できなかった。先日亡くなったEDITIONS MEGOのピーター・レーバーグみたいなことが出来なかったのだろうか?
つまり、自分のレーベルを持って定期的に自分のコンセプトに合ったミュージシャンをセレクトしレコーディング=編集した音楽をリリースするような。
阿木さんの真骨頂は作品をプロデュースしたりデザインしたり、つまり総合的に編集する力を発揮することだと思っている。
だって、『PECULIAR』は結果的にOpal Tapesからリリースされたけど、本来なら阿木さんの仕事だったと思うんだけどね。
林君はその辺り阿木さんに対してどう感じてた?単純に制作費の問題だけでもないような気がするんだけど。
●僕の音楽のクオリティがまだリリースできるレベルではなかったのだと思います。作りたかったのですが、阿木さんが生きている間に作りきれませんでした。「作品を作って次に行け。作品を作って捨てていかないと、いつまでも同じことろにいて次に行けないぞ」と言われてたんですが。
○そんなことないと思う。阿木さんも2011年11月のブログでremodelから『a sign paria – ozaka – kyoto』をリリースする前に書いてる。
「ひとつの作品を仕上げるのに、今回ほど苦労したことがない、それはvanity recordsやrock magazineのように、ボク個人のデスク作業で創られたものではなく,多くのアーティストたちの熱意とエネルギーと、アンガージュマン ( engagement ) の精神で成り立っているからでしょう。」
「ボク個人のデスク作業で創られたもの」ってVanityや『ロック・マガジン』に関わった人間はみんな、異論があると思うんだけどね(笑)。
でも、やっぱり阿木さんは晩年は時代と拮抗する(Friction)エネルギーが枯渇してたんじゃないかと思うんだよね。人には何かをしないといけないんじゃないか、といいながら、阿木譲としては何も残せていない。あれだけレコードやCDとか物(material)に拘った人だったのに。
だってVanityだって単にリリースをしてたのではなく本にも書かれているけど、ミュージシャンと対峙して自分の感覚にさわった音楽を通して作品として生み出そうとしていたんだよ。
KENTARO HAYASHIやJunya Tokudaを素材として、EmptysetやpitaやLeyland Kirbyの世界を作れたはずだと思う。個人的には、一抹の歯がゆさみたいなものを感じていたんだ。
●どうなんでしょう、今までの活動を統括したいと思っていたかもしれませんが、真相はわかりません。エネルギーが枯渇していたかもしれませんね。阿木さんの最後のツイッターは「ながい音楽人生のピリオドを迎えた。さよなら先端音楽!」で締めくくられています。余命を理解していたのか、阿木さんの中で終わらせたかったのかもしれません。
【これからのKENTARO HAYASHI】
○じゃ、最後に2つ質問をさせてください。
まず、今後の活動のプランを教えてください。
●新しい作品もまた作りたいと思っていますし、ライブの予定もあるので、多くの人に聴いてもらえる機会が増えたら嬉しいです。
○他のミュージシャンにも聞いた質問です。ウイリアム・バロウズは「言語は宇宙からのウイルスだ」と言ったわけですが、そもそも音楽はウイルスだと思っています。音楽は形がなく伝染しますし、感染した人の意識を変容させますし、人生を変える力を持っています。新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対して、どのような感想を持っていますか?
●コロナの影響で現場での音楽体験がしにくいですし、人に会う機会も減っているので、情報が偏ってると思いますが、どこかで刺激的で新しい作品が作られていると思います。リリースするペースが落ちているレーベルもありますが、見えないだけで、現場やホームスタジオでは何かが始まっているのでは?と期待しています。
○長時間ありがとうございました。次のライブを楽しみにしています。また0gで会いましょう。
●こちらこそありがとうございました。また0gかどこかの現場で会いましょう。
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【改めて阿木譲のこと・・・インタビューを終わって】
●音楽をやるきっかけを作ってくれた人ですし、色々教えてくれた先生のような人です。ときには音楽友達のようでした。
●マスタリングやデザインは責任もありますし重要な役割だと思っていますが、楽しい作業ですし、やりがいを感じます。完成したときの喜びもあるので、これからも色々な作品に携われたら嬉しいです。学びも沢山あります。
●初めての作品ですし、制作には時間がかかりましたが、名刺代わりの作品ができたと思います。MerzbowとJim O’Rourkeのリミックスが先に完成していて、そのクオリティにも刺激をもらいました。remodelからリリースされたCDは自分でマスタリングをしたので、アルバムを通して聴いてもらえたら嬉しいです。またOpal Tapesがレコードをリリースしてくれたので、海外のアーティストがMIXで使ってくれて、 多くの人に聴いてもらえるきっかけを作ってくれました。リリースを決断してくれたremodelの中村さんとOpal TapesのStephenには感謝しています。
●現存している複数のカセットを元に検証をしたり、マスタリングよりも修復に時間がかかりました。地味な作業が多かったですが、色褪せない作品も素晴らしくて、楽しい作業でした。
●自分がMerzbowの作品に携わるとは想像もしていなかったので嬉しいですし、歴史に残る作品群だと思うので光栄に思っています。制作スピードが驚異的で、どれも密度の濃い作品です。
Juri Suzueさんはイベントで共演していたので携われて嬉しいです。『Rotten Miso』で初めてレコードのマスタリングもやりました。デザインも担当したので、手にとって聴いてもらえたら嬉しいです。
○インタビューを終わって
林くんの話を聞いていると、阿木さんの光の部分が印象的だった。40年あまり言葉を交わしていなかったし、晩年のブログも生前はほとんど読んだことはなかった、はたしてエゴイストとしての阿木譲の晩年は幸せだったのだろうか。
阿木の最後の拠点となった0gという場所が、佐藤薫のいう魂が交差して日々変化をもたらし常に新しいモノを生み出すヴェニューであったかどうかは分からない。
しかし、阿木に化学反応を起こしたremodelのミュージシャンの魂は確実に引き継がれていく。その系譜は自らのアルバムの最後に刻印されているSpecial thanks to AGI Yuzuruからも読み取れるのである。