VANITY INTERVIEW
③ ANODE CATHODE(Part 2)

VANITY INTERVIEW ③ ANODE CATHODE(Part 2)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


『「同時代精神」ある時代霊の働き』

金野さんとは、このVanityインタビューが初対面なので、自己紹介のつもりで雑誌『スペクテイター』44号に掲載された拙文を送らせて頂いた。その後思いがけなく「対話への参考になれば」と詳細な感想文が届いた。
対話の中で強く感じたのは、別の場所(関西と東北)だが同じ時代を生きた人間として考えていたことや今に至るまで興味を持ち続けている事柄について、多くの共通点を持っていたことだった。
場所性は時代性と共に精神に大きく作用する。それを踏まえて途中からテーマを絞らずに自由に会話しようという暗黙の了解を経て会話は続けられた。Vanity当時の雰囲気なども感じて頂けると幸いである。
しばらくお付き合い願いたい。
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◆金野吉晃
●嘉ノ海幹彦

《新型コロナ・ウイルス=パンデミックの世界》

◆情況は悪化してきましたが、問題はこの事態が収束した後だと思っています。
やるべき事は多々あるのですが、多すぎて手につかないので、面白そうな事から始めるという方針です。
というわけで、嘉ノ海さんの文章を読みつつ反応して行きたいと。

●新型コロナ・ウイルス=パンデミックは、内なるコロナを変容させているような気がします。アントナン・アルトーも内なるペストとかいっているのを読んだことがあります。
本当はずっと以前からウイルスに感染していてそれが外なるコロナとして顕在化したのではとも思います。

◆理解していませんがわかります。カミュの『ペスト』が売れていますが、私はチェルノブイリや福島の被災後の放射性物質汚染のことを思い出します。また幾つかの映画も。

●考えてみれば文化的な感染は、時代の恩寵としての音楽が媒体となったり思考や感情を共有をしたりしてウイルスのように伝播するものでしょう。つまり三密(密閉、密集、密接)だということです。それを避けなければならないとなると孤立することと思考することしかないと考えます。しかしそれは内なるウイルスだともいえるのではないかとも思うのです。

◆三密を避けろというのは要するに直接的コンタクトを、その当事者の意志や感情において自発的に止めさせるという、実にうまい方便な訳です。これは以前書いたのですが、温暖化は停止できない事なのにそれを炭酸ガス排出量規制としてエコロジーという、誰もが反対できない倫理=イデオロギーとして植え付け、これに反する言動を社会正義の名において潰す。一方排出ガスの売買というこれまた巧い手段で、発展途上国の疎外と先進国のエネルギー使用をそのままにしようということ。恐れ入ります。世の中には頭のいい人達が居る。そしてそれを実行できる。
経済と暴力の絡み合い。『ルガノ秘密報告書』というセミフィクションがあり、だいぶ前の本ですが、国連で情報分析していた女性の著作、恐ろしい内容でした。

《同時代のことなど》

●今回話をすることになり調べたのですが、金野さんとは『G-modern』や『同時代音楽』を通して出会っていたのですね。なんということでしょう。40年以上前に。坂口卓也さんのhttps://onyak.at.webry.info/の過去の記事で「第五列」のことを見つけました。

◆私は自分の記事が掲載された雑誌等もまめには見ていない事があります。時間が経ってから見直します。雑誌を一過性のものにしたくない気持ちもあり、『JAM』, 『HEAVEN』などもとってあります。しかし造本が弱くてばらばらになりつつあり。

●そうですね。保有している『ロック・マガジン』も表紙が取れているものもあります。朝日出版社の『リゾーム』なんかは本当にばらばらになり書き込みも含め、もうリゾーム状態です(笑)。
『スペクテイター』44号の感想を書いて頂きましたが、『ロック・マガジン』のことを椹木野衣が「ロックと知的なモードをファッショナブルに繋つなぎ、時代精神を読み取ろうとし、ニュー・アカデミズムを先取り」との評価に触れています。

◆椹木野衣の著書に納得したくだりを前回のメールにも記しましたが、彼が『ロック・マガジン』の愛読者だったのは知りませんでした。
私もニューアカにはかぶれた方で、『遊』、『エピステーメー』、『現代思想』、『ユリイカ』、『美術手帖』などを興味と財布に相談しつつ買いあさっておりました。関連するテーマの単行本は、大学の研究費をあてて購入、未だに未読のが多々あります。最近はそっち系統よりもより古い思想、文化に興味がありますが、やはり若い頃に「難解」な領域に挑戦しておいたのは良かったなと。
というのは中学時代からソフト・マシーン、マザーズなど聴いて「背伸び」していた方ですから、思春期の終わりに思想などで、また背伸び期はあったと思います。
松岡正剛が阿木氏と同い年だったというのも意外でした。『遊』に関心をもっていた私はしかし、すぐ杉浦康平のほうに惹かれて行きました。当時いろんなデザインをしたのですが、フライヤー、カセット・インデックス、イラスト、同人誌レイアウトなど、今見ても完全に杉浦イズムです。私もまた「言葉型の人間じゃない」のかもしれません。

●椹木さんは会った事はないのですが、追悼文を『新潮』2019年2月号に載せていましたね。2014年には阿木さんを引っ張りだして、阿木さんには東京都現代美術館でブリコラージュや話をしたりしてもらっています。阿木さんのデザインは大胆で既存のやり方を無視した独特な手法ををとっていたので美術方面から関心をもたれていたと思います。またなぜ椹木さんを引用したかというと編集者から「嘉ノ海さんの文章では難しすぎて一般読者が読みにくい」といわれたからです(笑)。それでこの様な引用をしました。しかし『ロック・マガジン』のことをうまく表現していると思います。また確かに書いたものを読んで頂かないと話にならないですからね。

◆物を書いて食って行くという事は、そこに肝があるようです。私も近年、皆さんに読んで頂けるように書く事を意識していますが。
まあこれは現代美術であれ、前衛音楽であれ、この背景はとか鑑賞方法を示唆すると、皆さんが入って来てくれると感じるわけです。考えていた事を批評で書くより小説にした方がいいと思った次第です。

●私のポストモダンの出会いはドゥルーズ/ガタリの『リゾーム』と『カフカ論』ですね。それまでの実存主義的読み解きから解放してくれたような気がしました。化学反応としてのカフカとか、側根とかモールとかの捉え方にリアリティを感じました。

◆カフカは高校時代、ザッパが『流刑地にて』を読む事を推薦していたことから読み始めました。もともと解決の無い、テレビの「ミステリー・ゾーン」的なSFや奇譚が好きでしたのではまりました。
当時、サンリオSF文庫で山野浩一がどんどん新しいSFを翻訳していましたが、私にはSFもニューウェーブが合っていました。
サルトルなどが性に合わず心理学に傾いていましたが、ラトモルフィズムや数量化した心理学実験がつまらなくて、狂気、精神異常などについて読むようになり、精神分析に接近して行った感じですね。

●初期工作舎『遊』の杉浦康平や先日亡くなられた戸田ツトムの装丁がかっこよかったです。そういえば阿木さんの工作舎から1980年に出版された『ロック・エンド』も戸田さんの装丁でしたね。
阿木本人はいってませんでしたが、この時期から『ロック・マガジン』のデザインが大きく変わっていきました。影響は少なからずあったと思います。しかし『ロック・マガジン』では最新のレコードから音楽感覚と同時にジャケットからのインスピレーションを得てレイアウトに反映し、判型やサイズも変わり、紙質や印刷方法にも細かく指定するようになりました。コピー機を導入し、雑誌の切り抜きのみならずコピーのコピーとかも利用しています。しかも特集毎に紙見本や色見本から選択して表現されています。阿木さんが「人が嫉妬するような本を作りたい」と常々言ってたのを思い出しました。時代そのものを様々な表象から寄せ集め雑誌として融合させるような編集をしていたと思います。本にはオブジェ感覚もありましたね。
話を戻しますと、当時『エピステーメー』とか『GSたのしい知識』は購入してました。また内容も音楽の記事が多かったですね。『エピステーメー叢書』でも音楽関係のものが多くありました。ケージとか近藤譲とかユングのUFOの本とかありましたね。今見ても面白いと思います。

◆近藤譲とか、細川周平なんかでしょう。読みやすかったです。

●近藤さんの『線の音楽』、『音楽の種子』もいいですが、ジョン・ケージの『音楽の零度』の翻訳がすごくよかったです。

◆私は全くファッションというものが分からない質でして、ようするにヒトは他から多様に見えているので、それを敢えて誘導する必要は無いという考え、それは今も堅持しています。
自分に自信が無いというより、その裏返しのようです。しかもそれを見せたく無いというひねくれ。

●ファッションは時代だったと思います。阿木さんは死ぬまでずっとおしゃれでしたが、私は今も服はあまり持ってません。パンク以降表象=POPにリアリティを感じていました。だから雑誌『fashion』は『流行通信』よりかっこよく作りたいと思ってました。

◆まあウォーホルあたりのポップアートが既にファインアートであり、後のクーンズとかシミュレーショニズム関連の言説となればまた椹木さんですか。岩井克人は結構読みました。読み返したい人です。

《阿木譲について》

◆『ロック・エンド』は読んだ覚えはあるのですが、内容に記憶はありません。あまり印象に残らなかったようです。

●『ロック・エンド』は対談集ですし、これといった発言もしていないと思います。ただ阿木譲とはどのような道を歩んできたかを記述している「end to end」はとてもいい文章です。阿木さんが松岡正剛と出会って少したったころだったので、工作舎と一緒に仕事をするということだったのかも知れません。ただ『ロック・エンド』の編集を手伝う過程で阿木さんの精神の遍歴を知ることが出来ました。

◆阿木氏の流行歌手時代、フォーク時代の歌も誰かに聴かせてもらいましたが、これも印象に残っていません。

●阿木さんと編集の仕事をしていた時には一回も聞いたことがありませんでしたが、昨年ある機会があって東芝専属歌手の時代の歌を聴きました。やっぱり歌うまいと思いました(笑)。

◆ヒッピー・コミュナリズム、ドラッグ・カルチャーに関しては私よりも友人達の関わりが強かったのですが、其の影響は確実に受けています。
一言でいうのは難しいですが、現在も尚、この領域に関しては考え方を変更しつつあります。この問題だけでかなりのことを語れるように思います。

●そうですね。音楽は体験芸術だともいえるけど、実際体験により変化しますし、聴覚とかは純正調の響きを聞き続けると開きますしね。

◆この最後の意味がわからなかったんですけど。

●阿木さんはトランスを聴かなかったのです。クラブ・カルチャーまでいって、ウイリアム・バローズや『E』とかで変成意識も扱っていたのを思い出します。でもレイヴとかトライバルとかトラベラーとかには関心がなかった。

◆私もあまりよくわからないです。

●ここに阿木さんのコミューン体験が絡んでいるのではと思っています。特にヒッピー・コミューンについてユーロ・プログレとの出会いも含めて内的体験とかあったのではないかと思ってます。またドラッグ・カルチャーについてもMDMAとかシロシビンとかと阿木さんの頃にはなかったのではないのかと。どこかで発言しているかも知れないですが、阿木さんとドラッグカルチャーについてはちゃんと話した記憶はないです。話しとけばよかったと思っています。

《サイケデリック・カルチャー》

◆最初からドラッグになじまないタイプの人もありますけどね。私も割にそうです。酒ですね。タバコは喉が弱いので十年ほどまえから殆ど吸ってません。周囲が吸っても気にはならない。吸い込むタイプのものはむせてしまうのでダメですね。服用するのも体質が合わないようです。射つのは経験していません。
カウンター・カルチャー、サイケデリック・ムーブメントと向精神薬、植物の問題は興味ある領域です。
若い頃、呪術師シリーズに結構はまり、カスタネダらのエスノメソドロジー、ガーフィンケルらのフィールド主義には興味あるのですが、結局観察主体がインフォーマントに与える影響の問題は回避できないでしょうし、それはブラッキング「人間の音楽性」のなかで、長期間ある部族の中に住み込んでもいざ祭礼というときには排除される研究者とか、そうであれば小泉文夫さんも土取利之さんも同じかなどと思ったりもします。
部外者には決して見えないものがあると同時に、交叉イトコ婚の理由などのように部内者には見えないものもある訳で、では自分はどのようなスタンスをとるかが問われます。
そしてここからユーロ・プログレやジャーマン・ロックにはあと一歩なのですが、アメリカのヒッピイズムとこれらの音楽の土壌は決してイコールではないと思います。それは特集されたニューヨーク・アンダーグラウンド・シーンとも違います。ここではアメリカのパンク、ニューウェイヴの性格を追求する必要があります。それらは英国の潮流とも違うし、イーノはまた独自のスタンスをとったと思えるのです。
イーノのロキシー参加以前の動向が分かるにつれ、かれがロック・シーンというステージでやりたかったことが見えてくる。そして彼がオブスキュアを設立した事も。

●アメリカとヨーロッパは音楽のみならず根本的に違うと思います。アメリカは新大陸なのですね。ケージはともかくケージの好きなヘンリー・デイヴィッド・ソローなんかもエマーソンの影響があるので広義のプロテスタンティズムというか月に人を送り込んだ国だし、大きな違いがあると思います。

◆最近になって読んでこれは良い本だと思えたのが『イデオロギーとしての英会話』(ダグラス・スミス、76年)ですが、これは表題の論よりも、アメリカ社会の性格について気がつかなかったような指摘がありました。つまりアメリカ合衆国を初期に形成し、憲法を起草し、また西進してネイティヴをほぼ根絶やしにしたような人々の基本的な精神構造があり、これは欧州の文化基盤と全く違う。しかし、また、第二次大戦後の米国民は均質とは言いがたい訳で、それは階層化進行と関係しますね。そこにビートニクスやヒッピーの存在意義が出てくる。

●もちろん、パンクはジャック・ケルアックからパティ・スミス、トーキングヘッズへ系譜であり、ニューヨークからヨーロッパに渡ったパンクとは違いますね。(すいません、乱暴にはっしょってます)。

◆個人的には、パンクは英国の階級社会が生んだ反動的回帰主義だと思っています。なにしろプログレが注目されていた時代ですから。
アメリカでは一見階級社会ではないが、労働者層(あるいは失業者層)ではなく、戦後の美術、文学などを信奉する層からのオルタナティヴがパンクに走ったと考えています。逆にアメリカには、大雑把に言えばプログレがない。あるとしたら田舎のオタクによるマニアックなプログレです。

●逆にクラフトワークがデトロイトでアンダーグラウンド・レジスタンスに影響を与え、アシュラ・テンぺルがR&Sとかへのダンスミュージックに影響を与えたのは、民族とかではないかとも考えてしまいます。

◆なるほど、クラフトヴェルクとアシュラ・テンペルは対照的ですね。前者がテクノの直系元祖であり、後者はゲッチングのソロという回り道を通ってハウスへと引き継がれた。この中間にシュルツェとかフレーゼも存在している。まあ個人的にはシュルツェは『ミラージュ』の頃にはもう関心を失い、フレーゼは『エプシロン…』、T・ドリームも『フェードラ』までが好きなんですけど。

●「イーノのロキシー参加以前の動向が分かるにつれ、かれがロックシーンというステージでやりたかったことが見えてくる。」ここはよく知らないので教えていただきたいです、
ただマイケル・ナイマンの『実験音楽 ケージとその後』が1974年に出版されているので間違いなくイーノは読んでますね。オブスキュアはこれがきっかけになっているのかと思っていました。

◆イーノは中間層の出身ですが、よくある経歴でアートスクールから音楽を志向したというのはT・ヘッズ的でもありますね。両者が繋がったのもわかる。イーノは実験的なバンド(SMTとMDの二つあるようですがそれを聞いていないのが悔しい)を経て実験音楽のセミナーを開始、そこでスクラッチ・オーケストラに参加したようです。ですからポーツマス・シンフォニアにも彼の名前がある。しかしC・カーデュー流のイデオロギーは、彼に取ってはむしろポップミュージックへアイデアを転化すべきと映ったのでしょう。ちなみにカーデュー、AMM、スクラッチ・オーケストラなどは私の強い関心領域です。
欧州、とくに西ドイツ固有の音響科学的性格が、我々日本人には共鳴しやすかったかもしれません。
松本清張『砂の器』はお読みになりましたか。映画化の際には映像化不能だったようで略されますが、音響に依る殺人や堕胎などを、欧州留学した天才的音楽家がやってしまうというのが基本で、そのモデルはおそらく黛敏郎でしょう。ケルン流の電子音楽を持ち込んだのは彼ですし。残念ながら彼の弟子達からラルフもフローリアンも出て来なかった。

●そうだと思います。DAFなんかの2拍子はドラムとリズム・マシーンの微妙な誤差(差異)がつんのめるかっこよさがありますね。
同じように、コンラッド・シュニッツラーが編纂したオムニバスLPに日本の詔が入っていて加藤郁乎さんに聞いていただいたことがありました。ドイツ語とかの発音やユーモアの部分で共感できたのかもしれないです。

◆わかりますね。私はドイツ語の響きが大好きで、ヒトラーはじめナチ高官達の演説もときどき聞きますし、ユーチューブでしか見れないですけど『宇宙パトロール・オリオン』というドイツ版スタートレックも見ています。ドイツ語はあまり聞き取れないし字幕もないですが、まあ話はわかります。議論ばかりしていてさっぱり話が進まないのがかえっておかしいし、その発音を聞いて楽しみます。
DAFはいいです。あとバッハ・コレギウムヤパンのマタイとか聞いているとドイツ人以上に昔風の発音をするのでいいと思います。みんな朝はみそ汁と納豆と梅干しだったろうにと。
以前はライバッハも好きでしたが最近はだめですね。北朝鮮にいってからだめだ。やはり本物には負ける。

◆嘉ノ海さんの民族音楽、現代音楽、万博での音楽体験は全く重なる所があり、まあ知人達も結構NHKラジオは聞いていたという連中がおりますので、意識的に何か聞こうと言う若者は自然に聴くもの、読むものが重なってくるのは当然でしょう。とくにいまほど情報が氾濫していませんのでね。其の意味ではある種の同族意識があります。また間章との出会いも笑える程に近いですね。まあそういう人は多々ありましょう。

《『ロック・マガジン』について》

●『ロック・マガジン』の編集室で高校生だった美川俊治君が「学校では僕が好きな音楽は誰も聴いていない」と言ってましたが「当然だよ!」って会話した記憶があります。私は金野さんが関心がある音楽について非常に近いと思いますし、嬉しいです。

◆私は幸い、周囲に物好きが何人かいて、ジャズ、ジャズロック、ロックなどは色々聞かせてもらいました。現代音楽や民族音楽は皆無です。
私が欠かさず買っていたのは『JAZZ』(後に『ジャズ・マガジン』と改称)で、間と竹田賢一さんの文章を愛読していました。間さんにも、竹田さんとも知己となりえたのは僥倖でした。竹田さんとはさらにお付き合いが深まり、共演してCDにしたり、スケルトン・クルーの公演を盛岡で開催したり、雑誌『同時代音楽』での頁ももらいました。

●金野さんは音楽を演奏されるし、オーガナイズもされているので様々な関係が深くなりますよね。間章とも話をしたかったです。

◆間さんがらみの企画はしなかったです。東京以外では仙台でのみ。
サックス奏者山内桂さんなどは間さんの企画を受けていたようです。山内さんも一時は毎年盛岡まできていましたが。

●竹田さんは『ロック・マガジン』時代に何回か話したことがあります。79年に京大西部講堂の楽屋で向井千恵さんに紹介してもらって「最近キャバレー・ヴォルテールっていうバンドがイギリスからでました。」という話をしたら、興味津々という感じでしばらく話し込んだのを憶えています。
『JAZZ』は持ってませんが、『同時代音楽』は数冊あります。私はJAZZってほぼ経験していないんです。ただ京都のジャズ喫茶(死語!)SABOとかは行ってたので聴いてはいるのですが、JAZZジャズファンがいやでした。みなさん難しそうな顔をして音楽聴いているし。。。。
でも西部講堂でハン・ベニンクとペーター・ブロッツマン(かっこよかった!)や向井さんの関係で吉沢元治さんは見てます。

◆私もジャズ喫茶は遠慮していました。しかし盛岡に一軒だけICP, FMPを入れてる店があって、聞きたいからリクエストするんですが、あまり良い顔されず、5枚あとになるけどいいかなんて聞かれて、粘りました。いま、ジャズ喫茶よりもジャズバーが何軒かあり、ライブをやらせてもらったり、バカ話をしたり、結構飲ませてもらえるのでよく行きます。目的は今まで真面目に聞いて来なかったモダンジャズ名盤を聞かせてもらう事ですね。この数年、ほんとにクラシック、ジャズの名作と言われるものを聞きなおすことに力を入れています。その中でかなり発見がありますから。私はザッパ・ファンでしたが、ストラヴィンスキーを聞き込むにつれ、いかにザッパが影響を受け、しかも及ばないかを分かるようになりました。
西部講堂でも演奏は2、3回していますし、京大の尚賢館という小講堂での演奏も録音にあります。

◆『ロック・マガジン』MUSICA VIVAは誰かに貸してもらった記憶が甦りました。当時は「随分また背伸びした企画、特集だな」と感じたのを思い出します。パンク、ニューウェーブ、オルタナティヴをいくら聴いていても、いきなり二十世紀初頭の、しかも西欧の一部の突出した作曲家連中のことを、自分達の問題意識に引きつけて解釈しようとする耳がどれほどあるかと。
しかし考えてみれば新ウィーン楽派だって、当時のどマイナーな世界です。シュルレアリスム、ダダ、未来派、ロシア構成主義、みなマイナーです。その見地からすれば先達への共感を現したいという『ロック・マガジン』の気持ちは今、わかります。どれくらいの数が聴くか、いるかではなく、編集者として何を表現したいかのほうが重要でしょう。それが時代の要求に媚ない姿勢ですし、新しい芸術の到来は、需要ではなく供給に依るのです。

《「音楽」とは一体何なのか?》

●西洋音楽は広義の「音楽」という範囲でいえば亜種ですよね。いびつですけど。音楽は常に変質しますし、絵画などと違い形がありませんし、そもそも作品かどうか。

◆これは大事だと思うのですが、音楽という概念こそは西欧の発明であり、いわゆるリベラルアーツのひとつだった。この音楽は儀礼や宗教や祝詞などから離れた、音の構成理論すなわち楽理として記述されて来た。当初のグレゴリオ聖歌という宗教音楽から次第に音響構成だけが抽出されるに至ったといえますね。他の文化圏ではなかなか分離しなかった問題です。西欧音楽の特徴は、作曲(記譜)の優位(から後には先行)、そして調律の既定と調性移行の自由度、鍵盤楽器の発達があると思いますが、これらは宗教や儀礼から分離していく過程で発達したと思います。そして遂に音楽が商品として売買流通していく。これもまた他のジャンルの芸術と比較して行くと、市民社会の成立や産業構造の変化と軌を一にすると思うのです。そして大衆音楽に関しては20世紀までとその後半ではかなり違った様相がある。それは移民社会の問題と、マスメディアの発達にあると考えます。

●ちなみにヤンハインツ・ヤーンの『アフリカの魂を求めて』を読まれましたか。アフリカでは音楽は哲学であり医学であり思想であり、他の国へ伝播されて様式が変わってもその本質は変わらない、というようなことが書かれている本です。西洋における音楽が芸術作品だなんて、しかも西洋近代において。やっぱりここでも近代=モダニズムの問題があると思います。

◆私は上述のように図式化していますが、アフリカのグリオなどは歴史の記録(記憶)者でもあり、物語伝承者でもあり、ときに政治家・外交官であったりもする。また音楽の役割が広く、言葉で論じる事は出来なくても歌で公表するのは構わないなど、分離されていないだけに却って多機能な音楽があるようです。川田順造の著書で面白く書かれていました。

●「MUSICA VIVA」は音楽作品を通してその時代を生きた精神が受け継がれている様子をまとめたいという想いだけで編集しました。1945年戦後敗戦国ドイツの音楽復興運動がMUSICA VIVAです。共感してくれた阿木さんには本当に感謝しています。

◆阿木氏がロックを呪い続けたというのは間章のジャズに対する態度と似ているように思えます。

●考えたことなかったですが、なるほど。『ロック・マガジン』で連載していた「アナーキズム遊星群」の最後がルー・リード論だったでしょう。間さんはルー・リードのことをこれは断じてロックじゃないって言ってました。阿木さんはロック・ミュージックの本質は文学だと思っていたのではないでしょうか。晩年まで阿木さんはドゥルーズなど読んでいたようです。つまり音楽は文学ではなく記号化の過程で作られるものと考えていたのではないか。だから記号(ソシュールでもバフチンでもいいですが)化して差異や襞(ドゥルーズ)に、その裏づけを求めたのではないでしょうか。

◆強引に引きつける訳でもないですが間さんも阿木さんも音楽を文学に写像というか転換してしか語れなかったのではないかと。
私は最近物を書く事が多くなりましたので感じるのですが、今こうして書いている瞬間も「これは文字に依る作曲だ。この文字列が読む人の中で音響映像として鳴るのだ」という意識です。毎日作曲しているのです。しかして演奏は、楽器に触れた瞬間に全く別の次元になっている。それは無意味な音響で、しかし私に取って気持ちのよい振動そのものである。その振動をいかにしてか変化させ、かつ継続する事が「演奏」です。
上記の文章のなかで「記号化の過程としての音楽」というのは音響とは関係のない次元での音楽であり、それは非常に大きな意味があります。音楽そのものは空気振動とは関係ないといってもいいでしょう。耳が聞こえなくても音楽はある。聞こえなくても音楽はある。そのように思って3つの次元を考えた事があります。ラカンの三段階をしるまえですが。
作曲家は、その曲が響く前に脳裏に音楽が完成している。あとは書き写すだけ。まるでミケランジェロが「必要のないところを削り落としていけば彫刻が出来る」といったようなもんです。しかしまた記号は音楽の影であり、指示に過ぎないとも。下段へ続く話です。

●音楽の本質はという問いは意味がないように思います。あなたにとって音楽の重要な要素は?時間です(ケージ)、響きです(ヴェーベルン)、残響です(オリベロス)とか答えたり、具体的に音を提示できたりすると思います。

◆「阿木さんはロック・ミュージックの本質は文学だと思っていたのではないでしょうか(前回の対話でもでてきた話です)。つまり音楽は文学ではなく記号化の過程で作られるものと考えていたのではないか。」と前段書いておられますが、貴重な要素はという問いを阿木さんに発したらなんと応えたでしょう。しかし貴重な要素ということと本質は意味の違う問いですね。
音は提示できるのでしょうか?ケージは「作曲とは音の出し方の指示だ」といいましたし、アドルノは「バッハは楽譜にも演奏にも存在しない」といった。「意味が無い問い」は実に「意味がある」訳で、『打ち手の無い槌』なのかも。あるいはゼロ記号、ゼロ集合なのかもしれません。無である事に依って他を機能させ続けるコトバ。
全く逆に「歌詞が良く無ければ音楽は聞かないよ」という人も多数存在する。その人達は無言である歌を聴いていないというのではなく、メッセージの乗り物としての音楽を望んでいるわけですね。しかしまたリズムがあってそこにMCでもいいし、ラップでもいいS、伴奏無しで歌うと、もうロックは成立しちゃう。それをDAFとかに聞いて衝撃を受けたわけです。逆にいくらロック的な演奏をしても歌が、歌手が無いとロックではないと感じてしまうこともある。昔のクリームとか、クリムゾンもそうでしたが。延々即興だけやってるバンドを、かつてジャズ・ロックだといったのも分かる。しかしではジャズには歌が無いのか。そんなことはない。延々と歌に関する思いが渦巻きます。
自分の演奏にしても歌の無いのが大半ですから、これはロックではないのだろうとか思いますね。

●阿木さんの尖端音楽はそれぞれ意味性を排して純粋に音響として聴くことができますし、それぞれのコンセプトも面白い。でも音楽なので思想(考え方)を解体できても、また様式(建築様式とすれば)を解体することはできても、音楽そのものを解体することはできない。でも言葉でここまで書くと観念過ぎるのでやめときます。音楽は生活にとって「有用」なものだと信じているからです。

◆音楽の有用性とはどういうものでしょうか。機能性ということになるでしょうか。
先端音楽はいかに定義されますか。それぞれということだと多様なのですね。多様な表現形のなかに共通する分母としての音楽、または音響。
しかしまた音楽=音響というのはちょっと厳しいものがある。観念的すぎるとみずからおっしゃってますので、この辺りもう少しご教示下さい。

●「音楽=音響」というわけではありません。音楽から何をどのように読み解くかということが有用性とも関係があります。尖端音楽って何ですか?って阿木さんに聞いたら「新しくリリースされた音楽は全部尖端音楽だ」というかもしれません。
私にとって「尖端音楽」とは時代の少し先を予感させてくれる音楽だと考えています。「先」ではなく「尖」というところが阿木さんの持ち味ですが、時代の風を切り裂くという重要なイメージです。加えて速度も重要です。ベンヤミンは「歴史を逆なでする」といいましたが、音楽の有用性とは、時代の読み説きを生活の中で道具として利用することだと思います。「生活」という生命維持活動が最終的に重要で音楽はその気付きに対する機能でもあります。ですから観念論ではなく実証的な働きを持って作用するものだと思っています。『ロック・マガジン』に関わっている時もそんな想いはもっていた気がします。「音楽」の中にその歴史哲学があり、今になって思うに『ロック・マガジン』特集「MUSICA VIVA」はドイツの音楽復興運動ですから、精神の生命活動に関する歴史哲学的な精神の系譜に位置していると改めて思います。

◆そういえば、東京以北では『フールズメイト』の影響力が強かったように思えます。実際私の現在も音楽上の仲間である一人は北村昌士と仲が良く、北村の最晩年、盛岡に単独ライブに来てそのバックまでやりました。私自身はあまり『フールズメイト』にも北村の音楽にも関心が薄くなっていたのですが、ああ、大阪に阿木、東京に北村かと思った程度でした。

●北村さんと交流があったのですね。『フールズメイト』は友人が見せてくれたことはありますが、購入したことはありません。『ロック・マガジン』とはカラーが違うというか、阿木さんと北村さんの違いかも知れません。

◆非常階段の広重君、美川君、そしてウルトラビデの藤原君は何故か知り合いで、非常階段の二人は、ボルビトマグースやニヒリスト・スパズム・バンドの盛岡公演に着いて来てくれて共演しました。藤原君とは一緒にテリー・ライリーのライブを見に行きました。

●広重君や美川君やビデとお知り合いでしたか。美川君やビデは彼らが高校生の時に知り合いました。美川君は『ロック・マガジン』の編集を通してですが、ビデはその後あがた森魚さんのVanityからリリースされる『乗物図鑑』録音の際にいろいろ手伝ってくれました。『ロック・マガジン』を抜けてからぜんぜん会ってなかったのですが、10年くらいまえにビデが日本に帰ってきてのライブを見に行って再会しました。
広重くんとはぜんぜん会ってないです。最後にヴィトゲンシュタインについて話したことを憶えています。

《同時代性》

◆大学時代の嘉ノ海さんの思想的遍歴は共感できますね。私も学生時代は読みあさりましたが、ものの見事に吹っ飛んだ気もします。当時から30代にかけて書いたものを読んでも、こりゃ何を言ってるんだ、難解でさっぱりわからん自己満足だなとしか思えないことが多々あります。
まあそういう時代は必要だと思います。化粧を覚えたばかりの女子がいきなりある時期厚化粧になるようなものでしょう。
また音楽も30代まではとにかく尖ったものほど良いという意識でした。
去年、6ヶ月『デレク・ベイリー論』を連載したのですが、これはまあ言わば憑きもの落としのような意味合いでした。今もベイリーは聴きますが、非常に冷静にその良否を意識できます。彼に代表される非イディオマティック即興演奏の限界を自らの実践でしみじみ感じた次第です。ですから二十世紀以前のアーカイブにも素直になれた。それが良かったと思います。
たとえば若い頃にロマン派以前ばかりとか、モダンジャズばかり聴いていて、歳を食ってからケージやエヴァン・パーカーにはまるということはないでしょう。私は若い頃に消化不良になっていて良かったと思うんです。それは思想等にも言えますね。折口、小林、今西などいまになって共感できるのです。
スコッチも若い頃はシングルモルト派でしたが、今はサントリーの角瓶で十分です。しかしそれはシングルモルトを飲んだ事があるという経験なくしてのことではない。

●トーキング・ヘッズへのインタビューの際に阿木さんに同行させて頂いたのですが、デビッド・バーンとキャバレー・ヴォルテールの店主フーゴ・バルの話で盛り上がりました。バルの『時代からの逃走』やチューリッヒ・ダダのことなど。そのうちにバルの音声詩を曲にしたと聞いてびっくりしました。しかもリズムはアフリカだというのです。後日その曲である『ジンブラ』を聴いて驚愕しました。

◆私も『フィア・オブ・ミュージック』の『ジンブラ』に驚いた一人です。しかしアルバムとしてはファーストが好きです。カラオケで『サイコキラー』を歌います。

●私は1978年リリースの『More Songs About Buildings and Food』からですね。

◆私の恩人の一人、高橋昭八郎さんは、北園克衛らと視覚詩、具体詩、音声詩などの運動を開始した盛岡在住だった方ですが、ラウール・ハウスマンとの交流があったそうです。ハウスマンの音声詩もCDになってますね。しかしまたアルトーの朗読とか声はなんと言えば良いのか。
キャバレー・ヴォルテールといえば、チューリヒに学会で行った際に、旧市街に残るその建物の前で一人感動していました。なんでもその向かい側の建物にはレーニンが住んでいたとか。ソ連は崩壊してもダダは死なず、でしょうか。キャブスのあとに生まれたハフラー・トリオも気になる集団でした。これは坂口氏がかなり推してしましたね。

●うらやましいなあ。レーニンですか。ハフラー・トリオは重要ですね、音響の人体に与える影響を研究してました。CABSの片割れは後にWARPを設立しますね。今でもWARPは重要なレーベルですしOPNとかスクエア・プッシャーとか新しい音楽をリリースしています。

◆そうなんですか。マリンダー、ワトソン、カークでいえばカークですか。あの人ならソロアルバムが好きでした。ハフラーはワトソンですよね。もはやあそこまでいくと大衆音楽ではない。

《Vanityのミュージシャン》

◆あがた森魚に関しては殆ど思い入れなく過ごしてきました。

●あがたさんはVanity『乗物図鑑』の録音の際に1週間一緒にいたので好きなタルホの話をしてました。私も藤本由紀夫さんもタルホが大好きなので盛り上がりました。「エアプレイン」という曲では藤本さんがNHKラジオでの瀬戸内晴美さんとタルホの対談を録音したテープを持っていてタルホが飛行機のプロペラの音を口真似した声をコラージュしましたね。『ヂパング・ボーイ』とか『永遠の遠国』とか好きですよ。

◆藤本由起夫さんに関してはサウンド・アーティストということでしか知りません。

●藤本さんは『ロック・マガジン』以前から知り合いでした。PIANO RECORDSのデヴィッド・カニンガムをご存知ですか?藤本さんはこの系統ですね、音楽の美術家だと思います。

◆はい、フライング・リザーズですね。ディス・ヒートも出していた。私はこの辺の作品に関わっていたスティーヴ・ベレスフォード、デヴィッド・トゥープらとテープのやり取りをしていました。フランク・チッキンズのホウキ・カズコさんやその前夫クライヴ・ベルさんともちょっと付き合いがありました。
神戸の山際のかつての移民局だったかの場所で藤本さんのアトリエや作品をみました。
ドクメンタの出品作もキーボードとゴムバンドで人を食ったもので面白かったですね。昔私の友人はセロテープで鍵盤をはりつけていましたが。この人も美術家でした。

◆ヒューのシングルで坂本がバックをやってる訳ですが、竹田さんと彼が学習団の核ではなかったかと。
雑誌『同時代音楽』の2号ではカバー裏に学習団の宣言文が掲載されていました。

●『同時代音楽』に掲載されてましたね。家にあります。金野さんも書かれていたのですね。失礼しました。『同時代音楽』にこの記述があったので坂本龍一には自分がやっているYMOは商業主義じゃないのかということを聞きたかったのです。そういえばこの前、共産同戦旗派だった友人に聞いたら、リセン=理論戦線で合ってるって言ってました。『同時代音楽』、『morgue』、今手元に『モルグ・マイナス1号』があります。かっこいい雑誌です。

◆書かれていたというより見開きで4頁もらい、勝手にレイアウトしていいから版下でくださいといわれ、めちゃくちゃしました。
商業主義そのものは悪くは無いのですがその目的が問題でしょう。例えばまた麻薬の原料を作って売りこれを革命運動の資金にするのはどうなのかとか。
モルグは持ってます。阿基米得という人の文章が面白かったですね。あの方は当時あちこちに書いていた。青森県人ですね。オカルト古代史の研究家。私も実はそっち方面が好きで。特に青森はすごいんです。

◆ロックの本質は文学だ、ということは最近私が無調音楽の帰結が文学に、あるいはフリージャズや、インプロもそれに接近して行くしか無いことに思い至り、実感します。
W・バロウズあたりが、あるいはB・ガイシン、音声詩の連中が注目されるのも分かります。

●フリージャズや即興については、あまり考えたことないです。。。。
ただ間さんの文章は自分なりに分かります。その影響でセリーヌを読んだし、カフカの読み方も面白かった。「モルグ発刊の辞」に「我々は個を基軸としてしなやかに開かれた個体主義を、オカルティズムとアナーキズムの中で見つめながら、我々の肉の無意識、智の地下室へと降りていく。」この言葉から始まって延々と続くのですが、この長文にジャズや音楽のことは全く書かれていない。音楽評論はこうあるべきだと今でも思います。

◆私は十代の終わりから還暦までほぼ一貫したテーマとして即興演奏を考えていました。いまは少し離れ気味です。フリージャズというのは二種類あります。真性のと、その形式化したものと。そしてまたジャズ、フリージャズ、即興演奏、ノイズの問題についてはほぼ整理がついた気持ちです。
間さんの紹介したあらゆる人物は興味深いのでその意味では教師の一人ですね。ただ、それはかなり我田引水、牽強付会の感がないでもない。しかし自分の思想を鍛えていくなかで、あらゆる援用できる思想を動員するのはありえることです。私もいま、音楽や演奏を考える中で国文学の研究が意外に役立つということを感じます。音楽論だけでやっていても同じ檻(ケージ)の中で車を必死に回しているだけに思えるのです。また国文学を考えるときに音楽論が良い視点を提供する事もある。
確かに間さんは最後はシュタイナーとアナーキズムの和合を考えていたようにも思うのですが、それは錬金術のように豊かな不毛だと思います。錬金術は一つの思想体系であり、かつ実践だった。しかし決して黄金を生み出す事は無かった。

《「音楽」の肉の影について》

◆実験的、前衛的な先端音楽はやはり物語と言葉を必要とします。理論と音響だけでは限界が来る。
「西洋音楽の本質は宗教音楽にある。」と嘉ノ海さんは明解に書かれていますが、民衆音楽についてはどのようにお考えでしょうか。宗教と起源を一にしないものがあると思いますが。
しかし西洋音楽が宗教音楽という形式を得て発展したのは当然で、だからこそ我々はキリスト教の根源を知らずに批判は出来ない。いや、批判する為に勉強しています。

●そうです。あの宗教改革の時代にバッハとゴシック建築がキリスト教社会を精神的に支えていた。まだ宗教と一体となった音楽が物理的に存在価値があったのです。生活に有用な音楽だったと思います。

◆西欧音楽が石材を積み上げて行く方法論のような堅牢なものだっとして、対照的に水や炎のような捕まえられない、しかし確たる現象として息づく音楽としてシタール演奏等の即興重視を言ったのが小杉武久です。西欧音楽が宗教生活と一体化していたようにインド音楽も宗教と間違いなく絆がある。しかしその性格がまるで違う。いわば西欧のそれは強制する音楽であり、インドのは共生する音楽だといったら言い過ぎでしょうか。

●また宗教音楽(キリスト教音楽)はモダニズム直前の音楽でもあると思います。つまりバッハは18Cの作曲家で教会専属ですよね。産業革命が始まり、50年位したらボードレールの時代ですから遊民の登場です。

◆だとすればモダニズムの前段階としての近代を置いてもいいのではないでしょうか。モダニズムをどう考えますか。ルネサンスはもうモダニズムでしょうか。まあその頃はまだ古楽ですが、合唱曲などは極点に達していたと思われます。またフレスコヴァルデやスカルラッティを聞いても、こりゃプログレじゃわいなと感じたります。つまりマニエリスムがかなり進行している。すると反動が来ますよね。パンクが。

●ロック・ミュージックってキリスト教音楽だと思いませんか。I LOVE YOUのYOUはマリアのことだと。これは、私が長野のカソリック教会で幼児バプテスマを受けていること関係があるかも知れません。小学校まで毎週日曜学校に行ってました。

◆それはアラブ系音楽での恋歌の対象が神であるとされるのも似ていますね。ただ、何故マリアなのか。イエスではなく?ジーザス&マリーチェインというバンドは好きでした。
まあ西欧社会は、神は死んだとかいいながら、秩序の象徴としての神概念を持ちますね。世を統べるものとして。しかしアラブ社会は別として東洋の場合、神概念はもっと鷹揚なものでしょう。人が死ぬのも生きるのもそれは仕方ない事だと。しかしキリスト教はそうは言わないでしょう。

●アンドレイ・タルコフスキーやイングマール・ベルイマンなどの映画にバッハが多用されるのは理解ができますし、映画音楽というジャンルの中でも傑出していると思います。ルイ・マル『鬼火』のエリック・サティもそうです。

◆最近、テレンス・マリックの『ツリーオブライフ』を見まして、ああ、これはまさに今風の宗教映画だと感心しました。そして編集と音楽の使い方も素晴しいです。

●だからパンデミックの今聞かれたりするのでしょう。バッハは単なる癒しや安らかな気持ちになれるっていう音楽じゃないですよね。でもその側面はありますね。

◆聞き方と演奏者にも依ると思います。それはそば屋でも寿司屋でもBGMにジャズが流れていますけど、よく聞けばあれらの演奏でも非常にシビアなことが行われていたりする。「弱い聴取」という状況であればどんなに激しく主張の強い音楽も壁紙です。バッハの音楽の美は構成力だと思います。それは石造りの大伽藍にも匹敵するけれど、四畳半のラジカセで聞いた時のほうが染みてくるかもしれない。またその構成力ゆえの圧倒さに拝跪するしかないようにも思える。石造りの家は結局、墓か城です。それは籠るしか無い。

●「民衆音楽」についてはどこまで聞いているのか自分でも疑問ですが、カルロ・ギンズブルグの『ベナンダンディ』や『チーズとうじ虫』の中の「聖なる神が宿っている」に象徴される歴史主義は興味深いです。
近代により失われた、もしくは隠されている宗教的世界があると思います。

◆私の解釈では、人間はチーズの中に巣くっているウジ虫みたいなものなんだと考えましたが間違ってますか。たしか本は持ってる筈です。民衆、大衆という概念は分離しなくてもいいですけど、大衆が自前の思想で世界と神の関係を理解しようとすること、それに音楽はどう働いてくるのだろうか。チーズ職人が鼻歌を歌いながら牛乳をこね回すとき、彼は神になってるかもしれない。これから生まれるチーズという世界の。

◆最後に『バフォメット』が出て来て嬉しい。私も好きな作品で、特に霊魂観への影響があります。異端キリスト教の背景をもっと知りたいと思っていました。当然ながらネオ・プラトニズム、グノーシスあたりの知識は吸収不全ですし、カバラー、スーフィズム、タオイズム、仏教における密教の流れ、これらは現在も強く関心領域としております。

●ありがとうございます。とても嬉しいです。ピエール・クロソフスキーは高校から大好きな作家です。金野さんと同じように昔から関心があります。ゲルショム・ショーレムや井筒俊彦など。キリスト教は分派を許さず異端として断罪した歴史がありますが、イスラム教は分派する方向でスーフィもそうですが様々な道を開いていきますね。

◆しかしまあなんとも分派同士の抗争もあとを断たないではありませんか。私はイスラム思想で最初に惹かれたのがスーフィズムでした。それはあのジクルという独自のトランスへの方法であり、メブレビの旋回舞踏であり、カッワーリーの熱い歌です。音楽を禁ずるイスラムの中にあってもっとも激しく音楽を訴求することは矛盾を乗り越える信仰でしょうか。
一般に密教化した宗教は音楽も独自の物をもつのですが、カバラーには見られないようです。しかしジョン・ゾーンの「コブラ」はそれかもしれない。

●いきなりですが(笑)、この会話をしている5月16日はイアン・カーティスの命日でした。

◆私も彼は好きでした。そしてまさに成功しかけた所で自ら敗者になっていったような。

《その時代のこと》

●さて少し私自身のことを語ってみますね。
昭和29年9月22日長野市生まれです。といっても父親の転勤がたまたまということであまり記憶がないのですが。数箇所の転勤先を経て、小学3年の時に大阪市の鴫野という場所に引っ越してきました。小松左京の小説『日本アパッチ族』の舞台になったあたりです。当時はその感じがまだ残ってました。宮本輝原作で小栗康平の映画『泥の河』をご覧になりましたか。あの雰囲気もまだ少し残っていました。「ロバのパン屋」の車を引いているのが当たり前に本物のロバでした。

◆『泥の河』は見ました。心に残ります。カニに火をつけるところとか。ロバを町中で見た事はありません。代わりに私の子供時代には、金魚、野菜、鮮魚、花、豆腐、ドン(米のポップコーン、甘い)、などがリヤカーで売りに来ました。また町中を荷馬車が歩いていましたが、その運搬物は糞尿で、田舎から買いに来ていたのですね。昭和30年代前半の話。当時盛岡はかなり寒く、つららは日陰では軒と地面で繋がり、路面は春まで凍っていました。道路で下駄スケートができました。市内の大きな池は30センチくらいの氷が張ってスピードスケート、フィギュアもやっていました。

●金野さんのソフト・マシーンやマザーズまで行きませんが、グループ・サウンズ真っ只中でしたので近所のお兄ちゃんがオックスやタイガース(関西なので)を見に連れて行ってくれました。

◆そういうのが見れなかったのが残念です。

●1970年大阪万博の開催に向けて街が変わっていきました。阪神高速とか道路が整備され千里団地とかができて、ヘドロの運河(物流の役割を果たしていた)は道路になりました。また整備と共にヘドロのくさい臭いもなくなりました。でも1960年代後半の大阪で暮らしたのは面白かったです。

◆そういう状況は東京でもそのようでしたが、もっと早い時代だったのですね。明治後半から。そして関東大震災で一気に変化した。

●最近知ったのですが、中学校の美術担当は鷲見康男という「具体美術協会」の前衛美術家でした。新聞の訃報でそのことを初めて知りました。授業では絵筆は一切使わずにシュルレアリズム絵画で使用するコラージュ(新聞の切抜きや布などを貼り付ける)とかフロッタージュ(鉛筆などで形をこすったりする)、デカルコマニー(紙的な素材の間に絵具を挟んでぐしゃっとする)ばっかりでした。本人はソロバンを使って絵を描いていました。その頃は前衛芸術家?が美術教師で食っていたんですね。

◆私の中学の美術教師も前衛でした。いまでも描いています。現代美術は、その先生の部屋に自由に出入りして画集を食い入るようにみておぼえました。中学では卒業制作と卒業論文があったので、キュビスムを研究して、その技法で油彩を描きました。

●70年万博は高校一年生の時でした。回数券を買っていたので頻繁に行きました。NHK-FM「現代の音楽」で紹介された作品やとんでもない近未来(今でいうレトロ=フューチャー)の姿にワクワク感が半端なかったです。

◆一度だけ親戚といき、アジア、アフリカなどの小さい国のパビリオンばかり見てあるきましたが、西ドイツ、フランスなどは覚えているし、鉄鋼館の現代音楽や音響彫刻は感激しました。
まあエクスポ70は幻影ですね。KRAFTWERKのコンセプト通りの世界。過去に夢見られた未来。私は子供時代に読んだ未来社会の本をもっていますが、エアカーとか都市農園はあるがコンピュータやネットなどは全く出て来ない。テレビ電話は期待したが、いまやる気はしない。

●当時通っていたのは大阪府立枚方高校という学校で社会に対して強いアゲンストを掲げていました。府教委への抗議デモもしてました。
先輩はバリ封とハンストを決行したり、社研(ってありましたよね)のメンバーの多くは4トロ(日本革命的共産主義者同盟第四インター日本支部:正式名を今回はじめて知りました!)でした。
入学早々6.23安保集会に行きました。4.28沖縄闘争、水俣、特に三里塚闘争は激しかった。同級生が行きましたが、停学になり留年したのはショックでした。

◆私は地方高校ですし、もう嵐が去った頃でした。高校入学71年ですから。生徒会は民青が仕切っていました。岩手は国労、動労などが昔から強く、その影響でしょうか。

●先輩(といっても2年生3年生)がチューターでフォイエルバッハ、ヘーゲル、マルクス、レーニンからカミュ、カフカ、など読書会もやってました。同時期に先輩に連れられ「武闘訓練」と称して京大の吉田グラウンドに行き「連帯の挨拶」(死語)をさせられました。

◆本格的の一歩前ですね。

●NHK-FMの「現代の音楽」はずっと聴き続けていたのですが、その反面CSNYや日本のフォークも聴いてました。天王寺野音で開催された「春一番コンサート」にも連続して行きました。フォーク時代の阿木さんの歌も聴いたかも知れません。
高校3年生になった頃「ラジオのように」に出会いました。間章にも。映画見たり本読んだり音楽聴いたりばっかりしてたので2浪して立命館大学に入りました。

◆盛岡には大学が当時は2つしかなくて、あとは短大でした。2つというのは岩手大学と、私の岩手医科大学です。岩大はまだ、学生運動の余波がありましたが消えかけ、医大のほうは最後の牙城新聞部が消えて、学友会報になり、私は音楽関係の記事を書いたりしました。デヴィッド・ローゼンブームやアルヴィン・ルシエの脳波音楽、バイオフィードバックについてですね。多少医学的かと。

●高校時代の友人と同人誌を作ったり、秋山邦晴に会ったり、新宿にあったころの工作舎で松岡正剛に会ったりしました。

◆大学時代に「第五列」を開始し、京都では<どらっぐすとぅあ>が拠点でした。
まったくどこが中心とか代表とかなしで、そう名乗ればそうだということにしました。これは信頼だと思います。まあ「気分はもうリゾーム」。

●端山貢明、沼澤慧や芦川聡に会ったり、『音楽』という雑誌を編集している人に会いに行ったり。金野さんはご存知でしょうか。板橋あたりか?記憶が定かではありません。

◆『音楽』は持っています。ミュージック・リベレーションセンター・イスクラの出版ではなかったですか。ニューズレターも出していた。そしてレコードも出しましたね。小杉・一柳・ランタの名盤とか。大学時代、休みには東京に行ってマイナー関係の連中とつきあいました。一緒にライブもしました。芦川さんにはひとかたならぬお世話になりました。早世され残念至極です。今、彼の作品、レーベルの評価が高まっているのは嬉しい事です。

●また1977年でしょうか同志社大学や京都大学などの学祭で、松岡正剛や草間弥生が講演したり、日本維新派とか田中泯の「身体気象」とかやってました。間章の講義を聞いたのもこの年だと思います。

◆『遊』はあまり読んでいなかったので、遅れを感じました。維新派は関西ですよね。間さんはいきなり出会いました。

●『ロック・マガジン』でもインタビューしましたが、ドイツ文学者の池田浩士とは立命文学部の講義で出会いました。『教養小説の崩壊』という連続授業で後に現代書館(今はインパクト出版)から本になりました。
ドゥルーズ/ガタリの『カフカ』が出た頃で池田さんはとても評価されていたのを憶えています。同じくドイツ文学者の土居美夫にも会いました。フーゴ・バルの『時代からの逃走』の訳者です。
池田浩士はその後大衆小説や『日野葦平論』などファシズムと大衆について書いてますね。『ロック・マガジン』で特集した「SUR-FACISM]は池田さんのことがベースにありました。
編集していた頃はバタイユのコントルアタックのことは全く知りませんでした。

◆そのあたりは不勉強で、せいぜい今村仁司さんの講演を聴いたくらいです。『リゾーム』は訳わからないながらもかんじるものがありました。ガタリが日本に来て、そのとき八戸まで豊島重之さんが招聘して、モレキュラー・シアターの上演を見せたりしました。
『ミルプラトー』や『アンチエディプス』は一応読んだもののほとんど抜けてしまいました。「この機械は壊れる事で機能している」というのは逆説好きの私には残る言葉でしたが。「この本は忘れる事で機能している」のでしょうか。

《80年代以降の事など》

●1981年に『ロック・マガジン』を完全に離れて、当時の人間関係は全くなくなりました。というよりも意識的に連絡は取りませんでした。ですので、音楽も聴かなくなり今で言うフリーターのような生活を3年くらい続けたでしょうか。趣味でPC(昔の)をやっていたので夜間のコンピュータ専門学校へ行ってから1984年に就職しました。30歳を超えていましたね。そこで情報処理技術者として販売管理や生産管理などの業務を経験しました。その後、1995年から人事給与のパッケージ作成とシステム導入コンサルタントに特化した仕事をしています。
企業の中で人を計画的に教育し、様々な角度から評価し賃金に反映させ、必要に応じて採用計画も含め人材を確保し適正配置し、総合的に人材の中で戦略を立案し、といった業務要件をカバーするためのシステムです。
社会の中で人はどう生きるべきかという問いに直結しているので結構興味をやってます。たまにビルドゥングス・ロマンを思い浮かべます。

◆荒俣宏みたいな経歴ですね。

●80年代の新自由主義=サッチャーイズムやポスト・フォーディズムから現代の後期資本主義(欲望の資本主義?)へ加速していく課程で企業の人事制度が数年毎に変化していきます。そんな仕事をしています。

◆19世紀から20世紀初頭の変換もドラスティックでしたが、それは大戦へと向かった。20世紀後半の変化はコンピュータの民生化が大きく影響しましたね。そしてネットです。初期コンピュータ関連の書籍は如何にプログラムするかばかりでしたが、ソフトがどんどん充実し、結局ネットに繋がっていないパソコンは無意味だとなった訳です。私も博士論文を書く時点(40歳くらいですが)で、ようやく岩手大学とネットでデータやりとりするようになり、実に便利だと感じました。その頃はその害毒性も考えず。

●業界では数年前からRPA(Robotic Process Automation)を業務に導入したり、AI(Artificial Intelligence)が果たす役割の具体例が出てきています。5Gの環境でビックデータを活用する流れはコロナ以降加速するでしょうね。

◆思いますにRPAのような仕事は大事です。私はそれを修行としてやることがある種の精神的進展を促すと思う。ただ、それを無自覚にやってはいけないし、意識的もいけない。無というかゼロというか、中立的になり、身体と精神を分離してみる。そういう作業はあると思います。ただ、それを効率やノルマのなかでやってはいけない。それは産業の要求するものですからね。

●昨年から思想家マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム論』や『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』を読んでいるのですが、今までやってきた仕事に直結する視点なので、音楽を読み解くヒントをいろいろ与えてくれます。

◆最近は古い本ばかり読んでいます。文芸書が多いです。思想や分析はどんどん変わるので、基礎のないワタシにはなかなか。だから基礎になるような日本語の思想を。

●音楽以外のことでは、1985年くらいからシュタイナーの「オイリュトミー」を笠井叡さんに教えていただいてました。シュタイナーの本も読みましたし、その周辺の人たち(日本人智学協会)とも交流しました。今はほとんど付き合いないですが。松本順正とその頃オイリュトミーを通して知り合いました。元遊塾生で山崎晴美や大里俊晴とバンドやってたそうです。後述しますが、岡山でのFM放送でたまに会います。彼は精神科医として岡山でシュタイナー・クリニックを開業しています。

◆面白い人脈ですね。山崎さんは、雑誌『アルテス』で私と彼の小説が隣あって掲載されました。彼の文才には及びません。私はいまは<ジャズトーキョー>にたまに載せます。山崎さんは昨年暮れ、東京の幡ヶ谷であいました。ライブでした。

●音楽については、現代音楽や民族音楽は聴いていましたが、1982年から1997年まで新しいものは全く触れてませんでした。

《最近の事など》

◆私は積極的に流行ってるものを聞いたのは76〜87年あたりまでです。その後次第に新たな音楽への興味は減り、宗教音楽、伝統音楽、部族音楽、古楽そしてモダンジャズを聞くようになりました。この数年はもっぱらクラシックです。いまは20世紀初頭のばかりです。しかし古い音楽も新しい演奏は変わりますし、部族音楽も伝統音楽もそうです。同じ地域の民族音楽を聞いて歴史的な変遷に驚く事がありますが口承だとそういう変化が普通であり、記譜や録音によって変化が止まる、権威化するというのが分かります。古事記以前の伝承はどうなったのかとか考えます。
最近、万葉集についてのエッセイを頼まれたのですが、あれはまさにソングブックだったという視点で描きました。

●1982年以降の『ロック・マガジン』とか『EGO』とかは買ってましたが共感をもって読んでいませんでした。
しかし1997年にライブハウス「岡山ペパーランド」を主催されている能勢伊勢雄さん(『ロック・マガジン』、『EGO』などの編集に関わっていた)から連絡がありました。
能勢さんは岡山の<レディオ・モモ>というシティFM放送局で「能勢伊勢雄のムジック・スペクタクル」という番組を長年担当されているのですが、その番組内で「MUSICA VIVA」をやりませんかというお誘いでした。
週1時間番組ですが好きなようにやっていいですよ、ということで『ロック・マガジン』の「MUSICA VIVA」に登場する音楽家を紹介することにしました。番組では音源をかけながら能勢さんと話をするという形式でした。たまにゲストが参加したりしましたが、基本的には二人での会話を放送していました。
引き続き能勢さんとは今もお付き合いがあるのですが、「MUSICA VIVA」シリーズを延々3年くらいはやりました。その中で日本の作曲家の作品やアウシュビッツで死んだ忘れ去られた作曲家の作品も放送しました。
「MUSICA VIVA」シリーズ終了後も放送を続けて能勢さんが保有している1982年以降の音楽も放送することになり、その過程でポストインダストリアルなど『ロック・マガジン』で体験した以降の音楽を聴きました。
さすがに今ではほとんど参加することはなくなりましたが、「能勢伊勢雄のムジック・スペクタクル」は今も続いており新しい音楽を紹介しています。能勢さんとお会いするたびに色々教えて頂いています。

◆『Shoah, Les musiciens martyres de l’holocauste』というアルバムを聴きましたが、まさにそういう作曲家達の作品集でした。非常に良かったです。
日本の忘れられた、というか不遇な作曲家、有名作曲家の知られざる作品という観点でリリースを続けているのがオメガポイントです。私のところにあった幾つかの実験的、前衛的録音のカセットで、新たにリリース予定もあります。意外な音楽家の意外な作風のです。50〜60年代の日本の作曲家の映画音楽集も面白いですね。古いLPでオムニバスがあって聞いています。一番多様なのは武満さんですねえ。
あと、やはりユダヤ系作曲家というのはなにかと凄いですね。シェーンベルク、ライヒ(ライシュと読むべき?)、ゾーンは同じように、理論的な音楽からオリジンに回帰して行く途を歩んだのが面白い。『モーセとアロン』、『ディファレンストレイン』、『クリスタルナハト』がそれぞれの基盤でしょうか。
私も地元FMに時々、特集番組で出演し選曲は私がやってあとはホストと語り合う形式です。録音あります。また映画祭で作品に関するトーク、とか音楽祭で70年代80年代の地元音楽シーンと世界の関係なんてのも鼎談したり。

●「能勢伊勢雄のムジック・スペクタクル」では阿木さんの追悼番組として、2014年の『Bricolage Archive 2』のCD 4枚を音源として録音しました。まだ放送はされていませんが、そのうちされます。

◆これは全く知りません。

《再び阿木譲と間章について》

●阿木さんとは4年前に0gに行ってお会いしたのが最後です。ブリコラージュをやってましたね。
いささか丸くなった印象はありましたが、「嘉ノ海、どうしているんだ、何かはじめないといけないんじゃないか」と言ってましたね。

◆阿木さんが「何か」というのはどういうイメージがあったのでしょうね。言葉、文字ではないタイプとしてですかね。でも嘉ノ海さんはそうではないでしょう。やはり書籍とか叢書編集ですかね。

●個人的には阿木さんには音楽の聴き方を教えていただいて感謝しています。(あの3年間はほんとうにいろいろありましたが)
昨年来、原稿も書いたり、0gで音楽を作っている方達と知り合いになったり、こうして金野さんとやりとりしているのも阿木さんがいて『ロック・マガジン』やVanityがあったからです。

◆私の場合は間章が最初でしたが、まああまりにも文学的かつレトリックが多く、竹田賢一さんによってある意味左翼的視点を開かれました。それは高橋悠治も同じです。しかし左翼になるには遅すぎたというか真面目に取り組む障壁があった。廣松とか今西とかは読みましたが。いまになってネグリなど読んでます。アルチュセールはラカンがらみで読んでさっぱりわからず。

《ライブについて》

●「ライブ配信」は音楽体験を希薄にするでしょうね。所謂いい音であればあるほどスペクタクル社会=資本主義の気持ちよさに思考停止、感性停止されそうな気がします。

◆一昨日も青森県の子供中心のブラバンがZOOMでオンライン合奏をしているニュースが流され、それに参加した子供がすごく喜んでいる訳です。その子がまた大変に可愛らしい。こうしてオンラインでも皆に出会える、合奏も出来て楽しい楽しいと煽るわけです。
もともと音楽というのは、特に聞くという行為においては思考停止させる機能がある訳で、演奏行為では楽曲の場合あまり宜しく無いですが、即興演奏では常に考えざるを得ません。
ネットを介した即興的な演奏のやり取りは既に90年代からされていましたが、アメリカの電子音楽の連中で<アーチファクト>というレーベルに依っている人達でしたね。
まあいずれオンライン専門のライブ集団もできてくるでしょう。これはグレン・グールドやビートルズがライブをやめてしまったのと事情が違うのですが言及する必要はあるでしょう。
生の音、ライブで聞こえる音の圧力、訴求力は、自室でいくらいいスピーカーにつないだところで違いますでしょうし、大体にしてでかい音で聞く環境を皆さんは持ってないでしょう。
カーステか、ヘッドフォンです。まあ今度はヘッドフォン再生を前提にした音声送信も考えるでしょうけど(アフターディナーや宇多田ヒカルはやってますが)。つまり環境に応じて表現は変わってくるというべきですね。しかし、私は生が一番であとは二次的だ、シミュレーションに過ぎないという偏見はありません。スピーカーから出てくる音はことごとく電気信号の変換という意味では変わりないのですし。
むしろ録音する為にライブ演奏しているとさえいえる。そしてライブでいい音が録れるのが一番嬉しい。最高の聴き手はマイクロフォンだとさえ思います。
デリダでしたか、電話内存在と書いたのは。まあそれに近い他者です。
それを認識しながらも、配信ではないライブ環境での音作りを考えて行きたいのです。おそらくそれは不確定性や偶然性、あるいはエラー、ミスということに関わって生成されるのでは。
それとネットという巨大なシステム、不特定多数の意志のクラウドを介するのも気味が悪い。別に怒ってる訳ではないが私のレーベルの作品がダウンロードできてしまう環境は面白く無い。勝手に自分の評価できないような演奏が流されているのも楽しく無い。

●共有する「場所」の問題はコロナ以降に考え直す必要があると思います。タージ・マハール・トラベラーズが提起した、生活=音楽(聴く+発する)=場所により自分自身が変化していくようなことでしょうか。
このあたりは金野さんの専門分野でしたね。すいません、やっぱり今の時代にはタージ・マハールはありえませんね。やはりこれもスペクタクルになってしまうと思います。

◆そうとも言えないように思います。新たにタージ・マハールを開始すべきかもしれない。でもインドは遠いからまあ成田山とか恐山とか出雲大社あたりがいいでしょうか。
田中泯は「場所とは記憶である」といいました。では記憶は場所たるでしょうか。共有される記憶というのは可能でしょうか。容易にもみえ、あり得ないようにも思われ。

●この1年、月に2回くらい阿木さん最後の箱である0gに行き阿木さんと付き合いのあったミュージシャン(大半は電子音楽かDJ)の演奏を聴いて話をします。
もちろんここ2ヶ月は閉じてますが、再開すればまた行こうと思っています。彼らの音楽は面白いですよ。そんな「場所」でじかに彼らと接して「尖端音楽」について会話をしたいと。

◆私もクラブなどには行きます。興味ある音楽家がきたり、またなんかやってくれと言われたり、DJとの共演もします。

●『ロック・マガジン』の記事を書いていた羽田明子が現在ベルリンに住んで映像をやっているのですが、報道されている通り支援が手厚いらしいです。またかけがえのないという意味で、うろ覚えですが高橋悠治が「インドネシアの材木が伐採され輸出されるけど、インドネシアの音楽は決して輸出できない」と書いているのを思い出しました。

◆ガムランや、ケチャは、エキゾチシズムのお土産みたいな感じでしか聞かれていないかもしれませんが、素晴しいですけどね。ガムランはジョグジャカルタのゆったりしたのも、バリのハードコアなのも、また編成の小さいがゆえに構造の良く分かるのも、巨大竹ガムラン「ジェゴグ」もみな好きです。かつて小泉さんがケチャの由来についてトランソニックに書いていましたね。あれは驚きでした。サンギャンという儀礼を観光化したものだとは。まあそれは日本各地の神楽や祭り囃子、山車の運行に伴う音楽も派手になって行く。最近は北東北各地の神楽等を見て回っています。面白いです。若々しいし。
密閉、密集、密接はまさに即興演奏の環境ならぬ感興です。音が漏れないように、集団で、互いの演奏に接する。と無理矢理に関係づける気もないですが、まあソウシャル・ディスタンスよりは「ソウシャル・ギャザリング」です。このタイトルのアルバムもあります。日本のロック名盤ですけど。
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◆インタビューを終わって

嘉ノ海さんという名前は印象的だったので意識はしていたが、このように対話する機会が無かったのは残念でした。まあちょうど対照的な関係にあったでしょう。関西の先鋭的ロックシーンの中核を自負していた『ロック・マガジン』におられた方と、東北の片隅で周囲には全く共感されない音楽を制作していた私。今でこそ、世界観、生命観、倫理観という三つの視点で、あらゆる人と語れると思うが、40年前に出会っても喧嘩別れで終わったかもしれない。時間が存在するか否かは議論を措くとして、まずはここで経過したものが再び意味を持って立ち上がってくる。それを契機に会話が始まる。とても面白い経験だ。関係各位に感謝します。

●インタビューを終わって

今回の対話を通じて初めてAnode/Cathodeが盛岡の方だと初めて知った。Vanityミュージシャンへのインタビューと銘打っているが、どちらが話を聞いているのかという感じになり、自分自身のことについても会話させて頂くことになった。そして話の終わりは見えず「場外」になることも多々あった。もちろん「乱闘」ではない(笑)。これでも半分くらいは割愛した。話題についての共通項が多いのも不思議な体験だった。
最後にこのような会話に長時間付き合っていただいた金野吉晃氏に感謝致します。そして新しい時代への音楽を期待します。金野さん、いつの日にかイーハトーヴで会いましょう。