VANITY INTERVIEW
⑧ DADA(小西健司)

VANITY INTERVIEW ⑧ DADA(小西健司)
インタビュアー 嘉ノ海 幹彦


DADA

『音風景としての「浄」』

『浄/DADA』についての試論

「浄」のレコード・ジャケットで使われている「餓鬼草子」の図は京都国立博物館所蔵の第5段である。絵巻物では餓鬼道に堕ちたことの苦しみは前世での行いのせいであると仏様が餓鬼たちに説法する場面だ。しかしジャケット・デザインでは仏衣の一部と風景(背景)のみである。また同じ第5段には餓鬼が食べ物が炎に変わる場面や転生していく餓鬼も描かれている。しかし、阿木さんが切り取った断片はあくまでも「Obscure」の意味通り「はっきりしない、ぼんやりとした」ものであり、聴き手が絵巻物に惑わされず音楽からイメージさせるような工夫がされているのである。

また、『浄/DADA』の音源を聴くと「ドイツの音楽グループのポポル・ヴーを想起してしまう」と東瀬戸悟(フォーエヴァーレコード)は語っていた。ポポル・ヴーはクラウトロックの旗手であり、1970年代ニュー・ジャーマン・シネマの代表的映画監督ヴェルナー・ヘルツォーク(1942年-)の映画音楽を手がけている。今回改めて『アギーレ/神の怒り Aguirre, der Zorn Gottes (1972年)』や『ガラスの心 Herz aus Glas (1976年)』のサウンドトラック盤を聴くと確かに「音風景」としての「浄」が立ち現れるのである。

阿木さんは、VANITY0005『乗物図鑑/あがた森魚』の録音時と同じように、既存のもの(ポポル・ヴー)から「浄」というコンセプトだけを変えて全く別のものに置き換える手法を既に使っていた。サンプリングという今では当たり前の音楽制作技だが、阿木さんが体験した音楽の中からコンセプトに合った何を選択するのか、ここに現代に通じる意味がある。またその技法は同時並行的に行われていた『ロック・マガジン』のデザインにも応用されていくのである。

このアルバムはBRIAN ENOに捧げられている。明らかにObscure Recordsへの阿木さんのENOに対する返答なのだろう。ここで少しObscure Recordsに触れてみよう。1975年から1978年に掛けてリリースされた10枚のLPシリーズに参加している実験音楽の作曲家達を列挙すると、ギャヴィン・ブライアーズ、デレク・ベイリー、マイケル・ナイマン、デヴィッド・トゥープ、マックス・イーストリー、ジョン・ケージ、ハロルド・バッド他。その中で注目すべきは音楽学者としての肩書きを持つマイケル・ナイマン(1944-)である。彼が「Experimental Music: Cage and Beyond」(邦題:『実験音楽 ケージとその後』1992年水声社)を出版したのが1974年であり、ENOが既に読んでいたことは想像に難くない。ナイマンが音楽誌に寄稿していたのが1970年から1972年までであり、ENOがロキシー・ミュージック在籍期間(1971年-73年)と重なっているのである。ENOは音楽芸術そのものの深遠な冒険を既に始めていてその後のアンビエント(家具の音楽)への流れを見据えていたのではないかと想像するのである。
おまけにObscure Recordsは、ENOが設立したレーベルではあるが、Island RecordsやPolydor Records、Virgin Recordsの販売網を利用しながら世界中に展開された。
なのでVanity Recordsの第一作目の『浄/DADA』は阿木譲のENOのオマージュとして捉えることも出来るのである。
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DADA 小西健司へのインタビュー
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DADAは1978年に阿木譲が設立したVanity Records第一作目としてVANITY0001『浄/DADA』をリリースしている。彼らのことやこのアルバムの成り立ちについてもほとんど知らない。他のスタッフと同じように『ロック・マガジン』と関わった時期(1979-1981)がずれているのが理由だ。当時どのような経緯でリリースされたのかを聞きたかった。小西君(呼ばせてください)とは、彼がその後結成する4-Dの関係で知り合うことになった。DADAもう一人の泉君はスケジュールが合わず残念ながら参加していただけなかったが当時の写真を提供してもらった。


DADA

ということで小西君にはこの機会に当時のことや今の時代をどのように感じているのかを語ってもらった。
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小西健司
ドイツLeipzigと大阪をベースにLeibachを核とするアートプロジェクトNSKが主催するビエンナーレやLeipzigで毎年催されるNacht Der Kunst等にサウンドオブジェや音響構築作品を出展する他自作楽器KonishiPhoneやアナログシンセ、センサー等を使用したライブも行う。
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泉陸奥彦
フリーの作曲家。元カリスマの菅沼孝三(drum)近藤研之(bass)らと共にトリオのバンド「Thrteen Triangle」を結成するも、現在はコロナ禍のため活動を自粛中。
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▲小西健司(DADA)
●嘉ノ海幹彦


DADA 泉陸奥彦と小西健司(1980年)
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●『浄/DADA』はVanityの第一弾として1978年にリリースされたましたがどのような経緯はがあったのでしょうか?また阿木譲との初対面の印象やどのような感じでお会いになりましたか?

▲『浄/DADA』制作の経緯は忘れてしまいました(笑)。 ただ何度も「餓鬼草紙」は制作前に見せてもらいました。

●少しでも思い出してくださいね(笑)。でも大変興味深いですね。「餓鬼草紙」のコンセプトは阿木さんが第一作目として暖めていたものなんですね。「餓鬼草紙」は平安時代後期に死後転生するという仏教思想の六道の餓鬼世界を描いた絵巻物です。その頃はブライアン・イーノのObscure Recordsの10枚組シリーズ(1975-1978)が始まっていたのでイーノへの返答として何か日本的な生死に関わるようで物語になるような連続したリリースイメージは持っていたと思います。ユーロプログレ的に日本の生死世界観をシリーズで展開しようとしていたのかも知れません。

▲阿木氏と最初に会う事になった経緯も忘れましたが、DADAとしてではなく同時にやっていたバンド飢餓同盟として心斎橋にあった喫茶店「Williams」で、メンバーの安田隆と結成したまさにその日に初めて会いました。その後阿木氏を長時間待っていたのですが現れず、近くの席に座っていた「それ風な」人に声を掛けてみると阿木ではなく八木さんという人でした。偶然にも八木さんは阿木さんの知り合いであったため電話(公衆電話)で連絡を取ってもらい、めまいがするので出て来られないというので阿木氏の居る住居兼事務所へ連れて行ってもらいました。


飢餓同盟 小西健司と安田隆(『ロック・マガジン』9号1977年8月より)

阿木譲がプロデュースしたライブハウス梅田「モンスター・タイムズ」のフライヤー(1975年)

●飢餓同盟結成その日だったんですね。ところで阿木さんと会った印象は?

▲第一印象は「なんで家の中でもサングラス?」です(笑)。正確には自分はこれ以前、高校生時代に大阪城公園の片隅で行われていたフリーコンサートで阿木氏のステージを見て彼の自主制作シングル曲「俺らは悲しいウィークエンドヒッピー」に大きな衝撃を受けていたのですが、それが阿木譲氏だとはしばらく気が付きませんでした。

●「俺らは悲しいウィークエンドヒッピー」は阿木さんがフォークシンガーの頃ですね(笑)。自分が高校生の時に行った初期の「春一番」コンサートにも出ていたのかなあと思いました。憶えていないですけど(笑)。
『浄/DADA』を録音したのは、どちらでしたか?やはり西天満のスタジオ・サウンド・クリエーションでしょうか。

▲そう、スタジオ・サウンド・クリエーションです。


『浄』の録音風景(於:大阪西天満スタジオ・サウンズ・クリエーション1978年4月19日)

●プロデューサーとしての阿木譲の役割はどのようなものでしたか?

▲こんな感じでという指示に従ってDADAが即興で具体的な音にしてゆくというプロセスだったと思います。予め収録曲のようなモチーフや手法があったわけではありません。

●今回『浄/DADA』のリマスタリングを宇都宮泰さんがされているのですが、実際に聴くと別物ではないかと思うくらい音の奥行き感も音粒の表れも臨場感にしても音響が違って聴こえました。また全体的に「餓鬼草子」の絵巻物で表現されいる「水」のイメージを強く感じます。クレジットによると1978年4月19日とありますが、一日で録音したのですよね。またVanityリリース以降のDADAとしてどのような活動をされたのでしょうか?
『浄/DADA』が有効に働いていたのでしょうか?

▲ライブ活動は行っていましたが、「浄」を意識してライブ演奏に取り入れた事はありません。またリリース枚数が少なかった事もあり、活動に於いて「浄」が何かのきっかけになった覚えもありません。
むしろ多くの機材やシンセを使ったライブを行うシンセデュオとしての局面の方が比率的には遥かに多かったと思います。

●小西君としては「浄」という作品は自分たちにとって別物という感じがあったのですね。阿木さんのリクエストに応えたという感じでしょうか。『ロック・マガジン』で好きだった(気に入っていた)号は何号でしょうか?発刊初期の頃だとおもいますが。

▲阿木氏が『ロック・マガジン』と言い出していた時は、いわゆるロック雑誌を出版するのかと思っていたら本当にロックマガジンという名の雑誌だった事に驚きました(笑)。

●当時聴いていた音楽は?叉影響を受けたアーティストやレーベルはとか教えてください。

▲当時の阿木氏の事務所兼住居で、Faustはじめいわゆる多くのクラウトロックを聴かせられたのですが、Canの「TAGOMAGO」以外興味があるものがなくむしろ彼が番組の為に購入していたような、Tiger B Smithみたいなハードロックに興味があり、後に自分でも購入して聴きました。

●現在の活動と今後の活動のプランを教えてください。

▲DADA以降ずっとやっている4-D mode1での活動と並行して4-D mode1のメンバーでもある横川理彦とのデュオSchneider x Schneiderそして音響オブジェ含めたソロライブ活動です。

●新型コロナ・ウイルス=パンデミックの同時代に対してどのような感想をお持ちでしょうか?
生きている間にこのような時代(世界が民族や言語を超えて同時に同じ惨禍にある)と対峙することは、幸運にも(失礼)そうあることではありません。

▲よい経験を経て見えにくかったものが可視化し始めて来たと思っています。

●記憶を辿って質問に答えて頂き有難うございました。

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●インタビューを終わって
今回の会話を機にVanity Records(1978-1981)の『浄/DADA』を聴くと3作目以降のVanityの展開が全く想像できない。『ロック・マガジン』の変遷と共にVanityが作られたのだと改めて感じた。
小西君とは1983年に初めて会ったと記憶している。DADAの後の4-Dの頃だ。
さっき記憶の押入れから探し出してきた小西君のソノシート『4-D/After Dinner Party』(小西健司、成田忍、横川理彦、中垣和也)のジャケットを見ると1983年とある。special thanksに名前を入れてもらっていたので少し付き合いがあったのだ。佐藤薫の名前も確認できる。当時『ロック・マガジン』をやめて1年後くらいたったころに古川隆人さん(パニック商事のギターリストで1976年の万博公園「8.8 Rockday」に音源がある)のアパートに長期間居候していて色んな人に出会った。部屋にはKORGのシーケンサーやTEACの8トラック・オープンリールがあり、テープをセラミックで切り貼りして音楽を作っていた。1980年代前後の音響機器の革命はVanityインタビューで様々なミュージシャンが語っている。
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最後に、本インタビューについては東瀬戸悟氏にご協力頂きました。