RNAO on ロック・マガジン
ヴァニティ・レコードからこの5月下旬に発表する「R.N.A.オーガニズム」も、音楽の本来持っている力を具現化しようとしているようだが、バルやトリスタン・ツァラが中心だったチューリッヒ・ダダがパリにおいて 集会を行なったのが、一九二三年のワイマールでなのだが、彼らR.N.A.オーガニズムも「ワイマール22」という曲を呪術的でエレクトロニックな原始リズムにのせて音声詩さながらに国籍不明の曲を作り上げている。彼らも又、キャバレー・ヴォルテールやバウハウスというバンドと同じようにバルの精神を明確に受け継いでいる。
工業都市ミラノのルイジ・ルッソロが騒音音楽宣言をしてから、もう70年という時間が経過しようとしている。この脈々と流れる騒音機械主義は、イントナルモーリの都市風景化により体内リズム変化を我々にもたらしているのだ。イントナルモーリとは元々都市騒音や車の音を表現するためにルッソロが作り出したシンセサイザーのようなものなのだ。
今や機械というこの肉体や精神の外延にあるシステムは、 我々の生活のリズムとなり、それはとりもなおさず機械のリズムであり、心臓のリズムでは、もはやない。このシステムは我々の感覚でありエクスタシーである。
今世紀のアート、精神活動を根底から揺さぶった最大のマテリアルでありコンセプトである機械は、現代においてついに呪術儀式にまで登場することになった。
この未来派、バウハウス、表現主義、ダダ、 構成主義、キュビズムなどの20世紀初頭の精神活動を魅了しつづけた機械は、今や商品とともに我々の体内にまで入り込んでしまったようだ。そういった意味では芸術家などもはや存在しないし、成立もしえないといえるだろう。
R.N.A.オーガニズムが「SAY IT LOUD!」と金属の声でうたうと、人々は「WE ARE DILETTANTE!」 我々はアマチュア芸術愛好家だと叫ぶ。彼らR.N.A.オーガニズムは全く新しい現代の呪術的儀式を生み出そうとしている。
それはアフリカの民族音楽にみられる呪術や、フーゴ・バルがボール紙というプラスティック美学を肉体に纏い、言葉の本来の力によって行なった音声詩朗読の呪術儀式と変わりはしない。彼らは音楽が持つ本来の力によって超自然的な生命力を身体に精神に宿らせようとしているのだ。
ジョルジュ・バタイユが「アルタミラの壁画」の研究の中で言っているのは、あの壁画が芸術でもなんでもなく、生産のために神とポゼッションし、エクスタシーに達するための儀式の一部として描かれたということなのだ。
太初、絵や音楽など呪術にかかせないものは総て占い師が司っていたという。
芸術家などは存在しなかった。
そして不思議なことにロック・エンド宣言の時代である現代も、それと同じ状況にあるのだ。ジョニー・リドンは誰よりもそのことを知っている。
阿木譲
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R.N.A. Organism:匿名・著
[1] システムとアノニム
①ロンドンはケンジントンの消印の押された封筒が届けられる。中にはカセットテープが一本入れられており場所の謎を告げる。
②ところが、こった事にカセットテープの表面には「咳止め薬」の(おそらくは日本の大正時代のものらしい)ラベルが貼られており、その記号の謎が脳をよぎる。
③テープの再生回転数の指示は?(くわしくは遊#1013ーナム・ジュン・パイク参照)
④実体不明、性別不明の声(マントラ)が、リズムボックスのリズムに乗って流れてくる。どのようにして制作したのか不明のまま、人々はその「音頭」的な原始音に耳をかたむける。日本人? 実体の謎。
⑤このテープを聞いた Mr. A はレコード発売を企画する。彼はこの転末を文章化することになる。(遊#1013ープラスティック時代の呪術)
⑥5月末レコード発売。デビッド・カニンガムのフライングリザードやスロッビング・グリッスルなどと比較されるだろう。
⑦京都河原町三条のクラブMODERNでのオールタナティブ・ダンス・パーティには、テープのみのライブを行うことにする。
手の上に置かれた、セロハンに包まれたカセットテープには音は録音されていない。私は一本のテープがこれからたどる①~⑦のプロセスを設定しようとしている。このプランは、一本の磁性帯が見るうたかたの物質の夢の如きものかもしれない。アクリル床の上で光をあびたメタル=プラスチックなケースは十分に生体以上に生理的だ。この、バタイユならば「呪われた部分」とよんだであろうカセットテープを「MUSIC」と呼ぶにはやぶさかとしても、システムそのものを音楽と呼ぼう。人は音楽にコンセプトの流束を時代の精神幾何学と相似させて聞いているのだから。テープレコーダーが音を鳴らす前には、アノニム(匿名)な影があるばかりで一方、「労働?そんなものは機械にでもまかせておけ!」というようなリラダン調子の人間人形がダンスをしているシーンを想いうかべていただければよいだろうか。ともかくも、ここに音楽家などというような実体はない。よしんばあったとしても、それはまるで、デュシャンの「独身者の機械」の九つの鋳型のように中が「ウツ」な代者ときている。システムとは、産業革命以降、生産効率とともに歩んできた組織論であったが、この時代の平面の上では、関係こそが、「社会物質」という価値形態なのである。言いかえれば、われわれは、ファンクション(函数)上の存在にほかならない。「システムとしての音楽」とは、音楽産業ではなく、新たに「産業音楽」のシステムを作り出すものだ。それはちょうど、中世における呪術や観念技術、あるいは、結界の張り方とよく似ている。トマス・ピンチョンが『V.』や『グラヴィティズレインボー』で描いてみせた暗号都市のまっただ中で、物と霊の流通をつかさどることこそ音楽の機能である。テクノロジーと魂は今や二つで一つの関係なのだ。存在学こそシステムであり、「間」は匿名にほかならない。
[2] オーガニズムとSPY
命のないところに魂はありえない。「気質」とは、気と器の存在様式を指すことばである。生命の置かれる環境が、加速度的にアーティフィシャルになっていく中で、存在様式は当然ながら変容する。中国において、「理気哲学」の興隆が、一方で世界に比類ない「官僚制」を伴っていたことは意味深長である。有機体思想(オーガニズム)が問題にされるとき同時に、機械的な国家レベルでのシステム化が強力に行われているわけだ。一方、生命は、シュレディンガーが言うように、エントロピー増大に対して「負のエントロピー」を喰い続けている。今やテクノロジーとオーガニズムの接点あたりでは、存在の様式はあたかもスパイのような連続変換的な構造を持つに至るのである。デカルトの「機関」ではないけれど、世の地下秘密工作隊は時としては、敵も味方も喰いやぶる「命」として機能する。あまたの秘密結社が国家のへり[傍点]で発生し国境を越え国家をくいつくし、もう一つの領土に向かわんとするわけだ。1922年のワイマール。チューリヒではダダが発生し、クルト・シュビッタースは音響詩を歌い、ロシアではフレーブニコフが革命の言語、ザーウミを発明した。歌と普遍言語は別世界をめざす。人々は R.N.A. の中にそれを見出すことになるだろう。「0123」、「ゼロ」、「Chance」という記号とも名前ともつかないものでワレワレを呼ぶことになる。ダダがちょうどヨーロッパを包むころ、魔都上海、ゼムフィルド大通りでは殺人が横行した。国民党、中国共産党、日本軍のあやつるC・C団、藍衣団、76号などの結社が「機関」として暗躍した。そして、R.N.A. は場所から切りはなされたメディアという領土の中で、ポスト・インダストリアルな時代の「機関」そのものとなるだろう。交響的陰謀。
[3] メディウムと浄土
では、ならば R.N.A. は何故にあるのだろうか? いや、その問い自体意味をなさない。かって、ケプラーは月を観念のエイジェントと見立てた。月とは中世の夢の棲み家であったわけだ。この至福千年の王国の地上的投影こそ「都」の造営の作業であった。北斗を地上に現実するものとして都が出来上がったり、熊野詣でをしたりすること、あるいは共産社会の前段階としてのフーリエやオーエンら空想社会主義者がファランステールという定員制国家を作らんとしたことこそ「夢の領土」の造営であったのだ。ケプラーの言う「夢」とはアソコとココの関係として想定されるのではなく、ココが即アソコであるような場所を言うのである。江戸時代の華厳経五十三次は幕府というものが、国家内の結界ネットを支配していたことのみならず、国土と浄土をしきる「幕」をつかさどっていた。商いは、物の交換であるとともに霊の交感であった。この人間人形たちをメディウムと呼ぶ人類の「類」とはこのことを言うのだろう。浄土というのは、人類が木の上で生活していたころへの追憶かもしれない。アルミサッシのはまったビルの5Fからザワザワゆれる木を見ているとそういう思いがやってくる。人工自然の中にこそ平等院は現実されるだろう。それが人工幻想都市の店だ。店こそ21C.の魂函としての可能性を秘めている。そこにこそ人間人形の楽土がある。ワレワレの室内にはられた写真にうつる人は緑色の髪をしている。彼は数枚の写真の中を旅する。
[4] 自在機械と観音
風体。風が吹いてくる。アーティフィシャルな光景の間をぬってインスパイアされてくる「惑物」たちは、このウツなる都市のあちこちでノイズをあげている。量子雑音事件たちのぼる街のたたずまいの中でふりこまれてくるものがある。その出所は? およそこの国体は人類がえいえいと作り出したものだ。シャルダンが地球精神圏と呼び、バタイユが生命の経済圏としたものは、宇宙と地殻のカンショウ物だ。それが生命のエピジェネティック・ランドスケープである。それはオーガニズムであると同時にシステム! そう、人工こそ自然にほかならず、国家こそアナーキーであるという姿が見える。エピジェネティックな光景こそデジタルなのだ。遠くで聞こえる道路工事の音やTVの会話、植物のざわめき、骨のきしむ音。人工自然のただ中で生まれたワレワレにとって、機械は「惑物」をふりこむ装置である。音が音づれる。活字化される直前の言霊や音の中にこそ、シンクロニシティーや「未来の記憶」がひそんでいる。ルッソロの騒音音楽は言わば、それを方法論としたものだ。言わずともデパートの音はコラージュされている。テクノロジーと環境音をここに導入すると機械学的呪術性が強まる。この振りこまれるプロセスを観「音」と言う。これはサイ科学でいう五次元情報系にあたる。来たれ機械時代の魂ふり!
[5] 姫
「なにもしないのに、こうなっちゃうの」
[6] 時代からの逃走とHEIAN
「あわれ」という構造は、あるシーンを別の座標から見ている姿になる。言わば、神ののぞき穴からの視点である。これは中世におけるヒエラルキアにあたる。ワレワレはアーティフィシャルな Chinese Box の中にいる。アインシュタインの相対性原理を説明する図のように別の系が多数ある。フーゴ・バルは機械が神に代わって登場した時あらわれた。彼は、強烈な DADAIST であると同時にビザンチン研究をしつづけた。さて、テクノポリスに幽妙なる魂さぶらわせる時節ともなり、バル氏は平安をこそ求めるとしても、彼は彼の属する宿業の系のヒエラルキアからはそう簡単に出られない。矛盾に向かえるもののみそのサイクルを横超できる「Chance」をもつ。ヨーロッパのヒエラルキアは重力方向に出来上がっていて、その斗争のいい例がヴェイユだ。ところがワガ日本国の場合は、遍路していく構造が横にむかっているわけだ。ともかくも、この宿業を転ぜぬかぎり、他の系へは行けない。あわれである。気狂わしたとしてもそれまで。ならばこの地獄を当然とせぬかぎり風の如く涼しき境地へおもむくことなぞできまい。グルジェフのヒエラルキー理論をくぐりぬけ、今ここにいる。遊星上のオルターナティブな景観、HEIAN。
◎ 5月末 R.N.A. オーガニズム LP発売。
Reproduced with permission by courtesy of Harumi Yamazaki
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遊 #1013 ’80