MERZBOW×KAORU SATO『KYOTO OCT 21 2018』

MERZBOW×KAORU SATO『KYOTO OCT 21 2018』

Merzbowと佐藤薫、日本の実験的な音楽やインディペンデントなシーンを多少なりとも追いかけた経験のある方ならこの二者の名前に聞き覚えのないほうが稀だろう。

 

Merzbowはノイズ・ミュージックの代名詞のようにも語られ、事実その分野で世界的に最も影響力の大きいアーティストといえる存在だ。しかしながら始動からの40年に及ぶ活動の中では、空間を塗りつぶすようなノイズだけでなく、細かなテープコラージュやビートの導入、アコースティックな素材をフィーチャーした作品など数多の試みがあり、そこで一貫しているのは音に対する実験精神といえるだろう。近年の活動においては音源、ライブどちらの面でも他者との共演の機会が増えており、そのサウンドが新たな趣や機能を持って耳に入ってくる機会も多い。

 

佐藤薫は主に80年代にカルト的な支持を得たバンドEP-4の首謀者として知られている。EP-4はポストパンクの影響を独自に消化した先鋭的なサウンド、それをダンスの触媒として用いる姿勢やシーン形成への意識、ゲリラ的なパフォーマンスなど様々な点で注目を集めた。90年代、00年代には佐藤薫個人、EP-4ともに表立った活動は行われなかったようだが、2010年代に入ると佐藤が関わった作品の復刻を皮切りにEP-4の活動再開、EP-4のメンバーである佐藤とBANANA(川島裕二)による別動隊EP-4 Unit3としての作品リリース、更に佐藤と家口成樹とのデュオ編成となる新ユニットEP-4 [fn.ψ]の始動など、刺激的な活動を展開するようになる。そして2018年には80年代に自身が立ち上げたインディー・レーベル《SKATING PEARS》のサブレーベルとして先鋭的なエレクトリック/ノイズ系の作品を中心にリリースする新レーベル「φonon (フォノン)」を始動。最初のリリースとしてEP-4 [fn.ψ]のアルバム『OBLIQUES』をリリースし、以降もエッジーなディレクションで作品を送り出している。

 

 

 

本作は2018年10月21日、京都メトロにて行われた「スローダウン」、「φonon (フォノン)」、「きょうレコーズ」という3つのレーベルのショウケース・イベントにおけるライブ録音が中心となっている。MerzbowはスローダウンよりNyantora、duennとのユニット3RENSAとしての作品や、Merzbowが始動した時点からの未発表/発掘音源を時系列に沿ってまとめたアーカイブシリーズなどをリリースしており、スローダウンの代表的なアーティストとして出演したかたちだ。
当日のイベントはまず佐藤薫のソロ演奏、途中からそこにメルツバウが加わりしばらく共演の状態が実現、そして佐藤が抜けメルツバウのソロ演奏へという流れであった。CDではこの一続きの演奏がほぼそのまま収録され、最初の25分ほどが佐藤薫のソロ、続く15分ほどが二者の共演、そしてそこから35分ほどがメルツバウのソロ演奏となっている。LPではA面に二者の共演部分が収められ、B面にはそれぞれがソロ演奏を基にエディットやミックスを施した2つのトラックが収録されている。

 

ともに国内外問わず高い知名度と影響力を誇る両者は1981年のコンピレーション・アルバム『沫』において(佐藤は現代音楽家である佐野清彦との共同プロデュース、Merzbowはそこに音源が収録されたアーティストというかたちで)関りがあるものの、ライブでの共演などはなく、アーティストとして向き合い共に音を出す“共演”の機会はこの日が初であった。実に38年ぶりとなったこの両者の交錯を、歴史的邂逅と位置づけるのも決して大袈裟ではないだろう。

 

かたやソロで様々なマテリアルを用い長きに渡り数えきれないほどの作品のリリースやライブなどを行ってきたメルツバウに対し、かたやバンドという形態で数少ない(がゆえに非常にインパクトの強い)作品とパフォーマンスを残し、以降表舞台から退いていた期間の長かった佐藤薫と、両者のキャリアの成り立ちはある種対照的ではあるが、その活動の起点にはどちらもポストパンク以降のインダストリアルなどのアヴァンギャルドなサウンドや、メール・アートなどのインディペンデントなシーンからの影響があり、最終的なアウトプットのかたちは異なれど根源的な部分ではその距離はそう遠くなかったといえるのではないだろうか。

 

更に近年の両者の活動、ジャズ/即興の領域や多様な電子音楽のアーティストまで刺激的なコラボレーションを行ってるメルツバウと、EP-4 Unit3やEP-4 [fn.ψ]で大胆にアンビエントやノイズ、抽象的な電子音楽への接近を見せている佐藤薫、という流れを意識すれば、双方の活動のベクトル上にこの共演は必然性を持って浮かび上がってくる。実際のサウンドにおいても、両者の演奏は互いが互いの異物となり衝突し高めあうというより、それぞれが相手の出す音の呼吸に深く耳を澄ます様子が浮かんでくるような、自然かつ豊かな交感を感じさせるものとなっている。

 

 

 

それでは演奏の内容に移っていこう。
佐藤薫のソロは近年のEP-4 [fn.ψ]で聴かせたダイナミックかつ非常に音響的な情報量の多いアンビエント寄りの作風を思わせるものとなっている。特に中心的に鳴らされる金属的な音色はチャイム(チューブラー・ベルズ)の音を引き延ばしたような倍音の伸びがあり、同時にハリー・ベルトイアの音響建築Sonambientのサウンドを思わせる冷たさと瞑想性を感じさせる特異なもので、演奏全体の印象を決定づけている。この音色の高い周波数まで伸びる打楽器的な倍音の広がりに加え、蠢くように存在し続ける低音や淡々とした律動を持つ曇った音色、更に7khz以上や10khz以上のような非常に高い音域でまとめられた電子ノイズのような響きも場面によって効果的に用いられており、総じて響きの情報量の豊かさと、帯域を広く使いシャープにサウンドを響かせる巧みなデザイン性が感じられる演奏となっている。

 

共演部分はソロ演奏の流れを引き継ぎ中央で金属的な音色を発し続ける佐藤と、音程や音量が上下動する電子音を扱うメルツバウという、両者の振る舞いの違いが明確に聴き取れる演奏となっている。発する音色とそれが位置する帯域がある程度固定的にデザインされている佐藤のサウンドに対し、メルツバウは音程や音量の即興的な操作やパンニングで意識的に帯域を横切るような動きを多用し、空間のゆらぎや重力の変化を感じさせるような効果を生み出している。佐藤が生み出した独自性の強い音響空間に対し、四方から刺激を加えることでその形状を押し広げてみたり、または聴き手の耳の焦点をある音域へ引っ張ることで別の聴こえ方を誘導してみたりと、即興的な電子音のセッションで単なる音響のレイヤーに留まらないアプローチを聴かせてくれる。これが初共演で、おそらく事前の打ち合わせなどもない状態でできてしまうのだから驚きだ。

 

共演部分では時間が進むにつれてメルツバウが発するザラついたノイズが徐々に空間を満たしていき、潮の満ち引きのような自然さで佐藤の音が退きメルツバウのソロへ突入する。メルツバウの演奏は自作楽器やシンセ、発信機など複数のマテリアルの生演奏からなる即興性の高いもので、佐藤薫との共演部分では控えられていた地鳴りや濁流を思わせる轟音も容赦なく用いられる。しかしながらそういったホワイトノイズに近いような音響はあくまで演奏を構成する一部として、時には背景的に、時には空間を埋め尽くすように、また時にはノイジーなギター演奏のように前面で激しくうねったりと様々に機能しており、それのみが聴き手の印象を塗りつぶすようなことはない。35分ほどの時間の中で明確に演奏の趣が変わる瞬間が複数回あり、特に中盤でザクザクと一定の律動を持った音色が入りサウンドのバランスが変わる場面は非常にスリリングだ。即興的な音色の変容や配置の操作によって確かな構成感のある一続きの演奏を成り立たせる、ライブミュージシャンとしてのメルツバウの巧みさが堪能できる演奏といえるだろう。

 

LPに収録されている両者が個別にミックスしたトラックは、各々のソロ演奏の内容を基としている。佐藤薫のトラックでは序盤に音色のエディットと点描的な再配置による新たな場面などが追加され、ライブ演奏がそれらと接合されるいわばリコンポーズのような内容となっており、CD版での演奏とは異なる構成の妙が生まれている。メルツバウのトラックはソロ演奏におけるいくつかの異なる場面が大胆に圧縮接合されたような仕上がりで、一息で駆け抜け聴き手を圧倒するような、瞬間的な快楽性がより高められたバージョンとなっている。

 

 

両者のソロ演奏は方向性を異にしながらも明確な目的意識が感じられる(佐藤薫のサウンドのデザイン性、メルツバウの即興的に形作られていく音の起伏運動や展開)という点で通じ、故に非常に研ぎ澄まされた強度やアクチュアリティーを持っている。共演部分においても、その目的意識が反映された結果としてあらゆる意味で曇りや誤魔化しのない音の交錯と交感が実現している。倍音の扱いとそこから導き出される音色の性格、音の配置や帯域のデザイン性、即興性の扱いなど、様々な視点からの検証にそれぞれに異なるハードコアなかたちで応えてくれる両者のサウンドは、多様化している現在の電子音楽の中でも非常にエッジーな表現がなされたものであるといえるだろう。表現にまつわるあらゆる側面を自身の意思でディレクションし、強力な実践を行ってきた両者の鋭いまなざしが今、どこを向いているのか、それは本作の音そのものが、つぶさに示してくれている。

よろすず