Toshinori KONDO - "いのちは即興だ" 近藤等則
近藤等則のトランペットから放たれたグッド・バイブレーションを身体に残したまま、昨夜、彼から頂いた地湧社から発刊された"近藤等則 いのちは即興だ"という本のページを捲っている。近藤等則のエレクトリック・トランペットを聴くたびに、同時代を個人主義に徹して生きた人間同士のシンパシーをまじえたリアリティーある彼の存在感と、魂の根源から湧き出る息が直結するその音に感動してしまう。彼と会うといつも、なにも喋らなくともボクはその存在と共振しているのを感じる。彼もきっとそう思ってくれているだろう。「本当に"個"で自由を求めてるやつを、社会のほとんどの人間は見たくないんだと思いますよ。無視したいし、そいつがもっと苦労してつぶれたら、ジェラシーの裏返しで"さまあみろ"というのが、人間社会の恐ろしいメンタリティーじゃないかと思いますね」。この本のなかに書かれている彼の言葉は、そのま
まボクが60年ここまで生かされている痛みと重なる。世界の近藤等則がマネージャーもつけないで、トランペットとマルチエフェクタ、ディレイ、ワウペダル、ピンマイクなどの器材を抱えながら地球をまたにかけて演奏活動している姿勢には、尊敬の念を抱かずにはいられない。いつのまにかロックマガジン時代のエネルギーも生命力も失いかけているボクを再び奮い立たせてくれるかのように、彼の音楽と言葉はエネルギーを与えてくれるのだ。それにしても世界と存在と音楽のリアリティーをここまでストレートに暴露した凄い本を出版したものだ。「ミュージシャンを選んだということは、もちろん快楽主義者だからで、どこまで言っても僕は気持ちいいことを求める。・・・いのちというのは、どんないのちでも、気持ちいいほうを求めていると思いますよ」。むかしから何度も言ってきたが音楽を聴くというのは、能書きや難しい理論などで聴くものではなく、ただ気持ちよくなりたいからだ。だからノイズや多くのロックミュージックにみられる病んだミュージシャンの演奏するバイブレーション/音楽を聴く行為は病いに冒されることを意味する。そのことに気付いていないひとのなんと多いことか。そして、この本の帯には、「横にいたテレビのカメラマンに、"今からオレがラッパを吹く、そうしたら、あの何十万羽のフラミンゴとペリカンが驚いて飛びたつから、その飛びたつところを撮影したらいい。絶対きれいだから"と言って、ズブッと膝のあたりまで水に入って吹き始めたんです。ところが、フラミンゴもペリカンも飛び立つどころか、踊り出したんですよ。」という彼の音楽の本質をついたコピーが添えられている。キミが音楽ファンなら近藤等則のこの"いのちは即興だ"だけは読んで欲しい。そうするとキミは明日から世界と、それを見る自分自身も変容していることに気付くだろう。そして音楽のその真の意味がわかるだろう。
近藤等則live @nu things 04 December'08 pm19:30-pm22:30
近藤等則 「いのちは即興だ」
地湧社 刊
ISBN978-4-88503-197-7
C0095 定価1700円