VANITY INTERVIEW ⑦ NORMAL BRAIN(藤本由紀夫)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦
「藤本由紀夫 at NEW PICNIC TIME」
『引算の音楽』
今回はNormal Brainの藤本由紀夫。メールではなくインタビューを行った。40年前に松岡正剛に取材して以来のことだ。神戸三宮に未だ残っているアールデコ調風情の古いビルにあるアトリエにお伺いした。藤本さんと本当の意味で話をしたのは初めてかもしれない。声をかけたのは学生時代に遡る。大阪北浜にあった三越百貨店の上階にある三越劇場でのことだった。そこではマルチメディアのイベントが開催されており映像と電子音楽が演奏されていた。なぜそこに行ったのか、なぜ終演後に声をかけたのか、全く記憶にない。それから数年後の1979年に『ロック・マガジン』の編集スタッフになっていた。Vanityからあがた森魚のLP(VANITY0005『乗物図鑑』 )をリリースするということで録音することになり、藤本さんにも声を掛けて編集室に来て頂いた。そこではアレンジを担当するSAB(VANITY0002『Crystallization )も同席し阿木さんと引き合わせることになった。阿木さんを紹介したことを本当はどのように思っておられたのかが気になっていたが、その辺の話も伺うことができた。さてカセットデッキではなくスマートフォンをタップ。
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藤本由紀夫の活動に関しては、こちらのホームページをアクセスして頂きたい。
経歴や過去の作品などもこちらから確認することができる。
http://shugoarts.com/news/17798/
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「藤本由紀夫と志村哲 at NEW PICNIC TIME」
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《人が人を管理する社会について》
●現在情報処理会社で人事管理システムを導入する仕事をしているのですが、時代の移り変わりと人事制度の変化に興味があります。人事制度の変遷を簡単に俯瞰すると「年功序列」「終身雇用制」から1980年代以降は、「成果主義」による「年俸制」となり、成果や業績が評価対象となり、「目標管理」といわれる設定した目標の達成度による人事評価制度が導入されました。現在「タレントマネジメント」という管理方法では人材の個別要素を9つに細分化し(9ボックス)各要素に対して指標と個人スキルを比較したダイヤグラムを作成し「人材の適正配置」を確保しようとしています。世界的にみれば、1979年にイギリスの首相マーガレット・サッチャーが新自由主義を掲げた時から、規制緩和の名の下に人事制度や雇用契約も大きく変化しました。ちょうどイギリスのロックバンドCRASSが盛んに反サッチャーを歌っていたころです。その後、日本でも1986年に「労働者派遣法」が施行され、今では非正規雇用者が3倍以上に増加しています。
イギリスの自死した評論家マーク・フィッシャーが「資本主義リアリズム」(堀之内出版)の中で、1980年代に多かった分裂症に代表される精神疾患が2000年代に入ってくると逆に少なくなってきて、うつ病が多くなっているとあります。80年代サッチャーイズムの時代と今の時代の変遷がその違いに反映されていると。この傾向はますます顕著になってきています。彼は大学の教員をしていたわけですが、仕事上関係している企業の人事評価システムの一部を応用して学生を管理しているのでちょっとびっくりしました。教師はモジュール・リーダーとなって学生の評価を上げるように管理をしないといけない。半期ごとに目標を定めて成果を大学に報告することになる。そんな中で教師自身もうつ病になるということが多いとも記載していました。企業内で行われていることと多くの共通点があることに驚愕しました。
藤本さんは現在も京都芸術大学にお勤めですよね。日本の大学って今どうなんでしょうか。
■昔の大学のイメージはなくなっていて、僕なんかは50歳になってから教授で入ったからもうそのままやりたい放題です(笑)。
65歳で定年ですが、そのままの籍で京都芸術大学教授の肩書だけでいるんですが、7-8年前から大学院がメインになってからもう個人ですね。今は本当に学生を管理しなくなったんでありがたい。
全国の大学がそうですけど、どんどん締め付けが厳しくなって、90分授業で最初の何分で何をするとか。僕が居た情報デザイン学科が特別だったらしいです。僕なんかは全く言うこと聞かずに勝手にやってるから、何もいわれなかったんだけど。静かにしといてもらったらいいですよと、もう出来上がっちゃった人だからという感じで勝手にやってるんですね(笑)。
●藤本さんは昔からそんな感じですよね(笑)。
■でも今の授業を見てたら、ルールに従ってどう見てもいわゆる研修センターみたいなものですよね、おかしいのが授業内で成果を出さなきゃいけないということなんです。
●それはマーク・フィッシャーの話と同じですね。
■そのためなんですけど、教師同士がお互いに観察し合うというのがあるんですね。僕もそのやってる人の授業を見にいってびっくりしたんだけど、最初の10分でまずグループ分けをさせ、何かの課題を出すわけ。その後10分位それぞれの人たちが考えて成果を発表し合うんですけど、めちゃくちゃ短いんですよね。それと同じのを90分の中で2回やる。学生は従うわけですよね、今の学生は反抗しないから。やるんでけどテーマが出たのに対してグループでディスカッションして、でも10分で纏めないといけないから大したものは出来ないわけです。学生だってわかっているからこのテーマならどんなことを要求しているんだろうというのを纏めてグループリーダーが発表する。でも見ていたらあるグループが面白くなってきたみたいで、こんなことをやったらどうだろうみたいなことになって、これは面白くなるぞと思った時に先生が止めて、「はい次の課題にいきます」って(笑)。ここからなのになあと思っている時に(笑)。ちょっともうこれは駄目だなって(笑)。
●当然自己抑制をするわけだから、教師も精神疾患を患いますね。今後どうなるだろう。特にアートを扱っている大学でそのようなことが起こっているとは。。。
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《藤本由紀夫との出会い》
●今回は、一番初めに会ったときから話をしたいんですけど。出会いは、大阪北浜の三越劇場なんですよね。そこでは映像があって電子音響が流れていた。演奏の後に僕から声をかけたのが最初でした。どのようなイベントだったのですか?
●永原康史(現多摩美術大学教授)くんとは1979年『ロック・マガジン』主催のイベント「NEW PICNIC TIME」(大阪芸術センター)を一緒にやりましたね。そんな縁があったんですね。
●当時藤本さんは大阪芸大の助手でしたよね。なぜ三越劇場という映画上映を主としている会場でイベントすることになったのですか?
●当時の見た時の印象は映像と電子音楽がマッチしていなくて、逆にそれが面白くて、終わってから声をかけたのではと思います。でもKORGとかコンパクトな電子機器はまだなかったですよね。機材はどうされたんですか?
●不思議なことにローランドは大阪の会社だったし、KORGは京王技術研究所なんで東京かな。カシオは京都だし関西が多かった。
●なるほど。
●今Vanity Recordsからリリースした80年前後の人たちとメールでやり取りするんですけども、やっぱり何人かは録音するにしてもTEACの4チャンネルが出たりとか機材が安価に手に入ったりして画期的だったと語ってますね。自分ひとりで音楽が作れると。
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《万博と反博とシュトックハウゼンと電子音楽の限界》
●もう少し時間を戻したいんですけど、藤本さんは50年生まれですね。僕が54年生まれなんで4年違うんです。僕らの世代から見ると4年違うと相当違う感じがするんですが、高校1年生の時に大阪万博があったんです。中学生の時から上浪渡のNHK-FM「現代の音楽」と小泉文夫の「世界の民族音楽」を聴いていたんです。その番組で紹介されていた作曲家が万博で登場したという衝撃的な体験がありました。回数券を購入して何回も行きました。藤本さんは?
●えっ、そうなんですか。今日はその話を聞こうと思っていたんですが(驚)。
●20才位の時に、工作舎で紹介してもらった藤本さん世代の音楽家沼澤慧さんと万博の話をしたらやっぱり「僕は反博だったんで行ってないです。」っておっしゃってました(笑)。その時には万博に関して驚きの方が大きかったんでよくわからなかったんですが、例えばE.A.T.(Experiments in Art and Technology)とか後で何だったのかを理解したという感じです。その後大阪にカールハインツ・シュトックハウゼンが来て淀屋橋のフェスティバルホールで「シリウス」の上演を見に行ったりしました。
●帝王みたいな感じになったんですね。
●藤本さんがやっぱりそうだったのかっていうのは?
●だから大学もそっちの方面へ行かれたんですよね。
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「藤本由紀夫と志村哲 at NEW PICNIC TIME 1979年12月 於:大阪芸術センター」
《Normal Brain前史》
●その時は電子音楽に未来のないことを気付かれて次の展開として何を考えていたんですか?具体的には?
でもやってるうちになんか変だなと思いだして、それを打開するやり方として音を足していった。最初は一つしか音出してないから、つまんないんでもう一つ音を足していく。典型的なのが音量を上げていくとか。結局そういう考えにとらわれていって、どんどん色んな音を積み重ねるとか、物理的にもスピーカーを8つとか積み上げて、その方法はプラスプラスだからノイズに行くわけですよ。ホワイトノイズがいいなあとなって(笑)、しかも1日中スタジオに篭っているからランナーズハイ状態になるんですよ。でもその時はいいんだけど、また次回に同じ事をやると満足できないんですね。慣れてきてどれだけたくさんやっても2回目って全然刺激がなくなって、3回目にはどんどん対数的にテンションが落ちていく。そうなると今度は音量を上げていくわけですよ。と次はどうなるかっていうとやばかったのが、スタジオで1人でスピーカーを10何個か積み上げて音量を上げたらロッカーの壁とかそのうち蛍光灯とか震え出して、そんな状態までいったんです。
そのうちに体がおかしくなって家に帰っても眠れないし。だけど体は動かしていないので肉体的な疲れはないんですよ。感覚だけは鋭いんです、音を浴びすぎて。へとへとでこのままでいくとダメになるなと思いました。そう思ったのが70年代の半ば。だから今でも音楽でアンバランスになる人は多いですよね。ドラッグと同じで刺激が目的になってしまう。
もう一つすごく大きなきっかけは、合成音っていくら種類が出来ても全部同じ音に聴こえるんですよ。よく考えたら合成してたって目の前のスピーカーの音しか聴いてないわけですよ。風の音だって本当の風の音ではないし、波の音だって波の音じゃない。楽器の音だって楽器の音じゃない。同じスピーカーから出てる全部同じ音だなあと思った。その経験があったんでいくら音を重ねたって最後はスピーカーからの振動音になってしまう。じゃあ何が出来るんだろうと思ったら何も出来ないなあと思った。大学4年間いてそのまま残って何年かスタジオにいてどんどん可能性ないなぁっていうのを実感してた。
●なるほど、そのことを実感というか体感したんですね。
その中で今でも思うけど、すごかったのがクラスターの「Zuckerzeit」(1974年)を聴いた時にリズムがずれまくりながら音出して、単におもちゃ箱をひっくり返したみたいになっている。こんなにいい加減でいいんだっていうのがショックだった。
それまでのドイツの音楽ってきっちり作っているイメージがあったんですよね。こんな音楽の作り方があるんだと思っていて、止めを刺されたのがデビッド・ボウイの「LOW」(1977年ブライアン・イーノとの共作)を聴いた時だったんです。それまでのLPはA面B面があってその中でどれだけの世界を作り上げられるかというものでしたよね。デビッド・ボウイももちろんそうだったんだけど、「LOW」を聴いたときに、全部デモテープみたいでいきなり1分位で切れるとか、ドイツで作っているとか知らなくて本当にびっくりした。またセックス・ピストルズの音数の少なさが対位法的だなあと思って。つまり、ビートルズもそうだけど和声的な厚みで音楽を作るのが多かった中で、クラスターもそうだけど、結局対位法ですよ。旋律だけ重ねていくだけで中身はスカスカでちゃんと音楽作品を作ってる。はじめはセックス・ピストルズってパンクロックだって思わなかった。シャレてるというかこんな音数が少なくてもちゃんと音楽になっている。「LOW」に似ているなあと思った記憶がある。この程度だったら自分で作れるんじゃないかと思ったんです。音の厚みで重ねるんじゃなくて、削りっぱなしでいけるんじゃないかと。ちょうどそういう気持ちとそのままポンと投げ出しただけでもいける音楽っていいなぁと思ったのとウォークマンが出てきたり、カセットのマルチトラックが出てきたりしてね。また僕にとって大きかったのは電池式のスピーカーが出てきたことだった。これがあれば自分の家でも全部スタジオができちゃう、カセットマルチでね。その後KORGが出てきた。モニターも電池の小さいのが出てきてスピーカーとかも机の上に準備して、ちょっとそれで何か作ってみようっていうのが70年代の後半からですね。またやりだしたら、子供の時にそのテープレコーダーで遊んでたと同じような感覚が蘇った。止め刺されたのはKORG MS-20シンセサイザーとSQ-10のシーケンサーのセットですね。購入したら机の上に完全にシンセサイザースタジオが完成できちゃう(笑)。
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《あがた森魚「乗物図鑑」への参加》
●その時期ってちょうどあがた森魚「乗物図鑑」の頃ですよね。1979年の秋に録音したんですよ。あの時はじめてSABとあがたさんに会ったんですけど、その時に藤本さんに「乗物図鑑」制作に是非参加して欲しいって声を掛けたんです。今のお話を聞いてスタジオで藤本さんが「クラフトワークってすごいですよね、あんな機材を持っているのに、あそこまで単純化して音楽を作っている」っていってた意味がわかりましたし、繋がりました。
それで呼ばれていきなり会わされたような(笑)。編集室の近くのヒュー(Phew)の部屋があがたさんとSABの合宿場所みたいになって。だからその時に阿木さんともはじめて会いました。
●「乗物図鑑」の録音が終わってからしばらくして「NEW PICNIC TIME」(1979年12月)に藤本由紀夫で出演して頂いたと思います。時系列的には「乗物図鑑」リリースの前でしたね。でも「NEW PICNIC TIME」の演奏形式はNormal Brainだったですね。その時の写真が残っていてびっくりしました。
でもレコーディングはうまくいってなくて、SABがプログレまがいのアレンジばっかりやって、あがたさんは自分の中にイメージないっていってて、阿木さんもなんかイライラして一緒に録音してて、最後はこれでいくかみたいな、もうしょうがないからってなった時に、阿木さんが急に僕に向かって「ちょっと一緒に編集室に来てくれる」っていわれたんですよ。
着いたらいきなり「今のアレだけど」って、どう思うとかも聞かれなくて、「わかってるよね。これじゃダメでしょ」という感じだった。そうしたら阿木さんはいきなりテレックスのレコード出してきて聴きながら「これで行きましょう」、「いいですよ」、「自作した電子音があるから」、「じゃそれをのせよう」とか30分くらいでどんどん決まっていって。次っていうのでジョイ・ディヴィジョンが出てきて、「これいいですね」って(笑)。僕もそういうのは全く抵抗ないから、むしろ変にアレンジしてやるよりはこのまま取った方が格好いいと思った。その時にはさすが阿木譲と思ったんだけど、あがた森魚にはこれが合うとか非常に的確なんですよ。僕もテレックス聞いたのは初めてだったんだけどあがた森魚に合うなあと思った。じゃ僕も稲垣足穂の声(瀬戸内晴美との対談での飛行機のエンジン音のモノマネ)をここに入れてとか。POPなやつはそれで決まって、コンテンポラリーなものはループで重ねたらって話になって、その1時間くらいで決まったんです。決まったことはSABは全く知らないんですよ。だからどうやるんだろうと思ったら阿木さんはSABを外して一演奏家にしてしまって、これでいくってなった。僕はテレックスのシーケンスを全部作って入れ直して録音したんですよ。あの時レコーディングした「スタジオ・サウンド・クリエイション」のミキサーをしていたのが奥(直樹)さんで大阪芸大の先輩だったんです。よく知っているからやり易くってループの曲も一緒に作ろうという感じで大学でやってたのと同じようにテープを切って作ってスムーズに出来たんですよね。びっくりしたんだけど本当に一日で作れるんだというのを見た。あれは阿木譲のすごいところだと思いますよ。本人には具体的なテクニックはないわけですよね。でもレコードとかこの感じとか頭の中に全部あるから、この場合はこうという感じでまさにディレクター、今でいうサンプリングをちゃんとして今のDJですよね。それで結局あがたさんも乗っちゃって、はっぴいえんどとかはちみつぱいとかと作っていたレコーディングとは全く違うやり方でびっくりしてたと思う。
その後アルバムが出てから、あがたさんのライブへ行ったりして今も仲良くしているんだけど。あがたさんは録音が終わった後に「僕はこれでいく。今までのじっくり作っていたのはもうやらない」と言ってたし、あがたさんにとってもそれまでの方法から切り替わったんじゃないかと思います。
●あがたさんにとって「乗物図鑑」は今までのやり方から新たな方向へと行くものであったんですね。
藤本さんは録音に参加して、どうでしたか?
●僕はスタジオ行ったり、ヒューの家に行ったりしましたけど、編集もあるし、本当にテンパッてたから今色々思い出しました(笑)。ところで『ロック・マガジン』とかは読んでいましたか?
●『ロック・マガジン』についてはブライアン・イーノが表紙のA4サイズくらいからの関わりなんですが、特にここに持ってきている中表紙がベーラ・バルトークの特集「MUSICA VIVA」なんですけど、西洋音楽のが今のパンクミュージックにまで流れている時代精神がそれぞれの時代と拮抗しながら地下水脈のように流れているというコンセプトのもとに編集された本です。ちょうど先ほどの藤本さんのお話に出てきたケルン音楽スタジオも入っていますが。
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「藤本由紀夫と志村哲 at NEW PICNIC TIME」
《Normal Brainとは?》
●前フリが長かったですが、ここからNormal Brainに移ります(笑)。あがたさんの録音が終わって、その流れでVanityからNormal Brainをという話になったんですか?
●カセットに曲を入れてた段階でNormal Brainっていう名前はついていたんですか?
その後レコーディングして中のスリーブのデザインとかも出来ていたけれど、レコーディングの終わりに阿木さんと喧嘩して結局全部ストップしてしまったんですよ。
●そうでしたか。
音源を自分で作って持っていって、それを元にレコードは出たんだけど、中のスリーブのデザインとかは最初にレコーディングしてた時に頼んでいたので、そのままチェックなしでいきなり出ちゃった。ということで曲名も違うままリリースされたんです。その後、『ロック・マガジン』の事務所で出来たアルバム3枚もらっただけという記憶がある。そういう経緯なんですよ。
●『Ready Made/Normal Brain』がリリースされたのが1980年10月なんですよね。
●ジャケット・デザインは阿木さんですよね。スリーブのところに5ミリくらいの細長い穴が縦に空いているでしょ。あれは製本屋さんでの手作業ですよ。僕らは現場でお願いしました。ジャケットを糊で張り合わせたり箱を作ったりしました。結構大変でした。本の表紙に穴をあけるのも手作業に近いですしね。『ロック・マガジン』がB5サイズの頃で、セクション毎に紙も違うし色も違うし、製本屋さんも紙が違うから大変でしたけど、「こんなのは出来ない、出来てもとんでもなく手間が掛かる。仕事じゃない。費用が合わない。」っていうこところを何とかお願いして印刷してもらいましたが、インクの濃度も輪転機の速度も圧力も全部都度調整する必要があり、僕らも印刷をしている間はずっと立ち会いましたが、輪転機に紙がまき付いてその度に剥がして洗ってインクをのせてと大変でした。
●阿木さんは盗んでくるのが上手な人なんですね。だから『ロック・マガジン』の初期のものと僕らが関わった後のものは全然違いますね。後で見ると戸田ツトムや杉浦康平のブックデザインからの影響もあるけど、コピーじゃないし、全く違うように書き換えるデザインセンスはすばらしいと思います。
でも印刷屋さんとか製本屋さんとか実際の現場には来なかったですよ、いつも僕等だけ(笑)。
●話はNormal Brainに戻しますが、リリースした後にライブとかは?
その中で増えてきたのがカセットボーイとかマルチのカセットデッキですね。全部電池で作動するので、友達のギャラリーでのオープニングに呼ばれてテーブルの上に全部セッティングしたらライブが出来てしまう。音は小さいけど、そのまま自由にできるから面白くなって80年代にはそっちの方に興味が出てきました。
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「藤本由紀夫と鳥居愛優美 1980年2月」
《Normal Brain以降》
●当時はギャラリーで演奏したり音を出したりってあんまりなかったんじゃないですか?
その頃に「Für Augen und Ohren」(目と耳のために)という本を見つけて。これはワタリウム美術館の前身のギャラリーワタリの本屋で見つけた展覧会の図録で、電子音響機器の歴史や、20世紀の音をテーマとしたアートやフルクサスとかの歴史も載っている。
その頃にテーブルで出来るのはいいんだけど、配線はぐちゃぐちゃになるし、終わったら組みなおさないといけないし、電池代がもう馬鹿にならない位の数で、そっちの経費が大変だからもっとシンプルにテーブルの上だけで出来ないかと考えててこの本を見つけたんです。それでオブジェにしたらいいのかっていうのを見つけてはじめて納得できて。この本はちゃんとしててエリック・サティとかも掲載されているんです。全部ドイツ語のみのテキストですけど、この中にアタナシウス・キルヒャー(17世紀のドイツの学者でありイエズス会司祭)のイラストが載っていてびっくりしたんです。この本には「機械音楽の歴史」の章もあり、彼は17世紀に自動演奏楽器の研究をやってたんです。(興味がある読者は「Fur_Augen_und_Ohren_1980」を参照)
これも自動演奏楽器だけど牛の首の上に水槽があって、そこに水を掛けると重みで牛が息を吐き出してバグパイプに送られて、回転するオルゴールに連動しメロディーを演奏するというバイオテクノロジーですよね、今でいう。これがきっかけでアタナシウス・キルヒャーを調べ出した。だからイラストの力はすごいなあと思います。
「アタナシウス・キルヒャーの自動演奏楽器 Fur_Augen_und_Ohren_1980」
●そんなことを考えておられたんですね。
実はNormal Brainのアルバムを出すときに、阿木さんに言ったのは「ソノシートでやりたい、アルバムだからソノシート10枚組みくらいで一枚づつハムのパックみたいにして出したい。聴いたら後はゴミ箱に捨てる感じでやりたい」といったら阿木さんに怒られて「藤本君、音楽はそういうもんじゃないんだよ。アルバムは大切に作って大切に聴くものだよ」といわれて完璧に拒否されましたね(笑)。使い捨てソノシートは面白いじゃないかとハムみたいで。でも全く聞き入れられなかった。それからレコード出したときに阿木さんと会って、その後は数年間会ってなかった。
80年代の半ばになって東瀬戸(悟:現フォーエヴァー・レコード)さんが勤めていた「LPコーナー」で「藤本さん、またテクノがはやって来ましたよ」っていうんですね、それがハウスだった。見せてもらったらジャケットがノーデザインでハンコだけ押してあってラベルも真っ白でしたね。「彼らにとっては踊るだけの音楽なんで、作って1回クラブで掛けたらすぐ捨てるんですよ」って言うので、あっ、僕が考えてたやつだと思った(笑)。踊るためだけなんで、リズムパターンだけのものとか(笑)。
●ありました。レコード盤に線が3本とか、リズムパターンが違うのがループになっているのとか(笑)。
●『EGO』の編集していた頃ですね。
その時に「藤本くんも頑張ってるよねー」とか言われて「アートを中心にやり出してるんで」っていったら「いろいろがんばっているけど何か足りないね、音楽かなあ」って言われて(笑)、可愛らしい人だなあと思いました。何か言ってやろうという感じがね(笑)。
●そういう言い方は阿木さんらしいですね(笑)。
阿木さんとはその原稿を書いた後はほとんど接点がなかったんだけどクラブを始めてましたね。知り合いの若いDJとかは阿木さんのところでやれるというのがステイタスになってました。それは伝説になっているんですが、阿木さんがダンスフロアでDJをやり始めた頃で、曲が終わると無音で一回止めてレコードを掛け直して、その間は音が消えるんですよね(笑)。繋げないのがすごいって話になってて、ダンスフロアで沈黙が訪れるっていう伝説になってましたね。お客さんは踊りに来ているのに(笑)。阿木さんとしてはレコードを一枚聴かせようとしたのかも知れないけですけどね(笑)。
別の機会に行ったら、店が閉まってから夜中にドンドンって音がしてヤクザの借金取りが来て、相変わらず綱渡りでやってるんだなあと思いました。それが阿木さんと会った最後かなあ。90年代初めくらいですかね。クラブジャズとかいってるのは周りから聞いたけどピンとこなくて。
●『infra』とか『bit』の頃ですね。単にタワーレコードで配布しているような情報誌って感じになってましたね。阿木さんが作ってたから買ってましたけどね。僕は阿木さんが亡くなる1年位前に会いました。「元気か」って感じで周りの人を紹介してくれましたけど、昔のような元気はなかったですね。
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《「時代」との関わり ケージの今日的意味の一端》
●少し「時代精神」ということについて話をしたいのですが。
●まさしくそうなんですよ。社会が変わって時代が変わる。例えばヴァルター・ベンヤミンが「ボードレール論」の中で書いているように、この神戸でもありますけど、パリでアーケードが出来て都市生活者が出てくることで殺人が起こり探偵小説が生まれる。音楽も大きく影響を受けるわけですよね。先ほどのカセットテープレコーダーも同じだと思うんです。
そこで現在新型コロナパンデミックの社会に生きているわけですが、「時代精神」とまでいわなくても、歴史的なものをどのように表現するか、音楽は聴いてああいいなあという時代ではないんだろうと思うわけです。
そうなると歴史性の中の音楽とは何か、時代との接点を僕らは見たり聴き取ったりするわけですよね。
藤本さんが先ほど言われた昔にやっていたことと今やっていることは違いませんよ、というのと時代とは関係ありませんというのは違うと思うんです。
●企業でも一緒ですよ。どんなリスクがあってちゃんとリスクヘッジしているか、エビデンス(証跡)はあるか、コンプライアンスはどうか、いつも問われますから。
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《家具の音楽 今の時代に考えること》
●気が付かなかったです。というかさっきこの部屋に入った瞬間、音が鳴ってるって感じたんですけど、藤本さんに声を掛けてから忘れてました(笑)。
●それって丸っきり「家具の音楽」ですね。
●でも藤本さんは「反博」だったわけでしょ(笑)。
●先ほど見せていただいた17世紀のキルヒャーですけど、その精神が藤本さんの中に入って、そのままではなく違うものとして出てくるわけですよね。
僕は60年代の後半は少しは知っているけど、60年代のアンディ・ウォーホールが出てきた頃は知らないし、70年代に本を読んでそうかと思っていたけれど、今になればそれも怪しい。
70年代後半や80年代の音とか語る人がいるけど、その時に生きていたリアルタイムに聴いていた人じゃなくて、若い人が資料をもとに喋るので本当のところはわからないですよね。この間もハウスは82年からだって書いてあってその頃はまだ日本に入ってきてないのに(笑)。でも資料ではそうなっているって、まあこういうのは永遠にこうなのかもしれないですけどね。歴史って作られていくんだと思う。
●もちろん、先ほどのボードレールのアーケードの話にしても書物を読んで時代がそうだったんだと理解することから始めるんですが、その書き手の精神の痕跡を読んでいるんですよね。
今はもっと細分化できている面白い時代だと思うんですよね。材料だけでいいんだから、完成品はいらないんです。だから揃ったというかベースが出来たというか、今の時代にやっと出てきたという感じがしています。
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《「音楽」との関わりと新しい試み》
●これからの音楽はどうなっていくと思いますか。藤本さんの音楽は?
●なるほど。ところで藤本さんは今は自粛中とか関係ないですか?計画とかありますか?
それと一緒にビデオも8ミリビデオの時代からDVからの時代にかけて、80年代を記録してたやつとかもテープのままずっと置いてたの取り込んだんですけどね。それをやってたお陰で、シュウゴアーツのオンラインショー(藤本由紀夫オンラインショー: Yukio Fujimoto Sound Album)で載せられたのは、たまたま整理していただけでこのために纏めたものじゃないんですよ。家でYOUTUBEを見てた時に4kの映像も30年代とか40年代の映像も同等の価値で上がってくるわけですよ。歴史的なやつなんか60年代のビートルズの映像とか、かたや4k8kの映像と同じ価値で見れるっていうのは、このコンテンツのやり方は面白いと思ってね。オンラインショーの時は展覧会みたいにプロジェクションで見せるわけではないので8ミリビデオのクオリティは関係ないんですね、ノイズ交じりでも。
●藤本さんのオンラインショーでNormal Brainの曲に合わせて女の子のスライドショーとかありましたね。これも昔のものですか?
●だから藤本さんは昔から今もやっていることは全く変わらないと(笑)。
●この質問を考えたときに、たぶんこれから変わっていきますか、と質問しても、藤本さんは昔と変わらないですよって答えると思ってました(笑)。
(Normal Brainの言葉をカードにした作品を見せて頂いた。)
NORMAL BRAIN MEMO
1980-2019
紙、アルミケース
95 x 60 x 8 mm
ed.50
●今回のインタビューがあるから、40年前自分は何をしてたんだろうと思ってNormal Brainの頃の『ロック・マガジン』を見たらデヴィッド・カニンガムのことを書いていたんですよ。「グレースケール」のことを書いているんですけど、さっき言ってたパリのアーケードのことと絡めて探偵小説音楽だって。自分で書いてて憶えていなかったんですが、今日藤本さんを会うので何かがこのことを思い出させたのか。藤本さんの話とこのカードを見ていて不思議な感覚になりました(笑)。いや変な錯覚かなあ(笑)。
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「アトリエにて」
今までいくつかインタビューを受けてきましたが、30〜40年前のことについて語ると、思い違いや、制作年の違い等、無意識に発言していることに自分自身あきれています。それほど過去の自分のことには興味がないのだと思います。阿木さんについても、懐かしむ存在ではなく、今生きてたら何をするのだろうかということに興味があります。
●インタビューを終わって
『Ready Made/Normal Brain』リリースを中心として、その前後に考えていたことや、何をヒントに行き詰まりを打破していったのがわかるインタビューとなった。想像はしていたが、藤本さんがやっていることは当時と変わらない。その変わらなさの中に作品として反映していることがある。それは、「鑑賞者」によそ見、誤解、ずれ、間違い、機能とは違う道具の使い方、による「造り出すこと」を気付かせることである。その芸術的行為が歴史=時代に触れているかどうか。Normal Brainのリリースの前後には明らかに時代とシンクロしていた。それは懐かしさではなく、今のコロナパンデミックを生きる我々に気付きを与えるに違いない。
インタビューが終わって雑談をしていた時に、藤本さんも行かれた1976年4月5日に京都府立体育館で行われたジョン・ケージとマース・カニングハムの公演の話になった。机の上に置かれていたサボテンから音を取り出したり、小杉武久さんの動きや表情のことをリアルに思い出した。実は、ケージとデヴィッド・カニンガムの話をしたかったのだが時間が足りない!それは次回のお楽しみにとっておきますね。
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VANITY0009『Ready Made/Normal Brain』1980/10
藤本由紀夫の『Ready Made/Normal Brain』は、”Kraftwerk”の「The Man Machine」の『ロック・マガジン』的回答としての音楽だ。
藤本由紀夫は、”Kraftwerk”の音楽についてエレクトロニクスをピュアに使用していることを評価していた。ピュアでありながら緻密、ジョン・ケージの音楽にも通低する。
1962年10月に来日した際にジョン・ケージが鈴木大拙と交わした会話で、ケージが「先生の講義で忘れられない言葉は、”山は山である。春は春である。”という名句です。私はその時に”音は音である”と霊感のように思ったんです。」と話している。
この大拙の言葉は、十牛図第9の「返本還源」のことを示している。
続けて大拙の「現代音楽というものは、非常に知的なものだということをいう人がおるが」という問いに対して、ケージは「それがあんまり、知的なものにならないように、一生懸命努力しているのです。知的なものじゃつまらない」「音は、ただ音であるようにしたいと」と答えている。(『芸術新潮』1962年11月号より)
『Ready Made/Normal Brain』に関連して『ロック・マガジン』01(1981年01月号)では”Normal Brain”のコンセプトシートを掲載した。
”Normal Brain”の由来は、19世紀イギリスの作家メアリー・シェリーのゴシック小説の『フランケンシュタイン』では若きフランケンシュタイン博士が死者を蘇えらせようとして、Normal BrainとAbnormal Brainとを取り違え「怪物」を生み出してしまった物語だ。藤本由紀夫は1世紀以上を経て、フランケンシュタイン博士が取り違えた「怪物」の脳を”Normal Brain”として蘇えらせた。
また、アルバムタイトルの『Ready Made』はフランスの美術家マルセル・デュシャンが、1917年に男性用小便器に偽のサインを入れ、「Fountain(泉)」というタイトルをつけて公募展に応募し、これは「これはアート作品だ」と言って、本人自らが「レディメイド」と呼んだことからの引用である。
デュシャン・フリークである藤本由紀夫らしい。
デュシャンは、音楽芸術に対しても「音楽的誤植」という概念も打ち出している。
イギリスの作曲家デヴィッド・カニンガムの「Grey Scale (1977)」の「Error System」もデュシャンを強く意識した作品だ。
藤本由紀夫は2015年デヴィッド・カニンガムとロンドンで二人会を開催したり、現在も交流しているそうだが、音楽へのアプローチはお互い影響を与え合っているのだろう。
藤本由紀夫は、”Normal Brain”以降も「音は、ただ音であるようにしたい」と思索し続けている。
【Vanity Recordsと『ロック・マガジン』1978-1981より】
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